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| 2004年05月16日(日) ■ |
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| 『ロード・オブ・ザ・リング』あるいは『指輪物語』の世界(原作編) |
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<原作編> 原作「指輪物語」を読み始める事はずっと躊躇していた。映画第一部を二回見て以来私は、この本を手にとることをずっと楽しみにしていたし、躊躇していた。この本にかかりきりになってしまうのでは無いかと怖れていた為だが、映画第二部が上映されるとあってはもう我慢できなかった。1冊目を読んで私は次第に指輪の「魔力」にからめとられていくのを感じた(笑)。フロドがガンダルフに指輪を受け取ってほしいと差し出したときに、彼があれほどに跳び上がって拒否しているとは思っていなかった。「わしを誘惑せんでくれ!わしにはそれを受け取る勇気は無い。…」映画では確か少し顔をしかめただけだと思うのだが、原作では顔を真っ赤にしてさまざまな言葉を連ねて断るのである。このときから指輪は単なる魔法ツールからこの物語を導く最も大きな力へと変貌していく。 『勇気』といえばこの指輪の所有者であることを引き受けたフロドは最も勇気ある者なのかもしれないが、彼とても迷いはある。森で出会ったエルフのギルドールは彼を慰めて言う。「勇気は思いがけないところに見出される。望みを持て!」思うに、この物語を予言する言葉であった。
「言葉」といえば、このあと原作にあるいろんな「名言」を引用したい。こういう名言に出会うことが長い時間を掛けて原作を読むときに楽しみの一つでもある。また到底引用は出来ないが、「旅の仲間」で特に健著なのであるが、様々な「歌」が作中で歌われる。古代においてはもちろん文字による歴史書もあったのだが、庶民にとっては「歌」によって歴史はまさに語り継がれたのであろう。中つ国における奥深い伝説も歌われるし、まさにフロドたちの冒険によってそのとき「伝説」になったばかりの「歌」も歌われる。まさに映画第二部の最後において、サムが「私たちもやがては語りつがれる物語の主人公になる」といったように。この本を読む(私にとっての)最大の喜びは、そういう「英雄伝説」誕生の瞬間に私たちが居合わせているという実感を持てる事なのだ。しかしその事に付いてはこの長い駄文の最後にいたってもう少し詳しく述べたい。
第一部最終巻での「言葉」。モリアの坑道の難から逃れ旅の仲間はロスロリアンの森に至る。迎えに来たハルディアは言う。「なるほど世の中には危険が満ちみちています。そしてあまたの暗黒の地があります。しかし美しいものもまだたくさんあるのです。そしていまや全ての国にあって、愛は悲しみと混ざり合っているのですが、それだけに愛はいっそう強まっているのかもしれません。」この森の描写のなんと美しいことか。神話世界が持つ言葉にならない美しさをトールキンは懸命に文字にしようとしたように思える。 旅の仲間がどこに向かうか決断のときがやってきた。指輪に影響されたボロミアはフロドに迫る。「我々は魔法使い諸侯の所有する力を望んでいるのではない。ただ自らを守る力、正義のための力が欲しいのだ。そして見よ!われわれの有事にさいし、たまたま力の指輪が明るみにでた!」防衛力は戦力ではない。「有事」の場合は特別だ。いつの時代も「力」に「誘惑」された人たちは同じことを言うのだ。そしてフロドは孤独な決断をする。映画では短いセリフで描かれたところだが、ここはやはり原作で読みたい。
第二部の「上�機廖1撚茲涼罎虜任眞鰐�な部分を扱っている。しかし映画には無い、エントの性格、生活。「白の乗手」が゙明かすサルマンの「二重の裏切り」(白の勢力も裏切っていたが、実はサウロンも裏切ろうとしていた)等、原作ならではの楽しみもある。 「白の乗手」ガンダルフはいう。「大きな嵐がやって来ようとしている。だが潮の流れはすでに変わった。」
さて、「ホビット庄の掃蕩」に付いて述べたい。なぜ、これがこの作品のクライマックスに当たると私は考えるのであろうか。それは指輪を介さないで、この物語をもう一度なぞっているからである。そして、結末の付け方を気に入っているからである。簡単なあらすじはこうである。4人のホビットたちはホビット庄に戻ると、サウロン、蛇の舌、オークたちにホビット庄が支配されているのを知る。サウロンたちは力をちらつかせ、逆らうものは幽閉し、従順なものは兵士にして、牧歌的なホビット庄をまたたくまに汚染をまきちらす製粉工場を中心とした町に変えていた。しかし、サウロンにすでに魔法使いとしての力はなく、指輪戦争をかいくぐってきた4人たちには、勇気と知恵があった。村の人たちを団結させ、オークたちを退治するのは、死線をかいくぐってきたメリーやピピンには簡単な事であった。しかしフロドはあくまでも防衛上必要な殺害以外は禁じる。特にホビット族は心まで敵側に付いていたとしても殺すな、といい、サウロンでさえ、隙を付いてフロドを殺そうとしたが、フロドはサウロンを殺すのを止める。「それでも彼を殺してはいけない。私は傷を負わなかったのだから。それにいずれにしろ、私はこのように凶悪な気分のままでいる彼を殺したくはない。彼はかつて偉大だった。おいそれと手を振り上げられない高貴なものだった。かれは堕ちた。そしてその救済は私たちの力には及ばぬ。しかしそれでもわたしはかれがそれを見出す事を望んで、命を助けたいと思う。」結局この一言でサウロンの最後の企みはついえたようだ。たぶんサウロンは自ら呪いを掛けながらホビットたちに殺される事で災いの伝説をこの村に残したいと思っていた節がある。「あんたは賢明にして残酷だ。あんたはわしの復讐から甘美さを奪った。」そういい残してさろうとするところを、腹心の蛇の舌に刺され、消滅する。
ここにあるのは一つは「指輪戦争」と「旅」がなにを残したかという事だろう。この物語の大きな主題は「戦争と平和」だと私は思っている。トールキンは2度に渡る世界戦争に対する風刺がこの物語にあるという世評をひどく嫌っていた。かれはあくまでも神話世界を「創造」したかったのだ。その思いはよく分かる。しかし、「神話世界」を語るという事はほとんど「戦争と平和」を語るという事と同義語ではないのか。神話世界はいつの時代でも「戦争」抜きには語る事は出来ない。それは「文字」を獲得した以降の人間の歴史に必ず「戦争」があったからでもある。だとするとこの物語は「平和とは何か」という事に一応の決着を付けて終るのであろう。サウロンが目指したのは小さなモルドールだった。そしてそれは「旅の仲間」によって打ち破られる。「指輪戦争」では多くの人間やエルフやオークたちが死んでいくが、どうやらトールキンは本当はその事は望んではいなかったみたいだ。フロドの態度がそれを代表している。そして「その救済は私たちの力には及ばぬ」という言葉。戦争をなくす事は出来ない。結局当事者自身が変わるほかはない。そういうメッセージが私にはとても心地いい。
もう一つ重要な主題がある。サウロンが行ったのは見ようによってはホビット庄の「近代化」であった。環境汚染は酷いものではあったが、富国強兵は民主主義を破壊してはいたが、しかしそれは「必要な事」ではないのか。しかしホビットたちは当然のようにそれを否定する。しかしそれはあくまでホビット族の「選択」である。彼らには彼らの歴史がある。だからその選択に私たちは納得している。しかしその事は「人間」の「選択」ではなく、その後の選択はあくまでも第4紀が始まっている人間に託された事なのだ。第3紀のこの物語がホビットで始まり、ホビットで終っているのはそういう事なのである。
この駄文を書いている途中、わたしは文庫版第10巻「追補編」を読む機会を得た。その中にアラゴルンとアルウェンのお別れの場面がある。不死の御妃を残して、アラゴルンも長命とはいえ、ついに死ぬときがやってくる。物語の中で「戦争と平和」に並んで「生と死」はいつも大きな主題である。トールキンもその事はよく知っていた。そしてかれに見事な最後の言葉を与える。「しかし、この最後の試練に敗れぬようにしよう。われらは昔暗闇と指輪を拒んだのではないか。悲しみのうちにわれらは行かねばならぬとしても、絶望していくのではない。ご覧!われらはいつまでもこの世に縛られているのではない。そしてこの世を越えたところに思い出以上のものがあるのだ。」この言葉をかみしめながら取りあえず私は原作に付いて語るのを止めようと思う。
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| 2004年05月15日(土) ■ |
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| 『ロード・オブ・ザ・リング』あるいは『指輪物語』の世界(映画編) |
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<映画編> 第一部「ロード・オブ・ザ・リング旅の仲間」に出会ったとき、私は「指輪物語」のゆの字も知らなかった。しかし映画は素晴らしかった。「世界を支配できる力」を巡る大冒険というのは、いわば、ありとあらゆる冒険ファンタジーの定番である。ある隠されたところにその「力」は在り、善と悪が競ってその「力」を探しに行くというのが、ほとんどのパターンであった。ところが、この物語は違った。「力の指輪」すでに善の側にある。しかしこの「力」を平和利用できない事はすでに善の側の誰もが(ボロミア以外は)悟っている。もちろん彼らは必死に「理性」でそれを悟っているのである。あの善良なビルボさえ、指輪の前では鬼の表情になる。もっとも知恵深く美しいエルフのガラドリエルでさえ、指輪の誘惑を克服するのに全身全霊を賭けねばならなかった。ではどうするというのか。もっとも困難で危険な道を通り、指輪を捨てる以外にはないというのだ。そのための旅が第一部の後半で、基本的にはその旅を巡ってこの物語が進んでいく事になるという。どきどきした。こんなファンタジー聞いた事がない。指輪を捨てる、それだけのために、困難な山を登り、最悪の魔王と闘い、大戦争を起すというのである。人間の歴史はいわば「力」を獲得してきた歴史である。しかしこの物語は「力」を捨てる話というのだ。そういう物語が果たして成り立つというのだろうか。雄大な自然を背景に、一人一人のキャラに深みが在り、しかもCGは素晴らしさがあってこそ実現できた事ではあろう。しかしそれだけではない。友情、裏切り、勇気、愛、そして謎が必要だった。もっとも大きな謎は「指輪とは何か」という事だ。最初は現代の「核兵器」を象徴しているのだと思った。しかしそういう単純な理解はこの物語を小さくしてしまう。「権力」「悪徳」「誘惑」とかそいう代わりの言葉は出来るだけ用いない方がよい。それは全て見て読んだ人間だけがふとその時々に思い浮かべるべきものである。つまり最後まで「謎」は「謎」のまま残る種類のものだと思う。ただこれだけは言えるかもしれない。このファンタジーの三部作全てを見終わったあと、私たちは現実を相対的に見る目を持ってしまった事に気が付くだろう。この映画にはそれだけの力があると確信した。それは第三部まで見ないとだめだろう。「ロード・オブ・ザ・リング」は傑作である。私は人にそう吹聴するようになった。私は第一部を見て一挙に「指輪物語」ファンになったのである。
第一部はほとんど神話的世界で進んでいったが、第二部「ロード・オブ・ザ・リング二つの塔」に至ると舞台は人間世界に入っていく。ローハン王国の城は日本の中世の山城を想起させ、ヘルム峡谷を巡る大攻防戦は中世の大戦争はかくあらんかと思わせ、今までの戦争映画では描かなかった大人数の戦争を見事に描いた。しかも一人一人の動きが違うという新しいCG技術を使い、非常にリアルである。サルマンが自前の武器と兵士を作るために近隣の古森を破壊して、そのために木の髭の怒りを買い滅ぼされるという話は、近代工業主義、現代環境破壊への批判とも受け取れるが、一方行動に移るまでの木の髭たちの優柔不断さがまた世の大人たちを想起させ微笑みを買った。
そして第三部「ロード・オブ・ザ・リング王の帰還」。すでに原作本は読破して迎えていたため、正直あまり期待していなかった。あとで述べるが、私は「ホビット庄の掃蕩」がこの原作「指輪物語」のクライマックスだと思っていた。なんと映画ではそこは省略されていると聞き、結局悪に対する善の勝利で終る、キリスト教的世界観の物語に縮小されるのではないかと危惧していた。というか、「掃蕩」を描かなかったらたとえ「灰色港」を付けたしてもそうならざるを得ないではないか。ところが映画を見て、なるほど映像の力とはこういうものかとほととほ感心したのだ。この物語は悪に対する善の勝利の物語ではない、ということにきちんとなっている。なぜゴラムがあれほどクローズアップされて描かれたのか、その事に思い至れば一つの答が出るだろう。ゴラムのCGは素晴らしかった。もはや人としての形をとどめていないゴラム、しかし顔の表情は豊かで、CGである事をまったく感じさせない演技。本当は彼をもっとあっさり単純な悪役として描く手段もあったはずだ。しかし彼は主役を食うほどの存在感を示す。サウロンが指輪の真の所持者として、いわゆる悪の歴史、悪の社会を代表しているのだとしたら、ゴラムは指輪に五百年の間影響され、一人の平凡な漁師がどのように心を蝕まれていくか、心の世界を代表している。ゴラムに権力欲は一切ない。ただひたすらとてつもない唯一の指輪を自分のものにしたいという独占欲だけがある。ゴラムは2重人格者である。指輪以外の全てを憎むゴラムと、人のよい漁師だった頃のスメアゴルが同居している。果たして彼を悪として切り捨てる事が出来るだろうか。フロドは道案内が必要だったという事もあるのだが、一貫してゴラムを切り捨てなかった。同じ指輪所持者として、ゴラムの中の独占欲が理解できたからかもしれない。ゴラムへの態度はそのままこの映画での「悪とは何か」という事への態度を示しているだろう。そうであれば、結果的にゴラムが指輪を捨てる役を担った事も理解できる。第一部でガンダルフはすでにモリア坑道でフロドにその事に言及している。フロドでは結局指輪を捨てる事が出来なかった。しかしフロドはガンダルフにもエルロンドでも出来なかった事をなしえた。指輪を持って滅びの山まで行く事自体がすでに奇跡なのだ。第一部ではその事を何度でも描いていたではないか。フロドは強かった。一部の中ではガラドリエルに易々と指輪を渡そうとさえする。全てが終った今、それがどんなに凄い事だったのか実感できる。指輪の前ではどんなエルフでも、魔法使いでも、人間でも堕落する。エルフはサウロン、魔法使いはサルマン、人間はボロミア、ホビットはゴラム、それぞれ堕落した姿が描かれる。いや、堕落といっていいのか。力を得る事は本当は「進歩」といっていいのではないか。誘惑されやすい人間である私はいまだにその事の判断が付かないでいる。だからフロドが最後に指輪を私のものだ、と宣言したとしても決して裏切りだとは思わない。それはもしかしたら一つの「選択」だったかもしれないのだ。そもそも指輪の誘惑に関してはこの三部作全体に渡って執拗に執拗に描かれる。ボロミアは指輪を直に持たなくても影響され、今回もサムは本の少し指輪を持っていただけで、フロドに指輪を返す事が簡単に出来なかった。たぶんあの時はじめてサムはフロドの苦悩と偉大さを理解したのだ。それがサムがフロドを背負う名場面につながっていく。そして、もっとも力を欲しないゴラムが指輪を最終的に手にする。ゴラムは力が欲しかったのではない。「いとしいしと」美しいもの、愛しいもの(それは指輪が自分を愛してくれているという錯覚も含まれるのかもしない)が欲しかったのだ。だからゴラムは指輪を自分のものにしたあとはなにもいらなかった。自分の「死」さえ、問題ではなかった。ところで、ゴラムは指輪と共に火口に落ちたとき、起死回生の方法として指輪をはめる事も出来たはずなのにそれをしなかった。(映画では原作にはない指輪消滅シーンが描かれている)指輪の隠れた力は甚大なのでもしかしたら奇跡がおきたかもしれないのである。しかし、以上に述べた事から、ゴラムにそんな事をする発想は生まれるはずもなかったのであろう。ゴラムは自分が死んでも指輪だけは生かそうと指輪を溶岩の上に掲げる。結局善が悪に勝った物語ではない。「指輪」とはなになのか。その事は見る人各人の判断に任せたまま、今回は指輪は世界のあらゆる人たちの努力の結果、支配の歴史とか権力の象徴に渡るのではなく、「ゴラムの心」の中に渡って消滅していった物語になったのである。
フロドの人相が刻々と変わるのも、映画ならではの見物であった。疲れ切った顔から、疑心暗鬼の顔、独占欲丸出しの顔、そして指輪を自分のもにすると宣言したときの権力者の顔、一転指輪を手放した直後の(絶体絶命の状況なのに)晴れ晴れとした顔、旅の仲間たちと再会したときの嬉しそうな顔、サムたちと別れる時の穏やかな顔。特にフロドの晴れ晴れとした顔が印象的だった。彼は自分の力で指輪を克服できなかった。もっとも欲のない代表格であるフロドでさえそうなのだ。いわんや私たちおや。 謎といえば、なぜ灰色港でフロドはエルフと行動を共にしたかも謎である。映画ではその辺りが分かるようには描いてはいない。その辺りも私が気に入ったところである。いわばその事はこの作品の「肝」に当たるところだ。簡単に分かるようではいけない。もちろんいろんな人が一応の説明をしているが私は納得していない。この謎は「指輪とは何か」が分からない限りは分からないと思っているからだ。
「王の帰還」の「王」とは普通アラゴルンと思う人がほとんどだろう。しかし原作を読んだ私の理解は違っている。「ホビット庄の掃蕩」でフロドを中心とする四人のホビットが、指輪を介さずサルマンと最後の対決をして平和を勝ち取るあの場面がクライマックスで、よって「王の帰還」はそのまま「ホビットたちの帰還」と理解してもいいだろうというのが私の解釈である。しかし、映画ではほとんど同じことをほんの10秒ぐらいで処理してしまった。(戴冠式の場面)いやア、こういうやり方もあるのだと私は感心した。
「ロード・オブ・ザ・リング」の背景には描かれていない膨大な中つ国の地理、言語、歴史がある。しかしそれを知っていなくても分かるように映画は作られていると思う。一方その背景があるからこそ、例えば突然架空の言語エルフ語が飛び交っても私たちは違和感を覚えないのである。ローハンやゴンドールの紋章、騎士団の装備などの美術の素晴らしさ。
原作ではよく分からなかった戦闘場面の推移、などが全面に現れる。レゴラスの超人的な描写はいわゆる英雄物語としての基本的な描写であろう。幽霊軍団の活躍は原作では海賊退治までだったが、ペレンノール野までやってきた事で良しとしよう。ちょっと戯画的になった事は私的には許される。デネソールの描写はひどかった。あれでは何の事かさっぱり分からない。しかしエオウィン姫の魔王退治は原作通りとはいえ、感動した。いやいや、こんな事を語り始めると切りがないので、映画編はこれまで。
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| 2004年05月14日(金) ■ |
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| 『ロード・オブ・ザ・リング』あるいは『指輪物語』の世界(導入編) |
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「ロード・オブ・ザ・リング」あるいは「指輪物語」の世界
<導入並びにあらすじ編> ピータージャクソン監督の「ロード・オブ・ザ・リング」三部作がついに完結した。私は2月7日の先行上映で早速その終りを見て、この作品が無事「名作」に成った事を喜んだ。三部作と名打って失速する作品は多い。(「マトリックス」「スターウオーズ」)これは最初から名作たる原作が在り、一挙に撮影したからこそ出来た10時間にも及ぶ映画史に残る傑作である。私は1作目の映画を見て以降この物語に惚れこんだのだが、原作に着手したのは2作目を見る直前であった。その後何度となく映画を見なおし、9ヶ月掛けて原作の全9巻を読み終え、(実は追補編10巻はこれから読む)私はなんとなくこの「指輪物語」体験なるものを自分なりに整理しておくべきだと思った。この物語は一つの世界観である。その世界観に三百時間以上浸かってしまった私は、自分では望まなくても約半年間指輪と共に旅をしたフロドと同じように一生拭えない「影響」を受けたみたいだ。人間である私は「灰色港」に行く事は出来ないが、なんらかの決着は付けるべきだろう。この駄文はそのためのものである。
映画をネタバレ在りで紹介して、「この作品を見るべきだ」と勧めるのは基本的には反則である。しかし、この作品に関しては物語の大筋・あるいは幾つかのエピソードは紹介しても映像で見ることの興は削がれないし、かえってあまりにも長い作品の全体を理解するには必要な事だろうと信じる。よって先ずは荒っぽい大筋を述べ、次ぎに映画に付いての私の感想をネタバレ在りで述べ、次ぎに原作に付いての私の感想をネタバレ在りで述べ、そのあと全てを見終わったあとの私の感想を述べていきたい。ネタバレは聞きたくないという人はこれ以降は読まないで欲しい。
あまりにも荒い映画の大筋はこうである。「昔、冥王サウロンは世界を統べることの出来る指輪をつくった。人間とエルフ(不死の者。天使のような外見)の連合軍は偶然にも指輪を切り落とす事に成功し、勝利する。指輪は行方分がからなくなり長い時が過ぎた。やがてゴラムがそれを見つけ、ホビット庄のビルボ(ホビットの外見は小人)が次ぎに所持する。サウロンが復活し、モルドールで世界を暗黒の地にするための準備を始めた。あとは指輪を手にいれるだけだ。灰色の魔法使いガンダルフは指輪が見つかる直前に指輪をホビット庄のフロドに託しエルフの里に導く。エルロンドの会議が開かれた。エルフ・人間・ドワーフ・ホビット・魔法使い、つまり白の勢力が一同に会する。サウロンに勝つ方法は何か。指輪を逆利用する事は出来ない。サウロン以外には使いこなせないからだ。指輪をサウロンの住む敵地滅びの山の火口に捨てるしかない。あまりにも困難な旅である。誰も手を上げない。ついに小さきものフロドが立候補する。それを助けると、ガンダルフ、エルフのレゴラス、ドワーフのギムリ、ゴンドールの執政の息子ボロミア、野伏せ実はゴンドール国の末裔アラゴルン、そしてホビットからはフロドの親戚メリーとピピン、親友サムがついて行く事に成った。旅は困難を極める。モリア坑道ではガンダルフを失う。途中でボロミアが指輪の誘惑に負けフロドから奪おうとする。ボロミアは自ら恥じ、そのとき襲ってきた(サウロンの同盟者サルマンが放った)オークと闘い死ぬ。フロドとサムは指輪が皆に悪影響を与えていると悟り単独行動で滅びの山に向かう。アラゴルンたちはオークにさらわれたメリーとピピンを追って行くがそこで白の魔法使いとして復活したガンダルフに再会し、サルマンに滅ぼされそうになっているローハン王国に出向く。メリーとピピンは森の精の木の髭に助けられ、彼らと共にサルマンの住むアイゼンガルドを滅ぼす。一方アラゴルンたちもローハン国王セオデンと共にヘルム峡谷で大攻防戦の末、一千の軍勢で二万のサルマン軍を退ける。一方フロドたちはもと指輪持ち主で、500年間指輪と共に過ごした影響で人間らしさをとどめていないゴラムを見つける。ゴラムは指輪を盗むためにずっと彼らの旅に付いてきたのだ。フロドたちは彼に道案内をしてもらう事で、彼が付いてくる事を許す。しかしゴラムはモルドールの入り口でフロドたちを罠にはめる。クモの怪物に仮死状態にされたフロドをサムがなんとか助け、彼らは滅びの山に向かう。ゴンドール国がサウロン軍によって滅亡の危機に瀕していた。ガンダルフはいち早くゴンドールに行き、息子ボロミアを失い神経衰弱状態に陥っている執政デネソールの代わりに第一弾のサウロン軍とミナスティリスで闘う。ローハン軍の応援がやってきたが、それでも劣勢はあまり変わらない。ついにはアラゴルンたちが国王の威厳のもと死人の大軍勢を引きいれ、闘いに参戦し、やっと勝利する。この闘いでローハンのセオデン王が死に、執政の息子ファラミアが瀕死の重症に、デネソールは錯乱して焼身自殺し、ローハンの姫エオウィンは敵の軍団の大物を倒した代わりに重症に、メリーも傷を負う。しかしこれでもサウロン軍の優勢は変わっていない。唯一の希望はフロドたちが指輪を火口に投げ込む事だけになる。サウロンの目を指輪からそらすため、ただそれたけの為にローハン・ゴンドール連合軍二万は二十万のサウロン軍が待つ黒門に出向く。まさに連合軍がサウロン軍に壊滅されかかっているときにフロドたちは滅びの山の火口に立つ。しかし最後のときに至りフロドは指輪を捨てる事が出来ない。そしてあろうことか指輪を自分のものにすると宣言する。そしてまさにそのとき、ゴラムが指輪を奪いに最後の賭けに出る。二人は格闘し、指輪を噛みちぎって奪ったゴラムは自身ともども火口に落ちていき、指輪は滅ぶ。それによりサウロンは滅び、ゴンドールの国は滅び、サウロン軍は敗北した。平和が戻った。アラゴルンは国王としてゴンドールに帰還する。エルフの娘アルウェンと結婚したのを見届けたホビットたちはホビット庄に帰る。平穏なときが流れたが、フロドはもうもとの自分に戻れないのを感じていた。時代は中つ国第三紀が終り、人間の世紀たる第4紀が始まろうとしていた。自分の時代が終った事を悟っていたエルフと魔法使いは灰色港より不死の国に旅立つ。フロドはヒルボと共にその船に乗る事が許された。指輪の保持者だったからだ。思いもかけない別れに悲しみながらサムは自分の妻と子供たちの住むホビット庄に戻っていく。」物語はホビット庄で始まりホビット庄で終る。これは偶然ではない。この事に付いてはあとで述べたい。いやはや荒いあらすじといいながら長くなってしまった。物語の骨子は「指輪を捨てる旅」である。骨格がしっかりしているので世の「終らない物語」のように複雑ではないので助かる。しかも大長編なので、ここで書いたいろんなエピソートや、ここで省いたいろんな物語が実に豊かなのである。それどころではなくこの大長編に書かれていない膨大な量の世界観が背後にあるのである。私はまだその入り口に立ったばかり。さらに旅していくかどうかはこれからの決断であろう。私はこの荒筋にわざと固有名詞をたくさんいれた。固有名詞を間違えるとこの作品の理解に重大な支障をきたすからである。特に冥王サウロンと元白の魔法使いサルマン、サウロンの国モルドールと執政の国ゴンドールは非常に間違いやすい。ゆめゆめ気を付けるように。
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| 2004年05月13日(木) ■ |
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| 題名:『マスター・アンド・コマンダー』は50点 |
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『マスター・アンド・コマンダー」
短評:いつ少年が主人公になるのだろうと思いながら いつの間にか寝ていました。 そしたら、結局大人が主人公のままで。 とりあえずこの作品ではアカデミー作品賞は無理だな、 とだけ確認して帰りました04.02.29鑑賞
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| 2004年05月12日(水) ■ |
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| 「アップダウンガールズ」は75点 |
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「アップダウンガールズ」 どうせ大人に成りきれない大人と、大人びた子供が仲良くなって御仕舞、 だと思っていたら、物語の序盤ですでに達成。 けれどもほぼ予想の範囲内で話は進む。 泣かせたのは意外。いやあ、数ヶ月ぶりに泣いた。 けれども笑わせるべきところで笑えないのは致命的。
バゴタちゃんが見事に役に成りきって、 非凡さを見せつける。 けれどもすでに老成の雰囲気が。 彼女の俳優人生は未来は如何に。 という事がつい気になる映画ではある。04.02.21鑑賞
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| 2004年05月11日(火) ■ |
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| 「ラブアクチュアリー」は80点 |
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「ラブアクチュアリー」アラン・リックマン ビル・ナイ コリン・ファース エマ・トンプソン ヒュー・グラント ローラ・リニー リーアム・ニーソン マルティン・マッカチョン アンドリュー・リンカンーン キーラ・ナイトレイ ハイケ・マカッシュ トーマス・サングスター ビリー・ボブ・ソートン 監督・脚本 リチャード・カーティス はっきりいってこんな映画見るような気分ではなかった。 しかし見てみるとなんとまあ幸せな気分になれることか。 よくもまあこんなにもたくさんのエピソードを詰め込みながら 一人一人に見せ場をきちんと作っている。 全員が幸せに成るわけではない。 その事が私にはとても心地いい。
演技として秀逸なのはエマ・トンプソンの泣き。 脚本として秀逸なのはアンドリュー・リンカーンの紙芝居。 キャストとして秀逸なのは 英国首相とこぶとり秘書のくみ合わせ、リーアム・ニーソンのお父さんぷり 04.02.20鑑賞
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| 2004年05月10日(月) ■ |
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| 「ゼブラ−マン」は80点 |
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「ゼブラ−マン」 クドカンの脚本の映画を見たのはこれで3作目。 「ピンポン」を見たときはあまりにも「GO」と作りが似ているので、 嫌気が刺したのだが、 今回やがてそのマンネリ度が好きになってきた自分がいた。 あまりにもB級映画なのもよかったのだろうか。 「ヒーロー」を描く事。 「名言」らしきものをちりばめる事。 まあ、期待してみなければいい映画ではある。04.02鑑賞
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| 2004年05月09日(日) ■ |
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| 「嗤う伊江門」は65点 |
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「嗤う伊江門(ママ)」 冒頭、蚊帳の中に篭り、いえもんは竹光の刀を出して わが身の境遇を笑いもせずに説明する。 伊江門(ママ)はとりあえず一回も笑わない。 これがラストの展開と対になっている。 この冒頭部分を見たときには、 おお、これはなかなかかな、と思ったのだが、 あとがいけない。 監督はやはり演劇に専念すべきである。 映画におけるドラマとは何かがわかっていない。 ある程度の省略は許されるが、 あれほど省略しちゃあだめだ。 それとラストカットなんて何の意味もない。 あれは演劇では出来なかった遊びをしたかっただけなのか。 登場人物の誰もが変に芝居していて、 リアルではない。 ただし、美術は目を見張るものがある。 これだけは一見の価値あり。04.02鑑賞
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| 2004年05月08日(土) ■ |
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| 「ミスティック・リバー」は70点 |
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「ミスティック・リバー」ショーン・ペン、 練りに練られた脚本、迫真の演技、最後の主人公たちの意外な表情。いい映画には違いない。しかし私の琴線には触れなかった。04.01.25鑑賞
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| 2004年05月07日(金) ■ |
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| 「ジョゼと虎と魚たち」犬堂一心監督 は90点 |
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「ジョゼと虎と魚たち」犬堂一心監督 妻夫木聡 池脇千鶴 上野樹里 新井浩文 新屋英子 恒夫(妻夫木)は下半身不随のジョゼと付きあおうとする。そこには確かに同情も義務心もなかったような気がする。しかし冒頭ナレーションで二人はやがて別れる事が予言される。いったい二人はなぜ別れるのか。これはそういう物語だ。 恒夫は優しい男ではあるが、こずるい男でもある。ジョゼは幼い所もあるが、将来の事もよく見えて自立心の富んだ芯の強い女の子である。これは単なる身障者の恋ではなく、恋一般にありがちななんらかの「障害」を併せ持った愛の行方の物語であった。 二人が別れた理由。恒夫の独白では「ボクが逃げた」といっていたが、そうではない。恒夫はジョゼに向きあうにはひと皮むける必要があったのに、変わる事が出来なかった。ジョゼが恒夫を振ったのである。最後の脂ののったシャケをジョゼが焼いているシーンが全てを物語っている。 原作では「近松人形のように白く小さい顔をした」と表現されるジョゼを池脇千鶴が迫真の演技をしている。彼女のぶっとい大阪弁と背中のか弱そうな演技。池脇はまた一つ大女優への階段を登った。04.01.25鑑賞
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