皇帝の日記
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2003年03月23日(日) 読めん

電化製品の説明書とかって、読めない人は徹底的に読めない。
地図の読めない人もいる。

私は科目登録書が読めない。
なんてこといっても、とりあえず自分でやらなきゃ仕方ない。
免許の書き換えも迫っているし。

二年生までに自分が履修していた科目の数々が、ジャンルも難易度も、あげく学部さえもバラバラで、一体私は何者になろうとしているのだろう・・・と自分で疑問に思う程の節操の無さ。
と、とりあえず、今年は趣味で取っていた心理学系や医学系は全面カットにしようと決意。
そんで、一応専門の歴史を重点的に・・・と思っていたら、語学関係の科目の誘惑に勝てそうに無い。
留学中、日本語に関する質問をされても上手く答えることが出来なかったのがどうやらトラウマになっているらしく、日本語文法の授業すら取ろうとしている。
駄目駄目。
脱線しちゃ駄目。

落ち着いて、実践考古学とかで土器を作るんだ。
うわー楽しそう。とか思うが、評価基準が「作品の出来」とか書いてある。
図画工作の授業か、それは。

それにしても、二十一世紀に突入したというのに、今までの生涯で一度も週休二日になったことが無いな・・・。

頭の中がてんてこ舞いなのでナスカはまた明日。


2003年03月22日(土) 余裕で影響を受けてます

さて、長いこと社秘だったのでなかなかお伝えいたしませんでしたが、皇帝家はこの四月を持もちまして、全員日本へ撤収と言うことに決まっておったのです。

皇帝が上海に行った時に、上海で仕事をしていた伯父が、突如帰国決定したように、皇帝家族も予定の残り二年を残して、早々に帰還。
皇帝が遊びにいくと、予定より早く日本に帰れると言うジンクスが親戚の中で出来上がりつつある。
さあさあ、単身赴任の皆さん。
私をご招待すれば、さっさと帰ることが出来ますよ。

ところが、戦争中は飛行機に乗るなと言うお達しが出て、彼らは帰れなくなった。
私が帰国したら、両親はカンクーンに遊びに行く予定だったが、それもお釈迦。
それは私抜きで楽しもうとした罰。

自分の部屋を片付けようとしている。
両親が帰る前にリビングも片付けなければならないらしい。
科目登録も済んでいない。
時差ぼけもまだまだ回復途中。
八方ふさがりな私。

明日はナスカを報告します。


2003年03月21日(金) また休止

セプテンバー・イレブンの直後、民放でイマージンを歌っちゃいけないとか、放送するなとか、そういう手段で戦争を盛り上げた政府なのです。

自由というスローガンに目隠しされていることに気付いて欲しいです。
報道制限されていないと思い込んでいるからこそ、電波に乗っているもの全てを簡単に肯定して、疑うこともしなくなります。

テキサスは保守、好戦的な州です。
外国人留学生が反戦を口にすることは、学校から控えるようにとの通達を受けていました。
殺害されたり、危害を加えられる恐れが有るからです。

吹けば飛ぶような自由をお手本にしてきたわけですが、反戦を唱えることの出来ない、恐ろしいその結果は、他のどの国よりも日本が一番分かっているはず。
日本にしか出来ない、すべきことがあるはずなのに、その自覚が全くないのは口惜しいものがあります。

今は、米国の家族や、アラブ系の同級生、世界中の子供達が痛い思いや苦しい体験をせずにすむことを祈ります。

アメリカ人全員がこの戦争を肯定しているわけでは無いことが、救いになるといいと思います。


2003年03月20日(木) リマ

マチュピチュからクスコに帰った翌朝にはリマへ急行。
こんなに強行軍でも、結構ラクチンなのは、たぶんチケットの手配とか自分でしてないせいだと思う。
中国旅行でいつも大変なのは、自分でチケットの手配とか日程とか考えてるところ。
まあ、それが楽しみのひとつでもあるわけで・・・。
あんまり楽していると色々忘れそうなので、実は今回始めて旅行中にメモを取っているのです。
よる年波には勝てぬのう・・・ごほごほ。
だからこんなにしょっちゅう間をあけながら報告しているわけです。

ともかく、国内線の飛行場というのは、国際線のそれに比べると、やや見劣りがするというか、その分、その国の性格が見えてくる。
トイレ。
そう、トイレこそは、もっとも各国が無防備に文化をさらす場所!
さて、ペルーのトイレには紙がなく・・・。
日本の駅のトイレもそうだけど、一体紙のないトイレって・・・。
しかも、水圧がゆるい!!
流れるものも流れぬようなゆるさ。
うーんと考え込む皇帝。
しかし、海外のいけていないトイレと格闘して数年。
プロのインターナショナル・トイレ・ユーザーの目が光る。
まず、もちろんホテルから一巻づつに分けて失敬してきたトイレット・ペーパーをポケットに忍ばせている。
これは基礎の基礎。
更に、水圧が何ゆえゆるいのか考えつつ、タンクの蓋をよっこらせと開けてみる。
はあ、底の栓がゆるいから、水がたまらなくなっているようです。
栓を抑えている軸を掴んで、ちょっと底に押し付けてみましょう。
ビンゴ!
水がたまりだしたところで、もう一回流してみると、見事洗浄完了。
世界トイレ検定とか有ったら、かなり上級者なのに。

ともかくリマへ。
首都のリマだけが、他の都市を置いて白々しく発展を遂げている。
発展しているといっても、せいぜい中国の中小都市程度。
車の量はかなり多目。

黄金博物館へ行った。
手配していたガイドの若いお姉さんの英語が、中々に下手糞だったのと、お姉さんの知識がうすっぺらかったのが印象に残りました。
たぶん、休暇中の学生のアルバイトだったのでしょう。
そう思うと、責める気はいたしません。
あと、文物にあまり詳しい説明が無かった。
判明していないから、仕方ないものの。

市内のイタリア料理屋さんで美味しいパスタを食べつつ、やっぱり貧しい国ほど、上と下の格差が大きいなーと思ったりした。
あと、底辺が際限なく大きく。


2003年03月19日(水) 行ったり来たり

なかなかペルーに蹴りがつかないところでまたしても現実に戻っていただきましょう。

今日は二年ぶりに大学に行ったのです。
切符を買う時ですら、一瞬手を止めて首を傾げてしまうほどに、全く記憶が無い自分の大学生活。
こんなんで復帰できるのでしょうか。
はてはて(他人事)。

皇帝の自宅から学校まで、電車と歩きで二時間。
我が大学は自由自己責任。
進取の精神でなんでも無理矢理通そうとするのが売り。
ともかく、手続きに不備があろうと、期日までにわずかでも遅れようと、誰も注意してくれない上に、自動的に中退、退学処分になってしまう。
後で、あ、あの時はちょっと間違えちゃって、とか言っても、誰も助けてくれない。
うちの大学名背負って、中退するというのがトレンディーだった時代すらある。

しかしながら不況の先見えぬ今日、うかうか中退している場合ではない。
何としても復学して、四年生で卒業させて見せなければ!
って、一応三年生として復学するから、問題なければちょっ老けた四年生として卒業できるんですが・・・。

ともかく、間違いの無いように手続きを済ませなければ、と緊張の面持ちで通知に出ている335教室とやらにいざ赴かん!!

・・・て、迷子に。
えええええ?こ、校舎内で迷子!?
今の自分、突っ込むにはちょっとおいしい!とかそんな場合ではなく、冷静に情けない。
相当時間さまよった挙句、事務所の門をおずおずと叩き、「すいませーん。科目登録の書類ってどこで配布してますかー?」と間抜けに問う、どう見ても新入生ではない学生一名。
なんとか書類を手に入れると、なんと、WEBで科目登録制に変わったとのこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ書類取らせるためだけに呼ぶなよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・郵送しろよ・・・・。

東京さ、行ってけえるだけで、二千円近くかかるだよ!
おらが村、横浜の山奥でねえか!!
と、怒りの田舎者は黙殺される運命にあるので沈黙。

さあて、悪名高き科目登録書類。
さっぱり意味不明な単語の羅列と、無い方がましな複雑な表の数々。
様々な罠に、果たして皇帝は打ち勝つことができるのか!?
そもそも自分の属するカテゴリーが、未だ発見できずにいるのですが・・・。
「病気でもなく二年間も休学していたあなたへ」って項目はないのかしら。
・・・無いですね。
・・・ちょっと、もうしばらくこの書類の山と戦ってみます。

中国語上級のクラスが一個も無くて、英語のが四十個も有るってどうよ?
しかも英語クラスの半数の紹介文が英文とは!
くはああぁぁ!!


2003年03月18日(火) 意識混濁

昨日は書き込みの途中で酔っ払いすぎて寝てしまった。
いかんね。
人として。

ともかくマチュピチュへ。
肺が痛くて、あまり酸素が摂取できない状態で、薄幸の母のお守りまでしなければならない。
甘えてなどいられない。
エルニーニョのせいで雨は容赦なく親子の上に降り注ぐ。

さて、電車の窓から見てみれば、この付近の山は大体が耕作地として使われている模様。
トウモロコシとか、イモ、菜の花。
でもジャガイモには土質が向いていないと、何度も人から聞いた。
じゃあ無理に作るな。
家畜も大量に見た。
人も。
人は、一日に二、三回しか通過しない電車を見物に来ているのだ。
こっちからも見えているのだという自覚がないのか、結構無防備な感じで見ている。
それを観察するのも楽しい。
昔読んだ文学作品で猿山の猿が、実は人間を観察しているというのを思い出したりした。
子供が水風船に水を入れて、列車に投げつける遊びに熱中している。
危険なので窓は閉めていた方が良いでしょう。

女性車掌が「マチュピチュ〜」と言うのだが、発音が「ピカチュ〜」で愛らしかった。

そして、終点マチュピチュ駅。
山麓には、普通に人々が暮らしている。
幼稚園とか医療施設が設けられていて、小規模観光都市の様相。
一同バスに乗り込み山頂へ。
そこであらかじめ頼んでおいたガイドと合流。
日本人ツアー客と鉢合わせたのだが、うちのガイドは米国から頼んだので、むろん英語ガイド。
いるべき群を間違えたアヒルの子のように、日本語の聞こえる方に心引かれながら、スペイン語訛りの英語に耳を傾ける。
マチュピチュっぷりについては、日本のテレビなどで詳しく説明されているから、今さら書くまでもないと思う。
景観も合わせて、すごく美しい建物。
一見の価値は有り。
確かによくもまあこんなものを作ったよなーとは思うけれども、宇宙人が作らねばならぬほどに困難な作業には思われませんでした。
人間が頑張っても、年内には作れそう。
万里の長城のほうが、よっぽど規模的にも宇宙人臭いかと。

ここへ来て、唐突に天候が回復。
まあ、山の天気は変わりやすいですから。
母が暑がって腕まくりをするその横で、かえって上着を着込み、フードを被り、ポッケに手を入れる私。
汗だく。
そう、私は知っている。
雲南での体験が私を、このような行動に走らせたのだ。
ええ、賢明な皆様は、もうお分かりですよね。

山の陽射しは人肉直火焼きに匹敵すると言うことを!

うかつに焼けば、火傷に近い状態になってしまうのです。
母は腕に火傷を負い、一見注意していたように見えた父も、耳の裏を焼かれて法一さんに。

夕方帰りの列車に乗り込む頃には、母の顔色もやや回復。

突如、車内にナマハゲのような鬼に扮した男が登場。
一通り踊りきると、飴をくれた。
必然性が飲み込めないまま、何故か事態はアルパカ・セーターのファッション・ショーに移行。
何故・・・。

クスコにつく頃には真っ暗な中で、谷の間に詰め込まれたような夜景が見事でした。
そして、うっかり気を抜いて後ろの席のドイツ人が窓を開けた瞬間、子供に水かけられた。

・・・・おのれ・・・・・。


2003年03月17日(月) ね・・・眠い・・・

ペルー記が止まったままなので、ここいらで戻らねばと思いつつ。
眠さ絶好調。
寝るな、今寝たら一週間時差ぼけに苦しむのだぞ!
っていいながらビールを飲んでしまって眠さに拍車が・・・。
マジ本気つらいー。と、口調までコギャルになるほど。
コギャルという年でもないな。

さて、皇帝一行はマチュピチュへ。
マチュピチュはスペイン人に追い詰められたというインカ人が、ジャングルの奥へ奥へと逃げた、その時の都市だという説と、あとなんだか色々な説がある、謎の遺跡。
と、ここでクスコのホテルにへばっていた母が、「こ、このままでは何をしにクスコまで来たかわからぬ〜」と地を這うように参戦。
顔面蒼白の母を抱えてマチュピチュへ向かう電車に乗り込む、血液酸性の私。
朝の五時。

さて、クスコからみれば、やや低めの土地にマチュピチュはある。
何度かスイッチ・バックを繰り返して山を越え、やはりスイッチ・バックで谷へ降りてから、遺跡のある山の麓に電車をつけて、そっから山のてっぺんの遺跡までバスでグニャグニャ登る。
蒼白の母、私の隣でキタロウ袋常備。
私の将来が仄見えたのは気のせいか・・・。
父は元気そう。
まあ、世界中を回っているジャパニーズ・ビジネスマンだから、どこ行っても平気なのでしょう。


2003年03月16日(日) ただいま〜

帰ってきました。
時差ぼけです。
ぼけも今年三度目ともならば、慣れえたもの。
いえ、時差ぼけになることに慣れたのであって、その経験を生かせるようになったとか、症状が改善されたとか、そういったことでは全くなく。
どんなに眠くても平気。
てか寝る。
我慢などしない。
それが学生の特権。

頑張って復帰します〜。
語尾が「〜」ってなってるうちはまだぼけぼけ〜。


2003年03月14日(金) よっぱらってますぞー

テキサス最終、皇帝留学生活最終日なので、酔っ払ってる。
「なので」なぞと理由にならぬ理由がなんとも。

ともかく、ペルーはまた休止して、ちゃんとまとめを。
酔っ払ってるんですけど。
らりらり〜。

私は中国が好きです。
でも、日記を読むとちっともそんな気が皆様に伝わっていないと思われます。
ぐちまみれだし。
私も、日記を書いている当初はちっとも上海が好きだとは思いませんでした。
それでも今は、上海の生活も、上海の友達ももちろん大好きで、懐かしいのです。

私はテキサスの生活が多分好きなんだと思います。
でも、今はそう思わないし、日記からもそれは窺い知れません。
英語の勉強が楽しかっただのと、もちろん伝わっているはずもなく。

それでも、何ヶ月かたつうちに、きっと、ヒューストン・テキサスの生活が懐かしくなって、好きだったことに気付くと思うのです。
(英語はどうだかわからぬが)

得がたい友達が、日本も含め、各地にいるという幸福は、説明しにくいのです。
各時間、各地域。
その時々に、時間を自分で割いた、相手も割いたという貴重です。
ネット上での出会いも、もちろんのこと。

帰国後のこのサイトをどうするのか、まだ全く決めていないのです。
でも、どんな形にしろ、今までの日記を残して行く方向性は変わりありません。
とりあえず、ぺルー篇にけりをつけ、その後、ちゃんと写真の整理をします。
それに一ヶ月程度かかると見つつ。

デスマスですが、大言を吐いているわけではないのです。
酔っ払っていますが、正気をなくしているわけではないです。
部屋の床が、まだ見えない事に(軽〜く)あせているのでもないです。

日記はまだひょろひょろ続きますが、この2年間、訪問しつづけてくださった皆様、2年間の扶養延長を承知してくれた両親に感謝しております。
サイト運営を代わりに監督してくれた宰相には、なんと言って良いかわかりませぬ。

明後日の今頃には帰りついて、寿司など涼しい顔で食べているはずです。
ペルー篇の合間ですが、これをもちまして、留学記の締めとさせていただきます。
そして、母に一言。

ライチにマヨネーズは合ってないですよ。


2003年03月13日(木) 虫が・・・

ペルーで何かに刺されまくって、身体中痒い。
赤いブツブツも出てきた。
増えてる気がする。
もしや寄生してる?

さて、話は何日か前に戻り、オリャンタイタンボへ。
オリャンタイタンボというのは遺跡のある地名の一つ。
何故か山の斜面に斜めに暮らしたインカ人の家と、無理に作られてるっぽい小刻みな段々畑、これまた絶対利用したくない急な斜面に突如作られた穀物倉がある。
風通しの良いところに食料を保存したんじゃないかというご説明。
後世来る観光客の肺や心臓の事も考えて作っていただきたい。
三百段の階段は、心臓破り。
母を連れてこなくて本当に良かった。
と、足の上がらなくなった父と休憩を取りながら思ったさ。

今現在の住民は、遺跡の下の谷に陣取って、農業と観光で暮らしている。
犬もやはり一杯。

実際の遺跡は標高3000に満たないのだが、行く途中が4000m近い。
遠くに見えるアンデスの山々には氷河が仄見えてたり。

聖なる山々に囲まれた聖なる谷の風景が売りの一つなので、時々バスが停車して、写真タイムを取ってくれるのだが、そのたびに、外に出ると呼吸困難で半死半生になる(バスの階段を降りるという運動で)。
死、という字が脳裏にひらめきました。

痛む心筋を押さえつつ、聖なる谷の間にあるピサックの市場を巡回。
市場では観光客目当ての土産物屋が多数軒を並べている他に、軽食(茹でたトウモロコシとか、雑穀を炊いたのとか)を出す屋台や、山羊をおろしている肉屋とかある。
流石に屋台モノには手をつけず。
中国の山羊首はまだ生き生きピチピチとしてたんですけどね。
ここのはちょっと・・・・ハエがご相伴にあずかっていたので・・・。

途中、子供達から野生のミントを買って、母にお土産に。
高山病に効くとかなんとか。

ここの気候、絶対漢方薬とかハーブを育てるのに適していると思う。
そいで、日本に高値で出荷すれば良いのに。
もしくはシイタケを栽培したらどうか。
日雇い日給6ドルの経済を立て直すにはどうしたら良いか、素人だてらに考えてみた。
子供達がせめて、義務教育を無料で受けられる程度には成長していただきたい。
スクール・バスやら教科書やら、なんだかんだいって子供一人に月に30ドルかかってしまうらしく、一般人にとって教育はまだまだ高級品。
ガイドの話によると、ユーカリをオーストラリアからもらってきて植えたら、すくすく育って宜しかったと言っている。
じゃあ、ついでにコアラももらってきて、新たな観光資源にしてはどうか。

インカと宇宙とスペイン艦隊に思いを馳せつつ、コアラと記念写真。
斬新な組み合せ。

オーストラリア政府が許さないと思うけど。


皇帝