| 2004年08月15日(日) |
【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ�◆� |
平成9年12月25日(木) 昨日空港からホテルまでに利用したタクシ−の運転手の正典さんがオアフ島の一周観光に連れていってくれることになっている。彼は日本人の母と韓国人の父とを持つハ−フの二世でかたことの日本語が喋れる。ゴルフもうまいらしい。8時半にホテルへワゴン車で迎えに来てくれた。見ると昨日のオンボロの車とは違ってピッカピカのリムジンである。一同リッチな気分になり、満足している様子が窺える。
乗るのはS、O、H、K、小生の五人の組である。ダイヤモンドヘッド、ココヘッド・サンデ−・ビ−チ,ハナウマ湾ハロナ潮吹き穴マカプ−ビ−チ、ワイマナ・ビ−チ、カネオヘ湾、チャイナマンズハット、クアロアビ−チ、カワウアビ−チ、クラウチングライオン、ハウウラビ−チ、ポリネシア文化センタ−、タ−タル・ベイヒルトン・カントリ−クラブ、ワイアレアビ−チ、サンセットビ−チ、ワイメア・ベイ・ビ−チ、曙の生家、ド−ルパイナップル・パビリオン 、
パ−ルハ−バ−、アリゾナ記念館と巡って市内へ入り、カメハメハ王の像、イオラニ宮殿等を見てオアフ島の主要な観光スポットは一通り見たことになる。たまたまクリスマスの日であったため、ポリネシア文化センタ−とアリゾナ記念館 には入場することが出来なかった。
タ−タル・アイランド・ヒルトン・ホテルでバイキング形式の昼食を食べた。ビ−ル込みで22ドル。ここのレストランはそれなりに高級感があって値段もリ- ズナブルであるし寛げると皆が言っている。次回来る人達のためにも推奨できる店であろう。夕食はワイキキのレストランで17ドル。
パ- ルハ- バ- では丁度生理的要求が嵩じてくる頃であったが、クリスマスのため店は休業のところが多く、まさか立ち小便をするわけにもいかず手洗いを捜すのに苦労した。暫くの間、まるで手洗い捜しのドライブをしているようなものであった。
運転手が思い出して公園の手洗いへ連れていってくれたが、鍵がかかっていて入れないなどということを四〜五回繰り返して、やっと開店しているホットドッグの店を見つけた。我先にとトイレへ駆け込んだ。大の大人が多勢レストル- ムを無料使用しただけとあっては大和男児の名折れになると判断した智恵者がポテトフライを一人前購入してチップを多めに支払い、片言英語で感謝の意を表明してことなきを得た。このポテトフライが夜半、部屋での酒盛りのつまみとして威力を発揮するとはその時誰も思っていなかった。
なにしろこちらの連中の一人前の量はとてつもなく多いのである。 4時半頃ワイキキへ戻ってきて240 ドルを正典氏に支払った。一人当たり48ドルの負担であった。 平成9年12月26日(金) 正典氏の段取りでKAPOLEI ゴルフクラブでキャディなしのゴルフをした。
6時半に正典氏がリムジンで迎えにきてくれたが朝食も弁当とコ−ヒ−を買ってきてくれた。朝飯の弁当は4ドルであるが、ハムとスクランブルエッグがおかずについており、ハワイにもこんな美味い米があるのかと感心するものであった。
このゴルフコ- スは、女子全米選手権大会の行われる名門コ−スらしい。O、S、H、小生の4名で行い、スコアは小生58、52、H47、54、O55、45、S60、55であった。三人ともゴルフバッグを日本から持参しての用意周到さであったが、生来ゆきあたりばったりの生活習慣が何時までも直らない小生は手ぶらである。幸いなことに運転手の正典氏が自分の道具と靴まで貸してくれることになり、これが私の体型にうまくフイットしたものであった。残念ながら成績のほうは100 を切ることができなかった。人間とは勝手なものでスコアが纏まらなかったのは借りたクラブのせいであると自らを慰めているのである。終了後ショップに寄ってそれぞれに太陽のマ- クの入った帽子やらゴルフウエアを記念に買った。
昼食はゴルフ終了後、正典氏の案内でウエステリアという韓国系の寿司屋で寿司を食べたが美味しく21ドルであった。地の利を知った現地人に案内して貰うと安くて美味い店に出会えるという教訓である。正典氏と別れて、夕食はプラザという所へ飛び込んで、焼き肉を食べたが一人ビ- ル込みで32ドル。値段の割りには大したことなく観光客相場であしらわれたという感じである。ゴルフは一人155 ドルの分担で内訳はプレ- 費130 ドル、交通費チップで25ドルである。
平成9年12月27日(土) 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。
午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。
| 2004年08月14日(土) |
【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ� � |
アメリカの旅2 ハワイ 1997年12月23日〜1998年1月4日
平成9年12月23日(火) 天皇誕生日で祝日。会社を卒業してからは毎日が日曜日なので、祝日の有り難さがピンとこない。
いよいよ明日からハワイ遠征である。携行品に若干不足するものがあるので家内と綱島へ買い物に出掛けた。毎日一万歩以上歩くことを日課として実行してきたが昨日京都から帰ってきたばかりで、まだ今日の日課をこなしていないので昼時にもかかわらず、腹があまり空いていない。しかし規則正しい生活を心掛けているので、昼飯を抜くことも主義に反する。なかば義務感に命ぜられて、大王ラ−メンに寄り味噌ラ−メンを食べる。われわれの世代には育ち盛りに食料不足で難儀をした情けない体験が脳裏に奥深くインプットされているので食べることには貪欲で意地汚いところがある。きちんと三食食べておかなければという意識が本能的に働くのであろう。そのため飽食の時代にあってはついつい食べすぎてしまい血糖値を心配しなければならないという羽目に陥るのである。
この後、本屋でハワイについてのガイドブックを買った。京都へ置きわすれてきてしまったので二冊目になってしまった。出版社がダブラナイように昭文社のものにした。あとサングラス、緩下剤、風邪薬、日焼け止めクリ−ム、フイルム6本を買った。娘の志奈が卒論の提出期限を控えて神経過敏になっているが、それでも婿と一緒に家内と飼い猫とうち揃って壮行会を夕食時にやってくれた。もう一度手荷物の点検をして下着や上着類を出したり入れたりした。アロハシャツが正装の国と聞いているのでス−ツは不用かとも思うが、公式行事のときに背広がなくて困るのも癪なので紺のス−ツを着ていくことにした。紺であればスク−ルカラ−でもあるから無難であろう。セ−タ−はス−ツに合わせて淡い水色のものである。当日寒ければ、薄手のダスタ−コ−トを羽織って行き、空港で携行品のなかにつっこむしかないだろう。旅なれた人は外套を着ていき空港内の貸しロッカ−へ預けたままにしておいて、帰国したとき期限超過で領置されているのを反則料金を支払って返して貰い平然としているとも聞いたが、私の規範意識はそれを許さない。要領が悪いのは生来のものだから致し方のないところだ。
志奈から贈られた水彩絵具にもなる色鉛筆セットも荷物に加えた。M先輩の画集に触発されて旅先の思い出を絵にかきとめておき、俳句でも書きそえておけばいい記念になるだろうという考えからである。
ビデオカメラを持っていくには家内と論争があった。家内は旅先まで重いものを持ち運ぶ人の気が知れないと言い、景観は自分の目で直接見、脳髄に焼き付けておいてこそ時間の経過とともにその景観は美化されるし、レンズというフイルタ−を通して見るより真実が見えるというのである。それも一理だと思う。が私には記録をビデオに残しておいて、これを編集してみるのも楽しかろうし、絵の題材として蓄えておいて、後日、場面を再現し、当時を追体験しながら絵筆をとる楽しみのためだという主張があるのである。そんなわけで、わが家には夫婦旅行の時にはビデオカメラを携行しないという黙契がある。しかし今回の旅にはビデオ撮影蔑視論者が不在なので、ビデオ撮影という楽しみが倍加されることになるであろう。それにしても荷物を出したり入れたり、まるで幼児の遠足前夜のようなものだ。 平成9年12月24日(水) Hさんと午後4時31分発の成田エキスプレス35号に乗るため、横浜駅で待ち合わせしているので3時半に自宅を出る。家内に車で鶴見駅まで送って貰うことにしていたが、ひどく道路が渋滞しているので、なかなか鶴見駅へ到着できない。たまりかねて水泳教室の前あたりで降りて鶴見駅まで歩いた。
横浜駅へは既に団長のHさんが来ていた。Hさんは夏服のカジュアルな背広姿でコ−トなしで襟巻きをしていた。冬支度の自分の服装のことを思い失敗だったかなとの思いが頭の中をかけめぐる。予め入手しておいた成田エキスプレスの切符を手渡し代金4180円を受け取る。成田までの道中、ハワイ遠征実現に至るまでのHさんはじめ関係各位の苦労話を拝聴した。
思い出してみれば、入学して間もなく端艇部に入部し、学部対抗レ−スが終わるまでは石山の合宿所に寝泊まりし、皆さんと一緒にランニングしたりバック台で汗を流したりして、真面目に練習に精出していたと思う。その後エッセン・マネ−ジャ−という役割を貰いながら、アルバイトや勉強にかこつけて何時しか部活動から遠のいていた。そして卒業、就職とボ−トとは関係のない生活が三十年ばかり続いた。そんな私がY寮の寮生でありまた端艇部の部員でもあったN・K彦君のあまりにも早すぎた逝去の報に接し、通夜の席へ駆けつけたのである。その席で昔懐かしい面々に再会したのが私とボ−トとの復縁であった。短い期間ではあったが、半年ほどはボ−ト部に在籍して練習をした事実があるのだから、私も仲間に入れて欲しいと懇願したところ、気持ち良く認めて頂き、飲み会や濃青会の会合に参加できるようになった。その後、T大戦にOBも出場しようではないかという話が持ち上がった。戸田で始まった第一回目の対T大OBレ−スでは、練習豊富なT大に惨敗。この時は応援に駆けつけて声を限りに声援した。人数が足りないから、お前も漕げと言われていたが漕ぐ自信がなかったので辞退した。なにしろ学生時代には専らフィックスで練習し、エイトには三回ほどしか乗った経験がなかったのだから。
初めてのT大OB戦に惨敗したことがN氏、H氏の両氏を始めとするOBの負けじ魂に火をつけた。第二回目の瀬田川におけるT大戦を目標にして関東在住のOBが鶴見川に月一回集まって練習を開始したのである。この練習に私も参加して漕がして貰った。なにしろ還暦近い年の素人が歴戦の元名選手達に伍してエイトを漕ごうというのだから考えてみれば無茶な話である。しかし、この無謀な申し出に嫌な顔をせずに受け入れ、親切に指導してくれるのが抱擁力の大きい我が漕友達の良いところである。イロハのイの字から教えなければならない遅れてきたボ−ト部員である小生と一緒に漕いだ諸兄のいらいらと苦労が手にとるように私にはよく判る。ボ−トへ乗るときの足の置き場、バランスをとる時のオ−ルの支え方といった基礎の基礎から教えなければならない漕友諸兄の寛大な友情に感謝するところ大である。御陰で二回目対T大OB戦でも三回目T大OB戦でも漕がして貰えることができた。そして今、ハワイ遠征チ−ムに加わってホノルルのアラワイ運河でボ−トを漕ぐべく日本を飛び立とうとしているのである。まさに楽しきかな我が人生の一語に尽きる。
飛行機はインタ−コンチネンタル・ミクロネシア航空の908便で19時50分発であるが、集合時刻の17時50分には成田エキスプレスの到着時間の関係で7分遅れることになっている。第二空港ビルで下車してミクロネシア航空のカウンタ−は簡単にみつけることが出来たが、色々なツア−があって紛らわしい。年末年始を日本から脱出して海外で過ごそうという人達で空港はごったがえしている。ホノルル行きオンリ−という窓口で並びやっと順番がきて、持参した案内書を見せるとアミュ−ズツワ−はこの窓口ではなくて4〜5個左の窓口だという。言われてみると成る程、アミュ−ズツァ−という張り紙をした窓口が別にあった。おなじ航空会社のハワイ行きでも何種類も窓口があるのだから紛らわしいことこの上もない。思わぬところで無駄な時間を費やしてしまった。我々二人が最後の搭乗者らしいことがすぐわかった。チェックインが始まっているから至急出国手続きをしてくれと我々を待ちかねていた係員が慌ただしい口調で言う。釣られて多少慌て気味に小走りになる。出国手続きを終えて免税売店で日本酒を二本買った。月桂冠と白鹿である。代金は各1900円である。多少免税分だけは安い筈だ。今は免税の酒もそれほど安いという感覚がなくなった。ひと昔前は台湾へ行くのに、高級な酒は台湾にはないというので羽田空港で免税のコニャックや香水を限度一杯買って機内に持ち込み、ボンドと称して台湾空港預けにしておいて帰国するとき再び持ち帰るなどという馬鹿らしいことをしたのが嘘のように思いだされる。当時に比べ、それだけ国際化が進展したということだろうか。
搭乗してから無事離陸するまではいつものことながら落ち着かない。離陸して水平飛行に移ってはじめてほっとする。
機中で寝ようとつとめるが二時間ほどうたたねをしただけである。機内食には御飯付のシ−フ−ドを選択したが貝の白ソ−ス和えであった。量は少なかったがスコッチを貰って飲みながら食べると美味しく感じた。ま、味は良いほうだろう。機中時間は約七時間で二回目の軽食を食べたら間もなくホノルル空港に到着した。現地時間7時5分に着陸した。 入国審査のゲ−トにはH氏が私より先に入ったが何故か手間どっている。審査官は若いハ−フの黒人女性だが緑色の標識を掲示して通訳の応援を求めたようである。目の前でやりとりしているのだが、距離があるので何を話しているのかはよく聞き取れない。だが途切れ途切れに聞こえてくる単語にマヒヤと聞こえる。どうもマヒヤと疑われたらしく時間がかかっていたが通訳が来てやっと解放された。後で聞いてみると入れ墨はあるかとか手の指に欠損はないかということをしきりに聞かれたという。何年会社に勤めたかというので35年勤めたと答えたら、そんなに長くかとびっくりした表情になってパスしたということであった。
空港をでたところで後発隊のS氏、K氏、O氏等三人の到着を待つ。彼らはユナイテッド航空である。彼らが到着してからほどなく学生陣15名が到着した。オ−ルは関西空港から積み込んだということであったが、これも同時に着いていた。
学生達は無愛想で無口である。親の躾が出来ていないのか、或いは先輩達が教えないのか我々が迎えに出ているのに、只今到着しましたともお出迎え有り難うございますとの挨拶もない。流石に会釈だけはしたようだが人間社会で初対面の時には訓練されていない学生といえども、それなりに言葉での挨拶が必要なのではなかろうか。我々Y寮では先輩達から寮生同志が顔を合わせたら先輩後輩にかかわらず互いに「オッス」と言葉にして挨拶をしようと教えられたものである。オッスの中には若い男達が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っている「若い元気な男達である」という意味を込めて取り交わす挨拶語であると教えられ、素直にそれを実行したものである。ボ−ト部でも確か「オッス」は挨拶語として通用していたと記憶しているのだが・・・・
暫く待つうちに予ての手配通り、運送会社のトラックがオ−ルを運搬にきてくれたので一同はタクシ−に分乗してハワイアン・モナ−ク・ホテルへ到着した。午前中であったがチェックインできた。部屋代の前払いとして780$(3人分)を支払った。S氏H氏、小生の三人一室の12月24日から1月5日までの部屋代である。これは一泊当たり20ドル(2,600 円)である。ほかに税金4.17パ−セントが加算されることになる。この日、ホテルの近くのシッツラ−という24時間営業のステ−キハウスで3ドル99セントの定食の海老フライを食べ、バドワイザ−で合宿入りの乾杯をした。OBは学生達に余計な干渉をしないようにしようということで滞在中全て学生達とは別行動である。
昼食後、ハワイは三回目だというOさんのガイドで皆一緒に、アラモアナのショッピングセンタ−をうろつき、ワイキキビ−チ を廻って帰った。日本で予想していたよりもあったかくまさに常夏の国である。
夕食にはロイヤル・ハアイアン・ショッピングセンタ−の中にある北京という中華料理屋で夕食をした。28ドルの料理。学生諸君接待のための下見の意味もある。時差を計算にいれると一日が43時間もある長い一日であった。夜は暑いけれど疲れのせいもあって、ここちよく寝られた。明け方4時半に目がさめてシャワ−を浴びたところ水が止まらなくなってしまった。同室の相棒は熟睡しているし、勇を皷して受話器をとりブロ−クンの英語で見に来て欲しいと言ったら通じたらしく、しばらくして係員が見にきてくれた。しかしパッキンが磨滅しているらしくやはり止まらなかった。そのままにしておいて翌日修理することになった。
| 2004年08月13日(金) |
【車社会の西海岸とグランドキャニオン・・アメリカ�◆� |
サンディエゴ市は人口116万人で全米6位、西海岸ではロスアンゼルスに次いで2位である。ここはアメリカ西海岸では気候条件が一番良い場所で、花の栽培が行われている。気温は夏24度冬17度で湿気が少ないというから住んでみたい魅力ある街の一つである。第11艦隊の根拠地でもある。コソボ紛争で出動しているのか艦船の数は非常に少なかった。
ここへ来る途中、ロスアンゼルス市は丁度出勤時間帯であったが市内を歩いている人は皆無で道路が車の洪水であった。まさに車社会である。
車社会であるということが幾つかの風俗にも現れる。一つは通勤のために街中を歩かないからお洒落をする必要がなく、ブランド品を携行する必要がない。また仕事が終わってからは自宅へ直帰するので、帰路同僚や友人と一杯飲んで付き合うという習慣もないから飲み屋がない。
通勤時の車の混雑を緩和するため、車の相乗りを奨励する目的で2人以上乗っている車の優先道路がカープールレーンと称して設けられていてスイスイ流れている。しかしこのレーンの取締りは厳しく一人乗りの車が進入してくるとペナルテイーを5000ドル取られるという。片道八車線の高速道路を一杯に走行する自動車の群れは実に壮観である。
アメリカ人は土地や家に対する執着は薄く、気楽に住居を売り払い、住環境のよい場所へ移住する。土地の広さが値段を決めるのではなく環境が値段を決めるということである。例えば洗濯物を窓際へ干したり屋外で干すような人が住む所や庭の手入れをしない人が住みだした所は地理的条件が良くても値段が下がるという。
サンディエゴを後に、国境を歩いて越えてメキシコ領ティファノに入った。アメリカからの出国には審査手続きは不要だが、反対にメキシコから入国するときには不法入国の厳しいチェックがなされる。物価の安いメキシコへはアメリカから買い物に出掛ける人が多く、逆に好景気のアメリカへは仕事を求めて越境するメキシコ人が多い。そこで不法入国者のチェックが厳しいのだそうである。それでも不法入国で一日に900 人の逮捕者がでるというから国境を境とした経済格差の大きさがよく判る。
ティファノで乗った黄色のバスは相当の年代物で窓ガラスなどはひびのはいっている所もあったが座席のシートカバーだけは新品で綺麗だった。連れていかれたレストランでのタコス料理は食べられない人が多かったようだがテキーラベースのマルガリータだけは口あたりが良くお代わりをする人もいて好評であった。マリアッチを演奏する楽団がきて演奏した。それにしても道端の行商人の掛け値のでたらめさ加減はひどいものだ。最初50ドルだった銀の首飾りが三本10ドルまでに値下がりするのである。
サンフランシスコに到着して直ちに名物のケーブルカーに乗って終点のフィッシャーマンズウォーフ まで行った。
それからアルカトラス島
へ遊覧船で渡り監獄の跡 を見学した。アルカポネもここへ収監されていた。前回に来たときにはこの島の一般公開は行われていなかったと思う。
ゴールデンゲイト
翌朝早く出発してヨセミテ公園へ向かった。空はどこまでも青く、雲ひとつなく爽やかな空気である。ベイブリッジを渡り、ラッシュ時の車の流れを眺めながら走行する。サンフランシスコのラッシュは三段階に分かれる。ニューヨークとの時差が三時間あるから、ここでの朝は早い。先ず株式関係の人のラッシュが六時頃始まりこれに二時間ほど遅れて一般通勤者や学生群のラッシュ、これにやや遅れて商店主等の自営業者のラッシュというわけである。従ってここでは夕方のラッシュアワーも二時頃から始まる。
やがて風力発電機の風車 が山の上に林の如く設置されている地帯を通り抜けた。一万七千基の風車が設置されており、サンフランシスコ市一年分の電気が発電されているという。ちょっと変わった光景で日本では見ることが出来ない。暫くいくと農園地帯で果物の栽培が多い。いちご摘みの労働者の労賃が時給で6ドル80セントで、全カルフォルニアにいちご摘み労働者は一万七千人いるという。この国の農業は分業制になっていて種を撒く会社、耕す会社、収穫をする労働者というようになっていて、メキシコからの出稼ぎ労働者が多い。ところが経済格差があるものだから彼らはそのまま住み着いてしまうので政府としては頭の痛いところである。流入を規制してしまうと米国農業がたちいかなくなるのである。
ヨセミテとはインディアン語で灰色熊という意味である。ここには年間300万人が観光に訪れるそうだ。樹齢二千年のセコニアの木が枯れるので電気自動車での観光を検討中であるという。
広大な公園の山中を走行中、山火事にあった一角を通り過ぎた。相当広範囲に焼け焦げた立木が並んでいた。この山火事の時には延焼防止対策だけで消火活動は一切せず、自然鎮火に任せたという。いかにも広大な国土を保有しているアメリカならではのおおらかな発想だと感心した。
切り立った断崖エルキャプテン、ハーフードームや女性的な滝ブライダルフォール、雄大かつ豪快な滝ヨセミテフォール 等を見学。コヨーテを見ることもできた。高原のせいかとても涼しく空気が爽やかである。それに木々が芽を一斉に吹き出し緑が濃淡さまざまに色鮮やかであった。
| 2004年08月12日(木) |
【車社会の西海岸とグランドキャニオン・・アメリカ� � |
アメリカの旅 ラスベガス、グランドキャニオン、ハリウッド、サン・ディエゴ、ヨセミテ
1999年4月19日〜4月25日
機中で目が覚めると、窓から朝日がさしこんでおり、23年前初めてアメリカへ飛来した時発見して、とても印象の強かった真円形の田圃が何枚も眼下に俯瞰できて懐かしい。サンフランシスコの上空を通りすぎた辺りなのだろうか。赤みがかった黄色の真円形もある。今は冬枯れの影響が残っているため緑が少ないのだろうか、そうこうしているうちに景色が変わった。ラスベガス上空らしい。砂漠と禿山が続きやがてゴマ塩を撒いたような山に変わる。自然の脅威を感じる地球の肌の姿、形である。
ラスベガス空港に着陸し、土産物屋でブラック・ジャックの遊び方の講習を受けた後、19人乗りのプロペラ機に分乗して約1時間10分の飛行予定でグランドキャニオンへ向かった。大地が割れて不毛の渓谷 が広がっている。実に無辺広大である。飛行機が絶えず揺れるので、覚悟を決めてはいるが、大きく揺れる度に冷や汗が出る。ロッジへ入り汗を流した後、夕食前にブライトエンゼルポイントでサンセットを見た。断崖の凹凸をなす岩肌の陰影と光り輝く部分とのコントラストが実に綺麗だ。
翌朝四時半にモーニングコールがあり慌てて身支度をした。バスでポピーポイントまで行って日の出を待つが、四月だというのに冬の防寒コートで身を固めているにもかかわらず動かないので身震いする程寒い。20分程待つうちに東の空が次第に明るんできて、渓谷の岩や土の色が変化していくのが判る。今まで暗くて闇だった所へ岩が次第に形を現してき、空が次第に赤みを増してくるうちに朱色の太陽が顔を覗けた。裸眼では眩しくて見ていることができないがビデオカメラを通して眺めていると太陽が渓谷の上に刻々姿を大きくしていく様は実に感動的である。
グランド・キャニオンはアリゾナ州北西部にあり、コロラド川 がコロラド高原を浸食して出来た大峡谷で長さ450km、幅7〜30km、深さは所により1500mにも達する。断崖、緩斜面、岩棚等を作っていて、上部は石灰岩、砂岩、頁岩などの水成岩が走り、下部は花崗岩、変成岩からなる。地層毎に赤、茶、紫、黄、白、緑等様々な色彩を示し、朝日・夕日に照らされた光景は実に壮大である。地質的には、先カンブリア代(約46億年前〜約25億年前)から古生代(約5億7000万年前〜約2億4000万年前)にわたり、自然の地質博物館の感がある。
再び小さな飛行機で肝を冷やしながらラスベガス市内へ戻ってきた。今夜の泊まりは南国の樹木が生い茂るトロピカルホテルで市内の目抜き通りにある。館内にはスロットマシン が沢山並んでいるしブラックジャックやルーレットの台が所狭しと並んでそれぞれに人々がたむろしているので迷路のように位置関係が分かりにくい。
夕食後市内中央部のタワーに登り名物の夜景を見物した。見下ろすと起伏に乏しい砂漠の真只中の町であることがよく判る。街中均一に明かりがついて四方に広がっている光景は大自然と人間の戦いを偲ばせてえも言われぬ感動を覚えた。
夜10時から僅か5分間だけ行われるフリーモントストリートの蒲鉾型の大きな天井をスクリーンとするエクスペリアンスという多彩な光線のショーを群衆の中で見学した。潜水艦が遭難してこれをヘリコプターが救出するというストーリーであるが、海底の魚やら鳥賊等の生物が次々に出現し動き廻るなかなか迫力のあるショーであった。
ラスベガスは豪華で大規模な新しい高級ホテル がそれぞれにテーマを演出して、犇めきあっている時計のない歓楽の街である。ニューヨークの街並を模して自由の女神が佇立しているホテルやとんがり帽子の屋根が色とりどりに沢山ついたお伽の国のホテルとか黄金のライオンが館前に佇む全館緑一色で世界最大のグランドホテルやピラミッド型の建物にスフインクスを配したルクソールホテルなど見ているだけでも楽しい光景である。
ラスベガスからロスアンゼルスへ飛んだ。23年前にロスアンジェルスの高速道路を走っていた乗用車の洪水は大型車が過半で小型車はまだ少なかった。その時は、第一次オイルショック後3年になろうとしているのに流石、大資源国の車社会はスケールが違うな思ったものだが、今日見るアメリカの道路には大型乗用車は殆ど走っておらず、中小型車ばかりでしかも日本製が非常に多い。資源節約という地球的規模のキャンペーンが功を奏しつつあるのか、日本車の品質の信頼性と経済性のなせるところなのであろうか隔世の感がある。
マリリンモンローが葬られているウエストウッドの墓地へ行った。共同墓地の壁の一隅50センチ角内に往年の大スターが葬られていて、元夫のディマジオの死んだ今では花のとぎれることもあるらしい。栄枯盛衰を如実に実感させられる墓地であった。
西ハリウッドの街を通過するとき虹色の旗を掲げた一角を通過した。ここは同性愛者達が多く住む街である。カルフォルニアでは同性愛者同志の結婚が認められているし、子供のできない彼らは商店やレストランにとっては良い顧客なのだという。知的で有能な人が多く所得も高いのだからそういうことになるのだろう。それにしても倒錯した性に生きる人達とはどんなパーソナリテイーを備えているのであろうか。普通の風俗で衣装も話方も普通の男と変わらないというから不思議だ。
| 2004年08月11日(水) |
【ナイヤガラの滝と錦繍のメープル街道・・カナダ�◆� |
翌朝は400kmを五時間の予定でケベックシティへバスドライブである。州道40号沿いの紅葉は素晴らしかった。特に赤、橙、黄、緑と四色に色づいているのがよい。概ね山並みは女性的であり、メープル街道は全山此れ錦繍という感じであった。
ケベック州の州都ケベックシティは、フランスの植民地拠点として建設された。カナダでもっとも歴史のある町で古くからイギリスとフランスの植民地支配争奪の的となり戦いが繰り返されたところである。イギリス支配下を経た現在も住民の85%以上がフランス系カナダ人というフランス文化圏である。当然に公用語はフランス語で看板の文字も全てフランス語である。ケベック市は1985年に世界文化遺産に指定された町で18世紀の歴史をそのまま閉じ込めたような町である。
旧市街でセントローレンス川を見下ろす位置に建っているお城のような建物シャトーフロントナック はケベックのランドマークであり、フランスのシャンポール城を模して作られた重厚なホテルである。また高台にある星型の要塞シタデルの前面には総督の散歩道と称される遊歩道が設けられておりセントローレンス川の風光をめでながらそぞろ歩きをするのに相応しい場所である。すぐ近くのダルム広場では大道芸人がパフォーマンスを繰り広げており沢山の観光客が群がって楽しそうに眺めている。
市庁舎、ノートルダム大聖堂を見学してサンルイ通りやサンジャン通りをそぞろ歩きするとレストランやショップが軒を連ねており観光客や買い物客が楽しそうに行き交っている。店内ではフランス語が飛び交っている。ノートルダム寺院のステンドグラスが美しかった。
商店街プチ・シャンプランは旧市街の崖下の狭い道の両側にレストラン、カフェ、ギャラリー、ブティックが軒を連ねている商店街で、多くの観光客で賑わっている。1608年にフランス人サミュエル・サンプランが上陸して植民地住宅を建設してから最初にできた北米最古の商店街なのである。通りの行き止まりには旧市街へ出られる急勾配の通称首折り階段が設けられていて、ここも多くの人通りがあった。この地域にあるロワイヤル広場から見上げると、カメラアングルが絶好の位置にシャトーフロントナックが聳え建っている。 州議事堂 、高級住宅街、戦場公園等をバスで観光し黄昏どきをオルレアン島のメープルシロップ工場へ見学に行った。メープルの幹からシロップを取り出すところや、シロップを濃縮していく工程をつぶさに見学することができた。収穫は極寒の三月に樹液を採取し24時間以内に精製しなければならないが、家内手工業によっており四十lの樹液から僅か一lの製品がとれるだけだというから大変な重労働である。この工場でホームワインと手製のケベック料理を御馳走になったがカントリーミュージックを聞きながらの素朴な田舎の味は格別であった。見学したこの家内工場のマーケットシエア率は75%であるという。
ケベックのホテルを朝出発してモントリオールへ向かった。ここではネオゴシック様式の大聖堂、ノートルダム寺院、ジャックカルチェ広場、ボンスクール教会、ボンスクールマーケットを慌ただしく見学してモン・ロワイヤルの丘にある聖ジョセフ礼拝堂 に参詣した。この大規模で壮大な礼拝堂は当初、奇跡の人といわれるアンドレ修道士が建てた数メートル四方のものであったが、彼の没後熱心な信者によって1924年から建設が始められ1960年に完成した。今では年間二百万人が訪れる世界的な巡礼地に変貌した。
アンドレ修道士は信仰の力で多くの人の病を治したといわれ、特に足の病いを多く治したといわれる。実際に歩けるようになった人達の松葉杖が沢山奉納されていた。現代の奇跡であるといえる。 モントリオールの建物
ケベック州内の自動車のナンバープレートは車の前部にしかついておらず必ずフランス語でJe me souviensという標語が書き込まれている。これは私は忘れないで覚えているという意味であるが、車のナンバープレートにまで掲げて彼らフランス系住民が拳拳服膺していることは何か。それは第一に開拓者精神であり、第二に英仏戦争に負けた敗戦の屈辱であり、最後にフランス文化とフランス語の誇りである。この話をきいた時、勤勉な態度が失われ第二次世界大戦の敗戦体験が風化し、美しい日本語が死後化しつつある祖国の現状に照らしてみてケベック人は偉いと心の中で一人叫んでいた。
| 2004年08月10日(火) |
【ナイヤガラの滝と錦繍のメープル街道・・カナダ� � |
カナダの旅 ないやがらフォールズ、トロント、オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原、ケベック 1999年10月5日〜10月12日
カナダの東部を流れるセントローレンス川沿いに開けたナイアガラ・フォールズからケベック・シティに至る全長約800kmに及ぶメープル街道はカナダ随一のゴールデンルートである。この道はヘリテージ・ハイウエイ(伝承の道)としても親しまれている。今回訪問した街はナイヤガラ・フォールズ、トロント、オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原、ケベックであったが、何れも今日のカナダを代表する諸都市でイギリスとフランスの両文化が巧みに溶け合い或いはその個性を主張しあっていた。折から錦繍のメープル街道を訪ねる旅はナイヤガラの滝から始まった。
この滝はエリー湖からオンタリオ湖へ流れるナイアガラ川中流地点にあり、アメリカとカナダの国境付近に位置していて大自然の驚異を目のあたりに見せつけてくれる。滝はゴート島によって二分されており上流に向かって右側の馬蹄形のものがカナダ滝で幅675m落差54m。左側がアメリカ滝で幅260m、落差51mである。一分間の流水量はカナダ滝で一億五千五百万tもあり、これは東京都で使用する一日分の水量に匹敵するというからその規模の巨大さが判る。ナイヤガラ川に沿って自動車道路が走っており、地の利が便利であることから世界有数の観光スポットとして知られ毎年一千四百万人もの観光客が押し寄せる。この滝を四通りの方法で心ゆくまで観察した。
第一番目の方法 はごく普通に滝の正面の広場に立って、紺碧の河の流れが瞬時に純白の滝に変わるその雄姿を眺めることである。
第二にはテーブルロックという場所に立って滝の落ちゆくありさまを横から見ることである。
第三には霧の乙女号 という観瀑船に乗って滝壺近まで近寄って下から滝を見上げることである。
第四には 高さ236mのスカイロンタワーに登って滝を上から見下ろすことである。
どの方法で見ても視点が変わってまた新しい発見があった。しかし何といっても最もスリリングなのは滝壺まで近寄って轟音を聞きながら滝の飛沫を全身に浴びて目の前に見た膨大な水量の落ちゆく様であった。折から太陽の光を受けて立ちのぼる虹には自然の神秘を感じたものである。滝の様々な態様を観察し十分堪能してから滝から五km離れたワールプールを見に行った。これはナイヤガラ川が東へ70度流れの向きを変える地点で出来る渦巻きである。ここにはワールプールを鑑賞するためにスパニッシュ・エアロカーと呼ばれるゴンドラが渦の上をゆらゆらと横断している。滝のある地域の道路沿いにはあちこちに「BB」という看板を出した民家が見られた。朝食付きの民宿なのである。一泊三千円ということであった。
翌朝は八時に出発してオタワへ向けて出発する予定であったが、まてどくらせどバスが来ない。この時期紅葉をみるために観光バスは引っ張りだこなのだそうである。昨夜確認してあるから大丈夫だと添乗員は泰然としているが、三十分経ち一時間経ってもバスがやってこない。いらいらが次第に嵩じてくる。ここは外地なのだ、外国の習慣に慣れなければならないと無理に気を鎮めようとするがどうにも落ち着きが悪い。これが東南アジアであればそんなものさと思いなすことができるであろうが、先進国で且つ契約社会のカナダでまさかこの種の経験をしようとは思わなかった。そのうち一時間十五分遅れでバスが到着した。バスの運転手は遅れた言い訳もしない。
天気は小春日和で爽やかである。空気は玲瓏で気分がよい。今朝の気温は摂氏二度だというがそんなに寒さを感じない。街道沿いに果てし無く原野や田畑が続き沿道の立木は全て紅葉している。赤色は少なくどちらかと言えば黄色が多い感じである。
町並みが現われると必ず教会があって、その周辺には民家が立ち込めている。開拓が進むと先ず教会が建てられ、その周辺に集落が出来るという形で村落が発達してきたことがよく判る。昼過ぎにオタワ市内にたどり着き発音の綺麗な現地ガイド嬢の説明を聞いた。
文明博物館はその建物を前方から見ると原住民の顔を模してあるといわれるだけに、眺めれば眺める程に面白い形をしている。文明博物館からオタワ川を挟んで眺めた国会議事堂 はネオゴシック様式でその典雅な姿を川面に映して聳え建っている。折からの紅葉した立木とともになかなの風情があって美しい。オタワのシンボルと言われているだけのことはある。中央にセンターブロックその両脇にイーストブロック、ウエストブロックを従えている。
1916年の火災で焼失し、現在の建物は1922年に再建されたものである。
バイワードマーケットは1840年代から市民の台所として活躍してきたもので、ハロイーンが近いので、かぼちゃに顔を彫ったものが沢山並べられていた。
北欧でもそうであったがカナダでも走行する車は照明を昼間でもつけている。これは事故防止のためであるが、日本ではみられない風景である。
朝早くオタワを出発して、ローレンシャン高原のトレンブランというリゾート地へ、長駆230kmのバスドライブである。ドライバーがこの地方は初めてというので地図を片手に運転するので心もとないこと夥しい。結局ローレンシャン高原の中を一時間ほども遠回りをしてしまったが、街道沿いの紅葉を心ゆくまで堪能した。
トレンブラン村を同行の一紳士と散策中、豪華なホテルがあったので見学しようと入って行くと物々しい警備員に入館許可証の提示を求められて泡を食ってしまった。たまたまNAFTAの会議でこの地へ来ているクリントン大統領の泊まっているホテルであることを知りびっくりした。
翌朝は400kmを五時間の予定でケベックシティへバスドライブである。州道40号沿いの紅葉は素晴らしかった。特に赤、橙、黄、緑と四色に色づいているのがよい。概ね山並みは女性的であり、メープル街道は全山此れ錦繍という感じであった。
| 2004年08月09日(月) |
【マルタ共和国の帰りに立ち寄ったローマ・・マルタ共和国�ぁ� |
平成14年12月12日(水) 朝9時半にホテルを出てマルタ空港へ向かった。空港では約1時間遅れでローマへ向かって飛び立った。ローマではスペイン広場周辺で解散となり、教会を三つほど見て廻った。ローマの街にはやたらと教会が多いという印象であった。ポポロ広場のサンタマリア・テル・ポポロ教会にもカルバッチョ の絵が2枚程あるということを聞いてここも訪問した。
約束の集合時間になっても集まらない夫婦連れがあって寒い中をスペイン広場の上の広場でふるえながら30分も待たされるというハプニングもあった。土産物屋で釣り銭をごまかされ店員とやりあっていて遅れたということらしい。他人に迷惑をかけたという意識に乏しい団塊の世代の夫婦連れであった。
この夜は9時から始まったカンツォーネを 聞きながらの夕食でローマの夜を楽しんだ。飲み放題の白ワインを気がついたら三人で5本開けていた。レストランはファンタジエ・ディ・トラステベレという店であったが、観客の入りは3割程度でこの地にも不景気の風が吹いていた。
平成14年12月19日(木) 朝から自由行動の日である。コロッセオでバスを降りて皆と別れて集合時間の12時までコロッセオ と
フォロロマーノ

を橋田さんと二人で見学した。12時からは唐沢さんの友人の店の店員の案内でアベンティーノの丘にあるオレンジの樹の公園、チルコ・マッシモ 、パラティーノの丘の高級住宅街にあるマルタ騎士団長の別荘の鍵穴、真実の口教会(ギリシャ正教)、土産物屋、
サンピエトロ寺院 と見学してローマの観光を終えた。昼食にはいかすみのスパゲッティを食べてみようと期待していたが、結局添乗員がアレンジしたイタリア風のセットメニューで済ますことになってしまった。
平成14年12月20日(金) 19日の午後9時半にローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港を飛び立った飛行機では努めて寝るこさとにした。遅い夕食に日本酒を貰って牛丼の弁当を選択したが、米がべちゃベちゃであまり美味くはなかった。日本酒二本とワインの赤一本を貰うといつのまにか眠りに入っていた。目が覚めたら日本時間で夕方の5時前であった。まだ太陽の光があったが、やがて暗くなった。一挙に時間が8時間ほどすっ飛んだ感じであった。
眠くないので映画を見た。エベレスト山頂で凍死した実業家の遺産をめぐる騒動と田舎のパイ配達夫の底抜けに明るく純粋な青年が軽妙なコミックタッチで描かれた明るい映画であった。成田で橋田さんは京浜急行で帰りラッシュがいやなので私はリムジンで帰ることにした。
| 2004年08月08日(日) |
【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国��】 |
平成14年12月16日(月) 8時にホテルを出てコゾ島へ渡るべくチェルケウア港 へ向かった。道中、岬や要衝の地には石灰岩でできた物見の塔や狼煙塔が必ず建っており、外敵に備えて怠りなかった当時の島民の緊張した日常生活が偲ばれる。また街道筋には笠松の並木があり、ローマの強い影響があったこともよく判る。平野に広がる田圃は一様に、もう馴染みになってしまった石組みで区画されている。セントポール湾に差しかかると湾の入り口に無人島のセントポール島の姿が黒ずんだ島影を太陽に輝く海面に際立たせていてなかなかの絶景である。
このセントポール島には聖パウロの遭難の史実が残れされている。彼は当時公式の宗教ではなかったキリスト教を広めた罪でシーザーの命により外国の地からローマへ連れ戻されローマの法で裁かれることになったが、難を逃れて冬を過ごすためにより安全な港であるクレタ島へ移動する予定であった。ところが悪天候のために航路を外れ14日間船は大きく揺られながら流され、マルタ島のアウラポイントに着いたが、その翌日には風と反対の方向に進もうとしてサンパウロ湾に漂着し、タルーガッツイーニという岩礁に座礁した。遭難者達はこの地で体調が回復するのを待って首都のメリーダ方面に移動をはじめた。そしてラバトの聖パウロの洞窟に拘留されながらも約三カ月間滞在し土地の有力者や住民達に数多くの奇跡を行いキリストの福音を説き続けたと伝えられている。
風光明媚なセントポール湾を後にしてやがてメッリーハ湾が見下ろせる場所にさしかかった。この近くにはポパイ村というのがあった。ポパイ映画が撮影された場所で今は村起こしのためにポパイに因んだ企画を色々考え出し観光地として売り出しているという。
メッリーハ湾の日当たりの良い丘陵地に緑色の小さなコンテナハウスがごちゃごちゃと建ち並ぶ一角があった。これはマルタ庶民達の保養地でコンテナハウスは別荘であるという。
チェルケウアの港につくと対岸には有人のコミノ島とゴゾ島が目と鼻の先に見えていてフェリーがひっきりなしにゴゾ島とマルタ島を往来している。
僅か20分程の乗船でやがてゴゾ島へ到着した。船中ではインド人の子供連れの若い夫婦と乗り合わせた。三人の子供連れであったが、一番下の女の子は二才だという 人懐つこい可愛い子なのでキャンデーを与えるとはにかみながらも受け取った。すると父親がその子に向かって「セイ・サンキュ ー」としきりに教えていた。親が子供を躾ける自然な光景として旅の想い出に残るものである。
夕食の時、このことを話題にすると同行の老婦人が「それが世界各国の共通の人情というものでしょうが、最近の日本の若い母親は変わっていますよ。可愛い子供に飴を上げようとすると、母親が血相変えて子供が虫歯になるから余計なことはしないで下さいというんですよ。」と嘆いていた。
ゴゾ島ではジュガンティーヤ神殿 を見学した。これも古代の神殿跡で円形の部屋を囲んで石組みの壁面だけが残っていて天井はない。ここも女性の胸部と腰部を強調した8の時型の平面になっていて男根と女陰のシンボルとなる岩や石組みが残されていたが説明を受けなければそれとは判らない配置である。往時は13mの高さにまで壁が積まれ屋根には木材が使われており、周辺の森林が神殿を覆うように繁茂していたというが、森林は船を造るために伐採されてしまい、今では樹木は全然残っていない。この神殿はシチリアから渡ってきた人々が作ったと推定されていてシチリア島にも似かよった様式の遺跡が多数存在するということである。
次にラムラ湾へカリプソの洞窟 というのを見学に行った。立地的には対岸の砂浜を見下ろす素晴らしく景色のよい場所にちゃちな洞が残っているが中へは入れない。カリプソという語には懐かしい響きがあるので調べてみると二通りの意味がある。
一つは昭和32年頃歌手の浜村美智子がバナナボートでヒットした西インド諸島の黒人労働者の間に生まれた4分の2拍子の民謡のリズムのこと。と同時に彼女が流行らせた長い髪のスタイル。
二つ目はホメロスのオデユッセイアに、妖精のカリプソに魅せられたオデュッセウスが7年間カリプソと共に住んだという伝説である。その洞窟がこれなのである。
シュレディー村という所で小休止したが、ここには泉が湧いていて周囲には石造りの給水設備が設けられていた。現在は洗濯場に転用されて地域の主婦達の社交場になっているが往時は飲料だけに使われたものであるという。
次にヴイクトリアのシタデルへ行った。このシタデルはコゾ島の首都であるヴイクトリアの街の北側の丘に聳えている城砦で12〜13世紀に作られたものである。1693年にこの地方を襲った大地震で打撃をうけた。現在ではこの城砦内の建物 は朽ち果ててしまい人は誰も住んでいない。このシタデルの展望台に登るとコゾ島全体の展望ができる。
シタデル内のカシードラルで興味を引いたのは天井にあるキューポラの騙し絵である。天井にあたかもキューポラがあるように見える丸いドームがあるが実はこれは遠近法を応用して描かれた平面的な絵画である。また建物の配置がラテン十字になされているのも面白いと思った。
このあとドウエザという海岸でアズル・ウインドウと呼ばれる岸壁が海水で浸食されてできた洞を見学した。インランド・シーと呼ばれる小さな内海が近くにあるとのことであるがこれは見ることができなかった。
平成14年12月17日(火) 東マルタの周遊ということで9時にホテルを出発して最初にグランド・ハーバーを挟んでヴァレッタの対岸にあたるスリーシティーへ行った。スリーシティとはマルタ騎士団が外敵に備えるために最初に作った城砦都市でサングリア、コスピーク、ヴイクトリオーザの3地区のことを総称する地名である。サングリア公園 ではグランドハーバーを展望したが、対岸のヴァレッタの市街が計画的に作られた都市であることがよく理解できる。全市これ城砦という感じがよくわかる。次いでコスピークを通り抜けてヴイクトリオーザでは城門をくぐって宗教裁判所、セント・ロレンツォ教会を見学した。何れも城郭内にある建物である。セントロレンツォ教会はヴィクトリオーザで一番最初に建てられたものである。宗教裁判所は名前からすると宗教上の異端者を裁いたという印象を語感から受けるのだが、単なる裁判所に過ぎない。聖職者が判事をつとめたから宗教裁判所というのかもしれないが、ネーミングとしてはちょっと不自然な感じがあり実態にそぐわないところがある。
街の佇まいはこじんまりとしており、街全体がいざ戦いという時には城砦として籠城できるような作り方になっていたのが印象的である。
このあとカルカーラに立ち寄った。ここには第一次世界大戦の時、同盟国の英国を応援するためにマルタ島へ派遣された日本海軍の軍艦が魚雷にあたって被災し乗組員60人が戦死した霊を弔うために慰霊塔が建っていた。一人密かに般若心経を唱えて霊を慰めた。煙草に火をつけて備える同行者もいた。
マルサシュロックという静かな漁村 でシーフードの昼食を摂り、暫く長閑な漁村を散策した。
ビルジェブ村には1989年12月23日にゴルバチョフとブッシュ が会談した記念碑が建っていた。この会談後東西の冷戦が終了したのである。
この日は東マルタの周遊を終えてヴァレッタ市内のシティーゲートの前で解散となった。カルバッチョの「聖ヨハネの斬首」が午後4時から大聖堂で見学できるというので何人かとともにここで降りホテルへ帰るバスと別れた。
時間になるまでヴァレッタの目抜き通りを散策して時間を潰したが最初この地へ踏み入れたときのような賑わいはなかった。平日のせいであろうか。
大聖堂で「聖ヨハネの斬首」を鑑賞してからバス乗り場で市バスに乗ってホテルの近くまで戻ってきた。運転手にホテルの近くへ来たら教えて欲しいと頼んでおいたので、40分程もおんぼろバスに揺られたと思った頃運転手が合図してくれたので慌てて飛び降りた。ところが目印のヒルトンホテルは近くにあるのだが、交差する道路の真ん中で方角が全然判らなくて途方に暮れてしまった。運良く学生が通り掛かったので道を尋ねると前日夕食にでたとき最初にたどりついたショッピングモールまで連れて行ってくれた。そこでやっと方向感覚が元に戻った。ホテル前と言ってもとんでもない方向違いの場所で降ろされたことになる。
一旦ホテルへ帰り暫く休んでから再びセントジュリアンの街中へ出かけて前回夕食を食べたビザハウスで夕食を摂った。うまいぐあいにここでマルタの通貨は全部使い切ることができた。
| 2004年08月07日(土) |
【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国�◆� |
平成14年12月15日(日) マルタ島南部のハガール・キム

へ遺跡の見学に行った。
何しろ小さな島なので40分も走行すると南端の海岸線へ到着する。この神殿の遺跡へたどり着くまで曲がりくねった細い田舎道の周辺に田園風景が展開されたが、田圃の周辺には区画するかのように必ず小さな石を積み上げた石組みの境界線 が設けられていた。そしてまだ開墾されていない荒蕪地には石ころや岩がいたるところに散在していた。
最初石組みが珍しいなと単純に眺めていたが、荒蕪地の状態を見るに及んでこの石組みの囲いの意味を了解し、苦難続きであったろうと思われる人間の営為を思いやった。つまりこの石組みは田圃を開墾した農夫達の何代にも及ぶ自然との戦いの痕跡であったのである。耕地を作りだすためには荒蕪地に無数に転がっている岩石を取り除かなければならない最初は取り除いた岩石を一カ所に纏めたに違いないが、その量があまりにも膨大であったため取り除いた岩石で田圃の境界線を築きあげることを思いつきこの形態が出来上がったのであろう。それまでにどれだけの涙と汗が流されたことであろうか。ネパール等の山間の土地で見かける段々畑と同じような労力が注ぎ込まれているのである。
ハガール・キムの遺跡は大小の石灰岩を組み合わせて積み重ねた遺構が残されているだけで説明を受けなければこれが神殿跡の遺跡であるとは思いもよらない佇まいである。小さな円形の部屋を取り囲むように石組みの壁が設けられているだけであるがよく見ると羊や山羊を生贄として捧げた石の台なども残っているし、神のお告げを聞くためのオラケルと称する穴が岩塊に穿たれていたりする。ガイドの説明で当時の神殿をイメージしようと試みるがあまりにも崩落が激しく思うように想像することができない。復元図でも掲示されていれば理解しやすいのだろうが、そのようなものはどこにも見当たらない。
男根と女陰を象徴する石や柱が神殿の入り口には残っていた。ここにはなかったが博物館に収蔵されている女性像は胸部と腰部が極端に大きく誇張された造形になっており、太った女性は豊穣のシンボルと考えられていたという。
この神殿は紀元前2700年頃に作られたものであり青銅器時代のものであろうと推定されているがまだ研究段階で詳らかなことは判っていないようである。ある考古学者は先史時代に栄え、海中に水没したと言われる伝説上のアトランティス大陸の一部でないかと推理しておりロマンに満ちた遺跡である。
さてマルタ騎士団が来島する以前の歴史について若干調べてみると以下のようである。
紀元前千年頃マルタはフェニキァの植民地になるが、前736年にはギリシャに占領されメリタと呼ばれた。その後カルタゴ、さらに前213年にはローマの植民地となった。395年にローマ帝国が分裂するとマルタはビザンティン帝国の支配下に入るが370年にはアラブ人に占領される。ノルマン人がマルタのアラブ勢力を征服したのは1090年のことであり、その後マルタはシチリア王国の封土となった。1530年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世からヨハネ騎士団にマルタ島が与えられて今日残っている建造物の建設が始まったのである。
ハザール・キム遺跡の海岸線はるかかなたには無人島のピルクル島の島影が見えていた。
次いで海岸線を走ってブルーグロット(青の洞門) まで行ったが風が強くてボートで見学する予定はキャンセルされた。危険なため船がでないのである。海岸の展望所からブルーグロットを眺めたが石灰岩が海水に浸食されてトンネルのように穴が穿き海の色が鮮明な青色であることから青の洞門と呼ばれ舟遊びの名所になっているのである。日本でいえば伊豆堂ヶ島の洞と似たようなものであろうか。
たまたまこの洞門の上から海面までロープを垂らして下降訓練をしている登山家を目撃することができた。
次に内陸部のラバトとイムディーナへ向かった。この地へ至る道中のズリエック村で石灰石を切り出している採石場 を見学した。巨大な絶壁が残されており長い年月かけて切り出された石材が如何に大量であったかが窺える。現在もこの場所では石材の切り出し作業が引き続き行われていた。
ラバトの市街とイムディーナは隣接してあった。ラバトとは城の外という意味であり、イムディーナは城の中という意味である。語源はアラビアである。イスラム世界で城砦都市のことをメデイナというし、モロッコの首都はラバトと呼ばれていることと思い併せるとこの地がアラブ人達によって作られたものであることを了解できる。 イムディーナの近辺には太古から人が住みついておりアラビア人達がイムディーナを作りこの島へ来住したマルタ騎士団の人々も当初はこの地へ定着して街を整備したのである。イムディーナは現在昼間でも人影の少ない沈黙の街とも言われていて人口は四百人ほどしか住んでいない。この街も堅固な要塞になっており1565年の大包囲戦の時には終盤戦で、オスマン・トルコ軍はこの街を攻撃したが僅かな守備隊に撃退されたという。
イムディーナの門をくぐったところには騎士団長の館 があった。城内にはカシードラルと呼ばれる司教座聖堂がありランドマークとなっている。この建物は13世紀に建設されたが1693年の大地震で倒壊しその後ゴシック様式で再建された。倒壊前の資材も一部に使われており、内部から見たキューポラは見事である。また被災を免れた壁画「聖パウロの難船」も秀逸である。このカシードラルはヴァレッタの大聖堂よりも古いものである。
ラバトでは聖パウロのカタコンベ を見学した。カタコンベとはパレスティナの地のユダヤ教徒の発案による地下墓所で、キリスト教発祥のころより、キリスト教徒に取り入れられ、初期キリスト教の伝達とともに各地に広まったものである。
この地のカタコンベはカルタゴ支配の頃にカルタゴ人の墳墓として掘られ始め紀元前1世紀から4世紀にかけて主にキリスト教徒の墓所として発展し8世紀頃まで使われたが、盗掘にあったりたして目ぼしい埋蔵物は残されておらず僅かに発見されたものが博物館に収納されている。縦横に走る地下通路の両側の壁に大小無数の穴が穿たれているが、現在は遺骨もなにも残っていない。薄暗い墓所を足元に気をつけながら見て歩くのはあまり気持ちのよいものではなかった。
次いでモスタの市街へ移動した。モスタの市街地内では教会が開門するまで自由時間ができて市内を散策することになったが、買い物に興味を示さない小生は静かな町中を歩き廻るだけであった。尿意を催し便所を探したが見つからず大変な思いであった。博物館へ飛び込んでみたりしたが便所はどこにもなかった。
なんとか我慢しているうちに時間がきてモスタ教会を見学した。折りから嬰児達が両親に抱かれて沢山集まっており、牧師が子供達に洗礼をする儀式に出くわした。日本の753のお宮参りと 似通った雰囲気が漂っていた。
このモスタ教会のドームはヨーロッパ世界では第3番目の大きさを誇ると言われるだけあって見事なものであった。因みに第1はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、第2はロンドンのサン・ポール大聖堂である。
教会の中でもガイドの説明は上の空で必死に便所を探したが見つからなかった。欧米の古い街を歩いていて寒い時などに最も困惑するのは尿意を催した時に便所がなかなか見つからないことである。旅行を上手にするこつの一つに便所をうまくみつけ休憩時間に如何にうまく用を足しておくかということがある。機内でも然りである。機内は気圧が低くなっているので体内のガスが膨張して噴出しやすい状態になっているが、食べ物が変わるのでうっかり放出すると実まででてしまう虞がある。そこで便所へ入ってガスを放出することになるが、便所へ立つタイミングが難しい。食事中や食後にはカートが通路を塞いでいて通れない。また通路が空いているときは往々にして便所には行列ができている。海外旅行中の体調管理の要諦は如何に便所をいいタイミングで利用するかにかかっていると言っても過言ではないと思う。
モニタ教会を出てサン・アントン・ガーデンに立ち寄った。イギリス統治時代に作られた庭で珍しい植物が集められているようであったが、なかなか集中して見ることができない。意識は専ら尿意の処理にのみ向いている。やっと便所があるのを発見し飛び込んだ。放出する快感と安堵感はなにものにも替え難いものがある。
ガーデンに隣接してある大統領官邸の前を通ったが小さな島の共和国の大統領官邸としては敷地も広くなかなか壮大なものであった。
この日は夕食を摂りに散歩がてら湾の海岸沿いにサンジュアンニの夜の街へ出かけた。ショッピング・モールではファッションショーなのか少女達のグループが軽快なダンスを披露していた。
昼間バスから大体見当はつけておいたのだが、道がよく判らず飲食街にたどりつくまでに苦労してしまった。いざ店を選ぶとなると難しいものである。19時頃だというのに客の入っていない店が多い。バーは若者で賑わっているようだが、夕食を摂る雰囲気ではない。かといってきちんとしたレストランへ入ってみたいと思う程腹もすいていないし、現地通貨も使い残さないように僅かしか両替していないのでこころもとない。さんざん歩き廻ったあげく、軽い食事で済まそうということになり、あまり人の入っていないピザハウスへ飛び込んだ。一組の子供連れの夫婦が食事をしていて愛想がいい。マルタ人は外来者に誰彼かまわずこうなのかと思っていたら、じつはこの店の経営者であることが後で判った。
ビールを飲みツナのサラダとミートのスバゲッティを食べたが一人あたりチップを入れて6マルタリラ(13005円)であった。イタリア料理はボリャームが多いことは承知していたので二人で分け合って食べる積もりでサラダもスパゲッティーも一人前ずつ注文した筈なのにサラダがきたのをみると日本なら3人分もありそうな膨大な盛りのサラダの大皿が二つもきてしまった。サラダたるや半切りにしたゆで卵が三個ついていてツナは茶碗一杯分ほども盛られている。野菜ははみださんばかりでおまけにパンまでついていた。スパゲッティだけは1人前だったようだが、ブロークン・イングリッシュの所為で意志がよく通じなかったのか、どうもサラダだけは2人前きてしまったようだ。隣で食べている中年の男のサラダの量もべらぼうに多いので、この国ではサラダだけは別格の扱いがなされているのではないかと思った。
なんとかサラダの野菜だけは全部平らげたがこれだけで満腹してしまう量であった。スパゲッティーは1人前を二人で分け合って丁度よい分量であった。軽く済ますつもりの夕食が満腹する結果となってしまった。たまたまクリスマス近くのせいか若いウエイトレスはサンタの帽子をかぶっていて愛嬌がよかった。
| 2004年08月06日(金) |
【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国� � |
▼マルタ共和国の旅 ヴァレッタ、バガール・キム、ラバト、イムディーナ、モスタ、チェルケウァ(コゾ島)、シュレディ村、ヴイクトリア、スリーシティ、カルカーラ、マルサシュロック、ビルジェフ、ローマ 2002年12月13日〜12月20日
平成14年12月13日(火) 8時26分横浜発の成田エクスプレスで一時間程早めに出かけた。橋田さんと一緒のときは橋田さんの運転する車に同乗させて貰うのだが、今回はカードで料金を支払った成田エクスプレスにした。これにはわけがある。サウジアラビアへ旅行したとき土産物店で展示されている置物の値札を確かめようと手にとったところ鳥の首が台座に固定されていなかったため転げ落ちて壊してしまった。弁償させられるはめになったが、マスターカードの付帯保険で担保される筈であったから、証明書を店から貰っておいた。ところが帰国して保険会社に請求すると保険の取り扱いが変更になって旅行の前に、旅行に使用した公共交通機関の料金をカードで支払ってあることが保険適用の条件になるというのである。そんな適用条件があるとは知らなかったのでこの時の旅行には交通費をカードで支払うということをしなかった。ために弁償は自己負担となってしまったという苦い経験があったのである。
電車の中ではニューヨークへ遊びにでかける3人連れの賑やかなOLと乗り合わせた。
成田で受け付けを待っていると橋田さんもやってきた。35人の大人数の旅行である。添乗員は唐沢という若い女性だが、異常な出目金である。バセドウ氏病の持病がありそうな顔である。
橋田さんがウイスキーを買い、私がヘネシーを買った。機中で中国語の勉強をしようとCDを持っていったが、電子機器は一切使用することが禁止されていて使うことができなかった。テキストだけを読んで勉強したが、あまりはかがいかず機内サービスのワインを3本ほど平らげてしまった。ミラノ経由でローマに到着したが、ゲートが搭乗券に記載されたものとしょっちゅう変り油断ができなかった。
初日の宿泊は辺鄙な場所に位置するホテルで、ここへ到着する間際の両側の道路に駐車された乗用車が邪魔になってバスが通り抜けるのが精一杯であった。前回橋田さんとイタリアのルネッサンス芸術を見て廻った時もローマでは郊外の辺鄙な場所のホテルであったから、ひょっとして同じホテルかなと思っていたが到着してみると予想は外れた。夜11時過ぎの到着だったのですぐ就寝したが、室温が高く汗をかいてしまった。
平成14年12月14日(土) マルタへ飛ぶため朝5時45分のモーニングコールで7時15分にはホテルを出発してマルタ国際空港へ急いだ。
10時05分発のアリタリア航空でマルタへ飛んだ。シチリア島上空からは島がよく見えた。エトナ山の噴煙は反対側の窓からは見えたらしいが生憎私のサイドからは見ることができなかった。
マルタ空港は小さな空港だが空港の建物にこころなしかイスラムの影響が感じられる。建物を撮影していて手袋の片手を落としてしまった。飛行機を降りて建物まで歩いたのも小さな空港ならではのことである。
空港にはマリアさんという英語ガイドのマルタの女性が出迎えていた。彼女の旦那はオーストリア人だという。彼女の話はネイティブの英語でないので日本人には判りやすい。
今日は土曜日なのでヴァレッタのマルタ騎士団長の館は閉館なのだが、日本人観光客が来るというので管理人の特別な計らいで開館するという。マルタ島の観光客は日本人が最近では一番多いのだそうだ。昼食を後回しにして取り敢えずそちらへ急行することになった。
バスでヴァレッタ市街のバスターミナルに到着するとそこには一様に車体を黄色に塗った年式の古いバスが沢山駐車していた。ざっと数を目で追ってみると35台ほども駐車していた。ここはマルタ島のバスターミナルになっていて全ての路線はここが起点になっているという。ターミナルは円形になっていてその中心点には円形のトリトンの泉があり、三人の人間の像に支えられた円盤に水が噴出している。人々はここで下車してシティゲートと呼ばれている城門をくぐってヴァレッタの市街地へ入るのである。
シティゲートをくぐって前方を眺めるとアッと思わず感嘆の声が洩れてしまった。リパブリック通り と呼ばれる目抜き通りには垂れ下がったクリスマス用の飾りの下を夥しい群衆が散策しているのである。国際色豊かな観光客が過半のようである。こんな小さな島にかくも多くの観光客がといった感慨を覚えた。蜂蜜色をした建物が通りの両側に建っていて装身具やら貴金属やら工芸品などの店が並んでいて、土曜日のせいもあろうが、非常に活気に満ちた繁華街の賑わいを作り出している。
ここで持参したビデオカメラでこの賑わいの雰囲気を撮影しようとレンズを向けたのだが、ファインダーが真っ暗で何も見えない。さては飛行機の中で上の棚に格納しているときスイッチが入ったままになっていてバッテリーを消耗してしまったかとの疑念が浮かぶが納得できない。この地で初めてビデオを構えたときにはスイッチはオフになっていたのを確認している。そのうちナイトショットスイッチがオンになっていることに気がついた。これではファインダーが暗くなる道理である。
騎士団長の館は二階建ての石灰岩で作られた豪華な建物である。正面のバロック様式の玄関から中へ入ると頭の禿げ上がった案内人が待っていた。昔日本に桜内義雄という代議士がいたが彼に風貌がよく似ていた。廊下の天井には絵が描かれており壁面にも由緒ありげな絵画の入った豪華な額が飾られている。何よりも注目をひくのはそこに沢山置かれている騎士達の鉄製の鎧である。今にも動きだしそうな錯覚にとらわれそうになった。
禿げ頭の案内人が最初案内してくれたのは兵器庫の建物の二階の廊下に面したうす暗いタベストリーの部屋である。ここは騎士団の重要な会議が開催されたところであるが、周囲の壁には由緒と来歴のある豪華なタベストリーが飾られていて当時の議会の様子を傍聴するための新聞記者席も当時のままの姿で残っていた。部屋が薄暗いのはタベストリーを保護するためという。件の禿げ頭の案内人は日本語で書かれたマルタ島の解説書を沢山持っており一冊千円で頒布していた。彼が休日返上で騎士団の館を開館した理由はどうやらこのあたりにあるようであった。マルタ人が親日的であると早急に判断はできないと思った。
次々といくつかの部屋 を案内して貰ったが、いずれの部屋も豪華なタベストリーや額縁に入った絵画や壁面に直接描かれた絵画で豪華に装飾されており、当時の騎士団が裕福であったことを窺わせる。因みに彼らは異教徒であるトルコ船団を襲撃する海賊行為も行って富を蓄えたと言われる。更に騎士団に参加するヨーロッパの騎士達はヨーロッパの貴族の次男坊や三男坊で裕福な階層出身者でもあったから彼が死亡すると遺産が騎士団に寄贈されるという習慣もあったようである。
大きな部屋には英国皇室関係者の肖像画とともに歴代総督や独立後の大統領の肖像も掲げられていた。注目をひいたのは女性大統領の肖像が掲げられていたことであり彼女は最近90数歳の天寿を全うしたという。
現在はコンサート等も行われるという豪華な飾りつけの大広間には黄色いシルク製のカーテンが飾られていて細かな刺繍が施されていた。フランスのリヨン製ということであった。
さて騎士団のことであるが、騎士団の源流は厳しい戒律で知られるベネデイクト派に属する修道士達である。ここマルタ島の騎士団の正式名称はヨハネ騎士団と呼ばれ第一次十字軍時代 (1096〜1291)に修道僧ジェラルドによって創設された宗教騎士団であり、1113年にローマ教会の教皇パスカリス二世によって宗教団体として公認されたものの末流である。ヨハネ騎士団は創立当初は聖なる地イスラエルで病人を看護し、疲れた巡礼者を受け入れた慈善団体であり、聖ヨハネ病院で活動していたことでも知られる。その後巡礼者がエルサレムまでの長い道程を安全に旅できるようにこの団体は騎士団としても活動した。12世紀の半ば頃にはこの騎士団の団長をグランド・マスターと呼ぶようになった。
服装は黒衣白十字の外套を着用し十字軍では異教徒との戦闘にも参加して華々しい戦果を挙げた。1291年にアッコンの砦がイスラム教徒(セルジュク・トルコ)の攻撃で陥落しエルサレム王国が滅亡すると彼らはキプロス島へ一時避難し、その後ロードス島に滞在して組織も強化され海戦ではヨーロッパ中で一番強い軍隊に成長していた。しかしながら1522年にスレイマン1世に率いられたオスマントルコ軍の攻撃に敗れて7年間程放浪した後神聖ローマ帝国のカール5世からマルタ島を与えられた。ヨハネ騎士団がこのマルタ島へやってきたのは1530年のことであった。このときから現在マルタ島に残されている建造物の過半のものの建設が始まったのである。
ヨハネ騎士団がこの島へやってきた頃この島には封建制度がなかったので島古来の住民の有力者達は彼らが来住し島を支配することを歓迎しなかった。騎士団が定住することを受け入れた儀式では騎士団長の長老がマルタ島民の特権や権利をこれまで通り尊重することを宣誓した。
この島にきた騎士団は最初内陸部にあるメディーナという街にある古い城の内側に定住し町中を整備した。そして半島の先端にある天然の良港である聖エルモ(ヴァレッタ市街最先端の砦)とビルグ(その後ヴィットリオーザと改名)に要塞を築きトルコ軍の来襲に備えた。しかし1547年と1551年の攻撃では莫大な損害を受けた。島は略奪の被害を受け島民の多数が奴隷にされてしまった。
この二回のトルコ軍の襲撃に懲りた騎士団は島の要塞化と防衛に力を注いだのである。そして一五六五年5月18日史上に名高い大包囲戦を迎えるのである。この戦いはオスマン・トルコ軍とその同盟国がマルタ、シチリア、イタリアを通ってヨーロッパに向かうため4万8千人の兵士を送り込んだのである。これに対抗するため防衛軍は8千人のキリスト教の兵士、540 人のマルタ騎士団、4千人のマルタ人、その他スペイン、イタリアからの傭兵の連合軍が組織された。31日間の戦闘の結果トルコ軍に病人が増加し、かつ兵器の補給が間に合わずトルコ軍は撤退した。この時マルタ騎士団の指揮をとったのが団長のラ・ヴァレットであった。この戦いのあとで現在のヴァレッタの街に計画的な要塞都市ヴァレッタが建設されたのである。名前は騎士団長の名前に因んでいる。
このあとアッパー・バラッカー・ガーデン へ行った。この公園はヴァレッタ市街地の南端にあり、グランド・ハーバーや対岸のセングリアやヴイットリオーザの
市街地を眺望 することができる。この場所に立って景色を眺めているとこのマルタ島という島がいりくんだ天然の良港であり、石灰岩の上に石積みの建物を建てた全島これ要塞といった構造になっているのをよく理解することができる。
夕闇迫る頃、聖ヨハネ大聖堂を訪問した。この大聖堂はヨーロッパで最も美しい教会であると言われるが、その言に違うことなく内部の装飾はバロック式であり、柱や壁に施された金箔と寄木細工の豪華絢爛たる彫刻群は実に見事である。ただただ目を見張るしかない。そして建物の両脇に設けられた8個の礼拝堂は8か所の出身国の言語別に分けられた騎士団長の墓所になっていて柩に施された大理石の彫刻が実に素晴らしい。マルタ十字の四つの先端が二つに割れて合計八つの鋭角ができているがこれはこの8か国の言語をも象徴しているのである。それはオルベール、アラゴン、プロバンス、ドイツ、フランス、イギリス、ボルトガル、イタリアの国々である。
更に注目に値するのは隣室のオラトリオに保管されているカラバッジョ作の「ヨハネの斬首」という大きな絵画である。彼の作品中唯一のサイン入りの傑作である。
この建物は1573年に騎士団長ジャン・デ・ラ・カッシュールの発意により建設が許可されマルタ出身の建築家ジローラモ・カッシェールによって1578年に完成された。
|