前潟都窪の日記

2004年05月05日(水) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�◆�

バスはペシャーム目指して出発した。走っている道路の両脇にはユーカリの
木が植えられている。この道はマルコポーロも通った絹の道であり現在はカラコラムハイウエイと呼ばれている。この道路は北京からカラチまで7250キロメートルを結んでいて、1976年に全線開通した。開通までに10年を要し た大工事であったという。
このカラコルムハイウエイをひたすら北上し、バットグラムと呼ばれる集落あたりまでは比較的平坦な道が続き周囲に広がる田畑は緑豊かである。ハイウエイとはいうものの、舗装が施されているというだけの道でところどころ穴があき、補修も完全には行われていないがたがた道である。往復一車線宛のこの道路は専ら自動車が走行しており自転車やモーターバイクは殆ど見かけられない。たまに農業用トラクターが走行していることもあるが一番多いのは満艦飾に飾ったトラックである。たまに山羊や羊の群れが悠然と道路を歩いていることもある。行き交うスズキと呼ばれるタクシーには鈴なりのものもあれば、スカーフを被って顔を隠した若い女性が幌の陰にひっそりと相乗りしているものもある。スズキとはスズキの軽トラックのことであるがこの国では荷台に腰掛けを取り付けて幌を被せ、人員輸送のために転用されているタクシーを意味する。
2時間ほども北へ向かって走行し、バットグラムの集落を過ぎた頃から道路は次第に山道に入り、周囲は松の木がまばらに生えている山の風景に変わる。やがてインダス河と合流し、河岸を曲がりくねりながらも、どこまでも北へ遡及していくにつれ、道は険しくなっていくが、川沿いに河岸段丘が開けてきて河の両岸に丹念に手入れされた棚田が現れる。ここはパターンと称される集落である。棚田には水が張られて光っているものもあれば、麦が実って黄色く光っている畑もある。田植えが終わって青々と繁っている水田もある。何枚もの小さな区画の段々畑が山腹を扇状に広がっていく景色は美しい。しかも青田ではスカーフを頭から被った女性が草取りをしていたり片方で水牛二頭に鋤を引かせた農夫が水田を耕していたりするかと思えば、他方では農夫が畑を鍬で耕していたりする。日本でも50年前には見られた長閑な田園風景が静かに息づいている。瀬戸内海の島々で一昔前に見られた段々畑以上にアジア的な高度集約農業の原風景が残っていた。この集落では手前の道路から河を隔てた対岸の道路までおよそ1kmほどの距離にワイヤーを張り、籠をぶら下げて人員輸送をしている。6人が定員の村営ロープウエイである。ロープウエイの下には河岸段丘の棚田が広がっている。



2004年05月04日(火) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン� �

▼パキスタンの旅 ラワルピンディー、ペシャーム、チラス、ギルギット、フンザ、グルミット
                     2000年5月8日〜15日
 フンザへの旅は初日にラワルピンディーからペシャームまで236kmペシャームからチラスまで206km、合計442kmを実走行時間9時間で踏破しようという長丁場のバスによるドライブで始まった。
バスに乗り込もうとホテルの前へ出て最初に目に入ったのは、銃を肩にした二人の兵隊である。警察かなと思ったが、銃を携帯しているのが物々しすぎるので軍隊かと聞いてみるとそうだと言う。何故軍隊がホテルの警備をしているのかと問うと、1999年10月の政変以来、軍部が主要なホテルや企業や政府 機関に監視役として派遣されるようになったという。兵隊が目付役として駐在 しているだけで、従業員の規律がよくなり、勤務中の私用や私話がなくなった し、賄賂が減って業務効率が向上したというのである。ガイドの話では検問所も軍隊が監視のため駐在するようになって、車がスムーズに流れるようになったし、民衆も今のところ軍事政権を歓迎しているという。政変以前のシャリフ政権の金権腐敗政治がそれほどまでに末端の規律を弛緩させていたとは驚きであった。シャリフ元首相は最近終身刑が確定したが、人の上に立つ指導者が堕落すると国を滅ぼすことになるという実例を見る思いであった。と同時に軍事政権がいつまでも続くと、ミャンマーや北朝鮮のような密告という人間のおぞましい性向を助長し、やがて民衆を新たな不幸に陥れるようになるのではなかろうかという危惧の念が頭を掠めた。
次に目に入ったのは赤や青色で派手に装飾した霊柩車の往来である。霊柩車と思ったのは実はトラックであった。走っているトラックはすべて赤、青黄色緑色などさまざまな色を使い、思い思いの絵柄で華やかに飾りたてているしかもトラックは背高く荷物を積載しており、過重積載ではないかと思われるほどである。また小型トラックの荷台には人を満載し、後部バンパーを加工した踏み台にも人が立ったままでぶら下がっているだけでなく、天井にも何人かへばりついている。



2004年05月03日(月) 【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・ベトナム��】

 翌朝4時半にまだ暗いうちにホテルを出発し、フエへ赴くべく空港へ向かった。早い時間にもかかわらず続々と白人の団体観光客が集まってきた。飛行機はほぼ満席であった。ガイドの話ではベトナムを訪れる観光客はフランス人がもっとも多く次に日本人であるという。韓国人も増えつつあり、アメリカ人も最近多くなってきたそうだ。アメリカ人や傭兵のような立場で参戦した韓国人にとっては苦い思い出しか残らない国なのであろうが父祖が戦役で苦労した場所を次世代に見せておきたいという戦跡めぐりツアーに人気があるようである。

フエはベトナム中央部にある古都であり、阮王朝の首都がおかれていた所である。四季のある美しい学都でもある。日本でいえばさしずめ京都といったところか。1993年には、ユネスコの世界遺産に指定された。人口は80万人で農業従事者が60%に及ぶ農村である。この町の美しい風景を題材にした音楽が沢山作られていることでも有名らしい。

先ず阮朝の王宮を訪問した。この王宮は外堀に囲まれており、ほぼ方形の敷地の広さは38haもあるが建物として残っているのは午門、大和殿、顕臨閣、フラッグタワーだけである。その他はベトナム戦争時1966年のフエ攻防戦で破壊されてしまった。

 午門は第二代皇帝ミン・マン帝(1820〜1840)の時創建され第12代カイ・ディン帝(1916〜1916)の時再建された。この門には三つの入り口があり中央の入り口は皇帝しか使用できない。この門を通ると正面に赤い屋根で平屋の大和殿があり、建物内の中央には金箔の玉座が置かれている。ここでは皇帝の即位式が行われた。最後の皇帝バオ・ダイ帝(1925〜1945)もここで退位したのである。
 フエのマーケット
この建物は紫禁城を模して作られたといわれている。初代ザー・ロン帝(1802〜1820)が創建したものであるが、ベトナム戦争中に破壊されたものを1970年に再建した。この大和殿の屋根の上には皇帝の権威の象徴である竜の彫刻が九つ置かれて舞っている。大和殿の横には顕臨閣があり阮王朝の菩提寺である。残りの広い敷地には草が生えところどころに礎石だけが見受けられる。僅かに残っているコンクリート製の壁には銃弾の痕跡が今なお残されていて激しく戦われたフエの攻防戦を偲ばせる。またこの阮朝の王宮跡に佇んで掲額や調度品に書き込まれた漢文に接すると改めて、中国文化の影響の大きさを感じる。

翌日の午後ホーチンミン市から70km北西に位置するクチの地下トンネルへ向かった。クチへ到る道路には依然としてモーターバイクの大群が疾駆しており、しかも排気ガスから呼吸器を守るために、布切れで覆面をしているライダーが多い。一見覆面強盗の群れが疾駆しているかと見紛うような異様な光景である。アオザイを風に靡かせながらサングラスに覆面をしてモーターバイクを走らせている若い女性の姿は見物であった。
クチ近くになると交通量も少なくなり道路の周辺には稲田や林が広がっており、樹木の下では牛がのんびりと草を食んでいる牧歌的な風景が現れる。このように静かで長閑な田舎で激しい戦闘が行われたとは俄には信じられない。


ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれ、鉄の三角地帯と呼ばれ難攻不落の場所であった。アメリカ軍は何度も空爆を繰り返し、大量の枯れ葉剤を投下して密林を裸にしてしまった。身を隠す樹木が無くなっても解放勢力は地下に掘ったに籠もってゲリラ戦を続けた。総距離250kmにも及ぶ手掘りのトンネルは深さ3m、6m、8mの三層構造になっておりトンネル内には会議室、参謀室、寝室、台所、病院まで備わっていた。トンネルの土は粘土質で意外に固く、入り口は直径30cm程の穴で穴の上に板を置いて落ち葉を被せれば発見することは難しい。またトンネル周辺やトンネル内の要所には落とし穴が設置されていて落とし穴にはさまざまな工夫の施された針が仕掛けられていて容易に敵が侵入できないようになっている。トンネルの一部は観光用に開放されている。
翌日、ホーチンミン市内を観光した。サイゴン大教会は19世紀末に建てられた赤煉瓦作りのカトリック教会である。サイゴン大教会のすぐ横には一見鉄道の駅舎かと思わせるような建物がある。これは中央郵便局でフランスの統治時代に建てられたものである。このあたりはいかにもフランス文化の香りが漂うような町の佇まいである。



2004年05月02日(日) 【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・べトナム�◆�

初日は9時にホテルを出発してホーチンミン廟を見学した。ハノイの気候は
まだ肌寒いくらいでこの季節の3月、太陽が顔をみせずどんよりと空は曇っている。しかし雨が降るわけではない。特異な天候である。

 ホーチンミン廟近くへ来ると長い行列ができている。これは廟内にガラスケースの中に冷凍保存されて安置されているホーチンミンの遺体に対面し、祈りを捧げるためにやってきたベトナム人や外国の観光客達である。毎日このようにひきもきらさずベトナム人達の長い行列ができるということだから、民衆に慕われ「ホー小父さん」と呼ばれた建国の父ホーチンミンの人柄と偉大さが偲ばれる。廟の裏手には1969年に亡くなるまで住んでいた高床式の住居も残されていて質素な遺品なども当時のままの姿で保存され展示されていた。

次に訪れたのは文廟である。この廟は1070年に孔子を祀るために李朝によって建てられた廟で、1070年には境内にベトナム最初の大学が開設された。大学施設として使われていた建物の中でも19世紀の阮王朝時代にできた奎文 閣には82の石碑がそれぞれに顔の違う亀の上に乗って建っているこの石碑には15世紀以降約300年間の科挙試験合格者82名の名前が刻まれている。

 石碑には本人の出所や来歴がこと細かに記載され称賛の言葉に満ちているこの文廟を見ていると碑文は全て漢文であり、建物も中国風なので、中国の勢威がこの地にまで及んでいたことを史跡として現実に認識することができた。

李朝は1010年に李公蘊が昇竜(タンロン現在のハノイ)を都として定め国号を大越と称したベトナム最初の長期王朝であった。李朝は宗代の中国の制度を多く取り入れて国家を充実させた。科挙の制度や仏教を取り入れたのもこの王朝である。仏教の導入により文学や芸術も普及した。ベトナムの歴史はその大半が異民族に支配され続けた歴史であるともいえるのだが、この李王朝はほんの一瞬だけベトナム人が輝いてみせた独立王朝であったと思うと感慨深いものがある。

この後ホアン・キエム湖の中ほどの島にある玉山寺へ行った。この寺は18世紀に建立され、文学の神スオン王や武将チャン・フン・ダオ(陳興道)等が祀られている。この武将は13世紀に3回、元の侵攻に対してこれを撃退した民族的な英雄である。1257年、1285年、1288年の3回にわたっての来襲に対して、よく戦いこれを撃退した。その戦法の一つは例えば、海岸線の浅い海底に沢山の杭を海面と垂直方向に設置しておいて干満の落差を利用して大型戦闘船で来襲した元の船隊の船底に穴をあけようというもので創意溢れるものであった。ベトコンが地下にトンネルを掘って米軍に抵抗した時、落とし穴に仕掛けた釘や針の山もこの民族の英雄チャン・フン・ダオの戦法に学んだのではないかとふと思った。

民族学博物館では54もある各種民族の衣装や生活用具、住居の模型等を見学した。ベトナムは多民族国家であり民衆は国籍とともに民族籍とでもいうようなものをもっていることがよく分かった。民族分布の地図を見るとそれはあたかもモザイク画のような細かい模様になっている。一番多いのはキン族(ベト族とも言われる)で約5600万人おり、主に平地に居住し全人口の90%を占めている。残りの10%が53民族に別れる少数民族である。



2004年05月01日(土) 【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・ベトナム� �

▼ベトナムの旅 ハノイ、ホーチンミン、フエ、クチ
                 2000年3月8日〜3月13日

 ハノイ市内へ入ったとき驚いたのはその夥しいモーターバイクの大群である特に出勤時や退勤時のモーターバイクが、我が物顔に路面一杯に広がって往来する光景は、絶えず路面から沸いてきて路面を疾駆すると言ったほうがいいのかも知れない。交通信号のない所を自在に右折し且つ左折していくモーターバイク。接触事故を起こしそうでいて、不思議なことにこれが起きない。

「注」ここではホーチンミン市で撮影した画像を載せたが雰囲気はハノイも同様である。

 そこには無秩序に見える流れの中にも事故の起きないシステムが神様の手によって組み込まれ、働いているようにさえ見える。この流れの中を平然と横切って横断する歩行者もかなりの数見受けられる。歩行者は立ち止まることをしない。悠然とあたかも散歩でもしているようなリズムで歩く。歩行者の目指す方向と歩行速度が認識できるとモーターバイクの流れはこれを巧みにかわしながら流れるのである。ちなみにモーターバイクのスピードは20km/時程度である。この流れの速度とリズムの感覚を掴みきるまでは外来の異邦人には町中を散策することは困難である。

ガイドに聞いてみるとモーターバイクは一台2000$(US)〜2500$であるのに対して、平均的な庶民の収入は月当たり25$〜30$程度であるというから、余程の蓄えがあるか長期間の月賦によらなければ買えない理屈になる。そこで月賦制度について聞いてみると頭金3分の1で残金は2年間の月賦払いが通常の支払い条件であるという。そしてモーターバイクや車の中古品の売買は国産品(日本と提携した組み立て工場がある)奨励のため最近禁止されたというから走行するモーターバイクは新車が多い。

 しかも往来するモーターバイクに乗っている人々の服装は小奇麗で特に若い女性の色鮮やかなアオザイは美しい。市場には豊富にありとあらゆる生活物資が並べられており、これを購う人々も品物を厳しく吟味している。このような現象を瞥見しただけでもこの国の民衆の生活水準は相当高そうである。訪問する前の予想に反して社会主義を標榜するこの国の庶民の生活は開放経済化の成果なのか活気に満ちていた。

 この国では1975年にサイゴンが陥落し南北ベトナムが統一された時、金や米ドルで箪笥預金されていた民衆の蓄えが約20億$あったといわれておりまた戦乱を逃れて外国へ避難していた裕福な人々からの送金が年10億$くらいあるともいわれている。こうした蓄えがベースになって現在の活況を呈しているものと思われる。

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2004年04月30日(金) 【内戦の傷跡残るカンボジア�ぁ�

 有名な観光地だけに限定して見られる現象であるが、膝から下の片足や両足を失った若い男性の乞食達が帽子を差し出してくる。彼らはついこの前までの内戦に従軍して地雷の被害を受けた戦士達であろう。なんとも痛ましい限りである。その数があまりにも多いので一人だけに施しをするわけにもいかず、また乞食全員に施すほどの小金の持ち合わせもないので相手と視線が合わないようにして通りぬけるのだが、内心忸怩たるものがあり実に嫌な気分であった。

ポルポト派が1975年に政権を握ってから1975年にベトナム軍が侵攻してくるまでの4年間に虐殺した知識階級、芸能芸術家、富裕階級、旧政府関係者の人数は二百万人から三百万人にのぼるといわれており、シェムリアップにも虐殺の行われた場所があって慰霊碑が田畑の中に建っていた。

それにしても肥沃な平野と豊穣の湖に恵まれ、大半の国民がクメール族で構成された単一民族国家と言ってもいいほどの統治しやすい国でありながら、第二次世界戦争終結後のカンボジアの歴史は混乱と動乱の連続であった。世界大戦後もフランスによる植民地支配が復活し、1953年に独立してからはアメリカ、ベトナム等の侵略が相次いだうえに国王が国外へ亡命せざるを得ない政情下でソンセン派、シアヌーク派、ポルポト派、ヘンサムリン派等が集合離散しながら抗争や内戦を続けたので社会と経済は停滞し民衆の被った被害は甚大で痛ましい。

ガイドに聞いたところによれば公務員の月収は30ドルだというから民衆の生活程度は相当ひどいものであることが予想できる。バスの車窓から田舎の農家の建物を見ると高床式になっておりニッパ椰子の葉を束ねて壁に用い、屋根も椰子の葉で葺かれている粗末なものが多い。しかも電信柱も電線も見かけなかったので田舎では未だに灯火で明かりをとる生活が営まれているのであろう。

 国民の一人当たりGNPは年間300ドルで世界最貧国のひとつに数えられる。
 しかし、その反面昔ながらの自然がそのまま残っており、道路を行き交う自動 車も数えるほどしかなく、夜空の星は大きく明るく輝いており空気は清浄で長閑な田園風景の中に時間が悠然と流れていた。

遺跡の見学が終わってからトンレサップ湖をボートでクルーズし水上生活者の生活状況を垣間見ることができた。木製船の上に粗末な住居を作り漁をしながら湖上で生活しているのである。上流の船で大小便を流したかと見れば、すぐ下流の船では住民が洗顔し歯を磨いているのを現実に目撃した。清潔好きで胃腸の弱い日本人にはなんとも不潔で我慢できない光景であるが、水上生活者達は意にも介さない強かさと頑健な胃腸を持っている。これらの水上生活者を相手にする学校や警察、寺院、ガソリンスタンド、雑貨屋、散髪屋等が船の上にあり湖上に漂っているのは珍しく今までに見たことのない風景であった。

トンレサップ湖は東南アジア最大の水産資源豊富な湖で琵琶湖の約五倍の面積を持ち、毎年六月から十月の雨期には、メコン川の氾濫水が流入するので貯水池の役割を果している。この時期には乾期の面積の三倍になるという。メコン川の氾濫は周辺の田畑に自然の肥料をもたらし米の三期作が施肥なしに可能であり、カンボジアの穀倉地帯の形成に大きな役割を果している。淡水魚が三百種もいることでは世界最大の湖といわれている。

カンボジアは肥沃な平野に恵まれている上、ほぼ単一民族の国家であるし、仏教国であるため、ヒンズー社会特有のカースト制もないのでその勤勉で礼儀正しい国民性からして指導者に人さえ得られれば立憲君主制国家として今後おおいに発展していくものと思われる。



2004年04月29日(木) 【内戦の傷跡残るカンボジア��】

 これらの遺跡の中での圧巻は都城の中心に位置するバイヨン寺院の54基の塔の四面に刻まれた巨大な観音菩薩の顔である。優しい眼差しと頬に湛えた微笑はこれを仰ぎみる人にえも言われぬ安らぎを与えてくれる。

またトムの南大門の前にかかる橋の両脇には向かって左側に神々の大きな石像が54体、右側には阿修羅像が54体並んでいる。これらの像は巨大な蛇を綱引きの綱代わりに握っていて左右両陣営で綱引きをしている。これは乳海攪拌といわれるヒンズー教の神話を表現しているのである。南大門の彫像は顔の残っているものが多く、顔の表情は全て異なっており、豊かな個性ある表情は見ていて見飽きない。

小回りコースにあるタ・プロムは仏教寺院であるが、発見当時から修復を施さず保存し自然崩落も致し方なしとする措置が取られているため、巨大なガジュマルの根が建物に覆いかぶさっているさまは異様で自然の脅威を感じさせる。

 樹木に浸食されて今にも崩落しそうな門や塔が至るところにみられるが、今後も修復の措置は取らず自然の成り行きに任せることになっているという。






観光地ではどこへ行っても、あどけない顔の子供の物売りが付きまとってくる。彼らの学校は二部制になっていて午前と午後に分かれているらしい。そのため非番の子供達が観光客に付きまとうことになるのである。年齢を聞いてみると中には五歳の子供もいるが概ね8〜12歳位までの学童である。木製の笛や絵葉書、観光案内書、Tシャツ、色とりどりの布地等を売りにくる。商品を持っていない子供はバナナの葉で作った扇を片手に観光客に風を送ったり、階段を昇降する観光客の手をとり、誘導しては小遣いをねだるのである。子供達はどことなく謙虚でまだ悪賢く擦れていないだけになんともいじらしい。豊かな国土に恵まれた国だけに内乱さえなければ、国自体もそれなりに発展して子供達が物売りをしなくても済んだであろうにと飽食の国で贅沢な生活をしながら、塾通いをしている日本人の学童達を思い出していた。同時に祖国が平和国家として発展を続け豊かな生活を営んでいる日本国民であることの幸せを噛みしめていた。



2004年04月28日(水) 【内戦の傷跡残るカンボジア�◆�

 
アンコール・ワットの北側に位置しているのがアンコール・トムである。トムとは大王都という意味であり、クメール族のアンコール朝ジャヤバルマン7世(1181〜1220)の治下、文化的にも最も爛熟していた時代に建造された。この一辺3kmの方形の広大な敷地には、バイヨン寺院をはじめとする数多くの素晴らしい建造物が遺跡として残されている。王都の城壁もまた幅百30mの方形の環濠に囲まれている。

ジャヤバルマン7世の治世は40年に及ぶが、この王はベトナム中部に住んでいたチャンバ人に30年間近くも侵され続けていた国土を奪回し、乱れた国内を統一して善行と美徳を愛した中興の英雄である。彼は仏法をもって国力を回復したいと考えた王で、アンコール朝としては最初の仏教徒の王者である。

 仏教的な色彩の強い宗教性を持つ数多くの建造物を建てると同時に、外敵から国を守る難攻不落の都城の機能も持たせようとしたのがアンコール・トムである。
 
 この都城を囲む城壁には東西南北の中央に各一門宛、さらに勝利の門と合
計五つの門を備えている。

 城壁の内部にはバイヨン寺院、ビミアナカス宮殿、男池、女池、パブーオン寺院、北クリヤン祀堂、南クリヤン祀堂、五つのプリヤピトウ聖堂群、テッププラナム聖堂、癩王のテラス、象のテラス
等の遺跡が残されている。








2004年04月27日(火) 【内戦の傷跡残るカンボジア� �

▼カンボジアの旅 シエリムアップ、アンコールワット、トンレサップ湖
              1999年12月6日〜12月10日

バンコックから遺跡探訪の拠点地シェムリアップまで約1時間の飛行であるが、眼下にはメコンデルタの肥沃で広大な田野が広がっている。洪水でも発生しているのではないかと錯覚させる湿地帯も見える。田はほぼ長方形や方形に区画されていて田一枚の面積は小さく、集約農業が営まれているのではないかと思わせる。

シェムリアップ市内のプノン・バケンという高さ60mの小高い丘に登って見下ろすと五つの塔を持ったアンコール・ワットが緑の密林の中にその秀麗な黄褐色の姿を誇るかのように聳え建っている。

 1858年にこの地を訪問したイエズス会の神父C・Eブィユヴォーによって世界に紹介されるまでは密林の中にひっそり眠っていた遺跡であったということがよく判る。

ワットとは寺院を意味し1113年に即位したスリーヤバルマン2世が約30年の歳月をかけて建造し、ヒンズー教のビシュヌ神(太陽の光を神格化した正義と慈悲の権化)に捧げた寺院である。当時王は神の化身であるという思想があり、王の偉業を示すためにその生前から予め、葬儀を行い冥福を祈るための寺院として西向きに建てられたものと考えられている。

 建物は東西1025m、南北820mの周壁に囲まれた長方形の敷地の中に約200haに拡がって建っている。そして外壁の周囲は幅約190mの堀りが取り巻いている。建物は中央の祀堂を取り囲んで四隅に塔が配されている。これらの塔や中央の祀堂は段のついたピラミッド状になっており、中央の祀堂には段違いに三重の回廊が巡らされていて中央祀堂の高さは65mに及ぶ。

 この回廊の砂岩で出来た壁面には神話「乳海攪拌」やインド古代の二大叙事詩「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」物語の各場面、そして「天国と地獄」等の浮き彫りが無数に施されており保存状態も比較的よくて、その高度な芸術性には目を見張るばかりである。またアプサラと呼ばれる美女達の像も沢山彫られており流れるような曲線美と美しい肢体、あやしい手の動き、優しく微笑む口元等芸術性の高いものが多い。これらのレリーフは当時の宮廷の舞姫や女官をモデルにしており、当時の生活や風俗を知る手掛かりともなる。 



2004年04月26日(月) 【人畜共生の混沌の国インド�Α�

アグラ市の南西37kmの所にファテーブル・スイークリーがある。
 これはムガール帝国の三代目の皇帝アクバルが、聖者スリームティスティの予言によって男児を得たので、これを徳として一五七四年に首都をこの地へ移転したのである。しかし僅か14年間住んだだけでこの城を捨ててアグラへ立ち去らなければならなかった。尊敬する聖者スリームティスティが死んだことと水不足だその理由とされている。アクバルはヒンズー教とイスラム教の融和を図る目的でディーンエ・ラヒという新宗教を作ることさえした。城は赤砂岩で五階建ての宮殿が作られており保存状態も非常によく、世界遺産に指定されている。それにしても壮大なる無駄使いであったと言える。

アグラ市内のタージマハールは
  インド観光の目玉である。ミナレットを持ったそのシンメトリックなドームは総白大理石で出来ており、文句なしに美しく優雅である。この建物はムガール帝国の5代目の王シャージャハーンが熱愛した妃アルジュマンド・バースー・ベーガム(ムムターズ・マハル)の死を悲しんで建設した霊廟であり、帝国の国力を傾けて世界各地から貴石や職人が集められて、22年の歳月をかけて1653年に完成させたものである。妃は14人の子供を産み若くしてこの世を去ったのである。






  流石にインド第一の観光地とあって世界中の観光客が集まるのは勿論のことインド人の観光客も非常に多いところである。観光客としてのインド人は中流以上の人達で身なりも骨相もよく裕福そうである。入り口近くで物売りをしているインド人と見比べると雲泥の相違がある。ここでも、インド社会における貧富の格差の甚だしさを如実に見た思いがした。

ヤムナー河岸に聳え建つアグラ城はアクバル帝によって1565年に建設されたムガール帝国の権力の象徴とも言える赤砂岩でできた堂々たる城である。

ヤムナー河の遙か向こうに見えるタジーマハールの美しい遠景は朝日夕日にその色調を変えると言われている。

この城のテラスに佇んでタージ・マハールの色調の変化を飽かず眺めていると時の流れを忘れてしまいそうである。数多い子供達の相続争いに巻き込まれてついには幽閉の身となって遠くタージマハールを眺めていたという捕らわれの塔が残されていて人の身の栄枯盛衰を思わせる。




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