| 2004年05月25日(火) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�А� |
イスファファンはイラン中央部に位置する美しいオアシス都市である。ザクロス山脈の西の裾野にあり、中心部を流れるザーヤンデ川の豊富な水で発展してきた。標高1500mで気候は冬は暖冬、夏は穏やかな気候で過ごしやすい環境である。
古くはパルチァ朝及びササーン朝時代の900年間、首都として栄えた。ササーン朝ペルシャ期に軍の駐屯地 (セババン) が置かれこれが現在の名称の起源となっている。その後イスラム教が浸透してきてからは、イスラム文化が栄えた。モンゴルの侵略にもよく耐えアッバース1世の時代の1、598年にこの地が再び首都となり、ペルシャ文化の最盛期を迎えた。
 この街では午前中イマーム広場、イマームモスク、アリカブ宮殿、マスジェド・ロトフォラー・モスク、チェヘル・ソトゥーン宮殿等を見学した。これらの史跡は何れも広大なイマーム広場を取り囲むようにして建てられており、この地域一帯が世界の半分(イスファファン・ネスフェジャハン)として知られている。
 最後にテヘランへ戻ってホメイニ廟を見学した。回教は偶像崇拝を禁止しているというが、このモスクの規模の大きさやら街中に張られているホメイニ師とハタミ大統領の写真を彼らは何と説明するのであろうか。これこそ形を変えた偶像崇拝でははないのだろうか。ホメイニ師自体はおそらく死後このような扱いを受けるとは思っていなかったに違いない。イマーム達がホメイニ師の偶像におんぶされ、ぶら下がっているのが現在のイラン政界上層部とイラン宗教界指導層の実態ではなかろうか。
 今回の旅行では宗教色が日常生活至るところに浸透している特殊な世界の体験をしたが、感じたことを纏めてみれば以下のようなことである。
一、女性の社会的な地位が低いこと。
1)外出時には必ずチャドを頭から全身に被り、髪と襟足を他人に見せない服装を義務つけられていること。これは観光客の異教徒であっても例外ではない。 概ね黒色が多いが稀には色違いのチャドもある。黒いチャドも個別に仔細に観察すると刺繍を施していたり、宝石で飾っていたりとそれなりに女性らしいおしゃれをしている。
 2)女子割礼が行われていること。
3)刑法のうえでも女性は男性よりも不平等な扱いを受けている。殺人刑を一例として挙げてみてもガイドの説明によれば、男子を一人殺せば死刑であるが、女性は二人殺して初めて死刑になるという。このような現代の欧米型市民社会の人権感覚では信じられないような男女不平等が公然と認められていること。
二、巧みな情報統制が行われていること。
1)イラン・イラク戦争はアメリカがイラクを唆して仕掛けた戦争であると信じていること。
2)アフガニスタンのイスラム原理主義集団タリバンがバーミアン仏教遺跡を破壊したことに対しては、モスリム達も文化遺産を破壊した行為は悪いと考えているが、世界の世論は文化遺産の破壊に対しては反応するが、人間が貧困に苦しんでいる事実には関心をよせないのはおかしいのではないかという理解である。
3)モスリムの6信5行を固く守っており、聖戦であれば身を挺して参戦しようと思い込んでいる人々が多いこと。
4)街中いたるところにホメイニ師とハタミ大統領の写真が飾られて偶像崇拝を視覚面から暗黙のうちに強制していること。
5)イランの経済がよくならないのはアメリカの経済制裁措置があるからであると信じ込んでいること。
三、物的人的にも優れた可能性を秘めている民族であること。
四、水道の水が日本人にも飲め、且つ公衆便所まで清潔であり、文化が進んでいると判定する材料となること。
五、今後の指導者の動向如何によってはイスラム原理主義の思想が紛争の導火線となりうる危険性を内在していること。このことはホメイニ師の「予言者マホメットの原点にかえれば全てのモスリムは同胞として家柄、血縁、民族の絆を絶って、イスラム世界の現状を告発し、イスラム法に基づく政治の確立を目指す」思想にその危険性が内在しているからである。現実に、現在の地域紛争やテロの多くのものがイスラム原理主義を信奉するもの達によって引き起こされるケースが多いのである。その卑近な一例がニューヨークでの同時多発テロである。
| 2004年05月24日(月) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�Α� |
イラン中央部に位置するヤズド市は中央砂漠地帯に接していて、イランで最も古い典型的なオアシス都市である。標高1、215m、年間降雨量は59mmと少なく、夏は暑く冬は寒く春秋は穏やかな気候である。
イスラム時代の初期はアレキサンダー大王の監獄として知られていたが、642年頃アラビア軍に占領され、以後はシルクロードの中継基地として栄えてきた。マルコポーロが訪れた14世紀から15世紀頃がこの町の最盛期で、イスラム教の勢力が強いイランの中で、ヤズドはゾロアスター教徒にとって最後の砦となった重要な町である。現在でもゾロアスター教を信仰する多くの人々が住んでいる。
 この日最初に訪れたのは沈黙の塔である。これはヤズドの市街地の南東15kmの草木の一切生えていない丘の上に二つの建物が建っていて、ゾロアスター教の風葬が行われていた所である。滑りやすい丘の坂道を用心しながら登り、一つの塔の中まで入ってみた。石畳の天井のない室内には中央に丸い穴が穿たれていて石ころが幾つも転がっていた。ここに死体を安置して鷹や鷲などの鳥達に屍肉をついばませ風葬を行うのである。肉が完全についばまれて骨だけになると遺族達がこれを拾って持ち帰り霊を弔うのだという。 丘の麓には日干し煉瓦を積み重ねて作った丸い屋根を持つ宿泊設備が設けられていて遺族達はここに逗留して死体が骨だけになるのを待っているのである。現世で善根を積んだ遺体は早く骨になり、悪行を重ねた死体は肉がなかなか骨から離れず時間がかかると信じられていた。この日観光客は我々のグループだけであり、全然人気がないので若し、遺体が安置されて鳥達が屍肉をついばんでいたらとその光景を想像するとまさに鬼気せまるものがあり、身の毛がよだち厳粛な気持ちになった。
この風葬( 鳥葬ともいう) は50年程前から禁止され現在では行われなくなっている。
次にヤズド市内に幾つかあるゾロアスター教寺院の中でも最も有名なケルマン通りの寺院を訪れた。博物館を兼ねた部屋からガラス越しに聖火を覗いてみると暗い部屋の中で薪が積み重ねられ、紀元470年以来1、530年間燃えつづけている聖火をみることができた。一般に今まで垣間見たゾロアスター教の施設は小規模なものばかりであったが、この寺院も慎ましやかなものであった。
ヤズドの町中では「風の塔」を何箇所かで目撃した。これは屋上をわたる風をとらえて下の居住空間へと送り込む施設で日中猛暑の続く砂漠地帯で案出された天然クーラーである。またヤクチャルという風塔をもつ貯水池は天然の冷蔵庫として使用された。またカナートという地下水路もこの地方で案出された給水設備である。これは立て坑を堀り、横穴で繋いで山からの湧き水を砂漠地帯に引く設備で時には70kmにも及ぶ導水路が作られることもあり、この方法は西アジアのここで生まれ、東に伝わり中国の砂漠地帯でも行われている。
| 2004年05月23日(日) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�ァ� |
ペルセポリスはシラーズの北60kmに位置し、アケメネス王朝のダリュウス一世により建造が開始され、クセルクセス1世時代にも継続して建造された都市である。クー・イエラマット山の山腹にテラスを作り、城壁を設けて各建物の建設が行われた。この都市は行政府ではなく、古代ペルシャの元旦の大祭や秋の収穫祭のための首都である。大祭にはアケメネス帝国の20数ケ国の属州から朝貢者が集まり、各属州の特産品を帝王に献上する儀式が行われた。
大基壇は南北に500m、東西に400m、高さ10〜13mに達し、この上に大階段、クセルクセス玄関、クセルクセスの謁見の間、百柱の宮殿、ダリュウス1世の宮殿、アルタクセルクセス1世の宮殿、ハレム、宝庫等の遺跡があり、大階段や宮殿の壁には多数の浮き彫りが残されていて属州の風俗や特産品を知ることができる。このぺルセポリスはアレキサンダー大王との戦いで敗れた後破壊され炎上した。
ナグシェ・ラジャブ遺跡はペルセポリスの東北3kmにあるササン朝時代の三組の浮き彫りである。シャープール一世の騎馬叙任図などがありササン朝彫刻の華麗な様式の一端を示している。
ナグシェ・ロスタム遺跡はペルセポリスの北西5kmに位置し、山はアケメネス王朝の4人の王の墳墓である。アルデシール1世の騎馬叙任図やシャープール1世がローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした戦勝図の浮き彫りが山肌に刻まれている。また前面の広場には四角い塔の形をしたゾロアスター教の神殿も残されている。
バサルガドはペルセポリスの北東45kmでイスファファン街道の西側に位置する場所にある。アケメネス王朝のキュロス大王がメディア王をここで破り戦勝の記念として王宮を建て首都とした所である。アケメネス王朝歴代の即位はここで行われた。七大部族でアケメネス家が属するバサルガド族の名をとってつけられた地名であるといわれている。ここには大きな石組みのキュロス大王の墓がぼつんと一つだけ広大な敷地に建っているのが人目を引く。この墓から相当離れた敷地の一角には300×250mの庭園を囲んで玄関、謁見の宮殿、二つの亭跡などの遺跡もあるが礎石と柱だけしか残されていない。
| 2004年05月22日(土) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�ぁ� |
乙女橋、乙女城を見てから暫く走行すると道路沿いに大小の岩の群れがそそり立っている場所にさしかかった。ガイドが指さす所をみると岩肌に数人の人物像を浮き彫りにした一つの岩があった。ゾロアスター教の善の神アフラマヅダからアルデシール1世が王権のシンボルであるリングを授けられる場面が彫刻されているのである。
 アルデシール1世はアルタ・クセルクセスとも言われ、パルチアを滅ぼして226年にササン朝ペルシャを創始した王である。従ってこのレリーフはイスラム教がこの地へ入ってくる前に彫られたものであろう。
やがてバスはフイールーズ・アバードの村へ到着した。昔はグール村と呼ばれた所である。広々とした荒蕪地の真ん中に崩れかかった、日干し煉瓦を積み重ねて建てられた四角錐状の塔がある。これはゾロアスター教の神殿跡と考えられている。この地帯一帯は緑豊かな平原で樹木も生い茂り、この神殿が村の中心として丸く広がる集落が繁栄していたと考えられているが、今は荒蕪地に変わり果てている。長年にわたり徐々に砂漠化していったのであろうが、環境変化の激しさに自然の神秘を見る思いであった。現在叫ばれている地球の温暖化現象はやがて我々が住む緑豊かな日本の国土をもこのような荒蕪地に変えてしまうのであろうか。
神殿を後にして広大な荒蕪地を暫く走行して今度はかなり大きな建物跡と思われる箇所に到着した。これは約1500年前に造営された宮殿のアルデシール跡である。イスラム教がまだ誕生していない頃のササン朝ペルシャ時代の宮殿の跡で、ドーム型の天井と壁跡が残っていた。また宮殿の近くには湧き水が溜まってできた池があるがこれも当時から用水として利用されていたもののようである。澄みきって清浄な水面は輝く太陽の光を受けて七色に美しく光っていた。子供達が手作りの腕輪などを売りにきていたが、他国の観光地の子供の売り子達とは違って万事控えめなのが印象に残った。まだ観光客も少なく擦れていないのであろうか。現にここには他の日本人観光客は見当たらず、我々のグループの他には4〜5人連れの白人観光客が2〜3組いただけであった。
今でこそ街中イスラム教一色に塗り潰された感じのある国であるが、イスラム教浸透以前の文化遺産が沢山残されているこの国は地下資源にも恵まれており、大きな可能性を秘めた国であるとの印象が強い。
今回の旅行のハイライトともいうべきペルセポリスの遺跡、ナグシェ・ラジャブ遺跡、ナグシェ・ロスタム遺跡、バサルガダエ遺跡の観光である。いずれもイスラム教発生以前の文化遺産である。
| 2004年05月21日(金) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン��】 |
早朝まだうす暗い6時にホテルを出発してシラーズへ赴くべく空港へ向かった。
聖シャー・チェラーグ廟
サーディー、ハーフェズともにペルシャの詩人でそれぞれイスラム文化華やかなりし13世紀、14世紀に活躍した抒情詩人である。ペルシャ語を後世に残したことで国民的な偉人として尊崇されている。この両人の霊廟にはアケメネス王朝に始まりササン朝ペルシャに終わるまでの古代ペルシャが繁栄していた時代に対するイラン人の民族的な誇りとノスタルジアがあるように思われる。これらの霊廟に額ずき彼らの残した詩篇を眺めるとき,彼ら詩人が当時抱いた危機感が痛いように伝わってくるのを感じた。即ち、7世紀にアラビア半島の片隅で生まれたイスラム教が破竹の勢いで中東世界を席巻しサラセン大帝国を築くに及びコーランに用いられているアラビア語がペルシャの地にも浸透し、非アラビアの民族が育て培ってきた言語が廃れていくことに危機感をもった詩人達の詩情に思いを致すとき共感の情を禁じえなかった。
それにつけても、異民族支配を受けた経験のない能天気な日本人達の国防意識の希薄さ加減と美しい日本語を守り育てていこうという気配さえ窺えない若者達の昨今の言語感覚には嘆かわしいものがある。
ワキールモスク近くのバザールを見学した。アーチ型の天井をもつアーケードの両側に設けられた側壁の中に区割りされて、商人達がそれぞれにありとあらゆる商品を並べているこのバザールは、道幅も広くイスラム世界のカスバやメディナの中によく見られるせせこましくて喧騒に満ちた薄汚いバザールの印象とは全然異なっていて、イランで最も美しいバザールと言われる定評もうべなるかなと思った。
シラーズの南東110kmの地点にあるフィールーズ・ア・バードの遺跡を訪問する途中で乙女橋、乙女城を見学した。ペルシャ語でドクターとは乙女のことを意味し、犯されることがないという意味合いで用いられる。乙女橋は今から1500年程前に作られた石製の橋脚でモンド川に史跡として残されていた。恐らく堅牢な橋だから流されることはないという願いを込めて乙女橋と称したのではなかろうか。また乙女城はこれも1500年程前に作られた城砦であるが、これも落城することがないようにとの願いを込めて名付けられたのであろう。
ペルシャの人々には、女性は子供を産み育てる使命を担っているので貞操は大切なものとして皆で保護しなければならないものという思想があったらしく、乙女という言葉は犯されることがないという意味に転化したのであり面白い発想だと思った。男女間の規律に厳しいイスラム・シーア派の戒律もこのような歴史的な積み重ねの中で生まれてきた社会規範なのだなと一人勝手な解釈をして納得していた。
| 2004年05月20日(木) |
【宗教色が街角に横溢する国イラン・・�◆� |
朝7時半にアファーズのホテルを出発して約2時間のバスドライブでスーサ近郊のチョガサンビル遺跡へ向かった。快晴でとても暑い。
今回の訪問では日中摂氏52度を経験した。このような高温は生まれて初めての体験であった。数値だけ聞くと人間は倒れてしまい、場合によっては死んでしまうほどの環境ではないかとの印象を受けるが、湿度が低いので体感温度としては数値程のことはなかった。冷房の効いたバスから外気の中へ出ると体が俄に浮き立つような感じになり、歩くにつれて額や背中に汗が滲み出してくるが、体中汗まみれになると言う程でもなく顔と襟首をハンカチで拭えば何とか凌げる程度であった。
古代エラム王国の首都が置かれていたスーサの起源は古く彩文土器が発掘されており、メソポタミア先大洪水文化に相当するといわれている。このスーサの街の南東約40kmにチョガサンビルの遺跡は良い保存状態で存在する。
ジグラッドと呼ばれる日干し煉瓦積みの雛壇式神殿は起源前13世紀中頃にエラム王ウンシュガルが建設したもので、105m四方の大きさで西アジアでは最大のものである。このジグラッドを中心とする470m×380mの聖域には宮殿や地下墳墓があったと考えられている。神殿の前には動物の生贄を供える台の跡が残されており、定住農耕型社会が形成されていたことを窺わせる。また煉瓦を接合するために卵の白身と羊毛を使っていたりアスファルトを用いていたこと等が判っている。
この聖域は更に1250m×850mの外壁に囲まれた都市になっていた。この遺跡の前に立つと起源前7世紀にアッシリアに征服されるまで600年間の長きにわたってこの地で歴史を刻んできたエラム王国の繁栄が偲ばれ感慨一入であった。
チョガサンビルの遺跡から車で約40分ほども北へ走行するとスーサ遺跡がある。この地には紀元前4000年頃から人が住んでおり、紀元前2500年にはエラム人の街が形成された。現在は礎石等が残っているだけであるが、25ケ国で宮殿を造営したという楔形文字の刻まれた煉瓦や閃緑岩に楔形文字で刻まれたハムラビ法典碑やナラム・シン王戦勝碑などもこの地で発見されている。
| 2004年05月19日(水) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン� � |
テヘラン、アファーズ、チョガサンビル、シラーズ、バルサガド、ヤズド、イスファファン 2001年5月31日〜6月11日 テヘランへは現地時間23時45分に到着した。午前一時過ぎに外へ出た途端むっとする暑い空気の洗礼を受けた。この時間なのに空港施設の出口には手に手に花を持った出迎えの老若男女が夥しい数としかいいようのない程沢山集まっており、旅行者が通り抜ける道もない程に犇いていた。女性は老いも若きも一様に黒色のチャドを頭から被り顔だけしか覗かせていない。酷暑の時期だというのに異邦人には異様な光景としかいいようがない。聖地の巡礼から帰ってきた有徳者を出迎えてその余祿に預かろうとする人々であるという説明があった。
イスラム暦で金曜日の今日は休日だから、このことも人出に拍車をかけたに違いない。イスラム国ならではの空港風景であった。  ハタミ通りのホテルに到着する途中、アザディ・タワーの前を通った。この塔はペルシャ帝国建国2500年を記念して国威発揚の目的で1971年に建てられたY字型の白い建物であり、ササン朝ペルシャの建築様式が取り入れられている。落成当時はパーラビ王朝健在の頃なので今昔の感に浸りながら眺めていた。高さ45メートルあるといい、アザディとはペルシャ語で自由という意味だそうである。
最初訪れたサーダバード宮殿はテヘラン市街の北に位置しアルプルス山脈の麓のオアシスに造営された旧パーラビ王家の夏の離宮である。別名グリーン宮殿とも呼ばれるこの宮殿は生い茂る楓の木立の中に建てられており、パーラビ朝を開いたレザー・シャーが1922年から6年間かけて贅を凝らして作り上げたものである。その内部にある天井から壁まで総ガラス張りの部屋等はキンキラキンに光っており、いかにも成り上がり者趣味の横溢する造作である。パーラビ2世が愛用した宮殿の前には巨大なパーラビ2世のブロンズ全身像が周囲を睥睨して誇らしげに傲然と建っていたらしいが、イスラム革命後破壊されて両足だけが今でも残されていた。統治者の栄枯盛衰をここにも具体的な形として見る思いであった。
 アルプルス山脈の山並みが荒涼たるはげ山であるのと対照的にその麓に広がる林の中に造営された宮殿は、清涼な空気に包まれて絶好のロケーションである。イスラム革命前はパーラビ王家以外の人々は建物を建てることができなかったが、革命後はこの周辺は高級住宅地として開放され、今では多くの高級住宅が立ち並んでいる。
| 2004年05月18日(火) |
【発展する仏教国・・・タイ】 |
ガイドは日本人でリツコさんという。なにか訳ありげな女性であるが、客あしらいには慣れていて日本語も流暢である。30年バンコック生活が続いているという。
朝7時に出発してシャングリアンホテルへ急ぐ。バンパイン宮殿見学とアユタヤの遺跡見学である。船は4時間の予定であるという。冷房が効いているというので、船底の食堂へ入ったが日差しが強くて、冷房もよくきかない。説明が英語でされるので、チャパヤ川の川辺の景色も何なのかよくわからない。前回来たことがあるので、コースは全く同じであるから予備知識があるので、暁の寺等はすぐわかった。タイ観光のモデルコースを歩いているのであろう。
バンパイン宮殿、日本人町跡、ワットチャイモンコン、ワットマハタード、ワットマハタード、ワットラハバーナ等を見学した。何れも前回訪問したところだ。
帰りはバスでバンコックまで帰り、夕食はシェラトンホテルのウオーターフロントにある「タイランド・トウナイト」でバーベキューである。海産物を焼いて食べるので美味かった。特に野菜の天麩羅と海老の丸焼きは良かった。トイレが分かりにくい場所にあり、道を迷いかけた。舞台ではタイの古式舞踊が演ぜられていた。
この夕食が終わってからホテルには帰らず、直ちにオプショナルツァーのニューハーフショウを見学に出掛けた。俗に言うおかまショーだが、実際には陰湿なものでなく仲仲美しいものであった。
船着き場から小さい船に乗って汚い川を航行した。途中、マンゴー、パパイヤ、ドリアン、ライヒを売る小舟が付きまとってくる。ライヒとマンゴスチンを買った。マンゴスチンは一つ食べただけで、他は同行の人に上げた。ドリアンも買ったが少しだけ食べてあとは人に上げた。その悪臭にはとてもついていけなかった。水上マーケットでは、家内が象牙の布袋像を欲しがったが、ワシントン条約があるから没収されるおそれもあるし、やめさせた。買いたい物があると後先のことを考えずに独断専行するきらいがある。
暁の寺、王宮、エメラルド寺院を見学して昼食は聘珍楼でヤムチャであった。これはやはり美味かった。沢山でてくるので食べきれなかった。 バンコックの観光は終わって、ショッピングに免税店へ立ち寄ったが買うものはない。夕食はインペリアルクイーンズパークホテルでタイ式のしゃぶしゃぶであった。4泊の旅行もこれで最後。バンコック空港で荷物の整理をして機上の人となる。
| 2004年05月17日(月) |
【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー��】 |
暑い。朝からミャンマー仏教の総本山シェッダゴンパゴダを見学した。流石に総本山だけあってその賑わいは大変なものである。しかし、メキシコで時計をなくした寺院での人出程の多さではない。なんとなく全てがのんびり、ゆったりしている感じなのである。
私の守り神はもぐらである。家内のはドラゴン、孫のは牙のない象である。この三つの守護神の前で水を捧げた。敬虔な土地の善男善女を沢山みかけた。
次に町の中心にあるスーレーパゴダを外から見学してから、桟橋へ立ち寄ってからボージョーアウンサンマーケットへ行った。ヤンゴン一の市場とあって、確かに品揃えも豊富で賑わっていたが、買いたいものは何もない。
桟橋では船が発着していたが喧騒のみあって、わざわざここを見学させた意味が判らない。ただ、若い男達が現金をはって博打をうっているのを目撃したのは社会の裏面を覗いたという点で面白かった。
昼食は聘珍楼でヤムチャを食べた。これは慣れているせいか口に合うしほっとした感じである。
ボウタタウンパゴダは総ガラス張りのパゴダであった。中は迷路のような佇まいであった。
夕食はトレーディングホテル内の「竪琴」という寿司屋でのり巻きセットを食べた。久し振りの日本食で米も日本人向きのものが使われていた。 このあと空港へ行き、バンコックへ向かった。
| 2004年05月16日(日) |
【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー�◆� |
最初に、チャイプーンへ立ち寄ったが、これは4つの巨大な白塗りの仏像がが高さ30mの柱の四面に背中合わせで立っている。伝説によれば、この仏像の建設に携わった4人のモン族の女性のうち、誰かが結婚したら仏像が壊れると言われていた。そして一人が結婚したら本当に4体の仏像のうち一体が崩れてしまったという。西側の仏像が壊れたというが今は修復されていて見た目にはよく判らない。
次に訪れたのはシュエターリャウン・パゴダである。これは全長55mある寝ている釈迦仏の像である。この寝釈迦仏は994年にモン族の王、ミガディガ王によって建立されたといわれるが、パゴー王朝がアラウンパヤー王朝に滅ぼされるとともに、何時しか密林の中に忘れさられていた。イギリスの植民地となって、鉄道建設のためやってきたインド人技術者によって発見され再び陽の目を見ることになった。
パゴー最後のパゴダはシェモードパゴダである。高さ114mの塔がそびえ立っていて周囲を見下ろしている。ここのパゴダの正面にはエスカレーターがついていた。沢山の塔がたっており、仏教のメッカという感じである。パゴダ巡りには裸足で歩かなければならないが、久しく裸足で地面を歩いたことがないので、砂粒が足の裏に当たるととても痛かった。
昼食はビルマ料理ということで、パゴーで一番高級だといわれるThree FiveHotelというレストランへ案内されたが、冷房設備がなく扇風機が生暖かい風をかき回している。部屋へ入ると異様な悪臭がする。吐き気を催しそうになるのを堪えて、昼飯が食べられるかなと心配になる。それでも料理が運ばれだすと今まで鼻についていた悪臭もなくなり、辛い料理に箸は動きだしたが、多くは食べられない。
入り口でお客に一人ずつ丁寧に頭を下げてお辞儀をしていた、5〜6歳と思われる女児が団扇を持って客に風を送って廻っている。切なくなってチップをやろうと思ったが、未だ買い物をしていないので、小さい銭がない。手持ちの現地通貨では二百チャットが一番の小額紙幣である。日本円で換算すると370円ほどである。少し多すぎるかと思ったが仕方がない。これをあげると顔に喜色を浮かべて頭を下げた。経営者の子供であろうが親に躾けられて小遣い稼ぎをしているのである。いやもしかすると親の生計を助けているのかもしれない。ガイドの話によれば、道路人夫が日当200チャットであるというから子供にとっては大金である。このように生活レベルは相当に低い。
ハッピーという土産物屋へ立ち寄ったが、民芸品などの他に宝石なども並べてあるが品揃えは貧しい。特に欲しい物もない。竪琴を引いている民族衣装を纏った女性はとても魅力的であった。
この後一路、ヤンゴンへ向けてバスで帰ってきたが、道中、人が鈴なりで往来するトラックバスはとても目につく異様な光景である。ここでもまた、社会主義の残した負の遺産を見る思いである。 このあたりの光景はこのHPの写真を参照
バスが止まる度にしつこくつけまとってくる物売りの子供達や大人達。乞食は非常に少なかったが、その貧困を思う時やるせなさが胸にこみ上げてくる。 ホテルには交通渋滞がなかったためかなり早く到着した。シャワーを浴びて夕食までに相当時間があった。水泳パンツを持ってきておれば、プールで水泳ができたのにと悔やまれる。
夜はロウンマレイというレストランでビルマ民族舞踊をみながら食べた。ライトアップされたシェッタゴンパゴダが素晴らしい。昨日の夜も見たパゴダだ。明日見学することになる。
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