ぶつぶつ日記
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2002年08月04日(日) セミの一生

今朝、出かけようと思ってドアを開けたら、
片羽が破けたセミが、ドアの前に落ちていた。
死んでるのかな?と思って、そっと足でつついてみたら、
負けん気たっぷりに、じじじじと動いた。
きっと、帰ってくる頃には死んでしまっているんだろうなと思いながら、
セミをまたいで、出かけた。

先日エジプト人と話していた時のことだが、
何が嫌だって日本の夏。
それはセミの鳴き声だという。
どうして駆除しないのか、不思議に思うらしい。
ただただ、うるさいだけなのに。
セミの声を騒音と感じる人種は多いのだそうだ。
あんなものを風流というご危篤な人種は日本人だけ?
とにかく、一部アジア人だけが、セミを単なる騒音とは思わないらしい。
確かに、セミもうるさい。
でも、もしセミを薬で駆除する、という話が出たら、
大体の日本人は、何となくしっくり来ない、
腹立たしい気持ちがするんじゃないかと思う。

せみの鳴き声が好きってわけじゃないと思うけど、
きっと私たちはせみの一生に、何かを感じるんだと思う。

10年近くもじっと土の中で時を待って。
待ちすぎて、出てこようと思ったら、
上はコンクリートになってしまっていて、
そのまま朽ち果ててしまっているセミも、
何億もいるだろう。
ようやく、外に出ても、生きているのはほんの一瞬。
鳴くだけ鳴いて、7日で命は終わる。
10年と7日と。
セミは、どんな時間の長さを感じているんだろうか。
長いのだろうか、10年は。
そして7日は、短いのだろうか?

夕方、家に帰ってくると、やはり片羽のセミは死んでいた。
それを悲しいと思うほどセンチメンタルではないが、
私は思い出す。
「ただ、生きるだけが人生ではない。どう生きるかである。」


2002年08月02日(金) 奪うもの、落ちていくもの

ずっと、不思議だった。
タイやフィリピン、カンボジア、ネパール、
とにかくどこでもいい、児童買春をする人たちは、
日本に帰ってきて、何食わぬ顔で生活しているのだろうか?
一つには、これらの国々で児童買春を行っているのが、
私が想像していたような年配の男性だけではなく、
20代のいわゆるバックパッカーなどの若い男性が多く含まれていると
知ったからだ。
彼らは、ただ子供を性対象として買うだけではなく、時には暴力も加え、
それを得意げに宿の情報ノートに書き綴ったりする。
日本に帰ってきて、やがて結婚して子供が生まれて・・・・。
その時に初めて、良心にさいなまれるのか・・・。

友人がインドであった子供はどうみてもまだ5歳児くらいで、
しきりに自分の口を指差し、5ルピーを連呼する。
最初は意味がわからなかった友人はやがて、
その子がまだあまりにも小さいので性交渉自体はすることができないが、
5ルピーでフェラチオしてあげる、と誘っているということに気がついた。
同宿の日本人たちは、まるで子供を買いに行かない男が意気地がないかのように
笑ったという。

ほんの子供のうちに、買われた人間(幸いにもこれは日本人ではありませんが)により、
膣内にバイブレーターを押し込まれ、取り出すことができずに、
のた打ち回って死んでいった女の子もいる。
(http://www15.tok2.com/home/denpakids/childproblem.htmlの児童買春、
児童買春についてのロザリオ・バルヨットちゃんの話をご覧ください)

これらの人々は、国に帰ってどんな生活をしているんだろう?
普通の会社員として、恋人として、夫として、生活しているんだろうか?

子供たちは貧しさゆえに落ちていく。
買う大人たちは、どのように落ちていくんだろう?
色々調べていくうちに、海外における児童買春が
海外で子供たちの被害だけにとどまらないことを知った。
海外で児童買春を行ってきた者たちがやがて、
自分の子供や孫に、性的虐待を行う実態が、日本でも見られるようになっているという。
被害は女の子だけにとどまらず、男の子にもおよび、精神的肉体的に果てしないダメージを与えてしまう。(小学校低学年で性的被害にあった場合、
女の子は完全に子宮が破られ、男の子は腸に被害が及ぶそうです)。

声を大にしていいたい、望んで体を売っている子供は一人もいない。
今自分の欲望のままに行っていることを、
正当化できるなんら根拠はなく、
それは犯罪以外の何なにものでもないということを。

子供たちを傷つけ、時には命まで奪っているのは大人の勝手な欲望だ。
そして、何もわからないままに被害にあい、
蝕まれていく子供たちを守っていくのも、
やはり私たち大人以外にはないのだ。
私は守っていきたい。
奪うものにはなりたくない。
そして私の愛する人たちにも、奪うものにはなってほしくはない。


2002年08月01日(木) 峠を1つ・・・

昨日で試験が終わりました。
今学期は提出課題の成績がかなり良かったので、
テストが少々悪くても大丈夫かなあ?
そう言う問題じゃないのか(^^;)。

いつも単位認定試験の時しか学習センターに行きません。
大学のサイトで調べたら、
そろそろ卒論申請のガイダンスができているようなので、
テストのついでにもらってきました。
単位数が心配だったのですが,
2学期(つまり次の学期)で、その指定単位数があればいいみたいなので、
とりあえず、申請をしてみようと思っています。

けれど、もともと計画的に単位を取っていたわけではないので,
気がついたら、専門科目がまだまだだった( ̄□ ̄;)。
昨日慌てて何度も計算してしまいました。
でもこれもこれから考えて科目申請すれば大丈夫そうです。
今学期の科目も偶然専門科目ばかりだったし。

そう考えても、最短で卒業できるのは再来年の3月。
下手するとその次の年まで引っ張るか(これは逃れたい〜)。
でも、長い道のりの、峠を1つ乗り越えた感じがして、
ちょっと明るい気分になっています。
峠の茶屋で団子を食べてる気分です(笑)。
さて、次の峠に向けて、また進んでいきましょう。


2002年07月30日(火) ただいま試験期間中

通信制の大学生をやっているので、
時折試験がやってきます(^^;)。
ただいま試験期間中ですので、
日記はお休みさせていただいてます。
ご了承くださいませ。


2002年07月29日(月) 自由と制約

自由と言うものは、実はとても制約が多く、
自分自身を律しなくては、
手に入れられないものだと私は思っているが、
そう言う風に思う人は少ないんだろうか?

こう言う立場だからこうしなくてはいけない、
そう決められてしまうのは、私も大嫌いだが、
だがその立場になってしまった時、
そうせざるを得ないことも確かにあると思う。

責任。
自由には責任が常に付きまとい、
責任が取れないものに関しては、自由など手に入らない。
そして責任が時として足かせとなって、
自由を阻むことがある。
それをどう懐柔し、どう自分なりにつじつまを合わせるのか、
とても難しい問題ではある。

子供を連れてパチンコ屋に行ったり、
ゲーセンに行ったり、
そして目を離した隙に子供を誘拐され殺されたり、
事故に遭ったり・・・。
子供を連れて行ってはいけない場所と言うのが
絶対にあって、
自分が行きたい気持ちを抑えなくてはいけない、
それが親になることのような気がするし,
自分が楽しみたいから、家庭をおざなりにするのだったら、
結婚などしなければいいと、実際に思ってしまう。

人生は全てが完璧ではなく、
何かを望んだら、何かを我慢する。
その繰り返しで成り立っていると思う私が、
悲観的過ぎるのだろうか。


2002年07月28日(日) がんばる気持ち

今日は、ひさしぶりに旧ソ連圏で日本語教師をしている
一時帰国中の友達と会った。
私よりも少し年上のその人も、
一度日本語教師になってから大学に入りなおした人で、
何くれとなく私のことも気にかけてくれる。

私は専門学校しか出ていないので、
日本語教師として海外でビザを取ることは、
このままでは出来ない。
だから、養成講座を終了してから、
ちまちまと放送大学での卒業を目指しているのだが、
これがなかなか、進まない(^^;)。
曲がりなりにも日本語教師の端くれとして今現在仕事をしていて、
時折、目の前のことばかりが忙しくて、
自分がどうして勉強しているのかわからなくなってしまって、
いっそのこと、やめてしまおうか、と思ったこともあった。
でも、なんとか卒論が書けるくらいまで単位がたまってきて、
もう少し、ぼちぼちがんばるしかないな、
と最近また思い始めていたところで、
彼女と会った。

彼女の仕事の話もとても刺激になったし、
学士の資格があれば、
今とは違った道がまた開ける。
色んなことが出来る人だから、
将来的な心配はしないで、
がんばって卒業するんだよ。
そう言われて、本当にうれしかった。

そう言う気持ちで彼女と別れたあと、
プライベートレッスンを教えに行くと、
そのレッスンをとても楽しみにしていてくれる人もいて、
これまたがんばろうと言う気持ちになる。

人は一人ではがんばれないんだな、と思った。
色んな人に、がんばる気持ちをもらっているんだ。


2002年07月26日(金) 幸せじゃ、ないの?

自分のみに降りかかったわけではないけれど、
午後から怒涛のようなことがあって、
ちょっとびっくりしてしまった。
どうして、そんな風に、意地悪に考えられるのかな〜?
とても不思議。

仕事に厳しい、のと、
意地悪、なのと。
一見同じだと思っている本人たちがいるけれど、
はたから見ていると(特に当事者ではないと)、
意地悪か、そうでないのかはすぐわかってしまう。
仕事に厳しい人というのは、
確かに厳しくてむっとする瞬間もあるけれど、
ある一瞬に、その人の懐の深さとか、
優しさを感じられるものだけれど、
本人が「仕事に厳しい」と勘違いしている意地悪な人は、
どこまで行っても、優しい一瞬なんてこちらにはわからない。

一応、人から憧れられる仕事をしていて、
ある程度の地位にいて、
でも、どうしてあんなに意地悪なんだろうか?
それって、やっぱり幸せ、じゃないのかなあ。
そんな風に、イジワルに考えてしまった午後だった。


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