前潟都窪の日記

2004年06月04日(金) 【神権独裁政権の街の色は黒と白・・サウジアラビア� �

▼サウジアラビア旅 リヤド、ディライヤー、ワディラム、タブーク、アルウラー、ジェッダ
                   2002年4月27日〜5月3日
 定刻通り始動して15時19分に離陸した飛行機は関西国際空港を飛び立った。
 
 チャーター便なので乗客全員がサウジアラビアへ行く筈だが、同じ旅程の人は10名であることが判っているだけで顔ぶれは未だ判らない。隣の座席に座った根本さんという老人は同じCコースだということである。

 洗面所へ行ってみて驚いた。祈りの間が飛行機の中に設置されているのである。前方のスクリーンには飛行機の絵が映し出され中心から矢印が西の方を向いている。どうやらメッカがどの方向にあたるのかを常時判るようにしてあるらしい。戒律の厳しいサウジアラビアの航空機ならではの設備である。

 スチュワーデスは全て外人労働者である。サウジアラビアの人口2000万人の中、その25%は外人労働者であるというから、傭兵に依存した末期ローマ帝国の現代版のような感じがしないでもない。国の将来を暗示しているようだ。

時差6時間だから一日が30時間で、そのうち実飛行時間が12時間余という長いフライトは,20時45分にリャドのキング・ハーリド空港へ着陸することで終了した。観光客の扱いになれていないのか入国審査ももたもたしてなかなか進まない。

現地ガイドはサレーさんというサウジアラビア人の男性ガイドである。顔貌が相撲取りの曙に似ている人である。特に目のあたりが曙そっくりである。聞くところによれば、サレー氏の実父は農業をベースに多角的な分野で活躍する、サウジアラビアでも屈指の資産家らしい。サレー氏自身も三つも邸宅を所有しているという。アメリカへ留学したこともあるらしく英語に堪能である。航空機会社のエンジニアでもある。本来であれば、ガイドをしなくても済む境遇なのだが、本人が将来旅行関連会社を経営したいとの気持ちがあるので、政府が観光客招致に力をいれだしたのを機にガイドを買ってでたものらしい。またサウジアラビア航空でも、身元のしっかりした人を探したいということで、その条件にあったサレー氏が我々のガイドに配置されたということらしい。今回のガイドに当たっては本人はかなり自腹を切って対応したようである。

ホテルではロビーにベトウィンのテントが張られていて異国情緒を盛り上げてくれる。ここで小説家の阿刀田氏が夫人と一緒に参加されていることを知った。出版社の女性担当者が大きなカメラをぶら下げて付き添っていた。
 テントの中でパキスタン人の給仕から手渡されたウエルカムドリンクが美味しかった。組成を聞いてみるとストロベリー、キウイ、ライムのカクテルであるということであった。

 リアドの外国公館地区、ディライヤー、サッカースタジアム、駱駝市、国立博物館マスマック砦、スークの順番でリャド市内を見学した。

 リヤドは世界の首都の中でも飛躍的に発展を遂げた都市の一つに数えられる。都市周辺にはワジと呼ばれる涸川が沢山あり、地下水資源が豊富で緑に囲まれた都市である。

 急発展の状況を都市面積と人口の推移の数字で追ってみると次のようになる。
           都市面積          人口
 1,918年                 19,000人
 1,939年     8.5km2
 1,950年    85.0km2
 1,960年                160,000人
 1,968年   110.0km2
 1,977年                690,000人
 1,982年              1,500,000人
 1,985年              2,000,000人
 1,996年              3,100,000人
 2,000年 1,600.0km2     4,000,000人

 市内を通り抜けながら観察していてもクレーンが林立し工事がいたるところで行われている光景がこの数字の推移を裏付けている。

 道路の両サイドに建ち並ぶ高層の近代的なオフィスビルやマンション群は壁面や窓格子に施された幾何学的なアラビック模様と相まって都市の持つ機能美を一際引き立てている。

 世界各国の大使館、領事館は市の中心地から8kmの高台地帯の一カ所に纏められており、世界でも類を見ない緑豊かな外国公館地区を形成している。

 日本大使館を外観だけ見学した。建物の中へは入れなかったが庭内から写真を撮影することは許可された。予め撮影の許可はとってあったのだが、守衛にまで通達が流れておらず、カメラの放列を敷くと守衛が飛び出してきて制止されてしまった。暫くガイドのサレー氏と押し問答が繰り広げられたが、電話で確認がとれたらしく、撮影がやっと許されるというハプニングがあった。

 ディライヤーはリヤド郊外に位置するサウド家発祥の地でサウジアラビア建国の父アブドル・アジスが1446年に都を作った場所である。18世紀後期にオスマントルコに侵略されて廃墟と化したが、当時の城壁の一部と日干し煉瓦造りの居城跡(サハド・ビン・サウド王宮)や市街地跡、井戸等が残されていた。政府観光局が観光客誘致のために建物を修復している個所があり、昔ながらの手法で日干し煉瓦を手作業で作っている現場を目撃することもできた。

 建物の梁や天井にはなつめ椰子の木や葉が用いられていて、壁には風通しのための穴が幾つも開けてあるのが印象に残った。

 当時のモスクは修復されて現在この地区の住民のお祈りの場として使用されているが異教徒の我々には内部の見学は許されなかった。



2004年06月03日(木) 【二千年前の静寂と闇、ペトラ遺跡・・ヨルダン�◆�

 到着した日には観光案内所からシークを通ってエル・ハズネに至る通路に足元だけを照らす蝋燭の照明が設置され、古代の「闇と静寂を体験」できるイベントが催されるというので20$払って参加した。

 往復一時間半程の行程であったが、岩壁に囲まれた古代の隊商道を静まりかえった暗闇の中、通路に沿って一定の間隔をとって置かれている紙袋で覆われた蝋燭の照明だけを頼りに歩いた探索は今回の旅で最も印象深い体験であった。

 周囲は両側を岩壁に閉ざされており、場所によっては天井を覆うように張り出している岩壁が今にも落ちてきそうにさえ思える。台湾のタロコ渓谷も夜中に歩けばこのような雰囲気かなと過去の体験を知らず知らずのうちに思い出していた。岩の割れ目から仰ぐ空には星が大きくきらめいていて、聞こえるものは自分の足音だけである。他人の足音も最初は聞こえていたが、それぞれの歩く速度に従って距離が空き、自分の足音だけしか聞こえなくなるのである。しかも初めて通る道であり、行く手にどんなものが待ち受けているのかさえも予測がつかないから恐怖心と好奇心がないまぜになった複雑な心境である。段差のある石畳みの個所もあるので足元に気を取られて周囲を見回す余裕もない。ただひたすら照明を頼りに歩くのみである。足元を照らす照明はあたかも京都は化野の念仏寺の墓地の灯明のような趣である。

 好奇心と不安な気持ちを抱きながらなおも歩を進めると岩壁と岩壁の合間にライトアップされた巨大な殿堂の一部が突然視界に飛び込んでくる。大きな一つの岩に彫り込まれた二階建てのエルハズネの遺跡である。

 岩壁の合間の狭い道を通り抜けて広場にでるとエルハズネが全容を現す。赤みがかったピンク色をした殿堂は6本の柱によって支えられている。遺跡の前に開けた広場には紙袋に覆われた蝋燭の照明が幾列かに整然と並べて置かれており、いやがうえにも漆黒の空間に神秘性をかもし出している。足元に注意しながら殿堂に近づき階段を登っていくと一階には両側に小部屋のある大広間へと繋がっている入り口がある。ここに佇んで恐る恐る中を覗き込むと殿堂の奥は漆黒の暗闇で中から妙なる音色が聞こえてくる。笛の音か弦楽器の音色なのか定かではないが荘厳な気持ちになり身が引き締まる思いである。暫くその場にたたずんで音色に聞きほれながら古代人はどのような思いでこの場に佇んだであろうかと思いを馳せてみた。おそらく彼は神をそこに意識したのではないかと思った。

 そのうち同行の仲間や他のグループの人々が三々五々集まってきて暫しの静寂は破られてしまったが、そこに居合わせた者皆が同じ思いに沈んでいるように思えた。

 テント張りの土産物屋でお茶のサービスを受け再び元の道を辿ってホテルへ帰りついた。 

 朝8時半にホテルを出発して昨夜歩いた道を今度は馬に乗ってシークの入り口まで行きそこから徒歩でシークを通り抜けた。昨夜は暗くて黒い岩壁だけしか見えなかったが太陽光の中で観察すると切り立った岩壁は砂岩であり、自然の造りなす文様が岩肌に刻み込まれていてそれだけでも美しい景観である。しかも驚いたことにこの岩壁のあちこちに穴が穿たれていたり、彫刻が施されていたりして、ここにはその昔商店が建ち並んでいたものと考えられている。さらに驚いたことは岩壁に水路が穿たれており、水道設備が整っていたことである。

 そしてこのシークを感慨も新たに通り抜けると再びあのエルハズネの神殿が切り立った岩壁の間に今度は太陽に照らされて佇立する威容が突然目の中に飛び込んでくる感激の一瞬である。

 このエルハズネは紀元前1世紀頃アレタス3世のための墓として建設されたものと考えられている。高さ40m、横幅28mで二層からなっていて一階の正面には6本の柱が建っている。両端それぞれ2本の柱は壁に埋め込まれた形をしていて柱の間にはゼウスの息子の騎手を表す台座に乗った像が彫刻されていて片方は馬に乗って西を向き、もう片方は東を向いている。これは死者の魂をあの世へ送っている様を描いていると考えられている。二階は三区画の岩の塊をそれぞれ4本の柱が取り囲んだように彫り込まれていてその上には屋根を模した装飾が施されている。中央の屋根の上には壺を乗せている。この壺の中には財宝が入っているという迷信が伝えられている。 そして二階部分の建物を擬した壁面には蠍を描いた像、ナバティアの神々を象徴化した像が彫り込まれている。彼等は多神教を信じていた。

 このエルハズネをやり過ごして更に奥へ進むと岩壁を利用して作られた円形劇場、犠牲の祭壇、大寺院、凱旋門、翼を持ったライオンの寺院、柱廊等の遺跡がある。これらの遺跡からこの地に都市機能をもった集落が営まれていたことがよく判る。

 更にグブサ山に登っていくとアーンの墓、シルクの墓、コリンシアンの墓、宮殿の墓等の遺跡がある。何れも巨大な砂岩に刻み込まれた大きな彫刻である。

 たった一回だけのしかも駆け足の見学で遺跡のひとつひとつを詳細に説明することはできないが、一口で表現すれば、ペトラ遺跡は墓の芸術だといえなくもない程に墓が多いという印象である。

 登り道を上へ上へと登って最後はエド・ディル(ナバティアの神殿)までたどりついた。この地点で標高は1030mであった。下りは登りよりも疲れる行程となり、へとへとに疲れ果てて本日の観光を終えた。ここでの圧巻はなんといってもエル・ハズネであった。

 ここヨルダンでは酒が許されているので、ホテルの夕食では久し振りにワインを痛飲した。岩に穴を穿って部屋の作られている「墓場」跡のバーへ二次会に繰り出して同行の人達5人で歓談し楽しい夜を過ごした。某氏曰く「これこそ『ハカバー』だ」と。

 バスでワディラムへ向かった。このワディラムの砂漠は「アラビアのローレンス」の映画の撮影が行われたことで有名である。

 ここでは四輪駆動のトラックに乗り換えて砂漠の砂地を疾駆した。ローレンスが撮影のとき利用したといわれる「ローレンスの泉」、「fha文字」で書かれた碑文の岩、七つの智恵の柱という奇岩、2000年前に「サモジ語」で描かれた岩絵等を見学した。

 ローレンスがアラビア人を率いてヒジャース鉄道を破壊するために出撃するシーンに使われたという場所は大きな岩山の下に五色に輝く砂漠が広がっていた。



2004年06月02日(水) 【二千年前の闇と静寂、ペトラ遺跡・・ヨルダン� �

 ヨルダンの首都アンマンは海抜800m〜1000mの高地にある起伏の多い古い都市である。石器時代から人が住んでいたといわれ鉄器時代にアンモン王国の首都が置かれていたと伝承されている。

 ビザンチン時代に教会が沢山建てられて発展した。1923年にトランスヨルダン王国が発足し首都が置かれ、1946年にイギリスの支配から独立してからも首都として機能し現在に至っている。人口は150万人である。

 シタデルの丘の高い所に2世紀にローマ帝国のマルクスアウレリュウス帝の時建てられたというヘラクレス神殿の石柱が一際高く聳えており、そこから下方に目を転ずるとローマ時代の円形劇場も残っている。ビザンチン時代の教会がそこここにあるのも見渡せる。街全体が石灰岩の石組みの建物で構成されており、白っぽい感じのする街並である。永年に渡る人間の営為の積み重ねが作り上げた古い歴史を持つ街であることが感じ取れた。ヘラクレスの大きな手が玄関に飾られている小さな博物館がひっそりとした感じで建っていたのも印象に残る佇まいであった。

 久し振りにビールにありつけた昼食の後、アンマンの街を後にして一路230kmの道程をナバティア人の隊商都市ペトラ遺跡へ向けてバスのドライブである。アンマンの市街地をはずれるにつれ、果てし無く続く荒涼とした砂漠が現れる。時に現れる小高い山には草木が生えておらず荒々しい岩肌が太陽光に照らされて茶褐色に光っている。砂漠には駱駝が食するというラタミという雑草がところどころ生えているだけである。地平線の果てまで広がる広大な砂漠を駆け抜けていくと時折砂山が築かれて白い砂煙が立ちのぼっている所がある。これは燐鉱石を採取している現場である。ヨルダンの貴重な砂漠の鉱物資源である。数カ所でこの燐鉱石の採掘場を目撃した。付近に敷設されている狭軌で単線の鉄道線路は燐鉱石運搬用であるという。

 殺風景な砂漠の光景にうんざりしかけた頃、丘陵地が現れ高度が次第に上がっていき今までの平地と異なり起伏の多い地帯が現れた。村落もぼつりぼつりと現れ始めたペトラの街へ近づいたのである。かなり高度の上がった山中へ入ったと思う間もなく市街地の開けている峠に差しかかった。このあたり一帯をモーゼの谷と呼ぶらしい。前方に開けている街がペトラの街であった。折から運良く太陽が真向かいの山頂に落ちていくところであった。



2004年06月01日(火) 【ケマルパシャの炯眼・・トルコ 】

▼トルコの旅 アンカラ、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ニサ、エフェソス、ベルガマトロイ、チャナッカレ、イスタンプール
                  1998年9月28日〜10月6日

 アンカラ、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ニサ、エフェソス、ベルガマ、トロイ、チャナッカレ、イスタンブールの順に9日間でトルコの主要部を駆け巡った「充実のトルコぐるり周遊」の旅のガイドは、美しい日本語を喋る29歳の独身男性で、トルコ人のハリーさんであった。

アンカラで立ち寄ったアタチュルク廟で、近代トルコの初代大統領ケマルパ
シャのことをトルコ人はアタチュルクと尊称し、建国の父という意味ですと説明し、続けて彼の功績に言及するハリーさんの語調はあたかも信徒が教祖を語るもののようであった。

ケマルパシャは、マケドニアのサロニカ出身でイスタンブールの陸軍士官学校在学中から、フランスの革命思想に傾注し、トルコ帝国の弊政改革と立憲制を目指す民族解放運動に参加した。1908年青年トルコ党の革命後は同党と対立、以後軍事に専念し、第一次世界大戦では祖国防衛のために、ダーダネルス海峡を死守した。戦後、帝国政府が国土を列強に分割割譲するという屈辱的なセーブル条約を締結するやこれに反対して、アンカラに大国民会議を招集して議長となり、結集した国民党を率いて軍事行動を起こし、ギリシャ侵入軍を駆逐した。そしてセーブル条約を破棄し、トルコに有利なローザンヌ条約を締結することに成功した。1923年に共和国が成立すると初代大統領に推されて三期連続その任にあたった。この間、政教両権を握る専制的なスルタンカリフ制と保守的なイスラム法を廃止し、近代法の導入と国字のローマ字化等の近代化を断行した。

アンカラの市内は大きなビルが立ち並ぶ近代都市であるが、至るところにビルの新築工事現場があり、建設ブームを現出していた。 カッパドキアでは、駱駝岩や茸岩と呼ばれる奇岩等を見学した。もともとカッパドキア地方は、太古の時代には、お碗状の窪みであったが、エルジェス火山の噴火により、これが溶岩と火山灰によって埋め尽くされた。その後長年の風雨で、組成の柔らかい部分が浸食され、現在見るような面白い形の奇岩を形成した。また、到るところの大きな岩に、人間が生活できる洞穴が人の手により、数限りなく穿たれている。この洞穴は、アラブ人の迫害を逃れたキリスト教徒達が隠れ住んで、信仰生活を営んだ教会や僧坊や住居の跡である。

この地方の山々や平地には全然木が生えておらず、周辺の奇岩の群れと相まって荒涼とした景観をつくり出している。

パムッカレのネクロポリスはヘレニズム時代からビザンチン時代までの様式がみられる共同墓地で、古代の墓の数が1200以上も残されていて、石柩や墓 石や廟柱の壊れたものが所狭しと転がっているが、その過半のものは大理石で ある。また、この近くのヒエラポリスは紀元前190年に始まった都市国家の 遺跡であるが、ベルガモン王エウネメネスによって創建され、ローマ、ビザン チン時代まで繁栄を続けた。円形劇場やアポロ神殿等の遺跡が残されている。

 この都市はセルジュクトルコによって滅ぼされた。
圧巻はこの国最大規模のエフェソスの遺跡である。保存状態が良く、体育場競技場、聖母マリア教会、アルカディアンストリート大劇場、マーブルストリート、ケルスス図書館、マゼウスとミトリダテスの門、クレテスストリート、娼館、ハドリニアヌス神殿、トラヤヌスの泉、ヘラクレスの門、メミウスの碑、市公会堂、公衆トイレ、オデオン、アゴラ、ドミティニアヌス神殿浴場等の遺跡があり、往時の繁栄振りがよく判る。

ベルガモ、トロイと遺跡巡りの旅は続いたが、このあたりまで来ると、いつしか山々にはオリーブの木が豊かに繁茂し、畑には綿花が花を咲かせ、農家の庭には無花果や石榴の実が見られ、緑豊かな光景に変わっていた。

 イスタンブールはアジア的なものとヨーロッパ的なものが混在している都市であり、オスマントルコによるイスラム文化の遺産が豊富に且つ誇らしげに温存されている都市である。そして、ここに到着するまでに垣間見た各都市での建築ラッシュは何処もすさまじいものであったが、イスタンブールでも同様であった。国全体が活力に満ちて、発展しているという印象である。

オスマン帝国の支配者の居城であったトプカピ宮殿、ビザンチン建築の最高傑作といわれるアイヤソフィア、6本のミナレット(尖塔)を備え、内部の壁面が美しいブルーモスク、ヨーロッパ各国からの献上品が豊富に所蔵されている華麗なドラマバフチェ宮殿。これらはいずれも、ヨーロッパ、アジア、アフリカにわたる地域を支配したオスマン帝国の政教一致の権力者が営んだモスクや宮殿であるから、規模の大きさ、贅を尽くした豪華さはイスラムの文化遺産としては他に比類をみないものである。

 この国ではいまでも国民の9割はイスラム教徒である。このような政治的にも宗教的にも文化的にもイスラムの原理が強烈に浸透している国で、ケマルパシャが1923年に、いちはやく政教分離、イスラム法の放棄、国字のローマ字化を断行して立憲制国家への道を選択したことは、いまなお政教を分離せずイスラムの原理に固執して、発展もなく、暗鬱な国柄に陥っているイランやイラクの国民の苦悩を思う時、優れた為政者の炯眼であったと断言できよう。

鶏頭や モスクに想う 国父像

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2004年05月31日(月) 【ボロブドール、プランバナンの遺跡巡りとバリ島・・インドネシア�◆�

バリ島へ飛ぶため三時半に起床した。バリ島で最初に強烈な印象を受けたのは、各民家の庭に明確に区画割りして設置されている「お社」のようなものである。最初墓場かなと思ったがよく見ると母屋の北東にあたる位置にかなり広い面積を占めて灯籠型の塔が4〜5個建っているのである。中に御神体でも安置してあるのかなと覗いてみたが偶像らしきものは何も飾られておらず供物が供えられているだけであった。

 ヒンズー教寺院でよくみかける動物の形をした魔除けの像はこの「お社」への入口の門柱に彫刻されていたり柱の上に飾られている。ガイドに聞いてみるとこれはヒンズー教の神々を祭るための家庭の「お社」であり、満月の日やヒンズーの祭日には黒と白の元禄模様の布や赤、黄、緑、白の布や幟りで飾られるという。そしてこの「お社」の後方に母屋とおぼしき建物が建っている。田舎へ行く程母屋より「お社」の方が大きく立派な造りであるのをしばしば目撃した。

 この「お社」にも格式のようなものがあって、屋根の造りだけとりあげてみても銅板葺き、コンクリート葺き、瓦葺き草葺き、トタン葺きとさまざまであり、その大きさも千差万別である。母屋より大きなものがあるかと思えば、団地サイズのお雛様セットの如くちいさく纏まって形だけ真似をしたと思われるものや、土地の有効利用の観点から編み出されたとおぼしき屋上に設置されているものまである。どうもヒンズー教のカースト制が「お社」の祭祀形式の中にはまだ残っているようである。

 ガイドに確認してみるとカースト制は冠婚葬祭には厳然として残っているが職業の選択や進学についてはカースト制の制約は無くなっているということであった。そして市内の至る所にラーマーヤナに題材をとった人物像や動物像が誇らしげに飾られている。イスラム社会であるインドネシアにおいてここバリ島だけは例外的にヒンズー教の風俗習慣が根強く息づいているのである。 

 夕方ケチャックダンスを観劇した。これはとても異様な踊りである。真っ暗な舞台の中央に何本か灯されている蝋燭の火を中心にして上半身裸体の男達三五人程が集まり、口々に「ケクチャク、ケクチャク」と歌いながら踊るのである。そこへラーマーヤナ物語の主人公達が逐次出没して物語が進行するのであるが、半裸身の男達は常に舞台上にあって、奇妙な歌を歌いながら群舞したりうずくまったりするのである。元来ケチャックは、恍惚状態にある娘達が踊るサンヤンという踊りに伴ったコーラスの事であった。サンヤンダンスは恍惚状態にある娘達を通じて祖先の願いを聞くことを目的としていた。現在ではこれが変容して、ラーマーヤナ物語が独特の奇声コーラスと踊りの中で展開されるようになったものが、ケチャックダンスとして演じられているのである。

翌朝九時から始まるバロンダンスをデンバサール市内の劇場で観劇した。
バリでは善魂と悪魂がいつも同時に存在すると信じられていて、バロンは善魂を表す動物でありランダは悪魂を表す動物である。バロンは寺院の守り神であり、具体的には獅子であることが多い。バロンの踊りはガメランというバリ独特の楽器の演奏に合わせて踊られる。バロンとランダが踊りの中で色々な戦いをするがいずれの勝利もないままに踊りは終わるのが特徴である

 最初獅子舞が現れて獅子舞を披露し、そのうち王子や王女、王様や宰相、召使、魔女、死に神、道化の猿、僧侶などが次々に出没し物語が進行する。七段階に分けて場面が構成されているが善魂と悪魂が争っている様子が面白可笑しく演じられるので言葉は判らなくても役者の所作から物語のおおよその流れは理解できて楽しく鑑賞することができた。言葉の判らない観光客には昨夜のケチャックダンスよりは余程良いと思った。

それにしてもバリ島には日本の若者の観光客が多い。これほど多くの日本の
若者を今までの旅行で見たことがない。



2004年05月30日(日) 【ボロブドール、プランバナンの遺跡巡りとバリ島・・インドネシア� �

▼ボロブドール、ブランバナン、デンバサール(バリ島)の旅 
               2000年11月4日〜11月9日
ボロブドール遺跡の見学に行った。ジョクジャカルタの西北方へ約42kmの所にある、インドネシア最大の仏教遺跡である。遺跡に近づくと土産物屋が屋台を連ねているし、沢山の売り子が手ぐすね引いて待っているので到着したことが判る。バスを下りると大人や子供の売り子が絵はがき、Tシャツ木彫り等を持って口々に「五枚で千円」「三個で百円」とわめきながらどっと取り囲んでくる。

 興味のある素振りを見せると何処までもうるさく付いてくるので、ここは相手を黙殺してどんどん歩くのがよい。最近の観光客は旅慣れていて、あどけない子供の売り子に対しても素知らぬ顔でやり過ごす人が多い。そのうち売り子達の値引き合戦が始まる。例えばバスを降りた時三枚千円であったTシャツが観光を終えてバスへ戻る頃には七枚千円になっている。それでも無視してバスに乗り込むと窓の外から十枚千円と指で示しながらしきりに買ってくれとアッピールしている。

 Tシャツが十枚千円なら話の種に買ってみるかと千円札を手にして昇降口まで出て行くと五人ばかりの手がTシャツを束にしてわっと伸びてくる。その中の一人から品を受け取ろうと金を払うと、渡しながら素早く三枚程抜き取ってしまった。その手際は見事である。数えてみると七枚しかない。品物を受け取り数を確かめてから金を払えばよかったのだが後の祭りである。後で聞いた話だが黒壇の木彫りが三個千円にまで下がったのでこれを買った人も同じ手口で品物を受け取る時に偽物と差し替えられてしまったとぼやいていた。彼らの商魂はどこまでもしたたかである。

ボロブドール遺跡は当時ジヤワを支配していたシャイレンドラ王朝が8〜9世紀にかけて造営した仏教寺院である。丘陵を利用し安山岩を用いた方形の基壇(一辺約120m)上に九層からなる大建築物であり、全高は約35mである。六層までは方形で、その上は円形をなし頂上には卒塔婆型の大塔がある。

 円形層の各所には合計72の卒塔婆型の小塔が並んでいてこの中には仏像が安置されている。この遺跡には小塔内の仏像も含めて全体で504体の仏像が安置されていて、中には座っているポーズのものや立っているポーズのものがあるが、顔を失っているものや壊れているものが多い。地震で倒壊したり、異教徒の手で壊されたり盗まれたりしたもののようである。

各階層の回廊の壁面には釈迦の伝記やサンスクリット作品から取り上げた物語の名場面が浮き彫りされていて優れた作品が残されている。そして脚部にある浮き彫りは安山岩を組み上げて隠されていたという。建物を補強するとともに異教徒から浮き彫りを守るためであったと考えられている。

この遺跡はメラピー火山の大噴火により約900年前にその火山灰で埋もれてしまって歴史から忘却されていたのであるが19世紀の初めにイギリスの将校が発見して世に知られるようになった。その後1907年から1911年にか けてオランダ人の手によって精密な調査と再建が行われたが、時が経つにつれ再び荒廃がはじまった。その後ユネスコの世界遺産に登録され各国の協力を得 て1973年から1983年にかけて大規模な修復作業が行われた。

この遺跡の周辺は広大な緑地になっており椰子の木等の南国の樹木が生い茂っていて雄大な景観である。これだけの仏教遺跡を残しながら、この国では現在仏教徒は殆ど皆無で世界最大のイスラム社会を形成しているのであるイスラム教徒の数は人口の90%以上を占め、約1億7000万人に及ぶというから仏教伝来以降のイスラム化がこの地で如何に物凄い勢いで進んだかが判るような気がする。現在世界で起こっている宗教紛争はその殆どが戦闘的なイスラムがらみであることを思えば、この遺跡を残した釈迦の慈愛を説く仏教徒達は受難と屈辱に呻きながら異教徒達に滅ぼされていったのであろうといつしか感傷的な気分に浸りながら遺跡を眺めていた。 

昼食後プランバナン遺跡の見学に出掛けた。ここにはシバ寺院群、セウ寺院群、ルンブン寺院群、プラオサン寺院群等の遺跡がありヒンズー教と仏教の聖なる建物があったところである。

我々が訪れたのはこの中、8世紀から9世紀にかけてサンジャヤ王朝によって建てられたヒンズー教のシバ寺院群である。このシバ寺院群は大小237の寺院からなっているが現在修復が終わり復元された建物は16だけであり、残りの大部分の寺院は倒壊して瓦礫だけが元建っていた場所に集められて修復されるのを待っている。

この建物群の中心になっているのは修復の終わったロロジョングラン寺院で高さ47m方形の底部の幅34mであり、上部は角錐状になっている。この建物の中心部の大きな部屋には高さ3mのシバ神の石像が安置されている小部屋には別身のシバ神石像、幸福を司るガネーシャ石像、世界を支配する女神ドゥールガ石像が安置されている。この建物の回廊の壁にはラーマーヤナ伝説の物語が浮き彫りで飾られていて四一の場面で構成されている。

 ラーマーヤナとは古代インドの長編叙事詩で紀元前四世紀頃纏められた。その概要は北インド、アヨージャ国の王子ラーマの冒険を描いたもので、知・情・勇を兼ね備えたラーマと美しさ・優しさ・純情さ・貞潔に類のない妃シータは理想的な夫婦としてインド諸民族の敬愛の的であり、絵画や演劇の主題として伝承されてきたものである。

ロロジョングラン寺院の北側には守りの神のヴイシヌ寺院、南側には創造神のプラーマ寺院が建っている。この三つの大きな建物の前にそれぞれナンディ寺院、ガルダ寺院、アンサ寺院が建っている。建物の飾りにはヒンズー教で尊ばれる「リンガ(男性器)とヨギ(女性器)」を象徴する塔がいくつも並んで建っていたりする。

シバ寺院の前の広場はよく整備されてプランバナン公園となっており、市民の憩いの場になっているが、実際には土産物屋の屋台が軒を接して立ち並び、大人や子供の売り子達が屯していて、観光バスが到着するたびにどっと駆け寄り売り込みを始めるのである。

七月から九月までの満月の夜にはインドネシア全域からよりすぐりの踊り子達がこの地へ集い、寺院群を背景としてラーマーヤナを上演するという。さぞかし素晴らしい光景であろうとしばらくその図を想像していた。

プランバナンの観光を終え、土産物屋に付属している影絵劇場を見学したガムラン音楽の演奏に合わせて幾つもの影絵人形を手にした人形師がこれを操って前方のスクリーンへ影絵を投影するのであるが、ストーリーはラーマーヤナ伝説が多いようである。表の観客席から影絵を見ているよりも舞台裏で楽器を打ち鳴らす楽士や激しい動きで人形を操る人形師をみているほうが言葉がわからないせいもあって余程面白かった。 



2004年05月29日(土) 【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ�ぁ�

三日目は ハバラナのホテルビレッジから約1時間のバスドライブでポロン
ナルワへ到着した。ここはバラークラマ・サムドゥーラと呼ばれる巨大な人工の貯水池の側にある遺跡の街であるが貯水池は湖のように大きくとても人工のものとは思えない。山間の窪地に流水を堰止めて造ったのであろうがかなり強大な王権が存在したことを偲ばせる貯水池である。

ポロンナルワ遺跡の最大傑作といわれる三体の石像ガル・ビハーラを拝観し
た。これは巨大な一枚岩に刻まれた野ざらしの仏像で涅槃像、立像、座像である。なだらかな線で刻まれ瞑想している仏像を静かに眺めているとその慈愛に誘われて極楽へ旅してみたいという気持ちにさせられる。座像の高さは4.6メートル、立像7メートル、涅槃像の長さは14メートルの大きな像である。密林の中には、キリ・ビハーラ、ランコトウ・ビハーラ等の大きな釣鐘状の塔(ダーガバ)がその威容を誇っていた。

キャンディー市内へ入ると街道筋の両側に夥しい数のありとあらゆる車種の日本の中古車が並んでいる。行けども行けども尽きることなく日本車が並んでいるという感じである。ここは、スリランカ最大の自動車市場だということであるが、かつてこれほど多くの中古車が並んでいるのを見たことがない。

キャンディーの仏歯寺 

 スリランカ人の日本製品に対する憧れのようなものを垣間見た気がする。
夜は燕が飛び交う、屋根はあるが窓ガラスの入っていない開放的な劇場でキャンディアンダンスショーを見学した。
仮面の踊り、コプラの踊り、孔雀の踊り(マユラの踊り)等、よく動物の習性や特徴を観察してうまく踊りの動作に取り入れているなと感心しながら見ていた。最後に火渡りの儀式で終わったが長さ5メートルもある箱の中で燃え盛る火の上を裸足で歩く荒技には思わず手に汗を握っていた。

ろうけつ染めの工場を見学後、ホテルへ昼食に立ち寄り、長駆山中の道をヌワラエリヤの街を目指した。くねくねと曲がりながらバスは次第に高度を高めていく。狭い道なので対向車と出くわせたときなどその場の状況に応じてバックしたり前進したりしながら相手をかわしていく。川にかかった狭い橋を渡るときなど脱輪するのではないかと思わず目をつぶつたりするようなスリリングなドライブが続く。運転手の技能を信頼して全てをゆだねざるを、得ず、ハンドルを何回も切り返しながらうまく橋を通りぬけたときなど期せずして一斉に車内から拍手が沸き上がった。バスが登っていくほどに窓外には茶畑が斜面に広がっているのが目に入ってくる。はるか下方には山と山の間に川が白く光っている。崖を流れ落ちる滝も何条か目に入る。

ヌワラエリヤは高地にあるので避暑地としてイギリス人の手により開発されたところでアジア最古のゴルフ場もあるリゾートである。気候は涼しく朝夕にはセーターを着用しなければ過ごせないほどであった。

象の孤児院
旅の印象を纏めればスリランカとは仏教の国、緑輝く国、紅茶の国、シンハラの国、スパイスの国、人畜共生の自然豊かな国ということであろうか。       



2004年05月28日(金) 【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ��】

アヌラーダプラは乾燥地帯に位置するスリランカ最古の都の置かれた街であ
る。紀元前500年頃シンハラ族の先祖と言われているウィジャヤ王子が統治していた。テーワーナンピヤ・ティッサ王(前260〜210年)の紀元前236年にインドのアショーカ王の息子マヒンダによって仏教がこの地に伝えられた。この頃インドのブッダガヤから菩提樹の分け枝がもたらされた。これが巨木になって今なお、崇められているのがスリーマハー菩提樹である。この菩提樹を拝観したが大木の枝を支える支柱が幾つか設けられており、若々しい葉をつけて厳かな雰囲気を醸しだしていた。裸足になり脱帽してお参りした樹下の参拝所には敬虔なスリランカの善男善女が祈りを捧げていた。

午後はタンブラの石窟仏を見学した。寺院は緑の平野にそこだけ突起したような感じの黒褐色の巨大な岩山の窟の中にある。窟は第一窟から第五窟まであり、第一窟には大きな涅槃像が安置されていた。第二窟から第五窟には金色の仏の座像が無数安置され、壁にも仏像が描かれていた。みかけは窟になっているが往時は岩の天蓋だけだったところに仏像を並べていたのを後から囲って現在の窟の状態になったのだという。薄暗く独特の宗教的な雰囲気を醸成しているが中は蒸し暑く、拭ってもすぐ汗がしたたり落ちて背中を一筋二筋流れていくのが判る。暑さに耐えかねて外へでると岩山から集まってきた猿が人を恐れもしないで岩の上に何匹も座っていた。

タンブラから3泊目のバハラナビレッジホテルへ帰る途中、裕福な農家の住まいを見学した。5人家族で部屋数も6〜7部屋あったが電気が通じておらずランプ生活である。部屋の一隅にはテレビが置いてあったが画面には布が覆われていた。余程大切な行事で人を招く時等にガソリンゼネレーターで発電して映像を誇らしげに披露するのであろうか。           

庭にはコンクリート製の浴槽が井戸の側に置いてあり、湯を沸かすための鍋と竈も築かれていたが使った形跡はなく、平常は近くの川で水浴しているらしい。庭にはバナナと椰子の木が沢山植えられており食べ物は自給できるという一家の現金支出は月間250ルピアに過ぎないというから農村に生活、する農民のつつましやかな自給自足の生活振りが窺える。因みに1ルピアは2円であり物価高のコロンボ市内で生活する標準世帯のサラリーマンの生活費は家賃や水道光熱費を含めて月最低2万ルピアはかかるということであった。



2004年05月27日(木) 【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ�◆�

シーギリヤに到着すると周辺の緑のジャングルの色とはあまりにも対照的な茶褐色の岩山がおよそ200メートル弱の高さでそそり立っているのが目に飛び込んでくる。これが、美人のフレスコ画で有名なシギリヤロックである。岩は幅凡そ300メートル、奥行き凡そ200メートル高さ凡そ200メートルほどのこじんまりしたものである。この岩の頂上に父親のダートウセーナ王(459〜477)を殺して王位についたカーシャパが弟モッガラーナの報復を恐れて11年間も逃れ住んでいたというのである。

この岩山の中腹にある洞の壁面に鮮やかな色彩で描かれた美女達の絵がある当時は、五百人ほど描かれていたらしいが現在残されているのは18人だけである。美女達は上半身裸の者と全身着衣の者と二種類いる。この美女達はカーシャパ王が殺害してしまった父の霊を鎮めるために描かせたもので裸の女性が天国に住む妖精アップサラ若しくは上流社会の女性であり、着衣の女性は侍女であると考えられている。  

カーシャパが父ダートウセーナ王を殺害した動機が腹違いの弟に王位が譲られるのではないかと勘ぐったことからだというから、何時の世、何処の国にも遺産をめぐっての浅ましくもおぞましい人間の業欲が致す罪深さを考えさせられた。それにしても人の道を外し、報復の影に怯えながら平地へ下りることをせず、岩山の頂上で敵の来襲を見張りつつ心貧しく孤独に耐えながら11年間を過ごしたカーシャパの心はどんなものであったのだろうか。崇仏の国においてさえカーシャパのような人間が生まれたのを思うにつけ人間の持つ、おぞましい業(ごう)或いは悲しい性(さが)を感じさせられた。 
 次の日はバスで長時間ドライブした後、アヌラーダプラへ到着した。昨夜は熟睡できたのでガイドの下記の如き説明をメモすることができた。

スリランカの生産物は紅茶、椰子、ゴム、宝石の順番になるという。自動車は勿論、自転車も生産できないで輸入している。三輪車はインドからの輸入であるし、子供と大人を問わず欲しがるボールペンさえスリランカでは生産できない。

教育制度は6、3、2、5制であり学校は国営である。授業料は国が負担し制服は白色で白布を国から支給される。バスから眺めていると大人達は裸足の人が半分くらいは田舎で見かけるのに対し、どんな田舎へ行っても集団登校したり下校している生徒達は一様に白い制服を着衣し布靴を履いていて裸足の生徒はみかけない。国が支給しているからなのだろう。独立前は英国の統治下にあったため、英語の教育も熱心に行われたから英語を喋る国民の数も多く、外国へ出稼ぎしても英語能力を買われて良い仕事につくことができた。独立後国語はシンハリ語とパーリ語になって英語教育を学校でしなくなった。そのため英語を話せる若い人が少なくなった。農業国であるから農業に従事している限りにおいてはそれでも良かったが、国際化の波がスリランカにも押し寄せてきつつあり、英語教育に力を入れる必要性を感じだしている。 

出稼ぎ先は中東のサウジアラビア、バーレン、イラン等が多いが英語能力の問題があって単純労働にしかつくことができない。彼らの稼ぎだす外貨は工業製品を輸入するための貴重な外貨になっている。自動車は90パーセントが日本製で中古車が多い。ドーラさんが初めて手にした日本製品は万年筆であったという。スリランカ人には、セーラー、パイロット、ダットサン、ナショナルラジオ、ソニー、ホンダ、スズキ、クボタという固有名詞は日本のイメージに繋がるのだそうである。そして日本製は品質がよいというイメージだという。



2004年05月26日(水) 【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ� �

コロンボ、シーギリア、アヌラーダプラ、タンブラー、ポロンナルワ、キャンディー、ヌワラエリヤ
                 1999年2月6日〜2月13日
現地時間午前2時30分コロンボ空港に到着、入国手続き後ホテル行きのバスへ乗り込んだ。暗くて周囲の景色はよく見えないがインド洋に面していることだけは判る。暗がりに牛が二頭と豚一頭が道端をのんびり歩いている。
のでびっくりした。
暫しの仮眠後、最初の見学は国立コロンボ博物館である。この博物館は1877年にイギリスのセイロン総督ウイリアム・グレゴリー卿によって造られたスリランカ最初で最大の博物館で前庭には彼の銅像が傲然とした雰囲気で建っている。輝くばかりの白い建物は当時の様式をよく伝えている。
館内にはアヌラーダプラ期の大理石の仏像(300〜500AD)、ポロンナルワ期のブロンズの仏像、キャンディ王朝時代(1636〜1687)の黄金の玉座等貴重な蒐集品が展示されている。この博物館の目玉とされる展示物は仮面である。土俗の思想として病気は悪霊がとりついたものとしこれを追い払うために仮面がつかわれたらしい。スリランカ各地の民芸品店で売られている木彫りの仮面のルーツはこの展示物なのである。
ガイドのドーラさんは眼鏡をかけたシンハラ人の中年男性だが日本語は現地駐在の日本人に学んだと言い、仏教には造詣が深い才子である。言葉は五か国語を喋るというし、ジャズピアニストをやつていたこともあるらしく、とてもピアノを弾くのがうまい。この国の経済環境では、ガイドくらいしか彼の能力を発揮できる仕事がないということであろうか。これまた彼の能力開花のためには悲しいことである。彼はそんなこともあってか鬱屈した気持ちを日本礼賛でまぎらせようとしており、それは説明の言葉の端々に窺われた。
スリランカの人口は1800万人で仏教徒は70%を占めるという。
スリランカは1948年2月4日に英国領からの独立宣言をした。コロンボ市内中央部に独立記念館があり、この屋根は途中から傾斜が変わる二段式でシンハラ建築の特徴を表している。そして記念館を取り巻いて柱ごとにライオンの像が守護神の如く置かれているし、スリランカの国旗にはライオンが描かれている。ところがスリランカ国内には現実にライオンは棲息していないという何故か。それは建国神話が今なお素朴に民衆に信じられているからである。建国神話とは次のようなものである。
ランカー島にはもともと龍族、夜叉族の先住民が住んでいた。この両民族ともまだ人間の範疇に入らない霊的な存在であった。このランカー島へ人間が初めて到来したのは、仏陀入滅年(前483年)にインドより渡来した仏教徒のウィジャヤ王子が最初とされている。龍族はいちはやく仏陀に帰依していたが夜叉族は未だ帰依しておらずその女王クェーニーはウィジャヤ王子の軍勢を打ち破ってしまう。その後ウィジャヤ王子は苦心の末、クェーニーを懐柔して子供を生ませるのであるが、王位につくための正当性を得るために南インドから王妃を迎え、シンハラ国を建国したのである。しかし、クェーニーを裏切る結果となり、ウィジャヤ王子、王妃、クェーニーとの間の三角関係が発生することになる。王妃の系譜がシンハラ族の起源であり、ライオンを旗印とした。クェーニーとの間に生まれた子供の系譜がプリンダー族となり、ウエッダー(ジャングルに生活する非定住的狩猟採集民)の祖先になったというのである。
シンハラ族のシンはライオンからきたという意味であり、ハラは人達という意味なのだそうである。
昼食には名物料理カリーを食べた。野菜、鶏肉、豚肉、魚等がそれぞれに炊きこまれたカリーが別々の皿に入れられて次々に出されるのを、ココヤシの実や米を炊いたものと混ぜ合わせながらスプーンやフォークで食べた。味は意外とあっさりしており、多少水っぽいなという感じのものさえあった。香辛料のよく効いたものが多く暑熱の国の食べ物に相応しいし、これが食欲を昂進する香草の独特の香りのついたものは日本人の口には馴染みにくいがそれ以外は日本人の味覚にもよく合っているなと思いながら賞味した。 昼食後約一九Oキロメートルをドライブしてシーギリヤへ向かった。窓外の景色は緑に満ちていて途絶えることがない。まさに緑輝く国である。道路には至るところで、牛が何頭も我が物顔でのんびり草を食んでおり木々にはリスや猿が戯れていた。まさに人畜共生の国という思いがする。
注 カリーの写真は畠山氏のHPから借用した。


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