前潟都窪の日記

2004年06月24日(木) 【水墨画の世界奇山、珍山を堪能し、桃花源に遊ぶ・・桂林� 曄 �

▼中国の旅6 広州、桂林、離江下り、陽策
                   2003年2月26日〜3月1日

 2月26日から3月1日まで桂林へ旅行してきた。漓江流域に聳え立つ奇山、珍山が織りなす光景は3時間程の船旅を退屈させない素晴らしい川下りであった。こういう奇山、珍山カルスト地形と呼ばれるところにみられる風景だという。カルストのできかたは先ず


1) 約3億年前、赤道付近で海底火山が噴火を始めた。
2) 約2.5億年前、噴火のやんだ火山の山頂付近に珊瑚礁が発生し、厚く積み重なって石灰岩の地層を作った。
3) 約1.5億年前に珊瑚礁を載せた海底火山は移動するプレートに運ばれて海溝に沈み込み、堆積物と混合し山体が削り取られた。
4) 約二百万年前に始まった地球の造山活動で海底が隆起した。

 そして石灰質で出来た地形は雨水に含まれる二酸化炭素に溶かされて削りとられこのような奇岩、珍岩が形成されたと考えられている。鋸歯状の地形(カレンフェルト)と擂鉢状の窪地(ドリーネ)とがあるがここ桂林のものは鋸歯状のものである。

  日本では山口県の秋吉台、北九州の平尾台、四国カルストがあるが、ここ桂林を中心とする漓江流域の広大な地域に途切れることなく続く景観に比べればその規模において全然太刀打ちできない。今まで経験した川下りで今回ほど風景を堪能したことはなかった。

 漓江下りの終着港陽朔県で一泊して翌日「世外桃源」


と称する観光地へ行った。川に囲まれた田園の中には少数民族が木造の建物に民族衣装を纏って自給自足の生活を送っている。観光客が舟で通ると川べりの舞台へ民族衣装を纏って現れ民族舞踊を踊って歓迎してくれる。


周囲には鋸の歯状の奇岩でできた山々が連なり、地味豊かな緑の田畑には折から赤色の桃の花がそちこちに咲き誇っており、木々は淡い緑色の新芽を一斉に萌え出していた。川では女性達が砧を打って洗濯をしていたり、男が投網を打って漁をしていたりする。庭先には鶏や豚が餌をついばんでいる。一見別天地の観があり、陶淵明が桃花源記に描いた理想郷さながらののどかな田園風景が展開されていた。




 しかしよく考えてみれば、彼が描いた桃源郷には現在のように観光客が群れをなして訪れることもなくひっそりとしていたことであろうし、ましてや展示館に伝統の機織り機を持ち込んで若い娘が


機織りを実演してみせたりということはなかったであろう。観光事業は手っとり早い外貨獲得の手段である。開放政策実施以来俄に作られたと思われる休憩所や土産物売り場の建物は新築間もないものであり、トイレが清潔に管理されていた。そして民族衣装を纏った娘はしたたかに写真のモデルになりたがる。ここでも商業主義、拝金主義の汚染が始まっていた。





 漓江下りは竹江という港から始まる。カルスト台地に形成された山並の形は鋸歯のように鋭く奇山、珍山を見学しながら川下りを楽しんだ。この打ち続く景色に一時間ばかり飽かず見惚れているとやがて、冠岩の鍾乳洞に到着した。





ここで一旦下船して鍾乳洞を見学した。とても大きな鍾乳洞で、天井から垂れ下がった鍾乳石や石筍は保存状態がよく折れたりしているものは少ない。様々な形をした自然が作り出す芸術作品を鑑賞しながら洞内を歩いていくとやがて洞内湖に到着した。そこには舟が用意されていて10人づつ乗り込んで真っ暗な中を船縁に設置された照明で四囲を照らし出しながら湖を航行するのである。





 物音のしない静寂の中、細いトンネル状の穴を通り抜けたりしながら10分間ほど洞内を巡った。聞こえる物音は船頭が操る櫂の水音だけである。観光客も静まりかえっている。閉鎖された空間なのであたかも地獄へでも船出するかの如き錯覚に陥るスリリングな体験であった。元の場所へ必ず帰れるという安心感があるから平気で乗っていられるが、初めてここを航行した人は余程勇気のある人だったに違いないと変なことに感心しながら洞内巡りを終了した。

 ニュージーランドでは鍾乳洞の中を舟で航行しながら土蛍を鑑賞したが、ここではそのような生物はなにもいなかった。再び漓江船上の人となり陽朔までの船旅は続いた。



2004年06月23日(水) 【経済大国へ驀進中の中国・・山峡下り�◆�

 大足の宝頂山には一枚岩に刻まれた石刻が13個所あり、保存状態は極めて良好で像の顔面が破壊されたものは殆どない。



 南宋の名僧趙智鳳が70年を費やして完成させたと謂われ、500 mに及ぶ岩壁には31の石窟がある。釈迦涅槃像や六道輪廻像、千手観音、華厳三聖像、孔雀明王経変等仏教説話が系統的に造像されているところに特徴がある。


 文化大革命の時にも都会から離れた辺鄙な山中にあったことが幸いして文化遺産が破壊されることなく保存されたようである。

 続いて北山の石刻へ到着した頃は夕闇が迫りかけていた。係員は所在なげに待機していてくれた。感謝する気持ちを込めて「謝、謝」と何回も唱えて入場した。

 ここの仏像は唐代末期から250 年間彫り続けられたのであるが、宝頂山のそれとは異なり、彫刻全体を流れるテーマはなくめいめいがそれぞれの思いを込めて刻まれた仏像群である。従って同じ種類の仏像が沢山あるが、唐、五代、宋代と時代の特徴を表現していて面白い。保存状態は必ずしもよくなく、顔面が破壊された仏像も相当数あったのが痛々しい。

 大足の村には水を張った水田が沢山あるので田植えがもう始まるのかなと思っていたら蓮根の特産地であるということであった。納得。

 バスの不調で約3時間のロスがあったので、重慶のレストランで名物の火鍋料理を味わってから、ホテルにたどり着いたら12時近かった。火鍋料理とは中国風シャブシャブと思えばいい。

 朝6時にホテルを出発して朝天門埠頭へと急いだ。重慶は嘉陵江と長江に囲まれた丘陵地帯に開けた街である。そして朝天門埠頭は嘉陵江と長江が合流する地帯に突き出た地点にある。

 昨夜ホテル到着が遅かったので初めて見る重慶の市街は起伏の多い街で長江は遥か下方を流れている。大きな幅広の電車風のエスカレーターに乗って岸辺まで降りてから高速船に乗り込んだ。

 埠頭には多くの人々が屯しており、担ってきた野菜や果物を並べて商っている者もいる。我々の目を最も驚かせたのは手に手に天秤棒と縄を携えた 「棒棒群」と呼ばれる労働者の群れである。船に乗り降りする乗客の手荷物を運搬して料金を貰うのであるが,その数が非常に多いのである。我々のグループも彼等にスーツケースをバスから船まで運んで貰ったが、天秤棒の両端にスーツケースを二個宛吊るして計四個の荷物を肩に担って運搬するのである。昔日本でも大きな鉄道駅にはいた赤帽さんのようなものだと思えば判り易い。約70〜80kgの荷物を急坂を登り降りするのは大変な労作量であろうが、もっとも手っとり早い就業チャンスなのである。荷物一個につき2元から3元(日本円換算35円〜50円程度)であるという。

 因みにこの地帯では新卒大学出の初任給が月額1,200元( 日本円で2万円程度)で一カ月の生活費は食費だけで、四百元( 日本円6,800円) 程度だという。

 重慶の朝天門埠頭から白帝城のある奉節の町まで約8時間の船の旅である両岸に険しくそそり立つ岩山の合間を流れる長江は世界第3位の長さを誇って土色をした水を満々と湛え悠々と流れている。

 白帝城までには鬼城、石宝寨、帳飛廟等の旧跡があるが船の上からでは見る術もない。航行するにつれ多少様子を変える山々の岩肌や岩壁を眺めているだけの単調な退屈する8時間である。高速船なので時速50〜60kmも出ているのであろうか、甲板にでることもできず船室に閉じ込められたまま船窓から移り行く景色を眺めているか、居眠りをしているしかない。昨日睡眠時間、が短かったので不足分を取り戻すにはおあつらえ向きのクルージングである。長い8時間が終わってやっと奉節の町へ到着した。ここでも「棒棒群」に荷物をバスまで運んで貰い、急峻な階段を登って奉節の町中を通り抜け、白帝城入り口にやっと到着した。そこにはひょうひょうとした風情の痩身の白い杜甫像が訪問客に俯瞰する眺望の素晴らしさを指し示すかのように佇立している。

 眺め下ろすと両側の険しい山間を流れている
長江を遠望することができる天下の絶景である。

 前方へ伸びている岩道を眺望を楽しみながら暫く歩くと吊り橋がある。この橋を渡って赤甲楼という楼へ登り景色を眺望した。この三層の楼からは前方に三峡の始まりである瞿塘峡の入り口を見下ろすことができる。瞿塘峡の両側にそそり立つ赤甲山と白塩山の競り合う間を長江が流れていく様子がよく判る。


眺めは実に素晴らしい。

 瞿塘峡に続いて巫峡、西陵峡が順番にその先に控えているのである。この三つが世にいう三峡である。

 この楼から一寸前方へ進んだ地点からは、昔、岩肌に穴をあけて丸太を差し込みその上に板を並べて作った古桟道の跡を望むこともできる。今は桟道は外されて穴しか残されていないが、絶壁に懸けられた桟道を往来した旅人や住民達の苦労の程が偲ばれた。            

 三峡ダムの建設によりこの天下の名勝も過半が水没してしまう運命にある、のだ。岩肌に143.2m、175mと白色のペンキで記されているが、これはそれぞれ2006年、2009年時点の上昇する水面が表示してあるのである。何れも海抜であるが、175mの地点は今立っている赤甲楼よりも遥か上方であるから、この望楼も水没してしまうのであろう。

 来た道を暫く引き返して今度はリフト乗り場までやってきた。スキー場のリフト様のものに乗り白帝廟に到着した。

ここには劉備が祀られていて「劉備託孤」のエピソードが塑像で紹介されている。

 諸葛孔明が星を占って作戦を立てたという望星亭、杜甫が住んだ西閣などもある。また杜甫の代表的な詩である「朝に白帝を辞す」の詩碑が立っていたが周恩来が筆 をとっている。詩碑に残すだけあって達筆で流麗な墨痕は見事である。




 白帝城という名の謂われは前漢末期にこの地方の富裕者公孫述が独立王国を築き、井戸から白い龍が昇天するのを見て、自ら白帝と名乗ったことに因んで命名された。その後、公孫述の像は劉備の像に取って代わられたのである。

 白帝城の見学を終えて近く水没する奉節の旧市街へ入り繁華街を通り抜けて師範学校の看板のでている学校へやってきた。校舎の裏に隠れるようにして永安宮という名の建物がある。ここは劉備が息を引き取った場所であり、元は学校構内の敷地一杯に王宮が営まれていたのである。ここにも劉備託孤。の像が祀られていた。病を得て最後に死後を諸葛孔明に託す場面の木彫りの群像である。

 本日は奉節のホテルで宿泊である。エレベーターもない8階建ての田舎のホテルであるが詩城という名がついていた。

 出発まで間があったので20分程朝の町中を歩いてみた。そこここに饅頭やお粥等を商う出店が並び道行く人々が立ち寄って朝の腹ごしらえをしている様子は活気があって面白かった。

 波止場から小舟に乗って小三峡のクルーズを行った。ここは支流であるため本流とは違って水の色が紺碧に光っており、川底には砂利と岩塊が堆積していて清々しい感じである。

 小三峡は川幅も本流よりは狭くて両側の岩肌や岸壁にはまた今までとは異なる趣があったが、日本でも見られる各所の渓谷とさしたる変わりはなく、期待外れであった感を免れない。

 この白帝城のある奉節の町の新市街のレストランで昼食を摂った。新市街は三峡ダム建設に伴い地域住民を移住させるために頂上近くに最近作られた計画都市である。ここへくるために低地の旧市街を通り抜けた。町ごと水没する運命にありながら旧市街には活気があり、商店街は夥しい群衆で賑わっていた。既に引っ越しを済ませた部落もっあって廃墟になってしまった建物が建ち並んでいるが暗さが感じられなかったのは不思議である。

 また現在、引っ越し中の部落もありそのため昼食のレストランへ向かうための迎えの車が渋滞に巻き込まれて小一時間も待たされるというハプニングもあった。交通警察官が出てきて号令をかけるまではめいめいが一車両しか通行できない細い道路に譲り合うことをせずに、双方から自己本位の割り込みを行うものだから混雑に輪をかけて渋滞はひどくなるのである。

 三峡ダムを建設するために移住を余儀なくされる流域住民の数は200万人であるというからこのプロジェクトが国の威信と国力を注ぎ込んで実施される一大プロジェクトであることが判る。

 昼食後再び高速船に乗り巫峡、西陵峡の絶壁を鑑賞しながら三峡クルーズ最後の町宣昌へやってきた。
かくして両岸の景色にもさしたる感動を覚える、ことなく、三峡下りのクルーズは終了したが、ここまでくると周辺の様子はがらりと変わる。今まで高い山に囲まれた山間だったのに高い山が姿を消し丘陵地帯になる。平地もかなり広く広がっている。中国の地形は西から東に行くにつれて山から丘陵に変わりやがて広大な平野に変化していく様子がよく判る。

 ここでは三峡ダムの建設現場が眼下に見下ろせる三斗坪鎮の高台にあがり最初に模型室へ案内された。
ここには三峡ダムの完成予定模型が置いてあり全体像を理解するのを容易にしてくれる。模型を頭に入れておいてから実際の工事現場を見下ろすと今更のように国家的大プロジェクトであることがよく判る。

 このダム建設の発想は、1911年に孫文が唱えたものであり、1992年の人民大会議で建設が決定され、1994年12月に着工したものである。

 水門の高さは185mで落差は103mになる予定である。最大流量は毎秒11万m2で年間840億キロワット時の発電量であり、完成すれば、世界一の水力発電所になるという。総工費は2500億元の文字通り大プロジェクトである。

 最近,日本の生産拠点が中国に移転され、日本の製造業が空洞化しつつある事実や値段の安い農産物、衣料品が製品として日本国内市場に奔流の如く流入している事実と重ね合わせた時に中国の持つ底力というものを如実に実感させられる工事現場であった。

 今回の三峡下りの旅では山間僻地に至るまで、経済大国への道を驀進中の中国社会の現状を随所にに感じ取ることができた。



2004年06月22日(火) 【経済大国へ驀進中の中国・・三峡下り� �

▼中国の旅5 成都、臥龍、都江堰、大足、北山石刻、重慶、三峡下り、奉節、三峡ダム  
                  2002年3月14日〜3月19日
 朝早く成都市内のシェラトンホテルを出発して臥龍へ向かった。臥龍まで約3時間のバスドライブであったが、中国の田舎の風景を存分に観察することができた。
 
 概ね道路の両側は山に囲まれており、山の木々は新芽を吹き始めているし桜と桃が美しく今を盛りと咲き誇っていた。山の合間に開けた平地の田畑には一面に菜の花が咲き乱れておりまさに春爛漫の風情である。

 山間を流れている川の底には砂利や岩塊ばかりが転がっていた。山間の山道は舗装されておらず左右に大きく揺れるがたがた道である。そして、至るところにスローガンを書いた横断幕をみかけたが、「開発」という文字がやたらに目についた。中国の簡体文字は判読が難しく、「開」の文字が「門構えを省略した鳥居印」のようなものであり「発」の文字が「友」+「’」と簡略化したものであると解読できるまでには相当な時間が必要であった。看板の珍しい文字を眺めながら原字を推理するのは楽しい頭の運動であった。 途中小休止した場所の公衆便所は典型的な中国風のもので、建物の中の便所は申し訳程度に個室として囲ってはあるものの扉もなく垣根は低く人目を気にすると出たいものも引っ込んでしまうような造りで女性泣かせの「ニー、ハオトイレ」であった。

 民家の門前では鉢にご飯とおかずを盛った遅い朝飯を立ち食いしている若い農婦を目撃した。以前聞いた話であるが「私はこのように朝ご飯を無事食べていますよ」ということを近隣に誇示する意味合いがあるという。農民が毎日の食に事欠く程に困窮していた頃出来た昔ながらの習俗が残っていたし現在の中国の都会地では見られなくなった紺色の人民服を纏った老人達や農夫達を見ることもできた。

 しかしながらこのような風俗と対比するように20年前には電気が通じていなかった僻地にもパラボラアンテナがそこここに立てられていて、情報化と現代化の荒波がこの山奥にも押し寄せていることを感じさせられた。

 やがて目的地臥龍に到着した。成都の北西方向にある山奥で
パンダの自然保護区があるところである。檻の中に飼っているパンダもあれば、森林に放逐されて生活している野生のものもある。野生のものは百頭前後棲息しており、国の保護施設で養育保護されているのは30数頭らしい。木の上で眠っているかと思えば、原っぱで寝ているものもいる。パンダは「ケンチク」という竹を主食にしている。一日に50kgほど食べるらしい。寝るか食べるかの生活でコアラに似た習性であるといえる。パンダの歩き方は一種独特で関節を曲げずに歩く姿に特徴がある。ここではパンダと一緒に記念撮影をした。





 この臥龍から岷江沿いに上流へ遡っていくと松藩、黄龍、九寨溝等の秘境がある。何れの日か再訪してみたいところである。

 昼食はこのパンダ保護所にある食堂で田舎の四川料理を食べたが小皿は無く全てご飯を持った茶碗に料理を乗せて食べるのであり、それが中国の流儀だという。

 四川料理は辛さに特徴があり、唐辛子と山椒で味付けする。「脚のあるものは机以外、飛んでいるものは飛行機以外は何でも食べる」のが中国料理である。

 また「麻婆豆腐」は成都に住む「あばたの陳婆さんが創案した料理」のことであるという。
 
 臥龍の見学を終えての帰りに都江堰に立ち寄った。今では「都江堰市」になっているが、ここの歴史は2200年前に秦王朝の官吏であった李親子が岷江の治水のために堰を設けたことに始まる。流れの激しい岷江に中州を設けて水流を調節したものであるが科学的な設計に基づいて行われた大工事であった。安瀾橋(あんらん)という吊り橋、龍を封じ込めた伏龍観(観は道教の寺院の意味である)、


流れの速い宝瓶口、李氏親子の二王廟を見学した堰周辺が公園になっている。

 ところで四川省の名の謂われは四つの川からきているが何れも長江の支流の四つの川のことである。1)岷江 2)大渡河江 3)嘉陵江 4)川江 

 ここで三国史の復習をしておくと成都(四川省)は蜀の都で劉備の本拠地洛陽(河南省)が魏の都で曹操の本拠地、武漢三鎮の一つ武昌(湖北省)を都としたのが呉の孫権である。

 成都市内に戻り夕闇迫る頃、杜甫草堂を見学した。


759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が厳武の庇護のもとに仮小屋を造り,質素な生活を送った場所である。彼の全作品1400首のうち代表作を含む247首がここで作られた。唐末に彼を記念するため草庵が建てられたが、明代に再建され今日に至っている。草堂の敷地内には竹が沢山生い茂っており、静寂な佇まいである。

 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。

 朝、成都市内の武侯祠へ立ち寄ってから大足の宝頂山の石刻と北山の石刻を見学する予定である。その後宿泊地の重慶までバスで走行する予定になっている。

 ところが運転手が重慶出身というふれこみで地理に暗いものだから目的地の武侯祠へなかなかたどりつけない。同じ所をぐるぐる廻っているようである。ここで一時間近くも時間のロスができてしまった。

武侯祠は諸葛孔明の遺徳を偲んで彼を祀るために建てられた祠であるが、君臣は合祀されるべきだとの思想のもとに劉備玄徳も祀られている。そして両翼の回廊には三国史に登場する殆ど全部の英雄達の像が同時に飾られている。また、劉備の小山のような墓も独立して構内の一角にあるがこの墓は発掘調査されたことがなく何が埋葬されているか謎になっているという。


 ここには諸葛孔明が劉備玄徳の死後その後継者劉禅に奉った出師の表の前編、後編が石碑に刻まれて保存されている。このうち前出師の表は南宋の武将岳飛の筆であると伝えられている。因みに出師の表は蜀の将来や政治の根幹を説いたもので名文で知られている。

 武侯祠の見学を終えて大足へ向けて出発したのだが、バスの横揺れが激しくなり、後続の車にどんどん追い越されるようになった。スピードメーターを見ると70kmを超えると横揺れが激しくなるようだ。横揺れするのは道路のせいではなくて車両の整備不良が原因だということに乗客達は漸く気がついた。運転手と現地ガイドが携帯電話でしきりに話しているが、どうやらバスの不調を会社に訴え、代車の手配をしているらしい。中国語で喋っているので何を話しているのかは判らなかったが、車の車軸でも折れてしまうのではないかとの不安が頭をよぎるようになりだした。よたよたした足どりで行けるところまで走る模様であるが、時間はどんどん過ぎていくし後続車にどんどん追い抜かれていく。予定では昼食をレストランで摂る筈であったが、時計は既に午後3時になろうとしている。

 やっと昼食予定地の内江にまでたどり着き、待機していた代車に乗り換えた。

 レストランでゆっくり食事をしている時間がないので予め連絡して用意して貰った弁当を受け取り車内で食べることとなった。車はそのまま走行を続け、遅れた時間を取り戻そうという苦肉の策である。
 
 弁当たるやゆで卵が三個とハムらしき肉片が数枚と饅頭が入っていた。

 今回の運転手はプロ意識が全然なく、一番大切な車の整備点検を行っていないし、地理の勉強も全然していない。最低の運転手であった。事故が起こらなかったことをラッキーとするのみである。

 時間が遅れたため最後の観光地北山にはガイドが連絡をとり、閉門時間を遅らせて係員に待っていて貰うという始末であった。



2004年06月21日(月) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�ァ�

 翌日代表的な景勝地の李子箐石林を見学した。このあたりはもともと海であったが、二億八千万年前に地殻変動が始まり、石灰質の岩盤が変形し始めて岩面が露出した後も、風雨による浸食や地震によって、岩山が削られ、その結果鋭い岩山が数多く出現したのである。

 ここは有名な景勝地なので外国人はもとより中国人の観光客も多いところである。公園の広場には折から梅の花が咲き誇っていた。


そして目当ての石林には鋭い剣を何本も縦にに並べたような岩肌が連なっていて、石林とは言い得て妙であると思った。その石林の合間を縫うようにアップダウンしながら小道が設けられているが、なかなか前へ進まない。観光客達がこれはと思われる個所に立ち止まって記念写真を撮影するからである。

 1996年の大地震で鋭い剣の刃先のような岩が折れて、崩れ落ちたが下まで落ち切れずに岩と岩の間に挟まって今にも落下しそうに見えるものが幾つかある。これには「間一髪」「間二髪」「間三髪」などと名前が付けられている実に絶妙のネーミングであると感心することしきりである。

 昆明市内の自由市場を見学した。自由市場は釜山でみた市場と似通った雰囲気があるが、釜山程規模は大きくなく品揃えも劣っていると思った。食料に供される小犬や鶏、蛇などが籠に入れられて並んでいたりする。この種の市場の猥雑さと喧噪が錯綜しているところは万国共通のものがある。

 何人かの男が豚の両足を押さえつけていて一人の男が喉に包丁を突き刺したところや鶏の首を締めている所等をたまたま目撃してしまった。豚や鶏の断末魔の声が耳に残ってこの夜の食事は気が重かった。

 今日は雲南省の旅最後の日である。西山森林公園は昆明市の西郊外15kmのところにあり、滇池に沿って華亭山、太華山羅漢山等の山々が南北40kmに渡って連なっている。

 元代に創建された三清閣は道教寺院であるが、ここから絶壁の岩肌を縫うようにして急峻で勾配のきつい石段を333段登っていくと慈雲洞、鳳凰岩達天閣を経て半月形の展望台に至る。
 
 ここにある石窟が竜門である。展望台からは滇湖を一望することができてなかなかの絶景である。下を覗くと身震いするような断崖絶壁にある石窟である。この窟は揚親子と70余名の石工が22年の歳月をかけて完成させたといわれている。昆明を訪れる観光客は必ず立ち寄る天下の名勝である。 

 竜門の絶景を堪能してから帰り道にある 華亭寺を見学した。雲南省で最大規模を誇り九百年以上の歴史のある禅宗の名刹である。寺院内には二百あまりの建物があるが、大雄殿の三尊金身仏像と五百羅漢像を見学した。五百羅漢像はこれまでにも日本の各地の寺院で見学したことがあるが、概ね石像が多く地味な色合いであるが、ここの五百羅漢は塑像で派手な着色が施してあるのが珍しく如何にも中国らしいと思った。また手長の羅漢が何体かあったがその手の長さが異常に長いのも強烈な印象を与えるものであった。
 
 境内に咲いている花弁が. 薄黄緑色をしていたのも珍しかった。
今回の中国雲南省の旅では多くの少数民族がそれぞれの文化と習俗に誇りをもって自然と調和しながら精神的にゆとりをもった生活をしており、四千年の歴史が育んだ中国は多様性を巧みに包摂しながら近代化へ向けて驀進しているという印象を強く持った。



2004年06月20日(日) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�ぁ�

 再び麗江市内へ戻り、四方街を中心とする麗江古城を散策した。
 1300年の歴史を誇るこの街は玉龍川に育まれてきた豊かな自然に恵まれた美しい街である。

 リズミカルな曲線を描きながら四方に伸びる石畳の大通りと路地。
 明、清時代の建築様式を保っている古風で典雅な民家。
 大通りと横町そして民家の垣根や庭を横切って長年流れ続けるせせらぎ。


 さまざまな形の石橋と川辺の枝垂れ柳。
 この総ては人間の営みと自然が見事に調和した風景を織りなしている。
 特に東巴文化とナシ族の伝統習俗はこの街の魅力となっている。

 1996年に空前の大地震に見舞われ多くの建物が倒壊したが、莫大な資金を投下して街並は復元された。


従って多くの建物は新しく建て替えられているが忠実に復元されたので昔の面影はそのまま伝えられている。このあたりの考え方は歴史のある町並みを保存することに熱心な欧州諸国と同様であり、日本と一味違うところである。

 大理では現地ガイド王さんの案内で藍染めの家内工場を見学した。
 居宅の前庭には人間の背丈程もある大きな木桶が三つ置かれており、中年の男が木の棒でブルー色の水に漬かった布をしきりに掻き回していた。庭一面には染め上げたばかりの大小さまざまの布が所狭しとばかりに張り巡らされた紐に干されている。桶の傍らには植木鉢に植えられた藍の原料となる 「板蘭根」という草が三鉢程置いてあった。


納屋の傍らでは人老婆が二人小さな椅子に腰かけて巧みに糸を操りながら布に絞りを入れている。この村で一番上手なお婆さんであるという。

 片や母屋の部屋の中には藍染めの商品が並べられていて、若い女性が数人民族衣装に身を固めて、巧みな日本語で愛嬌を振りまきながら観光客に商品の説明をしている。




 ここで立ち働いている人々は何れも親戚関係にあり、無報酬の労働であるという。一年間の収支決算をしてから利益を分配するのであるから言ってみれば藍染作業に従事している親戚一同全員が経営者なのである。利益の配分方法については特に聞いてもみなかったので憶測になってしまうが、おそらくやる気を高揚させるような人事考課が行われて配分されるのであろう。

 立ち働いている人々の立ち居振る舞いには無駄がなく真剣そのものであった。ここに、最近日本の製造業の国際競争力がなくなって新興の中国へ工場移転が相次ぎ日本国内が空洞化していく現象の原点を見た思いであった。

 蝴蝶泉へ行った。大理古城から北へ24kmの雲弄山の麓にある方形泉は大理石の欄干に囲まれている。水面は鏡のように美しく滾々と湧き水が出ているこの泉を中心として小さな公園が作られている。

 この泉は昔無底潭と呼ばれていた。泉の横に親子が住んでおり娘は名を雯姑と言い聡明で金花に例えられる程美しかった。雯姑は漁師の霞郎という青年と婚約していたが、領主が雯姑を連れて行ってしまった。霞郎は苦労して雯姑を救い出したが官兵が追っかけてきて、追いつめられた二人は無底潭に身を投げたのである。その時雷光が走り暴風となった。そして雨が上がると泉の中から七色に輝く一対の蝶が現れ、その後から無数の蝶が飛び出してきたのである。

 この泉で王さんから悲恋の物語を聞き終えた時、泉から一段低い広場で民族衣装に身を固めた初老の男と若い娘達が数人、茶色毛の鶏を二羽抱えて、呪文のような音声を発しながら踊りをしているのに気がついた。興味にかられて眺めているとやがて鶏を水浴させ、それが終わると首を押さえて穀物をしきりに食べさせている。
それはあたかも鶏達に感謝を捧げている風情である。

 先祖の供養をするための儀式ではないかという人もあり、なるほどと納得しながらなおも観察していると、儀式が終わったのか、やおら老人が鶏の両足をつかんで立ち上がり大きな包丁を取り出して首を刎ねたのである。その動作の素早いこと、あっという間の出来事であった。突然の成り行きに唖然としてその周囲を見渡せば、何と儀式の現場から少し離れたところには石ころを組んで築いた火入りの竈と鍋釜に食器が並べられて綺麗に切られた野菜や炊きあがったご飯や調味料が敷物の上に並んでいるではないか。これから>野外パーティーが始まるのである。

 昔、田舎で鶏の首を刎ねる時のこれと同じ光景を見たことがあるなと幼児体験を思い出しながら、次の訪問地喜州村の厳家大院へ向かった。

 厳家大院は明,清時代の建築様式を伝える白族の代表的なものである。白族の中の最有力な一家である厳家の本家の中の大きな庭である。
この庭は三方一照壁といわれる建築様式で作られた建物の中にある庭である。この様式はペー族の伝統的な建築様式であるが、白壁と青瓦でできた二階建ての母屋の両側に副屋を建て、母屋の正面に目隠し用の照壁を配する建て方である。照壁は東側に設けられ照壁の反射光で明かりを部屋の中に取り込む仕掛けになっている。

 このような民家が数多くこの地には残されて美しい町並みを作り出している。

 この厳家大院で白族の若い娘達の民族舞踊を見学しながら「三道茶」を御馳走になった。三道茶は白族が客をもてなす時に出されるお茶で、最初「苦い」茶が給され、次いで「甘い茶」が出される。最後に「辛い茶」で締めくくるという訳である。

 恋愛中の若い女性が家族に紹介するため初めて、相手の男性を両親の許に伴ったとき、三道茶が出されれば両親の目にかなったということであり、三道茶が出されずに山海の珍味の御馳走でもてなされた時は「貴男は両親の眼鏡にかなわないから娘との交際は取り止めてくれ」という意思表示になるのだという。

 次いで大理石の加工工場を見学した。大理石とはこの大理で採取されることからつけられた名前であるとはここで初めて知った。大理石と言えばすぐローマやギリシャの彫刻や建物を連想するようになってしまっているが、言葉の原義を知らずに日常使用している言葉が如何に多いかを思い知らされたことであった。

 この工場は国営工場であるが、作業員は数名しかおらず、あとの過半は管理員であるから管理費倒れで採算の上がる筈がないとはガイドの王さんの見解である。ガイドの口からこのような発言が簡単に聞かれるようになったことは今の中国の政府当局の悩みとこの国の持つ民間活力の秘められたポテンシャルの大きさを窺わせるに充分であった。今後大いに発展する国であるとの感慨一入である。

 大理の三塔を見学した。この塔はもともと崇聖寺という大きな仏教寺院の境内にあったが度重なる兵火や大地震ですべてなくなり、三塔だけが残っている 主塔は南詔国の時代、唐の開成元年(八三六年) の創建で両脇の小塔はそれより少し後に建てられた。主塔の高さは69.13mで16層の方形密檐式の煉瓦製仏塔である。塔基前に「永鎮山川」の文字が大書されていて各層には仏像がはめ込まれている。

 主塔の南北に控える2塔の小塔は高さ42.19m、十層八角の密檐空心式の煉瓦製仏塔で大理国の時代に建立された。

三塔倒影公園内の池に写った三つの塔の影は実物と合わせて見ると六つ塔が
あるような錯覚にとらわれる素敵な光景である。

 三塔倒影公園内には南詔建極大鐘殿が新しく建設されておりこの鐘楼の二階に登って大理市内を眺望するとそこには白壁と青煉瓦屋根の古い町並みが開けているのを一望することができる。

 この後大理(古城)市内を見学したがここは城壁に囲まれた旧い
城郭都市でペー族が昔ながらの集落の中で悠然とした時の流れにまかせて都会の中の喧噪の中にあっても自然と調和した心豊かな生活を営んでいるのを見ることができた。       



2004年06月19日(土) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・��】

 納西族の住んでいる束河村を訪問した。
 この村には古くからの農村の家並みが残されていて道路の両端には瓦葺きの古い二階建ての民家が軒を接して建ち並んでいる。壁は日干し煉瓦を積み重ねたものが多い。


 門扉には「春節光臨」等と書かれた旧正月の到来を祝う張り紙がしてある。中には葬式を出したばかりとおぼしき張り紙をしてある家もある。

 日干し煉瓦塀で囲われた庭には穴のあいた何本かの柱が高く建っている。これは穴に竿を通して収穫物の玉蜀黍や稲を乾燥させるための支え木である二階の軒下には玉蜀黍の実が数珠繋ぎに縛られて幾つも吊り下げられていて陽光に晒され黄金色に光っている。庭の囲いの中の家畜小屋では牛が玉蜀黍の茎や葉を食んでいたりする。




 道路には農業用トラクターに鉄板で囲いをつけた車が農産物を積んで通り抜けるかと思えば、一方には背中に農産物や薪の一杯詰まった大きな籠を背負った女性が力強い足どりで歩いて行く。軒先では男達がトランプや将棋に打ち興じていたり、老人が椅子を持ち出して座り人通りを飽かず眺めていたりする。実に長閑な田園の村落の光景が展開している。ガイドの説明によればナシ族の女性は働きものであるが、男は働かないでぶらぶら遊んでいることが多いという。それが昔からの習慣であるからそのことを奇怪だと思う人も今まではいなかったという。しかし観光客が大勢訪問するようになってからこの風習も次第に見直され、男も働くようになってきているという。

 たまたま広場に数多くの男達が集まって、予め組み立てられた材木を取り囲んでガヤガヤ言いながら立ち働いている現場に遭遇した。新築民家の建前である。暫く眺めていると柱と梁を組み合わせて予め組み立てられた母材に綱を掛け、掛け声に併せて一斉に男達が一方では綱を引き、他方では母材を押し上げている。見る見るうちに鳥居型の最初の骨格が立ち上がった。続いて他方にも同形のものが立ち上がり、柱を器用に男達がよじ登って両者に横木を渡して家の骨格が出来上がった。クレーンを使うわけでもなく総て人海作業である。運よく村落共同体の原始的な建前の風景を見学することができた。

 この国では社会主義が行われているので土地は国家のものであり、家を建てる人は国家に土地税を収めてこれを借り受け、材料費だけを負担し、労働力は村落の人々の労力奉仕に依存して家を建てるのだという。ここには住民がお互いに協力しあって助けられ且つ助け合うという地縁社会の相互扶助の習慣が現在に息づいていた。


 そして若い男が結婚するには家を持っていることが一つの条件になるという。通りを進んでいくと川があり川の向こうは緩い傾斜の山麓に広がる部落で瓦葺きの家並みが古色蒼然と建ち並び美しい景観を作り出していた。

 昆明の市街地から北12kmのところにある白砂村へ赴いた。現在は鄙びた村落に過ぎないが明清時代にはここが麗江地域の政治文化の中心地であった。ここは豪族「木氏土司」の本拠地であり、数多くのきらびやかな建築物が造られ現在でもその一部が残されている。

 白砂で最も有名なのは、当時この地域の支配者であった木氏土司が道教や仏教の教えを普及するためにナシ族、漢族、ペー族、チベット族の画家に描かせた壁画である。

 木氏は戦争を嫌い村を囲む城壁を一切作らなかったので、諸族共存を政治信念として部族の統治にあたった一つの例証とも言える因みに「木」を囲むと「困」になるから城壁を作らなかったのだという言い伝えも残っている。

 最も保存状態のよい「白砂壁画」を見学した。楠木の壁板に大乗仏教、道教の題材が金泥を用いて描かれており立体感を表現しようとしたところに特徴がある。撮影禁止でカメラに収めることはできなかった。

 この村では広場で中年の女性達が6〜7人民族衣装に身を包んで、カセットテープから流れる民族音楽に合わせて踊りを踊っていたが、カメラを向けただけで撮影していなくてもしつこくチップを要求されるからとガイドから予め注意を受けていたので撮影は一切せずにやり過ごした。それでも紙箱を両手に捧げて若い女性がチップを要求してしつこくつきまとってくるのには閉口した。

 面白いと思ったのは壁画のある場所の周りには土産物屋の屋台が並んでいて藍染め主体の工芸品が売られていたことである。そこには必ずと言っていいほど「苗族の藍染め」と特記してあるものが多かった。この地には苗族もナシ族と共生しているのかと現地ガイドに聞いてみると彼らは土産ものを商うためにこの地へ進出してきている出稼ぎ商人だということであった。彼らにはまた別のところに定住区があるのである。

 午後玉龍雪山を東側からまじかに見るため雲杉坪(ウンサンピン)という丘へ向かうべく広いだらだら登りの高原を疾駆した。元この地域に飛行場があったが高い山が近くて飛行機の離着陸に危険であるため廃止されたというのである。説明がなければ飛行場の跡だとは誰も気がつかないであろう。

 そんな変哲もない場所を暫く走行して「東巴文化走廊」という標高2900mの地点にあるレストランで昼食を摂った。このレストランの建物の中央部には部族の神様の大きな像が守護神として佇立し周囲を睥睨していた。高い場所にあるので建物の中へ入っても震えるような寒さである。暖房設備も施されておらず、ブリキ製の火鉢に炭が焚かれているだけであるから暖気は部屋の中へは行き渡らない。

やがてスキー場でよく見かける腰掛けだけのリフトに乗って雲杉坪の丘へ登った。

一気に高度が約300m程上がるので高山病にかかるおそれがあるから、煙草を吸ったり、走ったり、大声を出したりしないようにとの注意があった。体力に自信のない人は「空気枕」と称する酸素入りの枕状のビニール製容器を借りて携帯するのである。

 雲杉坪に降り立つと一面に雪が積もっていて観光客に踏み固められて滑りやすくなっている。通路に沿って見晴らしのよいと言われているヴューポイントまで到達したが、生憎の雲で玉龍雪山の全貌は全然見ることができなかった。


山の裾部のあたりが見えているだけである。暫く待っていたが雲は晴れずやがて雪が降り出した。折角登ってきたのにと残念な思いであったが、再びリフトに乗って下山した。名山を見ることができるのは余程「つき」がなければ難しいと言われるように致し方のないことであったが悔しい思いが残った。



2004年06月18日(金) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�◆�

 今回訪問した都市では昆明、麗江が納西族(ナシ族)、大理が白族(ペー
族)、石林に彝族(イ族)の支族のサニ族が住んでいる。中でもイ族は雲南省最大の少数民族で雲南省全土に分布しており、人口およそ七百万人に及ぶ。

 昆明は雲南高原の中部に位置し、三方を山に囲まれた風光明媚な雲南省の省都である。市の総面積は15,561km2あり、人口は370万人。標高は1891mであり、気候が穏やかで一年中緑が絶えないので「春城」の別名がある。

 歴史も古く旧石器時代の3万年前には既に湖の「滇池」(てんち)周辺には人が住み着いていた。

 紀元前3世紀に楚の将軍・荘滇が現在の晋城辺りに築城し滇国を建国した
紀元前109年に前漢の武帝は滇国王に「滇王之印」を与えて正式な国家として認めた。その後、南詔国の時代となり、拓東城が造られた。871年には鄯闡城と改名され、南詔国の東都として栄えた。

 1254年にフビライが派遣したモンゴル軍に鄯闡城は占領され、1276年に雲南行省が設置されて鄯闡城は昆明県となった。この時、雲南地区の行政の中心地は大理から昆明に移り現在に至っている。

 次に大観公園に行った。
 公園へ入って最初に目がつくのが奇怪な形をした岩の塊である。これはこの公園に取り入れられた造園技術の一つで障景堡と呼ばれる手法である。つまり美しい景色をいきなり見せないように障壁を設けておいて、観光客が障壁を越えて進んだ時、美しい光景が突然目に飛び込んできて感激もまた一入ということを狙っているのである。


 ここは湖・滇池の北岸と繋がる大観川の中に造られており、楠木で出来た三層の楼閣が最も有名である。大観楼と称するこの建物の一階には滇池の美しさを90字で詠んだ詩(長聨)と同じく90字で南詔国の歴史を叙した詩が左右の門に飾られている。この公園は清代の1696年康熙帝の時、池を作り現在の形になったものである。古来文人が遊ぶ名所であった。

 朝6時15分にはホテルを出発して麗江を訪問するため昆明空港へ向かった戸外はまだ真っ暗である。ここ中国では広大な土地であるにもかかわらず総て北京時間が適用されているので、夜が明けるのは8時前である。8時にならないと夜が明けないという生活は異様である。北京とでは2時間程時差を設けてもいいのではなかろうかというのが、通りすがりの一観光客の率直な感想である

 40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大 40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大理が1,976mの盆地であるから省自体が標高の高い山地に営まれていることになる。

 麗江空港で朝鮮族の厳さんという若い女性のガイドに出迎えられて、最初訪問したのは玉泉公園である。
   
 市街地の北に位置し公園内の池の水が玉のように碧いので玉泉の名がつけられ、別名「黒龍潭」公園ともいう。清の乾隆2年(1737) に「玉泉王廟」として造られたのが始まりで弓型をした約6km2の池を中心としていて、その周囲にはしだれ柳が植えられている。

 大理石で造られた玉帯拱橋の向こうには雪の帽子を被った玉龍雪山が白く聳えており素晴らしい光景である。運よく雲が切れてその秀麗な姿を見飽きることなく眺めることができた。

 公園内には数多くの楼閣や亭が建てられているが、明の万暦29年(1601年) 創建の福国寺五鳳楼や三層四角の得月楼が有名である。たまたま民族衣装を身にまとった若い女性4人が楼閣の前にいたので、


写真を撮ってもいいかと許可を求めると「ジュウゲン、ジュウゲン」と手の掌を突き出してチップを要求された。「OK」とチップを支払う意思のあることを表明すると4人が並んでポーズをとり、撮影に応じてくれた。場所によって異なるが観光地に民族衣装を纏って屯している若い女性は写真のモデル料を得ることを目的としているのである。



2004年06月17日(木) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・� �

▼中国の旅4 昆明、麗江、束河村、白砂村、雲杉坪、大理、喜州村、石林、竜門     
                   2002年1月9日〜1月13日

 最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。

 丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。

 公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に
混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。


 入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。

 広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見たレセディ民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。




 それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って小さく幾つかに区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。

 最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。

 ワー族(人偏+瓦)は35万人程いるらしいがこの民族は牛を民族のシンボルとしており、牛の数が地位と財産を表す尺度になっていて民家の前には角のついた牛の骸骨がいくつも誇らしげに飾られていた。


 ラフ族の村では瓢箪の飾りが多用されていたが、この民族は人間は瓢箪から発生したと考えているから瓢箪を民族のシンボルとしているのである。

 中国には56の少数民族があり、雲南省だけでも26の少数民族がいる。少数民族も法のもとでは総て平等であり、差別はないが中国ではむしろ種族保存の見地から特別に保護されているようであり、人数の少ない幾つかの民族には一人子政策の例外扱いがなされている。



 少数民族の人々は何れも少数民族であることに誇りを持って生活している様子が今度の訪問でよく判った。民族の独自性を最もよく表すのはその言語と風俗であり、端的に違いを際立たせるのはその服装である。実にさまざまな服装がある。各民族ともその服装を特に若い女性が晴れがましく着飾って活動しているところが印象に残った



2004年06月16日(水) 【世界八番目の不思議兵馬俑坑・・北京・洛陽・西安�◆�

 西安駅から洛陽駅まで約6時間の旅は沿線の田園風景を眺めながらの快適ではあるがやや退屈な旅であった。緑なす広大な田畑にときどき出現する村落の建物はいずれも煉瓦造りの単純な構造のものばかりで、木造建築は全然見かけられない。壁面には漢字でスローガンらしきものが書きなぐられているのを散見したが、その度にここはやはり社会主義国家なのだと思いなおすのであった。

 洛陽市は岡山市と姉妹都市縁組をしており人口は120万人。東西に20km南北に5kmの細長い都市である。都市の花は牡丹である。洛陽は東周、魏隋唐の時代に都になって栄えた交通の要衝の地である。

  久しぶりに朝ゆっくり起きて9時に宿舎の牡丹城賓館を竜門石窟へ向けて出発した。この石窟は敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟と並んで中国の三大石窟といわれている。

伊河の両岸、竜門山・東山と香山・西山に大小1352の石窟がある494年、北魏の都が大同から洛陽に移された時、雲崗石窟の後を継ぎこの石窟の建設が始まった。以来唐代に至る四百年間にわたってこれらの石窟は掘られ続けた。見学したのは西山の石窟である。

 
  賓陽三洞は建設に80万人が携わったと伝えられ、中央の洞は北魏期のものであり、日本の飛鳥仏に似通った仏像が多い。

  万仏洞には数cmの小像が15000体壁にびっしり彫られている。
  奉先寺洞には唐代に作られた高さ17メートルの盧遮那仏の座像が中央に鎮座している。この仏像は則天武后に似せて作ったと言われておりなかなかいい顔の表情である。これらの仏像は文化大革命の時、全然被害を被らなかった。それは周恩来首相の機転のお蔭だという。
  
 文化革命が怒濤の勢いで進行している頃、文化財の破壊をくい止めようと考えた周恩来首相はこの地を軍隊の駐屯地に指定し、密かに駐屯地の責任者に命じて石仏を守らせたというのである。
  なお、書き漏らしたので追加しておくとガイドの話によれば西安市内の勤め人の平均月収は月12000円位であり、北京で15000円から2万円であるという。



2004年06月15日(火) 【世界八番目の不思議兵馬俑坑・・北京・洛陽・西安� �

▼中国の旅3 北京、洛陽、西安の旅
                  1999年5月13日〜5月18日
 初めて北京を訪問したのは9年前で天安門事件発生後1年2カ月経ったときであった。当時の旅行者は必ず地区の委員会を訪問し中国共産党の地区委員と懇談することが義務づけられており、窮屈な思いをしたが今回はこのセレモニーなしで自由に行動できたので、隔世の思い一入であった。

北京は九県から成り立っており、空港は市内から30kmの郊外にある。 北京市の面積は1万6800km2あり日本の四国の面積にほぼ匹敵する。人口は1200万人である。北京空港と市内を結ぶ高速道路は1993年に完成した。
 北京では定番通り万里の長城と紫禁城(故宮)を見学した。

西安訪問のため空港へ向かう車中からは丁度出勤時間帯と重なって市民の出勤風景を観察することが出来た。相変わらず自転車が多い。リヤカーを後ろにつけて荷物を引いている自転車もかなりある。それでも過去三回の中国訪問で見たときよりは自転車の数が少なくなり、自動車の数が増えていると感じた。

 現地ガイドの説明では、車が最近増えてきて17年前の三倍になっているそうだ。中国のモータリゼーションはこれから始まるという感じである。
長安街道路の両側には建設中の高層ホテルが幾つも見えた。また、オフィスビルと目される建物もかなりの数建設中であった。前回の訪問で垣間見たときは煉瓦造りの平屋の老屋をあちこちで壊している所を目撃したように思うが、今はたまにしかそういった光景は見られない。地上げは完了して建設の段階に入っているということであろうか。1949年10月1日が中華人民共和国の建国であるから、建国50周年にあたる今年は10月1日に向けて、計画中の建物の建設が急ピッチで進んでいるのである。先ず、観光客誘致のためにホテルからということであろう。四千年の歴史を持つ大国には観光資源は山ほどあるのだから。
 
 北京空港から飛び立った飛行機は午前九時には西安空港へ着地した。生憎機外は雨であった。早速迎えのバスに乗り込んで秦の始皇帝の墳墓と兵馬俑博物館へ向かう。空港のあるところは咸陽市で、西安市の北西方向に位置している。ここ咸陽の地は秦の始皇帝が春秋戦国時代の乱世を統一して都を置いた地である。時に西暦前221年がその統一の時であった。
 
 兵馬俑博物館へ向かうバスの窓外に見える光景は一面の小麦畑である。季節がら青々と田は繁っている。その青田の中にこんもりとなだらかに盛り上がった小山が幾つも見える。これはいずれも前漢時代の諸侯達の墓である。その数およそ六百を数えるという。この辺りは台地になっていて小麦ととうもろこしが主要穀物であり、綿や葡萄も栽培されている。葡萄はワイン用で西安のワインは赤ワインに優れ評判もいいようである。地理的には秦嶺山脈の北側で農産物の豊富なところである。
 
やがてバスは秦始皇帝陵の遠望できる場所に停車した。陵の位置は南に驪山があり北は謂河に臨んだ風光明媚な所である。県政府の所在地から7.5kmの地点にあたる。

石榴畑の向こう側前方に緑豊かななだらかなスロープの山が眺められる。ピラミッドのような三角形の形に見えないこともない。現在の高さは76 であるが、建設当初は115メートルほどの高さであったことが分かっている。四角に近い漏斗を逆さまに置いた形状をしており、盛り土をして地固めの方法で作られたという。南北の長さは350mで東西には345mある。

 中国歴史上、殆どの帝王は人間世界の栄耀栄華をいつまでも享受するため一生に二つのことを重要事業と考えた。
    一つは不老長寿の術を求め永遠の長寿を望んだこと。
    二つには陵墓を築造すること。
 始皇帝も当時の礼制に基づいて即位するや直ちに陵墓の築造に取組み、死後に完成している。紀元前246年に着工して前後合わせて38年間もの月日を要した。陵墓築造に携わった人夫は最も多いときで70余万人が徴発されたという。まさにアジア的専制君主が威信をかけて築造したモニュメントである。

 やがて兵馬俑博物館へ到着した。この博物館は始皇帝陵墓の東側から約1.5km離れた地点にあり、史跡を保護するために発掘された俑坑の上に建てられたものである。発見の時間的な順序に従って一号、二号、三号と三箇所に別れてそれぞれ建物が建てられており建物の中では今なお慎重な発掘復元作業が行われているのである。
 
 この俑坑遺跡は1974年初春に井戸を掘る作業をしていた三人の農民によって発見された。発見した農民の一人である楊志発さんは70才余で今なお健在である。博物館内の売店で兵馬俑の案内書にサインをする仕事に携わっている。
 
 三つの俑坑の内最大のものは一号俑坑で東西方向に長方形をなしており、230m×62mで総面積14260m2である。坑内には陶俑、陶馬が  6000余点、木製戦車が40余台あり、戦車と歩兵が一体となって編成された長方形の戦陣である。それは前衛、主体、脇、後衛の四部分からなっている。例えば前衛だけを少し詳しく説明すれば、俑坑の最前端には鎧をつけていない軽装歩兵俑が三列あり、横一文字に並び一列は68点で合計204点になる。
 
 これらの俑はいずれも兜をつけず髪を束ね、下肢にゲートルを巻き手に弓を引き、勇猛で戦上手のように見える。いずれも等身大の俑である。この前衛は殆ど完全に修復が出来ているが中に首のないものが散見される。これは元の資料が破損散逸していて復元できないものである。それにしても小さな破片になって埋もれていたものも相当あったと思われるが、よくもここまで復元したものだと、関係者の気の遠くなるような根気のいる作業には敬服する。兵士俑の平均身長は1.8m、馬俑の平均高さ1.7mというから秦の軍隊は大男だったのであろうか。俑はいずれも中空の焼き物で元のものは表面に赤、黄、緑の彩色がなされていたという。目の前にある俑はいずれも彩色が剥落して素焼きのように見えるが注意してみると着衣の箇所に原色が微かに残っているのを認めることができるものもある。

二号坑は一号坑の東端、北側にあり一号坑から20m離れている。坑の平面は曲尺の形をなし、東西124m、南北98mで面積約6000m2である。この坑内には車につけた陶馬が350頭、鞍をつけた騎馬用馬が116頭、各種武士俑が900余点、陶馬が1400点ほど埋もれており発掘復元されたものは6点だけで、目下発掘復元作業が続けられているところである。
 
 三号坑は一号坑の西端の北側25mにあり、平面から見ると凹状をしており総面積500m2で三俑坑中、最小規模である。ここからは陶俑66点、車を曳く陶馬4頭、木製戦車1台が出土した。
 
 兵士俑の顔はそれぞれに異なっており、当時の兵士の表情を活き活きと伝えている。また始皇帝陵内で発見された二組の銅車馬も博物館内に展示されているが精巧に作られたその技術水準の高さと芸術性には驚かされる。
 
  暫し異常な興奮に身を委ねた後、華清池へ赴いた。この地は驪山から湧き出る温泉を館に引いて湯治する保養地として古来有名な所である。唐の玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスの舞台はここの温泉宮である。楊貴妃が入浴したという浴槽も残っていた。華清池に着いてまず目につくのは池のほとりに立っている真っ白い裸身の大きな楊貴妃像である。薄いベールで下半身は覆われているが乳房丸出しの妖艶な姿をみせている。後世長恨歌の楊貴妃をイメージして作られたものであろうが周囲の落ちついた佇まいにはちょっと異質でチグハグな感じを与える記念像である。
 
華清池の後方の驪山の中腹にあずまやがあり、ここに潜伏していた蒋介石が1936年、12月に張学良によって捕まった西安事件の舞台としても有名である。
 
碑林寺博物館はまさに石に文字を刻んだ本が保存されている寺である。ここでは石碑のことを碑林と呼ぶがその数2300枚に及ぶ。石面に刻まれた文字数は6562万文字に及ぶという。

 「平成」という元号の出典となった石碑もあった。ここには書家として有名な顔真卿、楮遂良、王羲士等の墨跡もあり、拓本をとるため表面に白紙が張りつけられている石碑が沢山みられた。
 
 西安市南西部にある大雁塔の七層の頂上階まで278段の階段を上り市内を展望してから再び下りてきたが、往復15分という早いペースで昇降したので地上に降り立った時は足の筋肉が吊って暫く動けなくなってしまった。元気なつもりでも若い人と競争するには体力が衰えていることを痛感させられた出来事であった。278段という数は般若心経の文字数と同じであるという。

 夕食には西安名物の餃子を賞味したが供された種類は餃子だけで21皿に及んだ。


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