皇帝の日記
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プラハ2は長〜い。 今までも十分長かったけど、今日は長いっす。
正味2日しか居られないプラハ。 もう動いちゃうよ動いちゃうよ!
というわけで、朝も早くから起きて、ホテルで朝食(普通の味)食べて、目の前の火薬塔へ。 火薬塔(15世紀城壁として造られた)として使われるようになったのは17世紀。 今の建物は200年くらい前に造り直されたので、比較的新しい。 でも立派。 プラハ旧市街は、大体ここまでなので、ここから観光を始めるのも良いでしょう。
10時に営業始まって、すぐに入ったのでお客さんが少ない!ラッキー。 (団体客は塔関係には登らないので、いつでもすいているという説もある) 驚いたのは、くだんのヤン・フスとは何の関係もないこの建物の中が、ヤン・フスの展示会になっている事だ。 (地球の歩き方では、只単に「ギャラリー」となっている) どんだけ好きなのヤン・フスー!?
グルグルと螺旋状の階段を登るごとに現れる、ヤンの人生。 ヤンの時代。 ヤンの人生。 ヤンの戦争。 ヤンの宗教。 ヤンの処刑。 最上階の「映画」の展示ではロックンロールなヤンさんの映画も上映されてて「火あぶりロックやわ〜」という誤った概念が埋め込まれる始末。 ヤンさん愛されてるわね。 しかも、階段に流れている音楽は、昨晩聞いたミュージカルのCDで、歌手はもちろん、メダルをもらった俳優さんだ。
人は少ないが、韓国人がやけにあふれてて、狭い螺旋階段などで「ケンチャナ〜」と言っている韓国新婚夫婦に遭遇。 ジャバ夫さんが「あ!今韓国語がわかった!」と興奮。 いや、私もさすがにわかったよ。
塔を降りてから、黒い聖母の家へ。 その古い家は、家の外壁の角に黒いマリア像があるからそんな名前なんだが。 中には喫茶店とキュビズム博物館がある。 キュビスム博物館は、建物自体もキュビズムの建築。 ふーむ興味深い。 と、よくよくパネルを読んでたら、どうもキュビズム自体、1901−1910年の、わずか9年間の流行だったとか。 それ以降は、時代遅れとして少なくともプラハでは封印されてしまった芸術活動の波的ななんからしい。 がびーん。 9年って、一人の画家の活動期間よりも全然短いじゃん。 踊らされてしまった人々がいるねんなあ。 としみじみ。
空調が良く利いていたのと、トイレがきれいだったので、小さい博物館だけど、けっこうじっくり見た。 そして、またしても旧市街広場に出て、ティーン教会をジロジロ見る。 この教会に葬られている人々の名前を、ぼや〜っと見てたら、ジャバ夫さんが「あ!この科学者知ってる!大学の授業で習った」と。 名前は忘れたが、天文学者的な人だと思う。 ジャバ夫さんが大学で習ったのは、以下の内容。
彼は居酒屋で飲んでいる時にトイレに小用に行きたかったが、席を立つのは失礼だと思って我慢し過ぎて死んだ。 彼はプラハでムースをペットにしていた。 ペットのムースはビールが好きで、ある日酔っぱらって階段から落ちて死んだ。
以上。 彼が学者である事と全く関係ない部分に焦点を当てられてしまった。 ムースもかなり不本意であろう。 この辺で、ミュシャとダリの展覧会をやっていたので、観る。 ミュシャ良かった。 ポスターの原画が、かなりでかいという事がわかった。 やっぱこの人すごいな。
その隣の石の鐘の家では、プラハ市民展をやっていて、もんやり観てみる。 プラハ市民のスナップショットと、その人の人生を短く要約した説明文がついている。 まあ、あんま面白くなかったです。
すぐ裏にある、レストラン「レビー・トゥルフ」にて、湯でエビとともにビール。 エビ塩っぱかったけど、暑いしビール飲んでるので、ちょうど良く美味かった。 ビールはプリュゼニュ。 ビールメモによると☆三つ半だそうです。 レストランによって、出すビールの銘柄が決まっているので、メニュー見てもビールは一種類しかないのが面白い。 色んなビールを試したかったら、いろんなレストランに行くしかないのだ。
そしてカフカの生家を外から眺め、ユダヤ人地区に侵入。 日本人観光客はぐっと減り、ヨーロッパ系ないしアメリカ系のユダヤ人観光客が増える。 そうね、きっと日本人はあんまりこの辺興味ないわね。 美術工芸博物館に入り、ガラス工芸や服飾の展示を観つつ、空調が利いてないのでトイレ休憩してさっさと外に出る。 ジャバ夫さんが、男性トイレの窓から古いお墓の山が見えて、なんか怖かった、と言っていたが、それがおそらく、我らが目指している旧ユダヤ人墓地でござんしょう。
あとちょっとあとちょっと、と励ましながら、クラウセン・シナゴーグへ。 シナゴーグは、ユダヤ教の教会の事で、この地区はシナゴーグが沢山あるのだ。 クラウセン・シナゴーグは、中にユダヤ教が儀式に使う道具とか展示してあって、何やら色々説明するパネルが。 そして、募金箱がどのシナゴーグにも置いてあり、ドルやユーロが沢山入っていた。 異国間でも、ユダヤ人の結束を感じる。
角を曲がってピンカス・シナゴーグに行く。 名前はあれだが、ここには第二次大戦中にここらで殺された8万人のユダヤ人の名前が壁一面に書かれていたり、テレジーンで死んだ子ども達の絵が飾られていて、とてもシリアスなシナゴーグなのである。 10000人以上の子ども達がテレジーンで死んでしまったそうであるが。 そうよね、どう考えてもイサムさんが両親から離れて、何か良くわからない不潔な刑務所みたいな所に入れられたら、生き残れないわよね。 イサムさんがある日突然連れて行かれたら、どんなかしら。ウルウル。 と、あんまり今まで考えなかった視点から、この歴史に思いを馳せ。 (今までは、自分が強制収容所に連れて行かれたら、どんなかしら、ガクブル。という視点だった) ああ、もう「ライフ・イズ・ビューティフル」は観られないわ、と思ったのでありました。 最近「ファインディング・ニモ」観ても泣いちゃうのに。 あ、「トイ・ストーリー3」でも泣いたわよ。
親戚の名前を発見して、泣き崩れている高校生のお兄さんが居たりして、歴史を伝えるシナゴーグでした。
そして、いよいよ墓地入り口。 墓地、旧墓地なので、1787年以降は使われていないのだが。 狭い所に、ぎっちりぎっちりお墓が詰まっているので、なんか不思議な墓地。 「写真撮ったら怒る」って書いてあるけど、皆怒られても悔いはないとでも言うのか、ばしばし写真を撮っていた。 気持ちはわかる。 だって、変なんだもの。 言葉では説明できないから、写真に撮ってお知らせしたい気持ち。 でも撮影はぐっとこらえた。 異教徒だし、怒られたらやだし。
出口は先ほどのクラウセン・シナゴーグの横。 旧新シナゴーグと言う、この辺で最も古く1270年に始まったシナゴーグへ。 ここの司祭さんが、16世紀ゴーレムを作ってたというゴーレム伝説がある。 (後で本屋さんで、ポップな絵柄のゴーレム絵本を見つけた)。 でも、今はもうゴーレム居ないらしい。 チケットを買って、中に入ると、おばあちゃん達がジャバ夫さんにユダヤ教徒の男性がかぶる、小さい帽子を乗っけてくれた。 女の人はつけないらしいので、皇帝はもらえなかった。 中では、ユダヤ教系の女子高校の社会科見学をしていて、生徒さん達が聖書に顔面を埋めながらお祈りしつつ、体を左右に揺らしていた。 本気お祈りだ。 聖書暗記してるのかな。 してるんだろうな。
邪魔してはいけないので、外側や廊下をジロジロ見て出てきた。 ジャバ夫さん、帽子を返そうとしたら、おばあちゃんに「持ってけ」と言われた。
テクテク歩いて、マイゼル・シナゴーグへ。 この中も、色んな儀式に使う道具や、美術品が展示してある。 どこのシナゴーグも、観光で来たユダヤ人が沢山居て、旅行に来てもシナゴーグに行くなんて、熱心やなあと思っていたが、そういえば日本人も京都に行ったらお寺さんに行くわいな。 さて、このシナゴーグでは、歩き疲れたユダヤ人の女の子が祭壇の下で伸びていた。 推定9歳。 そんなに小さな子ではありませぬ。 おじいちゃんらしき人が「おい、行くぞ」というような身振りをしているけれど、イヤイヤとして動かず。 どうするのかな、と思ってみてたら、細身のおじいちゃん、太めの孫を背負った。 わー力持ちー。 私、イサムさんがあの大きさになったら、絶対持てんわ。 ほーう、と見てたら、他の孫(推定5歳、太め)が「おじーちゃん!」という感じでやってきて「僕も僕も」と言わんばかりに腕にぶら下がりよった。 なにー。 じいちゃん頑張れー。 しかし、全く軸もぶれずに出て行ったおじいちゃんであった。
ジャバ夫さんが言うには、この旅でユダヤ人に対する理解がちょっと深まったとのこと。 まあその辺の事は後で書くとして。 アメリカのユダヤ社会よりよっぽどオープンな感じで、観光させてもらえるのはありがたい事でした。
テクテク歩いて、クレメンティヌムへ。 ここは彼のヤン・フス派に対抗して作られた、イエズス会系の建物。 ところが2011年まで工事中。 なのに、図書館を見たい人はこっち、見学したい人はこっち、という看板が出っぱなし。 あたかも見学できるんじゃないかと思わせておいて、やっぱりできないのであった。 く・・・。
カレル橋のこっち側にある、旧市街橋塔を見上げ。 やんだ、逆光じゃないの、巧く撮影できないわ。 と、iphoneを縦にしたり横にしたりしていたら、ヴルタヴァ川でボートをこいで観光客を集めている、水兵服の団体が。 うろうろしてるな、とは思ったが、別に船に乗る気がないので視界の端に入れつつ、むしろ水兵服が背景から浮くから、どいてくんないかな、とすら思っていたのに。 なんと、黒人の水兵服兄さんが「おいこらおまえ!俺の写真撮っただろ!ふざけんな」とアメリカ英語で言い出した。
えー!? だってあなた、思いっきり観光地の塔の目の前に立ってて、カメラに入りたくないってどういうこと!? っていうか、あなたの姿入ってませんけど!? 「塔の写真を撮ってるの」と言うと、東洋人が英語をしゃべった事に一瞬ひるんだのか、ちっと舌打ち。 すぐ横の水兵服仲間が「おいおい、どうしたんだ?ボーイ。カリカリしちゃってよう」という、もろアメリカンな英語で黒人の兄さんに話しかけると、 「塔の写真撮ってるとかいってるけど、俺の写真を無断で撮りやがったんだ!その携帯電話で写真撮れることぐらい、知ってるんだぜ俺は!」とか言い出した。 やばいなあ、この人頭のおかしいや。 しかし、客商売で呼び込みしてて、君の観光客に対するその態度はどうなんだ。
すると、カレル4世の銅像の写真を熱心に撮っていたジャバ夫さんが騒ぎに気がついて、すっ飛んできた。 「ざけんなてめー!お前の写真なんか撮ってどうするんだ!?ああ?撮ったとしても、それは自由だろーが。出るとこ出るぞヘイヘイ!!」と、これまたアメリカンな柄の悪い様子で割って入った。
小さな東洋人にいちゃもんつけて、ちょっと泣かせてやろうと思っていた(?)っぽい兄さんは、完全に萎縮し、なおもブツブツ言いながら、仲間に連れて行かれたのでした。
一人旅じゃなくて、本当に良かったと思いますよ。 カレル橋で、セーラー服着て客引きしているボートには乗らないように。 滅びれば良い。 あ、ちなみに橋の付近には警官がウロウロしているので、本当に怖い目にあったら、助けてくれると思う(けどどうかな?)
さて、後味が悪いので、金の蛇の家の前で、ビール補給。 スタロプラメンの評価は、☆四つでした。
それから、毎正時にしかけが動く天文時計に駆けつけ、仕掛けがリンゴンリンゴン動くのを観て、ホテルへ戻って市民会館地下のレストランで食事。 プラハの料理は、とんでもなく美味しいわけではない。 なんか普通。 そして塩っぱい。 すごく味が濃い。 ビールはヴェルコポポヴィツェの黒ビール。 評価☆五つ。 もう段々尻上がりに評価が上がっているので、正しいのかどうかわからない。 やがて、日本人の団体客が入ってきたが、結構な団体なのに余裕で座れる広さ。
ホテルの部屋に戻り、着替えて今夜のコンサートに備えたが、まだ時間がちょっとあるので、外をブラブラ。 露天の土産物屋さんのおじさんがサッカーファンで「サムライがバイキングに勝ったなんて、すかっとするね!」と褒めてくれて、ちょっとだけまけてくれたので、ショットグラスを購入。
コンサートは市民会館の地下で。 クラシックの代表的楽曲を60分、バイオリンとチェロと、あとなんかでかいのと、管弦楽団で演奏。 狭い会場だったので、誰が何してるかよく見えて、音も臨場感満点。 ところが、後ろの席のドイツ人ギャル(またドイツ人かよ)6人組が、まあしゃべるは、ぶっ通しで咳するは、マナーも何もあったもんじゃない。 あんまマナーマナーと言わないんですけどね。 さすがに目に余るので、休憩中に周りから人がバラバラと席を変え始め。 それでも黙らないギャル達。 滅びよ。
演奏が終わり、拍手喝采。 アンコールも有って、大変良かった。 何故かチェロのお姉さんが、常に自分のバッグ(大)を持ち歩いていて、入場退場再入場と、ずっとバッグを持ったり置いたりしていた。 ロッカールーム作ってあげて。
で、終わると、ちょっと離れた席に居たおっちゃんがギャルの所にカッカッとやってきて、お説教。 えー。 クールなイメージのドイツ人にあるまじき。 と思ったら、どうやらギャルのお父さんだったのでした。 「お父さんは恥ずかしい!」という感じで怒っていたようだ。 もっと怒れ。
毎日みっちりみっちり観光でしたが、明日が最終。
2010年06月30日(水) |
ヴィリニュス6プラハ1 |
そんなわけで、朝早く起きたのに相変わらず起動しないジャバ夫さん。 まあいいか、じゃあ起きる前に郵便局に行ってしまおう。 父に絵はがきを出すのである。 と、一人郵便局に向け出発。
大聖堂を横切って、新市街の方へ。 旧市街を出ると、通勤バスとかが通ってて、普通に会社に行く人とかが歩いている。 郵便局は、中は大きかったが、入り口が暗くて見過ごしてしまった。 引き返す。 どうやら電力節約の為に、電気も空調も切ってあるらしい。 暑い。 建物の中は蒸す蒸す。 入り口付近でオレンジを売っている人が居て、オレンジのさわやかな香が充満して、より一層南国風。 まさかリトアニアで南国気分を味わうとは。
帰り道のウィンドウに、可愛いヘアピンが有ったので買おうとしたら、良い年した(たぶんおらよりは若いだろうけど)女性店員が4人も居ながら、誰もレジの打ち方がわからないという、不思議な体験をした。 あなた達、一体何をしているの、店で・・・。 ちょっと雑貨屋さんに寄り道したり、道行く人々をジロジロ見たりして帰ったら、まーだ起きてないジャバ夫さん。 きー!そんなにのんびりしてたら、ホテルの朝食終わっちゃうでしょー!! きー!と、汚い顔のままの夫を引きずって行ったら、なんと一時間も早く朝食が終わってしまっていた。 きー! 僕は怒った。 空腹だから、より気合いを入れて怒った。
でも怒っても仕方がないので、ホテルのすぐ向かいの喫茶店で、ジャガイモクレープをいただきました。 相変わらず、何もかも美味しかった。 満たされた。
さて、何度もアプローチしながら、タイミングが悪くて入れなかった工芸博物館へ。 午後には飛行場に行かなければならないので、これが最後のチャンス。 難無く入れたのだが、中では考古学学会が行われていて、えらいっぽい学者さんや撮影屋さんまでもがモリモリ居て、何やらプロジェクターを使って古銭にかんする最新(と思うよ)の発見を発表していた。
そのようなイベントをしているというのに、展示はいつも通りに公開されてて、一般の人は学会の人の椅子を避けつつ、壁にへばりついて見学していると言う、妙な状態。 19世紀以前のヨーロッパ服飾の展示など、大変内容が濃くて結構なんですが、何この鮨詰め感。 そして、学者さんが何やら古銭に関するジョークを言ったらしく、ドッとわく会場。 うーむわからん。 しかし、展示内容は良かったので良し。
帰り道、チョコレート屋さんでチョコレートケーキを堪能。 コーヒーも美味しい。 食事もおやつも、アメリカのアホなサイズに慣らされていると、なんとヨーロッパの食事サイズの正しい事か、と思う。 そうそう、ケーキは普通このサイズよね。 顔面程もあるケーキなんて、間違えてるわよね。
ホテルに戻ると、予約していたタクシーがすでに来ている。 わーっとフロントで預かってもらってた荷物を出してもらって、わーっと乗り込んで、わーっと飛行場へ。 やれやれ。 こっからチェコに行くのだ。 ちっこい飛行機で2時間程。 デューティーフリーで、ちょっと大きめの琥珀の腕輪を気に入って購入。 こんなに琥珀まみれになる事は、今後ないだろうから、これを機に、と。
さて、プラハまでは低空飛行。 間のポーランドを上空から眺めながらの飛行。 いやー、なんと見事な畑。 畑畑畑。 そして、山がない。 せいぜい丘があるくらい。 ずーっと地平線まで平。 なるほど、ジャバ夫さんが何度も「オクラホマっぽい気がする」と言っていたのは、この地形のせいであるか。 でも、「オクラホマっぽい」というのはけして誰に対しても褒め言葉にはならんだろうから、心に秘めておいてください。
夕方プラハに到着。 南下したのだから当然だが、ものっすごい暑い。 あっつー。 もんわ〜り。 リトアニアに比べると、都会やわ〜。 ごっつ背の高い建物が一杯あるわ〜。 あつ〜。
と、ふらふらタクシーでホテル「パジーシュ」へ。 英語で「パリ」なもんで、運転手さんになかなかわかってもらえませんでした。 パジーシュですよ、奥さん。パジーシュ! とお役立ち情報だと思って書いてみたが、地球の歩き方には「パジーシュ」って載ってる。 アメリカ人めが。
1904年のネオゴシック建築で、内装はアールヌーボーざます。 何故かアメリカ人が多く宿泊してるざんす。 なぜかプラハの観光客は、皆さんドレスダウン。 ヨレヨレTシャツGパンの人が多くて、リトアニアに来ていた人達とは、旅行に対する意義が違いそう。 リトアニアの観光客は、元共産国の今お金持ちが、サンドレスなど着込んで物見遊山に来ている感じ。 プラハの観光客は、資本主義国の一般人が、学校や会社の休みに何はともあれプラハ観ておきましょう、着の身着のまま、な感じ。 ようするに、バックパッカーが多い。 ふーむ。 チェコも最近まで社会主義だったけど、全然歴史背景も立ち位置も違うのね。
大体、豊かさを象徴するような大規模な古い建物がぎっしり。 15世紀のゴシック建築も、激しくでかくて、空に突き刺さるくらいギザギザが何本も屋根から飛び出ている。 ヴィリニュスの聖アンナ教会の、なんと小ぶりでかわいらしい事か。 (その後調べたら、聖アンナ教会を作った人がプラハ城のヴラディスラフホールを作った人と同じ建築家の人だったので、不思議なご縁を感じたのでありました。 有名な建築家に「この坪数で、この予算で、なんとか夢のマイホームを作ってもらえないでしょうかねえ」という感じに似てるな、と思った)
さて、ジャバ夫さんが、下着が足りないから買いに行こうというので、ホテル向かいのデパートへ。 そう言えばデパートなかったな、ヴィリニュス。
ジャバ夫さんが下着や靴下や、シャツやズボンを探している間(どんだけ足りてないの)ぶらぶら婦人服をチェックする皇帝。 婦人服が年齢ごとになってないから、おばん臭いのから若々しいのまで、適当に詰まっている。 デザインは冒険的で立体的だが、センスが良いかと言われると、ちょっとあれな感じ。 そして、バッグに関しては圧倒的に材質、カッティング、縫製が悪い。 良い職人さんがおらんのかね。 しかもユーロに乗っかってか、けっこうなお値段。 数年前に来た時よりも、物価が上がってると思う。 ふーむ。
ジャバ夫さんが買い物を済ませてきたので、戦利品を見てみると、なんとチェックのハーフパンツとチェックのシャツ。 そう、この時何故かやけにチェック柄ばっかり売ってましてねえ。 リトアニアの人もプラハの人も、とにかく男性はチェックばっかり着てたのです。 しかしねえ、上下チェックはいかんよ。 と言うとジャバ夫さん「売り場のおばちゃんも、買ってもいいけど絶対一緒に着ちゃ駄目って言ってた」て。 ・・・じゃあ諦めてどっちか無地にしたまえよ・・・。 一緒に着ないようにね!と念を押して、ホテルにいったん戻る。 とにかく暑くて、ジャバ夫さんがどうしてもハーフパンツに履き替えたいと言うのでね。
ほんで、皇帝はロビーで夫が着替え終わって降りてくるのを待っていたのさ。 待ちながら、フロントデスクで滞在中に観れそうなオペラとかオーケストラのチケットはないかね、と聞きながら。 最終日の夜に観れる人形劇のチケットを手配してもらった。 あと、オーケストラのチケットは劇場とかで気軽に買えるから、座席指定とかないけど、と言われた。 やがて、登場した夫はなんと
チェック×チェック
高度なテクニック過ぎるって言うたやろがー!!!!! 「駄目だよ!チェックとチェックじゃん!」と言うと 「え?あ、ホントだ!!」 と、まさかの本人ビックリ。 ええー!? 何その無意識ー!!
一瞬気が遠くなったけれど、シャツを無地に変えてきてくれたので、改めて出発。 もう遅いのでね、町並み拝見して、夕飯食べて来ようと言う事に。
ホテルすぐ脇の市民会館で、明日の夜のベスト・オブ・オーケストラというコンサートのチケットを購入。 モーツアルトも入ってるし、演奏者はチェコ交響楽団の皆さんだと言うし、安心の物件。
プラプラとモーツアルトに縁が深いエステート劇場の外側を観て(前だと思ってたのが建物の後ろだった)。 建築家のパレルさん(この人色んな物造ってる)がデザインしたと言うカレル大学(今は窓だけがパレルさんの造った時のまま)を覗き込み、旧市街広場へ。
広場なので広い。 それにしてもすごい人だかり。 それもそのはずで、韓国誇るヒュンダイが巨大なスクリーンを設置して、ワールドカップを放送してたのだ。 わー。 奇しくもその日は日本対パラグアイ。 しかも、丁度PKの時。 集まった観光客達が、直射日光をガンガン浴びながら、煮えくり返ったレンガに座り込み、一喜一憂しておったのです。 わー。 皇帝も後ろの方に座り込んで観戦。 ジリジリと、鉄板で焼かれる牛肉の気分を味わいながら。 結果は残念でしたが、素晴らしい活躍だった日本代表。 チェコの皆さんにも、良くやったと褒めてもらいましたよ。 いや、僕は別になんもしてないんですけど、何故か鼻高々に。
こんがり焼けながら、チェコの国民的英雄ヤン・フスの像を見学。 ヤンさん、当時腐りきったカトリック教会に否を唱え、宗教改革に一石を投じるも、あえなくローマで火あぶりになっちゃった人。
その像の目線の先にある、聖ミクラーシュ教会へ行くと、何やら入り口でチケットを売っている。 どれどれ、と聞いてみると、今から教会の中でミュージカルをやるので、観て行ったら良いよ、と言われる。 ほうほう、観劇とは洒落てますな。 ちょっとお腹はすいたけど、一時間くらいというので、チケット購入。 ところで内容は?と聞くと「うーん、革命?」と受付のお姉さん。 えーけっこう革命やってるけど、どの革命よ。 とか思ってるうちに、すぐ幕開け。 突っ込めないまま着席。
後でわかったが、これこそヤン・フスのドラマだったのだ。 チェコ語で良くわからんよ。 そして、抽象的な衣装と動きで、何をやってるのかもわからん。 音響が良くて、お兄さん(おじさん?)もお姐さん達もとても歌が上手。 隣の席のお姉さんは、この主演のおっちゃんの大ファンらしく、彼のCD(持参)パッケージを見ながら、何度も何度もステージをデジカメでズームインして観ていた。 すごいな。 すごいマイナーな。 いや、チェコではメジャーなのか?
教会内部はバロック式で、立派。 皇帝は、ジャバ夫さんのデジカメで、天井画をズームインしたりして観ていた。 天井近くの壁に埋め込まれたバロックの像に夕日が差し込んで、金の装飾がベカー!!と光り輝いていたのでありました。 荘厳。
最後、たいまつを持って現れた女性が、俳優の前に立ちはだかって終わり。 鳴り止まぬ拍手。 すると、スーツのおじさん(どうやら役人さん)がメダルを持って現れ、主演に何事か祝辞を述べた。 おお、なんか名誉ななんかを受賞したらしい。 更に渦巻く拍手。 メダルを受け取る俳優。 だが、思ったより重かったのか、メダルを取り落とす俳優。 床が石なので、ガチャーン!!と派手な音。 一瞬、あっちゃーとなる空気。
楽しいひとときでした。 後で調べたら、この教会はフス派という宗派の教会だったのでした。 なるほど。
近かったので、レストラン「ミュシャ」へ。 ミュシャの絵が飾られている店内。 美味しいけど、大味。 この時は、バドワイザー(アメリカのとは違います。ブドヴァイザーな音)というビールを飲んだ。 自分のビールメモを今見てみると、☆が三つ書いてある。 じゃあ味は☆三つで。
ほろ酔いで外に出ると、広場に面して夜遅くまで開いているエルペットというお店に。 観光客向けのお店なのだが、まあびっくりする程店員の態度が悪いので、是非行ってみたら良い。 というか、多分前回も行ったんだな。 その時もびっくりしたが、今回も変わらずびっくりした。 変わらないあなた。 でもつぶれないのは地の利? それとも、リピーターを考えなくていい観光業だから?
などと考えながら、とっぷり日も暮れたので帰りました。
2010年06月29日(火) |
ヴィリニュス5トゥラカイ |
朝も早くから起き出したものの、さすがに力つきたジャバ夫さんはへばって動かない。 この日は午後の予定があるので、午前中に色々観てしまいたいのよ。 もう十分観たじゃないって?いやいや。 まだ、ホテルの真向かいのヴィリニュス大学と、聖ヨハネ教会を観てないわ。 ご飯を食べたら出かけるのよ。 と、ホテル朝食へ。 トマトジュースが美味いのだ。
ふんふんふん。 と、出かける段になって、ジャバ夫さんが「どこ行くの〜?」ともっさり出てきた。 向かい側の建物、というと簡単そうな気がしたのか、のそのそ一緒に来る事にしたらしい。
お供もできたし、颯爽と街に出ると、どうも素敵なワンピースを着た足の長い若いお姐さん達が、花束(1〜5輪程度の細いやつ)を持って歩いている。 若い男の子や、家族連れも、こぞっておめかしして花束を持って歩いているぞ。 どうしたことだ。
ヴィリニュス大学は、16世紀から始まる由緒正しい古い学校で、皇帝の母校(創立125年くらい?)のなんちゃってヨーロッパ建築とはひと味違う。 本当に古い建物が残っていて、18世紀の天文台とかもある。 一般人が大学に入るには、入り口の所でチケットを買わなければならない。 入ったら、適当に見学するも良し、グループならツアーを組んでもらう事もできる。 で、とりあえず適当に侵入。
壁に、功績のあった教授の名前と生没年を記した記念碑がずら〜っと書かれている。 やっぱり教授をする人は長生きするらしく、だいたい70代から80代、たまに100年近く生きてた人も居て、興味深い。 知り合いでもないのに年齢を計算してしまうのであった。 ふむふむ。
聖ヨハネ教会には、大学構内から入れる。 と、入ったら、そこは卒業式であった。 おお。 だから、皆花束を持って歩いていたのね。 なるへそなるへそ。 そういえば、結婚式の時もリトアニアの人は皆思い思いのシンプルな花束を持っていたけど、何かあったら花を渡すというのがリトアニアスタイルなのだろうか。 華やか。
こっそりと覗き込んで、それから構内をウロウロ。 キリスト教以前の世界を想像して描いたと言う壁画を眺めつつ。 まさか、こんなに野蛮ではないだろう、という程酷い様子で暮らしている裸の人々の絵。 逆に、どんだけすごいと思ってんのキリスト教伝搬効果。
図書館が素晴らしいらしい、と聞いているので、図書館を探してウロウロ。 どうやら、一度学校を出て外から入るらしい。 で、図書館の前まで来ると、丁度イギリス人観光客の団体がツアーを始める所だった。 ので、まぎれてツアーのチケットを買い、くっついて行く事に。 天文台の塔にも登らせてくれ、全部で60分のツアーらしいが、30分でおいとまして昼飯。
そして、午後からは花嫁花婿組と合流し、車で西へトゥラカイへ! ふんふんふん。 トゥラカイは、ヴィリニュスができる16世紀以前からリトアニアのえらい人が住んで、生活していた所。 チュートン騎士団と戦ったのもここのお城。 湖に浮かぶお城は、がっつり要塞の形をしている。 クリミアから来たカライメという少数民族が生活していて、キビナイと言うミートパイが民族料理だとか。
もちろん食べちゃいましたよ。 ふんふん。 美味。 ただ、オーダーを受けてから窯で焼いているそうで、死ぬ程時間がかかりました。
花婿さんとお友達は、ヴィリニュスの住民なのでトゥラカイには子どもの頃から何度も来ているそうで、ピクニック感覚での参戦。 皇帝に取ってのカリフォルニア・ディズニーランド的な位置付けでしょうか。 外からお客さんが来る度に、ここへ連れてってあげるんだそうで。 小学校の遠足とかでも来るらしい。 皆、住んでた歴代君主の名前とか暗唱できるんだって。
コインを潰して記念メダルを作る機械があったので、グリグリまわしてヴィタウタス大公のメダルを作成。 この人は、ポーランドと力を合わせて、リトアニアを大国にしたことのある人。 まさに、リトアニアの黄金期だったわけで、その後ポーランドに吸収されたりロシアに分割されたり、大変な歴史になるわけだ。 600年間大変って、すごい。
周辺には湖が沢山あるのだが、エンジン禁止で、自然保護区になっている。 そのため、とっても静かで、水は底まで見える程綺麗。 ガチョウや白鳥も居た。 そして蚊も居た。 刺されまくったさ。 そして日に焼けまくったさ。
花婿さんがセーリングボートを借りてくれて、皆で湖に漂う。 船頭さんが言うには、湖の水はとても綺麗で汚染されて無く、人体にも無害。 コーヒーを沸かす水は湖の水そのままだし、汗臭くなったら湖に飛び込むんだとか。 汗臭い自分が飛び込んだ水でコーヒーを沸かしているわけだが・・・まあ良いか。
花婿さんの親戚の、2歳と3ヶ月の赤ちゃんが一緒に来ていて、イサムさんを思い出しながら遊ぶ。 キーホルダーにジャラジャラついた鍵類が好きなのは、人種を問わないらしい。 2歳は鍵をジャラジャラして、レストランの扉(すでに開いている)に突っ込んでは何事か叫び、鍵を変えてはまた突っ込み、を繰り返す。 3ヶ月は、主に寝てました。 リトアニアのストローラーは、横に寝るベッドタイプが主流らしい。 まあね、自分が赤子だったら、横になりたいわ。
干しうなぎを売っている人などを冷やかしつつ。 夕方バンに乗ってホテルに帰りました。
車の中では、ジャバ夫さんがリトアニア経済についての質問をしていたのだが、皇帝は疲れて寝てしまった。 後から内容を要約してもらうと、
リトアニアの経済は最近破綻した。 国内の銀行もつぶれたし、多くの企業が撤退した。 ロシア経済好調を受けて、観光客は増えるばかりなので、今年からヴィリニュスに国際線を呼ぶ事にした。 今まではラトビアのリーガという都市を経由していた。 だから、今年は観光で盛り返せるんじゃないかと思ってる。 国内にショッピングモールは4つしかない。 ヴィリニュスにも一件モールがある。 ヨーロッパの観光客は旅行中もお洒落だが、アメリカ人は貧乏臭い(それは普段からですよ・・・。
ということだった。 ふーん。 解散後、今日はサッカーの試合を観ながらご飯を食べようと約束し、ホテルで着替えてからレストランに集合。 「ロキス」と言う狩猟料理を出す店で、なんだか知らない美味い肉を食べながらブラジルーチリ戦を観た。 一緒に食事したゲイの人が、カカが好みのタイプだという事だったので、皆でブラジルを応援。 3-0で快勝。 でも、ゲーム観戦的には接戦の方が面白いんだけど・・・。 まあよし。
明日はヴィリニュス最終日。
結婚式から一夜明け。
昨晩興奮してなかなか眠れなかったジャバ夫さんは、一人で「夜のヴィリニュスを歩いてみる!」と出て行ったものの、30分程で帰ってきた。 どうやら夜の街はまた別の顔を持っているらしく、売春の客引きや、ストリップの客引き、ぼったくりタクシーなどが横行していて、カップルやグループで歩くならともかく、男の一人歩きは危険との事。 じゃあ女の一人歩きも危険だろうな。
そして、日曜日は朝から早起きしてお出かけ。 隅々まで観光しちゃうよ。 ふんふん(鼻息。
国民のほとんどがカトリック教徒というこの街で、日曜日の朝と言えば、礼拝があるのだ。 街中にある教会の全てが、扉は開けつつも中は礼拝の真っ最中という状態。 しかし観光に教会は外せない。 というか、教会しか無いのだこの街。 というわけで、こっそりと入り口から中を覗き込む事に。 教会の建築は見事だけれど、規模は大きくはないので、入り口から全てが見えるくらいだ。 じろじろ。
複雑な歴史背景から、教会によってはロシア語やウクライナ語で説教している場合があるらしいが、残念ながらリトアニア語との違いがわからないので、どうなっているのかはわからなかった。 南に向かって歩いて行き、二軒のロシア正教会の教会を覗き込み、更に下って旧市庁舎へ。 旧市庁舎では、旅行者インフォメーションなどがあるのだよ。 でも、我らがそこへ向かった理由は只一つ。 「トイレかしてください!!」 だったのだが「ない」の一点張り。 ないわけないじゃないの! あなたは勤務中どこのトイレ使ってるのよ! キー!! と思ったが、並み居る観光客にトイレを貸していたら、別の勤務が必要になってきちゃうだろうからきっと一律貸してないんだろうな、と諦めてホテルに戻る。 お店も、店員が礼拝に行くから軒並み開いていないのだ。 ホテルまで早足で5分もかからないし。
あ、ちなみにリトアニアのトイレは、どこも綺麗でしたよ。 紙は流せないので、備え付けの籠に入れる大陸式でしたけど。 世界いけてないトイレ検定2級の僕に言わせれば、天国。
トイレを済ませて、憂いなく再出発。 旧市庁舎前の聖カジミエル教会を覗く。 皆さんが真剣にお祈り中。
更に南下して聖三位一体教会へ。 三位一体教会、入れ物は古くて大きくて立派だが、宗派があまりメジャーな所ではないらしく、信者さんの数が多くなく。 建物内部の修復作業も、途中までやったけど資金が無くなっちゃいました、という感じで禿げチョロ。 適当に昔あったドアを漆喰で塞いであったり(それも所々穴空き)、新しいドアを何となくはめてあったり(サイズが合ってなくて、上下が空いていたり)。 壁からはなんかの配電コードがベロンチョと飛び出ていて、あちこちに使い捨てられたっぽい梯子が落ちている。 中庭にある由緒正しそうな古い建物に、ペンキで「WC」と殴り書きしてあったり。 窓ガラスがバリバリ割れてたりした。 外壁のフレスコ画の剥落も激しい。 しかし、礼拝が終わって出てきたおじいさんが、門を出るまで何度も何度も教会に向かって十字を切りながらお辞儀していた。 彼の人生の中で起った激動の時代を思うと、きっとお祈りしたいことが一杯あるんだろうな、と思ったのであられけるよ。 皇帝は基本無神論だけど、宗教を否定はしないよ。
この辺で、ようやくチラホラとお店が開き出したので、琥珀屋さんに入って、義父の誕生日(忘れてた!)に琥珀の施された文房具セットを購入。 重たいので「すいませんがホテルに送ってください」とお願いすると、親切なおじさんが「そういうサービスはないんだけど、僕が退社するとき持ってってあげる。5時以降になっちゃうけど」と引き受けてくれた。 ありがとう。
それから、通りに面した窓一杯にウサギのぬいぐるみをぎっしりと詰め込んでいるお店に入ってみる。 特産品の麻布を利用して、服やぬいぐるみをコツコツ作っては売っているおばさんが居た。 だがこのおばさん、英語がたどたどしい。 なんとなーく言っている事を想像しながらのお買い物。 商品の価格は、中国製の大量生産品と変わらないのに、全てがおばさんの手作り。 おばさんのお店では、カードも使えない。 ユーロも取らないというので、リトアニアの通貨リタスでお支払い。 子供等にぬいぐるみ、ジャバ夫さんのシャツ、皇帝のワンピースを購入。 ジャバ夫さんのシャツのサイズがSだった(アメリカではXL)。 どんだけでかいんだ、リトアニア人。
それから聖霊教会へ。 宗派はロシア正教。 こちらは一転、ものすごい信者の数で、建物も装飾も綺麗に飾られていた。 そして、この辺から物乞いの人がちらほら。
聖テレサ教会を横目に見ながら、夜明けの門へ。 ここには有名なマリア様のイコンが飾られていて、信者さんがお願いごとを込めた銀製品が壁にびっしりくっついている。 ・・・ので有名なのだが、それは全て門の中に入って二階にあるのだ。 そして今日は日曜日なので、信者の皆さんがぎっしりみっちり詰まっていて、全く近付けない雰囲気。 いたし方無し。
門を出て、かつての城壁の外側を歩いてみる。 城壁の中は観光客が沢山居たが、外側はどうやら普通に居住している人達の生活の場。 買い出しの袋を手に提げたお婆ちゃん達が、お友達とテクテク歩いていたり、バスが沢山の人を乗せて走ったりしている。 古い城壁も所々残っていて、かつて地下道に竜が住んでいたとか言う円形城塞も見学(ただし今工事中)。 観光客がほとんどいなくて、壁のラクガキも質量共に増して来る。 あと、民家の壁に銃痕が沢山残っていて、怖い。 ソビエト時代は、街のあちこちにKGBが拷問して殺した人々の死骸を吊るしていたと言うから、恐ろしいはなしである。
テクテク歩いて北上。 街のどこに居ても、ホテルの向かい側にある聖ヨハネ教会の塔(ただし工事中で緑の網付き)が見えるので、迷子になる事はない。 やがて、街の東を流れるヴィリニャ川を渡って、ウジュピスという地区に入る。 ここでお昼休み。 ウジュピオ橋のすぐ横にあるウジュピオというレストランで、ビールを飲みつつサーモンやジャガイモやジャガイモやジャガイモなどを食べる。 美味しかったが、料理の出てくるのが遅い。
のんびりとしてから出てきて、ウジュピス地区をジロジロと眺めながら歩き、地元の人が建物の隙間からウロウロ出て来る所を見つけ、そこに入ってみる。 すると、階段のある小さな道というか隙間があり、そこから旧市街地の聖アンナ教会の裏に出れることが判明。 ほうほう。 ホテルのすぐ裏でもあるので、部屋に一度戻り、休憩。 ジャバ夫さんは、もう観光終了の気持ち満々のようだが、僕は違う。 もっと歩く。 日が沈むまで歩くよ。 ふんふん。
と、一人で出て行こうとしたら、やっぱり一緒に行く、と言ってジャバ夫さんも参戦。 ち、しかたがない。 文句言わずについて来な!
というわけで、ホテルから北へひょろっと行くと、大聖堂がある。 この大聖堂、同じ場所にキリスト教以前は雷の神様が奉られていたり、色んな時代を経て来たので、色んな物が置いてある。 地下には、王族やえらい人達の棺まで埋まっちゃってるので、見応え満点。 しかし、こういう歴史的な文化財には、普通厳重な警備とかされてません? ドイツのギャルが、棺の蓋をこじ開けようとして、キャッキャキャッキャしてましたけど? 良いの? 開いたら開いたでイヤじゃん。
外の鐘楼はレンガ造りの所を白の漆喰で塗り固めて補強しているのだが。 元のレンガっぷりはこうでしたよ、というのを示す為に、所々漆喰がカクカクくりぬいてあるのだ。 そのくりぬき様が、何故かことごとくテトリスのブロック型。 まさかこんな所にソビエトの影響が? とか勘ぐりながら写真を撮り、ふらふら〜っと前回見逃した工芸博物館へ。
ところがなんとしたことか。 日曜日は4時に閉まってしまうのであった。 というわけで、到着した時3時55分。 おおー。 学芸員のおばちゃん達が鍵を、今まさに閉めて出んとする所。 ああー。
でも、まだまだ私見たい所あるのよ。 ふん。 地図で見ると、ちょっと旧市街から離れているけれど聖ペテロ&パウロ教会というのに行きたいのだ。 テクテクと並木の下を歩き、歩道上にひからびたナメクジ達など自然を満喫。 周囲にはあんまりなんも無く。 会社が倒産したっぽい、空になった新しい建物とかがずらっと建っていたり。 そして、お花屋さんの角の向こうに教会がでーんとある。 旧市街内は規制があるのか、あまり見かけなかった物乞いさん達がこの教会の周辺に集結。 臭い。 臭いけど、教会内にはさすがに家無き人は入って来ないので、ほっと一息。 教会の外見は普通だけど、中はえらい事になっている。 30年かけて創られたと言うバロック式彫刻群が、びっしり。 このビッシリさ加減は、香港のタイガーバームガーデンに匹敵する。 リトアニアの教会では良く見かける聖バーバラ(サンタバーバラ)像を見つけて、写真を撮っておく。
さて、外に出るが、地球の北に位置するこの辺は、6月は中々夜にならない。 まだまだ太陽がカンカン照り。 ふーう。 やれやれだよ。 天気予報で滞在中ずっと雨だと思ってたから、日焼け止めを持って来なかったのだ。 真っ黒焦げの皇帝と、真っ赤っかのジャバ夫さん。 しかし、ここで更に皇帝は頑張ってしまった。 旅行とは苦行。 3つの十字架の丘に登り始めてしまった。
ちなみに、丘に登りはじめる道路脇に、ヴィリニャ川がどうやってできて、人々がどのようにこの川を利用してきたかを示すパネルが、誰に向けて?と思わせる向きで立っている。 どうやらヴィリニャ川は、600年以上前に人工的に造られたっぽいような事が書いてありましたよ。 たぶん。
3つの十字架の丘には、3つの十字架が建っている。 とても巨大な十字架で、なんども壊されては建て直されたりした歴史を背負っている。 壊された昔の十字架も野ざらしになっているので、この投げやり感はすごいと思った。 今建ってるのは、1989年の十字架。 ここからもホテルの前の塔が見える。 というか、旧市街には高い建物とかないし、土地も比較的平面なので、少し高い所からならすぐ一望できてしまうのだ。 パノラマを見る為だったら、別にここまで来なくても良いよ。
ピクニックに来ている家族が、イサムさんっぽい赤子を連れて歩いていて、ちょっと寂しくなったりした。
えっちらおっちらヤブ蚊に刺されながら下山して、ようやくホテルに。 いやあ、やれやれでした(誰のせいで。
さっさと寝たから、朝も起きれるだろうと思って目覚ましをかけなかったら、なんと11時まで眠ってしまった。 さすがに歩き過ぎて疲れていたらしい。 起きたらピーヒャラピーヒャラとリコーダー地獄。 もっさー。
もうホテルの朝食も終わってしまったし、近所の「ガビ」というレストランへ赴く。 連日の肉料理に早くも疲れたので、サラダや野菜のスープを注文。 美味い。 中庭でいただいたのだが、天気予報が外れて実に良い天気で、のほほんとする。
そう、ヤフーの天気予報では一週間ずっと雨だったのだが、結局この日からずっと晴れだったのだ。 結婚式ももちろん晴れ。 私、空気の読める雨女なのであるよ。 はっはっは。 しかし蚊の多いことこの上無し。
そして湿気が強い。 湿気のおかげで、お肌が予想外にツヤツヤ。 近頃顔がしわくちゃなので、クリームを高いのに変えたりしていたが、どうやらロスが乾燥しているせいでシワシワしていたようだ。 髪の毛もパサパサだったのが、しっとりとまとまるまとまる。
ホテルに戻る前に、また別のアンバーミュージアムを覗いて(旧市街だけで、3件のアンバーミュージアムがある)、琥珀熱を補給。 その前にある聖ミカエル教会の庭を覗き込んで、その日は開いていなかった博物館を窓の外から眺めた。
細い脇道を通ると、沢山のラクガキを見ることができるが、よーく見てると、規則性や作者のクセが伺えて、滞在最終日には誰が書いたかわかるくらいになったのであった。 ユダヤ人のソロモンさんという人が、よく郊外でラクガキをしているようなのだが(サインが入っている)。 他に、他人のラクガキを一晩で真っ白に塗りつぶして、その上から紙を切り抜いた型に向かって、何個も同じ絵をスプレーで描く人とか(鳥の絵が多い)。 あと反戦のメッセージを混めて、ガスマスクをモチーフに絵と字を組み合わせる人も頻出している。 この人達にはテリトリーとかあるんだろうか。
などと思いを馳せながら、結婚式の準備をして、タクシーを皆で呼んで出発! 結婚式は、花嫁がキリスト教徒でないことから教会では式を挙げることを拒否されたので、郊外にあるなんとか大公の豪華なお屋敷を借りて決行。 国の重要文化財的な建物で、博物館も有るそうな。 大きなお庭は、そもまま公園になっていて、そこでレセプションができる、結婚式にも人気のスポット。 この日も、他のカップルが敷地内の別のところで結婚してました。
花婿さんのリトアニアの家族と友達がやはり人数的には多いのだけれど、日本勢もかなりのもので、1/4くらいの席を埋めました。 まあジャバ夫さんが日本勢に入るのかどうかはわかりませぬが。 皇帝の法的結婚式の時と同じく、市の役員さんが来てくれて、書類に両名サインをして誓いのキスもして、めでたく結婚成立。 薄い水色をテーマカラーに、白でまとめた会場。
素晴らしく晴れたので、屋外のレセプション会場は大にぎわい。 バイオリンの生演奏を聞きながら、新夫婦の写真撮影が終わるのを待ち、夕方頃からレセプション開始。 森と川に囲まれているので、蚊が大変な勢いで出てきて、スプレーを借りて防御。 このスプレーが良かったのか、蚊が弱かったのか、3カ所程度しか刺されませんでした。 リトアニアで2番目に有名、というバンドがやってきて生演奏。 とても上手で、声も良かった。 レセプションの司会は、これまたリトアニアの有名女優さんだった。 ローカルなので活躍は知らないけど、背が高くて綺麗な人でした。
リトアニアの人は、ダンス大好き。 踊りまくって、中盤ポルカを教えてもらって、ポルカも皆で踊る。 やがてDJがやってきて、何故かマイケルジャクソン特集になり、結婚式でスリラーを踊る。 フー! そして、ここの人達皆宵っ張り。 朝が遅いのはそのせいだろうか。 おそーくまで、誰も止めずに踊りっぱなし。 夜12時を回る頃から、日本勢がチラホラホテルに帰りはじめるも、リトアニア勢は赤ちゃんもお婆ちゃんも踊りっぱなし。
我らは1時頃にお開きにしたけれど、後に伝え聞くと皆3時4時まで踊ってたらしい。 えらいこっちゃ。
やはり、自分のではない結婚式は、緊張も無くて楽しいものです。 花嫁さんも花婿さんも綺麗でござした。
そういえば、リトアニア人の女の子が「彼は背が低いから、日本で結婚したのよ。うぷぷ」と言っていたが、花婿さん身長175くらいある。 日本では平均以上で、むしろ背の高いほうだと思うのだが。 そんな彼女は190くらいあった。
ちなみに、初日に皇帝に背が低いという事実を再確認させてくれた女の子は180くらい。
なるほど、この国で小さいと言われていた人が、日本に来たら天国だろうな、と思った。 ジャバ夫さんも、180くらいだが、日本に来ると巨人になったみたいで気分がいいと言っていた。
自国でちょっと背の低い人は、来たれ日本。 日本が観光国として再起する為のフレーズが完成。
時差ボケでさっさと寝たので、朝も早くに起きてしまった2日目。 ところが、ここの人達結構朝が遅いのだ。 お店は10時か11時にしか開かないし、ホテルの朝食も8時から11時(しかし、客が来ないと適当に閉めるので、10時くらいに閉まってしまう事も)。 学校などが休暇中という事もあるが、それにしても、7時になっても通りに人が出て来ない。
そのうち、ホテルの前で学校のリコーダーでピーヒャラピーヒャラ同じ曲を延々と吹いて、お金をもらおうとする小学生がやってきた。 どうやらここは午前中この小学生のテリトリーらしく、帰国まで毎朝毎朝、昼くらいまでピーヒャラして、時々友達がやってきて二重奏になる他は、特にレパートリーも変わらずに、ホテルの宿泊客をもんやりとした気分にさせるのであった。 もんやり。 せめて、二曲目を覚えてください・・・。
そして朝、どの店も開いていないうちにお散歩。 雨がパラパラだけれど、傘をさす程でもなく。
この街の建物を見ていると、なんとも説明できない感じ。 古いんだけど、壁だけは新しそうな。 窓枠は新しかったり、古かったり。 50年前の建物と言われれば、そうかもと思うし、400年前の建物ですと言われれば、そうかもしれない。 そして、同じ建物でもできた年代が違ったり、修復した時代によって様子が違ったり。 そもそも、しょっちゅう色んな国に侵略されては建物が壊されたり、その国のえらい人が住みに来たり、教会は別の宗派の物になったりするので、改修や改築がやたらめったらなのだ。 なんとも形容しがたい雰囲気。
あっさりと、街の北半分は歩ききれてしまった。 車の量も少ない(というか、多分道が狭いので、車だと不便)ので、とっても静か。 すれちがったおじいさんのオナラの音まで鮮明に聞こえる程であった。
だいたい行こうと思っている建物に目星をつけながらホテルに戻り、朝食。 ホテルの地下で出る朝食が、とても美味しかった。 ハムも野菜もパンも美味。 地下は建物の基礎がそのまま残っており、まんま中世のお城風。
さて、腹ごしらえが整ったら、観光モード。 歩いちゃうよ歩いちゃうよ。 とりあえず、近所から責める。
アンバーミュージアムに行き、琥珀のお勉強。 行く前は「琥珀〜?おばちゃんっぽいアクセサリーなんじゃないの〜?」と、あんまり興味なかったのだが、様々な琥珀を見て回るうちに、帰国する頃にはすっかり琥珀フリークになっていた。 琥珀って、色んな色や種類があるんですよ。 ブルーアンバーって、青っぽいのも有ったり。 人口着色されているのは興味ないけど、自然なクリーム色とか、赤いキラキラとかある。 アクセサリーのデザインも、選べばかわいいのもあるし。 ちょっとごろんごろんした感じに使えば、フォークっぽいファッションにマッチするじゃあーりませんか。
お店もくっついているけど、ミュージアムなので、レアな琥珀を展示していたりする。 世界に5つしか無いという、トカゲ入りの琥珀なんかも見た。 5つしか無いと言う事は、樹液で動けなくなるまでじっとしていたトカゲが少ないという事で、世界的に有名なマヌケなトカゲと言って良いでしょう。 数千万年前の物だとか。
街を創る事になったそもそもの始まり、ゲディミナスのお城を観に、丘に登る。 実はリフトが在って、歩かなくても良かったようなのだが、歩いちゃった。 1991年に、ソ連から独立して初めて丘に立てた国旗を見れたりするので、ちゃんと塔の中に入った方が良い。 狭い螺旋階段も、頑張って登ろう。 このお城も、なんども壊滅させられてはお直しされて、誰も使っていなかった空白期間も長いので、古いと言って良いのかどうなのか。
下りは無理せずにリフトで。 雨が上がったら、太陽が出てきて蒸し暑くなってきてしまった。 蒸す。 そして蚊が出て来る。 ぷい〜ん。 皇帝は蚊に耐えられず、ジャバ夫さんは暑いのが苦手。
博物館に入ったら、空調きいてるんじゃね? という期待とともに、丘の麓の考古学資料展示館に入る。 が、空調など入っておらず。 実にエコな運営。 もわ〜ん。 展示は大変素晴らしかったですよ。 石器時代の道具から始まり、昔リトアニアに暮らしていた人達が、どんな服装をしていたのかマネキンが着ているのも興味深い(部族によって、髪型やアクセサリーが微妙に違う)。 それにしても、マントや洋服をピンで留めるのは、どうなんでしょうね。 体に刺さらないのかな? しかし暑い。 暑いよー喉が渇いたよー。
でも、とりあえず隣のリトアニア国立博物館も観てしまう。 なんでしょう。 極限でも頑張ってしまうのは、バックパッカーの記憶でしょうか。
何故かこの国立博物館は年代を追って展示する努力に欠け、ざっくばらんに貴重品とがらくたが、分け隔てなく並べてあるのでした。 そして、説明文は英語とリトアニア語の併記で、いつもは翻訳してくれるジャバ夫さんが暑さでまいっているので、なんだかわからず。 なんとなーく気になる物だけを良く見る。
リトアニア大公国だった頃が最大領域だったわけだけど、その頃も王様ではなくて大公がリトアニアの最高位の人だったわけで、そういう規模の国なんだな、と思った。 キングじゃなくてデューク。 有力な貴族も、ヴィリニュスには4、5家しかなかった様子。 街の外は、広大な畑だし。 のどかな田舎なのに、ヨーロッパにあったばっかりにえらい目にあったわけですね。
3時にジャバ夫さんのお友達とホテルのロビーで会う約束をしていたので、更に隣の工芸博物館はとりあえずホテルに向かって歩き出す。
プラプラと、ゴシック建築の最高傑作(と、リトアニアの人は言う)聖アンナ教会に入ってみたら、中で赤ちゃんの洗礼式をやっていたので、しゅっと外に出る。 聖アンナ教会、外見は小振りながらとてもゴージャスなのだけど、中は普通。 お隣のベルナルディン教会に入ると、ミサの真っ最中。 異教徒は退散し、お昼を喫茶店「ダ・アントニオ」で食べ(この喫茶店は外れ。リトアニアで唯一美味しくなかった)、コンビニ(10時ー8時で、全然コンビニエンスではない)で水を買い、ホテルで一休みしてから、友達と合流して、KGB博物館へ。
途中、モルモン教の人に「あなた神をご存知ですか」と勧誘された。 このカトリックの国で、果たして信者は獲得できるのだろうか。 きっと皆、神の事は隅々まで知っているだろう。
さてKGB博物館、何故か日本の旅行本ではこの名前だけれど、ジェノサイド・ミュージアム(大量虐殺博物館)と言うのが現地の呼び名。 KGBとはどこにも書いてないので、それでは見つけられない。 リトアニアで起きた、大量虐殺の歴史が納められているので、ナチスによるユダヤ人虐殺の資料も含まれていて、外壁には虐殺された人の名前が刻まれている。 KGBが使っていた建物を使っていて、拷問部屋とか処刑場とか残っていて、どんよりとした雰囲気。
ナチスに虐殺されたユダヤ人の博物館は、ヨーロッパ各地で見てきたが、こんなに鬱々とさせられるのは初めて。 そりゃあ、どこの博物館も、人間の悲しみの歴史なんだけれど。 ここは、1991年まで現役だったと言う近さと、虐殺の対象が街人全部であったという規模のでかさ、犠牲者の多さが、こう迫ってくる感じ。 壁に血のシミも残っているし、外には沢山の献花があって、祈ってる人も居る。 悲しいよりも、怖いが強い。
だというのに、驚いた事には隣は普通のアパートで、生活している人が居るのだ。 処刑台(中庭にある)を見ながら生活するってのは、どんなもんだろうか。 たくましさも感じるが、この日常に在る感が、たまらなく怖いと思ったナチとKGBでした。
その夜は、結婚式の前夜祭。 道を戻りながら工芸博物館に寄ってみたら、もう閉館していたので諦めて大人しく会場へ。 ヨーロッパロイヤルホテルで、皆で夕飯を食べました。 動き過ぎたので、この日も素早く就寝。
そんなわけで、ロスの悪名高きLAXから飛び立った皇帝とジャバ夫さん。 ルフトハンザで、ひとまずフランクフルトへ。 乗客にドイツ人が多く、機内も座席も広々設計だった。 なぜなら、ドイツ人がでかいから。 皇帝が、余裕であぐらをかいている座席に、体をめちゃめちゃ折り畳んで収納している、2メートルのゴリラ達。 ははは、君たちも悔しかったら、縮みたまえ。 トイレも6個くらいあって、安心して爆睡できました。
フランクフルトでEUのハンコをもらってからは、チェコ航空でリトアニアの首都ヴィリニュスへ。 着いた瞬間からバケツをひっくり返したような雨に見舞われる皇帝。 わかっている。 わかっているさ。 こんな事もあろうかと、長靴と傘を持ってきたんだもんね。 妖怪雨降らしだからさ。 ふふ。
と、準備万端していたら、なんと花婿さんが迎えに来てくれたのでありました。 すいませんねえ、お式の前だというのに。 一緒の便だったらしい、イギリス人夫婦の参列者とともに、レンタルしたと言う大型のバンに乗り込んでしゅっぱーつ。
車の窓から見るヴィルニュスの第一印象はズバリ。
ラクガキ。
とにかく、すごい量のラクガキが、ありとあらゆる建物にところ狭しと書かれている。 スプレー缶で、シャーッとするあれね。 かっこ良くアルファベットを書いちゃうあれね。 そういえば、ベルリンの壁もラクガキだらけだった。 社会主義に抑圧されると、ラクガキをしたくなるんだろうか。 でも、住んでる人を気遣ってか、窓には書かないでいてくれている。 優しい(?)ラクガキ。 ユネスコの建物にもラクガキ。 「綺麗な壁はクールじゃないぜ!」とか書かれちゃってるアパート。
そして、凄まじい雨なんだが、石畳の道は水はけが悪いらしく、小型犬には命取りな規模の水たまりがあちこちに出現。 しかし車は速度を緩める事無く走行し、通行人に容赦なく身長の二倍くらいの水柱を浴びせかけて行くのであった。 恐るべし。 必要なのは、傘じゃなくてレインコートだな。
車は旧市街に入って、ホテル「ナルティス」に到着。 ホテルの建物も当然ユネスコ建築に指定されてて、16世紀の物。 壁とか、所々石造りの部分が露出していて、雰囲気はばっちり中世。 ルネッサーンス。
ははははは、としていると、ロビーで次々と日本人に遭遇。 皆さん結婚式の参列者です。 この結婚式の為に、ヴィルニュスの日本人人口密度が突然上がったと思われる。 ジャバ夫さんの友達の結婚式なので、皆さんジャバ夫さんのオクラホマ大学時代のお友達ばかり。 再会を祝して、そんでは皆で夕飯にまいりましょう、という事になった。 くしくも、その日は例の運命の日本デンマーク戦。 サッカーの観れるバーにまいりましょう、そうしましょう、という事になったのだが、まだ開始まで時間があったので、とりあえずレストラン「ヂャマイチエイ」へリトアニア料理を食べに行く。
ホテルからレストランまで、地図では結構な距離に見えたのだけれど、歩いてみたらすぐだった。 つまり、街全体がそんなに大きくはないと言う事で、どこに行くにも歩いて行けるわけだ。 この時いただいたリトアニア料理は、ジャガイモをマッシュしてふわっふわにしたので肉を包んだ、ツェッペリーニというもの。 それと、ジャガイモのパンケーキ。 ジャガイモのソーセージ。 ジャガイモ祭り。 食べてる途中で花嫁とも遭遇。 なんという狭い街だ。
お腹一杯になったので外に出ると、大型スクリーンが街灯に出て、デンマーク戦がすでにちょっぴり始まっていたのだが。 まあ、日本は前半に点を入れるってことは無いよね〜、とのんびり覗いてみたら、なんと1点入っちょる! わー!わー! と応援したら、観戦者達がもや〜んとした表情でこちらを見ている。 どうしてかな〜って、なんと観てる人皆、デンマーク人だったのだ。
こいつはどうも、失礼しました。 というわけで、日本食レストランへ移動。 バーで試合観戦することに。 ところが、そこもデンマークを応援する人ばかり。 うーん。 まあデンマークの方が近いからねえ・・・。 途中、花婿さんとお友達も合流。
そういえば、お友達の中に、カメルーン人夫と日本人妻の夫婦が居て、リトアニアに来る前に南アでカメルーン戦を観てきました、と言っていた。 カメルーンの国旗と、リトアニアの国旗って、似てません? まあともかく、日本の快勝。 試合が終わると、デンマーク人も「よくやった」「よくやった」と褒めてくれました。 いやいや、どーもどーも。
とご機嫌で帰ろうとすると、花婿さんのリトアニア人のお友達がすすすっとやってきて、皇帝の肩をそっと掴んで、片言の英語でこう言いました。 「あなた、とても小さい。知ってるか?とても小さいよ」 え・・・。
と、万が一皇帝が、自分がとても小さい事を知らなかった時の為にか、教えてくれたのであった。
そういえば、リトアニアの女性は皆すらっとして背が高いのだ。 足が長くて細くて、たぶん日本人が思う「外人は顔が小さくて足が長くてスタイルが良い」という幻想は、この辺の人種から来てるんじゃないか、と思う程。 (足が長くなくて、顔の大きい四角い体型の外人も多いのよ) で、お婆ちゃんになると丸くコロコロなる不思議。
そんなわけで、ご機嫌のまま初日は眠りについたのでした。
兄のところにも赤ちゃんが産まれました! これでダブルおばちゃんに。
とりあえず、そろそろ旅立たなければならないので、バタバタしています。 昨晩イサムさんを預けに行ったので、今朝は静かで、寂し過ぎる。 ちなみに昨晩は、鉄板が危なくて赤子連れで行けなかった焼き肉屋に行って、思う存分牛タンを食べてきた。 たんたんたんたん。
イサムさんがアイドル写真を撮ったのを見れるURLです。 激しく笑かされているので、時々疲労の色がでています。 あーかわいい。 http://www.babeestudio.com/2010/ここにイサムさんのフルネームを半角英数、名姓の順で/
オリンピックなどの国際スポーツが疑似戦争としてガス抜きになるとしたら、今回のポルトガル北戦は成功ではないだろうか。 北に対して良くない感情を持って、イライラしていた人は、こてんぱんぱんになった為に怒りが治まり。 特別何とも思ってなかった人は「もうやめてあげてー」と、同情的な気分になり。 ま、良かったんじゃないでしょうか。 勝ったら勝ったで、「おおーやるなー」とかなるだろうし。 スポーツは平和に貢献しているよ。
さて、リトアニア旅行が目前に。 明日イサムさんをモンテシトのお手伝いさんの家に預けに行って、明後日旅立ち。 お手伝いさんの家で、一週間スペイン語浸けになるイサムさん。 コモエスタンテ〜。 両親の事を、忘れないでくれたまえ。
ところで、義弟妹の赤ちゃんはユアン君になりました。 そして、もう元気に退院しました。 早!
アメリカでは、今朝から父の日でございます。 お父さんありがとう。 健康が一番です。 そして、義父にプレゼントをすっかり忘れていたので、リトアニアで何かすてっきーな物を探そうと思います。 ごーん。
実父には、サンタバーバラのウニ瓶をプレゼント。 なんと、トーランスのウニ会社が、日本まで国際便で送ってくれるサービスをしているのだ。 北海道のウニとは種類が違うんだそうで、ちょっと赤いウニですが、太ってて美品。 興味のある人はご一報くだされ。 送れる〜。
ジャバ夫さんには、イサムさんがクレヨンでガリガリ書いた渾身のカードと、日本語の入ったTシャツ、イサムさんとおそろのストライプシャツ、チョコレートをプレゼント。 チョコレートは、サンタモニカに出店している「レオニダス」というベルギーのチョコレート屋さんから。 ベルギー王室御用達だそうで。 ベルギーに王室があるんか・・・(不勉強。
そしてリトアニア旅行が迫ってきた! イサムさんを人に預ける心配よりも、旅行の楽しみにテンションが上がり過ぎて。 立派にアメリカ人らしくなってきた自分。 どきどき。
もう、赤子を連れずに飛行機に乗るということだけで、テンションがだだ上がり。 なんでもできちゃうよ。 通路で踊っちゃうよ、もう。
しかし、まだ全然荷物を作っていない。 イサムさんの一週間分の荷物を作らねば。 オムツ祭り。
皇帝

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