前潟都窪の日記

2004年06月14日(月) 【大草原で遊牧民族の生活を体験・・内蒙古�◆�

乗馬を終わりバスに乗り換えて宿泊所まで帰ってきたが、思いもよらないほどの長距離を馬で移動していることがわかりびっくりした。折から夕日が大草原に沈むところであった。子供の頃歌った「ここは御国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて」という軍歌の一節を口ずさみ、歌詞の場面を脳裏に重ねて兵士達の心情を偲びながら落日を眺めていた。

夕食にはモンゴル料理を御馳走になった。牛肉と鶏と羊の肉が主となる料理で乳を加工した料理も品数豊富に沢山出てくる。小豆と米を混ぜたお粥や小麦粉で作られた饅頭もある。ご飯は短粒米で粘りがあり日本人の口にあう。野菜もあるが油で炒めてあるものが多い。しかし味付けはどの料理も思っていたほどしつこくなく、辛味が効いていて美味しいと思った。圧巻はメインディッシュの羊のローストである。首と手足と内蔵は取ってあるが子羊の胴体が皿に盛られてドーンと置かれるのである。現地の人々はこれを我先にとナイフで切り取って骨ごとかぶりつくのであるが、我々は頼んで細片に切りわけて貰った。  

夜中に起き出して空を仰ぐと宿舎の照明も消えていて星が大きく輝いていた。天の半球一杯に無数の星が輝く様子は神秘の世界そのものであった。

朝再び民族衣装に身を固めた若い男女の別離の歌と杯に送られて、昨日きた道をフフホトへ向けて出発した。帰路蒙古民族の聖なる場所「オボ」を見学した。これは草原の中の小高い丘に設けられている道祖神のようなもので、石ころを半径3m高さ2m程の円柱状に積み重ねてある。屋根には細い木の枝が十数本建てられている。そしてオボの頂上の柱からは赤、青、白、緑、黄の五色の旗が四条の紐に結ばれて風に靡いている。赤は太陽、青は空、白は雲、緑は草原、黄は大地を象徴しているのだという。いかにも蒙古の自然を端的に表現していて面白い。蒙古の人達はこのオボにお参りして「ホンマミマミホン」という呪文を唱えながら左へ三周半、右へ三周半した後、正面に向かい五体投地の拝礼をするのだという。ラマ教の影響が認められて興味深いものがある。

王昭君の墓はフフホト市内の主たる観光地の一つで、広大な公園になっている。墓は公園内の高さ33mの丘の上に小さな宝形の屋根を柱だけで支えた建物が建っていて、この中に王昭君の衣冠姿を彫刻した石碑が飾られている。この丘の上からはフフホト市内が一望できる絶好のロケーションである。またこの墓の上り口の広場には王昭君と呼韓邪単于(こかんやぜんう)の騎馬姿の石像が飾られていて多くの観光客が記念撮影をしていた。因みに王昭君は紀元前33年頃の人で南郡の良家の娘であった。前漢の元帝の後宮に入ったが匈奴の王、呼韓邪の許へ献上され妻となった。

 これには以下のような故事が伝えられている。当時勢威のあった匈奴の呼韓邪単于が元帝に妻を求めてきた。元帝は三千人ともいわれる妃嬪を寝所に仕えさせるのに肖像画の中から指名していた。後宮の女達は帝の指名を受けるために画工に賄賂を送って自分を美女に描かせることに意を用いた。容貌に自信のある王昭君は賄賂を送らなかったので醜女に描かれてしまった。帝は醜女の彼女を匈奴の王に贈ることになったのである。



2004年06月13日(日) 【大草原で遊牧民族の生活を体験・・内蒙古� �

中国の旅2 内モンゴル(フフホト、シラムレン)  
                2000年6月8日〜6月12日

モンゴルの入り口フフホト市は予想していたよりも遙に大きな近代都市であった。人口は30万人規模である。呼和浩特と表記するが蒙古語で青い城という意味である。中国の内蒙古自治区の首都で16世紀中頃、明の万暦帝の時、蒙古人によって建設された。17世紀には漢民族に服属した。市街は旧城(帰化)と新城(綏遠)との二つの城郭都市からなっていたが当時の面影を伝える建造物は殆ど残っていない。

朝九時にフフホトを出発してバスで一路、北方のシラムレンへ向かった。
273kmほどの道程である。

内蒙古自治区は寒暖の差が激しく、年間の日照時間が3,400 時間もある雨の少ない地方である。盛夏には16度C〜27度C位の気温であるが冬は氷点下に下がり過去にマイナス53度Cを記録したこともある。盛夏でも朝夕の気温差が12度もあることが珍しくない。そして高地なので夏でも涼しく空気は乾燥していて爽やかである。フフホトの市街地は標高2,100mの高地にあり北行するにつれて次第に高度も高くなっていく。

近代的なビルディングが立ち並ぶ市街地を通り抜けると草木の生えていない砂礫だけの荒蕪地が現れる。道路も舗装されていないがたがた道に変わる。道路の四辺を見ると水のない川の中を走っているのが判る。大洪水で土石流に削られてできた川底をならして道路にしているのである。川幅は百mもあるであろうか。大自然の脅威を実感させられる光景である。そのうち前方に陰山山脈が目近に見えるようになるが、この山も草木の生えていない禿山である。所々植林されて緑色になったゾーンも散見される。松やポプラの木の植林に成功して緑化が進んだところである。

 川底のがたがた道を通り抜けて陰山山脈の山中に入ると舗装道路に変わる。ここでは魚の鱗状に山肌のあちこちにぼこぼこ小さな穴が穿たれている。植林をするために穴をあけ化学肥料を入れて3年間ほど放置しておくと太陽熱や雨雪に晒されて肥料が土中に熟成浸透し地味が肥え樹木の苗木が根付くようになるのだという。このような人間の弛まざる営為によって根気強く緑化事業が進められている。農民達には一人につき年間十本の植樹が義務付けられている。
 
 これは完全に根付いた植木の本数で判定されることになっており、農民にとってはかなりの負担であることが窺われる。

前漢の歴史家司馬遷の書いた「史記」の「匈奴編」にはこの地方は原生林で動物達が棲息していたと記されている。そして狩猟民族である匈奴達の本拠地でもあった。何故現在のような不毛の荒蕪地になってしまったのか、その原因は謎とされている。住民が燃料にするため樹木を伐採し尽くしたため森林の自然治癒力が破壊されて荒蕪地になってしまったという説がある。そしてこの地では井戸を掘ってもなかなか良い水が出ないという。もし史記に書かれた通りこの荒蕪地がその昔原生林であったとしたら、天の恵みを破壊してしまった人間の愚かな行為が悔やまれる。

陰山山脈を越えると高地になる。そこでは現在、主としてポプラの植林が行われているが、努力が実って大きなポプラ林が形成されている地域もそこかしこに認められる。それにしても広大な大地であるから、植林に成功した林はほんの一部にしか過ぎない。この地を緑化するには気の遠くなるほど膨大な作業量の投入が必要である。そしてその作業は営々として続けられている。所々に「日中友好植樹林」という石碑が建っているのを目撃する都度、日本人として誇らしい気分になったものである。道中道路の拡幅工事が施されていたが、ところどころでは、作業員が長柄のスコップと鶴嘴を使って人海作業を展開していた。日本では見かけられなくなって久しい光景が残っていた。

このような荒蕪地に植林されて緑が次第に豊かになってきたなと思っているといつの間にか一面に短い草の生えている草原地帯に入っていた。ここでは草に混じってあやめに似た草花や白や赤色の小さな草花がちらほらと咲き誇っている。四囲は見渡す限りの大草原である。羊の群れがのんびりと草を食んでいて空は抜けるように青く、雲一つ見かけられない。そして所々に円筒に円錐を重ねたような白い布地の建物が建っている。移動式住居のパオである。モンゴル語ではゲルという。一か所に五十戸ほどもこのパオが並んで建っている場所に我々のバスは到着した。ここがシラムレンである。


この地は1986年に政府によって開発された大草原の生活を体験するための観光施設である。バスが到着すると民族衣装を纏った若い男女が10人程歓迎の歌を歌いながらパイカル(白酒)を満たした杯を勧めてくれる。お客はこの杯を乾さなければならない。酒の飲めない人は形だけでも杯に口をつけて飲んだ振りをしなければならない。それがモンゴルの作法なのである。私は口一杯に含んで飲んでみたが、喉に焼けつくように強い酒である。度数は四五度もある。今夜の宿舎はパオである。

 一つのパオには6人が泊まれるようになっていて、布でできたバオの中の円錐型の天井には中央に明かり取り兼煙突用の穴が開いている。円形の床は半月形二つに区切られていて、一方の半月形は土間より30cmほどの高さに板間が設えられていて毛布が敷かれている。ここへ布団を敷いて六人が雑魚寝をするのである。他方の半月形部分には机と椅子が置かれていてお茶が飲めるようになっている。この寝所に隣接して水洗式の便器と洗面器の設置されたパオが設置されていて扉で繋がっている。ここには天井にシャワーのノズルがついていてシャワーも浴びられるようになっている。これは観光客用の特別仕様であって、一般家庭の遊牧用のパオにはシャワー設備も洗面器や便器も設備されていない。毎日入浴する習慣はないし、大草原に穴を掘って青空を見ながら大小の用を足すのである。一般民家を訪問してお茶を御馳走になった時のパオは入り口に、畳一枚分程の土間があるだけで残りの部分は床あげした板張りで一面に毛布が敷かれていた。

指定されたパオに手荷物を置いてから、草競馬と蒙古相撲を見学しに行った。内蒙古最大のお祭りであるナーダムは7月25日から5日間盛大に行われ大変な賑わいをみせるそうだが、我々が見学した相撲と競馬は観光客用に特別に催される「さわり」の部分だけであった。それにしても民族衣装を纏って、十数頭の馬に騎乗した若者達が大草原を疾風の如く、自在に馬を操って疾駆する姿は勇壮であり、ジンギスハンが世界を征服した時の雄姿を彷彿とさせるものがあった。

 この後体験騎乗に参加し大草原を馬で散歩した。私の乗った馬は最初こそ、御者が轡取りをしてくれていたが暫くすると引き綱を鞍にくくりつけて単独でやってみろと手真似で合図してから離れ去ってしまった。なんとか落馬しないで2時間を消化することができたが、突然走り出したり草を食みだしたりしてなかなか乗り手の意のままに動いてくれない。走らせようとして足の踵で馬の腹を蹴るのだが素知らぬ顔で悠々と歩いている。馬の意思に任すしかないと諦めていると突然走り出したりする。走りだすと内股がこすれて痛くなる。それでも慣れてきて振動に合わせて体を揺らせているといつのまにか与えられた2時間が経っていた。



2004年06月12日(土) 【赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断・・旧満州�◆�

 再び瀋陽駅から大連まで午前中かけて列車で移動した。今回の列車は車両も新しく快適な旅であった。車窓から眺められる光景は山がみえず一面玉蜀黍畠である。コーリャンもある筈なのだが見当たらない。幼少の頃食料不足で朝から晩まで食べさせられたコーリャン畠が見られないのは何となく寂しい気持ちである。コーリャンよりも玉蜀黍のほうが市場価値が高いのであろうか。こんなところにも開放政策を取り入れて資本主義化した中国共産主義の変容を見た思いである。

ハルピン市内のソフィア寺院


 瀋陽という地名は現在の中国語では「沈+こざと偏に日」と記し、「太陽が沈む」地という意味になるのが面白い。そして車窓越しに広野を眺めるとき「ここは御国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下・・・」という軍歌の一節を思いだしていた。更に、当時の軍部や若人達の満州平野へかけた夢と野望に思いを致すと感慨一入なるものがあった。

 昼食後は自由行動となったので、中国語の話せる山越氏と一緒に繁華街へ探訪に出かけた。物資は豊富で活気があり、これが社会主義の国かと首を傾げたくなるような品揃えと賑わいであったし、日本の繁華街と見紛いそうな雰囲気であった。

 家庭教師を希望する学生達が生徒を募集するために首から看板をぶら下げて繁華街に行列して多数立っている風景は珍しかった。カメラを向けると途端に看板を隠してしまいうまく収めることができなかった。しかも、その中の一人の若い女性がつかつかと歩みよってきて何か言っているがよく判らない。

「アイキャンノット スピークチャイニーズ アイキャンノット アンダスタンド ホワット ユウスピーク」と言い返すと何事もなくそのまま立ち去って行った。同行の山越氏の解説によれば、無断で写真をとったことに対して抗議をしにきたのだという。中国ではよくあることで、カメラを向ける時にはよほど注意が必要だと教えられた。一人子政策をとる中国では子供の教育費には惜しみなく金を投じる現在の中国社会の世相を窺わせる光景であった。

高台から見た市内

 夕食にはテレビ塔のある高台で海鮮料理を賞味した。この高台へ来る途中で山腹に瀟洒で高級感溢れる分譲マンション群を目撃したが、ガイドの説明によれば交通手段が乗用車しかないので、全然買い手がつかず全戸空室であるという。これに反して交通便利な立地条件の場所に建設された同等クラスのマンションは売り出しの即日完売になったという。マーケットリサーチをせずにただ持ち家ブームに乗って一儲けしようと企んだ不動産屋の失敗作だと解説していた。いかにも現代の建設ブームに沸く中国によくありそうな話であった。また一等地に韓国の「現代建設」が着工したが外側だけ出来ただけで会社の経営がおかしくなり、内装は行われないで未完のままになっているという高層ビルの傲然と佇立する雄姿も哀れを催す風物であった。夜景をみてからホテルへ帰った。



2004年06月11日(金) 【赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断・・旧満州� �

▼中国の旅1 大連、旅順、ハルピン、長春、瀋陽
                  2001年5月31日〜6月11日

 大連空港への着地は18時40分(現地時間)であった。時差1時間だから実飛行時間は2時間半程である。機上から一見しても大連空港の近くには瀟洒な建物が立ち並び美しい町だとの予兆がある。街中へ入るとなるほど北方明珠ともいわれるだけあって大連は美しい都市である。坂が多いので自転車が少ない町でもある。街路樹はポプラとプラタナスが多く、マロニエの木にアカシアもある。街路灯がすずらんの花型に作られていたのも珍しかったし、建物の隈取りの真っ赤な照明が印象的であった。また信号が非常に少なく電線が空中を走っていないことも小さな驚きである。それだけでも美しい町作りが出来ている。

 ホテルを出てバスで旅順に向かった。道すがら観察した大連市中は予想していた以上に大きな町であり、かつ綺麗な建物が並んでいるうえ新しくクレーンも立ち並んでいて発展している町だとの印象が強い。市内人口は890万人だといい,郊外人口が270万人だから1160万人の大都会である。

 日本の統治は1905年〜1945年でその前はロシアの南下政策の影響もあってロシアの影響を強く受けている。現在の発展状況は開放政策以後のことで、ここ4〜5年の間に発展し大きくなったという。

 日露戦争の激戦地東鶏冠山と203高地を見学した。
 旅順要塞の攻撃では第三軍の司令官乃木希典が二人の息子を失い、多くの兵を消耗(六万人)しながら3回にわたる総攻撃でも奪取できず、司令官が児玉源太郎に替わり東京湾観音崎砲台に取り付けられていた臼砲を急遽運びこむことによって砲撃を加え、やっとの思いで奪取した203高地は当時ロシアから運んだと言われるセメントで固めた頑丈なトーチカが作られていてその残骸がまだ残っていた。日本軍が破壊して突破口を開いたとされる爆破の後も残っていて今は観光の名所になっている。爆破の時コンドラチェフというロシアの有能な司令官が爆死したと言われる場所も残っていた。周囲には樹木や草が生い茂り、静かなところでトーチカの残骸がなければなんの変哲もない場所である。

 急峻な坂を籠にゆられて行く観光客を横目で見送りながら、ようやくの思いで登りつめた地点には砲弾型の慰霊碑が建っており、遙か下方に旅順港が見下ろせる。この地へ臼砲を運び込み旅順港を砲撃したのである。旅順港は軍港なのでまだ外国人には開放されていないので山の上から遙か下方に眺めるしかない。

 大連から旅順に赴く通りの海岸には昆布の養殖が行われていて取り入れの舟が沢山浮いていた。大連市の特産物であるという。

 再び大連市内へ戻り、中山広場沿いに建っている旧横浜正金銀行、大和ホテル等を見学した。中山広場に集まる群衆の数の夥しさにも一驚であった。 夜は夜行寝台車でハルピンに向かった。

 朝七時過ぎにハルピン駅に到着して駅近くのホテルまで朝食を摂りに赴いたが雑踏で身動きも容易に出来かねる賑わいである。大都会の駅頭ではいつも見かける光景である。山間部から出てきた人が相当いる筈である。何しろ12億9千万人の人口を抱える中国である。その一割に相当する人間が盲流と称する移動労働者である。所謂出稼ぎ労働者なのである。

 ハルピンとは満州語で網を干しているところという意味なのだという。松
花江で満州族が漁をしていたのがハルピンの起源である。松花江を渡った地にある太陽島公園で新潟庭園を見た。ハルピン市と新潟市は姉妹都市なのである。

 朝鮮族ガイド金竜珠さんの話によれば、青森県や新潟県から一週間の予定でやってきた花嫁募集ツァーの案内をしたこともあるという。日本の農村の後継者不足、嫁不足はそこまで深刻であるのかという驚きとともに日本海側の日本の地方都市とこのハルピン市の絆がそこまで強くなっていることも新鮮な発見であった。

 次いで虎北園というシベリア虎30数頭を飼育しているサファリパークへ行った。種族保護のため国で飼育していたが餌代に困ってサファリパークにしたところ、観光客が買って与える餌だけで間に合うようになり、累積赤字が解消したというから面白い話である。

 翌朝再び列車で午前中かけて長春へ出掛けた。昔新京と言われた都市で旧関東軍や満州鉄道が大陸経営の拠点とした所である。皇帝溥義が日本軍部の傀儡政権として王宮を営んだ場所でもある。中国共産党はこの政権を認めていないので王宮は偽王宮と呼ばれている。故宮などと比べると遙かに貧弱な建物で、皇帝溥義の苦悩がよく判る気持ちであった。偽満州国務院などの建物も残されていて昔、ここへ住んでいた日本人にとっては懐かしい建物であろう。昼食時に土砂降りであったが、うまい具合に雨も上がってほっとした。

 再び列車で瀋陽(旧奉天)へ向かった。
 この町の駅は新築されたばかりでとても立派であったし,町中が建設ラッシュであった。中国で北京、上海、天津に次いで四番目の都市だというから人口も1200万人(郊外地含む)あるという大都会である。これから発展する都市だという印象が強い。オリンピックの北京開催が決まった日でもあり、いずれ開発が目まぐるしい勢いで進むことであろう。

 午後から北陵と故宮の見学をした。ここ瀋陽は清朝ゆかりの地で、開祖ヌルハチ(太祖)が遼陽からこの地へ1625年に遷都して以来、再び北京へ遷都するまで約20年間国府とした所である。もっともヌルハチは瀋陽へ。遷都した翌年没している。ヌルハチの墓地もこの瀋陽の地にあるのだが、時間の都合で見学はできなかった。北陵には二代皇帝大宗ホンタイジの妃が葬られているのである。

 創始者達はいずこの国も質実剛健である。この瀋陽の故宮もその雰囲気はふんぷんと匂っており、清朝の軍事行政組織の根幹である八旗の統括者の事務所が八つ八の字型に並んでいるのが珍しい構えであるが、北京の故宮に較べれば十分の一の規模で建物も小さく、即戦体制がとれるような配置になっている。

 この八旗軍団が肥大化し脆弱華美に流れ形骸化した時、清朝没落の遠因を作ることになったのである。



2004年06月10日(木) 【やはりなんとなく懐かしい国・・韓国�◆�

翌朝ソウルに向かうべく慶州駅へ向かった。急行列車セマウル号は外観が薄汚れていて清掃を殆どしていないのではないかと思われる程のひどさであったが、列車内の客室は広軌のせいかゆったりしていて清掃もきちんとなされていた。4時間半程の旅程は田園風景を眺めやったり、持ち込んだ碁盤で同行者と囲碁を打ったり、配給された弁当をたべたりして退屈することはなかった。

ソウルでは開園を待って昌徳宮の観光をした。ここには専任の日本語ガイドが配置されていて、日本人観光客を纏めて説明する都合上、入園時間が指定されているのである。開園と同時に夥しい数の日本人観光客がどっとガイド嬢を取り囲む。その数ざっと四〜五百人であろうか。ガイド嬢はハンドマイクを片手に堪能な日本語で説明してくれるが、なんとなく発音が不自然である。

昌徳宮は1405年に李朝三代王太宗のとき、正宮である景福宮の離宮とし
て造営された宮殿である。1412年に正門である敦化門が建てられ、宮殿としての面目を整えてきた。1459年世祖が規模を拡大し15万坪にまでなった。1592年の豊臣秀吉の侵攻によって宮殿の大部分が消失した。その後、宜祖が再建を始め1610年光海君の時完成した。その後数回の火災があったが、1917年の火災で大造殿のほか内殿が消失したので、当時の朝鮮総督府が景福宮の交泰殿と康寧殿を解体移設して建てたのが現在の大造殿と熙政堂である。

昌徳宮は光海君以降13代にわたり約270年間政務が執られた宮殿で、正
宮の景福宮よりも長い期間、王の御座所であった。現在の面積は135、212坪、宮殿の建物が、13棟、後庭に28棟の楼閣が残っている。秘苑の名でよく知られている後苑は、自然との調和美を生かした韓国伝統の造景の特徴がよく保存されている代表的な宮殿の庭園である。この昌徳宮は1997年ユネスコの世界遺産として登録された。

構内の仁政殿は韓国の国宝に指定されており、敦化門、宣政殿、熙政堂、大造殿と何れも宝物に指定されている。なかでも、王と王妃の寝殿であり、且つ王とその家族が生活した中宮でもあった大造殿は棟瓦を置いていない建築様式が珍しい。韓国では棟瓦のことを竜棟と呼び国王は竜に喩えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦は省かれたのである。

昌徳宮の中にある楽善斉は1847年に後宮として建てられたものであるが西側から楽善斉、錫福軒、寿康斉が配置され、正面に回廊が渡され一郭をなしており、総称して楽善斉と呼ばれている。この建物は両班の建物を模して質素を旨として建てられたと言われており、廻りの景色とよく調和して素朴でこじんまりとした趣を感じさせる。なお日本皇族の梨本宮家から降嫁した李方子女史が1989年まで生活したところでもある。

秘苑は1405年昌徳宮が創建された当時造営されたところで、豊臣秀吉の侵攻の際、大半の庭亭が消失した。今残っている楼亭は仁祖以後歴代の王によって改修増築されたものである。ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮亭と演慶堂を中心とする空間、そして半島池と玉流川の流域からなっている。この秘苑は韓国の伝統的な造園で地形に合わせて楼閣を建てたり、花と木を植えたり、また池を掘ったりして、その美しい調和の美をかもし出している。庭木も鬱蒼として古木が多く中には樹齢六百年と言われる巨木もあった。栗鼠などの小動物も生息しており、その可愛らしい姿が観光客の感嘆の声を誘っていた。

昌徳宮を後にして国立中央博物館へ赴いた。博物館は正宮であった景福宮の構内の一郭にある。往時通りすがりにあった元の朝鮮総督府の建物は解体されて跡形もなくなっており、跡地には勤政殿を再建中の工事現場があった。殿舎は大体出来上がっており、テントの中では最後の仕上げ工事が行われているようであった。その光景を複雑な思いで眺めやった。

 翻って日韓関係の不幸な歴史を顧みると日本政府は1910年に韓国を併合し、この地に朝鮮総督府の建物を建設し軍主導の植民地支配の武断政治を行ったのである。韓国の人々にしてみれば、崇敬する王宮の構内中枢位置に異民族による支配機構の建物を建てられたわけだからその屈辱感と敗北感には我々の量り知れないものがあったことであろうと粛然とした気持ちになった。



2004年06月09日(水) 【やはりどことなく懐かしい国・・韓国� �

▼韓国の旅 釜山、慶州、ソウル   
                2000年8月25日〜8月28日

 釜山の金海空港で乗った出迎えのバスは釜山港へ向けて出発し、間もなく洛東江を渡った。この河は1950年に勃発した朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がソウルを落とした勢いで釜山へ迫り、韓国軍最後の防衛線となったところだなと往時の悲惨な戦禍のことを想像しながら渡った。ガイドの金嬢も朝鮮戦争の被害のことを折りに触れて説明していたが、表面見る限りもう戦争の痕跡は認められないし、山手に立ち並ぶ近代的な高層住宅群を見るとこの国が発展している様子が即物的に理解できるような気がする。

釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口四百万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。

 海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。

慶州は紀元前57年から935年まで新羅王朝の都としておよそ一千年の間栄えてきた町である。慶尚道の人口は308万人でありその中約一割の29万人がこの穏やかな地方都市に住んでいる。黒灰色の瓦で葺かれた反りのある入母屋作りの民家は門壁に囲われて実り豊かな農村地帯の裕福な農家の雰囲気を留めているし、王侯の丸い墳墓を初めとする史跡が沢山残っている風光明媚な町である。この地を訪れる観光客は外国人、現地人共に多いが外人観光客の中では圧倒的に日本人が多くその九割に及ぶという。

 四囲を見回すとなるほどそれぞれにカメラをぶら下げた老若男女の日本人観光客ばかりである。観光客誘致のための美化運動も積極的に進められているようで、自動車道路に沿って街路樹が沢山植えられており、とりわけ見渡す限りの桜並木は素晴らしい。花の咲く頃再訪してみたいという思いに駆られる。折から国花の木槿の花がそちこちに咲いていたが、これまた可憐な風情があり一際旅情をそそる。このあたりの風景には日本では既に失われてしまった農村の原風景が残っているようで懐かしい。この地域から古代日本へ渡来した帰化人の血が我々の先祖を通じて流れているからなのだろうか。やはり何処となく懐かしい国である。

翌朝、標高750mの吐含山山腹にある石窟庵へ向かった。生憎また雨が降っていた。石窟庵は751年に新羅35代の景徳王時代の宰相・金大城が両親のために創建した釈迦如来像を安置するための石窟である。安置されている釈迦如来像は花崗岩を丸彫りした高さ三.二六mの石像で、仏教美術上の最高傑作といわれている。しかも一年を通じて元旦にだけ如来像の顔に石窟内を通り抜けた太陽光があたるように設計されているうえ、仏像の設置位置は円形窟の中心点よりやや後方にずらされていて正面から対峙する参詣者に荘厳さを際立たせる工夫がなされていて、
当時の技術水準の高さが窺われる。仏像を取り囲む四方の石壁には十一面観音、金剛力士、四天王等のレリーフがあり釈迦如来の光背も遠近感を考慮して彫られている。如来像は全体が石窟で覆われていて石窟の上には土が盛られていて草むしており外見では小高い山のようになっている。また吐含山は湿気の多い岩山で地表や岩間を流れる水量が多く、流れる水に耐えて保存されてきたことでも特異な存在の石窟、石像であるという折からガラス張りの石窟の中では僧侶が読経しており、その後方左手には熱心な女性の信徒が細長い座布団を敷いて五体投地の拝礼を繰り返していた。世界遺産に登録されている。



次に仏国寺へ赴いた。仏国寺も吐含山にある寺院で、韓国屈指の名刹として
知られている。528年新羅の法興王が夫人の法流尼のために創建した。「華厳教」に説かれる仏国土をこの世で代表する寺と考えられ、真興王、景徳王の時代に堂舎が整備された。のち、1592年豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、兵火にあい堂塔の多くを消失したが、李王朝によって修補、再建が重ねられた。現存する石造物は756年、木造建築物は1659年に構築されたもので、伽藍は大雄殿を中心とする東区、為祝殿を中心におく西区からなり、これに配された多宝塔、釈迦塔、橋、廊や仏像等東洋美術上の逸品が多い。特に柴霞門、安養門にはそれぞれアーチ型の二つの石橋が架けられており、均整のとれた姿や石造技術の優秀さには見る者をして感嘆せしむるものがある。またそこかしこに見られる石組みにも見るべきものが多い。更に極楽殿の阿弥陀仏、毘盧殿の毘盧舍那仏の美しさには見とれて忘我の境を彷徨いそうである。



古墳公園は七基の巨大な新羅王陵を中心に23基の古墳群を整備した公園であるが、奈良の若草山に似た墳墓に生えている草はよく手入れされており幾つも並んだ古墳群の単純な形は外見上とても美しい。墳墓の内部を公開しているのは天馬塚であるが、この塚からは盗掘にあっていない12000点余の副葬品が発掘され、博物館に展示されている。



天馬塚内部には木枠で囲われた埋葬箇所が展示されているが、説明によれば入り口も出口もない閉ざされた木箱の中に王の柩と共に多数の家来が生き埋めされて殉死したという。木箱の上には石塊が積み重ねられるのだから、木箱の中に生きたまま閉じ込められ次第に空気がなくなってきて断末魔の呻きをあげながら殉死していった人々の魂がいまでも彷徨っているような気がして身の毛がよだつ思いであった。



2004年06月08日(火) 【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�ァ�

 朝早く起き出してホテルを出発しメディナの空港へ赴いた。聖地に異邦人が足を踏み入れることは許されていない。メディナからジェッダへ飛んでいよいよ帰国である。

 ジェッダでフライトまでの間を利用して市内観光をした。紅海の海上公園レストランで海鮮料理を食べ、魚市場、旧市街、ナシーフ家の旧邸宅を見学してから海岸通りで巨大な噴水と入り日を眺めて空港へ向かった。

 今回の旅行で最も印象に残ったことは、神権独裁政治の恐ろしさである。
ところで国民生活の裕福度を推測するために資料を探してみた。

 サウジアラビアとヨルダンの国民所得を中近東諸国と比較してみると次ぎのようになる。
 日本      一人当たり GNP 3万8160$(1997年)
 サウジアラビア 一人当たり GNP   7150$(1997年)
 ヨルダン    一人当たり GNP   1520$(1997年)
 イスラエル   一人当たり GNP 1万5870$(1997年)
 パレスチナ   一人当たり GNP   1600$(1997年)
 レバノン    一人当たり GNP   2970$(1997年)
 シリア     一人当たり GNP   1120$(1997年)

 数字で見る限りイスラム国家としては中近東ではずば抜けて裕福な国であるが、まだまだ日本とは比較にならない程の差がある。サウジアラビアと聞けば世界でも裕福な国との印象があるが意外にそうではないことを数字が物語っている。

 メッカとメディナというイスラム教の聖地の管理国家として神権独裁政治形態を維持していけるのも石油資源が枯渇するまでの短い期間に過ぎないであろうという印象である。石油資源に陰りが見え始めた時が女性の人権が解放される時であるのかもしれない。或いは情報化社会の成熟時にある日突然、女性人権確立運動が契機になって神権独裁政権が崩壊するかもしれない。その日のあることを意識して秘密警察が幅を効かせているというのが私の感想である。

メディナ上空

 ジェッダでサウジアラビア航空に乗り込み、帰国の途についた。現地時間は20時30分であるが時差6時間を加算すると既に真夜中である。リャドまでの間に軽食が出された。空腹だったのでとても美味しかった。1時間程でリャドに到着し、ここで給油やら機内清掃で1時間機内待機した。再び離陸して夜食が配給されたが先に軽食を食べたのでおかずを食べる程度で殆ど残ってしまった。

 隣に座った人は宇治市からきた石原さんという人で動物学が専門の京都教育大学の名誉教授であった。最後に名詞を渡されてそのことを知った。最初は中小企業の社長かなと思っていたが人は見かけによらないものである。



2004年06月07日(月) 【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�ぁ�

 この夜、星を観察にでかけた人達もいたが、私は棄権して疲れを癒すことに努めた 翌日聞いてみるとこの夜は車の明かりが強くて漆黒の夜空に輝く星を観察することはできなかったということである。一見辺鄙な砂漠の中の田舎であっても本来の自然は失われつつある地球環境の実態を痛感することとなった。

 ナバティア人の北の都はペトラであり、南の都はマダイン・サーレハであるといわれている。本日は今回の旅行の終局のハイライト、マダイン・サーレハの観光である 砂漠と奇岩の広がる地域を暫く走行してマダインサーレハの遺跡群地区へ到達した 遠くには駱駝伝説の残る駱駝山が遠望できて、岩肌が切り立っている様子が見える 伝説とはサーレハという予言者がこの地へ大きな駱駝を連れてきて水は駱駝に飲ませるから人間は飲んではいけないと申し渡したにもかかわらず、愚かな人間が彼のいうことをきかず水を飲み尽くしてしまったために駱駝が死んでしまったという。そこで怒った神が暴風雨を引き起し水を飲んだ人間を殺してしまった。爾来この地には悪い水しかでなくなったという話である。

 ここではカサール・アル・ファリドの墓、アル・ビントの墓、44番目の墓とタイプの異なる三種類の墓を選んで、内部にまで踏み込んで重点的に見学した。いずれも完成半ばで中断した墓であるが、作成段階の相違によって墓の形が異なっているのが比較できて面白かった。

 似たような墓が大小取り混ぜて無数にあったのでなにがなんだか判らなくなってしまったが、何れも岩の中に彫り込んだ窟になっており、その中には柩を収める長方形の穴が幾つも或いは縦型に或いは横型に穿たれていた。そして正面には入り口が設けられ、概ね二本の柱が刻みこまれており、屋根の上には天国へ赴くための階段が彫られていた。そして壺や夾竹桃の花模様が柱の上部に刻まれているのである。

 ペトラ遺跡にも墓は沢山あったが、ここはそれ以上に墓が多く、まさに遺跡は墓ばかり、岩のあるところ墓ありという趣であった。当時の井戸も残されていた。

 この時代の宗教はペトラ同様多神教であったと考えられている。

 マダイン・サーレハの遺跡を跡にしてヒジアス鉄道の駅舎の跡や、トルコの官僚が居住していたという日干し煉瓦造りの砦、ヒジアス鉄道を走っていたというドイツ製の蒸気機関車等も見学した。これらの文化遺産はサウジアラビアの観光局が観光資源保存の重要性に漸く目覚め保存のための動きを開始したばかりという程度の保存状態であった。

 昼食後暫しの休憩の後、アル・ウラーの旧市街を見学した。トルコの侵略により廃墟となった旧市街地の土造りの建物は荒れ果てて見る影もないが、建物の配置の状況から交通の要衝を占めて隊商達の往来で活気に満ちていた盛時を偲ぶことができる。 新市街に足を伸ばし暫し町中を徘徊したが、この街に留学している女子大学の学生達が買い物のために頭から黒いアバヤを纏い、顔まで黒い布で隠して歩いているのを多数目撃した。彼女達も異邦人達が群れて徘徊している様子が物珍しいようで視線を投げかけているようであったが、悲しいかな表情を読み取ることができなかった。

 衣服店を覗いてみると彩り鮮やかな洋服や下着類が品数豊富に陳列されていたが、このような衣服を彼女達は何時どこで着用するのだろうかと疑問だけが残った。家族の前だけで着るのであろうか。それとも夫の前だけで着るのであろうか。謎は深まるばかりである。

 気がつくとここでもパトカーがいつのまにかバスの側に駐車していた。

 この夜は入り日をエレファントロックを背景に撮影することになり、時間をみはからってバスで赴いたが、砂地の上を車で走行する危険性の見積もりをあやまり、日没時間に遅れそうになってしまった。慌てた運転手がうっかり、処女地の砂地へ乗り入れたものだから車輪が埋もれてしまい動かなくなってしまった。乗客一同車を乗り捨て砂地に足をとられながら落日を追って走り回るというハプニングがあった。待望のエレファントロックを背景に日没の景色を撮影することは時期的に無理だったようで希望を果たすことはできなかったが、なんとか奇岩を背景とした入り日の撮影をすることはできた。バスはトラックを呼んで引っ張って貰うことにした。我々は道路まで出てヒッチハイクの要領宜しく通行中の自動車にピックアップして貰ってホテルまで帰ることにした。

 道路にでて手を上げると2台程車が止まり、その中の一台がピストン運転でホテルまで送ってくれるという。聞けばエジプトから出稼ぎにきているエンジニアで奥さんと一緒に外出した帰りに我々の姿を認めて一役買って出てくれたというのである。彼は困っている人がいる時には助けるのがモスリムとしては当然の行為であるとなんの気負いもてらいもなくさらりと言った。

 ホテルに帰って夕食後、民族舞踊を見せるというのでテントに行くと10人程の男達が普段の白装束の衣装にスカーフを頭に被った姿で屯ししきりに楽器の音合わせをしている。

 何時始まるのかと待っていると刀を振りかざした緩慢な動きの踊りらしきものが何時とはなしにだらだらと始まった。音楽は打楽器である。前口上もなければ演じている音楽や舞踊についての説明もない。メリハリがなくしまりのない民族舞踊であったしかも、男達だけであるから演技に華がない。観光客に民族舞踊をみせるというならもっときめ細やかな心遣いとメリハリが欲しいところである。ショーとしては落第である。中座して寝ることにした。



2004年06月06日(日) 【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア��】

 サウジアラビアのリヤドからヨルダンのアンマンに飛び、アンマンとペトラ遺跡を観光し本日の宿営地タブークへ向かった。アンマンとペトラ遺跡については既にヨルダン編で述べた通りである。

 ペトラ遺跡の観光を終えて再びサウジアラビアへ入国すべくヨルダン領の砂漠地帯をバスは疾駆している。
 
 この日の昼食は砂漠の中のテントの中で品数盛り沢山のベトウィン料理を堪能したが、炊き込みご飯は日本の米と同質の短粒米が使われておりほどよい味付けはとても美味しかった。今回の旅行中の食事の中では一番美味しいと思った。そしてこのような米を常時食べているのならベトウィン料理の愛好者になってもいいとさえ思った。

 このベトウィンテントのある地帯には観光客が体験宿泊できるテントが幾張りも設営されていたので、この料理も観光客用に新たに開発されたメニューではないのかなとふと思ったりもした。 

 食後、たまたまこの地に居合わせた地元のテレビ局の撮影チームに依頼されて観光客としての取材を受けることになった。この地を観光地として紹介するための映画を制作しているところだということで、正装したアタラザワイド族の酋長(地元の有力な族長)も同行していた。

 簡単な取材後、本日の宿泊地タブークへ向けて長時間のバスドライブが始まった。 国境に到着してヨルダン側の出国は短時間で終了したが、サウジアラビアの入国には長い時間がかかってしまった。1時間半位待たされたであろうか。

 この間、我々を出迎えるためにリャドから飛行機で駆けつけ待機していたガイドのサレー氏ともども入出国管理事務所長の部屋へ案内され、所長同席のもとに茶菓の接待を受けた。

 口上は遠国の日本から来られた皆さんに書類審査をする間くつろいで戴きたいということであったが、真相はバスの中に置いてある携行荷物の中身を検査するために我々を格好つけて所長室へ誘導し茶菓を振る舞ったということである。このことはバスに戻ってから荷物の中身が全員等しく荒らされていたことで判明した。多分、アルコール類、麻薬、裸体の女性の写真等を持ち込んでいないかどうかをチェックしたためと思われる。ことほど左様にこの国ではアルコール類、女性の裸体画の流入を恐れ、神経質なまでに警戒しているのである。

 神権絶対主義政権の権力基盤維持のために張りめぐらされた秘密警察組織の恐ろしいところである。

 やっと解放されて再び砂漠の中のドライブが続いたが、道中ベトウィン族の野営のテントをそちこちに見ることができたし、砂漠の緑化事業を推進している個所も数カ所目撃することができた。明らかにオアシスだと一見して判る夏目椰子の畑などもみることができた。緑化した畑で注目すべきものはその大がかりな散水設備である。パイプで作られた巨大な梯子状の散水設備が畑に置いてあり下には移動用の車輪がついているのである。

 タブークの街に近づくにつれ、次第に緑が多くなり、広大な畑には小麦や野菜類が生い茂っていた。タブークは古来農業生産物が多く肥沃な土地としてまた軍事基地のある所として有名である。

 サレー氏の父親の広大な農園もこの地に営まれていた。
 タブーク近郊は目下建設ラッシュであった。
 タブークには泊まっただけで翌日はアルウラーへ向けて長駆480kmの移動日である。

 途中テーマ村でナバティア人が紀元前1世紀頃掘ったと言われる大きな井戸を見学した。巨大な井戸は現在も地域の住民の使用に耐えており、ナバティア人の土木技術の優秀性を証明する遺跡である。

 ここでもいつのまにか現れた警察の車がバスの横に駐車して我々の動向を観察していた。

 単調な砂漠の道路を長時間駆け抜けて居眠りから目覚めてみると、漸くアルウラーの近郊までやってきたようである。がらりと周囲の様子が変わっているのである。窓外には砂岩でできた丘や山が至る所に出没して奇怪な光景を作り出している。見ようによっては広大な岩塊砂漠の中に岩山が散らばっているようにさえ見える。オーストラリア西海岸の景勝地ピナクルの奇岩群と似通った趣である。

 そして岩塊や岩山が次第に大きくなってあたかもカルデラの中を走っているような風景が展開しはじめて、岩の形も奇岩が多くなってきたところがアルウラーである。 アルウラーのホテルで小休止の後、夏目椰子畑の横を通り抜けてアル・クレイバの遺跡、エレファント・ロックを見学した。この地方には紀元前7世紀頃から人が住み着き始めたと考えられており、古代ナバティア人の遺跡が数多く残されているのである。

 アル・クレイバー遺跡には保護柵が設置されていて近くで観察できなかったが、望遠鏡で岩に彫り込まれた彫刻を眺めてみるとライオンの像が彫られているのを微かに認めることができた。

 エレファントロックは永年の風雨に晒されて巨大な岩塊の一部が風化崩落して岩塊に穴があき象の鼻のように見える岩である。時期によってはこの岩の穴の部分にサンセットを眺めることもできるという。もしそれが本当であればさぞかし絶景であろうと思った。

 日暮れも近いのでこの周辺で奇岩群の上に沈むサンセットを写真に収めようと相談していたら、もっとよい場所があるとのガイドの説明でアル・ハッラーの丘(燃える岩)の頂上まで日没を見に行くことになった。

 石ころがごろごろしている勾配のきつい坂道を四輪駆動のトラックでヘヤーピンカーブをいくつも曲がって高度1300mの頂上へ到達した。驚いたことに頂上はフラットで広大な平地になっている。サッカー場が何十面もとれそうな広さである。下方を俯瞰するとアルウラーの旧市街、新市街、夏目椰子畑、宿泊予定のホテルまで見えている。砂岩で出来た奇形の岩山の頂上がこのような平地であることは大きな驚きであった。

 やがて日没となりこのサレー氏は他の現地人運転手達10人程のモスリムとともに日没前の礼拝を始めた。彼等の礼拝の様子をカメラに収めていると丁度日没の時間を迎えた。残念ながら広大な平地なので日没の模様は単純で写真としては面白くないものになってしまった。どこかの砂漠で写したのと変わらない画像となってしまうのである。奇岩の上に沈む太陽を撮影したいのが我々の希望であった。
 全て自慢の景勝を披露したいというガイド氏の善意と芸術的な写真を撮影したいという観光客の我が儘な気持ちがすれ違った意思疎通の齟齬であった。



2004年06月05日(土) 【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�◆�

 リヤド市内に戻り7万5千人収容できるキングマハメッドスタジアムを見学した。このスタジアムはサッカー場として1988年に完成したものであるが、そのテント張りの屋根に特徴があり、珍しいデザインの競技場である。 

 競技場の観覧席に設置されたテレビモニターに訪れた観光客を映し出すというサービスを行っており、国を上げて観光客を誘致しようという姿勢だけは窺えた。競技場内には選手のための更衣入浴施設、医療施設や運動施設が設けられており、普段は垣間見ることのできないサッカー競技場の内幕を見学できた。

 少なくともブラジルで過去に見学したサッカー場よりは附属設備に関する限り充実しているとの印象を受けた。

 駱駝市を見学した。駱駝の効用を1)砂漠の旅の荷役用 2)農耕用 3)食用 4)レース用と考えると道路網が完備し自動車や農業用機械が普及した現在では1)と2)に関しては殆どその役割を終えたと思われるのだが、それにもかかわらず駱駝市が盛況であることはちょっとした驚きであった。食用としては肉もミルクもスーパーなどでは市販されていないということである。どうも現在では駱駝はレース用として有産階級の投機の対象物或いは富を誇示する物差しとなっているようである。そして強壮飲料としてそのミルクが有産階級に愛用されているらしい。砂漠の民でない我々には理解し難い駱駝市の盛況振りであった。

 国立博物館では2.75tの隕石が印象に残っている。そして附属の土産物屋で梟の置物があったので値段札を確認しようとしたところ台座に固定されておらず梟が転がり落ちて壊れてしまった。値段を安くして貰って百ドルを弁償するはめになってしまった。保険で補填されると考えていたので、帰国してカード会社へ請求したところ、昨年8月から取り扱いが変わって、この旅行に使った公共の交通機関の料金をカードで支払っていないと適用されないと言われてしまった。取り扱いの変更は告知してあるとのことであったが、そのことを知らなかったので詐欺にでもあったような不愉快な気持ちにさせられた。大きな事故に遭遇しなかったことが不幸中の幸いというようなハプニングであった。
 
それにしても保険会社の自分勝手な手口には腹が立つ マスマック砦の見学を終えてスークを散策していると警察官に呼び止められて我々一行は足止めを喰ってしまった。どうやら黒い衣服を纏った異国の婦人達がカメラをかざして町中を闊歩する様子がこの警察官にはよく理解できない生まれて初めての体験だったらしい。ご注進ご注進とばかり、まずは足止めをしておいてあちこち関係機関へ照会したらしい。やがて事なきを得て解放されたが、閉ざされた国の外人観光客の扱いに不慣れな末端官公署の戸惑い振りを垣間見た思いのするハプニングであった この後都会地で各所の観光をしていると必ずと言っていいくらい何時のまにかポリスのパトカーが駆けつけてきて我々の行動を監視している局面が続出した。宗教警察というのがあり、風俗を中心に取り締まっているらしいが、見張られている方は気持ちのよいものではない。全身を顔まで黒いアバヤで覆った現地の婦人は格好のカメラの素材なのであるが、警察に摘発される虞があるのでついぞ撮影するチャンスを見付けることができなかった。 


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