ぶつぶつ日記
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2002年11月06日(水) 不機嫌姫

とりあえず、私はマンウオッチャーだと思う。
だから旅行も、動物や自然がわんさかの所よりも、
人がわんさかいる所のほうがいい。
ペットよりも人間の子供の方が好きだし。

そんな私の楽しみ(?)はもちろん電車の中での人間観察。
何せ、長距離の飛行機の中でも寝られないくらいなのだから、
電車の中で爆睡できるわけもない。
薄目を開けつつ、観察時間。
街なかでも、よく人を見ているほうだと思う。
だからおもしろい人やへんな人を見つけるのも得意。
そして、自分が女だからか、
やっぱり男性よりも女性に目が行ってしまうのは、
致し方ないところ。

最近は、ずいぶんと不機嫌な子が多い。
もちろん、人間生きていれば嫌な方が多かったり、
そうそう楽しいことばかりあるわけではない。
せっかくおしゃれしても、満員電車は不快だし。
それにしても、なんであんなに怒ってるんだろう?
それがまだ、高校生ってのなら理解の範疇。
そう言う年齢です、着たくもないのに制服を着せられて。
自分じゃ大人だと思っているけど、社会的にはまだまだ子どもで。
でも、そうじゃない。
最近は自分で働いてきれいなかっこして、
それなりに趣味の道具を持っているのに、
不機嫌姫なOLさんがなんだかとっても多い気がするのだ。
一番、楽しいんじゃないかなあ?
一番好きなことができるんじゃないかなあ?
まだまだ未来も明るいって気がする時期じゃないかなあ?
社会が暗くても、まだ自分の生活にはそんなに影を落としていなくて。

多少無理しても、明るい顔をしていた方がいいと思う。
デリカシーがないやつ、とか、
悩みがないっていいね、とかって言われてもいいじゃない。
少なくとも不満たらたらな顔をしていて、
「暗いね。」とか「いつも怒ってるね。」なんて言われるよりは
いいと思うけど。
それにいつも元気印が時折元気がなかったら、
「どうしたの?元気ないね?」
と、みんなが気がついてくれることもある。
でもいつも不機嫌だったら、そんなこと誰も言ってくれない。
そしてそれはとても寂しいことで、
ますます不機嫌姫は不機嫌になっていって、
しまいには気がついたら、不機嫌ばーさんになっているかも。
それはなんて恐ろしい・・・。


2002年11月04日(月) 働く男

以前、エジプト人の友人い家族の話をしていたら、
「cacoはお父さんの話はしないけど、やっぱりお父さんと仲が悪いの?」
といわれたことがある。
どうやら彼女の家庭は父親との確執があるらしかったけれど、
うちは別にそんなことはないし、
日本ではお父さんってのはあまり話題に上らないものなんだよ、
などと説明したことがあったが・・・。
たまには父親の話でも。

南北差というか、階級というか、
日本はそう言うものが少ない国だとは思うが、
それでもそれなりにそう言う差が存在すると思ったのは、
専門学校に入ってから。
私はいわゆる下町、
今は川の手といわれるようになっている地区に
生まれ育って、高校も同一エリア内だった。
町内を見回すと、背広を着て出かけるお父さんが極端に少ないようなところで、
大学進学率も高くはない、本当のブルーカラーレベルの地区。
それが、専門学校に入ったらもちろん色んな所から人が来ていて、
その中で先生が、
「大学に行っていないお父さんなんて少ないじゃない?」
と言っていたのは結構衝撃的だった(笑)。
この学校のある程度年齢のいった先生たちは結構お嬢様が多かったので、
住んでいるのも山の手が多く、
父親が大学の先生や一流会社のお偉いさんってのも
珍しくないのだった。

ところが、うちの父は大学どころが高校も、中学だってろくに出ていない。
うだつのあがらない父親という家庭環境の中で兄弟の長男だった父は、
戦後のどさくさで働きに出て、
長じては自分ひとりで小さな町工場をやっていた。
母の実家に里帰りする短い連休のために、
夏の夜の連日、食事が終わって私たちを寝かしつけてからも
遅くまで注文の仕事をやっていた父と母のことを、
今でも覚えている。

それが何がどうしたのか、
40も越えた頃になって、父はいきなり「会社勤め」に転向した。
つめの中がいつも真っ黒になる、
そして昼なお暗い工場で一人背中を丸めて仕事をするのが嫌になった!
そう言っていたと思う。
仕事は順調だったのだけれど。
調度、兄が高校受験の頃で、
母は家計のことをずいぶん心配したが、
止めるような母でもないし、止まるような父でもなかった。
しかし家族の心配をよそに、水質関係の国家資格などを持っていた父は、
結構あっさりと大きな時計メーカーの工場で勤務をはじめた。
と思ったらそれから数年後、
兄が21歳でずいぶん早い結婚をし、
初孫が生まれたとき、
途中入社のはずの父親に、東北の工場に工場長として単身赴任せよ、
という辞令が下った。
釣り好き山好き自然好きの父には願ったりかなったり、
の話だったと思うのだが、
父はあっさりその話をけって、仕事を辞める道を選んだ。
理由は初孫。
普通よりも小さく生まれたこの子に、
じーちゃんの顔を忘れられたら嫌だっていうのが理由だった。
母はまたしても家計に頭を抱えて、調度高校卒業後の進路を決める時期だった私に、
「お父さん仕事を辞めるって言ってるから、
もしかしたら一年働いて自分の学費を稼いでもらうかもしれない。」
と言った。
別に私も大して嫌ではなかった。
お父さんらしいねえ、全く・・・と苦笑したくらいだ。

ところがところが、これまた国家資格がものを言ったのか、
すぐに今までよりも近くに就職が決まって、
私は自分で学費を稼がなくても済んだのだ。
そしてそれからは、父は同じ会社でずーーーと働いていて、
実は2回も定年を迎えている。
60歳の定年と、嘱託の定年。
この会社でも異例中の異例なのだが、
定年して嘱託になっても、
本来嘱託を終了する年齢になっても、
父のお給料はほとんど下がらず、
ボーナスも年々上がっている。
よっぽどろくな社員がいないのかと、
家族は苦笑気味。
その上70に手が届こうとしているはずなのに、
この人はなぜかこの度「副所長」になってしまった。
これには家族、びっくり。
本社からの異例中の異例の辞令だそうだ。
先日、どうしても父の話を聞きたいので・・・
と言うので、本社まで呼ばれていったのだけれど・・・。

なんだかよくわからないけど、
家族としては大変ありがたい。
このせちがない世の中で、元気に働けるのは素晴らしいことだから。
しかし、私たちは知っている。
父が誰よりも裏表なく、出世欲も何もなく、
一生懸命働いてきたことを。
人の嫌がる仕事を率先してやり、
権力におもねることもなく、
まっすぐに生きてきたことを。
そして、そんな父に対してのご褒美が
まだ働けると言うことなんじゃないかと思う。
そして、たくさんいるであろう、
父のような人たちが正当に評価され、
いつまでも働けるような、そんな世の中であって欲しいと思う。

川の手のたくさんのお父さんたちは、今日もジャンパー姿で出かける。
学歴は確かにない。
でも私は彼らの娘に生まれたことを、恥ずかしいと思ったことはない。
学がなくても、素晴らしい人間はたくさんいる。
頭のいい、澄んだ目を持った人も。
そう言う人たちが、末端でこれまでの日本を支えてきた。
彼らをないがしろにし始めたとき、
日本の何かは、確実に壊れていったのだと、
私は思う。


2002年11月02日(土) 日本語教師残酷物語

とある日本語教師のサイトで、
「いかに日本語教師は辛いか」というスレッドがのびにのびて、
一向に終わりそうにない勢い。
どんな職業もやりきれない部分ってあるけれど、
日本語教師もかなりやりきれない職業。
愛情がなくっちゃやってられない職業だけど、
それにしても、あまりに労働条件が悪すぎて、
全然良くなりそうにないので、
余計にこう言うところで盛り上がってしまうのだろう。

多分、ここのスレッドに書き込みをしている人のほとんどは、
経済問題を切実に考えている人だと思う。
奥様だったり、おうちが裕福だったりする人にとって、
こんなにやりがいのある仕事はなく、
多分労働条件の悪さなんて、全然気にならないはずだ。
でも、男性や独身女性は思う。
「老後、どうするよ?」
年金もない、保険もない。
昇給も見込めない、年収は何年経っても増えない。
その年収は平均的サラリーマンの足元にも及ばない。
ないないずくし、ないずくし〜の年末がやってくる。

奥様先生が悪いとも思わない、
お金持ちなのも結構。
でも、世の中そうじゃない日本語教師もいる。
そして、色んな先生がいる方が、学生にもいいってこと。
少なくとも、自分の生活に窮していない、
老後の心配のない先生には、
現状の待遇を容認するような発言は控えてもらいたいと思う。
そういうことを、経営者は利用するのだから。
大体、日本語教師を目指している大学生に、
こんなことを言えますか?
「生活の心配のない人しか、日本語教師には向かないのよ。」
なんて?

私たち日本語教師の残酷物語はまだまだ続く。
でも荒唐無稽な理想が、つねに社会を変えてきた。
奴隷解放も、女性の参政権も。
最初は誰にも支持されなかった。
時には当事者たちからも理解されなかった。
でもあきらめなかったこと。
言いつづけたこと。
それが彼らの立場を変えたのだ。
私たちだって、変えられるかもしれない。
変えていかないといけない。
何もしないであきらめるのが、
一番どうにもならないことだと思う。


2002年10月31日(木) 愛がなくっちゃね

これ、私とある人の銀粘土制作上のモットーです。
こんなことは、もの作りをしている人なら
誰だってわかっていること。
極当たり前のこと。
でも、私が企業内でデザイナーをしている時は、
こんなことは感じられなかったし、
そんな事が嫌で、結局もの作りを生業にするのを
あきらめてしまった経緯がある。

当時はこんなに気楽にインディーズで作品を発表する場もなく、
フリーターっていうカテゴリーもまだなかった。
インディーズで作品を発表できていたのは、
もともと何らかの知名度や財力のがる人たちだけで、
一般学生にとってはブランドに入社するよりも
もっともっと難しいことに思えた。
専門学校に通っていたから、それなりに就職口はあったし。
でも問題は私や同じ学校を出た後輩は、
バックをそれなりに愛していたことだったのだ。
これが、もともとバックをそんなに愛していなくて、
デザインつながりで就職した人だったら、
矛盾は感じていても、それなりに「お金のため」と
割り切って考えられたかもしれない。
でも私たちはこだわって作りたかった。
営業の人たちが持って来て頼むような
「今売れているもののコピーライン」なんて作りたくなかったし、
作れなかった。
日本の企業内デザイナーは私が考えていたもの作りとは
あまりにもかけ離れていたので・・・。
こんな気持ちで一生働くことは出来ないし、
いいものなんて出来ないって思った。
ヨーロッパのブランドのように、腰を落ち着けたもの作りをしたかったのだ。
何年も使ってもらえるような、息の長い物を作りたかった。

後輩は先に会社を辞めた。
何とか自分で自分のものを造れる道を模索すると言った。
私は仕事以外にはけ口を求めた。
それがアラビア語で、
結局もの作りの仕事が2度と出来なくても良い、
とまで思ってカイロに行くことにした。

でもやっぱり・・・。
「何かを作る」ということにとても愛があり、
何かを作らなくてはいられなくて、
アラビア語のカリフラフィーをやったり、
イタリアにモザイクを作りに行ったり・・・。
莫大な時間とお金を費やして、
そうして出会ったものが、私にとっては銀粘土だった。

今、私の胸には銀粘土への愛が満ち満ちていて、
作っていてとても楽しい。
そしてそれをほしいと言ってくださる人もいて、
これまたとってもうれしい。
家内制手工業、
イタリアやフランスがモードの王国なのは、
今も小さなアトリエがたくさんあるからだとも言われている。
そして日本でも、ネットの普及で作品発表の場が
飛躍的に増えてきた。
あらたな家内制手工業の形態が生まれてきているのかもしれない。
小さくてもいい。
ずっと愛があるものを作っていきたい。


2002年10月30日(水) 元祖オリーブ少女的最近のマイブーム

私は元祖オリーブ少女であります。
最近オリーブはまたリニューアルして、昔のオリーブに戻ったので
大変ウレシイ。
よく立ち読みしてます。
さてさて、そんな元オリーブ少女な私の最近のマイブームは、
表参道アニバーサリーのカフェオレと、
渋谷マークしティーのドナテローズのアイスクリーム。
なぜか。
それはねー、思い出がいっぱい詰まっているから(笑)。

私がオリーブを愛読していた頃、
カフェオレボールなんて、
よっぽどおしゃれな店に行かないと売ってなかったし、
カフェオレボールでカフェオレを出してくれる店なんて、
恐れ多くて入れなかったんですね。
でもあの白いボールに憧れたんだよねー。
ストロベリーレッドのクリクリ天然パーマなロングヘアとともに、
自分にはどだい雲の上のものだった・・・(遠い目)。

そして専門学校に入ってからは、
ドナテローズのミルクティーアイスを食べるために、
わざわざ下北沢まで行ったりしました。
毎週色んな不思議なテイストのアイスが登場して、
三角のウエハースがまたおいしいんだ。
アイスを食べるためだけに電車に乗っていくなんて
(帰りは雑貨屋さんも見て回りましたけどね)、
今から考えると、すごい贅沢なことをしていたなあ・・・(これまた遠い目)。

アニバーサリーのカフェオレは正統的なカフェオレボールで出てくる。
そして仕事帰りに食べるミルクティーアイスはあいかわらずおいしい。
昔ほど、時間的贅沢ができなくなってしまった私の、
ちょっとした息抜き。
あの頃の無駄な時間は、全然無駄じゃなかったことを思い出すために。


2002年10月29日(火) パーティー、パーティー

カイロにいる時は、誕生日なのなんだの、
結構自宅でパーティーを気軽にした。
適当に食べ物を用意して、飲み物を用意して
(おあつらえ向きに私たちのアパートのすぐ側に、
なぜかビールを売る店があったのさ)、
適当に友だちを呼ぶと、
友だちが友だちを連れて来る。
気がつくと、知らない人がたくさんいるのだ(笑)。
家に人を呼ぶのは好き、パーティーをするのも好き。
でも、日本に帰ってきて、仕事なんて始めてしまうと、
なかなかそう言う機会ももてない。

昨日は渋谷のとある場所にあるおしゃれーなアクセショップで、
そんなパーティーがあった。
お呼ばれした時、正直内心びびってしまった私。
何せ、そのお店の商品はすごい素敵なのだ。
ほんまもん、なのだよ。
もちろん、自分の作るアクセに関して、それなりに自信はある
(仕上げの丁寧さには、自信ないけど−)。
だから人様に売ってみようと思ったのだし、
彫金やワックスについて、そんなに詳しく知らないけど、
「銀粘土の」私の作品を馬鹿にするなら、
あなたの技法で同じものを作ってみんしゃい!
と喧嘩を売る気持ちもある。
それでもやっぱり心のどこかで銀粘土って、どうなんだろう?
って言う気持ちもぬぐいきれない。
実際、彫金畑の人からしてみたら、
まだまだ「お手軽なホビー」って思われてるフシがあるし・・・。
せっかく声をかけてくれたのに、
もしそう言う状況になって、その場の雰囲気が悪くなったら、
申し訳ないしなーとか、
まあ色々考えてしまったわけですよ。

でもでも!
やっぱり本物を作る人たちは、本物なのだなー。
柔軟性というか、興味というか、
そう言うものがとてもあると感じた。
心が広い、なんでも面白がる。
だからこそ、素敵な作品が作れるんだね。
色んな人とお話しました。
久しぶりにパーティー、とても刺激的でした。


2002年10月28日(月) だから人は生きて行く

年を取ると、だんだんせっかちになっていくもんなんだろうか。
ニュージーランドのオリーブから、
今年はもうクリスマスカードが届いた。
まだ10月だっていうのに(笑)。
もしかしたら彼女は、
ニュージーから日本まで、手紙が届くのに
ものすごい時間がかかると思っているのかもしれない。
船便だったら、確かにずいぶんかかるのかな。
でも手紙は航空便で来る。
マドリッドで出会ってからもうずいぶん経つ。
もしかしたらオリーブは、もう80歳になっている?
封筒とカードの字は、小刻みに震えているけど、
まだまだ私にカードをくれるくらいには、
元気なんだろうと、ほっとする。

星の巡りの悪い年とか、運のない人とか、
極普通に生活していても、
むしゃくしゃすることとか、
人間生きていると感情がマイナスに傾きがちだけど、
時折、ふっと救われるような、
そこまで行かなくてもこそばゆくうれしいことがあって、
ああ、だから人は今までずっと、
何があっても生きてきたのだな、と思う一瞬がある。

オリーブから来るクリスマスカードは、
そんな気持ちを運んでくる。


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