前潟都窪の日記

2004年07月15日(木) 【宗教対立を象徴するピースウォール・・北アイルランド】

▼イギリスの旅3(北アイルランド) ベルファスト、コーズウエイ
                 2000年6月26日〜7月11日

 北アイルランドのベルファスト空港は出口をでると空港施設内に手洗いの
ない珍しい空港である。ベルファスト市内中心部のヨーロッパ・ホテルへ到
着して市内観光とゴルフプレイをコンシェルジェに相談すると早速アレンさ
んという若いガイドがワゴン車で迎えにやってきた。ゴルフ場も三時からプ
レイの予約ができたという。

 先ずハウスペインティングの場所へ連れて行かれた。ここは、ベルファス
ト市南部のフォールスロードやアンダーソンタウンという名の住宅地域であ
る。長屋風の切り妻造り二階建ての切り妻部分の壁面一杯を使って、銃を手
にした男の絵とか覆面をした男達



の絵が描かれている。IRAの指導者ゲーリー・アダムスの肖像を描いた壁もある。どうも北アイルランドの分離独立運動をモチーフとした絵のようである。中には鳩の絵とFOR PEACEという標語が描かれている壁面もある。住宅の周りには橙色、白色、緑色からなる三色旗がはためいている。これはカソリックの旗である。ここは北アイルランド独立運動の拠点地域であるようだ。後に調べてみると旅行のガイドブックには危険な地域だから立ち入らないようにと注記されている場所であった。

 壁に描かれた絵の意味するものにきな臭いものを感じながらも、一種独特
の趣のある住宅の壁面に施されたペインティングを鑑賞したり、カメラに納
めていると、通りすがりの広場に大勢人々が集まって、制服を着用した軍隊
か警察の集団を取り囲んでいた。瞥見しただけなのでその集団が何をしてい
るのか或いはしようとしていたのか判らない。運転手も見られては拙いもの
を見られてしまったというような顔をして急いでその場を通り抜けようとし
たので敢えて誰も質問をしなかった。

 これらのペインティングの施された家々の地域から離れていくと道路に門
がある。この門は夜間には扉が閉められて通行できなくなるのだという。何
故そのようなことをするのかと訝っているとやがて「ピース・ウオール」



と運転手が指さす所に高い壁がある。冷戦時代にベルリンを東西に隔てていたような隔壁である。これはカソリック教徒とプロテスタント教徒の居住区を区分する隔壁なのである。カソリックのほうが人数的にも少なくて狭い場所に閉じ込められているようである。聞いてみると運転手はカソリックであるという。宗教問題や民族問題に深入りすると旅行中のことでもあり、紛争に巻き込まれる恐れがあるので同行者の一行は運転手がこの場所へ異邦人を案内した意図を忖度しながらも正面切った質問は避けることにした。

 翻って北アイルランドの宗教紛争と民族紛争の歴史を繙いてみるとその遠
因は一五三六年のヘンリー八世の宗教改革にまで遡及る。元来ケルト系原住
民が居住していた北アイルランドにアングロ・サクソンが侵攻してきて十三
世紀半ばにはその四分の三を支配するようになった。そしてイングランド国
教がローマ教会から独立したのを機にイギリスは宗教改革をアイルランドに
も強制し、ヘンリー8世はアイルランド国教を導入しアングロ・ノルマン系
の反抗を受けたのである。18世紀に入ると異教徒刑罰法が制定されてカト
リック教徒は政治経済の権利を剥奪され、プロテスタント地主にカソリック
小作という支配関係が定着した。そしてカトリック教徒の間に自治と独立の
運動が始まったのである。

 1916年のイースター蜂起の失敗ののち反英運動は独立運動に発展し1
916年愛英条約によってアイルランド自由国が成立した。しかしアルスタ
ー地方の北部6州はイギリス領に留まり今日の北アイルランドとなった。し
かし、カトリック教徒の公民権が制限される等の制限が残ったため独立運動
が後をたたず,1969年にイギリス治安部隊が常駐するに及んでIRAの
テロ活動が活発化したのである。

 ピース・ウオールを万感の思いで見学した後、午後3時からパルモラル・ゴルフ・クラブでプレーした。



電動カートはなくて手押し車にバッグを積んで自分で持ち運びながらのプレイであった。フラットなコースであったがラフに入ったらまずボールは見つからないという深さである。プレーも夕方になると体が冷えてきて体がかじかんでくる。最終ホールになったとき突然前方のピンの旗や建物が二重に見えだし距離感が全然なくなってしまった。初めての経験なので脳細胞の血管に異常をきたして脳血栓乃至は脳溢血でも始まったのではないかと一瞬恐慌をきたした。片目をつぶると二重に見えていた建物が一重に見える。どうにか最終ホールを無事終えてから、この体験を同行の堀家氏に話すと頭が冷えたときには三半規管の機能が低下し二重像が見え距離感がなくなることはしばしば起こる現象だと説明してくれた。小樽という寒冷地育ちの氏には何度もそのような経験があるという。それを聞いてほっとしたが生まれて初めての体験であった。なるほどプレーを終えて体が温かくなると二重像は消えてしまった。

 翌朝九時に昨日の旅行社バリュー・キャブスの運転手アレン氏が迎えに来
てくれたのでワゴンに乗り込みジャイアント・コーズウエイの見学にでかけ
た。

 車はひたすら北上を続けるがよく整備された自動車道路には殆ど車が走っ
ていない。周囲には広大な牧草地と麦畑が開けていてポプラや松、白樺、杉
などの樹木も畑を区画するように繁っている。緑地には羊と牛がのんびりと
草を食んでおり、どこまでも牧歌的な風景が続いている。暫く走行するうち
に海が見えだした。大西洋である。

 ポートラッシュの集落に到着したようである。天候に恵まれて海の色は青色に輝いており広がる緑地と共に美しい海岸線が続く。そして気温は肌に快く、七月という時節に日本ではとても考えられないような涼しさである。海岸沿いの緑地にはゴルフ場も認められた。
 
 スコットランドの名門ゴルフ場セントアンドリュースゴルフ場に似た佇まいである。ポートラッシュの集落を通り過ぎると、前方に古い城跡が見えだした。その昔海からの外敵に備えて築城されたダンルース城



である。今は廃城であるが史跡として観光名所になっており、沢山の観光客が訪れていた。

 ダンルース城を跡にして暫く走行するとジャイアントコーズウエイへの入
り口に到着した。沢山の観光客が集まっていたが不思議なことに日本人の姿
が全然みかけられない。その後暫くして、日本人女性の二人連れに会っただ
けであった。ここにはコーズウエイ・ホテルや売店の建物が並んでいる。六
方石の奇岩のある景勝地



はここから徒歩で約15分位の所にある。

ここには六角形をした石の結晶が柱状に重なりあって何本もそそり立っている。



尖端が折れて石の階段のようになっていて小高い丘の上に登ることができる。その珍しい形が海の青、山の緑、岩肌の焦げ茶色と絶妙のコントラストをなしていて素晴らしい景観をつくり出している。




 コーズウエイ・ホテルで昼食を摂った後、1608年創業の世界最古のウ
イスキー工場ブッシュミルズを見学した。



ここでは女性職員が50人ほどの一般見学者を引率して工場内を工程毎にてきぱきと説明して歩き、その統率力には小気味良いものがあった。見学が終わり食堂でアイリッシュウイスキーを試飲したらまろやかでとても美味しかった。スコッチに勝るとも劣らない味であると思った。

 本日の観光を終えベルファストのホテルへ戻り部屋へ入るとベッドサイド
の机の上に置いておいたピロウチップがそのままになっている。このことは
先日ロンドンのボニントンホテルでも経験したことである。我々の解釈はピ
ロウチップは文字通り枕の上に置いておかないとベットメークに入室したメ
イドはお客が置き忘れたものであると認識し、手をつけないのではないかと
いうことであった。ここにホテル従業員の躾けの良さを垣間見、イギリス人
の律儀な国民性を見た思いであった。

 夜はホテルの真向かいにあるバー・クラウンに入ってビールを飲み、アイ
ルランドのバーの雰囲気を楽しんだ。このバーは相当古い建物で、天井に施
された彫刻や柱の彫刻、部屋を囲む壁に使われているガラス細工の模様など
贅を尽くしたものである。この街が造船で栄えた頃に建てられたものであろ
う。シティ・ホ−ルにしろ、アルバート・メモリアルホールにしろ何れ劣ら
ぬ贅を尽くした建造物である。こんな所にこの街の過去の栄光の面影を見る
思いであった。

 翌日は同行の友人三人でこの市内にあるクイーンズ・ユニバーシティと
ボタニー・ガーデンを散策した。



たまたまこの日は大学の卒業式の日であり、大学構内でガウンを身に纏った卒業生をそこここに見ることができた。ボタニー・ガーデン内には博物館もあり、アイルランドの先住民の生活の模様や歴史等を実物で知ることができた。

 午後からはまだ見ていない市内の主たる観光名所を昨日も頼んだ旅行社の
ワゴンで見て廻った。運転手は昨日のアレン氏と違って判り易い発音の英語
を喋った。

 百年前に建設されたシティ・ホール
、



アルバート・メモリアルホール、オペラハウス、パーラメント、ベルファスト・キャッスル、ハランド・エンド・ウルフ造船所等を駆け足で廻った。

 ハランド・エンド・ウルフ造船所はかの有名なタイタニック号を造



った造船所であるが現在船台には殆ど船が入っておらずかつての栄光と賑わいが嘘のように感じられる閑散さであった。周辺の工場地帯にも活気がなく、なんとなくうらぶれた感じが漂っていた。しかし工業地帯の再開発を積極的に進めているようであちこちにクレーンが林立し、古い建物を壊している現場を目撃することができた。かなりの投資がなされているようで僅かながら活気が蘇りつつあるなとの印象を受けた。

 ベルファスト・キャッスルは海と市街地を見下ろす小高い丘の上に立って



おり、今はホテルに転用されている。ここで昼食を摂ったが料金もリーズナ
ブルで美味しかったし、宿泊料も高くない。ベルファスト観光の穴場ではな
いかとの感じを受けた。市の中心地から離れた所に位置しているので外来の
観光客には足の便の点で敬遠されているのではないかと思った。

 ロンドンへ帰りボニントン・ホテルでテレビのニュースを見ていると,我
々が北アイルランドを離れた7月3日の夜、ベルファスト市内でIRAの手
になるものと思われる爆発騒ぎが発生したという報道があった。このニュー
スを見て紛争に巻き込まれずに済んでよかったと胸をなでおろしたものであ
る。                                 



2004年07月14日(水) 【コートダジュールの保養地の悪質運転手に興ざめ・・南仏海岸】

 ニース、モナコ、エズ、カンヌ、サン・ポール、 

                  2000年6月26〜7月11日

 大学時代のボート部の友人達5人と一緒にイギリスのヘンリ・オン・テームズで開催されるヴェテラン・レガッタに参加した。現地入りする前に南仏のコート・ダジュールへ立ち寄り、ニース、モナコ、エズ、カンヌ、サン・ポールの保養地や観光地を駆け足で観光した。
 
 大きな荷物はロンドンのホテルに預けてきてはいるものの、初めての土地で道不案内なので空港からタクシーでホテルまでいくことにし大型車を探したが見当たらない。タクシー乗り場で五人だというと二台でなければ駄目だといわれた。近い距離で荷物も小さいのだから五人を一台に乗せろと交渉しても受け付けようとしない。

 しかたなく値段を聞くとホテルまで一台150フランだという。邦貨に換算すると約2500円である。予め見当をつけておいたホテルまでの距離からすると高い気がするが、初めてのことなので距離感が働かない。なにはともあれ二台に分乗してラジソン・ホテルへ向かった。ニースの海岸沿いに走っている道路を十分も走行したかと思うまもなく目的のホテルへ到着した。

 走行中運転手はメーターを作動させようとしない。ニースのタクシーには悪質な運転手が多いという予備知識がなかったので、値段を予め決めてからの乗車だからなのであろうと単純に思っていた。ところが、ホテルへ到着してから現地旅行社の担当者等に事情を聞いてみると適正料金の約三倍を払わされていることが判った。

 旅の第一印象として不快な思いをさせられたので、以後ニースではタクシーに乗るのをわずわらしく感じるようになってしまった。

 ここでニース滞在中に体験したタクシー事情をまとめてみると、ニースのタクシー運転手は悪質な雲助が多いということである。従って対策としては、

 先ず乗る前にメーターがついているタクシーかどうかを確かめなければならない。

 次にメーターで走行してくれるのかを確認しなければならない。メーターは使わないと言うのであれば、目的地まで幾らで連れていってくれるのか値段の交渉をしなければならない。予め値段を決めておかないと、目的地へ着いてから何十倍という法外な料金を請求されても抗弁のしようがなくなるからである。

 しかも、乗客側に距離感がないうえ、運転手の使う言葉がフランス語なのでよく判らないため,相手のいいなりの値段になってしまうケースが多くなる。

 更にメーターで走行すると言った場合でも注意していないと走行中メーターを操作して数字をはね上げるような悪質なことまで行う運転手が蔓延しているのである。

 我々も滞在三日間には町中を徒歩で歩いたり市バスに乗ったりと経験を積んで、距離感が判るようになってくるので、運転手の請求する金額が適正なものかふっかけたものかおよその見当がつくようになる。メーターに手加減を加えず、表示通りの適正な運賃を請求するまともな運転手も勿論いるからそのような時には気持ちよくチップもはずむことになる。しかし運転中、何度もメーターに手を触れる運転手には注意が必要である。必ずメーターを操作しているのである。しかし、その不正を咎めることは極めて難しい。そこでせめてもの抵抗としてチップを払わないことで対抗するしかない。

 実際に経験したのであるが、夕食を終えてからの帰りにメーター付きのタクシーに乗ったら、この運転手はメーターに何度も手を触れている。ホテルについて料金をみると行きに乗ったときの料金50フランよりも六割方高い金額八十フランが表示されている。そこで「ノン」と相手の請求を拒否して行きと同じ料金しか出さなかったら受け取ろうとしない。しばらく押し問答が続いたが運転手は乗客を下ろさないで、やおら車を走りださせてしまった。

 どこへ連れていかれるか判らない。この時は四人一緒であったが言葉のままならない不案内の土地故、不安になったので百フラン紙幣を渡した。すると右手に握りしめていた汗まみれの十フランコイン二枚を釣り銭として我々に手渡すと、下車を急かせて慌ただしく車を発進させて暗闇へ消えて行った。

 この運転手などは多少、心にやましいものを感じている気の小さい運転手で、騒ぎが表沙汰になったら営業免許取り消し等の処分を受けるのを恐れている様子がありありと窺われた。周囲の者がやっているから自分もしなければ馬鹿をみるという大勢随順型のどこにでも見られる人間類型である。それにしても行政当局が徹底的に取り締まりを強化してこのような悪質タクシー運転手を駆逐しなければニースという世界の名勝地の名に恥ずかしいのではなかろうか。それともこのような現象はラテン系民族のちゃらんぼらんな国民性の表れと見るべきなのだろうか。

 荷物を部屋へ置いて取り敢えず、ニース市内を歩いてみることにした。海岸通りには椰子が植えられており幅広い歩道には、ジョッギングしたり、散歩したりしている人々の群れが絶えない。空が白みだすと早朝から散歩する人々の姿がみかけられる。

 海岸通りを歩いてみると白い砂浜




には水着姿で日光浴をする老若男女があふれている。欧州北部地方の日照時間の少ない地方の観光客達が太陽の強い陽射しを求めて、ビタミンDの補給にきているのであろうか。海に入って泳ぐでもなくただひたすら砂浜に寝ころんで肌を焼いているのである。世界屈指の南仏のリゾート地の光景を楽しみながらちょっとばかり裕福な気分になりしばしの散策を楽しんだ。空は青く晴れ渡っており、太陽の光を一杯に受けて地中海は紺碧色に美しくに輝いていた。陽射しを直接肌に受けるが空気が乾燥しているせいか歩いていても不思議にあまり汗をかかない。

 散歩の途中見かけたニース最高級のホテル・ネグレスコ



に入り、メリーゴーランドのあるカフェでビールを飲みリッチな気分にしばし浸った。この後ニース市内を気の向くままに歩き廻った。カジノという看板をだしたスーパーストアもニースならではの愛嬌である。夕食にはこの地で有名なレストラン「ボッカチオ」で海鮮料理に舌鼓を打ち白ワインで杯を重ねた。ムール貝が印象に残る味であった。

 翌朝九時に予約しておいた男性の日本人ガイドが迎えにきた。ガイド兼運転手である。出身地は徳島県で、大学を卒業して間もなく県の交換留学生としてこの地に留学したがそのまま居ついてフランス人女性と結婚した。趣味はカジノだという。小さな旅行会社を友人と経営しているらしいが、忙しい人である。自動車の運転中も携帯電話で頻繁に事務所と連絡をとりあっている。何でもシーズンを迎えて多忙なところに係員の一人が生牡蠣を食べて食中毒にかかり入院したためその皺寄せがきた上に、初老の夫婦連れのお客の夫の方がバイオグラを服用して急死するというアクシデントが重なったのだと言い訳していた。

 午前中はコート・ダジュール(紺碧の海岸)をモナコへ向けてドライブした。砂浜には太陽に肌を焼いている水着姿の人々が寝そべっている。中にはトップレスの水着を纏い見事な乳房を誇示している若い女性も散見される。海水の流れが速いらしく水泳をしている人は殆どいない。モナコへ向かう途中小高く登った道路の遙か下方の崖下の岩場にヌーディスト達の集まる場所があると説明を受けたが障害物に視界を妨げられて現場を垣間見ることはできなかった。そうこうする内にモンテカルロ




を一望のもとに見渡せる地点を通って、車はモナコ国の領内に入りモナコ大公宮殿前広場に到着した。




 モナコは総面積が二km2しかない人口3万人の小さな都市だが独立国家である。歴史はフェニキヤ時代に始まり、中世以降に栄えた風光明媚で国際的な保養地である。宮殿前では白い制服を身に纏った衛兵が剣付き銃を肩に担いで門前の一定区間を繰り返し往復警邏していた。

 宮殿の近くにある教会の中には自動車事故死した往年の名女優で王妃となった故グレース・ケリーの墓があり、墓標にはグレイシア・パトリシア
の名前が刻まれ観光客が供えたのか生花が供えられていた。



 宮殿のある地域が旧市街で、高層ホテルの林立する地域はモンテカルロと呼ばれている。モンテカルロにある大カジノ



の建物は豪華な造りで見学者で満ちあふれていた。なにしろ公設賭博の収益と間接税で国家財政の過半を維持している所得税のない国である。宮殿よりも贅を尽くして豪華に見える建物の存在もうべなるかなである。

 モナコを後にして城砦の村エズ



へ立ち寄った。ニースを攻撃するための城砦として中世に建設されたものがそのまま残り、村として現在も機能している。ここにはサボテンの植物園が営まれておりモナコやニースを一望のもとに見下ろすことができるロケーションである。


午前中の観光を終わり、再びニースへ戻ってエスキナードというレストランで海鮮スパケッティを食べたら蛸や烏賊や海老がふんだんに使われていてとても美味しいと思った。

 午後からはカンヌ



と城郭都市サンポールを観光した。カンヌの映画祭の時使われる建物の前の広場にはここを訪れた映画俳優達の手形がタイルに型とられており、ロスアンジェルスのチャイナシアターと同じ趣向が凝らされていた。そして前面に広がる海浜ではニースと同じように水着姿の人々が日光浴を楽しんでいた。この海岸の近くにはナポレオン・ポナパルトがエルバ島を脱出してから捲土重来を期すべく上陸した地点があり、記念碑が建っていた。

 サン・ポール



もエズ同様に小高い山に築かれた城砦がそのまま町として現在に残って観光地として栄えているのである。

 夕食にはニースの旧市内にあるターブルドシヌという中華レストランで中華料理を堪能し久し振りに紹興酒を飲んだ。華僑の女将の如才ない愛嬌のある応対に東洋人として相通ずる人情の機微を感じた。

 ニースも滞在三日目ともなると市内の地理も頭に入ったので、市バスに乗って有名な花の朝市



見学に行った。色とりどりの花が売られていて楽しい風景である。果物、野菜や魚介類も売られておりトマトを買って食べたら自然の素朴な味がした。この後、有名な「シャガール美術館」へ市場から歩いていて行った。旧約聖書に題材をとった色彩感覚豊かな作品が多数展示されており名作を前にしてしばし忘我の境界を彷徨った。



2004年07月13日(火) 【ライン川クルーズとロマンチック街道・・ドイツ】

▼ドイツの旅 リューデスハイム、ザンクトゴア、ハイデルベルグ、ローテ
ンブルグ、シュパンガウ
    2000年9月26日〜10月4日

ライン川は全長1320km、流域面積25万2000km2の国際河川である。スイス南東のアルプス山中サンゴタール峠付近に源を発し前ライン川となり後ライン川と合流してボーデン湖に流入、出口付近でライン滝を作りドイツ国内西部地域を貫流し、オランダのデルタ地帯を経て北海に注いでいる。ヨーロッパで最も重要な内陸水路であると同時に最も眺めの美しい川として知られている。特に素晴らしい眺めを誇るのはマインツ、ケルン区間の中ライン川と呼ばれる地域で風光明媚な自然や情趣溢れる古城の姿は観光客を魅了してやまない。

我々がクルージングを楽しんだのは、ワインの町として世界的に有名なリューデスハイム




からザンクト・ゴアーまでの約30kmの区間であったが、両岸は概ね山地になっておりラインシュタイン城、ライフェンシュタイン城、




ゾーネック城、ラインフェルス城、猫城、ねずみ城等の古城が建っていて周囲の緑とよく調和して美しい景観を造りだしていた。山間の傾斜面には横方向斜面に直角に畝を切られた葡萄畑が広がっており、平地には教会を中心として、一様に切り妻造りの赤い屋根と白壁の民家が集落をなしていた。

 そして川にはひっきりなしに観光船や大型の貨物船が往来していて、川岸には上流起点からの距離数が一km毎に白地の標識に黒字で大きく表示されている。
 
 山の木々は紅葉の始まっているものも散見され、天候にも恵まれ空気は爽やかで汗をかくこともない。

やがて船は有名なローレライの難所にさしかかった。




 船内にはローレライのメロディーが流れだし川幅は狭まり流れも速くなる。川幅90mに狭まった所には高さ132mの何の変哲もない岩壁がそそり立っている。昔から暗礁と急流に船乗り達が難所として怖がっていた場所である。水嵩の減った時には川中から「七人の乙女」と呼ばれる危険な暗礁が姿を見せる場所だ。伝説によれば乙女達は心の冷たさのあまり岩に姿を変えられたという。

 船乗り達が金髪の美しい水の精と歌声に惑わされ暗礁に乗り上げたともいうローレライを通り過ぎた所には乙女の像が建てられていた。この乙女像のある場所の対岸の平地にはキヤンピングカーが沢山駐車していて、中には机と椅子を持ち出してワインを楽しんでいる家族連れも散見された。この場所に限らず平地の空き地にはそこここにキャンピングカーの駐車が見られ野外生活を享受するドイツ人の生活のゆとりを垣間見た気がした。そんなことに思いを馳せながらハインリッヒ・ハイネの歌詞をメロディーに合わせて口ずさんでいるうちに船はいつしか終点のザンクト・ゴアーへ到着していた。この町は570年に聖人ゴアーが作った町で葡萄の栽培地としても有名である。田舎町ではあるが活気に満ちており何よりも見事だと思ったのは地上に電線も立て看板も見当たらないことだった。

午後はハイデルベルグまで戻り、ハイデルベルグ城、




アルト・ブリュッケ大学広場、騎士の館、学生牢、マルクト広場等市内観光を行った。

ハイデルベルグ市は人口13万5000人の中世の雰囲気の残る古い町である。町としての歴史は796年にベルグハイムという名の集落として登場し1196年にマルクト広場が開かれた。その後13世紀になって城の起源らしきものが出来、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した金印勅書に基づく七選帝侯に選ばれたファルツ伯が逐次城を増強したのが始まりであると考えられている。またファルツ伯の手で1386年にはドイツ最古の大学ハイデルベルグ大学が創立されている。現在でもハイデルベルグ大学は名門大学として名実ともに健在であるが、面白いことに市内にある大学の建物は各地に散在しているから纏まった大学構内というものがない。

城は後にフリードリッヒ5世がオットー館と呼ばれるドイツルネッサンス様式の建物等を増築し整備して現在の形に近いものができあがった。赤色砂岩で出来ており、自然とよく調和した美しい姿は人々の心を引きつけ、大学の町の城としてその名を知られ、町は世界中の学生達の憧れの地であった。

町には学生牢等の史跡なども残されていて、酒を飲みすぎて暴れたり喧嘩をしたりした生きのいい学生達が収監されたもののようである。学生牢からの通学も認められておりここへ収監されることはむしろ名誉なことであると考えられる風潮があったという。因みにこの大学出身者でノーベル賞の受賞者が七人いるが、そのうち三人は学生牢経験者であった。日本の旧制高等学校生達のバンカラの気風もこんなところを倣ったのかもしれない。

アルト・ブリュッケはネッカー川にかかる古い橋で入口に建つ二つの丸い塔が美しいし橋の中央あたりから仰ぎ見るハイデルベルグ城の姿も美しい。




川面では学生が八人漕ぎのボートを楽しそうに漕いでいた。そんな光景を見ているとアルト・ハイデルベルグの歌詞が自然と頭の中に浮かび、知らず知らず独り静かに口ずさんでいた。そして、遙か彼方に消え去った、古都京都における若きよき日々のことが次々と懐かしく思い出された。銭湯へ行く時や食堂へ赴く往還に何時も歌ったものである。

「遠き国より遙々と ネッカーの流れ懐かしく 岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の いと美しき花飾り
いざや入りませ我が家に されど去ります日のあらば 忘れ賜うな若き日の
ハイデルベルグの学舎の いと麗しき思い出を」





翌朝ハイデルベルグのホテルを出発し、ロマンチック街道沿いの都市ローテンブルグへ到着した。現在観光コースとして脚光を浴びているこの街道は「ローマ風の」「ロマンスの」という二様の意味を持っていて、その昔ドイツからイタリアへの通商ルートであり、紀元前後のローマ時代にはクラウディア・アウグストス街道として知られていた。

 この街道は中部のビュルツブルグから南部のバイエルンを経て、アルプスの麓にあるオーストリアとの国境の町フッセンまで全長340kmに及んでいる街道に沿って、ワインで生計を立てている小さな村、小綺麗な木組の家並の町自由都市、古城や要塞、由緒ある寺院、庭園や豪商の館等が中世の面影をそのまま留めていて旅情をそそる。内陸部にありナポレオン戦争以降流通の中心から外れ、近代化の波に洗われることもなく、両世界大戦後の経済発展にも取り残されて陸の孤島と化していたこの地方も、発展の遅れたことが幸いして貴重な観光資源が良い保存状態で維持され、今ではドイツで最も人気のある観光地として蘇っているのである。

ローテンブルグは




四方にバイエルンの森と高原が広がっていて、中世の町並みがあたかも凍結されたかの如く、ほぼ完全に残されている城郭都市である。町の歴史は紀元前五百年頃ケルト人が入植した頃から始まり、1142年にドイツ皇帝の家系に連なるホーエンシュタウフェン家が居城をこの地に置いた頃から発展しだした。やがて市場が出来、城壁が築かれ十三世紀後半には市域の発展とともに城壁も第二、第三の城壁が増築された。現在も市の発展を物語る三つの城壁が龍の落とし子型に残されていて城壁の回廊を歩きながら市内を見学することも出来る。

街の中には14世紀の市庁舎、聖ヤコブ教会、マルクト広場の木組みの建物ブリュック公園等の由緒ある建物や史跡が良好な保存状態で多数残されているブリュック公園は最初に城が築かれた所であるし、市庁舎の鐘楼に登れば中世風の街中を俯瞰することができる。観光客に最も人気のあるのは、市庁舎広場の建物の壁面にある仕掛け時計である。

この日はアルプスの麓で、オーストリヤ国境に近いシュバンガウの村のホテルで宿泊した。辺境の田舎村という雰囲気が濃厚に漂っている村で、ノイシュバンシュタイン城やホーエンシュバンガウ城を訪れる観光客やスキー客、登山客が利用するらしく、民宿風のホテルが何軒も立ち並び牛小屋や蹄鉄屋も民宿と軒を接して建っている。民宿の窓という窓には美しい花が鉢うえされて吊るされておりとても美しい。ドイツ人に限らず、なべてヨーロッパの人は壁面や窓に花を飾るのが好きなようだ。道路には湯気の上がる牛の糞も落ちている。ホテル前の道路からは、小さくノイシュバンシュタイン城も望見できるロケーションである。

朝ノイシュバンシュタイン城を見学にいった。遠くからではその黒っぽい尖塔の屋根が山の色に溶け込んで、白壁だけが長方形に見えていた城だが近づくにつれ、次第にその全容を現しだした。沢山の尖塔を持つ城の容姿はいかにもメルヘンチックでディズニーランドにある城のように見える。しかし本当のところはこの城を模してディズニーランドの城が作られたということであるし、バイエルン国王ルードウィヒ二世がこの城の建設を決意した時の意図がロマンチックな城を建てようということであったからロマンチックでメルヘンチックなことこそがこの城の本質なのである。




この城の建設は1869年から1886年にかけて莫大な資金を投じて建設工事が行われたが遂に完成することなく、国王のルードウィッヒが狂人として王座を追われ、僅か三日後の1886年6月13日にミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに謎の死を遂げたので、工事は中断され城として実用に供されることもなかった。

作曲家リヒャルト・ワグナーのスポンサーであり、熱烈な崇拝者でもあったルードウィッヒはワグナーが作曲した「ニーベルンゲンの指輪」「トリスタンとイゾルデ」に因んだ色々な場面を絵画として描かせ室内の装飾にふんだんに用いている。

城の中の装飾も贅を尽くした豪華なものであるが、それにもまして城の建てられている地理的な位置が素晴らしい。城の背景にはアルプスの連山や湖や山の木々を巧みに配して自然とうまく調和させ、とても優雅で美しい光景を作りだしている。特に渓谷にかかるマリエン橋から眺める姿が最も良い。
折りから好天に恵まれ空気は乾燥していて爽やかであり、空は抜けるように青く素晴らしい景観であった。

悲劇的な運命を終えたルードウィッヒが残したこの文化遺産は、今では世界で最も美しい城として世界中の観光客を集めている。



2004年07月12日(月) 【ラテン文化とゲルマン文化がせめぎ合う国・・・ベルギー】

▼ベルギーの旅 アントワープ、ブルージュ、ブラッセル
                 2001年4月11日〜4月18日

 アントワープ市内では画家としては例外的に全生涯を通じて裕福な生活を送ったと言われるルーベンスの館を見学した。




宮廷画家でもあった彼のアトリエには注文主の貴族を迎えるために、二階からアトリエを見下ろす位置に設けられた閲覧台がある。ここには当時パトロン以外には誰も立ち入ることが出来なかったといわれるが、今は観光客に開放されている。ここから制作中の大作を眺める気分は想像して余りある贅沢で満ち足りたものであったに違いない。

ノートルダム大聖堂にも中に入って見学した。ここにはルーベンスの最高傑作と言われる大作が三点掲げられている。キリストの昇天、キリストの降架、聖母昇天である。






この後この夜の宿泊地ブルージュへ向けて出発した。今日は観光は申し訳程度のもので終日移動日のようなものであった。
翌朝は、現地女性ガイドのベネディクトさんの案内で、ブルージュ市内の観光である。彼女の英語はネイティブでないだけにゆっくり発音するので、小生にもヒヤリングができ彼女の説明の過半を理解することができた。
聖母教会、聖ヨハネ病院、愛の湖公園、ベギン会修道院、グルトフーズ博物館、ビールの醸造所、グルーニング美術館等の前を通って説明を受けながら運河クルーズの乗り場まで徒歩で観光した。




ブルージュの街には縦横に運河が流れており五十以上の美しい橋がかかっている。12〜13世紀には西ヨーロッパ第一の貿易港として大いに繁栄した中世の城郭都市である。ところが15世紀になるとブルージュと北海を結ぶ水路が沈泥のために浅くなり、商船が出入り出来なくなってしまった。このため都市機能を失ってしまった街は衰退の一途をたどったのである。寂れた街で生活する人々の悲惨な生活も語り継がれている。それは惨めな物語である。









しかしそのことが今となっては幸いし、中世の市街地がそのままの姿で保存されていわば街全体に鍵がかけられた状態で今日に当時の面影を伝える重要な観光資源になっているのである。このような街はヨーロッパではそこここによく見られる。小生が過去に訪問した都市の中ではハンザ同盟の盟主であったリューベック、ロマンチック街道沿いのローテンブルグ、ネルトリンゲン、南フランスのサンポールなどであろうか。






街中に縦横に張りめぐらされている運河を大きなボートで巡る約30分のクルーズはとても魅力的なものであった。路上を歩いて観察するのとはまた異なった視点から街を観察することができた。路面からの観察が建物の表面だけを観るのに対して運河から観る建物は裏面である。それだけに現代風にアレンジされていない当時の姿をそのまま観察することができたと言えよう。物資の動き、人の動きが少なく時間がゆったりと流れていた中世の姿が偲ばれて、あたかも時間が一点で止まっているような錯覚さえ覚える楽しい一刻であった。
午後は自由時間が沢山あったので、小さな街をあてどなく歩き廻り、非日常の中世社会の面影と日常の現代社会の喧騒とのからみあう姿を十二分に堪能した。再度訪問してみたい街のひとつである。
朝、ブルージュを出発し長駆ブラッセルへ向かった。市内では凱旋門と呼ばれる50周年記念門、ブリュッセル公園、最高裁判所前等を観光して廻った。

 日本人男性ガイドの吉水さんの説明の基調はゲルマン民族とラテン民族がその民族性の相違からあいせめぎ合っているのがブラッセルの街であり、目に見えない文化の壁、言葉の壁、民俗習慣の壁が厳然として存在するという説は目からうろこが落ちるように感じた優れた文化論であると思った。ベルギーという国は遠くシーザーが遠征した頃からベルガイ族というゲルマン民族が住んでいた土地であり、次第にローマ化されていったのだが、ゲルマン民族とラテン民族の融合しえない隔壁が厳然として現在も存在する国がベルギーであるという見方は、最近世界各地で火を噴いている宗教、言語、風習、人種を巡る紛争の根にあるものと相通じるものがあると思った。長い歴史と人間の叡知が紛争の発生することを抑えこんでいて、一見平和で穏健なヨーロッパの先進国であると思えるペルギーにもこのような問題が伏在しているのである。例えば北部のフランダース地方に住むゲルマン系のべルギー人はベルギー人である前にフランダース人であり、南部のワロン地方に住むラテン系ベルギー人はベルギー人である前にワロン人であることに誇りとアイデンティティを持っているのである。 従ってベルギー人に「ベルギー人て具体的には誰のこと」という質問をすると「それは国王のことさ」という返事が返ってくるという例え話はベルギーという国の民族構成の特殊性をうまく説明していると思った。ベルギーという国の認識は民衆の意識の中ではオリンピック大会のような場でしか発現しないのである。

 現実にフランダース地方にはフランダース人を統治する行政機構が存在し、ワロン地方にはワロン人を統治する行政機構が存在して別々に機能しているという。海に囲まれた国で単一民族だけで構成され、異民族支配を経験したことのない日本人にとってはベルギーはヨーロッパ社会が凝縮されている国であると考えて間違いなかろうと思った。

グランプラスの佇まい、ゴジバの本店、小便小僧等は3回目の訪問になる小生にとっては物珍しいものではなかったが、ヨーロッパの雰囲気を楽しむという点では懐かしい風物であった。昼食に食べたムール貝のワイン蒸しは何回食べても文句なしに美味しいと思った。




















午後はブリュッセル郊外のアンヌボア城、ヴェーヴ城、モダーブ城と古城巡りをした。アンヌボワ城の水を巧みに使った庭園芸術は素晴らしかったし、








ヴェーヴ城はドイツのノイシュバンシュタイン城を思わせるメルヘンチックな姿であり、モダーヴ城は城というより貴族の館という感じのものであった。現在ではこの城はホテルに転用されているがなるほどと思わせる作りであった。





翌日の午前中ワーテルローの古戦場を見学した。広大な農地はいまも当時と殆ど変わらない状態で残っていてこの戦場の近くには高級住宅地帯が形成されていた。





ヨーロッパの現在の国境線をほぼ確定したといわれる1815年のこのワーテルローの戦いは規模こそ異なれ、歴史的な意味合いでは日本の関が原の戦いに匹敵するものだと思いながら感慨深いものを感じた。
連合軍を率いてウエリントン将軍が陣を張ったといわれる場所にはピラミット状の丘が人工的に作られていて、頂上は展望所になっている。この丘の隣にはパノラマ館が作られていてウエリントン軍とナポレオン軍が大軍で激突した模様が実戦さながらになまなましく再現されており、この戦いの規模の大きさと激しさが具体的によく理解できるように工夫されていた。
ナポレオンが作戦本部を設置した農家も残っていて博物館になっている。ナポレオンの遺物なども展示されているが、もっとも衝撃的だったのは裏庭に設けられている無縁仏の遺骨を集積した納骨堂であった。窓から覗くと沢山の白骨が積み重ねられていて異様な感じを受けた。この地方の人々は白骨を直視しても何とも感じないのであろうか。このあたりの感覚が騎馬型民族でかつキリスト教徒であるヨーロッパ人と農耕型民族で且つ仏教徒である日本人との違いではなかろうかと考えてみた。



2004年07月11日(日) 【風車とチューリップの国・・オランダ】

▼オランダの旅 アムステルダム、ザーセスカンス、デン・ハーグ   
                 2001年4月11日〜4月18日

ブラッセル空港の入国審査の係員はやけに愛想がいい。日本語を振りまいてはパスポートをちらっと見ただけで通してくれるから意外に早く入国審査を終えた。迎えのバスに乗り込んで18時半にはアムステルダムへ向けて出発した。2時間半の行程である。ブラッセル市内を抜け出して郊外へ出ると折から木の芽時で木々の梢から萌えだした新緑がとても美しい。今まで忍従の冬を凌いできた木の芽が一斉に迎春の喜TZBびを奏でているようにすら見える。桜なのか胡桃なのか定かには判じがたいが満開である。緑色の田野の先に点在する農家の屋根は橙色で周囲の景色の中に良く融けこんでいる。空気はリンとしていて実に爽快である。

アムステルダム市街が近づくと飛行機の発着が頻繁に行われていることがよく判る空気が冷たいのでどの飛行機も派手に白い航跡を残して上昇し、或いは下降している3本も4本も航跡が交差している。折から日没で太陽が高層ビルの合間に沈んでいく姿は感動的ですらある。

・航跡を 従え春日 街に落つ

翌朝、最初にアンネの隠れ家の見学に出向いた。
1926年にドイツのフランクフルトで生まれたアンネ・フランクは姉と両親の四人からなるユダヤ人家族であった。ジャム用凝固剤を製造販売する会社を経営する父オットー・フランクの庇護下に裕福な生活を送っていたが、1933年ヒットラーがナチス党を率いて政権の座についたとき、身の危険を感じてオランダのアムステルダムに移住し暫くは安全に暮らしていた。
 ところが、1940年5月にマジノ線を突破して西部への侵略を始めたナチス軍が中立を宣言していたオランダを占領下に置いてしまってから状況は一変してしまう。ナチスの党綱領に掲げるユダヤ人の非国家公民化政策でユダヤ系住民は公職から追われ、徐々に隔離されていくのである。1942年7月6日アンネの一家は事務所裏の倉庫を改造した隠れ家に隠れ住むようになった。1944年7月密告により連行されアウスシュビッツの強制収容所へ送られるまでのおよそ2年間にわたってこの隠れ家で書きつづった日記が「アンネの日記」で60以上の言語に翻訳されている。

隠れ家のある運河沿いのブリンセンフラハト263番地の建物には表の建物と裏の建物があって表の建物には父の経営する会社があり、一階が倉庫、二階から上が事務所と物置になっていた。裏の隠れ家と表の事務所への往来は書棚で隠された秘密の出入口から行われた。裏の隠れ家は当時の状態のまま保存され、博物館として一般の観光客に開放されている。几帳面な字で書かれた日記のオリジナルも生々しい写真と共に展示されていて、戦争の愚かしさと人種差別に基づくホロコーストのおぞましさを訴え続けている。これらの展示物を眺めていると当時の悲惨な生活が偲ばれてアウスシュビッツでのガス室のことに思いが及ぶと何とも名状しがたい身の毛のよだつ厳粛な気持ちにさせられる。









ゴッホ美術館にはあの燃え立つような向日葵とか糸杉の絵は少なく、僅かに1〜2点あるだけであるが、馴染み深い自画像は数点展示されていた。展示されている絵はなべてこれがゴッホの絵かと見直したくなるような筆致のおとなしい絵が多数展示さていて、ゴッホの知られざる一面を見ることができた。そして興味をそそられたのは日本の浮世絵から多大の影響を受けたらしく浮世絵を模写したと思われるような作品が3点ばかり展示されていることであった。






アムステルダム郊外のザーセスカンス村で4基だけ残っている風車を見学した。風の強いオランダでは動力源として最盛期には9000基以上の風車が全国至るところで見られたが、今では千基弱の数を留めるだけになっている。産業革命以後動力源として蒸気、電気などにとって代わられたからであるが、オランダ産業の母体となったのはこの風車であった。低地の国オランダでは干拓のための揚水機として風車が活躍しオランダの風景に欠かせない風物詩であった。




ザーセンスカンス村は干拓事業によって出来上がった土地であり、土地を区画して運河が縦横に走っている光景はオランダ独特のものである。

朝八時にアムステルダムのホテルを出発してキューケンホフ公園へ向かった。とても寒くて4月とは思えない冷えこみである。手袋を持ってこなかったので手がかじかんでしまい、バスの車内から外に出ていると冷たさが身に滲みる。


オランダと言えば何といってもチューリップであるが、この時期は開花にはまだ早く、畑では花が咲いているのを観ることはできない。しかしこの公園では温室で色とりどりのチューリップの花や蘭の花を咲かせている。もともとこの公園はヤコバ伯爵夫人の所有地で狩りの他に野菜やハーブの栽培に使用されていた家庭菜園であった。これが1949年に花の公園として開園したのである。七ヘクタールの広大な敷地にはチューリップを始め、ヒヤシンス、アイリス等の多種多様な球根の花の公園として著名である。その花の数は六百万株にも及ぶという大規模なものである。折から屋外の畑には黄色の水仙が今を盛りと咲き誇っていたし、チューリップも蕾が膨らみ始めていた。温室に入るとそこにはありとあらゆる種類のチューリップが色とりどりに咲き誇っていて来園者の目を楽しませてくれる。それにしても氷雨が降る程寒くて戸外には出たくなくなる程の悪天候であった。

公園を後にしてデン・ハーグへ向かった。デン・ハーグで昼食を摂った後、デルフト・ブルーで有名な陶器工場を見学した。レンブラントの絵を模写して作った大きな陶板画が印象に残った。

マウリスハイツ美術館には逸品が多い。







主なコレクションはレンブラント、




フェルメール、ルーベンス、ファン・アイク、ヤン・ステーン


等であるが、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」やフェルメールの「デルフトの眺望」



「青いターバンの女」が特に有名である。美術館の建物自体もオランダで最も美しい建物の一つに数えられている。

政治の都市とも言われるハーグ市内の一角に湖の上に浮いているかのように見える美しい建物群がある。ビネンホフと呼ばれる建物群で国会議事堂や総理府、外務省等の政府機関である。国会議事堂は騎士の館が転用されたもので13世紀から17世紀に建てられた建物であり、華麗な中にも荘厳さを併せもった佇まいで、これがヨーロッパだと思わせるこの周辺の雰囲気である。

政治都市ハーグには平和宮と呼ばれる常設の国際司法裁判所もあって、米国の鉄鋼王カーネギーの寄付によるものでとても美しい建物である。

翌朝はアントワープへ向けて出発する日であるが、5時前に目が覚めて窓の外をみるとまだ暗い。そのうち段々と明るくなっていく空の様子を飽きずに眺めていた。

季節感や語感を大切にした昔の日本人は夜明け前のこの変化を四段階で捉え表現する言葉を編み出した。第一段階は「暁」で東の空が明るみ始めた頃、二段階は「東雲」で東の雲に明るい色がつきはじめる頃、三段階は「朝ぼらけ」でかなり空が白み陽の光が見えだした頃、四段階が「曙」でかなり明るさが進み日の出直前の頃、そして日の出となるという説を出発前に家内と議論したことを思い出しながら眺めていた旅に出た時の喜びや感動は、非日常の生活の中で単なる天然現象の中にも思わぬ発見をすることである。

バスで出発し途中ホーボーケンという街で小休止したとき、フランダースの犬の主人公ネロ少年と愛犬パトラッシュの記念像を見学した。意外に小さな像で地元の人もその存在を知らなかったらしいが、日本人観光客が団体でぞろぞろ押しかけるようになって知られるようになったということである。日本人とは何と物見高く話題を捜し回ることが好きな民族なんだろうと考えさせられた。

オランダ国境とベルギー国境をバスで通過したときには検問もなく,従ってパスポートのチェックもない。それらしき建物もなく、異国へ入国しているという感覚が全くなかった。ガイドに説明されなければ国境であるとは気がつかない。日本で東京から関西方面へ旅する時、県境を何の感慨もなく通過するのと同じ感覚である。これがEC加盟のヨーロッパの国々である。



2004年07月10日(土) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊��】

平成16年7月10日(土)
 朝早く蘭州の飛天大酒店を出発して沙漠の中をを劉家峡ダムへ向けて疾駆した。

 目的地は炳霊寺石窟の見学である。約2時間走行して劉家峡ダムの船着場へ到着した。船着場からはモーターボートに乗ること約1時間で45km先の炳霊寺に到着した。今は渇水期にあり水位は相当下がっておりモーターボートも浅瀬に乗り上げないようエンジンを切って漂うように進むこともあった。

 モーターボートのスピードが意外に早いのは驚きであったが、更に驚いたのは、モーターボートのどこにも救命胴着が設置されていないことであった。乗船前にも後にも安全に対する注意はひとこともなかった。膨大な人口を抱える中国社会の人命や人権に対する評価の程度が推し量れるなと思ったし安全意識の水準は相当低いなとも思った。

 河の水の色が茶褐色であったのもちょっとした驚きであった。粘土質の黄土が溶け込んでいるのでこのような色になるのであろうか日本の河川では見られない色である。

 炳霊寺とはチベット語で千仏万仏を意味するという。石窟数は183箇所あり、西秦時代から清時代に渡って石窟は造られたがその80%は唐代のものである。高さ27mある唐時代の大仏は炳霊寺のシンボルとなっている。上半身は石彫で下半身は泥塑像である。 見学したのは6窟、9窟、11窟、70窟、16窟である。
                        




劉家峡ダム




                    
茶褐色の河の水



    
                 
炳霊寺のシンボルの大仏           





炳霊寺石窟



                       

炳霊寺石窟周辺の光景        





炳霊寺石窟内の仏像

                      



蘭州市内を貫流する黄河  





西安の西門の起点から西へ伸びるシルクロード

平成16年7月11日(日)
 昨日夕方蘭州から再び西安に飛び西安賓館で最後の夜を過ごして今回の旅の締め括りとして西安市内の西の城門を訪ね、シルクロードの起点から西へ伸びる河西回廊を感慨をもって眺めた。今回の旅の印象は素晴らしい芸術作品に触れたことと、中国の内陸部にも開発の波が押し寄せ至る所で普請が行われていることであった。恐れるべし中国の活力。                                    
『稼ぐ宣伝代行』
                                       



2004年07月09日(金) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�─�

平成16年7月9日(金)
 9時に出発して武威市内の雷台に向かった。市内の会社や官庁の始業時間と重なる時間帯だったので道路のあちこちで始業体操を目撃した。また武威市も普請中であった。
                        



朝の始業体操             




   
地上げ中の武威市内

 雷台とは、雷神廟の土台という意味で名付けられた史跡である。1969年9月に後漢時代の大型墳墓が発見され、耳室から沢山の馬軍が出土した。墓は前室、中室、後室、耳室とからなり、19mの長さがある。出土品では「馬踏飛燕」が有名である。長さ34.5cm、高さ45cm重さ7.5kgの銅製の奔馬である。この墓は張という将軍の墓であったことが判っている。墓内部の埋葬物は盗掘にあって殆ど残っていない。粘土を使わずに煉瓦を組み上げて造った墓はアーチ構造になっており、1927年に発生した7.8度の地震にも耐えて現在にその姿を止めている。
                      




雷台から出土した馬軍のレプリカ  





 馬踏飛燕の像の前で始業体操中の郵便局員達

 雷台の次に甘粛省で最大の孔子廟である文廟を見学した。
 この文廟は中国の中では3番目に数えられ、明代の1439年に創建された。
 孔子廟の天井に掲げてある沢山の掲額は文曲星という道教の神に捧げるために著名な書道家や彫刻家などの文化人が奉納している。
 庭には香港返還の年1998年に香港の篤志家が建てた大きな孔子の銅製像が佇立している。
 また博物館には西夏文字の大きな碑があり女性研究員達が拓本をせっせと採っていた。 再び天馬賓館に戻り昼食を摂った後、蘭州へ向けて沙漠のドライブが始まった。途中海抜3000mの鳥鞘嶺(うしょうれい)峠から眺めた山並みと一面の菜の花畑の美しさは筆舌に尽くし難いし、馬鹿チョンカメラをもってしてもうまく表現できない。 
                       



文廟の門            





文廟   天井の掲額
                
  



  香港返還記念に香港の篤志家
  が寄贈した孔子のブロンズ像





峠の鳥鞘嶺(うしょうれい)から見た菜の花畑と山並

 鳥鞘嶺での絶景を堪能してからバスは山間の沙漠を蘭州へ向けてひた走った。大概の乗客は沙漠の景色には見飽きて居眠りを始めていたが、筆者は飽きることなく窓外に移りゆく景色に何か発見はないかと眺め続けた。

 そのうち周囲の禿げ山に鉢巻き状の筋が一定の間隔で刻まれているのに気がついた。これが植林のための土壌作りだと気がつくまでに時間はかからなかった。かつて内モンゴルへ遊んだ時、これと大同小異の光景を見たことを思い出した。バスがこの鉢巻きに接近した時、この考えに間違いのないことを確信した。それは鉢巻き状の線は近くで見ると幅をもった溝になっており、ビニール袋に穴の空けたものが置かれている。これは肥料と土壌改良剤の混合したものが入っているのだろう。灼熱の太陽に焼き付けられて肥料と土壌改良剤が地山と緩やかに反応して土壌が形成されるのである。ある程度土壌が出来上がったところで今度は苗木を植えていくのである。それはそれは気の遠くなるような時間のかかる大事業であり、人間の弛まざる営為の産物なのである。沙漠の中にある山という山にこの鉢巻き状の線条が刻まれているのである。内モンゴルで聞いた話ではこの植林のための作業のために税として農民の労力が駆り出されるということであった。残念ながらガイドは西安育ちだからこのことについては何も知らなかった。

 この禿げ山の線条に緑の小さな苗木の植えられているのが目につくようになつた頃、漸く蘭州近郊に到着していた。蘭州市内に入るとこの緑化運動は蘭州から始まっていることが歴然としてきた。緑化センターという看板も見えたし、かなり成長したポプラ等の植樹が帯状に生い茂っているのを目撃したのは蘭州市内に入ってからであったからである。
                       




蘭州郊外 植林のため線条に土壌作り  





蘭州市内 帯状に苗木の育っている山とヨートンの跡

 更にもう一つの発見は蘭州市内に入ってくると緑の増えてきた山の断崖に穴が掘られているのが沢山目につくようになった。これは黄土地帯に古くからあったヨートンという住居跡ではないかと見当をつけた。この推定が正しいかどうか執拗にこの横穴に注目していた。今は廃墟と化して打ち捨てられているものもあれば、ごみ捨て場や物置に転用されているようものもあることに気がついた。更にこれがヨートンに違いないと確信したのはこの穴に窓と扉がつけられて人間が住んでいる穴を幾つか目撃したからである。高速で動いているバスからなので写真が鮮明に撮れなかったのが残念である。
                        




廃墟となったヨートン 幾つも穴がある   





山腹のヨートン、まだ使われている。                 穴に扉と門がつけられているのが判る

 夕暮れに到着した蘭州の中心地でも普請は続いており、夕方遅くまでクレーンが作動して新しいビルの建設作業中であった。
   




蘭州市内のクレーン作業

 夕方蘭州の飛天大酒店に到着し、市内のレストランで蘭州名物の牛肉麺に舌鼓を打った。
                        




手打ち蕎麦の実演





蘭州名物牛肉麺



2004年07月08日(木) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�А�

平成16年7月7日(水)
 朝8時にホテルの服務員達に見送られて酒泉市内の鐘鼓楼を見学にでかけた。今日は沙漠の中を次のオアシス都市張掖まで沙漠の中を長駆する日である。




ホテル服務員の見送り

 鐘鼓楼は4世紀中頃建てられたが消失し、清時代に再建された。東西南北にそれぞれ次のような門額が掲げられていて、東西南北を結ぶ要衝の地であったことが窺える。
 東迎華岳(東は華山を迎え)         
 南望祁連(南は祁連を望む) 
 西達伊吾(西は伊吾に達す。伊吾は現在の哈蜜) 
 北通沙漠(北は沙漠に通ず) 


 酒泉市内の楡の並木路が街の姿に風格を添えていた。
    
                 


         
鐘鼓楼



酒泉市内の楡の並木路

 張掖市近郊の黒水城へ立ち寄った。漢の時代に造られた古城跡であり、東西2km、南北やく2.5kmあり、見るべき建物は残っていなかったが狼煙台の跡は確認できた。
                       



黒子城跡              



黒子城狼煙台跡

 張掖市のホテルへ到着し沙漠走行中の汗と埃を流してからホテル近くの大仏寺の見学にでかけた。大仏寺の創建は西夏の永安元年(1098年)で大仏殿の中には体長34.5m、肩の幅7.5mの釈迦仏の涅槃像が横たわりその周辺には十大弟子の塑像がずらりとならんでいた。
 大仏寺の後にはチベット仏教式の土塔が建っていたし、各堂塔の庇に吊るされた風鈴がカランカランと涼しげに音をたてていた。燕が沢山飛び交っていたのも印象的であった。この寺の縁起は西夏時代にある国師が座禅をしていると物音が聞こえたので掘り返してみると地下から仏が一体出土したということである。
                        



大仏寺の本堂、この中に涅槃仏が祀られている  




チベット仏教式の塔
 バスで走行中、今日は日本では七夕でいろんな行事があるが、中国ではどのような行事をするのかとガイドの王さん、劉さんに聞いてみたが、本人達に知識がないのか特別な行事はしないという回答が返ってきた。本来1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は陰陽五行説からは陽の日であり、祝い事が行われる。何れにしてもこのような行事の本家は中国であろうと思っていたが現地人ガイドが何も知らないというのは意外であった。
 この日は時間に余裕があったが、疲れていたので市内探索にはでかけず、同行の橋田さんと囲碁を打ち通算三勝三敗の互角に持ち込んだ。

平成16年7月8日(木)
 この日は珍しく雨が降っていた。地元の人達は恵みの雨だと喜んでいたが、旅行者にとっては雨は鬱陶しいものである。幸い本日は移動日のようなもので雨が禍することもなかろう。
 朝9時に張掖市のホテルを出発して、次なる目的地、張掖市粛南裕固族自治県へ向かった。この当たりは河西回廊の中でも南北の幅が最も狭い地域であり、バスはやがて祁連山脈の麓へと入っていった。標高は2000m位である。小雨が降っているせいもあるが肌寒さを感じる程度である。
 バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
                       



祁連山脈の山々の麓にある村落のパオ  



 バスの発着場付近にできた新しい建物
 この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
                       



歓迎の白い布を客人一人一人に捧げる     
 



着席した客人に歓迎のお酌

 客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。
 パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。
 客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。
 歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
                       



民族舞踊            




客人と共にフィナーレ

 裕固族というのはウイグル族の先祖にあたり高地で遊牧と農業に従事してきてこの地に住み着いた少数民族である。この自治県に約二万人住んでいるが、中国に56種族ある少数民族の中でも最も人口の少ない民族であるという。
 裕固族の訪問を終えて山沿いにある馬蹄寺の石窟を遠くから見学した。
                        



馬蹄寺の石窟         




中央に盛り上がっているのが長城

 張掖のホテルへ一旦帰って昼食を摂った後、武威まで長駆280kmの沙漠のドライブである。途中漢代と明代の長城の遺構を発見し、バスを停めて写真を撮った。
 18時過ぎに武威の天馬賓館に投宿した。



2004年07月07日(水) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�Α�

平成16年7月6日(火)
 朝8時に安西の瓜州賓館を出発して嘉峪関へ向かった。安西市の官庁や会社は丁度始業時間にあたり、職員や社員達が道路に出て整列し朝の体操をしていた。その体操は太極拳の要素をとりいれたような動きである。また市民達はそれぞれに太極拳をしていた。中には扇子をもって大見得を切る人もいて通りすがりにみていても楽しいものである。バスはひたすら嘉峪関へ向けて長駆する。
 途中風力発電用の柱が林立し先端で羽が回転している所を目撃することもできた。経済発展が急速に進む中国では深刻な電力不足を抱えており、それを補完するためこのような風力発電にも取り組んでいるであろう。電力事情といえば、ホテルやレストランに入っても照明が暗く、ホテルの廊下等は消灯しており、足元がよく見えないということもしばしばであったし、トイレも薄暗くしており、不用不急の電力は節電しようという官民あげての取り組みを知ることもできた。 
                       







     風力発電のプロペラ            








嘉峪関の入り口

 正午過ぎにやっと嘉峪関市内へ到着した。都市計画が進んでいて道路も広く新しいビルが建ち並びここでもクレーンがそちこちに建ち並び今まさに普請中の観を呈していた。
 嘉峪関は明の長城の西端に当たり、高さ11mの城壁によって囲まれており、「天下の雄閣」として国防の要地であった。北馬鬃山、南祁連山脈の麓まで長城によって河西回廊をふさいでいた。
 城郭内には燕が沢山飛んでいたし、「撃石燕鳴」と称する石が置いてあって石に穿たれている穴に別の石を打ちつけると燕の鳴き声のような音がした。
 構内の広さは33,500m2に及び城郭は内城、瓮城、羅城、外城、城壕からなっており、高さ13mの三層の城楼は嘉峪関のシンボルとなっている。
                      







       嘉峪関の門           










嘉峪関の建物、後方が三層の城楼

                      







       嘉峪関の城郭内        








 嘉峪関より南へ伸びる長い城壁

 続いて嘉峪関から東20kmの沙漠の中にある魏晋壁画墓の見学に行った。広大な沙漠の中に1,600もの魏晋時代の墓の埋まっている箇所がある。これらの墓には魏晋時代、五胡十六国時代の壁画や彩色画が埋もれている。そのうち第6号窟を見学した。この窟は深さ9.8mであって、1972年に鉄鋼工場が下水道を掘っている最中に偶然発見したものである。
 墓の中は前室、中室、後室と三つに分かれていて、前室前には力士が描かれている。
 前室には牛を殺す場面や料理をする姿、駱駝等が描かれている。中室にはシシカバブや羊料理、酒を飲む姿、桑を摘む姿が描かれている。後室は夫婦の柩を安置したところである。撮影禁止のため内部の絵は絵葉書から転写することにする。
                          



                          



  こんもりした小山の下に墓がある。煙突
  様のものは換気のためのもの          

下の短冊型二枚は魏晋墓壁画












 魏晋壁画墓地を後にして沙漠の中を走りやがてオアシス都市酒泉へ到着した。酒泉公園に先ず立ち寄った。夕方5時半になろうというのに日はまだ高い。
 この公園は目下工事中であったが、地名発祥の源となった泉を見学した後池の周辺で時間を潰した。ここで有名なのは霍去病が匈奴征伐に戦功を挙げ、漢の武帝から賜った褒美の酒が全兵士に行き渡るようにと泉に注いだ故事である。酒が注がれると泉からは酒が滾々と湧き出て泉の水が美酒に変わったというのである。その泉は現存していまなお清水が湧き出ていた。どこの名泉にもあるようにここでも泉の中にはコインが泉源めがけて多数投げ込まれていた。商売上手の中国人であるから多分「酒泉」と銘うった地酒があるかとガイドに聞いたり、酒屋で探したがそれはないということで意外に思った。もし日本人であれば本家争いをする程に沢山の似たような銘柄の地酒が土産物屋の店頭には氾濫しているだろうというのに・・・
                       







       酒泉公園の泉           



2004年07月06日(火) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�ァ�

平成16年7月5日(月)
 朝9時に敦煌賓館を出発して沙漠の中をひた走った。羊や山羊が放牧されているのを眺めたり、祁連(きれん)山脈を横に見ながら沙漠のマッサージに身を委ねていた。道路に平行して寿命3000年と言われるポプラ並木がけなげにも続いているのでその生命力の強さに感動を覚えて眺めていた。途中、道路が通行止めになっている箇所があり、舗装されてない旧道を迂回した。今まで気がつかなかったが、旧道に入ると道路の傍らに側溝が掘られており沙漠の中を雪解け水が奔流のように流れていた。側溝はコンクリートで固められた巾1m程のささやかなものであり、本線を通っているとその存在に気がつかなかったであろう。そしてこの側溝に水が流れているから枯れもせずポプラ並木が続いているのだと了解した。と同時に沙漠の中にこの側溝と道路を付設した人間の弛まざる営為のことに思いを馳せていた。
                        



沙漠の山羊飼           



手前はラクダ草、山は祁連山脈
                       


幹線道路から眺めたポプラ並木     



迂回した旧道側を流れる雪解け水
                       


楡林窟の入り口から見た窟全景       



楡林窟の洞と手摺り

 昼食を安西市内のレストランで摂ってから楡林窟へむけて走った。やがて楡林ダムと楡林川を横に見たと思ったら楡林窟へ到着していた。
 楡林窟は敦煌の東南約170kmのところにある石窟群で莫高窟と異なり、西洋人による収奪を受けていない。海抜1660m、長さ650m、巾約100mの楡林河が大地を浸食して形作る雄大な渓谷の中にある。 
 ここでも窟内は写真撮影が禁止されているので現地で購入した「安西楡林窟」というパンフレットに搭載されている写真から転載することとし、訪問した順序に従って画像を示す。
▼2窟  西夏時代
                     



西壁北側 水月観音          



西壁南側  水月観音        
 
これらの観音像は顔面と光背の部分の顔料が変色して黒っぽくなっている。

▼3窟  西夏時代                              



          
西壁南側 普賢菩薩     



西壁北側 唐僧取経図    



西壁北側 文殊菩薩 
 北側の水月観音では画像には表示しきれないので上の図に別に示すように、川の対岸に玄奘三蔵取経図を表しており、玄奘は袈裟を纏い、観音に向かって拝んでいる姿が描かれている。その後には孫悟空と白馬も控えている。                
                                  
▼3窟  西夏時代   




  東壁南側                            
  五十一面千手観音

▼4窟  元時代                   
                                    


北壁東側  釈迦多宝並座説法図                 
 


南壁西側 説法図   
45窟   中唐時代                                                       

北壁    弥勒経変




北壁 弥勒経変中嫁娶     




北壁 弥勒経変中耕獲




南壁 観無量寿仏経変



西壁北側 文殊菩薩及び侍従  25窟
▼19窟 五代時代



 窟通路北壁 涼国夫人供養像  窟通路南壁 曹元忠供養像

▼6窟 唐時代 一番大きな唐代の大仏が石壁を彫ってその上に粘土を塗って作られた。晋の時代に金箔を塗った。大仏の下部は川の洪水で浸水したため壁画が消失した。天井や壁には千仏が描かれている。画像は示せない。

▼17窟 初唐時代
    



赴会菩薩
  この洞窟は唐時代に造られ。五代、宋代、西夏、清時代に改修されたが図示してある五体の法会行き菩薩は宋代に描かれたものである。この菩薩は華やかな服装で顔が広く体も大きく表情が穏やかである。呉道子の画風が再現されている。 
 この窟には1907年、スタインの通訳の名前が落書きされていた。 

▼15窟  中唐時代
  



前室頂南端   笛吹飛天

 この洞窟は宋、西夏、元、清時代に再建されたが、前室の天井の南端に描かれた笛吹飛天は中唐期の原作である。唐時代の傑作である。尚この窟には迦葉、阿難の像もある。

▼16窟   五代時代   この窟は曹氏一族によって造られ、壁には家族が描かれてい る。                     




前室西壁北側 供養天女      



通路南壁 曹議金供養像      


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