| 2004年07月26日(月) |
【新生の意欲漲る発展途上のバルトの国々・・バルト三国�◆� |
翌朝8時半にリガのホテルを後にしてリトアニアの首都ビリニュスへ向けて出発した。 国境の街シャリアイの検問所でパスポートのチェックを受けリトアニア領内へ入った。国境を越えて暫く単調なドライブが続き十字架の丘へ到着した。

ここは小高い丘の上に大小様々な十字架が夥しい数量建てられている。丘だけでは足りなくなって丘の両翼に十字架の群れは増え続けている。その起源は1831年に帝政ロシアの圧政に抗して反乱が起きたとき、ニコライ1世によって弾圧された犠牲者を悼んでこの地に十字架がたてられたのが最初であると云われている。その後ロシア革命政府により1920年にリトアニアは独立を承認されたが、1939年8月に締結された独ソ不可侵条約の秘密議定書によって他のバルト諸国とともに再びソ連に併合されてしまった。これを不当だとしてリトアニアではソ連からの独立運動が広く展開されるようになった。運動の過程で弾圧され犠牲となったリトアニア人の霊を慰めるため再び秘かにこの地に十字架が建てられるようになり、次々と十字架が増えていった。ソ連当局は建てられる十字架を取り払い続けたが後を絶たなかった。独立の機が熟したと見て、90年3月にリトアニア議会は独立宣言を採択したがモスコーはこれを認めなかった。91年1月13日には独立運動にソ連軍が介入し血の日曜事件が発生した。この事件の後、十字架はますます増えていった。83年8月にロシア軍が撤退したあともこの地はリストニア独立運動の聖地として十字架は増え続けているのである。
そして今では近隣の若い男女が結婚した時には式が終わるとこの地を訪れ十字架を備えて前途の多幸を祈る習慣が定着したのである。我々が訪れた日は結婚式の多い土曜日であったせいか、何組もの新婚カップルが礼装で十字架を供え十字を切っている姿を目撃した。リトアニア人の独立を達成し維持するための執念のようなものを感じ身の引き締まる思いであった。
朝ビリニュス市内の観光に出掛け、杉原通り、月の光記念碑、聖ペテロ・パウロ教会、ゲディミノ城、聖アンナ教会、KGB博物館、

トラカイ城を見学した。
杉原通りというのはビリニュスの中心街から西北の住宅街にある通りで、杉原千畝氏の名前を刻んだ小さな記念碑が建っているだけの何の変哲もない通りである。地名の源である杉原千畝氏は、第二次世界大戦のときリトアニアのカウナスの日本領事館で副領事をしていた外交官である。ナチスの迫害を受けてポーランドからリトアニアに逃げ込み、ここから更に米国その他の外国へ逃げようとしたユダヤ人三千人に一週間不眠不休でビザを手書きして発給し、六千人のユダヤ人の命を救った人物としてその秘話が紹介されるに及んで日本でも一躍その名が知られるようになつた人物である。
月の光記念碑は杉原千畝氏が住んでいたという木造の民家の下の広場に氏の功績を讃えて建てられた石碑である。月の形をした石塊を両手で支えている人間の形をした石像が設置されている。日独伊三国防共協定を締結していた当時の出先機関の日本人外交官としては命を賭ける決意でこの仕事に従事したのであろうと思うと人間を愛する氏のヒューマニティーと勇気に深甚の敬意を表したいものと厳粛な気持ちで記念碑に手を合わせた。氏が住んでいたという民家には今は氏と全然無関係の外国人が住んでいるという。
KGB博物館は旧KGB本部が引き払った後の地下収容所を手は加えずそのまま公開しており、監獄や拷問場に残された備品や壁や床に付着した血痕が生々しく、見ていると重苦しい気持ちにさせられる。バルト三国の人達がロシアの国を毛嫌いしている気持ちがよく理解できるような気がした。
バルト三国の国々は何れもその地理的な条件からデンマーク、スウェ−デンロシア、ドイツ、ソ連等の欧州列強の好餌として狙われ、常にこれら強国の支配下に置かれて屈辱と忍従に耐えてきた歴史を持つ国々であり、特にソ連にはシベリアへ強制移住させられる等、近年ひどく痛めつけられた苦い経験を持つ国ばかりである。
そうした国々の現状を今回瞥見した限りでは、民衆は自由を謳歌し、経済状態もロシアよりは余程改善されており、新生の意気に燃えて新しい国作りに励んでいる活気のようなものが社会全体に漲っているのを感得できた。そして、国家の独立を素直に喜んでいる空気が感じられ共感することが多かった。
| 2004年07月25日(日) |
【新生の意欲漲る発展途上のバルトの国々・・バルト三国� � |
▼バルト三国の旅 タリン、リガ、ビリニュス 2000年10月15日〜10月25日
朝サンクトペテルブルグのホテルを出発してバスでエストニアに向かった。白樺と松、杉、ポプラなどの林と牧草地ばかりが続く単調な平地を走行して、約3時間後国境近くのナルヴァにさしかかった。やがてバスが止まって出国検査のためロシアの検査員が乗り込んできて顔と見比べながらパスポートを回収していく。パスポートに検印がおされて返ってくると次はバスに積載してある荷物を下ろして、各々が自分の荷物を携帯してX線装置を通し安全検査を受けるのである。その間バスは別の場所で検査を受けることになる。
乗客達が重たい荷物をめいめいに持って行列を作り検査機のある所まで来ると、係員は検査機を通さないでも構わないからどんどん通れという。添乗員の説明によれば、几帳面な係員だと一々機械を通すので時間がかかるが、運がよければ通さずに済むこともあるとの事前の説明であった。
今回は運よくずぼらな係員に当たったらしい。それにしてもこの国境線でのX線検査の意味がどうもよく理解できない。これから入国しようという旅行者に対しては、爆発物や危険有害物の検査の必要性は理解できる。しかし出国しようとする旅行者に対しては検査自体が無意味なのではないか。すくなくとも今までロシア領内では何事もなかったのだし、仮にこの後何事かがあったとしてもそれはロシア領外のことではないか。
更に不可解なのはフインランドとロシア国境では携行通貨額の申告が必要であったがこの国境ではその申告書の提示すら求めようとしない。これも係員のずぼらのせいなのだろうか。否むしろこの係員のほうが合理的で且つ効率的なのであって、近時の外国旅行者の増加に対処して無駄な手続きを排除するという適切な対応をしているのであると思う。しかし彼も積載してある荷物を下ろす必要はないという所までは踏み込めない。規則または業務処理準則に抵触するからであろう。共産党支配下にあった官僚機構の硬直性や事なかれ主義が施行令や運用規則を見直したり、現状に適合した改定をするだけの智恵と勇気さえも失わせてしまったと見るほうが正しいのではなかろうか。やっとロシア国境をパスしたと思ったら今度はエストニア側で入国審査である。ここではパスポートの検査だけで比較的速やかにパスすることができた。再び、林の続く平野を長駆して黄昏時にエストニアの首都タリンの町へ到着した。
石灰石を積み重ねて建てた古い建物が並ぶ町に入って最初に受けた印象はサンクト・ペテルブルグに比べれば、建物の手入れがよく出来ているし、通りを往来する市電、市バスや自動車は年式も新しいものが多く、ロシアで見たようにオンボロの車両は見当たらないことであった。タクシーがベンツ、アウディボルボ等の高級車でいずれもピカピカによく手入れされていることも驚きであった。
タリンの町

は中世には城壁で囲まれた城郭都市であり、町の西側には十二世紀に作られた円錐状の屋根を持った門塔や城壁の一部が沢山残っていて中世の面影を留めている。
ラエコヤ広場は旧市街の中心にあり、北ヨーロッパで現存する最古のゴチック様式の旧市庁舎や、バルト三国で最古の薬局が周りを取り囲んでいる。この界隈には瀟洒な店やレストランも多く明るく洗練された雰囲気を醸しだしている。
旧市街地から坂を登った小高い丘の上にはトームペア城が15世紀に建てられたままの姿で残っているし、城の後ろに立つ「ノッポのヘルマン」と愛称される48メートルの塔には1991年以来の独立を喜ぶかのようにエストニアの大きな国旗が翻っていた。城の隣にあるトーム教会から続く細い道を辿っていくと、急に見晴らしがよくなり、タリン市街の赤屋根の町並み

が美しく広がっている。この展望所に立って美しい市街地をながめやるとそこには中世の街並がそのまま息づいているのではないかという錯覚に囚われそうになる。
13世紀に出来た聖オラフ教会、太っちょマルガリータの塔、
葱坊主の塔を持つロシア正教のアレキサンドル・ネフスキー教会等の歴史的建造物も保存状態良好に残されていて我々観光客の目を楽しませてくれ、旅情をそそってあまりあるものが多い。
聖ニコライ教会では内部を見学するチャンスに恵まれたが、中に飾られていた「死の踊り」と題する1519年に描かれた絵は骸骨と王侯貴族達が交互に手を繋いでステップを踏んでいる図柄であり強烈な印象を受けた。世俗の栄耀栄華も束の間の儚い夢であるという含意があるのではないかなと解釈し、仏教思想の影響等を考えながら鑑賞した。
明日はラトビアへ移動であるから手持ちの通貨を使いきっておかなければならない。夕食にビールを飲んでなおかつ手元に27クロン程残っている。邦貨換算では僅か160円程の額に過ぎない。ところがここエストニアでは月4000クロン邦貨換算2万4000円で暮らせる物価の安い国である。キヨスクへ行って買えるものを探してみると五百CCの缶ビールが8.5クローネであるから邦貨で51円である。かくして缶ビール3本とチューインガムを買ってエストニアの通貨を使い切ることができた。ビールにしろウォッカにしろアルコール類が安いのは旅をしていて嬉しいことである。
早朝タリン市を出発して林と広大な田園風景を見ながら6時間程のドライブを続け、太陽も傾きかけバスの影法師が牧草地に大きく揺らぐ頃、やっとラトビアの首都リガの街へ到着した。ホテルに荷物を置いてから慌ただしく市内観光に出掛けると時刻は既に4時近い。日没前に展望台へ登ろうと、聖ペテロ教会へ駆けつけた。この教会はリガ市で一番高い123メートルの尖塔を持つゴシック様式の建物で、堂内にエレベーターが設置されていて72メートルの高さにある展望台まで登りリガ市内を一望することができる。長い行列に並んで展望所へ上がって見るとダウガバ川や赤い屋根を持つ旧市街の町並みが折からの夕日に輝いてとても美しかった。 ルンダール城

日没ま近なので慌ただしくドーム大聖堂、ブラック・ヘッド・ハウス、

聖ヤコブ教会、スウェーデン門、リガ城、三人兄弟の家、犬の家、大統領官邸、猫の家と駆けめぐり終えた頃にはすっかり日も落ちて真っ暗になっていた。
| 2004年07月24日(土) |
【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国�ぁ� |
ベルゲンからストックホルムへ夜遅い時間に飛んだ。翌朝ホテルを出てストックホルムの中心広場であるセルゲル広場を通り抜けてヒョートリエット広場で下車し、折から開かれている朝の市場を見学した。魚、果物、野菜、花等生鮮品が並べられて大変賑わっている。この広場のすぐ東側に建っているブルーの建物はコンサートホールでノーベル賞の受賞式が行われる会場としも有名である。
次にストックホルム中央駅の西側にある市庁舎

へ行って前庭を散策しながら二十世紀の名建築といわれるナショナルロマネスク様式の建造物を前後左右から鑑賞した。市庁舎というよりも宮殿か古城を思わせる佇まいである。市庁舎の東側にはストックホルムの創設者ビルガー・ヤールの仰臥像が金箔を施されて市の守護神の如くに安置されている。前庭の先のメーレラン湖に映える影もまた別の興趣をそそる。折からカヌーが五艘ほど漕ぎ抜けて行った。
大聖堂は1279年に創建されたストックホルム最古の由緒あるプロテスタントの教会で長い間、国王、女王の戴冠式や結婚式が行われてきたところである。
王宮の反対側の大広場は証券取引所の建物や赤色、黄色のカラフルな建物に囲まれていて、人々の憩いの場となっているが歴史的には1520年に「ストックホルムの血浴」が行われたところである。デンマークのクリスチャン二世が侵攻してきてこれに屈伏したヴァーサ家の貴族や時の高官90人あまりが断頭刑に処せられて広場が血の海になったといわれている。ガイドの説明に身の毛もよだつ思いで当時に思いを馳せると石畳がもの悲しげに見えてくるから不思議である。その当時からあった建物が五階建ての赤色の建物と黄色の建物と黄土色の三棟の建物で当時の姿を今に留めている。赤い建物の壁面に散りばめられている白い模様は処刑された犠牲者の数を表していると伝えられている。
このあとバスでドロットニングホルム宮殿へ赴いた。この宮殿は1662年にカール十世グスタフの王妃ヘドヴィグ・エレオノラが建設を始めて1762年までの間に現在の形に完成したもので、北欧のベルサイユとも言われるバロック様式の豪華な宮殿である。現在も国王の居城として使用されているが、二階と三階の一画は一般に公開されている。花崗岩で作られた柱や木製の扉に色をつけて大理石に模するなど内部の装飾には高度の技術と工夫が凝らされている。そして広大なバロック式庭園と英国式庭園が建物とうまく調和して美しい光景を作りだしている。帰りはドロットニングホルム宮殿近くで遊覧船に乗りメーレラン湖の光景を楽しみながら市庁舎前の船着き場まで帰ってきた。帰路スエーデン最大の電気会社エレクトロルクス社の威容や高級高層住宅群、停泊している多数のヨット群、行く夏を惜しんで水浴する子供達を目撃し、市民達が豊富な水と親しく付き合っている様子を観察できた。
ガイドに聞いたスェーデンの国情について記しておくと、1814のデンマークとの戦争を最後に185年間戦争をしていない平和な時代が続いた国であること。1913年の老人福祉制度、1918年の女性参政権、8時間労働制等の進歩的な政策は1932年から40年以上続いた社会民主労働党の安定政権のもとで完全雇用、男女平等を目標に更に推進され、退職者年金制度、出産児童手当て制度、教育や医療の無料化制度が充実し高度な福祉国家を実現していること。その代わり直接税30%消費税25%と国民負担も高度化していること。65歳より現役時代の勤労所得の75%支給されるペンショネール制度も確立されて老後の不安がないこと。身体障害者移送サービス制度、乳母車乗車無料制度、旧市街には老齢単身生活者が多いこと等社会的弱者救済制度が充実している国であること。六人に一人の割合で船を持っていること。ひとり当たり建造物専有面積が42平方メートルあって欧州第二位であること等である。
前日夕刻7時45分にストックホルム港で乗船したバイキングラインのラモーレラ号は三万四千トンの豪華な客船であった。8時15分から始まった船内大食堂でのバイキング料理の夕食はワイン、ビール飲み放題の豪華判であった。料理の品数も肉料理、鳥料理、魚料理と豊富にありどれも美味しそうであったが、魚料理だけを生鮭、海老、蟹中心に選択した。フィリッピン人を妻に持つノルウエーの青年と意気投合し杯を傾けながら交歓しとても愉快な一晩であった。
朝トゥルクの港へ上陸して、荷物が出てくるのを待っていると、一人のフィンランドの老人がボトルペットを加工したメガホンを口にあてがい、縦長の台形に切った薄い鉄板を胡弓のように膝に支えて、これに弓を擦り哀愁に満ちたメロディーを奏でては歌を口ずさんでいた。やはりフィンランド人にはアジア系の血が流れているなと実感した。
トゥルク城は一三世紀にアウラ川の河口に建てられた砦が起源で丸形で素朴な味わいのある城である。トゥルクの街は一八一二年までフィンランドの首都であった。
続いてロシア正教教会の前の広場の朝市を見学した。ベルゲンで見た魚市よりも数倍規模が大きい。ここはトゥルク市民の胃袋を賄っている市場の観がある。美味しそうなのでこけ桃二個、紫色のすももらしきもの五個と姫林檎二個を買った。秤り売りしてくれるから観光客には楽しい限りだ。最初買ったこけ桃は二個で一マルカであったから、サービスしてくれたのかもしれない。全部で10マルカほどを払った。1マルカは20円だから200円程の買い物をしたことになる。
ガイドから聞いたフィンランドの国情について記しておくと、 トゥルクでは信者の98%がルーテル派である。フインランド全体としても信者の過半がルーテル派である。もともと1155年にこの地へカソリックが伝わったが千五百年代にルーテル派の教会に変わった。ここの大聖堂はルーテル派の大本山である。
フィンランドの面積は33万八千平方キロメートル。人口五百万人。森林面積60%で八万一千の島がある。トウルクの人口は168000人でフィンランドで五番目の都市である。フィンランド語とスェーデン語が公用語になっていて、民族的にはウラル、アルタイ語系に属しアジア系のフン族が祖先である。
消費税は22%である。失業者には一日118マルカが支給される。フィンランドでは日露戦争で日本が勝ったことを喜んで旅順(ポルツア)という地名に変更したところさえある。そして日本の北方四島の返還交渉に多大の関心を寄せている。
フィンランドで世界一のものは、森林資源に関係のあるパルプや紙の大型加工機、砕氷船等の特殊造船、羽毛製品がある。
フィンランドの国土は毎年数ミリずつ隆起している。そして山のない国で湖が世界一多い国である。直径二百メートル、面積五百平方メートル以上の基準で数えると十八万七千八百八十五もの数になる。
デザイン感覚に優れ北欧デザインの70%がフィンランド製である。またアイスホッケーが強く、長距離走が得意である。パーボヌルミは三回のオリンピックに出場し金メダル九個銀メダル三個を獲得している。また槍投げも得意で昭和27年に開催されたオリンピック競技場の塔は槍投げの選手が出した記録を記念して73メートルの高さに作られているし、ヌルミのブロンズ像が会場の入口に建てられている。
シベリュウス公園にはパイプの造形とシベリュウスの顔の彫刻が飾られていた。
大聖堂は

ルーテル派の教会で147年前に建てられたものであるが、ロシア統治時代の時の皇帝アレキサンダ12世がフィンランドを自治領として認めた時、この教会と大学を建ててフィンランドに贈ったものである。
北欧四ケ国を周遊して気のついたたことを纏めれば、デンマーク、ノルウェー、スェーデン,フィンランドの国旗はいずれも十字架が真ん中にデザインされていて、色だけが違う極めて類似性の高いものであるということである。そしてノルド語と呼ばれる北方ゲルマン人が往古に使用していた言語のバリエーションにすぎない自国語を話す兄弟同志の国でありいずれの国も面積の割りには人口が少なく高福祉を実現している高負担の国々であるということである。
| 2004年07月23日(金) |
【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国��】 |
ホテルから目と鼻の先の船着場から朝早く観光船に乗り込んでヘルシルト村まで約1時間のフィヨルドクルージングを楽しんだ。スタート時は山間の朝なので日の光も乏しく何となく薄暗い感じの光景であったが船が進む程に太陽も山の上へ顔を出し、水面を碧翠色に変えていく。切り立った崖の岩肌を洗うように流れ落ちる滝も幾条か目にはいる。そうこうしているうちに切り立った断崖絶壁の僅かな空間にへばりつくようにして民家が一戸建っているのが目に入った。ここで農業を営んでいるのだという。よくもこんな厳しい環境条件のもとで生活できるものだと人間の営為の素晴らしさを知る思いである。次々に変わっていく景色に見とれているうちにあっという間に一時間のクルージングは終わってしまった。ヘルシルト村から再びバスに乗りブリクスダール村までやってきた。氷河を見学するためである。
ブリクスダールからはフィヨルドポニ-

の曳く馬車に乗って、登り道を約15分間走行すると、氷の巨大な固まりが山になっている所へ到着した。ブリクスダール氷河の河口である。河口へ至るまでの道の周囲には樹木や草も青々と繁っている。そして氷河から溶けて流れる川が近くには白い飛沫を上げながら流れている。段差のある箇所ではこれが滝となってその雄姿を誇らしげに顕示して水しぶきを雨の如くふりまいている。
氷河の河口には山頂から流れてきた氷塊が5〜6メートルもの高さでうすら青い色を帯びて白色の天然の造形美

を見せながら堆積している。一見テープがカールしたかの如き断面を見せているところもある。我々が見学したブリクスダールの氷河はこの時期には活動しておらず、静止した状態で氷塊となっている河口を見学することができた。ブリクスダール氷河は海抜436メートルのところにある長さ百キロメートル厚さ百メートルにも及ぶヨステルダール渓谷の氷河から流れてきた支流である。
再び馬車に十五分揺られて下山しバスに乗り換えて明日のソグネス・フィヨルドの見学に備えてパレストランドの宿へ入った。
朝早くパレストランドの波止場からフェリーボートに乗りソグネスフィヨルドをヘラまでクルージングした。ソグネスフィヨルド

は世界一長く、深いフィヨルドである。長さは二百四キロメートル、深さは最深部で1308メートルにも及ぶ。昨日のゲイランゲルのフィヨルドとは趣を異にしてフィヨルドの規模が大きいため幅が広くて湾を航行しているのと変わらない。周囲の山々が切り立った険しい崖になっているところが湾とは違うところであろうか。対岸には集落や農場も見えている。羊を斜面で飼っているのも目撃した。そのうち次第に川幅が狭くなってくると両岸の山が迫ってきだしてフイョルドらしい雰囲気がでてくる。航行して行く前方に険しい山々が重なりだしたと見とれているうちに目的地のヘラへ着いてしまった。
ヘラでバスに乗り換えてゾグンダール、カウパンゲン、グッドバンゲン、スタルハイムという町村を経由してフロムの町に着いた。途中スタルハイムではヘヤピンカーブの続くつづら折れの急勾配の坂道をスタルハイムホテルまでドライブして眼下に見下ろせる景色

の移り変わりゆく様を堪能した。このスタルハイムホテルには橋本元総理も宿泊したことがあるらしく、夫妻でホテルを背景に撮影した記念写真が展示されていた。ホテルは鉄錆色の建物であるが周囲の景色によく馴染んでいる。時の橋本総理がここへ滞在したときにはここへ通じる道路の交通規制をしたため周辺道路が大渋滞をきたし、日本とはそんなにテロリストの多い怖い国なのかと地元民の顰蹙を買ったという話が伝えられている。ホテルのテラスから俯瞰した景色は絶景の一語に尽きる。
スタルハイムホテルから別のルートで下って行くと二つトンネルがある。二つ目のトンネルを通り抜けると目の前でフィヨルドが終わって二つの山並みの間にフィヨルドの畔に開けている小さな町がいきなり目の中に飛び込んできた。ここがフロムの町である。フロムの町はフロム鉄道を利用してフィヨルド観光に出掛ける場合、オスロからでもベルゲンからでも必ず経由する交通の要衝地点である。従って山間の町としては一寸した賑わいを見せている。土産物屋、レストラン、スーパーマーケット等もあるが過密都市に生活している日本人の目からすればうら寂しい田舎町だとしか写らない。
この町で二時間近く時間待ちをしてからミュルダール経由オスロ行きの電車に乗った。車両の横幅が多少広いのか座席は横に五人腰掛けられるようになっている。列車には三つの大きな団体客が競合したが、全て日本人であった。
車窓には白樺、から松、樅などの木立が続いていて、時々岩肌を滑るように流れ落ちる滝を散見できる。また線路に迫っている岩山には岩石の崩落の跡が認められその下には明らかに崩落したと思われる岩石が堆積している。屋根に草を生やした平屋の木造建築もちらほらと見え隠れする。トンネルを幾つか通り抜けると途中K・ジョスフォッセンの滝の見える所では停車して乗客に写真撮影の時間を与えてくれる。駅ではないがプラットフォームが設けられていて下車撮影が可能なのである。乗り継ぎ駅のミュールダールでは再び時間待ちをしてボス行きの電車に乗った。ここでは外国からの観光客とおぼしき老婦人二人連れと向かい合わせの座席に乗り合わせた。英語でどこから来たのかと聞いてみるとドイツからだという。フイヨルド見学をしての帰りだが昼食がまだだとも言う。座席に座るとやにわにスーパーマーケットで買ってきたらしいパン四個と袋入りのチーズと小さなパックになったバターを取り出した。ナイフでパンを縦に割り、中へバターとチーズを挿入して むしゃむしゃと食べだした。丁度通りかかった売り子からコーヒーを紙コップに買って美味そうに飲んだ。ドイツ人の国民性は質実剛健であるとよく言われるが、目の前にその見本を見る思いであった。
ボスの町で待ち構えていたバスに乗り今夜の宿泊地ベルゲンまでドライブした。
ベルゲン近くまできて山間の道を通り抜けたと思ったらいきなり目の前にベルゲン市内の町並が飛び込んできてとても印象的であった。山の斜面に沢山白壁に赤屋根の家が立ち並び深く入り込んだ入江がそこにはあった。
ベルゲン

はノルウエー第二の都市で人口は約227000人。1070年にオラフ・キュレによって開かれた盆地状の歴史の古い港町である。12世紀から13世紀まではノルウエーの首都であったし、北海に面した港としては唯一の不凍港である。ベルゲンでは地形のせいか雪が降ってもすぐ溶けるという。入江は町の奥深くまで入り込んでおり船便のよい美しい水の町を形成している。
ベルゲンは中世にロンドン、ブリュージュ、ノブゴロドと並んでハンザ同盟の四大中核都市の一つとして,ドイツのハンブルグやリューベックからやってきた商人が北海産のニシンの集荷流通を独占的に牛耳ってきた商都である。当時欧州各地の漁港から集荷した乾燥ニシンを貯蔵しておく

木造の倉庫群が今は店舗に改装され、往時そのままの姿で何棟も保存されていて中世の町並みを偲ばせてくれる。このブリッゲンと呼ばれる地区はユネスコの世界文化遺産に指定されていて、近くにはハンザ同盟の建物が博物館として残されている。この中には当時ドイツから渡ってきた徒弟達が寝起きした粗末なベッドや道具類等が保存されていて興味つきないものがある。
ベルゲン市内にはノルウエーの生んだ天才画家ムンクの絵画を多数展示しているラムスマイヤーコレクションやベルゲン美術館の他に工芸博物館、海洋博物館、歴史博物館、自然史博物館、ブリッゲン博物館、ベルゲン劇場博物館、国立劇場、コンサートホール等の施設も整っており文化の香りが漂う町である。周囲の山の傾斜面には高級住宅が軒を連ねていて美しい町を形成するのに一役買っている。市の郊外には不世出の天才音楽家グリーグが愛妻と22年間生活したビクトリヤ調の白い住居も元の形で残されており、愛用のピアノや調度品が展示されている。目と鼻の先にはグリーグが自らも演奏した二百人収容できる愛用のコンサートホールがある。このコンサートホールの中からはベルゲンに入りこんでいるフィヨルドの海を展望することが出来、現在も毎日のように利用されている。このコンサートホールの屋根には例の如く草が山のように生い茂っているのが物珍しい。
| 2004年07月21日(水) |
【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国�◆� |
夕刻コペンハーゲンの観光を終えてオスロへ飛び、翌朝市内中心部から北西に位置するフログネル公園

を訪問した。正門とは反対の高台の方から入っていったので先ず最初に目に飛び込んできたのは台座の中央に聳え建つモノリッテンと呼ばれる塔である。これは高さ17メートルで総重量260トンの花崗岩の塔に老若男女121体もの人間像が刻まれている。この塔を囲んで夥しい数の人間裸像が花崗岩に刻まれた彫刻作品として配列されている。それらは男女が抱き合うものや青年がただ一人うずくまるもの或いは親子が睦みあうもの、深刻な表情で考え込んでいるもの等様々な姿態で193体もの彫刻がある。
この石の彫刻群から下段へ下がっていくと今度は噴水があり、噴水の受け鉢を支えた人間像のブロンズ彫刻が幾つか立っている。噴水を巡るブロンズの柵にはこれまた人間の一生を表した彫刻が施されていて、嬰児から骸骨まで様々な姿が表現されている。そして更に下段へ下りていくと人造湖にかかる橋の欄干にはブロンズの人間像がこれまたさまざまの姿をして配置されている。これらの刻まれた人間の像は総計で650体以上になる。
奥行き850メートルほどの公園には花壇も備えられており折しも赤色とピンク色の花が咲き乱れていた。
正面入口の両側には菩提樹の並木が鬱蒼として立ち並びその下にこの公園の彫刻の作者グスタブ・ビーゲランの像が誇らしげに佇立している。ビーゲランはオスロ市と契約してアトリエと作品の発表場所と生活を保証されオスロ市だけのために生涯彫刻を続けたという。ここは世界にも例のない単独作者の作品だけが展示されている公園である。そしてビーゲランは作品の解説を一切拒否したというから、この作品群を前にして想像の羽を伸ばし独自の解釈を試みるのはとても楽しい至福の一時であった。しかも九月上旬だというのに日本の晩秋の小春日和を思わせる心地よい爽やかな天気であった。
ビーゲラン公園の爽やかな思い出を胸にしまってゲイランゲルのフイヨルドを目指して長駆五百キロメートルのバスドライブが始まった。運転手はベンツのバスを三台所有する個人会社の経営者ビダルさんで好感のもてる青年実業家である。1994年のリラハンメラの冬季オリンピック大会では日本のオリンピック選手団の送迎運転手を勤めたと原田選手等の名前を誇らしげに披露した。道中リラハンメラでオリンピックの行われたジャンプ台まで足を伸ばし目の前にジャンプ台を見学した。ジャンプ台の横にはリフトが設置されており、夏場はこのジャンプ台を見学する観光客に開放されていて多くの観光客で賑わっていた。観光客達は束の間の夏に名残を惜しむかのように肌を思い切り太陽に曝してそれぞれの日曜日を楽しんでいた。また車椅子に乗った身体の不自由な人達を戸外に連れだして日光浴やピクニックを共に楽しんでいるボランティアの人々も相当数目撃した。福祉国家と言われるだけあって、健常者は社会的な弱者に奉仕するのが当然であるというコンセンサスが確立されている社会だなあと感じた。
聖火台も近くにあったが、周囲にはコンテナハウスが三個ばかり置かれているだけで意外にも簡素な設備であった。リラハンメルの町は、人口二万五千人の小さな静かな町である。豊かな森林資源に関係のある仕事に携わる人達が多く住んでいるという。オリンピックの時には地元特産のジャガイモで選手団食堂で大量に使われる食器を作り、使用後は土に埋めて資源のリサイクルを図る大会運営で大きな話題を提供した。またこの町はイプセンの作品ヒールギュントの舞台にもなったところである。近隣にはオリンピックのシンボルマークともなった妖精トロールの故郷トロールパークもあり、大きなトロール像が建てられている。
冬季オリンピック滑降競技の行われたヴィンストラという町で昼食をとりロムという町では丸太を組み立てて作られたスターブ教会

を見学した。この建物はキリスト教がこの地に伝わる以前からあった建築様式で鉄釘が一切使われていない。キリスト教が土着のこの建築様式をそのまま教会の建物に取り入れた例としては世界でもノルーウエーのこの地方だけにしか見られない珍しいものだといわれている。
このロムの町に至るまでの道中で見聞した風物で気のついたことの一つに建物の色が総じて赤黒い色をしており圧倒的に木造建設が多いことがある。しかも壁には必ずと言っていいほど横板が使われている。縦板の使われている建物がたまに見られたがそれは大抵倉庫か家畜小屋であった。聞いてみると赤黒い色はこの地方の土に含まれる成分で自然とよく調和するので伝統的に昔から好んで壁の色として使われているということである。
バスが快適な走行を続け針葉樹の森林や広大な傾斜地に広がる田野の風景を楽しんでいると屋根に草を生やした家があちこちに見られるようになる。これは屋根に草を生やすと根が張って屋根が丈夫になるからわざとそうしているこの地方独特の方法なのである。
そして各所に見られる川の色は概ね碧青色だが、氷河から流れ込んでくる水は川中の岩石に当たって空気が混じり、白く泡立っていることが多く、白い中にもどことなく緑がかった色をしている。流れがゆるやかになり川幅も広まった木立のある広場には数多くのキヤンピンキグカーが駐車してテントが張られているしバンガローも立ち並んでいる。持ち出した椅子とテーブルに腰掛けてお茶やコーヒーを飲みながら行く夏を名残惜しんでいる人達が道路沿いの川辺のそちこちにしばしば見受けられた。
目的地のゲイランゲル近くの標高1495メートルのダスニッパ展望台

に差しかかると道路は上り坂になり次第に周囲の植生にも変化が現れる。白樺の葉は黄色く色づき始めており、から松や樅の木もその樹木が次第に細くなり高さも低くなってくる。そして森林限界線といわれる海抜八百メートルを過ぎると立木は一切見られなくなりごつごつした岩肌が剥き出しになって僅かに丈の短い草がへばりつくように生えているだけとなり、消え残った雪がそちこちに散見されるようになる。道路の舗装は既になくなっており砂利だけが撒かれたヘヤピンカーブの連続となる。勾配も次第にきつくなって乗客達の肝を冷しながら高度はどんどん高くなっていく。頂上に辿りつくと期せずして乗客から安着を確認するかのように運転手を労う拍手が一斉に上がった。ここでは周囲の山々や山の頂に残る氷河を一望できる。遙かな下方の谷間にはきらきら光っている湖面も見えている。岩肌を縫って飛沫を上げながら流れ落ちる滝も幾条か目に入る。周囲に見渡せる山頂の北側には万年雪が残っているのに南側では見られない。太陽エネルギーの強大さも山の向きによってかくも大きく影響を受けるものかと感慨一入である。雨でも降った日にはここへ至る車道は閉鎖されるということだから快晴に恵まれた我々はこのダスニッパ展望台に立ち眼下の景観を堪能できる幸運を得たのである。この幸運を同行者同志お互いに喜び合い、造化の神に感謝した。
ダスニッパ展望台を下りてから間もなく宿泊地のゲイランゲル

に到着した。海岸線から切り立った断崖をくねくねとカーブしながら内陸部まで奥深く入りこんできたゲイランゲル・フィヨルドの最深部にあたるところがゲイランゲル村である。ダスニッパ展望台からは遙か下方の谷間に湖のように光って見えていた所である。山間の秘境に鏡のような水面を見せて横たわる湖はこれが遠路遙々大海から入りこんできたものだとはとても考え難い。
その夜泊まった水際のホテルの部屋にはテレビの受像器が置かれていなかった。その理由は秘境のここまでは電波も届かないということなのか、或いはこんな絶景のただなかにあってテレビ等見ているときではないという宿主の思いやりなのかはよく判らない。
| 2004年07月20日(火) |
【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国� � |
▼北欧四ケ国の旅 コペンハーゲン、エルシノア、オスロ、リラハンメラ、ロ ム、ダスニッパ、ゲイランゲル、ブリクスダール、フロム、ベルゲン、ストックホルム、トゥルク、ヘルシンキ 1999年9月3日〜9月12日
最初に訪れたのは北東部のカステレットと呼ばれる星の形をした地域で、ここはコペンハーゲンの港を防衛する目的で1662年に建設された砦の跡である。この地にあって有名なのがアンデルセンの童話にでてくる人魚姫

の像である。過去に二度ほど首が盗まれるという事件があった。見た目には変哲もない小さなブロンズ像に過ぎないが話題性の故か観光客なら必ず訪れて記念撮影をする場所であり、多くの人々で賑わっていた。
この一画にあるゲフォイオンの泉はコペンハーゲンの立地しているシェラン島の由来を物語るものとして有名であるが生憎、水を節約するため噴水はでていなかった。四頭の雄牛を制御する女神の像は美と豊穣のシンボルである。またニユージーランドの国名はこの島の名前に由来している。
次に訪れたのはアメリエンボー宮殿

で現在の国王マルガレーテ女王の住まいである。ここでは衛兵交代の儀式を見ることができた。国王の宮殿だというのに非常に質素で警備もものものしくない。国民に慕われている王室を思わせる。男女同権が徹底している国なので長男にあたる実弟が健在なのにも係わらず、現在の王位継承権の第一順位者は長女の王女であるという。
ニユーハウン

という地域は長さ300メートル程の川の両側にさまざまな建物が建っており、橋から見て左手には一際目立つ赤色や黄色の五階建ての建物が建っている。この赤色の建物二階の一室にアンデルセンが住んでいた。右手の川辺にはレストランが立ち並びそぞろ歩きする多くの観光客や市民で 賑わっている。川には帆柱を建てた漁船や運搬船が何艘ももやられていて、詩情をそそられ絵になる風景である。
クリスチャンボー城は1165年にアブサロン大主教によって築かれた城でコペンハーゲン発祥の地となった所であるが、当時のものは地下の遺跡として残されているにすぎずその後に建てられた建物が現在は国会議事堂として使われている。隣接して旧証券取引所や王立図書館、王立武器博物館等の建物が建っていて落ちついて風格のある佇まいを示している。
ガイドから聞いたり瞥見したデンマークの国情を記してみると、先ず気がつくのは山がない国である。国土の65%が農耕地であり、国民一人当たりの耕作地は43ヘクタールにも及ぶ農業国である。また養豚が盛んな酪農国でもある。往年燃料に木材がしきりに使われ森林が減少し、森林面積が現在11%にまで減少したのでこれを20%にまで回復するため国では植林に力を入れているが森林業は成果の収穫に時間がかかるので、計画が思うように進展せず政府としても頭の痛いところだという。デンマークは宗教的にはプロテスタントの信者が過半を占めており言語的にはゲルマン語系でドイツ語に近い。
食べ物はサンドイッチの上側がないオープンサンドが好んで食される。 伝統的に古い家具を大切に使う国民性があり、祖父母、曾祖父母が使っていたという木製の家具を誇らしげに使用している家族が多い。また自転車を愛用する人が多く市中にも沢山の自転車が走行している。 市中を走行する車は昼間でも照明をつけており、事故防止のため法律でそのように定められているからだという。実験結果でも照明をつけて走行したほうが事故の発生率が減少することが証明されているのである。
消費税は25%で世界最高税率である。国民の平均年収は税込みで430万円であるというから豊かな国にしては意外に少ないという感じである。この国では常に中道左派が政権をとり福祉に重点を置いた政策を推進してきたから、貧富の格差の少ない高福祉高負担の福祉国家を実現してきた。それにしても税金は50%に及び国民は重税感を持っているが、九年間の義務教育制度や老齢年金制度、医療保証制度が充実しているので将来に対する不安感は抱いていないという。因みに65歳から手取りで8万〜9万円の国民年金が受給でき家賃の補助制度があるので贅沢しなければ健康で文化的な生活は保証されているということである。
フレデリックスボー城

はコペンハーゲンの北西に位置した人口35000人のヒレロズの街にあり、コペンハーゲン中央駅から電車で40分ほどの距離である。緑の森と静謐な湖に囲まれ、赤煉瓦で出来たルネッサンス様式のフレデリックスボー城はとても美しい。16世紀の中頃フレデリック二世王が地方貴族の女性から入手した城であるが、その子の建築王とも言われるクリスチャン四世王が、1560年から60年の歳月をかけて、居城に作りあげた。その後1859年に大火にあい城の大部分が消失してしまった。残念なことに立憲君主制のもとで王室には復旧の財力がなかったのでビール王と言われるカールスベア社の社長ヤコブセンが再建を援助した。このとき国立歴史博物館として蘇ったのである。収蔵物はデンマークの長い歴史を物語る装飾品、絵画、宝物等の貴重な品物である。
このあと更に北東のエルシノアにあるクロンボー城を訪問した。この城の起源は1429年ににエリーク七世王が海峡を通る船から通行税を徴収するために築城したことに始まる。1574年にフレデリック二世王が再建に着手し、1585年に完成した。1629年の大火で焼け落ちたが直ちにクリスチャン四世により修復され、その後何度かの戦争を経て1924年現在の形に修復された。ほぼ四角型の城である。北棟は王の住居で、西棟は王妃の住居として使われデンマークルネッサンス様式が見られる。城の内部には貴重な絵画やゴブラン折り等の贅を尽くした調度品が保存されている。またこの城はシェークスピアのハムレットの舞台としても有名であり、王子アームレットにHを付加してハムレットとしたのである。
バルト海から外海にでるためにはこのエルシノアの海峡を通らざるを得ないので通行税が1857年に廃止されるまでは政治経済的に重要な街として栄えた。20世紀半ばまでは鉄工業、造船業の街として繁栄した。ロシアのバルチック艦隊もここを通って日本海へやってきたのである。対岸はスエーデン領であり手にとるように近くに見えている。
この街の港にはフェリーボート発着場があり、ECに加入していない準禁酒国のノルウエー人達が、安い酒やビールを求めて国境を越えて買いに訪れるということであり、ビールや酒の入ったダンボール箱を持っている人があればノルーウエー人と見てまず間違いがないということである。こんなところにもEC加盟の有無に関して発生する社会現象が現れているのかなと思った。
| 2004年07月19日(月) |
【人類の歴史に汚点残したナチスの蛮行・・ポーランド�◆� |
ニューヨークの同時多発テロから一ケ月程経った10月12日、オフイシェンチムへ到着した。先ず目に入るのはポブラ並木のある構内に立ち並んでいる重厚な感じのする煉瓦造りの建物群である。何も予備知識なしに眺めれば軍隊の兵舎が立ち並んでいると思うかもしれない。しかし建物群と敷地を取り巻いて巡らされた高圧電線網を見ると異様な感じがあり、やはり収容所だなと了解するであろうか。
入り口には高圧電線網が張りめぐらされた扉の上に「ARBEIT MACHT FREI」というドイツ語の文字盤が並んでいる。働けば自由になれるという意味である。ここが悪名高いアウシュビッツ強制収容所なのだ。
建物の中を順次見学して回ったが、刈り取った頭髪が夥しい程の量展示されている部屋、様々な大きさと種類の靴が山をなして集積されている部屋、革製の大きなトランクには白いペンキで住所氏名が記入されて沢山集積され展示されている部屋もある。移住させるからと騙されて自分の財産を判別しやすいようにとの指示のもとに記入したと思われる白色のペンキの文字が哀れさをそそる。眼鏡だけ集めて展示してある部屋もある。その量は夥しいとしか言いようのない程である。これらの遺品を前にするとその背後にある意味が自ずから察知できるレイアウトになっていて身の毛がよだつ思いで眺めた。
毒ガスとして使われたチクロンBという薬品の入っていた空き缶の山や、

人間の頭髪を混ぜて織られた織物も展示されている。
寝室には蚕棚式の狭いベッドが設けられていて、干し草の屑が敷かれているだけで家畜の部屋よりも条件は悪いとさえ思える。
共同便所の建物の中には幅1m程のコンクリート製の細長い箱が設置され

ており、その上には直径25cm位の丸い穴が交互に配置されていた。穴と穴との隔たりは殆ど設けられていない。監視付きでこんな場所で大勢の囚人達が並んで排便している光景を想像するだけでも吐き気を催してきそうな光景であった。
天井から毒ガスを注入されたというガス室も残されているし、死体処理のために設けられた焼却炉も展示されていて人間の魔性もよくぞここまで至れるものだとの思いで一杯であった。
建物の外には処刑のために首を締めて吊るす鉄製の架台

や銃殺するために設けられたコンクリート製の壁も残されていてその前には見学者の備えた供花が沢山並んでいた。
この収容所の所長夫人は入れ墨のある囚人の革でランプの傘を作らせてコレクションとすることを趣味としていたという事実もあったし、その夫に至っては死体焼却炉の側に風呂を設置して死体が焼けていくのを眺めながら入浴することを楽しみにしていたとも伝えられている。ここまで行くと人間の心は完全に消滅して悪魔そのものである。
収容所の側には鉄道の引き込み線が設けられていて、各地から移住させるからと騙されて列車で連れてこられたユダヤ人やジプシーはここで全員降ろされた。シャワーで汗を流すようにと言われて裸になったところをそのままガス室へ送られて毒殺されたという。そしてこれらの死体を処理するための労働力として、顔色や体格だけで健康状態を判定され元気そうな者だけが残されて収容所へ収容されたのである。
殺された人達の中には財産を没収されることを警戒して宝石や貴金属類を飲み込んだ者も多数あったらしいが、ナチスは死体を割いてこれら隠された財宝を回収したと言われており、腹を割くためのコンクリート製の処理台も設置されていたという。
アウスシュビッツの収容所から車で5分程走った場所にビルケナウの収容所がある。

40ヘクタールもある広大な敷地が高圧電線で囲まれており構内には木造平屋建ての収容所が何棟か当時の姿のままで残されている。そしてこ の収容所構内を監視するための見張り塔が一定の間隔で立ち並んでいる。この収容所では全体の配置を見張り塔の上から外観しただけであったが、ポーランド国内に50箇所近くあった強制収容所の中ではここが最大規模であったという。
ニュールンベルグ裁判のときヘス元所長は収容所で約二百五十万人が殺害されたと証言した。犠牲者はポーランド系をはじめとする各国のユダヤ人、反ナチ活動家、共産主義者、捕虜、ジプシー等世界28カ国四百万人にのぼるともいわれている。
アウシュビッツとビルケナウの強制収容所は人間が屑のように扱われ、その死体が資源として利用されたことを証明する場所である。
これらの収容所はゲルマン民族の優秀性を誇り民族浄化政策を掲げるナチスによって人間性の尊厳に対するおぞましい破壊行為が密かに行われ人類史に汚点を残した場所であった。しかし、同時に人間の尊厳を守り、お互いに助け合う場でもあった。他人の身代わりとなって自分の命を犠牲にしたポーランドのコルベ神父はその最たる聖人であった。
アウスシュビッツとビルケナウの強制収容所を見学した後の衝撃はあまりにも大きく、ユダヤ問題について多少詳しく調べてみた。
ユダヤ人は起源前15世紀頃メソポタミア地方からパレスチナに移住したヘブライ人の一部族である。セム族に属し狭義にはイスラエル王国の分裂後南に建国したユダ王国に属した民族である。
ユダ王国はヘロデ大王の死後徐々に独立を失い44年には全領域がローマ総督の直轄下に置かれた。これと前後して祖国の独立を求めるゼロット運動が活発化して総督の失政はユダヤ人を反抗に追いやった。
暴君として悪名の残るネロ皇帝の治世下で遂に反乱となり、一時はユダヤ全域を掌握したが、将軍ヴェスパシアヌスと戦って敗れ、エルサレムは70年に陥落し反乱は失敗に終わった。この時の死者110万人、奴隷として売却さ れた者9万7000人という(第一次ユダヤ戦争)。
ハドリニアヌス帝の治世下で132年バル・コクバの指導のもとに再び 反乱が起こったが失敗に終わった。一時逃れていたダキア地方からも追い払われて流浪化(ディアスポラ)が決定的となった。135年のことである。
この時の死亡者は50万人に及んだ(第二次ユダヤ戦争)。
分散移住し漂泊し、キリスト教を否認してユダヤ教に留まったため特殊な民族とみられ迫害を受けることが多かった。キリスト教全盛の中世ヨーロッパにあっては異教徒であるため活動分野が限定され、商業、金融業に従事せざるを得ず、巨富を築いたことがまた反感を呼んだ。近代に入ってからも経済、学術、芸術等に才能を示す者が多く、各民族の間に混じって活動した。 結集力が強く、そのため排他的,独善的であると見做されることが多い。一八九七年にヘルツルがシオニスト団を結成し、パレスティナに安住の地を建国しようという運動が活発になった。しかしこの運動もその方法を巡って数派に分裂して抗争し、パレスチナ在住のアラブ人との紛争もあり、運動は容易に進まなかった。
イギリスは東方政策の立場からこれに関心を持っていたが、第一次世界大戦を遂行する必要上、1917年11月にパルフォア宣言(イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ人の民族的母国の建設を認めることをシオニストに約束し宣言)を発しこの運動を支持すると同時にアラブ人支持も約し(フサイン・マクマオン条約)現在の紛争の種を作った。
1920年のサン・レモ会議でパレスティナはイギリスの委任統治領となったが、相反する二つの公約を巡ってアラブ民族とユダヤ人の大紛争がしばしば起こるようになった。そこで1937年イギリスはパレスティナ分割案を発表したが、双方の反対で実現しなかった。
第二次世界大戦後、イギリスは解決を国連に求め、国連総会でイギリスの委任統治廃止、パレスティナのアラブ、ユダヤ両国への分割が決議された。 この決定により、1948年5月14日イギリスの委任統治期限の満了とともにイスラエル共和国が誕生した。一方のアラブ諸国は国連の決議を不服としてこれを受け入れなかった。
バルフォア宣言は中東イギリス軍の対トルコ作戦基地パレスティナ守備のためユダヤ人住民の協力を得る必要から発したものであるが、他方でイギリス政府はフサインマクマオン条約によりオスマン帝国内のアラブ民族の独立を認めていたためこの二つの条約は衝突してアラブ民族とユダヤ民族のパレスティナ獲得紛争を引き起こす原因となったのである。大国のエゴイズムが残した負の遺産である。
9月11日に発生した前代未聞のアメリカ国内での同時多発テロの根も煎じ詰めればこのパレスチナ問題に行き当たる。
同時多発テロが契機となってアフガニスタンの貧困と難民問題に漸く世界の耳目が集まり始め真剣に考えようという機運が出始めているのが今回の事件がもたらした皮肉な効果である。人道という名のもとに爆弾の投下と同時に食料品や医薬品の投下される図は21世紀のブラックユーモア以外のなにものでもない。
| 2004年07月18日(日) |
【天才を輩出した文化の香り漂う国・・ポーランド� � |
▼ポーランドの旅 ワルシャワ、ジュラゾヴァ・ヴォラ、チェンストホーヴ ァー、ヴィエリチカ、クラクフ、オフィシエンチム 2001年10月12日〜10月20
ワルシャワ市内の中心地へ入ってすぐ目に入るのは文化科学宮殿である。 これはスターリン様式といわれ現地の人達にはすこぶる評判が悪い。
文化科学宮殿にほど近いメルキュールホテルを朝9時に出発してワジエンキ公園へ行った。この公園は別名浴場公園とも呼ばれている。
公園の入り口に大きな銅像が立っていた。ポーランド建国の父といわれるビウスーツキである。

ピウスーツキはリトアニア貴族の出身で医学生時代から独立運動に参加しロシア皇帝アレキサンドル2世の暗殺計画に関与した嫌疑でシベリアに流刑された。帰国後の1892年にポーランド社会党に入党し、党機関紙の編集中に再度流刑されたが脱出した。1904年には来日して独立運動の援助を要請した。当時日本は日露戦争を戦っていた。
彼は第一次世界大戦ではオーストラリア軍所属のポーランド軍団を指揮してロシアと対戦した。1817年10月のロシア革命により同年11月ソビエット政府はポーランドの独立と主権を認めた。第一次大戦でオーストリアとドイツが敗れたため1918年11月ポーランドは共和国として蘇った。このとき彼は国家元首に選出され司令官も兼任し1920年の対ソ連戦では大いに活躍した。彼は右派との対立から一時公職を離れたが1926年クーデターに成功した。その直後の選挙で大統領に選出されたが象徴的な地位の大統領への就任を辞退して実権を掌握した。彼が1932年に死去すると政局は混迷の一途をたどり1939年のナチスの侵略を受けることとなった。彼が国家元首の時日本の軍人8人が招聘されている。また第一次大戦後、日本に預けられたドイツ、オーストリアの捕虜の内でボーランド出身の者達との交流もあった。いろんな意味でピウスーツキは日本に関係の深い人物であった。
公園に入っていくと秋色を帯びた林をバックにして広い池があり池を囲むようにして緑の芝生か植えられている。その芝生の一角に銅像があり人々が群れて写真等を撮っている。ショパンの銅像である。

銅像は柳の木の根元に腰掛けて憂いを含んだ眼差しを下方に投げかけている若いショパンの像である。頭上には柳の枝葉が慰めるように垂れ下がっていた。
公園の中を散策すると豊かに繁った樹木は黄葉しており地上には金色の落ち葉が敷物を広げたように重なっていて静かな時間が長閑に流れている。

落ち葉の上には孔雀が二羽ゆったりと歩いていた。その傍らには栗鼠がせわしなく餌を漁って走り回っていた。とても印象に残る光景であった。
このような樹下道を散策しながら「白い家」の前を通り暫く行くと「水上宮」に至る。公園内を流れる川の上に営まれた宮殿である。これらの建物はポーランド最後の王であるスタニスフ・アウグストポーニャ・トーフスキーが18世紀後期に建てたネオ・クラシック様式の建造物である。水に映えてとても美しい。
公園の出口にはヤン3世ソビエフスキーの騎乗の像がある。

馬はトルコ兵士を脚で踏みつけている。これは1683年にトルコ軍がウイーンを包囲したときヤン3世ソビエスキーがこれを撃破した姿を表現している。ポーランドの英雄の一人である。
公園を後にして王宮広場へ行って旧王宮と周囲の美しい町並みを見学した。

旧王宮は現在は博物館になっている。第二次世界大戦でワルシャワ市内はその85バーセントが破壊されたが、ワルシャワ市民は根気よく瓦礫を片づけて元の姿に復元したのである。
日本であれば区画整理を行い機能本位の姿に街は変貌するのであろうが、彼らはこの街が栄えた時代の古き良きものを大切にする心を持っていたのである。これはドイツのドレスデンでも感じたことである。
旧市街のバルバカンを通り抜けて行くとキューリー夫人の生家があって博物館になっている。ここにはキューリー夫人の使用した調度品等ゆかりの品々が陳列されている。
ショパンの心臓が埋葬されていることで有名な聖十字架教会 、戴冠式等の行われた聖ヨハネ大聖堂等を見学してビラヌフ宮殿を見学した。
聖十字架教会

ビラヌフ宮殿

宮殿の庭

この宮殿はボーランドのヴェルサイユ宮殿ともいわれ、ヤン3世ソビエスキー王が建立した建物である。室内には豪華なタベストリーや絵画装身具、調度品が展示されていた。天井に描かれたフレスコ画が印象に残った。
ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから約50kmの地点にあるウトラタ川に沿った村でショパンの生誕地である。ここに1931年にショパンの生家が復元され、1949年にはその生家が博物館になった。
この博物館を訪問しショパンの生家の一室でピアニストのカタルツィーナ・モスシーシカ女史の演奏するショパンのピアノ曲を数曲鑑賞した。
案内書を見てみるとショパンの父はフランス人で家庭教師としてこの地へ赴き、フレデリック・スカルべク伯爵の子供達の指導にあたった。伯爵の邸宅には遠縁にあたり将来ショパンの母となるユスティナ・テクラ・クシジャノスカが住んでいたのである。ショパンは生まれて8カ月後に両親とともにワルシャワに移り住むが、成長してからもしばしばここを訪れていて心の故郷になっている。
ショパンの生まれた部屋や家族が使っていた調度品、ピアノ、ショパンの楽譜、幼少期の手紙等も展示されていてショパンの生育した環境を偲ぶことができる。博物館の周囲は公園になっており豊かに樹木が生い茂っていて訪れる者に暫しの憩いを与えてくれる。
昼食を摂った後チェンストホーヴァーに立ち寄って「黒い聖母」の安置されているヤナス・グラ僧院を訪問した。ここはポーランド人の聖地になっており、沢山の善男善女がお参りに訪れていた。僧院の中には修道僧達が寄進した宝石や装身具の類や厨子、肖像画等が所狭しと飾られていた。僧院ではミサを、また付設された教会では結婚式を目撃するチャンスに恵まれた。ポーランドの宗教は圧倒的にローマンカトリックであるが、信者達の篤い宗教心のなせるせいか神父の後に続いて信者達が唱和する聖書の一節の音読にも異様な熱気と厳粛さがあり、傍らで参観している異邦人にも身の引き締まるものを感じさせる雰囲気が漂っていた。流石ポーランドにはローマ法王を生み出す宗教的な土壌があるなと感じたものである。
ポーランドの保養地ザコパネのホテルを出発してヴィエリチカへ向かった ヴィエリチカの岩塩坑はクラクフから南東10kmの地点に位置するヨーロッパ最古の岩塩採掘場である。700年前から採掘作業が続けられていて、現在も営業採掘が続けられている。ショパン、ゲーテ、ロシア皇帝アレキサンドルI世、オーストリア皇帝フランツヨセフI世等もこの岩塩坑を見学して感動したと伝えられている。
14世紀にカジミシェ大王が街を囲む壁を築き塩の採掘と販売を王が管理することになった。塩からの収入は王室財源の3分の1を占めたこともあり、クラクフ繁栄の基礎であった。坑道の深さは64mから327m、九層で長さは200kmに及ぶ。現在はその上部三層のみが塩の宮殿として一般公開されている。
長い板張りの階段を降りていって目に入る光景は鍾乳洞の特殊なものだと思わせる洞窟である。鍾乳洞と異なっているのは天井から垂れ下がるつららが見当たらないことである。幾つかある広い窟にはそれぞれに岩塩を素材としたキリストや聖母マリア等の彫像が飾られている。これらの彫像は概ね灰色をしていて大理石を思わせる質感である。
伝説によれば当時のポーランドの首都クラクフの近くで白い宝物(岩塩)が発見された頃のポーランド王ポレスワフ・フスティドリヴィはハンガリー王ベラII世の娘キンガ王女と結婚した。この時岩塩坑がハンガリーからポーランドへ移動してきたと信じられている。この伝説を表現したのが「大伝説の間」の岩塩の彫刻である。またこのキンガ王女のお土産に感謝の意を表すために作られたのが地下101mに作られた「キンガ礼拝堂」である。このキ ンガ礼拝堂は500人を収容できるといわれる地下の大洞窟である。この礼拝 堂には岩塩で作られた祭壇があり、岩塩の結晶から作られた大きなシャンデリアが幾つも飾られている。

次いで古都クラクフへ向かった。クラクフは日本の京都に例えられる古都である。1320年にヴワディスワフ王がポーランドを統一して首都をクラクフに移した。 その後カジミェシ大王の治世の1364年にクラクフに大学を設立し、ヤギュオ王朝のとき、大学の改革がなされヤギュオ大学と名を変えた。この王は西ヨーロッパで圧迫を受けていたさまよえるユダヤ人を商業振興のために多数この国へ導入し都は栄えた。ヤギュオ王朝(リトアニアとポーランドの連合王国)の時侵略者のドイツ騎士団を1410年グルンヴェルトの戦いで撃破し領土は北はバルト海から南は黒海に至るヨーロッパ最大の国に拡大し大いに栄えた。この頃クラクフはプラハ、ウイーンとともに東ヨーロッパの一大中心地として栄えていた。当時のクラクフではヨーロッパ諸国王の会議が開かれヨーロッパ最強の王達が集まってきた。また全ヨーロッパの学者、思想家、芸術家達が集まりクラクフで活動していた。コペルニクスはこの頃の学者である。その頃の名残をとどめるのがヴァヴェル城である。色々な建築様式が混ざりあっているがルネッサンス様式の優れた例として挙げられる城である。
クラクフの街の中央広場は中世ヨーロッパで最大の広場といわれ、周囲を取り囲んで建つギルドハウス等当時の面影をとどめる建物が立ち並んでいる。
| 2004年07月17日(土) |
【すべてファージー、だが、心休まる国・・ポルトガル 】 |
▼ポルトガルの旅 リスボン、アルコ・パサ、オビダス、パターリア、コインブラ、アベイロ、シントラ、エボラ 2002年10月22日〜10月28日
平成14年10月22日(火) 成田には予定通り到着して受け付けへ行くと窓口は開いていた。添乗員は土屋知美という若い女性であるが丁寧に一人一人個別に対応しているので時間がかかる。そこで素早く両替に行ってユーロを百ユーロだけ両替して貰った。両替が終わって帰ってきてもまだ説明は終わっていなかった。若いのに女性ホルモンが涸れてしまったような顔をした女性である。
売店ではシーバースリーガルのウイスキーを一本買った。後で気がついて今回は相部屋なのでどんな人と一緒になるかわからないが、日本酒も買っておいたほうがよかろうと考え直して秋田の酒を一本買い足した。
予定通りのフライトでスイスのチューリッヒ空港を経由してリスボン空港に到着した。時差8時間である。まだ現地は夏時間である。 途中記録しておいた時刻を記録しておくと スイス航空 成田 始動12時00分 テイクオフ12時11分 チューリッヒ 着陸19時20分(時差7時間) リスボン向け 離陸20時59分 リスボン 着地23時25分 バスに搭乗 24時00
時差1時間につき時計を戻す。日本との時差8時間 飛行中は中国語のCDに聞き耽る。ワイン3杯、コニャック2本、スコッチ1本を飲んだ。夕食は一回パス。同室の人は伊沢一彰氏で絵をよくする宇都宮から来た人である。多少饒舌なきらいはあるが今年定年退職した62才の常識人なので助かった。
平成14年10月23日(水) リスボンのホテルは市の南方約30分の海岸に面したリゾート地でプライア・マル・ホテルがその名前である。庭にはプールもあった。窓から望む海は大西洋である。天気は良かったが昨夜の就寝は夜中の1時になってしまった。
9時にホテルを出発してベレンの塔、発見の記念碑、ジェロニモ修道院、ボテキントーリー・レストラン、エドヴァルト7世公園を見学してオビドスへ向けて出発した ジェロニモ修道院には折からアフリカの大統領が来ていて入場できなかったので帰路立ち寄ることにしてリスボンを後にした。
ベレンの塔

ジェロニモ修道院

オビダスは小さな城郭都市である。ここではポルタ・ダ・ヴィラ、サンタマリア広場、サンタマリア教会を見学して町の中を散策した。この地の地酒のジンジャーニは甘口の酒でポートワインのような味であった。王妃イザベラが愛した直轄地であった。続いてナザレへ移動しナザレの海岸が一望のもとに見下ろせる断崖のあるシティオ地区へ来てノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会、メモリアル礼拝堂を見学後ブライア地区のホテルへ投宿した。伊沢氏は窓からスケッチにとりかかったが海岸通りを散歩して老人の写真を撮ったり、路地裏から沈む太陽を撮影した。夕食の鰯料理が美味かったので5尾も食べた。翌朝は朝市を出発前に見学した。
平成14年10月24日(木)
ナザレの海岸

朝9時にホテルを出発してポルトガル人の心の故郷と言われるアルコ・パサへ立ち寄りペドロとイネスの悲恋の物語が残るサンタマリア修道院を見学した。
サンタマリア修道院 
続いてパターリアに立ち寄りサンタマリア修道院を見学。この修道院は正式名勝利の聖母マリア修道院である。構内にはエンリケ航海王の墓もある。未完の礼拝堂と柱のない広間が珍しい。
慌ただしくコインブラへ向けて出発した。コインブラ大学では図書館を見学した。折から新入生を迎えて行事が行われており、黒いマントを羽織った学生達をちらほらと見かけた。構内の教会と坂道にある教会を見学してダウンタウンのサンタクルス教会を見学した。坂道の多い町である。
コインブラ大学

平成14年10月25日(金) アベイロへ立ち寄って駅舎のアズレージョを見て、運河の海草採集船を撮影した。塩田の後が残っている。
アベイロ駅のアズレージョ

海草採取船 
暫くバスドライブが続いてからいきなり橋の上を通った。ドロウ川の岸辺から丘の上に広がる町の景観は美しい。ボルサ宮、サンデマンワイン工場を見学した。
平成14年10月26日(土) ホテルの側の列車の駅から2等車に乗り込んでリスボンまでの列車の旅である。力持ちのポーターが一人で36人分の荷物を棚へ収納したのには驚いた途中アベイロ駅に停車した。懐かしいアズジージョの絵を別の角度から眺めることが出来た。
リスボン駅に到着してからジェロニモ修道院を見学してからシントラへ向かった。ここでは王宮に入り煙突のある厨房等を見学した。このあとロカ岬までドライブである。幸い天気に恵まれて暑い位であった。ユーラシア大陸最西端の岬だというが、景色はいいけれども特別な感慨も沸かない。
シントラ宮

ロカ岬

ホテルへ帰ってから改めてファドの夕べへでかけて痛飲した。多少口がすべってブラボウとブラバーをやたらに頻発して顰蹙を買ったようだ。反省。
平成14年10月27日(日)
コルクの木

エボラへ朝から向かった。途中コルク樫の林がどこまでも続いており珍しかった。世界一のコルク生産を誇るという。城壁の町であり、丘の町であるここではサンフランシスコ教会を見学した。ショッキングだったのは人骨堂である。髑髏や手足の骨を素材にして立てられた礼拝堂は日本人の発想からはでてこない建造物である。大聖堂、ローマ時代の神殿の骨組みを見学。昼食には浅蜊と豚肉のからみあった料理を食べた。これで実質的に今回の旅行は終わった。
| 2004年07月16日(金) |
【イスラム文化とカソリック文化混在の国・・スペイン 】 |
▼スペインの旅 コンスエグラ、トレド、マドリード、コルドバ、メスキータ セビリア、グラナダ、バルセロナ 1999年3月19日〜3月26日
スペイン周遊の旅は、3月20日ラマンチャ地方訪問から始まった。バスの車窓には桜と見紛うばかりにアーモンドの花が咲き誇っていたり、未だ芽生えていない荒涼とした広い田野が続き、空はどこまでも青く雲一つ見えないやがて小高い丘が見えてきて、その上に風車が十個ばかり並んでいる。風車小屋

が往古そのままの姿で残っているのは、ここコンスエグラの町だけである。この町でドンキホーテは生まれたのである。
トレド旧市内は城郭都市になっていてタホ川が巡る丘陵地に広がる中世の街である。

この街は711年から約四百年にわたってイスラム教徒によって支配され、1085年カスティリヤ王国のアルフォンソ6世の奪回後も一四九二年カトリック両王によって追放されるまでユダヤ人やイスラム教徒が居残って経済活動を続けた街である。かっては西ゴート王国の首都として或いは、レコンキスタと呼ばれるキリスト教徒による国土回復運動の中心都市として繁栄してきた。いわばスペインの歴史が凝縮したような街である。道がせまいので大型車両は乗り入れができない。
カテドラルと呼ばれる大聖堂はトレドの中心に位置して往年の栄光を象徴

するかのように聳え建っている。1227年に着工し 1493年に完成した。実に206年の歳月を費やしたのである。スペイン・カトリックの総本山ともいうべき大寺院であり、ゴチック様式の記念碑的な文化遺産である。 大聖堂内の宝物室にはイサベラ女王の豪華な王冠、金箔で文字を書いた聖書や聖体顕事台が金銀宝石で豪華に飾られて収められている。その一部にはコロンブスが持ち帰った金が使われていると伝えられている。聖体顕事台の高さは3mもあり、16世紀に作られたものである。イスパニアの冒険家達が次々と地理上の発見をしマヤ帝国、アステカ帝国やインカ帝国を征服し莫大な財宝を獲得して持ちかえり、イスパニア王国が輝いていた時代の記念品といえよう。
プラド美術館はマドリッド観光の目玉なので人出が凄い。世界三大美術館

といわれるだけあってその六千点の収蔵物には質の高い名品が多い。常時展示されているのは三千点でその半数以上がスペインの画家による粒選りの作品であり、展示物は適宜入れ替えられているようである。作品は12世紀から18世紀までで16〜17世紀の作品が中心になっており王家のコレクションが主体になっている。エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ等馴染みのスペインの画家の作品の前では黒山の人だかりが出来ていた。
トレド市内に比べれば、マドリード市内はスペイン統一後に遷都された

首都だけにアラブの影響が少ないヨーロッパ的な雰囲気を漂わせる街の佇まいである。
翌日、アトーチャ駅からスペインの誇る新幹線アヴェでコルドバへ向かった。所要時間一時間半の道程であった。時速250kmの速度がでている のに車体の振動が全然感じられず、車窓に広がる広大な平野を眺めながらの 電車旅は快適であった。極端に刈り込んで太い幹しか残っていない葡萄の茶 色ぽい畑や、背丈短く刈り込んだ幹の太いオリーブが緑色の葉を陽光にきらめかせている畑が果てし無く続いていた。
コルドバは、スペイン南部を流れるグアダルキビール川の中流に位置しており、かつて北アフリカを含むイスラム世界の中心地であった。バグダッドに首都を置く東イスラム教国に対して、西のイスラム教主カリフの宮廷が置かれ、10世紀から13世紀にかけて文化、科学、芸術の中心地として繁栄した。
コルドバの街も大型バスは入れない路地の多い街である。特にユダヤ人居住区は迷路のようになっており白壁の家並が続いている。窓には植木鉢に植えられた色とりどりの花や観葉植物で飾られてコントラストの良い趣のある景観を作りだしている。花の小道と名付けられた路地もある。そしてパティオ

と称する中庭が、開かれた門扉の奥に見え隠れしている。門扉が開かれているのは自慢のパティオを自由に鑑賞してくれという家主の意思表示になっているのだという。
このような路地を通り抜けるとちょっとした広場があり、イスラム聖人の銅像が飾られていたり噴水があったりする。そして必ず実もたわわなオレンジの木が何本か植えられている。よく見るとオレンジの同じ木に花も咲いているし良く熟れた実もなっている。つまり四季を問わず年中実がなっているということなのである。それにしてもコルドバの街はスペインのフライパンと言われるだけあって、3月21日だというのに日中はとても暑く寒暖計は30度を示していた。これが朝夕には肌寒いのだから日本の感覚とは随分違った季節感である。
狭く混雑している路地を通り抜けてメスキータへ辿り着いた。
メスキータはウマイア王朝のカリフ、アブデラマン1世が785年に着工しその後継者のアブデラマン2世、モハメット1世、アルハケム2世によって次々に増築されてきたものでコルドバ・カリフ王国の栄華を誇るモニュメントである。
中へ入ると薄暗い。しばらくして目が闇に慣らされてくると赤色と白色の縞に塗られた浮輪を半切りにしたような夥しい数のアーチと柱が目に飛び込んでくる。幻想的な光景は薄暗さも手伝って、宗教的で厳粛な気持ちにさせる。縞メノウ、大理石、花崗岩で作られたアーチは総数約850本もあり、線条細工のアラベスク模様が施されている。屋外が暑かっただけに室内の涼しさにほっと息をつく。
時代を追って進むほどに僅かずつ様式が変化していくのが判る。そして圧巻はメスキータ中央にあるキリスト教のビジャビシオッサ礼拝堂である。カルロス5世に願い出た教会当局が王の許可を得て市民の反対を押し切ってこのメスキータ中央の屋根を取り払いカテドラルを建設したのである。翼廊と祭壇のある後陣はゴシック様式、後陣のまわりを取り囲む丸天井はロマネスク様式、聖歌隊席と説教壇はバロック様式になっており、モスクの中にキリスト教のカテドラルが共存するという、奇妙なメスキータが出現したのである。つまり1523年から1766年までモスクがキリスト教の寺院として使われるという珍奇な宗教行事が営まれたのである。この珍奇さ複雑さがスペインの国情、文化の特徴であろうか。
セビリヤの街は、スペイン南西部のグアダルキビル川に沿う河港都市である。アンダルシア平原の中心にあり、古くはフェニキア人によって開かれ、次いでローマ人に支配され、中世を通じてサラセン文化が栄えた。アメリカ大陸発見後は新大陸航路の基点の港として発展した。
この街の圧巻は何といっても格式高く由緒のあるカテドラルである。

イスラム寺院の跡地に1402年から約百年かけて建てられ、スペイン最大であるのは勿論、世界的にもローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのサン・ポール寺院に次ぐ規模のものである。この寺院のヒエルダの塔はもっとも有名であり、高さが98メートルもあるが、階段がついていない。塔の中を馬に乗って展望台まで上がれるようにゆるやかなスロープが螺旋状に作られていて展望台からはセビリヤ市内が一望できる。
又、この寺院の中にはコロンブスの墓があり、遺体の入った柩をカスティリヤ、アラゴン、レオン、ナバラ四王国の騎士が担いでいる。寺院内のパディオにはオレンジの木が沢山植えてあった。
サンタクルス街はユダヤ人居住区であった所で曲がりくねった迷路のような路地や白壁の家が軒を連ねており、軒に吊るした鉢植えの花やパディオのオレンジの木々はアンダルシア独特の光景を造りだしている。
グラナダはローマ時代イリベリースと呼ばれて栄えた街である。7世紀からイスラム教徒が流入し、イスラム教徒によるイベリア支配の拠点として15世紀末まで繁栄した古都である。コロンブスが新大陸を発見した同じ年の1492年にカトリック両王がグラナダへ入城し陥落した。
アルハンブラ宮殿は1238年にアラブ王アラマールが即位後、築城の構想を固め、その後二一人のアラブ王によって逐次各部が造りあげられていった。アルハンブラとはアラブ語で赤い城という意味であるが城郭に使われた石の壁に多量の赤鉄が含まれていたのでそう名付けられたらしい。アラビア芸術の粋がみられる代表的な美しい宮殿である。
アラヤネスの中庭、コマレスの塔、姉妹の間、ライオンの中庭、アベンセラーヘスの間、王の浴室、ベネラリエフ庭園等を見学した。砂漠の貴重品である水を池や噴水や小川等としてふんだんに取り入れた設計

はいかにも砂漠の厳しい自然条件の中で興った王国に相応しい造りである。
建物内部の壁に施された美しく、繊細なアラベスク模様の漆喰は高度の技術を感じさせる。

また天井には鍾乳洞のつららかとも思えるような装飾が施されていて美しさを際立たせている。
また王族であるアベンセラーヘス一族の誰かが王の寵愛する妃と不義を働いて逃亡したので、怒り狂った王が一族の嫌疑者8人を一つの部屋へ集めて全員を打ち首にした等という身の毛のよだつような恐ろしい話も伝えられている。
アルバイシンはグラナダの古い町でアルハンブラ宮殿ができるまではこの町の丘の上にグラナダ国王が住んでいたところである。当時の人口三万人が住んでいた密集地であり、イスラム寺院が30近くもあったという。今でも迷路のような路地の両脇には屋根の低い家が建てられていて、パディオを持った半円形のアーチやタイルで飾られたイスラム風の建物が多くみられる。 この地区から眺めるアルハンブラ宮殿の全景はとても美しい。

バルセロナの町は今までのコルドバ、セビリヤ、クラナダ等とはがらりと趣が変わり、アラブ的な色彩が殆ど見られずカトリック的なヨーロッパらしい街の佇まいがはっきり見てとれた。この街はスペインの中でも別の意味で特異性のある街である。つまり中央に対して対峙する気風が強く、カタルニア地方独特のカタルニア語を公用語として使用する自主独立性の強い街である。そしてこの街が生んだ天才ガウディーの作品があちこちに見られるガウディの街であった。
サグラダ・ファミリヤ

は聖家族教会と翻訳され尖塔を持つ未完の教会である。1882年にフランシスコ・デ・ビヤールが着手し、1891年にガウディが引き継いだものである。彼は晩年この教会内に寝起きしこの教会と一心同体で制作に取り組んだのであるが制作半ばに交通事故に遭い志半ばで死亡してしまったのである。この建築物の構想はイエス降誕のアァサード、受難のファサード、栄光のファサードと三区画からなりそれぞれに四本の尖塔を持ち全体で十二使徒を意味する構想なのであるが、1982年までにやっとイエス降誕のファサードと地下聖堂だけが完成したにすぎない。ここまでで建設開始から百年以上かかっており、残りの部分が完成するのにはあと百年かかるか二百年かかるかわからないと言われている現代の大建築なのである。
教会内部の部屋は作業場になっており大きな機械が石材を切断したり彫ったりしているし何本ものクレーンが林立して作業が押し進められているが、それでも完成時期が未定という気の遠くなるような大事業である。
旅の印象を一言で纏めればスペインはイスラムの文化とカソリックの文化が混在している文化遺産の豊富で且つワインが安くて美味い国であるということだ。
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