前潟都窪の日記

2004年08月05日(木) 【第29回ワールド・マスターズ・レガッタ出漕記・・チェコ�◆�

  いよいよレースの日である。我々の出場するレースの種目はエイト。クラスはFクラスで平均年齢64才。距離は千m。筆者は3番漕手である。11時45分に我々のクルーも出艇し
堤防で仕切られた川をウォーミングアップしながらスタート地点まで向かった。何しろ3分刻みのスタートだから、スタート地点へ向かうクルーの艇が目白押しで慌ただしかった。

スタート地点に早く到着して艇を係留し合図を待った。7杯レースである。隣の1レーンは日本から来た三菱クルー、2レーンが我々のクルー。更に隣の3レーンはイギリスのヘンリーから来たクルーであるが、スタート直前まで定位置につかず練習をしている程の余裕である。4,5,6,7レーンはそれぞれノルーウエイ、ニュージーランドアメリカ、ドイツと何れもボートの盛んな国々からのクルーである。

冷静に冷静にと言い聞かせながらスタートの合図を待つが知らず知らず心臓の鼓動は高まっていく。コックスのSさんも緊張してあがり気味である。

いよいよブザーがなってスタートした。
12時36分である。失敗もなくスタートできたと思ったが、外国クルーのピッチはとても速い。左隣3レーンの英国クルーは最初のダッシュ4〜5本で既に視界にはなく、辛うじて右隣の三菱クルーと並んでいるのが判る。やがてその三菱クルーも視界から消えてしまった。スタート力漕でバランスが崩れて、フィニッシュが合わず漕ぎきれていないのである。最後尾になってしまったということは判るが、それでもどうにか建て直して完漕すべく必死で漕いだ
。



特に失敗したオールはなかったが、実力の格差は如何ともし難く、タイムは五百mで1分55秒89、千mで4分00秒28、トップとの差47秒88で三菱クルーとの差も14秒弱あり完敗であった。

ボートが日常生活の中に溶け込んでいて社会人であっても、週に5〜6回は乗艇する国の漕手達。それに比べて精々週に1〜2回練習ができればいいとする日本の社会人漕手達。漕艇環境が整い、漕手層の厚い欧米の国々とボートはまだマイナーなスポーツである日本との実力の格差はとても大きいということを痛感した。

世界マスターズに出漕し完漕できたことを記念して皆で集まり
写真を撮影した。

この後Nさんのシングルスカルの出艇が16時51分なのでそれまでゴール近くで色々な種目のレースを見学した。実に迫力のあるレースばかりである。特にエイトが8艇並んで競う所は壮観である。オールが作り出す波が岸辺へ押し寄せてくるのを初めてみた。

川辺には芝生らしき雑草が沢山生えていて凄く臭い臭いがする。アンモニアににたような鼻をつく臭いである。犬の小便かとも思ったが、何処へ行っても草原ではこの臭いがするので肥料か除虫薬を撒いたのではないかと思う。

Nさんのレースは堤防へ行き小高い所から声援したが、逆風の影響で艇速がでず、見ていて気の毒な位の漕ぎ方でラストでゴールした。聞けば前日食事ができず、力がでなかったようだ。体質的に痩せ型でいくら食べても太らないので、レース直前に栄養を補給しておかなければ、力が出ないタイプのようである。このレースにかけていた意気込みが大きかっただけに落胆の様子はよく判るし気の毒な結果であった。

翌日は午前中プラハ市内



とプラハ城を見学してからレース場へ行った。

フスの銅像




 今日はパーティー
がある日だ。



川辺に張られたテントの中で国際色豊にワイン、ビール、ビュッフエ形式の料理と御馳走が並んだ。

歌が出、ダンスが始まり大いに盛り上がった頃、隣のテーブルにいた英国からきた女性クルーと意気投合して、写真をとったりしているうちにC大OBのS氏の巧みな話術で腕相撲対抗戦をすることになったが、我等日本人クルーの3人の男子は全て負けてしまった。そこへ腕自慢のH氏が登場し片っ端からなぎ倒していったので辛うじて大和男子の面目
を施すことができた。



女性とはいえ外国選手は筋骨隆々としていて肥満体は少なく、ボートが強いのも肯べなるかなと思った。
レースを終わり観光旅行でバスと列車を利用してチェスキークロムロフ



とウイーン市内を見学して帰途に着いた。チェスキークロムロフははルネッサンス様式の建築が有名で町全体が世界遺産に登録されている。

洪水の被害の爪痕
がまだあちこちに残っていた。


















2004年08月04日(水) 【第29回ワールド・マスターズ・レガッタ出漕記・・チェコ� �

▼チェコの旅 プラハ、ラチセ
                 2002年9月3日〜9月13日
 朝8時にロンドンから駆けつけたK先輩と落ち合った後、プラハのホテルを出てラチセ・ローイングコースへ向かった。場所はプラハの北西約40分




位の場所に位置するのだが、運転手もここへ行くのは初めてらしく何回も道を尋ねていたが、迷ってしまって来た道を再びバックするということが2回程あった。





閑静な田舎の町の中にレース場はあった。周囲は田圃でボルタワ川の支流であるレナ川の河川敷を掘削して水をひいた競漕場である。長さ2000mのコースを8レーンとれるだけの広さがあり、素晴らしいレース場




場の全景が望見できた。ゴール近くの広場には物凄い数の艇が架台に置かれている。

流石に世界大会を行う会場



は規模がでかいなという印象である。ヘンリー・オン・テームズにしろ琵琶湖漕艇場にしろ戸田オリンピックコースにしろこれほど広くない。こんなに大きなレース場を見たのは初めての経験である。
最初、FISAの事務所へ到着の挨拶をしてから借艇の手続きをすることになっていたので、事務所へ行くと挨拶は不用で借艇の手続きをすることになった。

三菱グループが先着していて借艇の交渉をしていたので後廻しにされた。K先輩が語学に堪能なことから渉外係を一手に引き受けて艇も2艇借りることができた。混成クルー(関東の幾つかの大学のOB有志が集まってクルーを編成)は白色の艇で早速リギングの調整




を始めた。濃青会(京大OB)クルーの方はフランスのリヨンから到着したばかりの赤い艇になるという。まだリガーを急ぎ取り付け中であった。やっと引き渡しを受けてリギングの調整をしたが、大柄な欧州人が使っている艇なのでとても大きい。
やっと調整が終わって10時50分に水に浮かべ練習したが




、吃水戦が高く漕ぎにくかった。               

 午前中約九千五百m、午後2時より約四千五百m位漕いで練習を終えた。

女子クルーのランニング




 午後3時30分には帰路につき一旦ホテルへ帰り待たせておいたバスで市街地へ向かった。先に市内観光していた漕手の奥方達とカレル橋で6時半に落ち合うことになっていたからである。
 しかしながらバスが交通渋滞に巻き込まれ時間が30分程も遅れてしまった上に市内までは洪水の影響でバスが乗り入れできず、プラハ中央駅で降ろされカレル橋まで歩くはめとなってしまった。
更に旅なれたH氏の勘違いがあって旧市街と新市街を取り違えて奥方達に教えていたたものだからカレル橋の旧市街側で待ち合わせの予定が約束の場所にいなくてなかなか見つからず時間を小一時間程も空費してしまった。奥方達は新市街側で遅い遅いと怒りりながら待っていたのである。夕闇迫るカレル橋でやっと再会しホテルの紹介で予約しておいたペリカンというレストランで夕食会を持った。このレストランは日本人がよくいくレストランのようで我々の他には別の日本人のグループが既に陣取っていた。よくみると同じホテルに泊まっているグループであった。要するにホテルのいい鴨にされていたのである。

ここではジプシーの踊りと音楽の余興をみながら食事した。一人二役の中国人の子供のダンスの演技は上手であったし印象に残った。

帰りは市電と市バスを乗り継いで帰ることにしたが、路線と系統がよく判らず何回か失敗して大勢で弥次喜多道中を演じてしまった。切符の買い方も判らなくて全員が無賃乗車を敢行するというおまけまでついた。

翌朝ホテルを10時に出発してレース場に向かった。出発までに時間があったので近くの露店で水1.5リットル入りを3本買ったがガス入りであった。この日は昨日借りた艇ではなくアメリカの女性が使用した艇を借りることになった。調整してみると昨日の艇に較べて小さく、日本人男子の体格にうまく合っていた。リギングの調整で足の位置を直したら非常に漕ぎやすかった。4000m漕ぎ、最後にパドルで2500m漕ぎ、最後の750 mをノーワークで漕ぎ、この日の練習を終えた。

昼食は構外の門前にあるコンビニアンスストアでハンバーガーとジュースとビールで済ませた。構内の売店がべらぼうに高いのにここでは半値ほどであった。

15時にはレース場を出てホテルへ帰り、K氏と散歩にでたら混成クルーはホテル近くのレストランへ行くところであった。近くのスーバーへ立ち寄ったが残念ながら閉店時間で中へは入れなかった。レストランへ行った連中はトップレスの女給のサービスがあり、且つ廉価であったとご満悦であった。

 第三日目はいよいよレースの日である。ホテルを9時に出発してレース場へ向かった。艇は昨日乗った女性用の艇でシートの位置を若干調整した。川では既にレースが始まっていて、3分おきに次々と発艇してくるのでみていて退屈しない。8艇が並んで競争するところは壮観である。(次号へ続く)            



2004年08月03日(火) 【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア�◆�

スチャバは1388年にモルドヴァ公国の首都がおかれ1565年にヤシに遷都するまで大きく発展した古都である。

カルパチァ山脈の山間を谷越え山越えの延々4時間に及ぶ長丁場のドライブであった。このあたりでは一面雪景色で戸外は肌を突き刺すような寒気である。道中、庭先に大きな木樽に重石を乗せてキャベツの漬け物を作っている光景を目撃することができた。また入り口の門と庭の中にある井戸には豪華な屋根が作られており、事情を知らなければ井戸は宗教的な施設ではないかと勘違いしそうな趣のある独特の飾りつけである。

 夕方早い時間にスチャバに到着し大城砦を遠望してからホテルに投宿した。大城砦はモルドヴァ公国の初代のペトゥル1世が1388年にゴシック様式の城砦を築き、ステファン大公の時代に円形の見張塔が増設され難攻不落の堅固な城に完成したのである とても寒い日であったが五つの修道院の見学に終始した。アルボーレ修道院、スチェヴイッツァ修道院、。









モルドヴイッツァ修道院、フモール修道院、ボロネッツ修道院の順に見て廻った












 これらの修道院は16世紀初頭にモルドヴァ公国のシュテファン大公、ボグダン2世、ペトゥル・ラレシュ公等の歴代名君の治世下に建設されたもので外壁を埋め尽くす鮮やかなフレスコ画が見物である。オスマントルコとの戦争の場面や聖書の場面が描かれている。雨風に晒され太陽の光をあびながら色褪せることもなくよく保存されたものだと不思議な気持ちがした。勿論長い年月の間に落書きされたり剥落したりして傷んでいる個所も沢山あるが、色鮮やかに中世文化の様相をよく現在に伝えている。これらの壁画は文字の読めない中世の農民達に聖書の内容を判りやすく説明するために描かれたものであり、中世の農民達の敬虔な信仰生活を偲ばせてあまりある。

 出発までの待ち時間にホテルの前にある小さな教会へ入ってみた。すると人一人いない薄暗い室内の一段と高い台の上に舟形の柩が設置されていて中には男の老人の遺体が仰臥の状態で安置されていたので一瞬ドキリとした。土気色の顔は蝋人形のような感じであったが、両手は胸の上で組み合わされていた。遺体の顔を常時むき出しにして参会者に別れを告げさせるのがルーマニア正教の葬祭儀礼であるというが,異教徒の我々には異様な感じを与える風習である。あまり気持ちがよいものではないので黙礼してから早々に退散した。それを追いかけるように教会の鐘が大きな音で十数回も高らかに打ち鳴らされた。時を知らせる鐘なのか葬儀が始まるという合図なのか定かではない。

 バスは本日の宿泊地ドブロジャ地方のトゥルチャへ向けて出発した。途中、1565年にモルドヴァ公国の首都が置かれ、文教都市として近世ルーマニアを代表する都市として栄えたヤシの街へ途中立ち寄るものの、終日をバスの中で過ごす移動日である。

 一昨日から昨日までに駆け抜けてきた環境条件の厳しいトランシルバニア地方やブコヴィナ地方に比べ現在走行しているモルドヴァ地方は平地が多く、土地も肥沃なようで地平線の彼方まで広大な田畑が広がっている。羊や牛、馬等の家畜が放牧されてのんびりと草を食んでいる風景はニュージーランドの牧羊地帯を連想させる。また起伏の多い丘陵地帯のよく手入れされた小麦畑は北海道の美瑛地区の光景とも重なるものがある。一面に葡萄が植えられている田畑はフランスの田園風景を連想させる。

 今まで世界各地を訪問して農村地帯はずいぶん見てきたが、知らず知らず歴訪地の光景と比較しながら見ている自分がいるのに気が付いて驚いたりする道中であった。 単調な光景に見飽きたのか居眠りをしている同行者が多い中で移り行く景色を飽かずに眺めている自分は少し他人とはずれているのかな等と思いながらも眠たくないのだから景色を眺めているしか術がない。それはともあれ、この地方の農家の佇まいや田畑の様相は豊かに見える。

 やがてヤシの市内へ到着し、チャウシェスク大統領がそのベランダで演説したこともあるという統一広場に面したトレインホテルで昼食を摂った。

 ここでは文化宮殿までバスで運んで貰い、目抜きの大通りをトレインホテルまで約1時間散策した。静かな佇まいで中世の由緒ありげな建物が建ち並び美しい街である三聖人の教会、メテロポリタン教会、貴族の館等では立ち止まり外観見学をしてヤシ市街の観光を終え再びバスでトゥルチャを目指して長丁場の移動が始まった。

 途中、ゲオルゲ公が三兄弟教会をもデルにして創建したといわれる要塞僧院に立ち寄りこれを見学した。男子修道院である。ここにある公衆便所はひどい代物で中国の山村を思い出し、密かに裏へ周り込み青空トイレを満喫した。

 ドゥルチャへ行くためにはドナウ川を渡るために短時間フェリーボートに乗らなければならない。フェリーボートは1時間毎の運航なので17時のフェリーに乗船する計画で本日の旅程は組まれている。道路渋滞に巻き込まれたり、小休止で時間をロスしたりすることもなかった。バスは快適に走行していた。
 ところが市街地の中でもないのにバスが突然急停車してしまった。時計は5時に40分程前である。フェリー乗り場の近くまできている時間帯である。すわ何事かと運転手の方へ視線を転じると黄色いジャケットを装着したポリスが二人バスの前に立ちはだかっている。パトロールカーは道端に駐車してある。どうやらスピード違反を犯してしまったらしい。

 運転手が降りていき警察官にしきりに談じ込んでいたが、パトカーのところまで連れて行かれて調書を取られている。時間はあっという間に飛んで行き20分程がまたたくまに過ぎてしまった。どうも五時のフェリーには間に合いそうもない。
 やがて運転手が解放されて帰ってきて慌ただしくバスを発進させた。乗り合わせた一同はそれぞれにひそひそ話で一時間船着き場で過ごす方法を相談している模様である。

 丁度時計の針が5時を示したところで船着き場に到着した。フエリーボートにはまだ乗用車が何台か乗り込んでいる最中であった。船内には車がぎっしり詰め込まれて大型バスの入りこむ余地はなさそうに見える。運転手は現地ガイドと一緒にフェリーまで交渉にでかけた。一同が固唾を飲んで見守る中を運転手が笑顔で帰ってきるのが見えた。乗せて貰えるらしい。期せずして一斉に拍手が沸き上がった。フェリーでは車が少しずつ移動してバスの乗り入れられる場所の確保に動き出したようである。出来上がった空間にバスが滑り込んでフェリーは所定時間に約10分遅れて出航した。15分程の航海で対岸に着いてしまった。

 船着場のすぐ近くのホテルに投宿した。顛末を聞いてみるとフェリーには先着順に乗船するので積み残されないように一刻も早く船着場に到着したくて運転手はスピードをあげたらしい。そこを運悪くパトカーに捕まってしまい罰金を10ドル個人負担で払わされることになったということであった。

 ホテル専用の船着場から専用船に乗り込み、ドナウ川の一支流であるドゥルチャ支流のクルーズが始まった。ドナウ川と黒海に挟まれた湿地帯はヨーロッパ最後の秘境といわれ、野生動物の宝庫といわれるところである。運がよければペリカン等を見ることもできるということであったが、実際には鳥を少々見ることができただけでマングローブのように生い茂る原生林の中を静かに航行するクルーズは単調極まりないものであった。その中にあって漁師達が粗末な苫屋を建てて仮住まいをしている近くに放し飼いされている飼い犬が対岸の岸を船の進行方向へどこまでもついて来るのが僅かに無聊を慰めてくれた。パンを投げてやると川の中へ飛び込んで取りに泳いでくる姿はいじらしくさえ思えた。また環境条件の厳しい湿地に芦葺きの粗末な苫屋に仮住まいして漁に勤しむ彼等の貧しい生活のことを考えていた。

 このクルーズ中、ハーモニカの上手な人が居て演奏し、船旅の抒情を慰め、かつ高めて下さった。リクエストに応じて、軍歌やら懐かしのメロディーやらしきりに熱演をして下さったが、そのうち帽子を持って御祝儀を集めようとする女性が現れた。

 彼女は運転手がスピード違反で罰金を個人負担するのは可哀そうだし、我々としても彼の熱意に対して感謝の意を具体的に表したいから心ある方はご協力戴きたいとの口上で聴衆の間を廻り出したのである。この善意の行為に一同異論のある人もなく進んでなにがしかの札やら銭が競うように投じられた。
 運転手の罰金はカバーしてあまりある金員が集められ、添乗員から運転手に手渡して貰い大変喜ばれた。国境を越えて心と心がつうじあう心温まる出来事であった。

 かくして今回の旅行は終盤を迎えた。
 朝はゆっくり起き出してブカレストまでの長い移動の一日であった。
 道端で道路脇に若者が座って通りかかる車に対して両手を広げて大きさを示しているのを目撃した。ガイドの説明ではその大きさの魚を持っているが買わないかというアピールだということであった。そして道路には荷馬車が相変わらずのんびりと往来していた。

 途中スローボーズヤという町のレストランで昼食を摂ったときデザートのアイスクリームに線香花火が仕掛けられていたのは一興であり旅の締めくくりとして印象に残るもてなしであった。

 ブカレストでは余裕時間を消化するため、自由市場を見学した。自分で作った野菜類を並べて売っている農民達の姿にも心なしか自由化した経済社会の中で豊かな生活を築いていこうという意気込みのようなものが感じられ、享受している自由のありがたさを噛みしめているように見えた。野菜類が多く並べられていたが、何故か大根だけは姿が見られなかった。そして今回の旅行期間を通じて40回程の食事でもついぞ大根の姿を見かけなかった。        



2004年08月02日(月) 【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア� �

▼ルーマニアの旅 ブカレスト、シナイア、ブラン村、ブラショフ、スチャバトゥルチャ
                  2002年4月2日〜4月13日

 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。
 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。

 どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。

 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2〜3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。

 こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。
 そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。

 長い道中、ガイドから聞いたブルガリア人の生活水準について纏めておくと、自由化以降貧富の格差は大きくなっているが、平均的な月収は百五十$〜二百$であるという。

 ソフィア市内で感じたことの一つに多分社会主義の時代に建てられたと思われる無粋なデザインのアパート群の壁面の剥落や傷が目につくことであった。傷むに任せて補修が全然できていないのである。このことはアパートだけに限らず、多くの建築物が薄汚れているか壁面の剥落が目立ち補修したり化粧直しをした形跡が窺われないのである。キューバ、ドレスデン、プラハ、ブタペスト等旧社会主義国家の都市で感じたことと同じことがここにもあったのである。言ってみれば社会主義が残した負の遺産がいまだに払拭されずに醜い姿を晒しているのである。生活に追われて補修にまで金が廻らないということなのであろうか。

 ドナウ川畔の国境の街ルセには10時50分に到着した。川を超えると向かいはルーマニアである。ブルガリア側とルーマニア側でそれぞれ出国と入国の審査を受けて越境した。

 ルーマニアに入ったところで待機していたルーマニアのバスに乗り換え、3日間同行した現地ガイドともお別れである。

 ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。

 ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。

 ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。

その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。

国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。

 チャウシェスクという政治家について調べてみると、1918年生まれで1936年に共産党に入党。1965年以降書記長、1967年以来国家評議会議長(74年以来大統領) を兼任した。国家・党・軍の実権を掌握して独裁権力を振るい、ソ連とは一線を画した自主路線をたどり、71年の米中接近では「橋渡し外交」さえ展開した。しかしながら国内では一族約20人による高位高官独占支配を行い厳格な警察国家体制を敷いた。経済的には70年代後半に急増した対外債務返済のため、国内の産出物は農産物を初め目ぼしいものは全て輸出に向け国民には耐乏生活を強制した。更に農業不振は基本的な食料確保すら危うくした。こうした中、彼は国民の不満をそらせるため西部のトランシルバニア地区に住むマジャール系少数民族に対する抑圧を強化してハンガリー及び西側諸国との間に摩擦を引き起し政権基盤を揺すぶられることとなった。こうした中、89年の東欧での一連の変革の波を受け、西部のティミショアラでの反政府のデモ隊と治安部隊との衝突が起き、全国的な規模に発展していった。やがて兵士が市民に合流し89年12月22日、チャウシェスク夫妻が逮捕され24年間の独裁政権は崩壊した。12月25日には非公開の軍事法廷で夫妻は死刑の判決を受け即刻銃殺された。

 チャウシェスクの統治方法を仔細に調べてみると現在の北朝鮮の金正日政権と似通っており、金政権は近い将来ルーマニア型の革命で崩壊するであろうことが予見される。国民を飢餓線上におき言論の自由を統制する秘密警察国家は必ず破綻をきたすのは歴史の鉄則だからである。

 ブカレストでは大司教教会、旧国会議事堂、革命広場、旧共産党本部、歴史博物館(旧王宮)、大学図書館等の建物を外から外観だけ見学してブカレスト市内の観光を終えた。
凱旋門




 旧共産党本部にはチャウシェスクが群衆を前に最後の演説を行い、はじめてブーイングが起こって反政府の大合唱となったといわれるバルコニーはそのまま形で残っていた。劇的な終焉で消え去った独裁者の生涯を想うと感慨一入であった。因みにチャウシェスクはこの場での演説中に群衆の怒りを抑えられなくなり、ヘリコプターで一時急場を脱出したのである。

 ブルガリア市内を朝出発して次の目的地シナイアへ向かった。シナイアへ向かう道中、田畑の中に石油採掘の小さな油井にポンプが設置されて石油を汲み上げているのを何カ所かで目撃した。それはそれは小規模の装置であったが、ルーマニアで石油が採取できるとは小さな驚きであった。

 シナイアはカルパチア山脈の南端の山麓に開けた「カルパチアの真珠」と別称されるレゾート地である。ここにはシナイア修道院とペレシュ城がある。

 最初ペレス城を見学した。この城はルーマニアでは初めてのドイツ系の国王カロル1世(1866〜1914)が夏の離宮として19世紀に建設した優雅な城である。折から雪がちらついており、城へ到着した時には雪に覆われた森の中に尖塔が望見され、その佇まいは優雅で一瞬ドイツのノイシュバンシュテイン城に似た造りだなと感じた。雪道を城の構内まで行き、近くから城を色々な角度から鑑賞しかつ撮影した。雪化粧をした森を背景に佇立する城を仔細に観察するとノイシュバンシュタイン城とはまた趣を異にする格別の光景であった。雪が城を引き立てていた。この城ができてからブカレストの貴族達は競ってこの地に別荘を建てたので爾来この地は別荘地として発展した。 

 この城から近い場所にシナイアの修道院がある。シナイア修道院は17世紀にワラキアの王侯ミハイル・カンタクジーノがエジプトのシナイア山へ巡礼をし、感激して帰国後この地に修道院を建てシナイア山の名を貰って命名した修道院であり、以後この地の地名となったという謂われが残されている。

 次いでトランシルバニアアルプス山中のブラン村にある通称「ドラキュラ城」を見学した。この城はワラキア公ブラド・ツエペシュ(在位1456〜146 2)の祖父が居城とした城で後にルーマニア王室の離宮として使われたこともある。ドラキュラ伯爵と通称されるツェペシュは実際には子供の頃一度だけこの城を訪れたことがあるだけであるという。

ツェペシュはシギショアラの町に1431年に生まれ、コンスタンチノープルに留学中にビザンチン帝国が1453年に滅亡し,支配者となったオスマントルコのメフメト2 世の捕虜となった。やがて許されて帰国し、ワラキァ公国の支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣されてきた兵士を捕らえ生きたまま串刺しにしたことから「串刺し公」と綽名された。歴史上は敵国のトルコと勇敢に戦った名君として評価が高い。ドラキュラの名は彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から受けた「龍( ドラゴン) が彫られたメダル」に由来する。彼の父はドラゴンのメダルを授与されたことからドラクル又はドラキュラと呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。また「ドラク」はルーマニア語で「悪魔」を意味している。
「吸血鬼ドラキュラ」は彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家ブラム・ストーカーがヨーロッパに古くから伝わる吸血鬼伝説を組み合わせて怪奇小説に仕立てあげたもので、この作品の影響を受けてこのブラン城もいつしかドラキュラの城として一人歩きを始めたのである。

 ブラン城を見学後再びバスで今夜の宿泊地ブラショフへ向かった。

 ブラショフはルーマニア第二の都市で中世の町並みを残した美しい古都である。町は12世紀にドイツの商人によって建設され、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。閑静な佇まいのどことなく心の落ち着く感じがする町である。ここでは夕闇せまりかけた頃徒歩でスケイ門、黒の教会、聖ニコラエ教会等の外観見学をした。

 ルーマニアの最北部、ブコヴィナ地方の中心都市スチャバへ向けて出発した



2004年08月01日(日) 【聖地リラの僧院を誇り薔薇の咲き乱れる国・・ブルガリア�◆�

 朝目が覚めて窓を開けると雪が降っていた。今日は長駆してカザンラクを経由し古都のヴェリコ・タルノボまでの移動である。

 カザンラクはバルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈に挟まれた薔薇の谷の中心地である。この地域はブルガリアの中心に位置し温暖で乾燥した空気が薔薇の栽培に適しているため、古来薔薇から採れる香油の産地として有名である。香水の原料として使われる薔薇の香油の世界市場の8割をこの地方が占めている。

 生憎時期が早すぎて、花はまだ咲いていなかったが周辺の田畑には一面に薔薇が栽培されているのがよく観察できた。5月の収穫期には畑一面が色とりどりの薔薇の花で埋めつくされ、夜明け前から採集が始まるのである。民族衣装を纏った女性達が歌と踊りで豊作を祝う「バラの祭典」はこの頃約一週間に渡って開催され、世界中から観光客が押し寄せ賑わうのだという。

 我々の一行は薔薇博物館を見学した。博物館と名付けるには恥ずかしいほどの小規模な施設であるが、薔薇の香油の製造工程の写真や昔使われた蒸留釜や道具が展示されている。庭には品種改良のための温室なども設置されているが、ここでも花はまだ咲いていなかった。

 ついでトユルベト公園内にあるトラキア人の墓を見学した。1944年に防空壕建設中に偶然発見されたものであるが、紀元前4世紀後半から3世紀頃のものと鑑定されており、墓の内壁と天井にフレスコ画で戦闘場面や葬送儀礼の様子が数種類の色使いで描かれていて保存状態も良好である。実物は鑑賞できないが精巧に複製されたレプリカでその絵を鑑賞することができる。 このトラキア人はブルガリアに紀元前19世紀〜8世紀頃住み着いたインド・ヨーロッバ語族である。この地域には田畑の中に小高い丘の形をしたトラキア人の墳墓が幾つか残されており我々もその幾つかを通過中に目撃することができた。

 ところで現在のブルガリア人の原型はこのトラキア人ではなく、5〜6世紀に移動を開始したスラブ民族に属する西シベリアのステップ地帯の遊牧民ブガール人である 彼等はビサンチン帝国と領土争いを繰り返しながら681 年に第一次ブルガリア帝国を建設したのである。

時期尚早なのでバラの谷では薔薇の花を見ることが出来ず残念であったが、一見桜かとまがうばかりの白いプルンの花がそこここに今を盛りと咲き誇っていた。ここには人通りも少なく閑静で長閑な農村の風景が広がっていた。

 バラ谷を画するシプカ峠は1878年の露土戦争でロシアとブルガリアの連合軍がトルコ軍を打ち破り歴史的勝利を飾った場所であるが、ここには戦死した息子達の霊を弔うためにロシア人遺族達が資金を出し合って建立したロシア正教のシプカ教会が葱坊主のような塔を陽光に輝かせて佇立していた。

 夕刻にヴェルコ・タリノボに到着し投宿した。
 ヴェリコ・タリノボは1187年〜1393年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた古都である。バルカン山脈の東部に位置し森に囲まれた幾つもの丘とその周囲を蛇行するヤントラ川の切り立った崖が独特の景観を作り出しており複雑な地形が入り組み起伏に富む立体的な市街地は中世の面影を残す町並みが至るところに展開している。イヴァン・アッセン王の治世下の最盛期にはビザンチン帝国をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあった。当時は文化の中心地として栄え、ルーマニアやモスクワからも留学生がやってきたといわれ、現在でも学都として知られている ツァレヴェッツの丘には第二次ブルガリア帝国時代に宮殿が営まれていたが、オスマン・トルコの猛攻を受けて瓦礫の山と化してしまって史跡として残されているだけである。

 投宿したヴェリコ・タルノボ・ホテルはこの街で最高級のホテルであったが、部屋の窓からヤントラ川を隔てて正面にイヴァン・アッセン王のモニュメントを見ることができた。

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2004年07月31日(土) 【聖地リラの僧院を誇り薔薇の咲き乱れる国・・ブルガリア� �

▼ブルガリアの旅 ソフィア、リラ、カザンラク、ヴェリコ・タルノボ
               2002年4月2日〜4月13日
 ソフィアではフロントで貰った地図を頼りに市内探索にでかけたが、文字がキリル文字なので何処を通って何処までいったのかよく判らない。古い大きな教会までたどりついたので地図と照合するとアレキサンンドルネフスキー寺院らしいと思っていたが、後日そうではないことが判った。実は聖ネデリア教会でブルガリア正教の教会であった。丸屋根に蔦が絡まっていたのとジプシーの子供にしきりに銭をねだられたのが印象に残っている。子供の傍らにはケバケバシイ装いの母親もいた。

 ジプシーについて若干整理しておくと、Gypsy はヨーロッパから中近東、アメリカまで古来広く分布する放浪民族。起源は明確ではないが、言語、生活様式からインド北西部の下層民族とみられ9〜10世紀頃からヨーロッパの記録にしばしば現れ、14〜15世紀にもっとも多く、現在も総数五百万人、ヨーロッパだけで百万人以上と推定される。純粋種は皮膚は褐色、髪は黒か黒褐色、平均身長165cm程度、数家族〜数十家族でテント、幌馬車の移動生活を送り、その社会は閉鎖的で固有の言語、宗教、慣習を維持し、部外者との通婚も禁止される。歌舞や曲芸の辻興行、馬匹売買、鍛冶屋花売り、占い等を生業とする。『学研 現代新百科事典より』

 一部に掏摸、置き引き、窃盗等をするものがあり観光客が被害に遇うことが多い。一説にインドからエジプトに渡り各地に拡散したからジプシイと呼ばれるようになったという。ルーマニアのシビウにはジプシーの総元締めを行う「皇帝」が居住しており、闇の行政府を保有しているといわれる。

 今回の旅行中にルーマニアの街道筋でも目撃したが、豪勢な邸宅を構えて定住する者も最近見られるようになった。いわれて、よく観察して見るとケバケバシク飾った建物には窓がついておらず、庭に粗末な建物が建っていたりする。母屋には馬匹を住まわせ、庭の粗末な小屋に人間が生活するのだという。都会では一般人と変わらない装いをしている者もあり、そうした連中を外見からは見分けにくいことが多く、観光客がカモにされる。子供達は就学しない者が多く、生活環境の影響を受けて掏摸、置き引き、窃盗を悪事と考える規範意識が皆無である。

 ソフィアの南方にバスで約1時間半走行するとリラ山脈の山中にリラ僧院がある。




 突然視界に飛び込んできた僧院は白と茶色の或いは白と黒色の織りなす縞模様が美しくアーチ型の柱が更にその美しさを引き立てている。このあたりで標高は1.000 mを若干超えている。折から背面にそそり立つ山頂には雪が積もり僧院の佇まいを荘厳なものに仕立て上げていた。日本では桜も散り始めた4月だというのに肌吹く風は身を刺すように冷たく手袋がないと指先がかじかんでしまいそうである。

異民族との攻防が激しく栄枯盛衰の目まぐるしいブルガリアの歴史の中にあって、第二次ブルガリア帝国が輝いたのはイバン・アセン2世(在位1218〜1241) の時であるが、このときリラの僧院も当初は城砦として建設され、次第に僧院の形が整えられてきたのである。爾来ブルガリア正教の聖地として国民の崇拝を集めて今日に至っている。ブルガリアの歴史の中には異教徒のオスマントルコの支配を受けた500 年間の苦難の時代があったが、このときもこの僧院だけは破壊されることもなく、別格の扱いを受けてきたのだという。現在、この僧院は男子修道士25人によって守られているが、価値観が多様化してきた現在、若人で修道士になるものが少なく細々と法灯を絶やさぬよう守護しているのが実情であるという。しかしながら国民の崇敬の的となっている場所には変わりがない。

 聖ペトカ地下教会はオスマントルコの治世下にあった14世紀に建てられたものであるが、屋根だけを地表に出した半地下式の教会で当時肩身の狭い思いをしたキリスト教徒の苦難の時代が偲ばれて痛々しい。

セルディカの遺跡は地下鉄工事の時偶然発見されたローマ帝国治世下の2世紀のものである。これは市の中心部を取り囲むように約500 m四方に渡って高さ12mの城壁が巡らされたものの一部であると考えられており、この遺構の一角は土産物屋の店舗になっている。

シェラトンホテルの裏手にひっそりと建っている日干し煉瓦を積み重ねて作った聖ゲオルゲ教会は




4世紀にローマ帝国によって建てられたものであるが、保存状態は良好で周囲を取り囲んで建っている近代的なビルと奇妙な対照を見せていて面白い。またこの教会の裏には浴場跡や市街地の跡が残されているがこちらは所謂ローマ遺跡であって完全な形の構造物は残されていない。

 大統領府では衛兵交代を目撃することができた。脚を水平にはね上げて歩く姿は一つの型なのであろうが、観光客を意識した振り付けがなされているような気がした。

 国立美術館はかつての王宮であるし、シティアートギャラリー、ソフィア教会、ロシア正教教会、アレキサンドルネフスキー教会等ソフィア市で見るべき施設がこの地域には目白押しに並んでいる。

 6世紀に建てられたソフィア教会にはキリル文字を考案したマケドニア出身の僧侶キューリロスとメトディオス兄弟のイコンが飾られてあったのが印象に残った。

 キリル文字はロシア文字の原型となるもので、9世紀にブルガリアでギリシャ正教の伝道僧であったキューリロス(弟)とメトディオス(兄)の兄弟が布教のために聖書を古代教会スラブ語に翻訳する際スラブ語アルファベットを考案し、表記に用いたとされている。



2004年07月30日(金) 【人類の至宝エルミタージュ美術館・・ロシア】

▼ロシアの旅 サンクト・ペテルブルグ 
               2000年10月15日〜10月25日

ヘルシンキ中央駅から6時半発のサンクトペテルブルグ行きシベリュウス号に乗るために駅裏口から入場した。戸外はまだ真っ暗である。プラットフォームまで乗り入れてきた自動車からポーターが荷物を列車内の網棚へ次々 に収めていく。スーツケースが網棚にずらりと並んだ光景は壮観であった。定刻になるとベルも鳴らずに列車は走りだした。

 窓外は暗いが目をよく凝らしていると針葉樹の林が黒々としているのが次第に判別できるようになってきた。時計を見ると7時40分である。やっと空が白みだしたようである。8時だというのに霧が立ち込めているのかどんよりと薄暗くまるで太陽がでているという感じがない。通り過ぎる村落には心なしか哀愁が漂っているように見える。窓外に広がる景色は白樺や松、杉が入り交じった林ばかりである。たまに農家が散見されるが切り妻造りの木造家屋で小口の面には上方に一つと下方に三つ窓が設けられているのが多い。

フインランドとロシアとの国境線沿いの駅ヴァイニカラではロシアの係員が乗り込んできて顔写真と見比べながら一人一人パスポートを回収していく。同時に携行通貨を記入した書類をチェックしていく。入国時に携行していた通貨が出国時に増えていると問題になるらしい。外貨をロシア国内へ落としていけということなのか。長時間待たされた後、パスポーが返されやっと出発することが出来た。

国境を過ぎると今まで快調に走行していた電車は何故かそのスピードを落としてノロノロ運転に変わる。そしてペテルブルグ近郊に近づくと再び速度が上がる。添乗員が毎回同じことが繰り返されると言明しているから、今回だけの現象ではないらしい。理由はよく判らないと言うが、おそらく遙かな田舎の路線区までは十分な補修予算が廻らず、線路のメインテナンスが十分出来ていないので安全確保上スピードダウンしているのであろう。なにしろつい先日潜水艦の沈没事件を引き起こして世界の耳目を集めたばかりの国柄である。ペテルブルグ近郊の白樺林には立ち枯れになったためなのか何本もの倒木が醜い姿を晒しているのがそちこちに散見される。

ペトルブルグ駅には13時30分に到着した。この駅を改札のないまま表に出ると美しい町並みがいきなり目に飛び込んでくるが、よく見るとペンキが剥げたままになっていたり、壁が剥落したままになっている建物がかなり

 目につく。通りを走行している市電やバス、自動車の車体が古くなって傷んでいるのも目について痛々しい。扉などは下方部分に赤錆がついていて、体裁とか乗客の乗り心地などには一切お構いなく、乗物は動きさえすれば運行させるのだという当局の管理姿勢が窺われる。

昼食には地酒を飲んでみようとウォッカを注文した。嬉しいことに米ドルが使えるという。ヘルシンキのレストランでは現地通貨しか使えなかったのに、ここではルーブルよりもむしろ米ドルのほうが喜ばれる。

 そして何よりも驚いたのは、食事が終わりに近づくとウエイターやウエイトレスがポケットからキャビアの瓶詰めやマトリョーシカ人形等を取り出して勧めるのである。彼らは公務員の筈なのに悪びれた様子も見せず、また同僚に気兼ねすることもなく、堂々と販売活動を始めたのである。レストランが企業体の業務の一端として従業員に土産物の販売を命じているのか単なる従業員個人としての内職なのか判然としないがウエイターやウエイトレスから商品を売りつけられたのは、海外旅行をしていて初めての経験であった。

 自国通貨よりもドルの方が喜ばれ、従業員が職場で内職をして平然としている国。大国ロシアという国は一体どうなっているのかという驚きの連続であった。

市場競争原理を導入した国の経済改革推進策の具体例の一つ、即ちレストランという経営体が組織ぐるみで展開している観光客に対する拡販運動であると信じたいが、そうだとすればお客の心理を全然理解していないこと甚だしいものがある。もしも彼等が販売しているキャビアが巷間噂される、調理場から横流しされたものであったとしたらこの国のモラルと職場規律は乱れに乱れているというしかない。

サンクト・ペトルブルグの町はロシアの皇帝ピョートル大帝が北方戦争(1700〜1721) でスウェーデンの侵略を防ぐためにフィンランド湾に面する低湿地に数万人の農奴を使って要塞の建設を始めたことがその紀元となっている。1703年にペトロパブロフスク要塞が完成するとともに町は完成した

 ピョートル大帝は対スウェーデン戦に勝ってからバルト海への出口を確保するために、この地に港を建設し1712年に首都を移した。爾来「西方への窓」としてロシアと西欧を結び付ける役割を果たす政治、経済、文化の中心地として発展した。デカブリストの乱(1825) 、血の日曜日(1905) 、二月革命・十月革命(1917)等革命運動の中心地ともなった。  第二次世界大戦では3年余にわたる激戦の末ドイツ軍の攻囲を退けた。首都モスコーに対して現在も文化の中心地をもって任じている。

ピョートル大帝の宮殿




食後、市内観光で廻った所は次のようなものである。

一.イサク広場とイサク聖堂。
世界で三番目に大きな聖堂と言われていて、その大きさは長さ111.2 m幅97.6m、高さ97.6mで一万四千人を収容できる規模であるという。建築には1818年より40年間が費やされ、難工事であった。低湿地にこれだけの規模の建物を建てるのだから6mの長さの杭を新旧二万四千本が打ち込まれている。この教会は高さ三十階建てのビルにも相当し、金色に輝くドームとともにその威容を誇って屹立している。寺院正面の広場がイサク広場でこの広場の中央にはニコライ1世の馬上像が建っている。デカブリストの反乱を鎮圧して即位し秘密警察と過酷な刑罰をもって自由思想を弾圧し、ツァーリズムを強化した皇帝として知られている。

二.デカブリスト広場
ネヴァ川の左岸に黄色い旧海軍省の建物が建っていてその前にある広場がデカブリスト広場である。デカブリストとは12月党員という意味であり、1825年12月に専制政治と農奴制の廃止をめざして蜂起した革命家達のことであるが、蜂起の中心になったのは祖国戦争(対ナポレオン戦争のこと)に参加し西欧の自由思想にふれた貴族出身の青年将校達であった。以後ロシアにおける革命運動の出発点となる蜂起であった。蜂起はこの地とキエフでそれぞれ14日と28日に行われたがいずれも鎮圧され、579人が起訴され内五人が絞首刑となり残りはシベリアの地へ流刑となった。

三 スモーリヌイ修道院。




ネヴァ川河畔の一角に白色とコバルト色のツートンカラーの華麗でお洒落な装いの修道院と寄宿学校がある。この学校は19世紀始めにエカテリーナ2世によって貴族の令嬢達の女学校として建てられたものであるが、1917年十月革命の際には、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、10月25日ソビエット政権樹立宣言が行われた場所としても有名である。

四.マリインスキー劇場




通称マリインカと呼ばれているサンクト・ペテロブルグ随一のバレェ・オペラ劇場で、その名はモスコーのボリショイ劇場とともに世界に知られている。その紀元はこの場所にサーカス劇場が建てられたことから始まる。1859年の火災の後に再建された劇場は皇帝アレキサンドル2世の妻の名をとってマリインスキー劇場となった。淡い緑色と白色のツートンカラーの建物は美しい。ウエッジ・ウッドの焼き物で造った建物のようにさえ見える。

翌朝十時の出発でエルミタージュ美術館へ向かった。美術館は十時半の開館であるが門前には既に学童達が先生に引率されて賑やかに囀りながらたむろしていた。

国立エルミタージュ美術館




は冬宮、大エルミタージュ、小エルミタージュ 新エルミタージュ、そしてエルミタージュ劇場の五つの部分から構成されており、150年かかって完成された建築複合体である。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」という意味であるが、この建築複合体は元来、歴代皇帝の住まいであるとともに皇帝の私有美術館となっていたものを革命後国立美術館に転用し公開されたものである。

エルミタージュのコレクションは女帝エリザベータ




によって始められ、その後エカテリーナ2世は西欧から4,000 点以上もの絵画を買い集めたといわれている。現在のコレクションは三百万点に及ぶといわれ、展示は十部門に別れて展示されていて逸品揃いである。 限られた時間内に全コレクションを鑑賞することは到底不可能なので近代の西洋絵画に焦点を絞ってみて廻った。画家の名前だけを拾ってみても次のような豪華さである。

1)ルネッサンスの時代のシモーネ・マネチーニ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ビンチ、ジョルジョーネ、ティティアーノ、ラファエルロ等 
2)フランドル派のルーベンス、フランス・スネイデル等。
3)オランダ派のヴァン・ダイク、ウイレム・ヘダ、ゲラルド・テルボルフ、ヤン・ステーン、フランス・メハルス、レンブラント等
4)スペイン派のエル・グレコ、フランチェスコ・スルバラン、ディエゴ・ ベラスケス、ハルトロメ・ムリリョ、フランシスコ・ゴヤ等
5)印象派のマネ、モネ、ピサロ、ルノアール、シスレー、ドガ等。
6)新印象派のスーラ、シニャック等。
7)後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等。
8)その他ピカソ、マチス
、



カンジンスキー等

与えられた僅か2時間ほどはあっという間に消えていた。しかしながら名作の数々に圧倒されて美術館を出たときにはどっと疲労感が体内を駆けめぐった駆け足で瞥見しただけに終わってしまったが、室内の装飾や天井の絵画室内に配置された贅を尽くした調度品の数々、豪華なシャンデリア等いずれもそれぞれに故事来歴のある逸品揃いでまさに人類の至宝を集めた、再度訪問してみたい魅力溢れる美術館であった。



2004年07月29日(木) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア��】

 朝7時頃ローマのホテルを出発してポンペイ遺跡とナポリの日帰り観光に出かけた約3時間の走行の後ベスビオス火山が




見え出した。ポンベイ遺跡に近づいたようである。

 ポンペイは古くからオスキ人、サムニウム人という何れも古代イタリア人の一派が定住し、農業、商業、貿易で繁栄していた。ローマ時代には一段と発展し一世紀にはその絶頂に達したが、79年8月24、25日のべスビオス火山の大噴火により全市が噴砂と火山灰で埋没し二万人以上の住民のうち約一割の死者を出した。1738年以来組織的に発掘され、1860年以降は本格的な発掘調査が行われ現在も継続している。

都市は代表的なローマ帝国の都市の姿




をどどめており、西南部の二つの広場を巡り公共浴場、劇場、体育場、神殿、市場、バジリカ等が配されている。また、建築、壁画、彫刻、調度品などもよく保存されていて当時の文化水準や風俗、生活の実体を知る貴重な資料を提供している。

 ここで印象に残ったのは生き埋めになった人間が火山灰の中で腐敗し骨だけ残った火山灰塊を発掘し、残されていた人型へコンクリートを注入して被害者のコンクリート像を作り展示してあった姿である。説明がなければ人間がそのまま埋もれて炭化したミイラ




が残ったと思ったかもしれない。窒息死したであろうと思われる苦しそうな表情もよく再現されていた。

また路面に男根を型取って表示されている売娼宿の道標、売娼宿の狭い部屋や石製のベッド、更には部屋の壁に描かれたメニューとしての体位の絵なども残されていて人類最古の職業と言われるだけのことはあるなとニヤニヤしながら説明を聞いていた。           
 このあとナポリの町をバスで観光しナポリ港が見下ろせる丘を回った後、ローマへ向かって夕暮れせまる帰り路を急いだ。ナポリは国際的な港町で治安が極端に良くないということで車から降りることは許されず、総て車窓からの観光となった。

 海を前面に配し、ベスビオス火山を背景にして、山の斜面へ広がるナポリの町




はとても美しい景観を作り出していた。しかし近くを通りすがりに眺めた限りでは建物の壁面の剥落は激しくかなり荒廃が進んでいるなとの印象である。聞くところによるとナポリでは造船に関係して生活している人が多く、造船業の斜陽化と折からの不況の影響でナポリ市内の失業率は50%を越えているということである。そのせいで町も荒れるのであろうか。
 



2004年07月28日(水) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア�◆�

   フレンツェ、シエナ、ヴァチカン
 フレンツェで宿泊したホテルは市の郊外だったのでフレンツェ市内中心街まで暫くバスで移動したが、街道の両脇に生い茂っている笠松の並木が印象に残っている。

「総ての道はローマに通ず」という諺があるが今通っているこの道路もローマ帝国時代に作られたものであろう。総て石で舗装されている。ローマ人の統治の基本的な考え方を偲ぶ一つの文化遺産である。今でこそ日本の道路も田舎道までアスファルト舗装されているが戦後まもない頃は舗装のされていない道が過半であった。占領軍の某将校が「日本には道路予定地はあっても道路はない」と言ったという言葉の意味が思い出される。

 市内には市の条例でバスが乗り入れられないように規制されているので、指定の駐車場で下車してウフィツィー美術館へ向かった。通りに立ち並ぶメディチ家の居宅であったという豪壮な建物等に目を奪われながら歩いていくと通りの切れたところで、「オッ」「ワァッー」という感嘆の声が一様に上がった。大聖堂がいきなり視界に飛び込んできたのである。それは劇的な瞬間であった。

 フィレンツェ大聖堂




はここでもドーモと通称されているが正規の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)である。1296年アルノルフォ・ディ・カンピオが造営に着手し、ジョットー・A、ピサーノ・F、タレンティ・ブルネレスキらが次々と造営に関与して、1436年に完成した。高さ百七mの丸屋根はブルネレスキが施工し、「トスカナ全土を覆う」といわれた程の巨大さを誇った豪華な寺院建築である。堂内にはミケランジェロのピエタやウッチェロの絵等がある。

 今回の旅行の目玉の一つであるウフィッツィ美術館へ行った。
 ウフィッツィ美術館の起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ一世(1519〜74) の要請でトスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス( ウフィッツィ) のために[ 川沿いに空中に建つかのような] 二つの翼廊をもつ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。その五年後には同じくヴァザーリによって僅か数カ月で、ウフィッツィとメディチ家の住居ピッティ宮殿が繋がれ、ヴェッキオ橋の上を通ってサンタ・フェリチタ教会からボボリ庭園まで抜ける廊下が建設された。町の急所と最古の橋と権力の中枢を連結して階上を走るこのヴァザーリの廊下は世界で唯一の都市通路である。そこにはルネッサンス期のフレンツェを金融業で蓄えた豊富な資金を背景に独裁権力で牛耳ったメディチ家の面目躍如たるものを偲ぶことができる。

今日のウフィッツィは比類ない芸術遺産を誇っており、中世から現代に至る絵画や古典彫刻、細密画、タベストリー等所蔵作品は何千点を数える。ウフィッツィが優れた美術館であるのは、その見事な建築や数々の傑作によるばかりでなく、四世紀に及ぶ美術品収集の歴史が町の文化変遷と一体となって展開してきたからにほかならない。
 それはなによりもメディチ家を筆頭とする町の統治者達が美術品収集に熱意を注いできた結果である。

 ルネッサンス期の作品を重点的に鑑賞して回ったが印象強く記憶に残るのはボッチェリーの「ヴィーナス誕生」




「春」「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」




「東方三博士の礼拝」「キリスト洗礼」




ミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」、ラファエロの「自画像」
「ヒワの聖母」




「教皇レオ十世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチと枢機卿ルイジ・デ・ロッシ」、 ティツィアーノの 「フローラ」




「ウルビーノのヴィーナス」等であった。

 シニョリーア広場で見ることのできるミケランジェロの出世作「ダビデ像」




の彫刻や切り取った人間の首を手にかざす「ペルセウスの像」等も印象に残った。

 シエナの町への移動中にバスから眺めたトスカーナ地方の風物は印象に残る長閑で異国を感じる光景であった。それは、あまり高くもない丘陵状の畑がうねりながら、或いは重なり合いながら地平線の果てまで広がっているのである。糸杉が所々に立っていてこの光景にアクセントをつけている。畑は取り入れを終わって耕されたばかりのものもあれば、牧草が短く生えて緑色をしているものもある。放牧された牛の群れがのんびりと草を食んでいたりするといやがうえにも旅情をそそる。折から冬の短い太陽の日差しが我々の乗ったバスの影法師を大きく畑に写していくのである。

 黄昏近い頃やはり世界遺産に指定されているシエナの町へ到着した。ドウモを中心に広がった旧市街は小高い丘の上に纏まっており、バスから下車した位置から遠望するとここも都市国家であったことが一目で判る。

 サンタ・バルバラの要塞、カンポ広場
、



大聖堂等を見学した。
 大聖堂は千二百年代に建築家ジョバンニ・ピッサーニによって建設されマリアのために捧げられたゴシック様式とロマネスク様式の見られる教会である。一見して特徴的なのは建物に横縞模様が取り入れられており、アラビアの影響が入っていることである。このような様式をピサ様式というとのことである。
 シエナ人はプライドが高く、フレンチェへの対抗意識が強くフレンチェの大聖堂よりも大きなものに建て替えようと計画したが、黒死病の蔓延で計画は頓挫し、外壁と建設予定地だけは当時のまま残っていて現在は駐車場に転用されている。
 シエナは創設時から銀行業で成り立っている町で現在も市民の半数以上が銀行に係わる仕事に従事しているという。またシエナに本店を置く銀行は海外のどの支店であっても必ず一人はシエナ人を派遣している。
 早朝シエナのホテルをバスで出発し、230kmを長駆して一路ヴァチカンへ向かった。ヴァチカン美術館の圧巻は何といってもシスティーナ礼拝堂である。
 特にミケランジェロがユリウス二世(在位1530〜1513) の依頼を受けて25年以上の歳月をかけて完成させた天井画は壁面に積もったほこりと油煙を洗浄する修復作業が1980年に開始され、最近終了したばかりでその鮮やかな色彩を回復していた。
この天井画は中央に創世記の九つのエピソードを描いている。即ち「闇と光の分離」「太陽と月の創造」




「大地と水の分離」「アダムの創造」「エヴァの創造」




「原罪と楽園追放」「ノアの泥酔」「大洪水」




「ノアの燔祭」がそれである。
 九つの創世記物語を取り囲んで八つの三角枠にはマタイによる福音書に則って、キリストの祖先達が描かれ、四つ角の扇型の枠の中には「ユディットとホロフェルネ ス」(ユディット記)、「ダビデとゴリアテ」(サムエル記),「青銅の蛇」(民数記)、「ハマンの懲らしめ」(エステル記)が描かれている。
 天井を仰ぎみていると首が痛くなるのだが、痛さを我慢して暫く見とれていた。
 祭壇側の壁面には「最後の審判」




の大壁画が飾られている。

  これは天井画を完成させてから20年以上も後の1536年に制作を開始し1541年に完成させたものであるが、制作を開始した時ミケランジェロは60才の老齢であった。
殆ど四百人近い人々がうごめくこの壮大な構図の中心は、審判者キリストの姿であり、その周囲を構図全体が回転しているように見える。キリストの隣にいる聖母だけが、苦しみを甘受するポーズで、すべての人を巻き込んで動いている上昇と下降の渦巻き運動から免れているように見える。鑑賞者を圧倒してやまない傑作である。
 署名の間に飾られているラファエロの「聖体の論議」「枢要徳と対神徳」「アテネの学堂」「パルナッソス山」、ヘリオドロスの間のラファエロ作「ペテロの解放」等もルネッサンスの巨匠の作だけに見飽きぬものであった。
 ヴァチカン美術館でこのほかに印象に残っているのはタベストリーのギャラリーに展示されていた




「復活」と題するラファエロの新工房作のタベストリーである。これは中央に右手を上げて立つキリストの左足の爪先と視線が鑑賞者が移動するにつれて向きを変えて追っかけてくる現象であった。タベストリーの糸目の起伏が光線の反射と相まって作り出す物理学的には説明可能な現象なのであろうが、神秘的な神の意志のようなものを感じて慄然としたのを覚えている。



2004年07月27日(火) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア��j】

  ミラノ、ベネツィア、ラベンナ
                  2001.11.14〜2001.11.22                      
 ミラノでは最初にスカラ広場へ行った。以前にも来たことがあるので目に馴染みのある光景が広がっている。スカラ座とマリノ宮、エマニュエル・アーケード、市庁舎が広場を囲んで建っていて、広場の中央にはレオナルド・ダビンチ像が建っている。

 オペラ歌手の世界の檜舞台であるスカラ座




はベローナからきたスカラ家がサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を先ず建てその跡地に建てられたものである。1778年に開場し数多くのオペラの名作が上演されたことで知られている。

エマニュエル・アーケード




は建築家ジュゼッピ・マンコーリによって建てられたドーム型の天井を中央に持つアーケードで文化人のサロンにすることが目的であった。 天井中央部の絵画の装飾が素晴らしい。今ではこのアーケードには商人が入って店舗を開いているがカフェも多く昔のサロンの名残をとどめている。

ミラノの大聖堂




は通称ドーモと呼ばれ1386年にシャンガリアッチ領主の命によって建設が開始され、およそ500 年かけて完成されたゴチック様式の教会である。総大理石作りで建物自体目を見張る程の豪華さであるが、とりわけ有名なのはキリストが磔り付けにされた時に使われたという釘が天井に吊るされていることである。釘を管理するためのゴンドラまでが特別に作られて吊るされていた。聖なる釘の日として9月14日には儀式が行われる。ゴチック様式では世界で第三番目の大きさを誇り四万人が収容できるという。面積は111,700m2である。フランスのナボレオン一世は1805年にここで戴冠式を行った。

 ミラノ市の人口は137万人でイタリア第二の大都市であり経済の中心地である。 昼食にエマニュエル・アーケード近くのレストランに入り、貝入りのスバゲッティーを注文して食べたが勘定に時間がかかって集合時間に遅れてしまった。しかも初めてイタリアの通貨を使用したので桁を間違えて56,000リラのところを五万リラ札一枚と一万リラ札6枚で計11万リラ支払ってしまうというチョンボを犯してしまった。時間に追われていたので札の数字を落ちついて確かめなかったのが災いした。このことに気がついたのは、後刻別の店でミネラルウオーターを買おうと思い財布を取り出しその中身が意外に少ないのを不審に思った時であった。会計係がいかにも嬉しそうな顔と手振りで「アリガトウ」を連発していた意味がやっと飲み込めた。チップをはずんでくれたと彼は理解したのである。 

 ヴェネチア




は118 の島を連ねて,その上に建設された市街地で,運河が縦横にはしり160の運河、400 の橋、ゴンドラ等で知られる水の都である。中世にはオリエントとの貿易で栄えジェノバとともに地中海貿易の重要な拠点であった。

 最初にアカデミア美術館を訪問した。この美術館は1500年代にヴェネチアの信仰団体の集会場として建てられたものが美術館として転用され保存されたものである。

 ベネチァの豪商達が贅を凝らして営んだ集会場だけにその建物内部に使用されている建築素材や金を多用した装飾の豪華さには目を見張るばかりである。

 この美術館にはベネチア派の作品が数多く展示されており、その特徴は華麗な色彩と豪華な官能美にあふれていることである。この派の確立者はベリーニ一族である。ベリーニの後ジョルジョーネ、ティティアーノ、バルマ・ベッキョ、ティントレット、ベロネーズらが輩出して15〜16世紀に黄金期を迎えるのである。

 ジョルジョーネ作「火の試練」




 ルネッサンスの三大画家と言われるティティアーノ、ティントレット、ベロネーズの作品をはじめ、ロレンツォ・ロット、ベルナルド・ロッチ、ピェコロ、カルバッチョ等の名作の実物を間近に鑑賞することができ至福の一時を過ごすことができた。

 アカデミア美術館に名残惜しみながらベネチアグラスの工房を訪問した。職人が長い棒の先に付けた高温のガラス素地を吹いて膨らませ、ぐるぐる回転させながら器用な手つきで容器の形に作り上げていく工程はとても面白い光景であった。赤色のベネチアグラスが最も高級品で材料の産出が少ないので海外への輸出はされていないというのは初耳であった。赤色の発色に金が使われているらしい。

 監獄へ通じる橋を「溜め息橋」というが、ガラス工房の入り口から眺めることができた。

 この町には自動車や自転車が一台も走っていないし、その姿すら見かけない光景が珍しいと思った。通路も狭く運河を船で往来するか歩くしか交通手段のない町であり自動車出現以前の町の雰囲気を体験するにはうってつけの町である。

 サン・マルコ広場はさまざまな国からの観光客で混み合っていた。同時多発テロ以降観光客の数が激減したということであるが(筆者が訪問したのはテロ一ケ半後)、それにもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。流石に世界一流の観光地である。

 ここで目についたのが広場のそこかしこに高さ50cm位のところに畳一枚程の大きさの板が通路状に張りめぐらされていて、広場には水溜まりが出来ていることであった。満潮時には常時このような状態になり、大潮の時には40〜50cmにも水嵩が上がり広場全体が水浸しになるのである。2日前には最大2mも上がったという。

 近代化の過程でベネチア近郊の工業地帯で地下水を汲み上げ過ぎたため地盤沈下が起こったことと近年の地球温暖化の影響で海水の水面が高くなってきているせいだと考えられている。近い将来ベネチアの市街地は水没してなくなってしまう運命にあるようである。

 サン・マルコ寺院




の内部まで床上浸水に晒されていて足場板が設けられていたのは痛々しい限りであった。広場に溜まった水が侵入してくるのではなくて、寺院内部の床下から敷石の隙間を縫って浸水してくるということだから地盤沈下の激しさが窺われる。

 このあとゴンドラに乗って市内を運河側から観察した。これはいわば町や建物の裏側を観察することであり、台所とおぼしき窓や物置部屋らしい壁面等が続いている。そして一階部分の部屋は使われていないものが多い。壁面の塗装ははげ落ち補修もされないまま放置されている建物が多い。窓に板を打ちつけて建物の過半が空き家になっていると想定されるアパート等も散見された。浸水が進んで住民が逃げ出している様子が窺われる。
 ガイドに聞いた話であるがベネチアの町の住人の三大高所得階級は「あさり貝取 り」「ゴンドラの船頭」「ガラス職人」であるというから現在のベニスの町の特徴をよく語っていて面白いとおもった。
 昼食後長駆バスでラベンナの町へ向かった。

 ラベンナの町は六世紀頃形成されたこじんまりとした町である。ここではビザンチン様式のサン・ビターレ寺院




を見学した。集中式と言われる建築様式に特徴があり、ステンドグラスが窓に使われるようになるまで多用されたという「太陽光を透過するアラバスター」の板が窓にはめ込まれていた。そこから射し込んでくる微かな淡い明かりと暗い教会内部に集まってきて敬虔な祈りを捧げる信徒の群れを想像したとき中世の信仰生活の様子が偲ばれて感慨一入であった。

 この町で神曲を書いたダンテの墓廟




が残されている一角があった。町自体静かな佇まいで旧いものが大切に残されて現代人の生活とよく調和している町であり、三ケ月位住んでみたい町であると思った。この後、夕なずむ道をバスでフレンツェへ向かった。 


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