前潟都窪の日記

2004年08月25日(水) 【野性動物の王国とマサイ族の原始生活探訪・・ケニア� �

ケニアの旅 ナイロビ、アバーディア、ナクル国立公園、マサイマラ
                 1999年6月15日〜6月24日

 アフリカは日本にとってまだまだ遠い国である。アフリカに入る直行便は数が非常に少ないので、今回のケニヤ周遊の旅は、乗り継ぎのため深夜にシンガポール・チャンギ空港で、4時間もの時間待ちをするという忍耐で始まった。シンガポールからアラブ首長国連邦のドバイまで飛び、ここで更に9時間の時間待ちをしてから、再度乗り換えてナイロビへ向かわなければならないのである。

 アラブ首長国連邦のエミレーツ航空のステュワーデスは、国際色豊かである。概ねブロンドで白色の肌をした美人揃いである。回教の戒律がなさしむるところなのであろうか、アラブの女性は人前で接客サービスをする習慣がないらしく、異国人ステュワーデスだけでクルーを編成しているのである。イギリス、ベルギー、フランス、チュニジア、ドイツなどとそれぞれに国籍の異なる美人達が妍を競っている観があって乗客の目を楽しませてくれる。

 17時55分ケニア空港着。道中二日かかってやっとケニヤの首都ナイロビへ到着し、ホテルへ入ると夕食後直ちに久しぶりの安眠を貪った。

 翌朝五時半には目が覚めた。窓の外を眺めるとまだ薄暗いが既に出勤の人々がしきりに歩いているのが目に入る。車と人の流れが次第に勢いを増していく。車の流れを縫うようにして人々が道路を横切って行く。それが実にスムーズなのだ。そして人々は皆一様に長袖を着ているし、自転車が殆ど見られないのが意外だ。こうした朝の出勤風景を眺めているとロスアンジェルスと上海の出勤風景の対比を思い出していた。前者は車ばかりで歩いている人が皆無なのに後者では自転車の大群と歩行者の流れに数えるほど少数の車であった。ここナイロビでは歩行者と車の混在という姿である。そしてなによりの違いは人々の肌が黒く頭髪が縮れていることである。それにしても赤道から僅か140 km 南に位置している熱帯地方だというのにこの涼しさは一体どういうことだろう。ナイロビは海抜が1700m の高原であるところにその謎解きの鍵があるのだ。今は乾期のため湿度も50パーセントくらいなので殆ど汗をかかない。

食事が済んでからサハリカーに乗り込んで出発。運転手はキクユ族の若いジェームス氏でナイロビに住み、二男一女の妻帯者である。バンツー系の農耕民で豆やとうもろこしを食べるので多少肥満気味である。どことなく泥臭くあか抜けしていないが善良な人柄である。

 ナイロビ市郊外にさしかかると舗装道路に大きな穴が至るところに穿いており、これを避けるために車は蛇行しながら進むので思わず体に力が入ってしまう。やがて舗装されていない草原と森林の道を進むことになるが乾期のためもうもうたる砂塵を巻き上げながらガタゴトと大きく揺れながらの走行が続く。防塵マスクのガーゼがたちまち砂塵で黄色になる。

 途中小休止した民芸品売り場には木彫りの動物の像や石彫りの像と赤色をベースとした派手な色彩の首輪や腕輪などが並んでいる。これ等の民芸品を眺めていると店員が「こんにちは」とにこやかに話しかけてくる。しきりにしつこく勧めてくるのでゆっくり眺めていることもできない。やたらと帽子と交換しようとかボールペンやライターと交換しようと言ってくる。が、これはその品をくれという意味で物々交換しようということではない。

 順調なドライブが続き予定通り、アバーディアにあるロッジ、ザ・アークに到着したが、長時間のがたがた道の走行で腰が痛くなりかけていた。部屋を割当てられて中へ入ると予想していたより設備がいい。早速シャワーで汗と埃を流して観察台のある屋上に行ってみると象の親子が五頭水を飲みに広場へ来ていた。広場には動物用に塩が撒いてある。動物達は種を問わず一様に塩を嘗めにやってくるようだ。生物にとって塩はそれほど大切なものなのであろう。夕食までにブッシュバック、バッファロー、象、小鳥等を観察した。夕食後は部屋へ帰って待機していると珍しい動物が現れた時、枕元のブザーで知らせてくれることになっている。疲れているので手持ちのウイスキーを引っかけてベッドに入ると忽ち寝入ってしまった。

 夜十時半と十二時半の二回だけベルの音に誘われて起きだし観察場へ出掛けた。セーターを着てジャンパーを羽織らなければ寒いくらいだ。ベッドには湯たんぽが入っているほどの冷え込みである。十時半の時には犀を二頭観察した。十二時半の時は手負いの水牛を狙って現れたハイエナの群れを観察した。しばらくの間、池に逃げ込んだ水牛を襲おうとするハイエナと水牛の駆け引きを観察していたが、なかなかけりがつきそうもないのでベッドにはいり、ブザーがならないようにスイッチを切って寝ることにした。

翌朝五時に目が覚めたので観察台へ行くと昨夜の水牛とハイエナの攻防が まだ続いていた。根負けして遂に池から上がった水牛が灌木の向こうへ逃げたのを追ってハイエナ達が姿を消すところまで見届けると丁度朝食の時間となった。

 結局このロッジで観察した動物は象、ブッシュバック、バッファロー、ぶちハイエナ、犀、狒(バブーン)、いぼ猪、ジャッカル等である。




















2004年08月24日(火) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル�ぁ�

        
平成10年10月29日(木) 
 9時出発ということでホテル前の桟橋から船に乗る。ネグロス川のクルーズである。船の上から陸地を見ているといろんなものが観察できて面白い。高床式の住居、造船所水に抉り取られたとはっきりわかる赤くはだけた壁面群れをなして係留されている貨物船、沢山の客を乗せた水上バス、水上バスの屋根下からハンモックを吊るして寝ている乗客、海上に浮かんでいる石油スタンド、沖あいに停泊している大型貨物船、大きなエンジン音をたてながら水飛沫をあげながら早い速度で動いている小舟。
 
 昨日見たアマゾネス劇場のドームの屋根も見えている。空には禿鷹が数羽舞っている。街と反対側の岸はバージアと言い、雨期には土地は水没してしまい、立木だけが水に浮い。ているように見えるという。水没しても立木は順応しているから枯れることがないという。明らかに水に抉られたと思われる赤い疵あとも見えている。

 暫く経つとやがて、ソリモンス川とネグロス川とが合流する地点に近づいた。驚いたことに両方の川の水の色が全然違うのである。ソリモンス川は白く、ネグロス川は黒っぽいのである。温度はソリモンス川の方が低く、流れの速度は速いということである。このため合流地点でも二つの川の水は混じらず、一方の流れが下に潜ることになる。二つの流れの色は見方によっては牛乳とチョコレートのようにも見える。ところによっては渦を巻いている。そしてピンクイルカと青イルカが水面に跳ね上がるのを目撃することができる。青イルカのほうが多いようである。私は一回だけだったが赤イルカをはっきりと目撃することができた。一瞬のことだから、人に教えることができない。

 二つの川が合流してアマゾン川になって暫く行った地点のバージアに船をつけて上陸した。そこには現地人の高床式の住居があって、白人と混血した一族が生活していた。民芸品の土産物を手作りして沢山陳列していた。魚の鱗や貝を組み合わせてつくった人形面や彫物などが並んでいた。錦蛇の皮が干すために竿につり下げられていたりした。子供が「怠けもの」を抱いていて写真をとるたびにモデル料を請求した。インコウを抱いている少年もいたがこちらには全然お呼びがなかった。

 ここでゴムの木から樹液を取り出す実演を見せて貰った。この人は魚捕りの網を熱心に編んでいた。53人の孫がいるという老婆がハンモックで昼寝していたし、鶏や家鴨が歩き廻っていた。この後再び船に乗って、三角州へ戻りここへ係留して昼食を食べることになった。アマゾン川で捕れる魚や果物や、米を炒めたものが用意されていた。結構美味しく御馳走になった。氷でビールも冷やしてあり、有料であるがよく冷えていてこれも美味かった。乗っている従業員は一族のようであったが、先祖が混血しているせいか、欧州人の顔だちをした子供や原住民だとわかる顔をした子供がいて面白い。金髪の女の子もいたし、青色の目の子もいた。

 食後、丸太を浮かしている貯木場へ行ってピラニア釣りが始まった。舟の上から釣り糸を垂らして釣り竿の先で水面をピチャピチャ叩いて、ピラニアの注意を引き餌に食いついたところを釣り上げるのである。3艘の小舟に分乗して釣り糸を垂れたが、我々の舟では餌だけ取られて一匹も掛からなかった。最後になって漸く一匹、お情けのように女船頭の糸に掛かった。これで釣りは約1時間半の予定を終わり、再び部落へ行ってジャングルの中を行進して大オニハスの葉と花を見学に行った。一つだけ大きな花が咲いていた。 この後船に帰ってつり上げたピラニアのから揚げを食べたが美味かった。。 クルージングを終わって引き揚げにかかった頃、俄に雲が大きくなってスコールに見舞われた。僅かな時間であったが、南国らしい体験であった。

    マナウスの 出船入り船 俄雨  

 ホテルへ帰ってバイキングの夕食を済ませブラジルでの日程を終了した。ピラルクのあばら骨についた肉を切ってもらって食べたがとても美味しかった。

 深夜11時にホテルを出て空港に向かいマナウス2時発の飛行機でマイアミへ向けてとびたった。
       
平成10年10月30日(金)
 飛行機の中でなんとか睡眠をとることができた。マイアミ空港では大橋さんという男のガイドが迎えにきていた。

 バスで市内観光。フォンテンブルーヒルトン、アルカポネが一時滞在したというピルツモアホテル、ベルサーチの邸宅、ベネティアンプール、騙し絵のあるホテル等を見学し、ベルサーチの邸宅前の海岸を水辺まで行った。海岸の砂浜が広く、ハワイのワイキキ等問題にならない程の広さである。
 このあと、ショッピングモールへ案内して貰い、プラネットハリウッドやGショックの店に立ち寄った。

 昼食は、ニカラガ料理であったが肉が叩いてあり、とても美味しいと思った。蒲鉾のようなものや、赤飯のようなご飯がついていた。
 バイオリンの看板の出ている港から食後クルージングしたが、スターアイランドやフイッシャーアイランドの豪華な別荘やら邸宅を眺めて目の保養をさせて貰った。

 ホテルへ着いてから一寸睡眠をとってから街へ出て見ようと話しているうちに二人とも寝込んでしまい2時間半ほど経ってやっと目が覚めた。時計を見ると既に6時を廻っていた。ホテルの近くの食堂やコンビニエンスショップを覗いた後、タクシーを拾ってサウスビーチへ行った。案内者なしに片言の英語しか喋れない夫婦が大胆にも繁華街へ繰り出したのである。

 運転手に予め印をつけておいた地図を示し、トミーという寿司屋の前で止めて貰って歩くことにした。暫く歩くとシーフードレストランというのがあったのでここへ入って、サーモンとメカジキ(ソードフィッシュ)を取って食べた。量が多くて満腹した。ハロウィーンの雰囲気を味わうための外出であったが、人通りも多くさんざめいていた。仮装した人達も沢山見ることができたので、目的を達して再びタクシーを拾って帰ってきた。ホテルの所在をいうのに私はマイアミスプリングスのホリデイインと地名を言えば判るというのに対して、家内はノースといわなければならないと主張した。問題なく帰ることができたが、後で貰っていたメモをみるとノースエアーポートと。言うのが一番通っている呼称のようであることを理解した。   

平成10年10月31日(土)

 南米の旅も昨日で実質終わり、今日は一路帰国である。

 朝4時には起き出して洗顔、排便、シャワーと済ませて5時に荷物を出してロビーへ行くと、早い人はもうきている。マイアミ空港からアトランタ空港へ。マイアミ空港では朝食用の軽食を袋に入れたものが、蛇腹通路の入り口に置いてあり乗客はこれを手に取って機内へ入るというシステムである。乗客の中にはこれに気がつかず、機内に入ってから慌てて取りに戻るという人もあった。はじめての経験である。競争激化に対応するための合理化策なのだろうか。5時35分ホテル出発、空港7時40分発、アトランタ空港へ9時35分着で約2時間時間待ち。

 今日はハロイーンなので空港接客女性職員の中には仮装の服装で執務しているものもある。乗客の中にも仮装しているものがある。奇抜な恰好の女性客に拙い英語で頼んで写真をとる。するとこれを見ていた同行の客達が集まってきてカメラの放列を作ることになる。アトランタ空港で買い物につきあっていると家内が女王のような振る舞いで私のことをまるで従者のような扱いをするので、無言の抵抗を試みる。大きな言葉を出すのも大人げないと思っていると「もう時間?」と聞く。さっきから何回目になるか、「自分の時計をみなさい」とだけ言ってあとは無視して側を離れ待合室へ行く素振りをした。

 途中喉の渇きを覚え食堂へ入ってビールを飲んだ。この抗議行動の意味するところを解釈して自分の振る舞いに気がついたのか、待合室で座っている私の側へ寄ってきて、にこやかに話かけてくる。何もなかったかのように。全く役者である。これも父親譲りのたくまざる立ち居振る舞いということなのか。11時45分搭乗開始。搭乗すると空席があることが判っていたので、家内はいち早く横になれる座席の確保のために後部座席へ行ってしまった。 

 水平飛行になってから昼食が始まったので日本酒を貰い、お代わりも合わせると日本酒二本、ワイン一本を飲んだためぐっすり眠ることができた。夕方の軽食の時間まで4時間から5時間近くぐっすり眠ることができた。帰りの飛行は暗闇なしの明るいままで夜を過ごすことになるので、眠れる時に眠ったほうがあとの対応がしやすい。お蔭で、本来なら深夜にあたり睡眠中である筈の時刻に日付変更線の影響で昼頃の時刻となる。軽食は食べずにいたが、映画が始まったのでその間に食べた。映画は西田敏行主役の釣り馬鹿日誌である。映画が終わると朝食である。日本食でなかった。機中で日が変わる。

平成10年11月1日(日)

 暗くならないままに日が変わった。着陸は午後3時55分。荷物受け取り、場で顔をみるごとに挨拶をしてリムジンへ急ぐ。しかしこの時間には到着の飛行機が多く、40分程またされてやっとバスに乗車することができた。日曜日なので道路は混んでいたが、市川で一般道路へ下り、混雑箇所を迂回して海底トンネルの手前で再び高速道路に入って快走した。ために1時間40分で横浜へ到着した。さすがプロである。タクシーで帰ってくると支奈と一法君が丁度来たところで玄関に車が止まっていた。空港から電話したときは留守だったのに。土産を渡して、漬物と赤飯の握り飯で夕食を済ませた。手紙等を整理して十時に就寝。手元に残ったドルは472ドルであった。



2004年08月23日(月) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル��】

平成10年10月27日(火)
 ホテルを8時に出発してコルコバドールの丘へ昇るために、登山電車の駅へ向かった。朝一番の電車へ乗って混雑を回避しようという作戦である。赤色の車体の電車に乗って窓の外をみると色々な植物が観察できる。 大きな木の幹に直接ぶら下がっている干瓢くらいの大きさのあるジャカの実。赤い花を咲かせている女王の耳飾り。朱色のアフリカ鳳仙花。

 電車の中でガイドの説明が続く。ブラジルは1500年にペドロ・アルパレス・カプラルによって発見された。1533年に、最初の砂糖が生産された。1727年にコーヒーの栽培が始まった。1728年にダイヤモンド鉱が発見された。そして現在宝石は全世界の生産量の80%をブラジルが占めるという。

 コルコバードの丘には巨大なキリスト像
が建っているが四方を展望できる場所としては最高のロケーションである。実に素晴らしい眺めである。この俯瞰は世界の三大景観の名に値いするものがある。


 再び電車で下ってくると起点駅には、沢山の乗客が列を作って順番を待っている。これを見ると一番の電車に乗るべくホテルを早く出発した理由がよく判る。

 この後、マラカナンサッカー場を見学した。ここでは選手のロッカー室や練習室、シャワー室も見学できた。Tシャツもショップ内で買うことができた。サッカー場で変わっているのは観客席に沿って円周状に幅10メートルほどの溝が掘られていることである。説明によればゲームの結果に興奮した観客がグラウンド内へ雪崩こまないように設けたバリアであるという。このようなバリアが設けられているサッカー場は世界でここだけしかないそうであるから、この国の人々が如何にサッカーに熱狂するかがよく判る。


 サンバ大会の審査が行われるコンクリート製の大きなスタンドにも立ち寄った。3000人〜5000人のチームが踊りながらここで審査を受けるという。想像するだけでも壮観である。ブラジル人を熱狂させる二つの物。それはサッカーとサンバであるという。そのグラウンドと舞台を見学したわけ。である。サッカー場は運が良くなければ中へ入ることができないという。



 この後、リオデジャネイロの中心街、オフイス街を通って三角形の形をし、たメトロポリターナ大聖堂(サンセバチオン)の内部を拝観した。カリオカ水道橋もバスの中から目撃できた。

 昼食は繁華街の通りを信号待ちしながら斜めに横切って、シュラスコ料理を食べに行った。実に贅沢な食べ方をするものである。食べたくない肉を入れる皿が用意してあるのである。いろいろな部分の牛の肉がでてきた。あばら骨についている肉が一番美味いということである。こぶ牛の肉はブラジルでなければ食べられないというのでトライしたが、筋張っていてあまりうまいとは思わなかった。アマゾンの現地人の食事の作法は肉片を一口食べては残りを捨てるのが作法で、いくら美味しいからといって残さず食べてしまうのは非礼とされるという。豊穣の国なればこその食事のマナーである。この習慣が採り入れられたのがシュラスコ料理ではないかと考えている。

昼食に堪能した後、ポンデアスーカルへ登った。ケーブルカーで中継していくわけだがコルコバードの丘に向かい合うようなロケーションである。ここからもリオの市街と美しい海岸線や入り組んだ海が見渡せてまさに絶景である。

 コパカバーナ海岸、イパヌマ海岸、マラカナサッカー場等も見えている。暫し景色を堪能したのち雲行きが怪しくなってきたので急遽、時間を切り上げて下山し宝石店へ急行した。Hスターンの本店である。店員と対面して一つずつ宝石を見せてくれるのである。暫く見ていたが、買う気がないので家内とはぐれたから探しにいくという口実でその場から逃げ出した。家内を見つけて側へ行くとすぐ終わるから一階の民芸品売り場で待っていてくれという。その通りにしたが、退屈してしようがない。所在なげな顔をして椅子に腰掛けていると店員が階下の駐車場で飲み物のサービスをしているからそちらで寛いでくれという。そこでカイピリーニャを2杯御馳走になった。そうこうしているうちに家内がやってきて、相川夫妻と一緒の送迎バスでホテルまで送って貰った。結構距離があった。家内は狙いをつけていた腕時計を買った。今回の旅行では一番高い買い物となった。15万円である。

 夕食は中華料理店で食べてからサンバショーをプラットフォーマーという店へ見に行った。中華料理も品数が多くて少しずつ食べたが満腹した。東ヨーロッパへ行った時には食が貧しいという印象であったがそれに比べるとここブラジルではいずこも雲泥の差であるといえよう。まさしく豊穣の国であり、食である。農産物、鉱産物、工業製品の全てが自給自足できる国であるから国民性は明るくておおらかなようである。

サンバの踊り子達は均整のとれた素晴らしい体をしているが顔貌は美形とはお世辞にも言えない。見ていてもときたま居眠りをしていた。気がついて。目をあけるが半分は寝ていたのではないかと思う。ビデオ撮影ができないので後から見るというわけにもいかないし困ったものだ。それにしても彼女ら、の月収は15,000円程にしか過ぎないという。気候が暑く、食べ物が豊富な国では貧しくとも表情が明るく、悩みなどないかの如くみえるから不思議だ。これにひきかえ不況のどん底にある日本人の表情は暗すぎる。ショーのフィナーレは流石に豪勢であった。数枚カメラに収めた。帰宅したら12時半であったので慌ててベッドに飛び込んだ。
          
平成10年10月28日(水)                    
 5時半モーニングコールの1時間前には目が覚めて、シャワーを浴びてすっきりする。9時00分出発で空港へ向かう。約5時間後にマナウス到着。空港から外に出ると空調が効いていないので流石に暑い。大塚さんという男のガイドが迎えにきていた。バスで自然科学博物館へ直行する。アマゾン川で捕獲される魚や蝶、昆虫の標本が展示されているのだが、魚は大きなものばかりである。ピラルクという魚には驚いた。鱗の一枚が靴べらのように大きくて固いのである。丹念に展示品を一点づつビデオカメラに収めた。

 この後ゴム景気の時建設されたという贅を凝らしたアマゾナス劇場を見学した。ヨーロッパから材料を運んで作ったという凝りようである。港の記念碑の塔が劇場の前に建っていた。このあとトロピカルホテルへ早く入ったので、河畔へ出てみようということになって家内と二人で出掛けたが少し歩いただけで汗だくになってしまった。
 
 桟橋にあがってネグロス川の水に手をつけてみただけで部屋へ帰った。湿度も温度も高いので動くのもものうく気だるい。思考力も停止してしまいそうである。夕食はホテルの食堂でバイキングであった。食後ホテル前の商店街へ行ってタオルを2枚買ったが8ドルもする高いものであった。暑くてクーラーも最高値にセットしてあるが冷しきれない。湿気が高くて洗濯ものも乾かない。
        



2004年08月22日(日) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル�◆�

平成10年10月25日(日)                    
 6時起床。シャワーを済ませてベッドに腰かけていると家内が起き出してきて、お化粧を始めた。7時にホテルの食堂で朝食をとる。このラファイエットホテルは以前パリで泊まったときも同じ名前であったという記憶がある。バイキングである。南国の果物が豊富なのが嬉しい。    

 タンゴのロゴの入ったTシャツを買おうと8時半頃、街中へ出てみるが、清掃の人や車が活躍しているだけで、店はまだ開いていない。ガイドの言っていた通り、日曜日だからなのであろう。ただ、軽食用の食堂は開いていてちらほらと食事をしている人を見かける。それでも一軒、繊維製品を扱っている店が開いていたので、入ってみるとTシャツも売っていた。タンゴの踊りの入ったものをLとMを一着買った。一法君と支奈へお揃いで土産にしようというつもりである。家内が形のよい履きやすそうな靴を見つけて買いたい口ぶりであったが、店が閉まっていてはどうしようもない。ここは歩行者天国のようで、屑入れ箱がやたらに目につく。昨日は夜遅くまで賑わっていた様子が窺われる。

 店が閉まっていては歩いても仕方がないので部屋へ帰ることにした。部屋まで来ると人がいる。メイドが掃除に入っているのだが、我々に気がついて仕事途中で出ていった。枕銭はそのまま残っていた。受け持ちの仕事を早くかた付けようとして、外出している部屋に入って作業していたということらしい。

アルゼンチンで一番大きなゴムの木 風邪気味らしく鼻水が出るので病院で貰って持参していた薬を服用する。指先が荒れているのは風邪薬を服用したからだと見当をつけているので、あまり飲みたくはないが、鼻水が出るのを我慢するのも苦しい。昨日のマスタードのことを思い出したら一句できたので書いておく。

  春の街 マスタード鉄砲に 戸惑いぬ

 11時20分にロビーへ集合してから空港へ向かいイグアスへ飛んだ。13時26分離陸、14時00分着地、15時、迎えのバスでイグアスの滝へ向かう。ガイドは斉藤さんという男の人で旅行社を営んでいる社長らしい。

 滝はアルゼンチン側から見るのであるが、滝壺へ流れ込んでいく様を観察することになる。こちら側からの落差はあまり大きなところまでは見られないが、水量といい流れの数といい規模の大きさに圧倒される。滝の幅は4kmに及び滝の数は300もある。

 生憎の雨で滝を見る前から合羽を着用している。合羽のずぼんを当初着用しなかったので下半身はずぶ濡れで寒くなってきた。慌ててずぼんをはいたが遅すぎた。4〜5年前の大洪水で観瀑橋の大部分が流されたので、舟に乗って残っている橋脚まで運んで貰う。その後、流されずに残った橋を歩いて「悪魔の喉笛」と呼ばれる箇所を見学に歩いていく。飛沫が飛んで激しく水煙が上がっているので、合羽で身を固めていても先刻下半身が濡れていたため全身ずぶ濡れである。ビデオカメラを濡らすまいとビニール袋に入れているのだが、どうしても濡れてしまう。

  イグアスの 飛沫千丈 夏涼し

  大地割れ 悪魔の雄叫び 夏涼し                。  
  夏の雨  足元かばい 滝を見る

 このあとイタイプー湖から放流されて流れてくるパラナ川とイグアスの滝、を経て流れてきたイグワス川の合流する地点が三国の国境になっていて、それぞれの国境点に標識が建っている。ブラジル、パラガイ、アルゼンチンの国境である。この国境をアルゼンチン側から見学したのちカリマンホテルへチェックインした。
        
平成10年10月26日(月)

 オプションでイタイプー発電所を朝、見学するという。昨日の雨のせいで家内は参加したくないような口ぶりであるが、無理に説得して同行することになった。参加するのは男ばかりで家内を入れて6人である。8時に集合してイグアスの街を通り抜けて発電所へ到着した。

 イタイプー発電所はパラナ川に建造された水力発電所で、ダムの総延長距離8km、貯水池面積は琵琶湖の2倍あるという。出力70万キロワットの発電機が18基あるので、総発電量は1260万キロワットとなり、世界最大である。1975年から始めて1995年に完成した。建設の最盛期には飯場としての住宅が9000戸あったといい、労働者も3万人が従事した。総工費150億$で20年の歳月がかかった。タビーンの直径は18mもあり放水管の直径は10.5mである。

 ブラジル国全体の消費電力が5000万キロワットであるからこの発電所だけで4分の1をまかなうことができるのである。現在は5社出資のウエコンが経営している。

 ダムはロックヒルダムの部分に特徴がある。250mの幅に高さ80mであるという。

 ダム建設の技術では世界第一である。イグアスの人口は24万人でホテルの数だけでも200軒あるというから、大きな観光都市である。高級住宅地では80坪の土地で4LDK程度のアパートで2500万円位だという。

 ホテルへ帰ると間もなく、ブラジル側からの滝見学へ出発である。遊歩道を歩きながら滝を見学するわけだが、沢山の滝が轟きわたりながら落ちていく様は、壮観の一語に尽きる。見事なものである。昨日より落差を大きく見ることができる。最終はエレベーターで一般道路にでることになるが、エレベーターホール近くでの滝の落ちゆく様は物凄い。

 昼食はLa Mammaというレストランでイタリア料理を食べたが、今回の旅行ではここの料理が一番口にあった。特に肉が美味かった。ここではカイピリーニャというブラジルの焼酎を飲んだが甘口でとても美味かった。メキシコのマルガリータと似た感じのカクテルであると言えよう。         
 三国国境の街、パラガイのシューザ・デル・エーステという都市は、人口210万でタックスフリーの街だというから昔の香港を小型にしたような国、際都市らしい。

 ブラジルの国花はイッペイといい9月上旬に黄色い花をつける。

 イグアスのカレワ空港よりリオデジャネイロへ飛び、到着後、グローリアホテルへ直行した。ガイドは三浦という男でちょっと癖のある気障な野郎で駄洒落を飛ばしては一人悦にいっているようなところがある。夕食はホテルのレストランでバイキングであった。野菜と果物をしっかり食べた。



2004年08月21日(土) 【マスタードの洗礼と豊饒の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル<� �

アルゼンチンとブラジルの旅 ブェノスアイレス、リオデジャネンロ、マナウス
                 1998年10月23日〜11月1日

平成10年10月23日(金)
 成田エキスプレス13号、横浜駅8時30分発に乗車。東京駅で池袋からの電車を接続するために時間が随分掛かった。池袋からの電車が遅れたらしい。かれこれ30分近く遅れて発車した。
 
 成田空港へはリムジンバスでも行けるが、交通渋滞のことが予測できないので、時間信頼性の高い電車を選んだのに、今日に限って遅延するとはどうも幸先がよくない予感がする。

 結局30分の遅延を挽回できず、成田空港第二ターミナル駅には18分程遅れての到着となった。集合時間は航空機出発時間より2時間前に設定されているので、致命的な遅れではないが、時間を守ってきちんと集合した他の同行者に迷惑をかけることになりそうなのが心苦しい。

 気が急いているので、集合場所に指定されたカウンターがよく判らない。案内のテレビ画面を見るが、該当のものが見当たらない。近くにいた係員に旅行案内書を見せて、何処へ行けばよいかと尋ねるとHカウンターでよいというので、荷物を検査に通して窓口を探すが、やはり見当たらない。時間に遅れたので、窓口を締め切られたかと一瞬不安な気持ちになる。念のためもう一つの案内板を見に行くとやっとJカウンターへ行けばよいことが判った。既に参加者は全員集まっているらしく、我々が一番最後であった。列車が遅れたことをアピールして、慌ただしくパスポートや航空券を受け取った。添乗員の吉沢美月さんは元部下の大沼淑子さんによく似た顔だちの女性であった。

 免税店で寝酒用にジョニーウオーカーの黒ラベルの小瓶を一つ買ってリュックへしまった。海外旅行では時差が介在するし、宿泊所への発着が深夜に及ぶこともままあって、睡眠が十分とれないことがある。そのため、アルコールの力を借りて寝付きをよくする必要性が起きる。トルコ旅行の時、免税店でジョニ黒の小瓶を求めて試みてみた。ウイスキーを寝る前に飲むと寝付きがよくなり熟睡できることが判った。

 それ以来、ジョニ黒の小瓶を買うことが恒例となった。ところで、今回持ち出した小遣いは612ドルである。通常1日当たり50ドルを食事時のアルコール飲料、飲料水、有料手洗い等の出費用としておけば十分なのだが、トルコ旅行の使い残しを全部持ち出したので、一日50ドルの見積もりからすれば多少多めである。帰宅した時、何ドルになっているのだろうか。

 全員が集まって吉沢嬢から説明をきいている時、参加者の様子を観察すると今回はかなり年配の老人が多いなあという印象である。最高齢者は85歳であった。

 13時始動、離陸13時13分。ケネデイ空港着陸11時30分。所要時間11時間25分であった。予定より50分も早い到着となった。窓の外に大陸の広大な平野が俯瞰できたが、ロッキー山脈を越えたあたりだったであろうか、円形に区画された畑が緑色と茶色に見えていて珍しかっ、た。そんな景色が暫く続いてやがてどこでも見られる長方形の田畑に変わった。

 五大湖上空を飛行している時、ここでも雲がなかったので、下界の景色がよく見えた。湖と川が多いという印象である。

  秋の空 湖沼多きに 驚きぬ

 飛行機の中では持参した文芸春秋を読み耽ったので、そう退屈することもなく、多少眠ったかなと思う頃にはニューヨークのケネディ空港に到着していた。今回の旅行では成田出発が昼過ぎであったので、飛行時間が12時間とすれば夜中の12時前後になる。時差を考慮に入れて、現地時間に体を順応させていくには、今度の場合、機中ではあまり寝ない方がよい。睡眠時間調整はうまくいったようだ。

 この空港はとても大きな空港だという印象である。到着したターミナルからブエノスアイレス行きの出発ターミナルである9番ターミナルへ移動するために、バスに乗ったが随分時間がかかった。15分近くかかったであろうか、それ程大きいのである。ベノスアイレス行きの飛行機が離陸するまで7.5時間近くもあるのに、空港で待機しているだけで、外へでることをしないという。

 旅程の作り方としては、ちょっと能のない話である。ベテランの添乗員であれば、参加者の意向を聞いてまわりオプションということで、国連ビルと自由の女神程度の見学はさせてくれるのにと内心では不満に思っていた。しかしこれは旅行社としては責任外の行動となり、あくまで添乗員の個人的な好意に依存することになるので、あまり強くは要求できない。今回の吉沢さんは社歴も浅さそうだし、自信がないのかなと思ったりした。

 結局誰も市内見学の希望を言いださなかった。老人が多いので長時間の飛行に疲れてしまってその元気もないということなのか。でも7.5時間の手待ち時間は勿体ない。ただ私の場合、両者とも過去に見ているので是非にという気持ちではなかったが、例え二度目であっても空港内でただ時間待ちをしているだけよりは、体を動かしたいという気持ちであった。

 機内食が3回でたが、体調を考えると全部食べないほうがよいだろう。どれだけの量食べるかが非常に難しいところだ。美味いからというので食べすぎると胃腸を壊すし、沢山残すのも幼少期戦中派には気がひける。

平成10年10月24日(土)                    
 眠りから覚めて、時計を見ると朝5時10分である。機外に目をやると雲もなくブエノスアイレス上空にさしかかっているところであった。

 山肌を 見せてうねるや ブエの秋                  
 秋の朝 四方発達 白き川                     

 パンパスに 野焼きの煙 たなびけり                

 エセイサ国際空港に5時40分着陸。荷物を取ったり入国審査をうけたり、した後、現地ガイドの熊沢女史の案内で待ち受けているバスに乗り込んで、空港を出発したのは7時23分であった。ニューヨークとの時差は1時間である。熊沢さんは現地生まれの二世だというが日本語はとても上手である。現地通貨の説明に現物を用意していたが、札を金額の大きい順に貼り合わせてあり、コインも並べて貼ってあった。なかなか工夫したなと思わせる。

 7月9日通りを通ると「にせアカシア」が、小さい黄色の花を咲かせている。ジャカランダの木が通りに植えてある。紫色の花が11月に咲くということである。ちらほらとそちこちに咲いているのがみられた。この木は高級家具に使われ木質は非常に固いという。国花はセイボといいディゴの一種である。
          

  ブエの街 ジャカランダが 咲き乱れ               

 大統領府、コロン劇場(オペラ劇場)、オペリスコ(ブ市400年記念)国会議事堂議事堂前のロダン作考える人、基点石等を見学。       

 アルゼンチンの国土は300万平方キロで人口3500万人、ブエノスアイレスは400平方キロの面積に対し1100万人が住んでいるという。 

 革命記念塔、革命広場、メトロポリタン大聖堂を見学。この教会を足早に済ませて外へ出ると出口に老婆の乞食がいた。意外な感じである。トルコでは見かけなかった風景である。教会前の広場のベンチに腰をかけているとパンチパーマをかけた同行の男が近寄ってきて名乗りをあげ挨拶をした。こちらも相応に挨拶を返す。この種の旅行では積極的に働きかけて知り合いになろうとはしない主義を貫いているが、先方より近づいてくるのを拒む理由もない。

 ガイドの説明によればアルセンチンは80%以上がカソリックであるという。移民の国で白人が多い。従って母国を偲んだ町作りをするからヨーロッパに似た街のたたずまいである。

 教会を出てからはボカ地区へ移動した。このあたりは、とたん壁の粗末な家が多い。イタリアからの移民が多いらしく、40%にも及ぶという。この地区にあるプラシチサッカークラブにはマラドーナも所属している。チリーの独立を助けたサンマルチノ将軍の銅像があちこちに建てられていたがカミニートにも記念碑があった。この地区の渡しの船頭を少年の頃のオナシスがしていたという話がある。

 タンゴの発祥の地カミニートに立ち寄った。アルゼンチンで一番古い港町なのに港自体には往時の活気はなく、うらぶれた雰囲気が漂っている。しかしタンゴの発祥地ということで観光客の往来が激しく、屋台だけの土産物屋。が沢山立ち並んでいる。ビルの中に店を構えた土産物屋も数軒あるが屋台のほうにお客は多く集まっていた。

 絵描きが数人、自作の絵を沢山吊るした展、示台の側で画筆をふるっていた。タンゴを踊っている男女のセクシーな姿を描いた立て看板の横で中年の男が手風琴を弾きながらうら悲しい音を流している。よく見ると踊っている男女の顔がくり抜いてある。記念写真撮影用の舞台装置というわけである。タンゴは元々失恋の歌であるというからもの悲しい手風琴のメロディーは相応しいのかもしれない。一枚絵を買った。

 アルゼンチンには東洋人は少ないが、その中では日本人が一番多い。 
 35000人住んでいて、洗濯屋や花屋を営む者が多く、日本移民の歴史は90年になるという。

 レコレタ墓地へ見学に行った。墓地見学と聞いたときは変なものを見に行くんだなと訝ったが墓地へ来てみて納得した。墓地には違いないが贅を尽くした豪華な館が建ち並んでいるのである。総大理石造りのものあり、豪華な彫刻を施した柱や壁面あり、様式もゴチック、ロマネスク、ロココ、アールデコと思い思いの様式がある。大きなものは敷地面積が10坪ほどもあるであろうか、小さいものでも1坪くらいはありそうである。故人の遺徳を偲んで立派な墓を作ることがその一族のステータスと富の証になるのである。墓に莫大な金をかけるという思想はローマ時代にもあったようである。トルコのパムッカレで見学したローマ時代のネクロポリス(墓地遺跡)も遺跡になる前の形はこのレコルタ墓地と類似した景観だったであろうと想像しながら見学した。この墓地では極貧の身から女優になりペロン大統領の奥方としてファーストレディにまで登りつめたエビータの墓が有名である。訪れる観光客が供えるのかここだけは切り花の数が特別に多かった。我々が見学している時間帯に軍関係有力者の葬式があるらしく大変な混雑であった。 

  エビータの 墓に額ずき ジャカランタ

  ゴムの木の その大きさに 驚きぬ

 トランケーラ(牧場という意味)というレストランでアサード料理を食べた。店頭ではデモンストレーションのためであろうか、炭火で羊や子牛の姿焼きをしており香ばしい香りが漂っていた。しかし4本の手足を伸ばして串に刺され丸焼きされている羊や子牛の姿はグロテスクである。この姿を見て美味そうだと受け取るかグロテスクだと感じるかは美意識の問題なのか、人間が内蔵する残虐性の問題なのかという疑問がふと頭の中をよぎった。内蔵の前菜とサーロインステーキを食べた。白ワイン750CCのボトルをとった。10$。  

 パレルモ公園を通り、ラプラタ川を見学した。この川はアルゼンチンとウルガイの国境をなす大河で長さ 361キロメーター、最大川幅は河口の221 キロメーターもあり大西洋に注いでいる。パンパで採れた穀物や冷凍食肉はこのラプラタ川。の港から輸出されていく。

ラファイエットホテルへ入り、1時間程午睡してから二人で街へ出た。地、図と地形を見比べながら、辺りを見回しキョロキョロしていた。

 並木道を歩いて高い木の下にさしかかったところ、木の上から何かが落ちてくる気配がした。鳥の糞か木の葉についていた水が落ちてきたのかなという感じであった。家内が「いやだ、鳥の糞かしら」と言って上を見上げている。

 私は気づかなかったが言われて上を見ながら、右手で後頭部をさすると手に黄色いものがついている。鳥の糞は黄色いのかなと思っていると現地人の男が同じように木を見上げている。そのうち女がティッシュペーパーを取り出して近づいてきた。ここでハット気がついた。ガイドから注意されていたマスタードによる掏摸の手口である。                      
「マスタードだ、掏りだよ。相手にせず逃げよう」と私が叫んだ。近づいてくる二人の男女に対して「ノー、サンキュー」と大きな声で言いながら相手を無視してどんどん歩いた。暫くついてこようとしていたが、毅然とした態度をとったので諦めたのか二人連れは去っていった。

 教科書通りの手口で被害にあうところであった。そのままホテルへ帰って洋服を脱いでみると上着とズボンの上から下へかけて一条、刀で切られたように黄色い線が走っていた。マスタードをかけられたのである。

 二人の男女は手に道具らしきものは何も持っていなかったから、他にも仲間がいて物陰から水鉄砲のようなもので襲撃したのではないかと思う。二人の男女は40歳前後の土着人のような肌の色と顔貌であった。後から考えるのだが、もし咄嗟に相手の襟首を掴まえて、一喝したらどんなことになったであろうか。仲間が出てきて取り巻かれ、大騒動になったであろうか。いずれにしても癪にさわる出来事であった。水洗いして他の洋服に着替えて、タンゴショーへ臨んだ。

 ラベンタナというレストランでタンゴショーを見た。タンゴは腰から下の動きが活発でかなりセクシーである。踊り子達の体型はすらりとして恰好がよいが、顔貌はあまりよくないと思った。食事は再びビフテキを取ったがとても大きくて半分も食べられなかった。パサパサした感じであまり美味しいとも思わなかった。餌のせいなのだろうか。ホテルへ帰ると12時30分を廻っていた。
       



2004年08月20日(金) 【異常と思える程に車の少ない社会、サルサのリズム溢れる国・・キューバ】

キューバの旅 ハバナ、バラデーロ、トリニーダ
                  2000年8月9日〜8月15日
 カストロが革命を成就して以来1962年にアメリカとの国交が断絶し、社会主義体制の道をひたすら歩んできたキューバは一般観光客には閉ざされた遠い国であった。が、日本からの直行便が2000年の8月からチャーター便として就航するようになった。ベルリンの壁崩壊以来、社会主義体制の国々が大きな変容をとげつつある現在、キューバの社会の現実を見学することには非常な興味があったので八月九日発の第二便でキューバ周遊の旅に参加した。

 空港からホテルへ着くまでにハバナ市内のマリアナ地区とジボネイド地区を通り抜けたが、マリアナ地区は下町の雰囲気があり、建物も見すぼらしく上半身裸の男たちが家の前に屯していてなんとなく低所得階層の町といった佇まいである。

 これに対してジボネイド地区は革命前にはアメリカ人達が住んでいた高級住宅地である。敷地も広く瀟洒な建物が多い。現在では各国外交官の居住地として或いは国の文化施設として使われているということで手入れもよく行き届いていてそれなりに美しい。

 ホテルまでの道中の第一印象は道路を走る車の数が異常に少ないことと、



マリアナ地区の建物は補修されておらず薄汚い建物が多いということであった。このような廃墟寸前の建物を見ると何故か東欧のドレスデンやプラハの町を歩いたとき感じたのと同じような社会主義のもたらした負の遺産をここでも再確認した思いである。

 革命広場には高さ109mの塔がそそり立つホセ・マルティ記念博物館、国立劇場、国立図書館、内務省、軍関係の建物等が広場に面して建っている。博物館の前には、第二次独立戦争(1878〜1883)の指導者であるホセ・マルテイの18mにも及ぶ大理石像が建てられていて広場を見守っている。軍関係の建物の壁面にはゲバラの顔が大きく描かれていて、記念撮影の対象として最も有名である。この革命広場には1959年以降、最大百万人が集まったことがあり、7月26日の革命記念日には、カストロ首相が高台に立って演説をするのである。このあたりは如何にも社会主義国家らしい街の佇まいである。

 ガイドのパブロさんにいくつか質問をしてみた。
 先ず、土地や建物の所有制度について聞いてみると土地も建物も国家の所有であり、国民や企業は国からこれを借りて利用しているという。建物を店舗または事務所として借用し商売を営むには収入の10%を家賃として国家に収めなければならないし、営業利益から税金も収めなければならない。観光バスの運転手やガイドのパブロさんも公務員であり世界的に有名なダンシングチーム「トロピカーナ」の踊り子達も公務員なのだという。

 次に公務員の給料について聞いてみると水準は職種により通常一カ月当たり100ペソから186ペソであり、特殊なものは最高800 ペソのものもある。1ドルが21ペソとして換算すると4.8ドル(528円)から8.9ドル(979円)という低い標準であり、最高職でも、38ドル(4180円)にしかすぎない。勿論これだけでは生活できないわけで、米や肉類等の生活物資は別途配給されるらしいが詳しいことは教えて貰えなかった。

ヘミングウエイの邸宅

 ソビエット連邦の崩壊はキューバ経済にも深刻な影響を与え従来のように社会主義大国からの経済援助が受けられなくなったので、苦難の経済運営を余儀なくされた。経済自立のための色々な試みがなされるようになったのであるが、その一つが5年ほど前から始まったドル通貨の採用と国内自由市場の認容である。ペソの国際信用力は皆無に近いので信用力のあるドルを自国で流通させて自国経済を国際経済システムの中へ強制的に組み込んでいこうといういわば一種の荒療治である。ペソ経済とドル経済という二重の経済制度を取り入れたことになり、外来の観光客の頭には経済の混乱がおこるのではないかという心配があるがガイドはあまり触れたがらなかった。

 そして農産物等の60%は政府で収納し政府の管理下へおかれるが30%は自由市場へ廻されて市場経済原理に基づく価格形成が行われるようになった。それでも自由市場で売られる商品は価格が高いという。この自由市場ではドルしか通用しないからドルを持っていない人は買い物ができないのである。市場の入り口にはペソとドルの交換所が設けられているが何故か撮影が禁止されている。

 最初道路に自動車が異常に少ないと感じたことの秘密は輸入に頼るガソリンの供給を政府がコントロールしていることと新車の購入権を独占している政府が新車の購入をコントロールしていることにあるようだ。タクシーには新車が目立つが、値段の安い韓国製が多く目についた。中古車ならば民間人も購入できるということであり、1960年式のアメリカ車が大いばりで町中を走っているのも近頃珍しい光景である。古い年式の車だと部品がなくて困るだろうと聞いてみると、ソ連製の車の部品が転用できるから大丈夫だということである。    

 道路の風景について更に印象を述べると自動車の数が少ないことに比例するように、この国のバスは何れも超満員で走行しており、バスの停留所には沢山の乗客が屯している。 そして土曜日とか日曜日になるとトラックの荷台に若者達が立錐の余地もないほど立ったままで乗っていて楽しそうに話している。これは休日を利用して海浜へ水浴に行く人達で、会社に申請してトラックを行楽のため借りだしているのである。また道路端には停留所のない場所に佇んで、通りかかりの車に手を挙げて合図している人の群れをよく見かける。このような人を発見した場合、運転手には車に収容する余地のあるときには停車してピックアップする義務が課せられているのだという。このあたりに需要を無視した何かチグハグな社会主義国家の統制力というようなものを見る思いがした。

保養地の海浜
 更に町中の公園近くの歩行路に夥しい数の人の群れが行列を作っている光景をみかけることがある。これはコッテリアのアイスクリームを求めて並ぶ群衆である。

 ホテルの個室に備えられているテレビではCNNのチャンネルも選択できる。ハバナのホテルではCNNの言葉はスペイン語であったが、バラデーロでは英語であった。アメリカと国交を断絶しているのにCNNが受信できるとは情報統制が意外に緩やかだなと意外に思いながらそのへんの事情を聞いてみると謎が解けた。つまりスペイン語の放送はCNNの生放送をそのまま翻訳して流しているのではなくて政府の手で取捨選択が行われたうえで放映されているのであり、英語の放送はバラデーロというリゾート地故、外国人しか聞く人がいないから生放送をそのまま流しているのだという。キューバ人がパラボラアンテナを設置してCNNの生放送を受信することは禁止されており違反すると処罰されるというのである。北朝鮮の報道統制の厳格さと比較して情報統制の巧妙さを感じた。

 キューバとアメリカの民間人の相互の国への出入国について聞いてみると先ずアメリカ人がキューバへ入国するには第三国を経由すれば原則自由であるが、キューバ人がアメリカへ入国することは非常に難しい。先ず年間二万枚に制限されているビザを入手することが最初の難関であり、次に十分なドルを調達するのが難しいからであるという。

 この国の主要産物のである葉巻とラム酒の製造工場を見学した。
 葉巻工場はどこもかしこもニコチンの臭いが充満しており作業環境は劣悪である。仕事は、葉の選別作業から始まり、葉の中央にある太い繊維を除去する作業、



葉を巻いていく作業、包装用の箱を作る作業、箱詰め作業、ラベル張り作業と順次工程順に流れていくがいずれも手作業である。多くの老若男女が椅子に腰掛けて作業をしていたが端的に表現すれば工場制手工業(マニュファクチャー)である。日本であればすべての作業は機械化してしまうであろうと思われる単純作業である。

 ラム酒製造工場は日本のビール工場や清酒工場のイメージとは全く異なっており、工場とは名ばかりで、樽詰めされた樽が熟成を待って保管されているだけといった感じの倉庫にすぎない。ラム酒は砂糖液を発酵し蒸留して熟成させ作られるのであるが、この工場にはそのような設備は全然見当たらず瓶詰めの作業も見ることができなかった。発酵させ蒸留されたアルコールが樽に詰められてこの工場へ運びこまれ熟成されるという説明であった。ここもアルコールの臭いがいたる所に充満している上に蒸し暑く作業環境は劣悪の一言に尽きる。

 葉巻工場にしろラム酒工場にしろわざわざ見学する程の価値はなく、付属の店で商品を売りさばくための囮としての工場見学という印象を否めない。劣悪な作業環境といい、単純作業といいこれが社会主義国を標榜する後進国の生産現場の現実である。

 この日最後に自由市場を見学したが、肉、果物、野菜、米等の食料品と手作りの民芸品などが並べられており、住民達で賑わっていた。並べられている商品も豊富ではあるが品揃えが貧弱でまだまだ消費者主役の社会には程遠いという印象を受けた。

 夜はホテルで夕食を摂った後、世界的にも有名なキャバレー「トロピカーナ」へサルサのショーを見学に行った。客席は屋外に設置されていて高い樹木に囲まれていた。総勢百人程の男女のダンサーが入れ代わり立ち代わり現れ、ラテンのリズムに乗ってサルサを踊るわけだが、色とりどりのカクテル光線を浴びて美しい躍動感溢れる光景を作りだしていた。鉄棒の曲芸などサーカス的な要素も取り入れており、ラム酒ベースのカクテルを味わいながら楽しい夜の一時を過ごすことができた。踊り子達は幼少から英才教育を受けたエリート公務員である。サルサは1960年代に中南米の移民達を中心にキューバ音楽をベースとしてニューヨークで生まれたダンスである。そのルーツはアフリカ系移民が密かに信仰していた宗教サンテリアで使われていた打楽器チャンゴのリズムと砂糖黍刈りの手足の動きを踊りに取り入れたものである。

 トリニダーへ向かう時走行した高速道路には殆ど車が走っておらず、借り切り専用道路の感があった。これほど車の少ない国はいままでの旅行で見たことがない。



2004年08月19日(木) 【太陽とサボテンと古代遺跡の国・・メキシコ�◆�

 サンタエレナ村のマヤ人の農家マリヤさんの自宅を訪問し見学した。よく太ったこの家の主婦マリヤさんが自らトルティーヤを焼いて振る舞って下さった。

 広い赤土の敷地は草一本生えていないほどよく手入れされており、屋内も清掃が行き届いていて、いかにも清潔好きな主の人柄を見る思いであった。椰子の葉の涼しげな天井と部屋の中には家具らしいものは殆どなかったのが印象的であった。湿度の高い熱帯地方の風土によくあった生活の形式であると感心して見ていた。また庭には幾つもの檻が置いてあり、孔雀、梟、オウム、九官鳥その他の小鳥が十数種類も飼われていた。彼らは古代マヤ文明を作りだした誇り高きユカタン人でありまたマヤ人の末裔でもあって、今も農業を営んでいるのである。

 メリダから約80kmの所にウシュマル遺跡がある。この遺跡はマヤ文明古典期後期の宗教遺跡で壁面にはプーク(台座や壁面を神像などできらびやかに飾りたてる建築様式)と呼ばれる美しい浮き彫りが残されており、マヤ独特の建築様式の最高傑作といわれている。

 「魔法使いのピラミッド」や「尼僧院」と呼ばれる建物群、「総督の家」が残されていて、これらの建物の外壁には象の鼻のように長い鼻に特徴のあるチャック神像(雨の神)や蛇の形をしたククルカン像やその他の動物像等が浮き彫りされている。「球技場」も残されていて建物の内壁には円形の穴のあいた石造りの突起物が取り付けてあり球技用のゴールではないかと考えられている。そして、ここにある建物には鋭角のアーチ型の石組が多く使われており、重量物を支えるには力学的にも最も効果的な構造であり、彼らの建築技術が優れていたことを証明している。

 ウシュマル遺跡から20km程離れたカバー遺跡も見学した。ここには、「コズ・ポープ」と呼ばれる神殿が残されておりその壁面には表情豊かなチャック神のマスクが多数浮き彫りされており、保存状態のよいものが沢山残っていた。

 古代マヤ人が雨という天の恵みを如何に大切に扱っていたかが窺われる。

 メリダから西へ約120km行ったところに、チチェンイッッア遺跡がある。

 この遺跡は古典期後期(600年〜900年)頃マヤの宗教センターとして栄えた所である。900年頃メキシコ中央高原に文明を持っていたトルテカ民族がここへ進出した。彼らは羽を持つ蛇ククルカンを神として崇めたが、チチェンイッツアを征服してからもマヤ文明を容認しマヤ的なものとトルテカ的なものを融合した。

 チチェンイッッア遺跡ではカスティーヨ(ククルカンのピラミッド)、戦士の神殿、球技場、生贄の泉、カラコル(天文台)を見学した。ここでの最大の見物は高さ30mの建造物カスティーヨである。春分の日、秋分の日にはピラミッドの影が中央階段にさし、蛇の彫刻に羽が生えたように見えるというのである。実に壮大な仕掛けである。そしてこのピラミッドの内部にはもう一つ小さいピラミッドが収められていて、小さなピラミッドの頂上には赤いジャガーの像と生贄の心臓を置くチャック・モール像が置かれている。

 そして、球技場で競技をする戦士達は神に捧げられる名誉の生贄となることを競うのであるという。また生贄の泉(セノーテ)は雨乞いをするために捧げられた生贄を投げ込むための泉であったという。また生贄の頭蓋骨を安置したツオンパトリも残されている。 古代マヤ人やトルテカ人の死生観、宗教観の一端を垣間見た気がした。

 トゥルムの遺跡はリゾート地カンクンに近い海岸線に残されている遺跡である。紺碧のカリブ海の海浜にあるこの遺跡にくると何かしらほっとした気持ちになる。チチェンイッツアで生贄の祭壇とか髑髏の彫り物などを見て、古代人の宗教観の凄まじさに多少辟易しかけてきていただけに美しい自然の光景が心を安らかにしてくれる。この両遺跡は規模も小さくカスティーヨが残されているが、これはカリブ海とのコントラストで風景画の中の一点景と捉えた方が観光客には面白い。

 遺跡巡りの最後にカリブ海の入江シェルハへ立ち寄り、水着に着替えて紺碧のカリブ海の水と戯れた。アメリカやヨーロッパからの観光客がシュノーケルをつけて海底の珊瑚や魚を観察したり、浜辺の椰子の木の下の白浜で背中の甲羅干しをしたりしながら余暇を楽しんでいた。
 カンクンではイスラム・ヘーレス島へ船で渡り、潜水艦に乗ってカリブ海の海底を観察した。珊瑚礁の間を回遊する金色や青色や緑色の魚の群舞を見ているとさながら、浮世のことを忘れて龍宮城に遊ぶ浦島太郎の心境になっていた。

 メキシコシティー市内へ近づくと、近郊の山の斜面に夥しい数の粗末な建物が無秩序に軒を並べている。これはトルコのイスタンブールやアルゼンチンのブエノスアイレス近郊でも目撃したことであるが、田舎にいた原住民達が生活に窮したり、差別にあったりして都会地へ集まり国有地の山に不法に住みついたものであるという。原住民と征服民との力関係が後世に及ぼす影響を物語っているといえるのではなかろうか。

 今回の旅行は古代遺跡漬けの毎日であったが、人間の原点に立ち戻って暫し古代人の宗教観や死生観に思いを致したことは、老後の心豊かな生活を目指している私にとって大いに参考になったと思っている。



2004年08月18日(水) 【太陽とサボテンと古代遺跡の国・・メキシコ� �

メキシコの旅 メキシコシティ、ティオティアカン、メリダ、ウシュマル、チチェンイッツァ、トウルム、シェルハ、カンクン
                  1998年5月16日〜5月23日

 平成10年5月17日午後5時前に標高2241mのメキシコシティへ到着し、前面がガラス張りのキラキラ光っているクリスタルホテルへ荷物を置くとすぐ黄昏どきの市街へ出た。名物料理のタコスを食べるためにガルバルディー広場にあるレストランへ急いだ。高地だけに肌寒かった。

 街の第一印象はコロニアル様式の古い建物が立ち並んでおり、ヨーロッパ風の街並である。コルテスがアステカ帝国を征服してからスペイン人達が作り上げた街だというのが頷ける。

 タコスはトルティーヤというトウモロコシの粉を練って薄く焼いたパンに野菜や肉をくるんで食べるのだが、サルサと呼ばれる緑色や橙色のソースをつけて食べるとなかなか美味しい。

 飲み物にはマルガリータというテキーラがベースになったカクテルを貰った。とても甘くて口当たりがよい。グラスの回りに塩が塗ってあってこれがまた味を引き立てる。

 舞台ではダンス、投げ縄、タップダンスなど盛り沢山であった。踊り子や楽士達の衣装はこれまたスペイン風であった。ショーが終わると待ちかねていたように、老いも若きも日本人以外の客は、我先にと舞台へ上がりダンスを始めた。彼らには踊りが生活の一部になっているという感じである。ガルバルディー広場は通称マリアッチ広場ともいうらしいが、何組ものマリアッチ(メキシコ独特の楽団)が演奏しており、その周辺には群衆が屯してそれぞれに夏の夜を楽しんでいた。

 翌朝、ホテルを出ると操り人形を持った男がしきりにアミーゴと言いながら近寄ってくる。5ペソほどチップを与えて写真を撮った。



 その広さが24万m2もあるというソカロ広場を通って国立宮殿へ入りリベラ作の大きな壁画の解説を聞いた。壁画には夥しいほど数多くの人物が描かれており、その内容は歴史あり、物語ありで説明がなければ意味も分からずに素通りするところだが、ガイドの説明になるほどと頷くことができた。

 メキシコは1917年に現行憲法が制定されるまで、今世紀初頭に何回もの革命騒動や政変があったが、革命の理念は褐色の原住民の開放を目指したものであったから、この壁画の主題はコルテスを初めとして彼らを不当に搾取した白人達を告発することと、古代アステカ世界を礼賛することにあるという風に理解した。

 三文化広場、サンティアゴ教会を見学してから、グァダルーペ寺院のマリヤ像を物凄い人混みにもまれながら見学した。

 三文化広場のあるところはアステカの時代に商業都市として栄えたところで1521年にアステカ帝国とスペイン軍との最後の戦闘があった場所である。アステカの神殿遺跡、コロニアル様式のサンティアゴ教会、そして外務省をはじめとする近代・現代の高層建築が一ケ所に会しているので三つの時代の文化という意味で三文化広場と称しているのである。

 サンティアゴ教会ではミサをしている所やステンドグラスの単純な模様を見学した。内部の壁に装飾のないすっきりした建物はこれでまたなかなか厳かな感じを与えるものである。

 グァダルーペ寺院の周囲にはメキシコ全土から集まってきた善男善女が着飾って、酷暑の中を汗かきながら行列を作り入場の順番を待っていた。ここはメキシコの聖地であり信者達の熱気がムンムンと立ち込めていた。

 グアダルーペ寺院のマリヤ像についてはメキシコ人なら誰でも知っている次のような奇跡が伝えられている。

 コルテスに征服されて10年後の1531年、ホアン・ディエゴという農民が、当時のメヒコ市の司教スマラガの所へ息せき切って駆けつけて来て言うには市の郊外のテペヤックの丘にマリヤが現れて「ここに教会を建てて欲しい。自分がそう言った証拠としてそこに咲いているバラの花を摘み、着ている正装用のマントに包んで司教の所へ持って行きなさい」と言ったというのである。司教がマントを拡げてみると、そこにこのマリア像が写っておりそれ以来、聖母像がメキシコ人の信仰の中心になりこの寺院が聖地になったのである。

 ティオティワカン遺跡へ向かう途中、メキシコ人の土産物店で主人から龍舌蘭の葉を教材として使いながらの説明を聞いたがなかなか面白かった。サボテンの一種であるこの龍舌蘭からは繊維、紙、テキーラ、医薬品、化粧品等沢山の製品がとれて貴重な植物である。バスで移動するときにも、しばしばこの龍舌蘭の畑を目撃した。まさしくメキシコは太陽とサボテンの国である。窓から差し込んでくる日差しも心なしか陽気で力強く感じられる。



ティオティワカンはメキシコシティーの北東50kmにある巨大な宗教都市の遺跡である。紀元前2世紀頃から6世紀頃にかけて発展し、8世紀に滅んだと考えられている。ティオティワカンとは人間が神に変わる場所という意味で、王はこの地に埋葬された後、神に生まれ変わると信じられていた。



 この遺跡にある「太陽のピラミッド」は高さ65m、底辺1辺225m、容積約百万m3もある巨大なもので太陽が正面に沈むように設計されている。このピラミッドの階段を手すりに掴まりながら頂上まで登ると緑に包まれた広大な遺跡を一望できて古代のロマンに暫し思いを馳せた。

 翌日はメキシコシティー空港よりユカタン半島のメリダ空港へ飛んで、マヤ遺跡へ向かう途中マヤ人の市場へ立ち寄って彼等の生活状況を観察した。月一五千円〜二万円が収入だという。中産階級の下限の年収が千ドルだといい彼らは今なお下積みの生活に耐えている。



2004年08月17日(火) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ�ぁ�

平成9年12月30日(火)
 朝8時半から初めて艇に乗って練習。ワシントン州立大学より借りたグラスファイバ−製のエイトである。我々が鶴見で練習に使っているベニア合板の艇に比べてスマ−トで軽るく如何にもスピ−ドが出そうである。ラダ−も小さくて本当に効くのかなとコックスのSさんが心配そうな顔をしている。

 オ−ルは瀬田川の艇庫から空輸されてきたダ−クブル−の懐かしいものである。八本の中に二本だけ、故N・K君の銘の刻まれたオ−ルが混じっている。N・K君の奥さんが個人の冥福を祈ってボ−ト部に寄贈されたものである。この二本のオ−ルは故人と最も関係の深かったI氏とH氏の友情の手に握られて今アラワイ運河で水を掻こうとしているのだ。N・K君よ安らかに眠りたまえ。

 約一時間半の練習。コ−スを千メ−トル漕いでみた。初体験であるが遅れをとらずになんとか合わせていくことが出来た。これなら試合にも出られるだろうと闘志が体中に漲る。N・K君のためにも頑張るぞとの決意を新たにオ−ルを引いた。

練習後、朝昼兼用の食事をペリ−ズ・スモ−ギ−でする。5.99ドルに税4.17%で6.24ドルであった。食後K氏と水泳に行くが道を間違えてヒルトンホテルのほうまで行ってしまった。あとで判ったことであるが、このホテルの庭でオ−プニングセレモニ−が行われることになっていたのだ。図らずして会場の下見をしたということになった。

 夕食は予て下見をし予約しておいた北京で学生諸君と顔合わせ会という形で行われた。 OBは120 ドルの負担となった。

席上自己紹介を兼ねて全員スピ- チをしたが、N・K君のオ- ルを手にして初漕ぎをした団長のHさんのスピ- チは人の心を打つものであった。前日の夢にN・K君が白髪をたなびかせて笑顔で手招きしながら現れたというのである。心なしかHさんの声は潤んで聞こえた。友よ今こそ友情の証によく食べ、よく飲みかつよく漕ごうではないか。

それにしても学生諸君の食べっぷりは頼もしい。自分達にもあのような食欲旺盛な時期があったのだなと千切りのキャベツにソ−スを掛けて、鯨肉と一緒に麦飯をかきこんだ石山の合宿所のことを思い出していた。
             
平成9年12月31日(水)
 朝から練習。約二時間。日本では本日は元旦。3時半よりヒルトンホテルの芝の上でオ−プニングセレモニ−。英語のヒヤリングができないので会話に参加することができないのが情けない。それにしてもOさんSさんの会話能力は素晴らしい。ヒヤリングが出来ているのであろう。二人とも流暢な英語を喋っているのでもなく、話が上手いというのでもなく、知っている単語を並べているだけという感じであるが、ちゃんと自分の意志を相手に判からせて目的を達してしまうのである。物怖じせずに相手に立ち向かって自分の意志を伝えようとする迫力が会話をなりたたせているのであると思う。見習わなければならない所だ。しかし、小生の場合ヒヤリングが出来ないので相手が何を言っているのかが分からずのっけから会話が成立しないのである。英語圏の海外で仕事をした経験のある人とのキャリアの違いを如実に感じさせられた一場面である。夕食はペリ−ズ・スモ−ギィでバイキング。95ドル。

 横浜へ新年おめでとうの電話をかけた。ここハワイに居ると正月気分も沸かない。日本人がやたらに目につくようになった。明日から試合なので9時半には床についたが、アラワイ運河のほとりでしきりに爆竹を鳴らす音が聞こえているのを夢うつつの中で聞いていた。一際大きな爆竹の音で目が覚めた。暫くうとうとしていたが時計を見ると12時半であった。多分日本でいう除夜の鐘に相当する中国式の年越しの合図なのであろう。運河の近くには中国人達が多く住んでいるという。

 年賀状に書いて出しておいた俳句を思い出した。

 ボ−ト漕ぎ 異国で味わう 雑煮かな 
 果たしてこの正月ハワイで雑煮が食べられるのだろうか。
                                  
平成10年1月1日(木)
 元日であるが、外国にいると正月という気分がしない。

今日からレ−スである。七時十五分に乗艇した。オ−ルド・ボ−イズはロンドンから来たウエストミニスタ−Bクル−という高校生クル−が相手である。千メ−トルで22秒、五百メ−トルで11秒のハンディキャップを貰って八時半スタ−ト。我々のクル- が先にスタ- トして、ハンディ- 時間経過後相手クル−がスタ−トするという競技方法である。後からスタ−トした相手クル−の声と水音が後ろから迫ってきて全員闘志に燃えるが、気ばかり先行して思うように体が動いてくれないのでピッチもなかなか上がらない。七百当たりで追いつかれあえなく敗退。残念ながら二戦とも負けた。



この時の当方の編成はコックスS、整調H、七番N、六番T、五番I、四番H、三番小生、二番K、バウkであった。私の経験ではレ−スで千メ−トルもの長い距離を漕いだのは初めてであったが、腹切りもせず空振りもなしで最後までついていくことが出来た。これは私の自慢である。素人が僅かばかりの練習をしただけで、ハワイまで来ていきなり千メ−トルと五百メ−トルのレ−スを連続して漕ぐという冒険に挑戦したのである。T大戦でも三百メ−トルのレ−スである。まともに三百メ−トル以上漕いだことのない素人の私が、全距離を漕ぎきったということは一重に漕友諸兄の友情の賜物であると感謝したいし流行の言葉で言えば私自身を褒めてあげたいと思うのである。

 学生クル−は9時からワシントン州立大学と対戦し、千メ−トルで勝ち、五百メ−トルでは負けた。最初の千メ−トルレ−スで接戦の末、僅かに早くゴ−ルに飛び込んだとき、学生クル−の諸君が両手を上げて歓声を上げた嬉しそうな姿は一生忘れられないであろう。この一瞬の感激のためにこそ人はボ−トを漕ぐのであり、練習をするのであろう。またOBとしてもハワイまで応援にきた甲斐があったというものであり、サポ−タ−冥利に尽きるところである。

 12時からは再びオ−ルドボ−イズがプリンストン大学OBのファット・キャットと対戦し善戦虚しく千も五百もともに負けた。この試合では私とH氏はS氏s氏と交代し応援に廻ることにした。彼等は昨日到着し、睡眠不足気味ではあったが、よく健闘したといえよう。

 この日は学生チ−ムが初勝利をあげたので夕食をOBが御馳走することになりペリ−ズ・スモッギ−のバイキングに連れていったが彼等は皆、惚れ惚れする程よく食べた。

平成10年1月2日(金)
 10時から昨日のメンバ−でオ−ルド・ボ−イズはホノルル・ロ−イング・クラブと対戦し善戦したが、千も五百も及ばなかった。学生クル−は11時からハ−バ−ド・クル−と対戦し千も五百も残念ながら敗退した。彼我の体力差と技術力の差を如実に見せつけられた一戦であった。学生諸君がこの経験を明日に活かして、精進することを望むや切なるものがあると言いたいところだ。

 昼食は、いつも行くロイヤル・ハワイアン・ショッピング・センタ- 地区でない所へ行ってみようということになり、アラモアナ方面へ向けて出掛けた。コンベンションセンタ- を通り過ぎてちょっと行った辺りに飲食店がたちならんでいる。しかしよく見るとどうも韓国人街らしく、風俗営業のいかがわしい看板が出ている店の隣がレストランになったりしている。暫く物色したが、なかなか適当な店が見つからない。もうすこし先へ足を伸ばしてみようかといっている時、比較的こざっぱりした和食の店を見つけた。入ってみると日本語の達者なウエイトレスが出てきて、特別料理として雑煮と魚料理のセットものがあるという。韓国人の経営らしいが特別料理として雑煮のメニュ- を揃えるなどこの国の人は商売がうまいと思った。値段も18ドルほどなので全員それにし改めて新年の賀詞を交換しあったものである。

午後4時半からコ−チ会議がアウトリガ−・カヌ−・クラブズで催され、オ−ルドボ−イズは全員が招待された。当地で求めたアロハシャツを着用している仲間が四人ほどいたが、顎髭を長く伸ばした禿頭の審判長がたまたま我々仲間の着用しているアロハの柄と同じものを着用して現れた。お互いに指摘しあいながら「ウィ- ア- ブラザ- ズ」と冗談をとばしあうなど和やかな雰囲気の中でパ- ティ- は進行した。しかしながら、会話力の弱いオ- ルドボ- イズの面々は所在なくノンアルコ- ルのフル- ツポンチを飲みながら壁の花ならぬ壁際の彫刻になっている人が多かった。

それにしても、夕日がワイキキの海岸の遙か彼方の地平線に沈んで行く光景は百万ドルの値打ちがあると言ってもよかろう。皆がしばしこのサンセットに見惚れていた。

パ- ティ- が終わってから、夕食にはビフテキを食べようと衆議一決してワイキキの町のレストランを物色していたところ、ビフテキを格安の値段 (確か3ドルだったと思う)で提供するというビラを見つけた。客引きにビラの通りの値段で食べさせるのだなと確認するとそうだということなので12〜13人のグル−プが店の中央のテ−ブルに陣取った。先ずはビ−ルを注文し、これから料理の注文ということになった時にインチキ商法であることを見破った。ビラに掲載されているビフテキはメニュ−にある他の料理とセットになっていて、その料理を注文したら別に3ドルの値段でビフテキを提供するというものであった。他の料理というのが40〜50ドルとべらぼうに高いのである。

 説明を聞いて一同、怒り心頭に達してビ−ルだけ飲んで何も食べずに席を蹴って出てきた その店にはインチキ商法に引っ掛かっているとも気がつかないで法外に高い食事をしている日本人観光客もいたが、中央に陣取った我々大勢のグル−プが何も食べずに出ていくのを怪訝な顔で見ていた。悪徳商法にひっかからずに済んだという笑い話の一つとしてかたずければいいのかもしれない。

 しかしながら翻って考えてみると日本は今こそ不況の中で呻吟しているが、日本国民一般が高度成長からバブルに至るまでの期間は世界に対してその経済力を鼻にかけ、不遜で思い上っていたのではなかろうか。チップを法外にはずみ、高価なブランド品を買い漁り、観光地の物価を釣り上げ、夜の巷で札びらを切って御乱行に及び諸国の顰蹙を買い、対日本人向け特別価格を形成せしめたという謗りを免れることはできないだろう。今回のような日本人相手の悪徳商法を生み出させしめたのもまた日本人であると言えるのではないか。その意味もあって日本人の中にも骨のある人達が居るということを悪徳商人共に思い知らしめねばならないという意識が我々の気持ちの中にあって、とらせた今回の行動であると言えるのではなかろうか。S氏が旅行中しきりに言っておられた安易にチップをはずみ過ぎると却って馬鹿にされるという言葉は正論だと思う。

結局ホテル近くのシッツラ−でビフテキを食べることになった。ここでは12ドルなのである。如何にしてリ−ズナブルな値段の料理屋を捜しだすかがこうした外国での合宿の成否を決める大きな要素になると思うのである。
        
平成10年1月3日(土)
 今日からI、H、K、Oの各氏は帰国したので、オ−ルド・ボ−イズはメンバ−が足りなくなる。小生の出番がやってきた。よしもう一度漕ぐぞと力が体の中に漲るのを感じた。それにしてもまだ二人足りない。補漕の学生諸君二人に応援を頼まねばならないのである。

 その時頭に浮かんだのは補漕できている四人の学生諸君のことである。彼らも外国で漕ぎたいであろう。たとえオ−ルドボ−イズの中に入ってでも漕ぐことが出来れば、彼等のボ−ト人生のなかでいい体験になるであろう。一回も漕ぐことなく帰国する学生があってはならない。彼らに外国を体験させ力をつけさせるのが目的で今回の遠征が計画されたのではないか。ここに思いが到ったとき補漕の選手達に一回でも多く漕がしてやりたい、そのためには素人の私が下りればいいという気持ちが自然に心の中に沸いてきたのである。私のこれからの勤めは岸辺から声の限り旗を掲げて声援することだ。その旨を意志表示した。幸いこの私の気持ちは快く理解されて補漕の選手は全員一回以上は漕ぐことができるようになった。

 レ- スはオ- ルド・ボ- イズがウエストミンスタ-Aクル- と対戦。補漕の学生諸君三人を加えてのレ- スとなり、若い諸君が力漕したが千、五百共に惜敗した。

 学生クル- はオ- プン戦で相手はいずれも女子クル- のORUとUSCの2クル−であった。いずれもハンディ−を提供しての対戦であった。接戦の末、追いついて勝ったレ−スもあったと思うが、勝敗の結果を確認していない。
     
平成10年1月4日(日)
 最終日である。オ−ルドボ−イズはハワイ・ロ−イング・クラブと二回目の対戦であったが、若い学生選手が四人入ったので、ハンデキャップなしをN主将が、元気に要請して相手に立ち向かった。接戦を演じたが僅かな差で1000、500 とも勝ちを譲った。我がオ- ルド・ボ- イズ・クル- の四人のOBは学生諸君の力強い漕ぎについていくのが精一杯の戦いであった。漕いだ選手の事後の感想は皆一様に今日程歳を感じたことはない、気ばかりあせるが体がついていかない、若い諸君に乗せて貰っているだけだったというものであった。

 全レ- スが終わってからヒルトン・ホテルでアオ- ド・バンケが催され、デイナ- を食べながらお互いに健闘を讃えあい国際親善の場を楽しんだ。最後に求めて、オ- ルド・ボ- イズ、学生諸君一同が会場中央に集まりスクラムを組んで琵琶湖周航の歌を歌った。予め配っておいたカレンダ- には英語の歌詞もついていたので、外国の選手の中には我々に合わせてくちずさんでいる人も何人かいた。H氏とK氏が用意してきた日本の独楽とか扇等の小物のお土産も好評を博した。

 今回の遠征ではH団長がボ−トとはお互いにクル−メイトのことに気を配りあっていかなければ成り立たない競技であるということを、ことあるごとに力説しておられたが、まさしくその通りであると思った。思えば平均年令60才のオ−ルド・ボ−イズ・クル−が事故もなく異国の地で無事漕ぎ終えて、それぞれに達成感を味わい爽やかな思い出を残して帰国できたことは一種の奇跡であると言えるかもしれない。いやそれよりも、H団長、N主将、漕ぎ手の人、本土で今回の企画を推進して下さったOB会の関係者各位の相手を気遣うという気持ちが一つの目的に向かって結集したからであろうと思う。本当に有り難うと心から感謝申しあげたい。

 鶴見川でまた漕友達とオ−ルを握り、T大戦、琵琶湖就航を目指して良い汗をかきたいものである。今晩はきっと練習後、生麦のビ−ル工場でジョッキを傾けながらクル−メイトと談笑している情景を夢にみることだろう。



2004年08月16日(月) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ��】

平成9年12月28日(日)
 ハワイ到着と同時に申し込んでおいたハワイ島ツア−に参加。一人150$。5時50分にホテルへバスが迎えに来た。昼食付。

 ホノルル空港からヒロ空港まで約一時間位の飛行。機内の窓からハワイ島の影が見え出して注目するととてもなだらかな山並みが三つほど見える。その内の一つが今日見学する予定のキャラウエア火山なのだろう。富士山よりも斜面はなだらかな感じである。

 空港よりバスにてレインボ−滝へ。道中日本人一世の上田さんという年配の女性ガイドがヒロの町は津波で壊滅したことがあると名調子で説明してくれるガイドの説明の中に時折り、日本人の当地における破廉恥な行動批判が巧みに織りこまれていて耳が痛い。

 津波の恐れがあるためか、不景気のためかヒロの町には空屋になったビルが目立つ。ハイスク−ルの校舎等を窓外にみながら再びヒロ市内へ戻り、ココナッツ工場とTシャツの工場を見学した後、海岸で時間を潰す。

 モ−タ−バイクの展示のある店で昼食。ハワイアンの音楽を聞きながらの昼食。ハワイアン音楽に若い頃かぶれたこともあるというSさんは御満悦の様子。食後、構内の庭園に植えられている僅かばかりの蘭の花を鑑賞したが自分でも沢山の蘭の鉢を持っているという博学のHさんの解説つきであるから分かり易くためになる。

 ピナウの黒砂海岸を経て



キラウエア火山の噴火口を二箇所の観察地点から見学した。火山の噴火口跡なのに水が全然溜まっていない。月世界はこのようなものであるという。暫し月世界へ行った気持ちになって空想の輪を広げてみる地質学的には非常に若い火山口であると博学のH氏が解説してくれるので成る程と思う。地面から噴出しているガスに運転手が煙草の火を近づけるとたちまち白い煙がたち昇る。噴火こそしていないが生きている火山なのであろう。

 このあとオニツカ蘭センタ−へ立ち寄り空港を経て帰宅した。ハワイ島はオアフ島に比べるとまだ開発の進んでいない素朴さが残る島ということが出来る。夜は京屋でうどんすきを食べる。60ドル。
          
平成9年12月29日(月)
 ニユ−エバ−ビ−チゴルフクラブで、I、H、Y、W、K、小生、T氏でゴルフをした。3人と4人の二組。私はH、I氏と同じ組。Sさんのクラブを借用して靴は履いていったスニ−カ−でプレーした。フイ−が80ドル。タクシ−が60ドル。8番アイアンが紛失したとの錯覚があり慌てた。H氏は人のプレ−中声を出したとかパタ−のライン上に立ったとかなかなか口うるさい。マナ−としては正しいことを言っているのだが、自分の技量不足の結果をそのことにかこつけて、他人のせいにする悪い癖がある。結果は52-54 のスコア。またしても 100の壁が崩せない。

 午後からK氏と二人で海へ泳ぎに行った。N氏、R氏夫妻も到着したため夜は会食。柳という寿司屋でH氏が現地に詳しいM氏に依頼して段取りしたものであるが、高級な料理屋である。久し振りに和食を堪能し、リッチな気分になって満足した。酒を多く飲んだということもあり、勘定の段になって計算すると一人120 ドルの負担となっていた。内心ハメを外し過ぎたかなと思っていたら、ささいなことから仲間内で若干の口論が始まって、険悪な空気が一時流れた。しかし、そこはおおらかな性格の人が多く多少飲み過ぎたかなということで大事には到らなかった。スポ−ツで繋がっている仲間は時に、気が付かないで相手の感情を逆撫でするようなことを平然と言って、感情のもつれることもあるが、爆発してしまえば後を残さないところがいい。明日になれば皆ケロッとしていることだろう。
  


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