ぶつぶつ日記
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ひさしぶりにスピッツの新譜を買った。 ちょっとした言葉の使い方が、 相変わらず良いな〜と思う。 その中で、 「あきらめないで それはかすかに 未来に続くけもの道」 と言うフレーズがあって、 ああ、そうかと思った。
未来への道は、一本の明るい道なんかじゃなくて、 いつ、藪の中に消えていくかわからないような、 細くてはっきりしなくて、不確かなもの。 途中でどんな獣に襲われるかわからない、 でも、そこを通っていくのもまた獣で、 道は確かにある。
手探りで、不安を抱えて、 でも藪をかきわけていこう。 思いもかけない場所に、出てしまうことになっても。
2002年09月12日(木) |
リビアから、シリアまで |
昨日はテレビも見ずに、できるだけ普通の日みたいに過ごしたかった。 普通に、ご飯を食べて、お風呂に入って、本を読んで、電話をして。 できるだけ、普通に、普通に。 そんな中で、ふと思い出した人たち。 もう顔も思い出せない、一瞬の出会い。 それはシナイ半島のヌエバでのこと。
ヨルダンに住むパレスチナ人の家に遊びに行くため、 ヌエバの海辺のキャンプでカイロから一緒に来た友人たちと別れ、 少し大きい荷物を持って、1人フェリー乗り場に向かったのは何月くらいだっただろう。 今はどうなっているかわからないけれど、 その当時のヌエバポートのチケット売り場は、 一日ずっと開いているわけではなく、一定の時間にならないと開かないのだった。 その掘っ立て小屋のようなチケット売り場の前で、 ようやく来た役人を見てわらわらと殺到する乗客たち。 全くエジ式、秩序や順番なんてものはない。 ここで負けていてはならないので、私も参戦していると、 1人の人が「アーイザ・サリーア?」と聞いてきた。 そう、早いボートのチケット。 お金を渡して戦線を離脱して待っていると、 そのおじさんが何枚かのチケットと一緒に、 私のも買って来てくれた。 お礼を言って荷物をもってゲートに向かおうとすると、 ミニバンの横でそのおじさんが手招きする。 「乗って来な。」 チケット売り場からフェリー乗り場までは、 たっぷり5分はかかりそうなくらい、離れていた。 ミニバンの中は、むさっくるしいおじさんばかり。 でもエジプト人じゃないのかな?矢継ぎ早には質問してこない。 バラックみたいなだだっ広いフェリー乗り場でまたお礼をいって、 ミニバンから降りた。 おじさんたちはとにかくすごい荷物を持っているので、おろすのにも時間がかかっていた。
さて、一人旅だが、こう言うところに来ると、ちょっと問題が起こる。 私は結構トイレが近いので、その時に荷物をどうするか。 エジプトのトイレにこんなボストンをかけておくところはない。 そして多分、待合室がこんな状態では、トイレの床も荷物なんて置けるわけないだろうことは 簡単に想像できた(笑)。 誰かめぼしい人物はいないか。待合室をきょろきょろすると、 そこには白人の旅行者たち(主に年配)ともちろんエジプト人らしき人々。 そして、先ほどのおじさんたち。 うーーーーーーん。 背に腹は変えられない。私は腹をくくって先ほどのおじさんたちの所に向かった。 「すみません。ちょっとトイレに行きたいので、荷物見ててもらえますか?」というと、 「タバーン(もちろん)、行っておいでー。」とおじさんの1人が荷物を持ってくれた。
腹をくくる、とは。 そう、ここでこんなことを頼んでしまったからには、すでに私たちは「他人」じゃないわけで、 袖触れ合うもなんとやら、度は道ずれ世は情け、になってしまうことは確実だった。 トイレから戻ると待っていたとばかりにおじさんたちに囲まれての質問大会。 何人だ?どこに行く?何してる?カザカザカザ(e.t.c…)。 こちらも負けじと聞き返すと、おじさんたちはみなシリア人で、 長いリビアでの出稼ぎ生活を終えて、国の家族に帰るところだった。 周りの旅行者がちょっとざわめく。 アラブ人に囲まれてアジアの小娘が何をしているんだ?って感じで。
フェリーに乗ってからも、席はおじさんたちと一緒。 出発を待っている間に、1人のおじさんがサンドイッチとソフトドリンクを買って来てくれた。 もちろんおごりで。 ヨルダンのアカバポートについてからも、おじさんたちと一緒だったが、 税関を通る段階で別々になった。 大量の荷物をいちいち開けさせられたおじさんたちは、 ここでまたミニバンをチャーターして今日中にヨルダンを抜け、 できるだけ早くシリアに入るのだと言う。 アンマンまで乗っていくか?と言う誘いを受けたが、 体力的にきつかったので、その日はアカバに泊まることにしていた私は、 ここでおじさんたちと別れた。
おじさんたちがリビアに行った時、シリアからリビアまで飛行機で行ったという。 長い出稼ぎ生活が終わってみたら、 リビアは飛行機を飛ばせない国になっていた。 (そう言えば、カイロのタハリール近くにあるリビア航空のオフィスも、 看板はそのままに無人のままだ。) そう大笑いしながらおじさんたちは荷物を持って、 リビアからシリアまで、延々とミニバンで帰る。 多分国境は、荷物を担いで歩いて渡り、 ボーダーで待っているミニバンと交渉し、また国境まで。 そのくりかえしを何度もして、彼らは国に帰っていく。 リビアのカダフィ大佐だって、大人しくリビアにいるだけじゃない。 黄色いロールスロイスをぶっ飛ばして、カイロにやってきていたし、 カイロの空港であったイエメンの大学の先生たちはコンファレンスのために、 イエメンからカイロ、カイロからマルタ共和国、 そしてマルタからフェリーでリビアまで、 アメリカの思惑や国連の決まりの上を、ひょいひょいと移動しているのだ。
経済封鎖をしても、制空権規制をしても、 彼らは国を渡っていく。 アラブの中にはアラブの中での人の流れがあり、 それは誰にも止めることが出来ないし、実際に存在しつづける。 いまだにキューバのカストロも健在、 リビアのカダフィも健在、 そして空爆を繰り返しても、イラクのフセインも健在であるのだろう。 傷つき憎悪を募らせるのはきっと、おじさんたちみたいな、普通の人々だけだ。
あの日である今日に、語るべきことはあまりない。 ただ、自分の心の中の闇を、どうしたらいいのか考えるだけだ。
今日の前日である昨日、 同僚と話していた時の事。 彼は「明日もまた何か起きないかな。実際、ざまーみろと思った。」 と平然と言い放った。 彼は常識知らずの人ではないし、 人の痛みがわからない人でもない。 多分、あの日に亡くなった方には同情もしていると思うが、 それを「アメリカ」という国を主語にして考えた時、 実際に「ざまあみろ」と言う思いを持っている。
そう言われて、それを「なんてひどいことを言う」と 糾弾できない自分が確かに存在する。 そしてもっと悪いことに、 私は彼のように、自分の気持ちをストレートに言い切ることができない。 なんたる中途半端、何たる偽善。
亡くなった人たち、亡くした人たち、傷ついた人、それを見守る人、 全ての人に対して、同情を感じている反面、 「アメリカは攻撃されても仕方なかった、 そして今度も攻撃されても仕方がない。」 と思っている自分が存在する。 「ざまあみろ。」とまでは思わなくても・・・。
醜い心をさらけだし、 それを浄化できる力が欲しいと思う。 今日は一日、自分の心の闇と、ひっそりと向かい合う。
1年が経とうとしている。 テレビや新聞、雑誌など、目に付くメディアの全てが、 あの日の特集を組んでいる中で、 明日が来る前に少し思い出そう。 明日の出来事ではなく、その他の、本当に色々な出来事を。 なんとたくさんのことを、私たちは忘れてしまっていることか。
例えば、チェルノブイリ。 土地はまだ荒れ、人は住むことが出来ない。 村は地下に埋められ、人々はその場所に戻ることが出来ない。 そして、あの当時幼くして被爆した子どもたちは、 どんどん成人している。 彼らのほとんどは甲状腺ガンやその他の病気を発病していて、 恒常的な治療の援助が必要なのに、 資金難から、18歳になるとその治療援助が打ち切られてしまうという。 そうなると、体に時限爆弾を抱えたまま、 医者に検査に行くことも出来ず、 肉体的にだけでなく、精神的にも病を抱えて生きていかなくてはならない。 なぜなら甲状腺をとってしまうことで、 女性も男性も、本来の体のバランスを失ってしまい、 それはありとあらゆる部分に軋みを生み出していくから。 体が出す悲鳴を受け取りながら、彼らにはどうすることも出来ない。 満足な治療を受けることすら出来ないのだ。
例えばイラク。 湾岸戦争のときに使われた劣化ウランの調査は全く進んでいない。 その中で空爆が行われようとしている。 一日に何度も警報が鳴り響く生活の中で、 生まれることなく死んでいくたくさんの子どもたち。 連続して5回も流産した女性、 生まれて来ても、「人間」として形を成しておらず、 ただ死んでいくのを待つばかりの赤ん坊。 それをむなしく見ているしかない医師や看護婦。 そこまで悲惨ではなくても、たりない物資。 子どもたちの勉強に必要なエンピツさえ、 武器に使われる可能性があるということで、 輸入が規制されている現状。
そして、コソボは?グアテマラは? ルワンダや、コンゴ、 クルド人たち。
私たちが忘れていくもの。 見えなくなっていくもの。 その全てが、私たちの現在の平和に、 しっかりと確実に、黒い影をおとす。 光が当たっている部分は、 私たちが見ているものは、 あまりにも小さく狭く、そして偏っている。
色々決めることはあるのだけれど、 結構すぐに三日坊主になってしまう(^^;)。 あれもこれも、、、なハズなのに、 気がつくと続いていなかったりして。 その反面、何となくずーっとやっていけることが少しはあって、 その境目はなんなんだろう?と時折考える。
基本的に、私は自分に対してすごく甘い。 絶対に無理をしない。 無理をして後からその付けが回ってくると、 途中で中休みをした時よりも、 もっとたいへんになっちゃうんだよ、 という至極最もな理由を自分につけて、 適当なところで、だるだるしてしまう。 いかんな〜と思う反面、 だからこそ、割と体も丈夫で大病はしないし、 糸が切れた凧のように、精神的にふらふらのどん底に 落ちることも少ないような気もする。
無理に全てを続けようとすると、 やはりどこかで無理が来て、 何もかもいやになってしまうんじゃないかと思う。 続けられることを続けるというのも、 実はとても大切なことなんじゃないかと、 今日も自分を甘やかすのだった(苦笑)。
2002年09月07日(土) |
現実はキビシイ・・・ |
ああ〜、またブルーになってきた。 理由は今日届いた放送大学の単位認定書。 今年の2学期、受講申請を忘れた馬鹿な私。 来年卒論を書きながら、 これだけの残りの単位を取るなんて、 絶対に無理、なように思う。 いや、これは悲観的になっているのはなく、 冷静な観察。 だからブルーになる。 ああ、現実は厳しいなあ、時として、やっぱり。 深く沈没・・・。
授業をしていないと、だんだんその楽さに慣れてきてしまって、 いざ明日から授業!と言う日になると、 それなりに憂鬱になったりしてしまう(^^;)。 準備が〜、とか、 この文型嫌い〜とか、 明日の授業大丈夫なのかあ?>自分、とかとか。
しかし実際に授業に入ると、 やっぱり「おもしろ・・・。」と思う自分がいて、 ふふふーん♪と鼻歌を歌いながら教室を後にする。 でもその次の日には、あまり授業がうまくいかなくて、 意気消沈してすごすごを教室を後にしたり・・・。
あっちへこっちへ行きながら、 また新しいクラスがはじまりました。
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