前潟都窪の日記

2004年05月15日(土) 【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー� �

 ヤンゴン、パゴー   
                   1998年7月8日〜7月13日

 出発予定時間の12時15分にはANA143便は始動して、順調に飛び立った。眼下に海上空港を見下ろしながらぐんぐん機は高度を上げていった。和歌山市の上空で、和歌山城はどのあたりで、雑賀岬はどのあたりだろうと目で追ってみる。今年の春、梅が咲いている頃、夫婦で紀伊三井寺を始めとして紀州路散策をしたことが思い出される。

 関西空港には13時35分に到着し、飛行機を乗り換えてヤンゴンへ向けて再び機が離陸したのは14時43分であった。        

 飛行中、沖縄群島を眼下に見下ろしながら、地図と見比べ島の名前を当てはめてみる。4月に訪問しているだけにこれも懐かしい。        

 5時間45分の飛行の末、18時10分にはヤンゴン空港へ安着した。時差は2時間30分である。                      

 ベトナムやタイの上空とおぼしきところを飛んでいるとき、田畑が俯瞰できたが、黄茶色一色で洪水でも起きているのではないかと思う程であった。アメリカ上空で見た田畑とは一味違っているのである。アメリカの田畑は規模が大きく、円形の田畑がところによっては多かったし、人家が殆ど見当たらないのに対し、ミャンマー上空の田畑は緑が少なくて一面泥濘が覆っているような感じなのである。しかも一区画の広さが小さく、人家が多数集まっているのが眺められる。    

 現地ガイドのウイン・ナインさんが迎えにきていてバスに乗り込むと、現地通貨とドルとを交換してくれるという。綺麗な札を纏めて袋にいれてある。取り敢えず、20ドルパックを二つ交換した。単位はチャットである。1ドル=260チャットであった。

 ホテルへ入る前にロイヤルガーデンというホテル近くのレストランへ入った。

 海鮮料理の夕食であるが中華風にしつらえられたものである。このレストランからはライトアップされたシュエダゴンパゴダが幻想的に眺められた。民族舞踊が舞台では賑やかに繰り広げられた。ホテルはニッコーロイヤルレイクヤンゴンと謂い、未だ出来て新しい。仲々良いホテルである。    

 8時にホテルを出発してパゴーへ向かった。昔、王朝のあったところである。途中田畑で田植えをしている光景やら、水牛で田を耕している昔ながらの風景を日本のそれと対比させながら眺めていた。日本ではかれこれ40年程前の風景である。

 また、トラックバスと称する乗合バスがあって、鈴なりに人を積んで走っていく。1トン車で荷台を含め40人を乗せるという。ここでも社会主義70年の実験の悪い結果を見た気がする。また日本の中古車が多い。新車は皆無である。トヨタ、ニッサンがもっとも多いと言う説明である。日本の看板がそのまま残っており、そのことが日本車の証明になるというのである。横浜市の市バスを見かけた。青葉区という行き先表示もそのまま付いていた。私は気がつかなかったが、中古車でも古い型が多く、バックミラーの付いている位置が車の先端なのである。中には、大戦後アメリカ軍が持ってきたGM製のバスが今でも使われていたのには驚いた。

注 トラックバスの写真は次のURLから借用しました。
ミャンマーで見た風景と風俗



2004年05月14日(金) 【エベレスト山を身近に観察したネパール�ぁ�

ポカラ市内へ到着し遅い昼食を済ませてからビンドウバシニ寺院の見学に行った。市街中心地の狭い道路を集落の中の坂道を縫いながら登っていくと小高い丘の上の杜の下に小さな複合寺院があった。ここには殺伐神ドゥルゥガ、繁栄神ヴィシュヌクリシュナ神を祭る本殿が並んでいる。ここではドゥルゥガ神が信仰の対象である。ドゥルゥガ像が安置されている祠の正面では毎朝、カルガと称する生贄として鶏や山羊の首がはねられるので、石畳には血痕がこびりついていて生々しい。市街が一望出来てその眺めもよい。

 オールドバザールとT字型に交わるニューバザールも歩いてみたが、ここは人々で賑わっており活気に満ちていたが汚い町だとの印象は免れなかった。軒を接した建物群中に開けているバザールはイスラム諸国でよく見られるスークやバザールの雰囲気に似通うものがあり、人々の生活の匂いがぷんぷんと感じられた。また広い道路には背負ってきた野菜や果物等の農産物や籠に入った生きた鶏や淡水魚等を広げて商っている原始的形態の商人もいて、買い出しにきた現地の主婦達が地べたに座りこんで値段交渉をしている微笑ましい姿や、昔懐かしい竿秤で目方を計っている風景は見ていて飽きないものがあった。

翌日早朝にホテルを出てペワ湖に向かった。ボートを浮かべて日の出とヒマラヤの山々を見るためである。湖に到着した時空は曇っており今日は駄目かなと諦めかけていた時、ゆっくりと動きだしていた雲の塊が大きく動いて、雪を被ったマチャプチュレ・右とアンナプルナサウス・左とが突然姿を現した。あさぼらけ時には白い山の姿が赤みを帯びて輝いている。それは実に感動的な一瞬であった。

 ペワ湖では一舟に5人宛が分乗して波の立たない静かな湖面に漕ぎ出した頃丁度日の出の時刻を迎えた。東の空が次第に赤味を増してきて真っ赤な太陽が弧から半円になり真円に形を変えていく刻々の変化はこれまた感動的であった遠くに姿を見せているマチャプチュレとアンナプルナサウスの白い山の姿は実に神々しく厳かであった。残念ながらエベレストは見えなかったが、これらの山々はまさに忽然として姿を現したという感じである。このような不思議とも思える現象を見て古代人は山に神を感じたとしてもその気持ちはよく判ると思った。



2004年05月13日(木) 【エベレスト山を身近に観察したネパール��】

早朝ホテルを出発して約200キロメートルの旅程を6時間の予定でポカラへ向かった。昨夜まで元気であったY氏一家3人家族の長男が食あたりで激しく発熱したためこの一家はホテルにそのまま留まって静養し医師の往診を受けることになった。旅先では生水は飲まず、野菜サラダ等も食べないよう用心しているので小生は今まで食当たりで困った経験はないが、同行者の中にこのようなケースが発生すると人ごとながら心に痛みを覚える。
市場の写真 
 今日は移動に殆ど終日を費やすことになるが、車窓に移り変わってゆく風景を眺めているのもまた楽しいものである。観察した路線の風景で特色のある場面を書き抜いてみると

1.道路沿線に立ち並んでいる建物には樋がなく、屋根から長さ30cm程度のパイプが数本間隔を置いて路面方向へ突き出していること。雨のときには屋根に溜まった雨水がこのパイプから路面へ排出されるのである。

2.路線沿いに開けている集落には共同水道と流し場が一定の間隔で設置されていて貯水用の容器に水を注入している女性や盥やバケツに水を汲んで選択をしている女性達が見られること      

3.道路を往来している女性は赤色系の原色の衣装を纏っている人が多いこと

4.川があると川辺で洗濯をしている女性の姿をよく見かけるし、水浴をしている男や子供達をよくみかけること。

5.水入れ容器や農作物を入れた籠を背負って歩いている人々は紐を肩にかけるのではなく、頭の頂上へかけていること。そして歩く姿は俯いた形になっていること。また荷物を頭の上に乗せて歩いている姿もよく見かけること。

6.道路端に立ち並ぶ民家(農家と目される家が多い)には軒先に小さな陳列棚を並べて飲食物を売っているものが多く、並べられている商品はコカコーラや袋入りのスナック風のものが多いこと。陳列してあるコーラやジュース類は日焼けして変色していたりする。こんな辺鄙なところでお客があるのかなと思えるような山中でもこのような店をよく見かけること。

7.谷間ではいわゆる猫の額程の段々畑が「耕して天に至る」感じで「千枚
田」として広がっていて、ここにアジア的集約農業の典型を見る思いのすること。

8.農家の庭には藁がこんもりと円錐状に積んであり、その下には牛等の家畜が繋がれていること。

9.新緑の季節で木々の梢からは緑が今を盛りと萌えだしていて、生命の躍動感を覚え、わくわくするような景色が続いていること。



2004年05月12日(水) 【エベレスト山を身近に観察したネパール�◆�

 ダルバールとはネパール語で王宮という意味であり、この広場を取り囲むようにして宮殿や寺院が立ち並んでいて、参詣人や観光客やこれを目当てにした物売り達で賑わっている。ここにある建物はハヌマン・ドカ(王宮)、シヴァ・バールヴァティー寺院、シヴァ寺院、ナラヤン寺院、一本の大木から建てられたと言われるカスタ・マンタブ寺院、クマリの館等で、いずれも見事な彫刻と装飾が施されている。

 ヒンズー教では人間の生殖器官と生殖行為を神聖視し崇める風習があり、男女交合の多様な体位を彫刻で表現しているものもあって、エロティックアートとして人気を集めている。

ここで一寸珍しいと思ったのはクマリの館である。クマリとは生き神のことで、由緒ある家柄の幼女達の中から選びだされた初潮前の利発な聖女である。クマリには大女神ドルーガやネパール王国の守護神タレジュ女神または密教女神ヴァジラ・デーヴィーが宿ると信じられている。クマリに選びだされた幼女は両親の元から離されてこのクマリの館に住み込み、僧侶や付き添いの老女達に神としての振る舞い方を教えこまれ、人々の病気平癒や願望達成の祈祷を行いかつ国の運命に関する予言を行う。

 インドラ・ジャトラの大祭には町を巡り、邪気を払い人々に繁栄と成功の力を与えるのである。我々が見学している時、クマリが窓から顔を見せて人々に祝福を与える日例行事の時間帯に丁度居合わせて、ほんの30秒程顔を拝むことができたが、固く禁止されているので写真の撮影はできなかった。 宗教色がいまだ日常生活に根強く残るネパールらしいクマリの館での出来事であった。



2004年05月11日(火) 【エベレスト山を身近に観察したネパール� �

▼ネパールの旅 カトマンズ、ポカラ、ペワ湖
                  2001年3月9日〜3月16日
 朝早くホテルを出てカトマンズ空港へ行き30人乗りのヒマラヤ遊覧小型飛行機に乗り込んだ。前の方の窓側の座席が空いているのでこれ幸いと座り込んだが、窓外を見ると丁度翼の上に当たるところで見晴らしがよくないことが判った。しまったと思ったがもう遅い。条件の良い席はその間に全部ふさがってしまっている。

 それでも視界が狭かったにせよそれなりに雪に覆われた山々を近くから眺めることができ、今回山を見ようと思って参加した目的の一つは達成することができた。運が悪く雨でも降ろうものなら遊覧飛行もできなくなる可能性があっただけに、天候に恵まれたことを感謝すべきであろう。

似たような高い山が沢山あるので、目当てのエべレストがどれかなかなか判らなかったが、教えられてエベレストをなんとか目近に観察することができ視線を凝らして眺め続けた。エベレスト以外の山はどれがどれだか判らずじまいで1時間程の遊覧飛行は終わってしまった。

遊覧飛行を終えて一旦ホテルへ戻り、近回りを歩いてみたがカトマンズはとても薄汚い町だという印象しか残らなかった。自然発生的に時間をかけて発展してきた町だということは理解できるが、再訪したいという意欲を起こさせる町ではない。

 荒れ果てたヒンズー寺院を通りがかりにみかけたので構内へ入って見学した昔は学僧達が修業のために寝泊まりしたと目される宿坊は貧民窟化しているし構内中央に建っている塔も手入れが施されずに荒れるに任せていた。住民の汚い毛布や布団が階段に日干しされていたりして、昔の栄華を思うと哀れさを感じた。

また通りを歩いていると川淵の広場に人が集まって調理をしている場面を目撃したので、近寄って行き観察した。鶏をつぶしたものを大きな釜で茹でていたり、野菜を刻んでいたりした子供が豆の皮をむくのを手伝っている。多分街中の屋台か出店で売るための下ごしらえをしているものと判断したが、不衛生極まりない調理方法であった。川原では女達が食器を洗ったり洗濯をしていた。

午後からカトマンズ市内のスワヤンブナート、ダルバール広場の見学に出か
けた。スワヤンブナートは小高い丘の上に立てられたネパール最古の仏教寺院と言われており、仏塔の側壁に仏の目が描かれていて珍しい建物である。カトマンズを訪れた観光客は必ず訪問するといわれている史跡である。敬虔な仏教徒達が線香と蝋燭を備えている姿がそちこちに見られた。ここからはカトマンズの市内が一望できるロケーションである。   



2004年05月10日(月) 【桃源郷フンサ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�А�

 フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。

 パルティット城からフンサの町を望む

この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。

フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。

フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。

フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。

つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まりインド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである

 翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。

さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモ
レーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。

帰りにグルミット村で一般家庭を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。

 たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で祖父母、親子兄弟孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母姪という関係にある女性達だろうと思われる。

フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。



2004年05月09日(日) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・バキスタン�Α�

 カリマバードのホテルの屋上から四囲を眺めると北側にはお結び型のフンザピーク、細く尖ったレディスフィンガー、雪を被って尾根が波うつウルタル1とウルタル2。東に目を転じれば遙か遠くに、雪を被ったなだらかな姿を見せるパタレーピーク。南にはちょっとだけ顔を出したゴールデンピークデュラーレン、ビューティースリーブ。西には右下がりの尾根の見えるラカポシと目立つものだけ拾ってもこれだけある。このほかに名もない山々が群集しているのが眺望できる。南側の山々の麓は剥き出しの岩肌を見せ、切り立った断崖の下に広がる砂原にはインダス河が激しい水勢で流れている。そしてゆるやかなスロープになった段丘にはポプラの林や杏林と麦畑が広がっている。よく見ると灌漑用水路が四通八達しているのが判る。このような山岳地帯ではたゆみなく水の管理が丹念に行われているのである。人の営為があってこそ豊かな緑が維持できていることが判る。人々は坂道をとことこ歩いていて自転車やモーターバイクに乗る人はいない。今は緑一色であるが、杏の花の咲く頃はまさに桃源郷であるに違いない。

ホテルの洗面所で水を出してみて驚いた。灰色なのである。いくら放水してみても色はそのままである。備え付けのタオルは薄炭色に染まっている。これがフンザの普通の水である。現地の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器を洗い、洗濯をして生活しているのである。流石に飲み水だけはこの水を貯めて長時間かけて沈殿させ、上澄みを用いているようである。蛇口からふんだんに透明な水を何時でも利用できる日本人には想像を絶する体験であった。ここでは水とはこんなものだと思いこんでしまえば顔を洗い、洗濯するのも苦にならなくなるものである。肌はすべすべしてくるし潤いが感じられる。流石に飲料にはミネラルウオーターを使った。試しに上澄みを沸かした湯でお茶を飲んだり持参したウイスキーを割って飲んでみたが腹を下すこともなく却って体調も良くなった。フンザが世界でも有数の長寿村である秘密は案外この水にあるのかもしれない。

翌朝、外が白みかけるのを待ってカリマバードの町中を小一時間散歩した斜
面を上へ上へと上がって行くと道の両脇に商店が立ち並んでいるバザールがあるが、早朝なのでどこも店が閉じられていて人通りもなく静かである。四囲の山々は時々刻々その色合いを変化させて美しい。雪山に朝の光が部分的に当たって輝いていたり、明るい所と陰の所がくっきりと対比されたりしているが日の出と共に次々と色合いが変わっていく。

やがて道路には働きに出掛ける人々がそこここに現れ車が迎えにくるのを待
っている。 
 ちいさな集落なのでそれはちらほらといった感じである。多分道路工事の人夫として稼ぎに行くのであろう。幌をかけたトラックが賑やかにホーンを鳴らして近づいてくると器用に飛び乗っている。

通りがかりに顔を合わせた村人には誰彼となく「ハロー、グッドモーニン
グ」と挨拶すると例外なくにこっと笑って「グッドモーニグサー、ハウアーユー」と返ってくる。年輩の人でもそうである。イギリス統治時代の影響なのであろうか。帰りに13歳の少年と道々話しながら歩く機会を得た。彼は綺麗な英語を話す。私の話すブロークンの英語をよく聞いていてV音やTH音を正してくれたりした。彼の言ったことの中で英国人は傲岸で怒りっぽいのに対して日本人は紳士的で優しいから日本人のほうが好きだといった言葉が印象に残っている。

ホテルに帰ってからジープに分乗し、フーパー氷河の観察に出掛けた。狭く急な坂道をジープが曲がりくねりながら進んでいくと高度はどんどん上がるし切り立った崖縁を通る時には冷や汗が背筋を伝う。やがてナガールの集落に到着した。ここでは杏畑と麦畑が広がっていて畑では女性達が草取りをしていたり流れで洗濯をしたりしている。鍬で田を耕している老人の姿も見受けられるここではゆったりと時間が流れている。傍らでは子供達が大勢屯して水遊びしたり走り廻っている。我々のジープが止まると子供達は物珍しそうに美しい瞳を輝かせながら集まってくる。田園風景と朴訥な人情が四囲の山々と調和して実に長閑で心安らぐものを覚える。

ここからはレディスフインガー、ウルタル、ゴールデンピーク、シャルダル
ピーク等の山々がカリマバードのホテルの屋上から見たのとは違った角度と大きさで眺めることが出来、山の姿の多様な美しさに感慨一入である。ナガールで美しい山の景色をカメラに収めてから、ジープはフーパービレッジに到着した。ここにはヒルトンという休憩所が設けられていて、飲み物のサービスが受けられるようになっている。縄張りの外には現地の大人や子供の物売り達が手彫りの石の像やガーネットや水晶、青石等を手にして待ち構えている。

暫し寛いだ後、見張らし台に登ると眼下にフーパー氷河が広がっている。氷河とはいうものの色は薄黒く、丁度都会地に積雪後、雪掻きをして道路脇に積み上げた雪山が溶けかけてアスファルトの粉塵と混じり合い薄汚れているのと同じような色をしている。このカラコルム山系の地質がしからしむるところなのか、灰色の勝った氷河である。



2004年05月08日(土) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�ァ�

緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。
そのうちインダス河にギルギット川が合流する地点に到着した。ここはカラコルム山脈の山中を源流とするギルギット川とヒマラヤ山脈の山中を源流とするガンジス河が合流してガンジス河一本に合体する地点である。北に向って右側にはヒマラヤ山脈、中央にはカラコラム山脈、左側にはヒンドゥクシー山脈が三方向から競り合っている地点でもある。天気は晴朗で空は抜けるように青く、外気温は40度近いが空気は乾燥していて汗をかかない。高度は1500m位であろうか。この地点で暫し休憩してから険しい道を走行するうちに木立が現れ、やがて小高い山に星と月とマルコポーロシープの絵模様が刻まれているのがみえるようになるとギルギットの集落である。ギルギットの町には小さな飛行場もあり山中の交通の要衝になっている。ギルギットの町中をしばし散策してから再び車中の人となりフンザへ向けて出発した途中ラカポシビューポイントで小休止した。この地点の海抜は1800mであり、高さ7788mのラカポシ登山のペースキャンプが敷設される集落内にあるビューポイントである。

 実際のベースキャンプはこの場所より更に600mほど下った海抜1200m地点に敷設されるので、登山家にとっては実登山距離が世界一高い山になるということである。天気は快晴で美しい山の姿に暫く見とれていた。氷河らしきものも山の裾に遙に見えている。 

 再び高度を上げながらバスはフンザへ向かって進んで行く。次第にポプラの木が多くなり杏の畑が山腹に開けた所がフンザ地方のカリマバードであった。既に高度は2500mになっている。宿泊したビューホテルはインダス河の岸に近い所であるが、屋上に上がって見渡せば四囲の山々を展望することができる絶好のロケーションである。今宵は桃源郷でどんな夢を見るであろうか。



2004年05月07日(金) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�ぁ�

緑地と荒蕪地を交互に眺めながら高度は次第に上がって行く。
やがてパキスタンでは第二に高い山ナンガーバルパット8125mが見えてきだした。ところで、パキスタンで一番高い山はK二の8611mであるがこの山はエベレスト8848mに次いで世界第二の高峰である。パキスタンには8000m以上の山が57山もある。6000m以上8000m未満の山が105で4000m以上6000m未満では600もありこの中には名前のついていないものがかなりあるという。まさに高山王国である。

チラスのホテルでは久しぶりに充分の睡眠を取り、朝8時半にはフンザへ向けて243kmの旅程を五時間で走破する予定で出発した。窓外に見える光景は昨日とあまり変わらない。

時に切り立った山間の谷を流れ落ちてくる雪解け水の流れは、色も澄んでいて白い泡をたてていた。この流れがインダス河に流れこむ箇所だけは色が青くなっているが、すぐに灰色に呑み込まれてしまうのである。また荒涼とした岩肌の山の中腹に鉢巻きを巻いたように緑色の帯が横に長く延びているのが見えることがある。これはパイプラインを敷設して送水している所だという。パイプから漏水して植物が育っているのである。このような景色を見ると水が如何に植物にとって大切なものであるかが如実に理解できる。
緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。



2004年05月06日(木) 【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン��】

パターンの集落を過ぎると次第に周囲の様相が厳しいものに変わってくるインダス河は断崖の遙か下を激しい勢いで流れており、周囲の切り立った山々には草木一本生えていない荒涼たる光景に変わる。

しかも水の色は丁度セメントを水に溶かしたような灰色をしており、岩石に激突して泡立つ波の色さえ灰色である。更に通っている道路は岩盤を爆破して切り開いたもので、頭上の岩盤にはひび割れが生じていて、今にも巨石が落下してくるのではないかという恐怖にかられる。その上、道幅は狭く路肩が崩れている箇所さえあるので、対向車と行き違うときには思わず手足に力が入り、冷や汗が背筋をしたたり落ちる。

インダス河とは当地で使われているウルドウ語で「危険な河」という意味の通り、河の流れはとても速い。不思議なことに河が流れているにもかかわらず河岸には緑が見当たらない。インダス河には魚さえも住んでいないというから不可解である。何故かと同行の人達と議論になったが、微粒子を含んだ水では魚も鰓に砂が溜まり呼吸ができなくなるからではないかという結論に達した。またこの河には危険で渡し舟も使えない。

このカラコルムハイウエイでは軍隊から派遣された兵隊が二人一組でブルトーザー1台を守って野営しているのを目撃した。崖崩れが生じたときには直ちに駆けつけて応急措置をとるためだという。ことほど左様に崖崩れの多い道路なのである。

たまに道路沿いに生えている街路樹は植樹されたもので、水の少ない場所に強いディヤァールという木である。
草木の全然生えていない荒涼とした山岳と遙か断崖の下を激しく流れるインダス河を窓外にみながら進んで行くと突如として、緑の段々畑が現れ立木も何本が立っていて、石組みと土で作った民家が畑を見守るロケーションでうずくまっている場所が現れる。砂漠でいうオアシスである。


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