ぶつぶつ日記
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2002年05月06日(月) 自分の足元

しかしまあ、なんだかんだイスラエルの情報統制を憂いているが、
じゃあ自分はどれほど日本という国について、
きちんとした情報をもっているかというと、
はななだ心もとないものだ。

島唄の話を読んだ友人から、
沖縄の那覇に東南アジア最大の奴隷市場があったことを教えてもらった。
薩摩に征服された琉球王国から
琉球の人が中国大陸や朝鮮半島はもちろん、
台湾やインドシナへ売られていったという歴史があそうだ。
また、島津は漁業で生計と建てていた琉球人に
サトウキビ畑を作らせ、収穫できた砂糖をすべて召し上げた。
税率100%で。
これを黒砂糖地獄といったそうだ。
こんなダーティーな歴史はもちろん学校では教えてくれない。
沖縄の人たちの「本土」への複雑な思いは、
何も大戦の時からだけじゃないんだなと、
こんなことを知って、ようやく思い当たったりする。

最近騒がれている有事法についてもなんだか
わかったようなわからないようなだし、
過去のお話になってしまうと、
それこそ興味がなければ知らないまま。
人のことを言ってる場合じゃない。
自分の足元は、一体どうなってるんだろうか????


2002年05月05日(日) 嘘つきアラファト?

そのメールをもらった時、
自分のHPのパレスチナ関係のページに載せるか、
ものすごく迷った。
取りようによっては、完全にイスラエル人差別、とも
受け取れるような気がしたからだ。
でも、自分で止めておくのもなんなので、
流れていく掲示板に載せ、そしてほんの数人の人にだけ
そのメールを転送した。

そうしたら、仲のいい友達から、自分の体験談として、
留学中にそのメールと同じような(そしてもっとひどい)ことを
イスラエル人との対話の中で経験した、というメールをもらった。

どうやら、イスラエルでは私たちが思っている以上に、
情報が統制されているようだ。
彼らに言わせると私たち外国人は、
「嘘つきのアラファト」にだまされているらしい。
パレスチナ側は、わざと悲惨な状況を写して、
(そしてそれは時によるとパレスチナ側の自作自演ということか)、
それを海外に流して、自分たちの有利な情況に利用している。

でも、私たちが見ているもの、
それは紛れもない事実で、
そして多分、イスラエル人よりももっとたくさんの情報を、
日々色々なところから得ることができる。
イスラエル寄りのCNNでだって、
ジェニンやラマラで攻撃があったことは認めているのだから
(しかしCNNは絶対に「入植地」という言葉は使わないそうだ
あくまで「イスラエル領地内」)。

イスラエル政府が情報を統制し、
そのことで一般イスラエル人のパレスチナ人への
憎悪を煽り立てているとしたら、
イスラエル人やユダヤ人が、
自分たちが「差別されている」と思っても当然かもしれないと思う。
なぜなら、私たちにはイスラエルを非難する理由があるが、
イスラエルの人たちには、自分たちが非難される理由が
思い当たらないのだから。
嘘つきはアラファトで、汚いやり方で世界を動かしているのはパレスチナ。
そして自分たちはいわれのない理由で「今も」差別されている・・・。

一般市民には知らされていない情報を知っているからこそ、
イスラエルの諜報機関のシン・ベトの元長官、アミ・アヤロンのような人物が、
イスラエル政府のパレスチナ対策を非難できるのかも知れない。
事実を知っているからこそ。
知らなければ、どうだろう?

哀れむべきは、もっとも哀れなのは、
攻撃され奪われ続けているパレスチナ人の方ではなく、
イスラエル人の方なのかもしれない。
そして彼らがそのことに気がつくまでには、
どれほどの時間がかかるのだろうか。


2002年05月04日(土) 話して欲しい

この頃の私はめっきり愚痴が多い。
言ってもしょうがないと思うのだが、
言わないと余計にたまっていく。
だったら愚痴ぐち言わせてくれい!
という感じなのだが、
聞かされるほうはうんざりするだろう。
こうなってくると、仲が良いはずの母よりも、
少々煙たい(というかうざったい)はずの父親の方が、
なんだか話が合うようになってくる。
男も女もなく、仕事ってのは愚痴を言いたくなるものなのか。

その昔、今よりももっと世間知らずだった頃、
結婚する(付き合う相手でもいいけど)相手には、
家で絶対に仕事の愚痴なんていうやつは嫌!
と長いこと思っていた。
こっちが知らない話を、しかもどうにもならないことを、
聞かされるなんてうんざり、
そう思っていたのだ。

でも、自分も大分長く働いていて、
段々考え方が変わってきた。
どうしても、ぶつぶつ言いたい時がある。
そしてぶつぶつ言える相手というのは、
やはり心を許している相手に限られる。
だから、親に甘えてぶつぶつ言ってしまうし、
奥さんや恋人にぶつぶつ言いたい時もあるだろう。

たまたま好きになった人があまり愚痴を言わないタイプだったりすると、
無理しないで、私に愚痴って欲しい、と思うようになっている。
その愚痴がうざったい時も確かにあるだろうけれど、
「私」には話して欲しいのだ。


2002年05月02日(木) アルゼンチンの島歌

朝、寝起きにぼーっとテレビを見ていたら、
数年前に流行ったBOOMの島歌がかかった。
どうやらこの島歌、今大不況で銀行もまともに動いていない
アルゼンチンで大流行しているらしい。
ワールドカップアルゼンチン代表の応援ソングにもなったとか。

聞こえてきたのは「日本語」、
でも歌っているのはひげ面のアルゼンチン。
この方、アルフレッド・カセーロ氏をいう
アルゼンチンでも有名なコメディアン兼プロデューサーだそうで、
ブエノスアイレスの日本料理レストランで島歌を聞いて、
すぐにレコーティングを決めたそうだ。
ブエノスアイレスでリサーチしたところ、
本当にみんな知ってる、知ってる。
子どもも大人も、みんな歌える。
「意味はわからないけどね〜。」
意味はわからないけれど、この歌には何か郷愁とかそう言うものがある。
だから日本語のままで歌うことにしたと、カセーロさんが言っていた。

知らなかったのだが、アルゼンチンにいる日系の方々の
実に90%が沖縄出身だそうだ。
彼らにはきっと、懐かしい響きをもって聞かれているのだろう。
カセーロさんの島歌にも日系2世の女性が参加している。

この曲を書いた宮沢和史さんがブエノスアイレスを訪問したそうで、
その様子を朝のテレビで放送していたのだが、
日本庭園に5000人の群集を集めたミニライブの様子を
最後まで見られないのがとても断念だった
(遅刻してしまうので、途中で家を出てしまった)。
日系の人ではなく、極普通のアルゼンチンの人が
島歌を聞き、一緒に歌い、そして涙ぐむ。
日系の女性は踊りだす。

世界は確かに、国を越えて1つになれる。
それは今言われているような「グローバル化」ではなく、
その時、その時、様々な文化や国を媒体として。
それが日本の歌のこともあるし、
踊りや、料理や、とにかく何でもその媒体になりうることが出来る。
横並びにならなくても、同じ言葉を話さなくても、
宗教も文化も違っても、
人が人を思う気持ちの、一番底の所は、
やっぱり同じなんじゃないかなと、
駅までの道を、自転車に乗りながら思ったのだった。

いい、朝の始まり。


2002年05月01日(水) ユダヤ人に招待されたら。

サウジ在住の友達からあるコラムを教えられた。
それはNYに長く住み、出版関係の仕事をしている日本人のもので、
「果たしてイスラエル人はパレスチナ人をいじめているのか」
という題名だった。

出版関係の仕事をしているゆえか、
どうもこの人はユダヤ系アメリカ人の友人が多いようだ。
ユダヤ教で最も大事な過ぎ越しの祭りに招待され、
あからさまにパレスチナ非難をするユダヤ人の言葉を、
ちくいち納得し、上記のような題名の文を書いたのだろう。

NY在住のユダヤ人が言うことは、嘘ではない。
イスラエル建国時に、ユダヤ人に土地を売ったパレスチナ人は、
確かにたくさんいた。
そして現在、アラファトにはパレスチナを指導する力など残っていない。
アラブ諸国はパレスチナ問題にかこつけて、
自国の利権拡大を確かに狙っている。
しかし、もしアラブ諸国がイスラエルを承認したとしても、
その見返りに占領地からの撤退をイスラエルがするなんて、
これらのユダヤ人だって思っていないだろうし、
今現在難民となった人たちのほとんどは、
武力でパレスチナを追い出された人たちであるし、
アラファトの力をもぎってきたのは、
イスラエル(とアメリカの)の作戦の賜物である。

まあいい、そんなことを言ったところで、
しょせんは「パレスチナへの身贔屓」と言われるのがおちか。
私がパレスチナ贔屓のように、
誰が、どんな意見を持とうとも、
それはその人の勝手である。
しかしせめて、このコラムニストの方には、
ユダヤ系アメリカ人だけでなく、
アラブ系、パレスチナ系アメリカ人とも付き合っていただいて、
ラマダンのイフタールや、イードルアドハーなどにも招待してもらって、
今度はアラブ、パレスチナの意見を聞いてきてもらいたいものである。


2002年04月30日(火) アフガンルックと・・・

今年の春から日本で流行っているものに
「アフガンルック」なるものがあります。
このアフガンルックはある大判のスカーフを
首に巻いたり腰に巻いたりすると言うもので、
男女兼用。

でこのスカーフ。
アラビア語ではクイーフィーヤ、と言います。
アラファト議長が頭にかぶっている、
黒と白のだんだら模様のあのスカーフのこと。
ちなみに黒白はパレスチナ、
赤白はあのあたりのベドウインのもの。
まあ、他にも色々色はありますけど、
この2つが代表的。

これをどうして「アフガンルック」と言うのか、
某雑誌の特集を読んでも全然わかりませんでした。
どうも、米軍のアフガン侵攻の前後に、
某アイドルなどが身に付けたのがきっかけらしいけど・・・。
どう考えてもターリバーンも北部同盟軍も、
クーフィーヤを身に付けているところはほとんど
(いや、全く?)目にしたことがないので、
まあ、国内の何かがきっかけなんでしょう。

それで、昨日私はパレスチナ支援のピースウオークに参加してきました。
渋谷から原宿にかけて、1200名が
イスラエル即時撤退、暴力的支配停止を求めて歩いたわけですが、
目的が目的なので、参加者の中には、
このクーフィーヤ(アフガンルック)を
身に付けている人がかなりたくさんいました。
そして、参加していた在日パレスチナ人の人たちは、
パレスチナの国旗とともに、
この黒白のクーフィーヤを掲げて歩いていたのです。

渋谷、原宿と言ったら、「アフガンルック」のまさにメッカ。
きっとこのパレードを奇異の目でみていた群衆の中にも、
「アフガンルック」の若者たちがいたことでしょう。
そうして、
「パレスチナに平和を!」
「子供たちを殺すな!」
「イスラエルは撤退せよ!」
と声を嗄らして叫んでいるパレスチナ人たちが、
自分たちと同じ「アフガンルック」であるのか、
知らない若者もたくさんいたと思います。

「ええ〜、なんであの人たちも私たちと同じスカーフ持ってるの?」
「しらないけど、平和を求める行進だからじゃない?」
などという会話が交わされている状況を想像してしまいました。

自分たちが身に付けているものにどんな意味があり、
それが生まれたところがどんな状況になっているのか、
きっかけは何でもいいから、
知って欲しいと思ったのです。
そして知るべきである、とも思います。


2002年04月29日(月)

イスラエル軍によるパレスチナ自治区への侵略が始まってから、
パレスチナ側のどんな悲惨な状況を聞いても、
ジェニンで殺された人たちのむごたらしい遺体の写真を見せられても、
私は決して、涙を流すことはなかった。
そんな、生易しいな気分にはなれなかったし、
こんな場所で私がおセンチに泣いたところで、
パレスチナの人たちはうれしくないだろうと思った。
悲しみや哀れみよりも、怒りが、
やり場のない怒りの方が大きかったのだ。

しかし、この一連の日々の中で、
私は初めてどうしょうもない悲しみを感じた。
涙が勝手に溢れてきた。
それは、イスラエルの領地での兵役を拒否する予備役兵の団体から
送られてきた、彼らの言葉を読んでいる時に。

「ラマッラーへ行けば、私は自分の家族を殺すことになるでしょう。
もはやアラビア人への憂慮、そればかりでないのです、
そのすぐそばには私の家族がいるんです、、、 」

「一番辛いのは、民家に押し入ったとき、
それがごく普通の人々の家庭だと気付く時です、  
怯えた子どもが私を凝視するとき、私は目をそらすことすらできません、」  
彼ら、イスラエル兵士の多くが、家庭では父親である。

「私たちだって、こんなところにいるより、家に帰りたいんです。」

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/4558/yeshgvul.htm

どうしてこんな風になってしまったのか。
どうして、彼らのように思える人たちが、
裁判にかけられ社会的制裁を受けなくてはならないのか。
そして、今回の攻撃にも、まだほとんど訓練を受けていないような、
徴兵された若者たちががたくさん混じっていて、
彼らが自分たちの命にしがみつくがために、
パレスチナ側に甚大な損害を与えていることもあるだろう。

攻撃されている人々と、
攻撃している人々と。

イスラエル政府は、そしてそれをサポートする人々は、
どちらにも取り返しのつかない傷を負わせる。

その傷は、私のようなものには、
到底理解できない。
そのことが、とても苦しい。


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