| 2004年07月05日(月) |
【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�ぁ� |
▼57窟 初唐時代
南壁中央 説法図
南中央東側 観音菩薩
北壁中央 説法図
左から 勢至菩薩、迦葉、阿弥陀仏、阿難、観世音菩薩

北壁中央「説法図」右側 勢至菩薩
▼158窟 中唐時代

西壁壇上 涅槃仏

北壁中 涅槃変 各国王子の哀悼

西壁龕頭 瓔珞を持つ飛天

西壁龕頭 笛を吹く飛天
▼莫高窟について 莫高窟は敦煌の街から東南約25kmにあり、東は三危山から西は鳴砂山の間の崖に営まれている。BC366年に楽僔という僧がこの崖下に立つと向かいの三危山が金色に輝き、何千もの仏の姿が光の中に見えたという。そこで楽僔はここを聖地とし、崖に石窟を彫り始めたのである。これが莫高窟の起源である。
莫高窟の多数の芸術品に酔った後、敦煌市内の沙州市場を見学した。 リコウ杏という果物は梅と桃を一緒にしたような感じの果物であるが、食べるととても美味しいので、市場で三元分買った。洗いもしないでそのままかじった。これが影響したのか翌日便が緩んで悩まされた。海外では生野菜とか果物には要注意であることを思いしらされた。

市場の野菜売り

鳴砂山

月牙泉

月牙泉の畔の寺院
夕食後、午後7時から鳴砂山と月牙泉の見学に出かけた。7時だというのに太陽はまだ傾きかけたばかりで日本のこの時節の感覚では午後3時か4時頃のような気がする。 駱駝の背中で揺られながら鳴砂山の麓まで行った。砂丘は砂滑りをしている若い人達で賑わっていた。 風が吹くと砂が雷のようにゴロゴロという音を出すので鳴砂山と名付けられたという。長い年月をかけて周辺から吹き寄せて留まった砂が東西40km、南北20kmの巨大な砂山を作っている。太陽の当たる面と陰になる面とが幾何学的な明暗をくっきりと対比して見せている。駱駝を下りた場所から塔の見える方向へ進むと、三日月の形をした月牙泉に至る。月牙泉は東西200m、巾50mあり深さは平均5mである。沙漠の真ん中にある池であるが枯れることはないという。地下に水脈のあるオアシスになっているのである。 月牙泉の畔にはお寺が建っていて堂内の一室では鳴砂山をテーマにした写真展が開かれていた。吹き寄せる砂が寺の屋根瓦に堆積していた。
| 2004年07月04日(日) |
【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊��】 |
平成16年7月4日(日) 今回の旅行のハイライトとも言うべき莫高窟の見学である。説明には昨夜講義を受けた楊麗英女史があたって下さったのでその流暢な日本語とともに説明も判りやすかったと感謝している。 日曜日のせいか観光客が多い。人混みのなかを入り口の方へ歩いて行くと先ず飛天の像が目につく。これは敦煌市のシンボルともなっている像である。 更に歩を進めると莫高窟の門がある。莫高窟の門を潜ると土色の回廊が見えてくる。回廊は概ね二層になっていて壁には洞が穿たれているのが目に入る。やがて8層からなる莫高窟では最大の建造物である96窟が見えてくる。これは莫高窟を紹介する書籍やパンフレツトには必ずでてくる有名な朱塗りの建物である。中には高さ35.5mの大弥勒大仏が自然の山を利用して造仏され鎮座している。窟内は撮影禁止である。
莫高窟の入り口にある飛天の像

莫高窟の入り口の門
断崖に手摺りのつけられた窟群

96窟の8層の楼

莫高窟の全景
以下に見学した窟毎に【敦煌石窟の珍品】という現地で求めたパンフレットに収録されている画像を示しながら見学した順序に従って記述していくこととする。
▼148窟 盛唐時代に作られた15mの大きさの涅槃仏が横たわっているが、その後方に涅槃経変が長さ23m、巾6mにわたって描かれている。
ここには東壁南側の観無量寿経変の画像を示すことにする。
この絵は敦煌石窟で最大の経変絵であり、西方浄土世界を中心に、その両側にそれぞれ未生怨と十六観が描かれている。無量寿仏は真ん中に置かれ、蓮華座に跏趺坐を組み説法し観音菩薩と大勢至菩薩等の教徒がそれぞれ左右に付き添って立っている。池の台の中央部に置かれた二人の舞伎が踊り両側で楽隊が伴奏している。台の下の池では波が揺れ動き、化生童子が蓮華の中で遊んでいる。この絵の上部には宮殿、あずまや、楼閣が描かれている。この絵は構図が壮大で極めて珍しい当時の宮廷建築の研究資料となっている。

画集の折り目の部分が邪魔をして絵の両端がスキャンできなかったので未生怨と十六観の絵は残念ながらこの絵には表現できていない。
▼130窟

盛唐時代に遠近法で作られた高さ26mの大仏。宋時代に再建された。この大仏は莫高窟の二大仏の一尊であり、第二大仏と誉められている。半趺坐を組む弥勒菩薩である。この仏像は万物を包容する気概、雄大な気勢を示ししめやかな中にも威厳をたたえている。口許の上塗りが剥落しているのが残念である。
通路の南壁に描かれた都督夫人太原王氏夫人供養像。
この窟の造営を担当したのが太原王氏であったと推定できる。今流に言えばスポンサー夫人ということであろうが、家族と使用人を引き連れて仏に参拝する情景が色彩鮮やかに描かれている。人物像が豊満で生き生きしており、清新明快な画像であり、敦煌石窟に二つとない珍しい画像である。
▼249窟
阿修羅 図中の阿修羅は裸体で四つの目と四本の手を備えていて、しかも背高であり両足で大海に立っている。両手で月と太陽を掲げ持ち、残りの両手には龍が巻きついて阿修羅を護衛している。後方には弥勒菩薩の住む須弥山が描かれ、両脇には風神と雷神を配している。また最上段には西域風の天宮が描かれ最下段には漢風の建物が描かれている。この絵には示されていないが、この窟の壁面には白虎、青龍、朱雀、玄武の四神も描かれていた。

子連れの猪が森の中を餌探ししている絵 ▼257窟 北魏時代
西域様式の弥勒菩薩

飛天 飛翔の姿はそれぞれ異なり、形は無類の美しさを表現している
九色鹿本生の中 溺人獲救 溺れた男が助けて貰った九色との約束を破ったため死んでしまうという因果応報の物語を表している。

九色鹿本生の中 鹿と国王
▼428窟 北周時代
東壁北側 シッダルタ太子本生
釈迦の前世の本生譚「捨身飼虎」の物語が描かれている。

南壁 飛天と菩薩
上部には四人の半裸飛天が描かれ下部には四人の供養菩薩が描かれている。 四人の手の構えがそれぞれに異なり、ペルシャ風のずぼんをはいている。 ▼427窟 北周時代

弟子阿難

弟子迦葉
▼328窟 初唐時代
仏壇の座像群
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上図の中央の釈迦像
この日午後から45窟、57窟、158窟を楊女史の説明で特別見学をした。
▼45窟 盛唐時代
敦煌石窟の盛唐時代の最高傑作とされている塑像 左 迦葉、中央 菩薩、右 天王
商人が盗賊に遭遇した図 当時のシルクロードの治安状態を表現している。
観無量寿経変
真ん中の阿弥陀仏は蓮華座趺座を組み、説法している。下部の台の両側に置かれた楽隊が演奏し、二人の舞姫がひらひら踊り、太平で隆盛な西方極楽浄土の光景を表している。
| 2004年07月03日(土) |
【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�◆� |
平成16年7月3日(土) 西安から飛行機で敦煌へ飛んだ。機中から地上を俯瞰すると砂漠の中に帯状に緑が広がっている箇所が幾つか見える。これがオアシスでそこには河西回廊の都市が営まれているのである。敦煌近くになると緑の巾と長さがとても大きなものに変わり、敦煌が西域の重要な拠点都市であることがよく判る。

俯瞰した沙漠の中のオアシス

手前のオアシスの向こうに沙漠を挟んで崑崙山脈の雪山が見える
敦煌上空から見た俯瞰図
敦煌とは盛大に繁栄する街という意味だという。この辺境の地の地名「敦煌」が史書に表れるのは漢の武帝(BC141〜87)の時代である。この頃この地域の支配者であった月氏が追い払われて、匈奴がこの地帯を支配していた。これに対抗して西域の不安を取り除くために武帝は匈奴討伐に乗り出したのである。武帝の命を受けた衛青(えいせ い、?〜BC106)、霍去病(かくきょへい、?〜BC117)等といった将軍の活躍により武帝軍は匈奴を追い払ってしまった。爾来敦煌は河西回廊西端の重要な拠点として歴史に登場することになる。武帝は万里の長城を敦煌まで伸ばし匈奴に対する備えを万全のものにしたのである。かくして、敦煌はシルクロード(絹の道)の西の出口、東の入り口として盛大に繁栄する街の異名をとることになったのである。 以下の記述は村上みどり氏のサイト【シルクロード・河西回廊、敦煌を行く】から引用させて頂いた。 引用開始 シルクロードの冒険商人達は早くも1世紀頃に敦煌に姿を現している。中央アジアのサマルカンド、ブハラなどの商人が、東西を結ぶ役目を担っていた。敦煌の名前がプトレマイオスの「地理書」に登場するのもこの商人達のお陰である。 もうひとつ、敦煌が歴史において重要な役割を果たすのは仏教の伝来路としてである。紀元前2世紀頃、匈奴に追われた月氏は、その後、アフガニスタンで大月氏帝国を築きあげた。この月氏の手を経て中国に最初に仏教がもたらされたという。 時代はちょうど、紀元の変わり目の頃である。更に2世紀になって、仏教の伝来は本格化する。インドの経典が続々ともたらされ始める。僧達は敦煌で漢語を学び、布教のために長安に赴いた。「敦煌菩薩」として知られる竺法護(じくほうご)、鳩魔羅什(くまらじゅう)といった名前が、インド経典の中国語訳の功労者として、敦煌の名と結びついている。 敦煌が最盛期を迎えたのが隋、唐時代である。シルクロードの交易と、仏教への帰依が敦煌の重要性を高めた。敦煌は砂漠の街であるから砂嵐は通常のことで朝夕の寒暖の差が激しく、「朝は綿入れ、昼はシルク、夜はこたつに入ってスイカを食べる」といわれている。セキセキ草、ラクダ草、タマリスクがゴビの三宝になっている。 莫高窟が盛んになるのもこの時期である。755年に起こった安・史の乱の影響で中央政府の影響が弱くなった。それに呼応して西域では吐蕃国の力が強まり、781年に敦煌はその支配下に置かれる。その後、唐の武宗が845年に廃仏を行い、中央の仏教寺院はことごとく破壊されたが敦煌は吐蕃の支配下にあったので難を逃れた。 唐から宋に王朝が変わるに及んで、敦煌は中央から切り離され、西夏王国の支配下に入る。この時、西夏襲来に備えて仏典多数が洞窟に塗り込められた。これが有名な敦煌文書で20世紀の初頭に発見された。マルコポーロが敦煌を通過するときには敦煌をサチューとして「東方見聞録」に紹介している。「多くの寺院・僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されている」との記述がある。引用終わり
空港から敦煌市内を経由して西千仏洞へ直行した。西千仏洞は党河の断崖の上にある石窟で莫高窟の西側にある。窟は19箇所現存するがそのうち六ヶ所の窟を見学した。3窟と4窟には何れも唐時代に彫られた3人の菩薩があった。5窟には北魏時代の千仏観音像が彫られており、窟の中心には柱が設けられているが像は水で壊れていた。 6窟は北周時代のもの。7窟は西魏時代に設けられ過去仏、現在仏、未来仏、西夏の涅槃仏が安置されている。9窟は北周時代の千仏観音像。 どの窟も内部の撮影が禁止されているので像を示すことができない。 大地を切り裂いたような裂け目の断崖に窟は穿たれていてよくも根気よく仏像を彫り続けたものだという印象が強い。断崖の前の広場には樹齢の大きなポプラの木が生い茂っていた。

西千仏洞の窟の穿たれている断崖 ↑

西千仏洞のある渓谷に生い茂るポプラ↑ 手前の砂岩の下方の断崖に窟がある。
陽関に赴く前に南湖郷の「陽関農家園」という農家で昼食を摂った。野菜が豊富に使われた田舎料理だが美味かった。

「陽関農家園」の田舎料理
陽関の狼煙台遺跡

陽関博物館

玉門関
陽関には関は残っておらず、大きな粘土の固まりのような狼煙台の跡が残っていた。漢民族の勢力の及ぶ最西端の関所である。また西域南路への起点ともなる場所でここから先は西域となるのである。詩人王維の「謂城の朝雨軽塵を唈るおす」で始まる送別の歌で有名な所である。なお、狼煙台に「狼」という字が使われるのは狼煙の燃料として使われる植物の茎に狼の糞を乾燥して混ぜたからであるという。ここでは観光客誘致のため最近完成した陽関博物館を見学した。展示物には特筆に値する見るべきものはなかった。 更に沙漠の中をかなりの距離疾駆して玉門関も見学した。玉門関へ急ぐバスの中で蜃気楼を見ることができた。或いは逃げ水であったかも知れない。 玉門関には東西24m、南北26.7m、高さ9.7mの巨大粘土の固まりのような長方形の関の跡が残っていた。陽関と並んで漢民族の国家権力の及ぶ最西端の遺跡でありここから先は天山北路へ通じる西域となるのである。 敦煌市博物館を見学した後、敦煌市内のレストランで敦煌名物の「雪山駝掌」という特別料理を賞味した。駱駝の足の掌を調理したものだがゼラチン質の肉片でそれほど美味いとも思わなかった。一切れ食べただけで止めにした。 ホテルへ帰ってからは莫高窟の研究所に30年務めているという楊麗英女史から莫高窟についての講義を約一時間聞いた。文化大革命の時には各地の文化遺産が破壊されたがここ敦煌では紅衛兵が押し寄せはしたが管理人の説得に応じて破壊活動はしなかつたので被害にはあわなかったという。

敦煌博物館

敦煌名物料理「雪山駝掌」

ガイドの楊麗英女史
| 2004年07月02日(金) |
【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊� � |
平成16年7月2日(金) 河西回廊紀行 前潟都窪



シルクロードは西安を起点としてローマへ至る古代の東西交易路である。今回は第一回目として中国甘粛省内の旅を選んだ。河西回廊と言われている。敦煌を起点としてバスで東へ遡行し蘭州へ至る旅程である。蘭州から西安までは航空機利用である。
今回の旅行は当初阪急トラピックスで企画したパックツァーが6月20日から10日間の予定で募集されたので旅と囲碁の畏友橋田さんと共に参加申し込みをしていたのだが、募集人員が集まらず、催行が中止になった。そこでインターネットで検索すると全く同様の企画がユーラシア旅行社であることを知り、申し込み実現したのである。この旅の企画については当初の6月20日からの予定だと6月23日に大学の寮友仲間内で毎月実施しているゴルフの会と競合するので代打の友人を探し出してセットしたという経緯もあり、是非行ってみたいコースであったため催行も決定し、今現実に旅が始まろうとしているだけに感慨も一入深いものがある。結果的にはユーラシア旅行社の企画には満足するものがあった。
満足できた点は阪急トラピックスや近畿日本ツーリストの企画と比較して以下の点で違いが際立っていたからである。 1)土産物店への立ち寄りが皆無であったこと。 2)人数が17人であったが大型バスで移動したため座席に全員一人がけできたこと。 3)毎日の行動が克明に時間、場所、立ち寄り場所等とともに記録され、そのコピーが配布されたこと。これは帰国後の写真の整理や紀行記の作成に非常に役にたった。 4)旅行代金も上記二社に比べて高からず安からずでリーズナブルであったこと。 5)イヤフォンガイドを参加者全員に貸与し、ガイドの声が明瞭に聞こえる配慮のあったこと。
9時20分に添乗員の大町章子嬢を中心に同行者の顔合わせをした。男12人、女5人で計17人の手頃なパーティーである。夫婦は一組だけで皆百戦錬磨の旅の強者ばかりという印象である。
今回は酒類の機内持ち込みは禁止されているというので予め求めておいたウイスキーはスーツケースの中に忍ばせておいたから免税店では何も買うものがない。
成田を11時18分発の中国東方航空MU508便で出発。時差は1時間遅れで14時40分に北京首都国際空港へ到着。所要時間約3時間半。北京で入国手続きを済ますため一旦機外へでるが係員がなかなか来ないで暫くまたされた。
北京から西安までは国内線になるためアルコール類の機内持ち込みが禁止されるという理屈である。これは中国の酒は度数が強く、火がつくので危険物とみるらしい。それも中国人がかつて酒に火をつけて機内で騒ぐという事件があったため規制が厳しくなり、酒類の機内持ち込みができなくなったというのが真相らしい。この種の規則とか規制はなにか事件が発生すると必ず再発防止ということで厳しくなるものである。不心得なものがいると自由が制限されるという好例である。
機内で中華の昼食を摂ったがウイスキーやブランデーのサービスはなかった。ビールで我慢する。青島ビールであった。
14時50分北京を出発し16時22分に西安咸陽国際空港へ到着。前回訪問した時よりも建物が変わっていた。新しい建物が旧施設に並んで増設されたらしい。 現地ガイドは王正安氏で日本語はそこそこの実力で人柄は悪くない。
西安空港の新しい建物 ↑

西安市内近くの道路工事↑道路の片側を囲っていた。

工事現場に出入りの車↑
西安市内まで約1時間ほどのドライブで窓外に見えている田園風景の中に点在する小高い山は古代の王侯や貴族の墳墓であろう。 西安市内近くの道路では片側の通路を囲って道路工事が行われていた。そして工事現場へ出入りする下請け業者や納品業者の原動機つきリヤカーも散見した。 西安市内には新しいビルが沢山建っていた。中国の経済発展も沿海部から漸く内陸部へ及び西安市内も目下大規模に普請中との第一印象である。
西安市内の建築中のホテル↑

西安市内の新しいビル↑

西安市近郊の地上げ現場
最初に鼓楼へ見学に行った。鼓楼は城郭の中心にあって昔は、時を告げた重要な建物であるが、生憎修理中で中へは入れなかった。日本から派遣された遣唐使達も当時長安と言われた都のこの鼓楼の前に立ち、物思いに耽ったことであろう。 ホテルは西安賓館で旧市内の南門の近くである。

鐘鼓楼 生憎逆光で鮮明な画像が撮れなかった。

鐘鼓楼近くの餃子で有名な店
『稼ぐ宣伝代行』
さるさる日記 - 日記レンタル
| 2004年06月30日(水) |
【西洋文明発祥の地ギリシャ・・�◆� |
翌日はピレウス港から観光船のエルメス号に乗ってポロス島、イドラ島、エギナ島の順番でエーゲ海の島巡りをした。
ポロス島は小さな島で時計台がある島である。島からの風景を楽しむ所謂風光明媚な場所であるに過ぎないが、富裕階級が別荘を構えているリゾート地である。ここでは朱色の屋根と白壁が特徴である。 次にイドラ島へ渡った。この間エルメス号で魚のくずし身とチキンの昼食を摂り、葡萄酒の搾りかすから醸造するウゾという酒を飲んだ。これは水を入れるとカルピスのように白濁する酒で松脂を加味してあるので独特の香りをもっている強い酒である。イドラ島も富裕階級が別荘を建てて住んでいて水と車のない島である。乗船場にはポニーが数頭用意されていて観光客を乗せて馬子が手綱をとり島内をポクポク巡回していた。島民は雨水を貯めて飲料としているし定期貨物船が積んでくる水に依存しているという。この島の中を小一時間あてもなく路地を散策した。島の教会へも入ってみたが、構内はかなり広くギリシャ正教であった。ギリシャ正教の特徴は偶像崇拝は認めないが聖人や聖母を描いたイコンという絵を飾るのが特徴である。絵は平面的であるから偶像とは言えないという解釈なのであろうか。面白いへ理屈だと一人ほくそ笑んでいた。
最後のエギナ島は半漁半農の島でピスタチオの木が沢山植えられていた。 ここではオプショナルツァーに参加してドーリヤ式アフィア神殿を見学に行った。これは紀元前6世紀末から5世紀初めに建てられた神殿でアルカイック時代の神殿の中では最も優れた建築の一つと言われている。32本あった柱の内、今は24本だけが残っておりエギナ島で産出する石灰岩で造られている。今日の日程はこれで終わり、アテネのホテルでの夕食はムサと呼ばれるギリシャ料理を堪能した。ムサは馬鈴薯と茄子と魚のすり身を重ねて蒸したもので淡白な味である。
次の日からアテネを離れて、エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラとそれぞれの遺跡や名所を駆けめぐって三日振りにアテネへ戻り、国立考古学博物館を見学した。その日はギリシャ正教の復活祭で教会は混雑しており、その影響でここにも人々が溢れかえっていた。この博物館は百五年前に建てられたもので白い列柱を沢山持ち正面から見ると横に細長い建物である。ここには先史時代(前1万年〜前16世紀)からミケーネ時代(前166世紀〜前12世紀)を経てローマ期(前31年〜1453年)までの貴重な展示品が並べられている。駆け足で有名なものだけ拾いながら観賞したがその幾つかを記してみると、 先史時代の「竪琴を弾く人物像」「フルートを吹く人物像」、ミケーネ時代の「黄金のマスク」「黄金の杯」「印章石」、ポセイドンのブロンズ像、馬に乗る少年のブロンズ像ディアドゥメノスの像、パルテノン神殿のアテナ女神像等がある。
ギリシャ神話やギリシャの歴史を勉強して再度訪問してみたい魅力的な博物館である。
次にリカビトスの丘へケーブルカーで登った。ケーブルカーは予想に反してトンネルの中を登っていくだけなので周囲の見晴らしは全然きかなかった。しかし、ケーブルカーから降りた途端に、四囲にアテネの市街が広がっており素晴らしい展望であった。アクロポリスの丘やオリンピック競技場の全景が手にとるように見渡せた。頂上にあるセント・ジョージという名の小さな教会には今日の復活祭に祝福を受けるためお参りをする信徒が正装して詰めかけていた。教会内では敬虔な老若男女の信者達が神父から月桂樹の葉とフエニックスの葉で作られた十字架を恭しく授けられ十字を切っていた。
続いてスニオン岬までポセイドンの神殿を見学するため長駆バスで走行した。岬には所狭しと観光バスが詰めかけており、岬の突端には十五本のドーリヤ式円柱を白く輝かせて神殿が建っていた。祭神のポセイドンは海の神とされているが、ギリシャ起源の神で大地と関係が深く、元来は地震の神や川の神であったが、この神を崇拝する人々がギリシャへ侵入してからのちに、その領域が海に及び、のちには主として海の神になったものと考えられている。この地の神殿はアテネのパルテノン神殿より数年後に建てられたと言われている。夕焼けが白い大理石と映えて美しいことで有名であるが、日没が午後八時半頃なので、残念ながら時間がなくて見ることができなかった。
夕食はアテネ市内のプラカ地区のタベルナ(居酒屋)で民族舞踊を鑑賞ながらギリシャ料理とワインに舌鼓を打った。ギリシャ料理の肉はよく炊き込んで筋や軟骨まで柔らかくなっているのが特徴である。司会者の巧みな誘導に釣られて舞台に上がり年齢を忘れて踊りに興じる同行の人達もあってギリシャの夜を大いに楽しんだ。
エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラを訪れた。バスはギリシャの工業地帯を通ってミケーネへ向かってひた走る。工業地帯を通過するときはえも言われぬ嫌な臭いが鼻をつく。周囲を見ると石油精製工場や化成品工場とおぼしき工場から煙がむくむくと立ちのぼっている。阪神工業地帯や京浜工業地帯の規模には及ぶべくもないが数個の工場群が立ち並んでいる。 やがてバスはトイレ休憩をすることになった。場所はペロポネソス半島とギリシャ本国とをあたかも瓢箪の括れの箇所で繋ぐコリントスの地である。ここにはコリントス運河が設けられており、エーゲ海とイオニア海を僅か6km 強の長さで繋いでいる。幅24m、深さ80mのこの運河はギリシャの海運と物流に計り知れない恩恵をもたらしている。たまたまこの運河をタグボートに曳航されながら渡航する貨物船を目撃するチャンスに恵まれたが、運河の幅一杯の船幅の貨物船が悠然と半島を横断する雄姿は深く切り込まれた運河の黄土色の土壁と海面の碧青色とのコンストラストとあいまって、美しく絵になる風景であった。
医神アスクレピオスの聖地エピダウロスには一万四千人を収容できる古代の石造りの円形劇場がある。起源前四世紀の建設であるが、極めて良好な保存状態で残されている。ディオニソスの祭壇跡と呼ばれている中央広場地面の中心点にあたる小円に立って発声すると、上方に広がった観客席の隅々まで肉声が届くという音響効果抜群の施設である。この広場の中央の地点から最上段までは、高さ22.5m、段数は55階段あり、扇形で上方へ末広がりに延びてゆく立体的な劇場遺跡は日本には見られない優れた文化遺産である。あの有名な声楽家マリア・カラスがここでデビューしたことでも知られている。中心点に立って拍手すると最上階の55段目に着席していてもその音が聞き取れるし、中心点で紙を破り、紙を揉む音の違いも聞き分けることができる程の素晴らしい設計である。その素晴らしさの秘密は、黄金分割率を駆使した設計にあるといわれており、ギリシャ人の優れた資質を改めて再認識させられる遺跡であった。
観光客なら誰でもこの音響効果抜群の地点に立って手を叩くなり、歌の一節なりとも歌って試してみたくなるところである。それをずうずうしくも凡そ十分間も独占してゲーテの詩をドイツ語で朗読した強者がいた。聞いてみるとドイツからの観光団の中年男性で、高校の国語の教師であった。これに続いてドイツの若い女性が衆人環視の中で歌曲を一曲披露した。さすが、ドイツ人は音楽の好きな自己顕示欲の強い民族だなと感心して聞いていると、我がグループでもH夫人が自慢の喉を披露するというハプニングがあった。万事控えめでおしとやかなH夫人であっただけに人は見かけによらぬものとの思い一入であった。
雨がそぼ降る中を暫く走行してやがてバスはミケーネの遺跡ヘ到着した。 ここは紀元前1600年〜1400年頃栄えたミケーネ文明の遺跡で山々に囲まれたアルゴリス平野の北端の小高い丘の上に城砦跡がある。この遺跡はトロイを攻撃したギリシャ軍の総指揮官ミケーネ王アガメンノンゆかりの地であると考えられており、1876年にシュリーマンによって発掘された。
この城砦はアクロポリスの原型ともいえる形態である。獅子の門には大きな三角石に二頭の獅子が浮き彫りされていて当時の権力を誇示しているかのように見える。この門をくぐり抜けるとすぐ右下に円形墓地があって、直径26.5mの穴を穿っている。この墓地からアガメムノンの黄金のマスクその他数多くの陶器や武具が発見されてアテネの考古学博物館に展示されている。生憎雨が強くなってきたので、滑りやすい頂上の城跡へ登るのは、安全上諦めて平地にある「アトレウスの宝庫」へ歩を進めた。この宝庫の内部はとても広くて、強力な王権の存在を証明するものである。入り口には三角形の石を用いており天井は石組みのドームになっている。発見された時には宝物は何一つ残されておらず盗掘のための侵入孔もなかったというからミステリーめいている。多分天井ドームの頂点に穴をあけ、縄を吊るして侵入し、宝物を盗み出したのではないかと推定されている。
ミケーネからデルフィーに至る道路の周囲にはユーカリの木、糸杉、オリーブ、オレンジの木々が立ち並び、一方で黄色いみもざの花やエニシダが咲き誇れば、他方では赤紫色のユダの花もこれに負けじとばかり妍を競っていた。ユダの花はギリシァ語ではクツピアというらしいが花蘇方によく似ていて非なるものである。山腹や田野に立ち並ぶ民家は一様に橙色の屋根に白壁であった。そのうちにバスは山中に入り、やがて峠を越えると遠く前方の山腹に折からの陽光を受けて白く光っている小さな町並みが見えてきた。これがパルナッサッソ山に抱かれたデルフィーである。遠望するとそこは山深く雲が立ち込めていそうで如何にも神域という感じのする場所である。デルフィーの町に到着して、標高650mの所にあるボウザホテルの部屋から見下ろすと山々に囲まれた平地は一面オリーブ畑で埋めつくされており、遙に望める低地のドルフィンの村落まで続いていた。
デルフィーの博物館へ入ると階段の踊り場にデルフィーの神託が行われた「大地の臍」と呼ばれている石が展示されている。その他展示場は全部で11室に別れていてアルカイック時代(前800年〜前500年)からローマ時代(前31年〜1453年)までの美術の変遷を見ることができるようになっている。
古代世界でのデルフィーはギリシャの聖域であるだけではなく、全世界の中心と考えられていた。デルフィーが世界の臍であると信じられていたのは世界中の都市国家がアポロン神への信仰を持っており、その神託で国の運命を決定するという祭政一致の世界観を持っていたからである。アポロン神はもっともギリシャ的な晴朗な神で神話ではゼウスとレトの子でアルテミスと双子の兄妹で、音楽、弓術、医術、託宣を司るものと考えられていた。ときとして太陽神ともみなされていた。デルフィーの歴史は神話と伝説の世界にその起源をもっている。ミケーネ時代(紀元前12世紀)からこの地は神を祀る場所になっていたがその全盛期は紀元前6世紀頃に迎えた。このデルフ ィーの神域はローマの皇帝テオドシウス(379〜395)によって閉鎖され衰退した。
デルフィー遺跡の入り口から曲がりくねった参道を登って行くと、険しく迫る山を背景にアポロン神殿跡がある。往時には岩間から立ちのぼる蒸気を吸って神がかりになった、巫女が神の御告げを授ける神事が行われたのである。
神殿に至る参道の両側には多くの都市国家が神託の御礼として奉納した宝庫や奉納記念碑が立ち並んでいた。しかし現在の姿は礎石や折れた石柱が並んでいるだけで説明がなければ素人目にはそれが何であったかはよく判らない。それでもアポロン神殿だけは柱が数本立ち残っており、敷地の区画を辿ってみるとその神殿の規模を想像することは可能である。アポロン神殿から更に上へ登っていくと円形劇場があり、これは保存状態がよいので即物的に素人目にも劇場であることが判る。劇場から更に上へ十五分ばかり登っていくと山の尾根に造られた楕円形の競技場がそれとわかる形で残っている所へ至る。ここまで来て俯瞰してみると、険しい山の中腹に築かれたデルフィーの遺跡群が如何に清浄で荘厳な環境の中に営まれていたかということが実感できる。
厳粛な気持ちになってデルフィーを後にして近くにあるスキーのリゾート地アルホバへ立ち寄ってから山道を下り次の目的地カランバカへ向かった。 オリーブ畑の続く田園風景を窓外に眺めながら走行するうち前方に険しい岩山が奇怪な形で立ち並ぶ所へ到着した。メテオラへ入るための宿泊地として栄えたカランバカの村である。宿泊したホテル・ディアニカランバカからはライトアップされた岩山群と赤いキューポラを持つ教会を絶妙のコントラストで間近に見ることが出来た。
メテオラに入ると先ず目に入るのが非常に奇妙な形をした岩山の上に修道院が建っている風景である。それが数多くあるところが面白い。中にはロッククライミングをしている人達が岩にへばりついて虫のように小さく見える岩山もいくつかある。
我々が訪れたのはメテオラ最大の修道院メガロ・メテオロンである。この修道院は十四世紀にメテオラ出身の修道士アサナシオスによって建てられたもので、パラティス・リトスという岩の最上部にあり、その高さは五三四mある。内部にはイコンの部屋、博物館、売店、展望台が設けられて観光客で賑わっていた。今では俗世間とケーブルや階段で繋がれており、往来や物流も容易であるがこの修道院が創設された頃は道なき岩山をロッククライミングしながら、或いはロープで吊るして建設資材や生活用品を運んだと言われており、難行苦行しながら修業するのが修道士の定めであるとはいえ、その強靱な求道の意志の強さには驚嘆の思い一入であった。最盛時には全部で二四の修道院が建てられ厳しい求道の生活が営まれていたが、現在活動している修道院はこの他にヴァルラーム修道院、ルサノス修道院、アギア・トリアダ修道院、聖ステファノス修道院(女)、聖ニコラオス修道院の五つだけになっている。
物珍しい光景をしばし堪能した後、再び長駆アテネへ向かった。メテオラを下りながら見下ろしたカランバカの町並みは朱色一色の屋根に白壁が映えとても美しかった。道路の傍らに時々見え隠れしながら咲いている赤紫色のユダの花が鮮やかに映った。やがて平地のハイウエイを一路アテネへ向けてひた走ったがハイウエイ沿いには黄色い野花が一面に咲き誇っていてギリシは今まさに春爛漫であった。
| 2004年06月29日(火) |
【西洋文明発祥の地・・ギリシャ� 曄 � |
▼ギリシャの旅 アテネ、ボロス島、イドラ島、エギナ島、エピダウロス、ミ ケーネ、デルフィー、メテオラ 20004月17日〜4月25日
未明に空港からバスでアテネ市内に入り、最初に目に入った古代遺跡は、ライトアップされたゼウスの神殿の柱群である。現在は柱が15本しか残っていないが、かつては104本のコリント式の列柱で支えられた巨大な神殿が 建てられていたところである。そして現在のアマリアス大通りに面してハドリニアヌス帝の門がかつての威容を誇るかのように佇立している。
このゼウスの神殿はアテネの僭主ペイシストラトスが紀元前515年に着工したが、彼の失脚とともに中断していた。その後紀元前175年にシリア王国のアンティオコス四世が再び着工したが彼の死とともに神殿工事もまた挫折してしまったという経緯がある。このいわくつきの神殿を132年に完成させたのがローマ五賢帝の一人に数えられるハドリニアヌス帝(117〜138)なのである。 ハドリニアヌス帝の建てたゼウスの神殿はコリント様式で、二重周柱式( 長い側に二翼二列の柱がある)になっており、前後正面には8本の柱が三列 に置かれていた。この巨大な神殿はコリント様式最大の建築物で当時の人々 から絶賛されたものであった。コリント様式は柱頭にアカンサスの葉の飾りを備えていることが特徴とされる。聖体安置室内には金と象牙で造られたゼ ウスの彫像が置かれ、また神域内にはハドリニアヌス帝の像が四体置かれていたという。
祭神のゼウスはギリシャ人にとって、神々と人類の父であり、最高の支配者であり、自然現象(雨、光、雷)を司る神でもあった。彼は人々の運命を 司り、正義を保護し、全般的に人類の存在を見守っていた。ゼウスは至高の 神性であり、完全な倫理であった。
暫しの快眠を貪った後、正午からアクロポリスの見学に出掛けた。今日はたまたまパナテナイア祭と言って四年に一度の祭日だそうで、アクロポリスは多くの観光客で賑わっていた。アクロポリスの入り口まではオリーブの樹木の生い茂る林間の勾配の小さな女道を通って行った。
ギリシャ古代遺跡のハイライトである「アクロポリス」とは「高い丘の上の都市」という意味で、古代には神殿が建てられていた聖域である。更に都市国家(ポリス)防衛の要塞として二重の役割を果していた場所でもある。 アクロポリスへの入り口は丘の西端にある。参道の階段を登っていき前門に向かって右側を見上げると美しいイオニア式の柱を東西に四本ずつ持つ小さな美しいアテナ・ニーケの神殿が建っている。紀元前424年に完成されたもので、別名「翼なき勝利の女神」の神殿と呼ばれている。戦いで常勝を願ったアテネ市民は勝利の女神がどこへもいけないように翼を切り落としてこの神殿に祀ったと伝えられている。
参道を登りきる時に通る建物がプロピュライアと呼ばれる聖域入り口の正門であるが、左に北翼、右に南翼の建物と組み合わされている。しかし、今は何れの建物も屋根が落ちて柱列と壁面だけしか残っていないが、中央の建物の柱はドーリヤ式で左右のものはイオニア式である。ドーリヤ式は柱に溝があるだけで何の飾りもなく剛健な重量感を受けるのに対してイオニア式は柱頭に渦巻きの飾りを持ち柱にも繊細な優雅さを感じさせる。
正門を通り抜けると目前にパルテノン神殿がドーリヤ式の石柱に囲まれて雄大な景観をつくり出している。アテネの守護神アテナを祀ったパルテノン神殿は大理石で出来ており横31m、縦70m、柱の高さ10mの威容は市内のいたる所から眺められる。この神殿は幾多の変遷を経て起源前438年に完成したと考えられている。現在では柱と梁だけしか残っていないが往時には建物全体が芸術性の高い数多くの彫刻や浮き彫り(レリーフ)で飾られていたのである。レリーフや破風の像の一部はアクロポリス博物館や大英帝国博物館に収蔵展示されている。またパルテノン神殿の北側にはアクロポリスの中でも最も聖なる場所で多くの神々の家であるエレクティオンが建っている。この建物も屋根が壊れて無くなっているが、目をひくのは柱代わりに使われている五人の少女の彫像でカリアティディスと呼ばれている。カリアティディスは、頭にイオニア式の伝統的なキーマの装飾で飾られた籠を載せ、その上に正面の屋根がのっている。踵まである衣服を着て土台の上にしっかりと乗っているにもかかわらず、足を僅かに曲げたその動きは、支えている屋根の重さを全く感じないかのような、優雅さと淑やかな美しさを表現している。
アクロポリスの丘から周囲を展望するとアテネ市内が一望できてアテネ市街が果てし無く広がっているように見える。北東にはリカビトスの丘が一際高く聳え立っているのも手にとるようにみえる。アテネ市街は予想していたよりは遙に大きな都市であった。手元の手帳の控えを見てみるとアテネ市の人口は303万人と記されている。アテネ市はギリシャ国の人口が1060万人であるから国民の三割が住む大都会であることに納得のいく眺望であった。ギリシャ人ガイドのカテリーナさんの説明によればアテネで生活するには最低月四万円必要であるという。ちなみにギリシャの一人当たりGNPは99年の統計で年間11640US$であり、日本のそれは97年の統計で年間38160US$である。
| 2004年06月28日(月) |
【オァーズマン憧れのヘンリー・オン・テームズでレガッタに参加・・イギリス】 |
▼イギリスの旅2 ヘンリー・オン・テームズ、ロンドン 2000年6月25日〜7月11日
ボートを漕いだ者なら、一度はボートのメッカとも言われるヘンリー・オン・テームズで漕いでみたいという夢を持っているに違いない。 筆者はこの度、大学時代の漕友達で編成した60歳代舵手付きフォアー・クルーの一員として7月8日、第7回ヘンリー・ヴェテラン・レガッタに出漕し完漕した。同時に仲間内から60歳代エイト・クルーも別に一艇出漕し漕友達がお互いにヘンリー・オン・テームズのレガッタで漕ぐという醍醐味を堪能した。
ことのいきさつは、7年程前から還暦を目前に控えた大学時代のボート部の仲間が横浜の鶴見川に月二回集まり、健康と漕ぐことを楽しむために始めた漕艇であったが、年一回開かれる母校の対東大戦の余興、OBレースに出場するだけでは飽き足らず、海外のレガッタにも出場して海外旅行も共に楽しもうということになって、手始めに2年前ロイヤル・ハワイアン・ローイング・チャレンジに出場し、次いで今回のヘンリー・ヴェテラン・レガッタ出場となったのである。
ヘンリー・オン・テームズはロンドンの西方、車で約一時間の距離にありオックスフォードからは南方38kmの地点にある美しい町である。
ここで行われるレガッタとしてはヘンリー・ロイヤル・レガッタが最も有名である。このレガッタの起源は1829年にオックスフォード大学とケンブリッジ大学の対抗レガッタが初めてこの地で開催された時まで遡る。1839年に10周年記念レガッタが当地に於いて両校の間で行われたが、他にも数多くのレースが同時に行われ、以後、毎年継続されることとなったのである。その後、1851年に英王室のアルバート王子が後援者となるにおよんで、ヘンリー・ロイヤル・レガッタと名前を変え年々盛大になり、国際参加も多く得て今日に至っているのである。ロイヤル・レガッタは毎年6月下旬から七月上旬にかけて数日間にわたって予選、決勝が行われる大規模なものであるのに対し、ヴェテラン・レガッタはその約一週間後に一日だけ行われる小規模なものである。歴史もまだ浅く、今年で第7回目である。ヴェテラン・レガッタはその名の示すように出場資格が31歳以上でローイング・クラブに所属する者となっており、ボート愛好家が年齢別のクラスに区分けされて出場できるようになっているのである。
国際参加も認められており、今回のヴェテラン・レガッタの参加国はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ドイツ、オランダ、ノルーウェイ、日本の十か国であった。日本からは勿論、東洋からも我々のクルーが初参加であった。
レースは午前8時から午後6時まで終日行われ、競技種目は年齢別の雑多にわたり、1,100mを競う2艘レースで4分毎の発艇である。 折りからヘンリー・オン・テームズの町ではヘンリー2000・フェスティバルが大々的に催されており、ヘンリーブリッジ下流の川畔には大きなテントで囲い込んだフェスティバル会場が設営されていた。7月5日から9日まで5日間、この会場で音楽祭と美術祭が行われるのである。
この会場へ入場するにはチケットを購入しなければならず、男は黒のスーツにネクタイの着用が求められ、女子はイブニングドレスの着用が求められる。午後六時からの開演となっているが、昼過ぎから自動車に椅子や机を積み込んできて牧草地にテントを張り、正装してワインやビールを飲みながら開演時間のくるのを待っている人々がそこここに見られるし、クルーザーでやってきて船を係留しその中でワイングラスを傾けながら談笑している人達もいる。
如何にもフェスティバルを生活の一部に取り込んで楽しんでいるといった風情である。開演時間の迫った午後5時頃になると、電車から降りた正装の紳士淑女が大勢、フェスティバル会場へいそいそと集まって行く風景が見られる。またクルーザーからも正装の紳士淑女が吐き出されて、道路は黒っぽい群衆で埋まる。何しろ緯度の高いこの国では、この時期午後九時頃まで戸外は明るく、暫しの短い夏を心ゆくまで楽しもうという風情が窺われる。日が落ちてからは花火も打ち上げられる。
現地入りした日は緑地で憩う紳士淑女を横目で眺めながらテームズ川畔を歩いて最初にローイング・ミュージアムへ行った。流石にボートの本拠地だけあって豊富な展示物であった。付属の売店にはローイング・グッズが並んでいたが本番のロイヤル・レガッタが終わっているので品数はそれほど豊富ではなかった。
翌朝早く目が覚めたので五時に起き出して散歩に出掛けた。レースの行われる川畔をスタート地点のテンプルアイランドまで歩いてみたが、早朝なの で通り抜けた町中には人影が全然見えない。昨夜のあの賑わいが嘘のようである。夜更けとともに自動車で家路を急いだ人達も多かろうが、多くの人々は係留された夥しい数のクルーザーや川畔の緑地に張られた数多くのテントの中で楽しい夢を結んでいるのであろうか。この時期ホテルはどこも超満員であるからホテルや別荘で宿泊した人も沢山あるに違いない。川畔にはフェスティバルの会場となるテント村が延々と続いているので、遮られてなかなか川畔に出ることができない。
暫くテントに沿って自動車道を歩いていくとアパー・テームズ・ローイング・クラブと標識の出ている建物の庭の門が開放されていて川畔に通じているのを発見した。ここを通り抜けて川畔へやっとの思いでたどり着くと川畔にも人影がない。朝霧のもやっている緑豊かな川畔の小道を散歩するのは実に爽やかである。緑地には白鳥の子供達五十羽ほどが群れをなして歩いていた。レースのスタート地点となるテンプルアイランドで折り返してホテルへ帰った。およそ1時間半の気持ちよい早朝散歩であった。
ローイング・ミュージアムで求めた「テームズ・・・・川と小道」という地図を広げてみると、テームズ川はテームズ・ヘッドに源を発しイングランド南部を東流して、ロンドンを経た後に北海へ注ぐ全長四百五kmの名川である。川の畔には緑色で源からロンドン市内のタワーブリッジまでの小道が克明に明記されていてハイカーやホースライダー達に便利な編集がなされている。ロンドンより上流のテディグトン堰から上流全体は1857年にテームズ自然保全区に指定され、水は清く、岸に森や牧場が多数あって秀麗な景観をつくり出している。オックスフォード、マロー、ウインザー等の一度は訪ねてみたい美しい町や村がこの流域に多数佇んでいる。
ホテルで朝食を済ませてから暫く町中を散策し、再びアパー・テームズ・ローイング・クラブの建物の近くへ集まり借用する艇の到着を待った。待つこと久しく午後3時にやっと艇が到着した。
見るとエイトの尖端部分には小さなゴルフボール大の丸い穴が開いているし、舵なしフォアの尖端は折れている。どうも運搬中にトレーラーに積み込んだ艇の後ろ端を何かにぶっけてしまったらしい。そのため艇の到着が遅れてしまったのであろう。早速艇を下ろして組み立て、損傷のなかった舵手付きフォアを浮かべて練習をした。
鶴見川ではエイトでの練習が多かったので、フォア艇での練習は必ずしも十分であったとは言えない。案の定オールが合わなくてバランスを崩し思うように艇速がでない。それでも何回か練習しているうちに呼吸も合って、バランスも取れてスピードがでるようになった。
エイトの方も穴の開いた部分にテープを張って、何とか水の入らぬように補修が終わった。エイトの方は時間がなくて浮かべることはできなかった。フォアを陸に上げてオールを張り、風で引っ繰り返らないようにしておいてから今日の練習と艇の整備を完了した。
この日はオックスフォード大学ボート部OBの人々から夕食の招待を受けているのでホテルへ帰り、スクールカラーである濃青の揃いのブレザーにネクタイをして彼らが迎えにきてくれるのを待った。やがてリンゼイ、ラザフォード、ドナルド・ショー、グリーンの四氏が揃いの濃青のブレザーを身に纏って迎えにきてくれた。オックスフォード大学のスクールカラーも濃青なのである。彼らは昭和34年にオックスフォード大学の学生エイト・クルーとして来日し、日本の幾つかの大学ボート部と艇を並べた時のメンバーである。実に41年振りの再会であった。当時のオ大クルーのメンバー表から彼らの消息を辿り、まずリンゼイを探し出して彼を窓口にして今回の訪英となったのである。
彼らの先導で由緒ある名門のクラブハウス「リアンダークラブ」へ赴き、ビールやウイスキーで交歓した後、ディナーを御馳走になった。
その後、日本から持参した41年前のレースの模様を録画したスポーツ・ニュースのテープやTシャツ、当時の写真の複製等を土産として贈呈した。東西の大学生として共に戦ったオァズ・マン達が41年振りに再会して杯を酌み交わしな がら、初老の顔貌の中にも紅顔の美少年の面影を見いだしては談笑する、とても楽しく素晴らしい感動的な一刻であった。来訪したオ大クルーの内二人は鬼籍に入っていると知り,時の流れの速さとともに人生の儚さを感じてちょっぴり感傷的になったりもした。
翌朝コース川畔へ行って艇のリギングの整備を行いエイト、フォア共にそれぞれで練習をした。練習中にアメリカのチーム、カルバー・クルーと交歓することもできた。このクルーは平均年齢75歳のアメリカからきた海軍士官学校時代に結成されたクルーであるが1943年以来57年間一緒に漕いでいるという。今回は仲間の内に物故者がでたのでボートのメッカ、ヘンリー・オン・テームズに散骨するため遺族と現存クルーの家族を引き連れて参加したのだという。我々のことを「ヘイ、ベービー」と言ってからかう、よく統制のとれた元気で陽気なオジイチャンパワーであった
その次の朝8時40分の出漕で小生の乗った舵手付きフォア艇はシェークスピアの生まれ故郷からやってきたストラトフォード・アポン・エイボン・クルーと対戦したが、基礎体力と練習量の差は如何ともなしがたく大差で敗退してしまった。スタート後の僅か十本程で相手の姿は視界から消えていた。 12時50分からの出漕でエイトはリー・クルーと対戦したがこれも大差で敗退してしまった。今回の遠征では勝負にこだわることなく、憧れのヘンリー・オン・テームズで漕いでローイング人生に思い出を残したいという素朴な動機から実現した計画であったため、全員事故もなく完漕して達成感に浸ることができたのはオァーズマンの冥利に尽きると言えるだろう。
| 2004年06月27日(日) |
【伝統と紳士の国でヘンリーレガッタを観戦・・イギリス 】 |
▼イギリスの旅1 ロンドン、エジンバラ、ロッホローモンド、ヘンリー・オ ン・テームズ 1997年6月24日〜7月4日 ロンドン大学に留学している娘夫婦の誘いに乗って、定年退職後間もない時期に一人旅をした。大学時代の漕友達と月二回はエイトを漕いで、旧交を温めている程のボート好きなので、ヘンリーレガッタの開催時期である6月下旬に焦点を合わせ、手造りの旅程を用意した。ロンドン市内とケンブリッジ、オックスフォード、ウインザー城等は過去2回の訪問で垣間見ていることだし、今回はエジンバラとトラサック地方のロッホローモンドへ足を伸ばし、スコットランドの風物に接してみようと計画した。
まだ見知らぬ国が沢山あるのに同じ国を三回も訪ねるのは、娘夫婦が滞在しているという気安さもあったが、何よりも日本と共通点が多い国だということと、何となく馴染みやすい国であるというのがその理由であった。第一に島国であること、第二に先進国の中では皇室を戴く国で且つ長い歴史と伝統を持っていること、第三に斜陽の老大国といわれながらサッチャー女史の改革で蘇った国であること、従って斜陽化しつつある日本の手本となる国であること、第四に中学以来習ってきた英語の母国であること、第五に日英同盟をいちはやく結んだ国であったこと等である。
航空機はオランダ航空なのでアムステルダムで乗り換えなければならなかったが、成田で出発が一時間半も遅れたので乗り継ぎ機の出発時間に間に合うだろうかと心配であった。どうにかぎりぎりの時間で間に合ったのはよいが延着の影響でアムステルダム空港での搭乗口が突然変更になったりして気の休まることがなかった。英語は通じないし表示もオランダ語なのでさっぱり要領を得ない。さいわい日本人らしい旅客が何人かいたので片っ端からつかまえて何回も確認した。
ヒースロー空港に到着し、荷物を受け取る場所がよくわからなくてまごついたり、出口が赤、緑、青と三箇所に別れていてどれへ出ればよいのか迷ったりした。間違いだったらやり直せばいいやと覚悟を決めて、あてずっぽに青色の出口へでたところ運よく娘の姿を認めてホットした。年とってからの一人旅は心細くて、もうこりごりだとその時は思ったものである。
黒塗りのオースティンをつかまえて乗り込むと運転手は地理をよく知っており、街の風景を楽しみながらハムステッドの娘夫婦のアパートへと急いだ。窓の外に見えるハイドパーク、グリーンパークの緑色が目に眩しい。ハムステッド近くにあるリージェントパークにも立ち寄ってみたが、その規模たるや日比谷公園の10倍の広さがあるといい、新緑の木立にはリス達が沢山戯れていた。日本ではもう暑くてたまらない季節だというのに、ここロンドンは一年中で気候の一番良い時である。通りがかりの教会では花嫁をみかけた。ジューンブライドという言葉はギリシャ神話からきた言葉だというが、この時期の浮き立つ気分にぴったりとあっている。
ハムステッドの民宿スタイルの小さなホテルで旅の疲れを癒し、翌朝は2階建てのバス(ダブルデッカー)に乗って先ずはウエストミンスターアベイへと赴いた。途中学生街やら貧民街、繁華街を通り抜けて車窓からロンドン市内の種々相を瞥見した。現地生活者が同伴なので言葉の心配もない上、物珍しい穴場の店へ飛び込むこともできるし、バスや地下鉄等いろんな乗物を試してみることもできる。旅の醍醐味といえよう。
テームズ川畔に屹立する国会議事堂やその屋上に一体化しているビッグベンはパーラメント広場の大ピット、小ピット、チャーチル等の銅像等とともにデモクラシーを実現するまでの先人達の血の滲む苦難の歴史を偲ばせて、思わず厳粛な気持ちにさせる。国会議事堂の側にあるウエストミンスターアベイは細長く美しいステンドグラスで飾られたゴチック式の荘厳な建物である。1066年にノルマン人のウイリアム征服王が戴冠式を行って以来、40人の王様がここで戴冠した歴史を誇る由緒ある寺院である。またイギリスの有名な多くの歴史上の人物や金持ちが、この建物の壁や床に所狭しと埋葬されて豪華な彫刻で飾られている寺院墓場でもあるのだ。
ここから、寺院としては世界三大ドームの一つといわれるセントポール大聖堂へ歩いて行った。セントミンスターアベイで収容できない偉人はこちらに埋葬されているという。
近くにはロンドン塔やロンドンブリッジがあるが、観光客でごたがえしている。2時間以上待たされそうだというので、前回見学していることでもあるし、割愛してUCL(ロンドン大学)の学内食堂へ昼食を食べに行った。たまたま医学部の卒業式の終了直後で角帽にガウンを着た医学生達で満員であった。父兄達も息子や娘の晴れ姿を見るために出席したらしく誇らしげに談笑しながら飲食していた。ここで流石世界に冠たるUCLだと感じたのはさまざまな人種の人々が世界中から集まってきていたことである。さながら秀才達の人種の展覧会を見ている思いであった。なおこのUCLには明治維新の頃伊藤博文、井上馨、森有礼、寺島宗則等が在籍したことでも知られている。
この大学の講堂の入口に大法学者ベンサムのミイラ像(本物は別の所へ保管されており、これは蝋人形)が着衣着帽の正装で椅子に座位の姿で安置されているのを見たときには学者のすざまじいまでの学問に対する執念を感じた。ミイラにして飾って欲しいというのはベンサムの遺言であったという。最大多数の最大幸福を説いた功利主義者のベンサムも、心のうちでは秘かに霊魂は戻ってくるという古代エジプトの思想を信奉していたのであろうか。面白い取り合わせだとひとりで感心していた。
エジンバラへ飛んだ日は夏だというのに、カーデイガンがなければ肌寒く感じる程の爽やかな天候であった。エジンバラ城、ホーリールドハウス、 カールトンヒル等を見学した。エジンバラ市街は坂道が多く、盾形の紋章(コートオブアームズ)に似た地形の気品ある美しい街である。徒歩で歩き廻るには手頃の街の規模であるといえよう。
城の入口では伝統衣装である色鮮やかなタータン(スカート様の衣類)を纏った男達が、バグパイプで哀愁に満ちたメロディーを奏でては、観光客の旅情をそそっていた。城内の一角にはスコットランドの国花のシスル(あざみ)が薄紫色の花をつけていた。このシスルはその昔、北欧の蛮人がスコットランドに夜襲をかけたときその刺に悩まされて敗退したという逸話のある救国の花だという。
ジョージア様式の美しい庭を持つロイヤルテラスホテルでスコッチを堪能した夜の翌朝は、レンタカーでロッホ・ローモンド(湖)のあるルス村へドライブした。 窓外に広がる新緑と周囲の山々が色々に姿を変えていく眺めは美しく心がうきうきしてくる。途中昼過ぎに、軽井沢に相当する避暑地のカランダーという街で小休止したが、平日のせいか街を散策している人々に若人は見られず、身なりのよい老人ばかりで大変な賑わいであった。ところが翌日帰りにも同じ場所を通ったが、日没までには随分時間のある5時頃であったにもかかわらず、人通りは少なくそのあまりにも大きい落差に驚いた。 夕刻にはそれぞれの別荘で知人を招いて、ダンスやらゲームやらの晩餐会に興じているのであろうか。避暑地に集まる老人達のゆとりある社交的な生活の匂いを感じた。
ローモンド湖のあるルス村は教会を中心にこじんまりと纏まった田舎の美しい静かな村であった。平屋建てのめいめいの家の壁や門扉を飾っている手造りの薔薇の花が今を盛りと咲き誇っており、その花の色や形にその家の個性が表れていた。
その夜泊まったローマンキャンプカントリーハウスは全館ピンク色に塗られた貴族の館であった。 貴族が昔狩猟にきて泊まった館で今は一般観光客に 開放されているのである。使われている調度品は年代物で実に素晴らしいし銀製のフォークやナイフで喫った夕食も一際美味に感じた。
館内には稀覯本を集めた図書室もあり往時の英国貴族の生活の一端を垣間見た思いがした。館の前には大樹の枝に覆われた牧草地が広がっており、羊が草を食んでいる前には幅の広い川が静かに流れていた。牧歌的な田園風景は旅情を慰めてあまりあるものがあった。
翌朝清々しい気持ちで再び車窓の緑美しい山野の風景を堪能しながらスターリング城までドライブした後、ヘンリーレガッタ観戦のため空路ロンドンへ帰ってきた。
ヘンリーの町へは電車で約1時間かかったが、車内には大男達が揃いのブレザーを着て揃いのネクタイをつけているのでレガッタ関係者だと一目でわかった。赤色あり、水色あり、緑色ありと実に華やかである。男性の方が圧倒的に多かったが、女性もちらほら混じっており彼女達は庇の長い帽子をかぶりフレアーの付いたドレスでお洒落を決め込んでいる。車内は混み合ってはおらず7〜8割り方はレガッタ見物の見物者だということがその服装から判断できる。
たまたま日本人らしい二組の初老の夫婦連れを見かけた。ブルーのブレザーに縞のネクタイを締め、グレーのずぼんに、かんかん帽を被っている。話かけてみると一橋大学OBのオアーズマンで全日本選手権にも出場経験を持つベテランである。夏休みをヘンリーレガッタに合わせてとり、見物かたがたイギリス各地を観光旅行する予定であるという。
ヘンリーの町はテームズ川畔に開けた川遊び中心の町である。 正式にはヘンリーオンテムズというが、川面にはエイト、フォア、ダブルスカル、シングルスカル等のさまざまなボートが浮かんでいる。いつもは落ちついて静かな町も6月下旬から7月上旬にかけての4日間は全国から集まるクルーや観客で大変な賑わいをみせる。列車で来る人もあれば乗用車やキャンピングカーにテントや炊事道具を積み込んで繰り込むグループもある。こうした車を収容する大きな駐車場やキャンプ場も十分用意されている。また各種のローイングクラブの大きなテントも沢山張られており、クラブゆかりの人達はこのテントへ入り、ここで買った軽食とアルコール飲料を楽しみながら出漕選手に声援を送るのである。
車で駆けつけた人々は持参のテントを張りテーブルと椅子を出して、着飾った服装で持参の料理やワインを飲みながらテント相互に交歓の社交場を至るところに形成する。実に華やかな光景でその場の雰囲気を楽しんでいるという「優雅なゆとり」のようなものが感じられる。
贔屓のクルーが出漕する時間になると川辺まで 出て声を限りに声援を送るのである。レースは5分間隔で次々にテンプルというスタート地点から出漕してヘンリー橋へ向けて2000メートル程の距離を2艇が競漕する所謂二杯レースが終日行われる。
これに対して、日本のレガッタといえば、川の堤防に現役を叱咤激励するOBグループや家族友人達、たまにボート好きの観客が集まってわいわいがやがややっているのが通常で、揃いのブレザーもなければ特別に着飾っている人もいない。端的にいえばがさつな光景である。
ヘンリーレガッタは正式にはロイヤルヘンリーレガッタと言われ、1851年以降王室後援のもとに行われる由緒のあるレガッタなのである。このレガッタの光景を見るにつけつくづくイギリスは伝統の国であり、優雅でゆとりある紳士の国だなあと思うのである。
| 2004年06月26日(土) |
【マルクスとスミスの勝負・・東欧4ケ国とミャンマー、タイ】 |
▼東欧四ケ国の旅 ドレスデン、マイセン、プラハ、ウィーン、ブタペスト 1998年6月13日〜6月20日(東欧四ケ国) ▼ミャンマー、タイの旅 ヤンゴン、ペグー、バンコック、アユタヤ 1998年7月8日〜7月13日(ミャンマー、タイ) ベルリンの壁 予てからの念願がかなって、時間や仕事に制約されない自由人として、世界各国を巡り歩く夫婦二人旅ができるようになった。 メキシコから始まり、東ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ミャンマー、タイと廻ったところで、管見にすぎないが、富裕と貧困、発展と停滞、自由と統制、伝統と刷新ということについて考えさせられた。 ベルリン聖堂 東ドイツのドレスデンはエルベ川の川畔に位置する美しい街である。16世紀以降ザクセン王国の首都として発達したが、アウグスト一世、通称アウグスト強王(1670〜1733) の時代に繁栄した。この王の在位中にドイツバロック建築の傑作、ツヴインガー城やビルニッツ城が建てられた。世界的にも貴重な絵画のコレクションやマイセンの陶磁器の開発と発展も同王の時代に行われた。
文化の都ドレスデンは多くの芸術家を輩出し、かつ迎え入れた。シラーは「ドン・カルロス」をこの地で書き上げたし、リヒャルトワーグナーは「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」をこの地のゼンパーオペラ劇場で初演した。「二人のロッテ」で有名な作家エーリッヒはドレスデンの生まれである。「エルベ川のフィレンツェ」とも謂われたこの美しいドレスデンの街は第二次世界大戦中の1945年2月の空襲で、一夜にして灰塵に帰した。戦後の復興は今なお続いているが、ツヴインガー城 始め、多くの歴史的建造物は散乱した瓦礫を集めて、あたかもジグゾーパズルのこまを嵌め込むようにして復元されたのである。
それは、それは気の遠くなるような作業であるが、輝かしい歴史と伝統ある文化遺産に誇りを持つ市当局は、根気よく元通りの姿を蘇らせている。フラウエン教会は現在、このような復元工事の最中である。
ところでドレスデンの街中には古い建物が沢山残されて実用に供されているが、中には壁が剥げ落ちたり、硝子窓が壊れたままになっていて無人であることが、一目で判る建物があちこちに散見される。美しい街並であるだけにこれは痛ましい光景である。
聞いてみると、1989年の自由化以前の時代に、自分の所有物でない建物の補修には、居住者自身が自らの手で補修する程の熱意がないし、国や市にも補修にまで予算が廻らないという財政事情があって荒廃が進んだということである。しかも、自由化の時代がきて経済の混乱のため、東側では元の国営企業が倒産したり閉鎖されたりで、職を失った市民が西側へ移住し、住民のいなくなった建物の廃墟化が進んでいるというのである。
マイセンの陶磁器工場の見学を終えて、広大で豊穣な田畑や林を窓の外に眺めながら、バスはドイツとチェコの国境近くにさしかかった。自動車道路の道端に美しく着飾り、厚化粧の若い女性がちらほらと佇んでいる。一時停車した自家用車の運転手と窓越しに話をしている者もある。ガイドの説明によれば、自由化以降に出現したチェコの売春婦であるという。言われてよく目を凝らすと、簡易宿泊所のような建物もあり、店先にはやはり着飾ったそれとおぼしき女性が椅子に腰掛けていた。
自由化の影響で、統制からの解放を謳歌するためか或いは、経済混乱のため職を失ったためなのか判然とはしないが、若い女性が春をひさぐために国境線で道端に立つようになったのである。
プラハの街も美しい街並である。 プルタワ川の両岸に広がる街は「百塔の街」とも称えられ、塔が林立しており、バロック、ゴシック、ルネッサンス、アールヌーボー等中世以来のあらゆる建築様式をみることができるのであるがここでもドレスデンで見たと同じような、無人化した廃屋が散見されて痛ましい光景を点映している。これと同じようなことはブタペストの市内においても散見された。
オーストリヤのウイーンは森が深くて、水が綺麗な音楽の都であり、ハプスブルグ王朝の文化遺産を温存している歴史の街である。政治的には中立を守り世界の趨勢に立ち遅れることなく先進国の都市として繁栄している。
ミャンマーのヤンゴンで見たシェッダゴンパゴダ は金色に輝き、天高く聳える沢山の塔を持つ、華麗で巨大な寺院であった。何度もの地震に耐えてきたこのパゴダの原型は、15世紀中期に栄えたパゴーの女王シン・ソービューによって完成されたという。
このパゴダの華麗と荘厳に比較して、街中を走行する日本製の中古車のトラックバスは常に、乗客で鈴なり状態であり、乞食や多くの幼い子供の物売りが観光客に群がる貧困さは痛ましい。一トン積みのトラックに四十人乗客を詰め込んで走るのが、通常であるという。また街中を往来する車は全て日 本製の中古車であり、日本の看板がそのまま残っている。例えば、横浜市の市バスがヤンゴン市内を走っているとの錯覚に陥るが如きである。
ミャンマーの古都ペグーのビルマ料理屋で昼食をしたときのこと。二階へ上がる階段の入り口で、民族衣装を纏った4〜5歳と見受けられる女児が、入ってくる日本人のお客にひとりひとり丁寧にお辞儀をしていた。その店には冷房設備が申し訳のようについてはいたが機能しておらず、大きな扇風機が生暖かい空気を、徒にかき混ぜていた。部屋に入った途端、異臭が鼻をついて、吐き気を催しそうになる程であった。
それでも料理が運ばれてくると、珍しさも手伝って、箸は皿から口へと自然に動いていた。そのうち涼しい風が背後からするので振り返ると、先程入り口で丁寧にお辞儀をしていた女児が額に汗しながら、団扇で一生懸命私を扇いでいるのである。親に強制されて、そうしているのか、自発的に親の家計の一助にと思ってそうしているのか、定かではないが、そのいたいけなさに、自分の孫の姿が重なって、思わずなにがしかのチップを握らせていた。これを受け取った時の彼女の嬉しそうにはじける笑顔はあどけなく、とても美しかった。
社会主義体制をとり、今なお軍事政権下にあって厳しい統制の中で貧困に呻吟するミャンマー人の苦悩を感じる。
タイのバンコックは近代化され、高層建築が立ち並び繁栄を誇っているかのように見える都市である。
タイのアユタヤで、ワットマハタード、 ワットラハバーナ等の遺跡を見学した。これらの遺跡は十四世紀にシャムに興ったアユタヤ王朝によって建立され繁栄した仏教寺院であるが、18世紀に創建されたビルマ王朝のアラウンパヤーによって攻撃され、1767年にアユタヤの王宮が陥落炎上したときに、一緒に破壊された。
現在では、陸続きで隣接している両国でありながら、ミャンマーとタイではその近代化の進み具合や経済的な繁栄度において、格段の差が生じている。タイは世界の先進国の仲間入りが出来る程に発展しているが、ミャンマーは世界の最貧国の一つに数えられ、まだまだ多くの難関を潜らなければならない後進国であるといえよう。
暁の寺
僅か七か国の表面だけから見た、旅行者としての瞥見にすぎないが、豊かな国と貧しい国の違いは何に由来するのか考え込まざるをえない。
1917年のロシア革命から1991年のソ連崩壊まで、70年余の壮大な社会主義の実験は文化遺産の破壊と精神の荒廃という負の遺産しか残さなかったような気がしてならない。
1989年に東ヨーロッパ諸国で市民と労働者の変革運動が相次いで、ソ連型社会体制を崩壊させていったが、社会現象としてはドレスデンやプラハやブタペストで私が垣間見た、建物の荒廃であり、売春婦の出現なのであろう。
豊穣の大地に恵まれ、歴史上の一時期には隣国のタイを支配下においたこともある、ミャンマーの現在の姿は貧困と停滞そのものである。私が瞥見した社会現象は乞食や子供の物売りであり、乗客で鈴なりのトラックバスの往来である。これは頑に、社会主義に拘り、軍政を敷いて民衆の苦悩を省みない、為政者の無策無能に起因するものであると言わざるを得ない。
私流にいえば、見えざる神の手にその支配を委ねた市場原理と自由を、基 本理念とするアダムスミスと、生産手段の公有化と労働者階級の独裁を、基本理念とするマルクスとでは、アダムスミスに軍配が上がったといえるのではなかろうか。
| 2004年06月25日(金) |
【水墨画の世界奇山、珍山を堪能し、桃花源に遊ぶ・・桂林�◆� |
桂林での風景を堪能して桂林空港から広州空港へ飛んだ。機中はその過半が初老以上の日本人観光客の団体であったが、中に一際目立つ異様な集団があった。西洋人の若い夫婦がいずれも乳幼児を抱いており、その数10数人に及んでいた。こんなに沢山乳幼児を連れた集団を見かけたのは初めての経験であり、最初は健康優良児を競う世界大会でも開催されてこれへ出場した人々かな等と勝手に想像していたが、若い母親の子供を抱く手つきがなんとなくぎこちないし、嬰児の顔をみると明らかに東洋人の顔つきである。そこではたと気がついた。
これは子供の生まれない若い夫婦が集団で中国を訪問し、養子縁組を無事 済ませて帰国するところなのだと。
ガイドの話の中に中国の近年の発展は目ざましいものがあるが、山村地区と沿岸地区での経済格差には甚だしいものがあり、山村の貧しくて子供を養いきれない親とか一人子政策に反して間違って多く子供を生んでしまった夫婦達が子供を捨てることが多くなったという。捨て子を集めて育てている孤児院には欧米の子供のない若夫婦が養子を貰いに訪れるというのがあった。これはまさしくその里親達の集団だったのである。
東南アジアを旅行していて、一番厭な思いをするのは乞食にまといつかれることと、しつこく押し売りをする物売りの集団である。中国でも都会地の北京や上海ではあまりみかけなくなったが、田舎の観光地にはこの乞食としつこい物売りがまだ多い。
陽朔の町では物売りが掏摸を兼ねているというから物騒である。今回の旅行ではこの物売りに悩まされた。
最近日本にも百円ショップができて意外に安い掘り出し物を見付けることもあるが、過半は中国製のものが多い。観光地の物売りは大体千円を最小単位としてこれに品数を増やして商いをしている。しつこい物売りから逃れてバスに逃げ込むと窓辺へ寄ってきてダンピングが始まる。3枚千円であった刺繍のテーブルクロスが7枚で千円に増えたりする。そこで欲の皮の張った日本の小母さん達が引っかかる。7枚買った筈のテーブルクロスが受け取ってみると5枚しかなかったり、大きさが随分ちいさな物にすり替えられたりしているが、金を渡したあとだから気がついたときは後の祭である。したたかな物売りと欲の皮の張った小母さん観光客のやりとりはちょっとした見物ではあった。
広州は広東省の省都で珠江流域に開けた城郭都市であった。近くには深川、珠江三角州という、いち早く1979年に経済開放特区に指定され躍進著しい衛星都市を従えている目下近代化へ驀進中の経済都市である。町中至るところに建設用クレーンが建ち並び今まさに街中普請中という感じのある活気溢れる都会である。人工千百万人を抱えているがそのうち四百万人は内陸部らの出稼ぎ労働者であるという。
古くは海上シルクロードの起点ともなった町なので、城郭の北端にある越秀公園の高台には鎮海楼という8 階建ての博物館が佇立している。今はサッカー場や高層建築が建ち並んでいるので市街地を見晴るかすことはできないが、字義通りここは珠江交通と海上交通の見張りの場所として設置されたものである。
今は博物館に転用されている。 この博物館のコレクションの一つである紫檀でできた飾り棚に陳列されている。 寿大石製の手の込んだ彫刻や翡翠の飾り物など明代の骨董品が7 〜8 点展されていた。飾り棚とそこに収納されている宝物一式はこの博物館を改修するための費用として売りに出しているのだという。邦貨88万円の値がつけられていた。
ガイドは戸棚から無造作に宝物を取り出して手に持って説明するし、第一博物館のコレクションを売りに出すこと自体が日本人の感覚では理解できない驚きであった。
食は広州にありとはよく言われる。食べ物にはあまり興味も関心もない。食事に頭を煩わせ時間を費やすのが厭でパック旅行によく参加するのだが、今回の旅は美味しいものを三食食べられたのでとても楽しかった。四つ足は机の足以外は何でも食べると言われる広州人の食文化は逞しくもあり素晴らしいと思う。大阪の食い倒れに匹敵する食文化がここには根付いているようだ。
広州では飲茶料理を堪能した。地元の大衆がよく集まるレストランは大変な賑わいであったが, 蒸籠に入れて供される料理は品数も多いし美味いものが多い。骨つきの鳥の脚先や鶏冠までには満腹で手が伸びなかった。
子豚の丸焼きもこの広州で堪能することができた。北京のペキンダックと広州の子豚の丸焼きはいずれも中国を代表する名采の誉れが高い料理である。料理では中国の影響を強く受けているタイのバンコックでも子豚の丸焼きは最高のもてなしだと言われている。タイでは豆電球が目の所につけられて供されるが、ここ広州では豆電球がついていなくて安堵した。だが、人間の残酷さも感じながら食した夕食であった。
桂林の街は広西省の景勝地であるが、歴史は古い街である。古くは紀元前214年に秦の始皇帝が広東・広西地方を統一し、この地方に霊渠という運河をめぐらせた時まで遡る。宋代には広西地方の政治文化の中心地として賑わいをみせていた。1921年に孫文が北伐をする際には独秀峰城内に拠点を構えその後広西省の臨時省都にもなっている。1940年の坑日戦争の時には中国各地から文化人達が集まり文化の城と呼ばれた。
この街に象鼻岩という岩に穴の穿たれた景勝の地があり、観光客や市民で賑わっている。この象鼻岩のある河畔に野外サーカスが鉄塔を建てロープを引いて綱渡りのサーカスを演じている。安全ネットも張らず、命綱もつけずに綱の上を歩いている軽業師がいるかと思えば、綱からぶら下げた車に乗っている軽業師もいた。正月興行で春節にサーカス団が市と契約して随時、観客の多寡に係わらず軽業を披露しているのだそうである。従って彼等の給料は広西省の役所から支給されることになっているのである。世外桃源の少数民族の若者達といい、観光客を集める役割を持つ人民は国の手厚い保護を受けているようだ。
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