前潟都窪の日記

2004年09月04日(土) 【アパルトヘイトを廃止し逆差別の始まった国・・南アフリカ� �

南アフリカの旅 ヨハネスブルグ、プレトリア、レセディ文化村、ヴイクトリアフォール、チョベ国立公園、ケープタウン
                2001年12月8日〜12月15日

 年の暮れに香港経由でヨハネスブルグ空港に到着した。このあたりの標高は千四百m程あるらしく、30度Cを越える温度で暑いことは暑いのであるが空気が乾燥していて体感温度はそれほど高く感じない。

 最初バスでプレトリアへ向かった。ここは行政府のある首都で標高1370mの盆地である。ヨハネスブルグの北方60kmに位置し計画的に作られた街は碁盤の目のように整然と区画され美しい町並みが続いている。一人当たりの公園の面積はアフリカ一を誇り、折りから咲き残ったジャカランタの花もちらほらと紫色の装いで街並に風情を添えている。プレトリアは別名「 ジ ャカランタシティー」と呼ばれジャカランタの並木道がいたるところにみられる。因みに南アフリカは三権を司る機関が三つの首都に分散されている珍しい国である。立法府はケープタウン市にあり司法府はブロムフォント市にある。この国の建国に伴う複雑な事情のあることが窺える。



開拓者記念館を最初に訪問した。プレトリアの郊外の丘の上に建つ高さ41mの立方体の建物は、19世紀の中頃に南のケープタウン方面から大移動してきたボーア人(オランダ系の白人で農民という意味)開拓者の歴史と偉業を讃えるため、グレートトレック(大移動)百周年を記念して1937年から12年かけて建てられたボーア人の聖域である。

ボーア人は現在では白人間の混血が進んでアフリカーナと呼称されている彼らは何れもヨーロッパを本貫の地とする人々であるが、アフリカーナというオランダ語を母体とする言語を使用している。


 開拓者記念館の入り口には幌馬車が一台置いてあり、建物を取り巻く外壁には幌馬車が彫刻されている。この幌馬車は荷物を運搬することの他に別の大きな機能を担っていた。移動中に襲撃してくる土着人と戦う時に並べて弓矢からの防護壁として使用されたのである。従って幌は布製ではなくて鉄板で作られている。

 記念館の中には開拓時代のボーア人の生活の様子や移動中に現地人から襲われて防戦する様子等が絵画として年代順に展示されていてズール族との戦闘場面等はリアルでなかなかの迫力である。当時の生活用具等も展示されていて興味が尽きない。

 次に金貨で有名なポール・クルーガーの居宅跡を見学した。トランスバール共和国の第三代大統領で最後の大統領であった彼の居宅は意外に質素で慎ましやかなものであった。



門前に横たわる二頭のライオン像は彼の象徴だということだが印象に残る像であった。

 ヨハネスブルグではチャーチスケア地区を徐行して中心街の佇まいを巡回 しながら観察した。ユニオンビルをカメラに収める時だけ下車して後は通り抜け、中心街の観光を終えた。この間バスから降りることを許されなかったこれは最近ヨハネスブルグ中心街の治安が悪化しているため観光客が歩いていると必ず襲撃されるからだという。世界に悪名高かったアパルトヘイト政策が廃止され、黒人政権になってからとみにヨハネスブルグの治安が悪化したのである。僻地や田舎に住んでいた黒人達が今まで立ち入ることを禁止されていた憧れの都市の中心部へいけば成功のチャンスがあるだろうと考えどっと流入したせいらしい。ところが現実は厳しく、新政権のもとでの経済政策は行き詰まりで失業率は高まる一方なので失業者が生活に困窮してひったくり等の犯罪行為に及ぶせいである。

失業率はどれぐらいかとの質問にガイドは人口調査自体正確な数字のない 国だからまだ失業率の正確な統計はとられていないとの回答であったが、50%を上回っているのではないかと言っていた。黄色人種に属する台湾人のガイド嬢は「現在南アフリカでは黒人によって白色人種や黄色人種に対する逆差別が行われている」と嘆いていた。彼女の挙げた一例は銀行からの借入金に対する利率にもみられるという。即ち中国人に対する利率23%、白人に対して15%、黒人に対して2%であり、銀行に対して不公平ではないかと抗議すると「有色人種はお金持ちだからいいではないか」という答えがかえって きたと嘆いていた。激動する社会の変革期の悩みを今南アフリカの人々は体験しているのである。

 次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。

 文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で7〜8人待機しており観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。



この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。

 彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5〜6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで調度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。



バオバブの木
我々の見学した村の一つには酋長の二人の妻が同一村落内に生活しており 住まいこそ分かれてはいるが、同じ村落内でそれぞれに顔を突き合わせて家事を分担して仲良く生活している。ズール部族では酋長は妻帯四人が公認されていて、牛13頭が妻一人に相当するというから、人権意識やプライバシィー意識に馴染んだ我々には異様な生活に見えるのだが、生まれたときから生活とはそんなものだと信じこんでいる彼女等にはこれを異様と考える我々の方が不思議に見えるようである。文化の違いというものであろうか。

 そして彼らには容易にその属する部族の生活習慣や風俗を変えようとしないで伝統文化を守っていこうとする頑さがある。これを文明に目を背ける蒙昧な停滞とみるか自然と共生する心穏やかな安定とみるか、一種のカルチヤーショックを受けた体験であった。



2004年09月03日(金) 【日の没する沙漠の国にも雪は降る・・モロッコ��】

 日の出を砂丘で見るというのが今日の旅程の眼目であるから、朝は早かった。4時半にモーニングコールがかかり、5時半には4WDに分乗してまだ真っ暗の中をメルズーカ砂漠へ向けて出発した。次第に夜が開けてくるに従い砂漠の広大さが判るようになる。30分程走行すると駱駝が屯している一角に到着した。

 ここで希望者は駱駝に乗って砂丘を小高い丘になっているメズルーガ大砂丘まで遊覧するのである。私はチュニジアで乗った経験があるので歩くことにした。このころになると空もようやく白みだして人や駱駝の姿がはっきり見えるようになる。

 駱駝の一隊と歩行者の集団が歩きだすと驚いたことに、駱駝の群れと一緒に屯していた男達が一斉に歩行者の集団に襲いかかってきた。砂丘は歩きにくいから手を引いてやろうというのである。失業率25バーセントというこの国では観光客はなにかにつけ、仕事の種と目されているのである。手をひくことによりチップを期待するし、掘り出した砂漠の薔薇やアンモナイトの化石等を売りつけて商売をしようとの魂胆なのである。

 ヘルパーと称するこの種の人間が沢山いるから注意するようにとの予備知識があるから、彼等の思惑通りにはならない。しかし、そのうち普段歩き慣れていない女性等は次第に彼らの手助けを借りるようになってくる。するとそれにつけ込んで、物陰に連れ込み法外な値段で土産物を売りつけようとしたりする。砂の上は足をとられてなかなか歩きにくい。特に坂道になると歩行の困難さは増すばかりである。それでも彼らの思惑通りになるのも癪なので、転びそうになっても決して彼らが差し出す手に掴まることはせず、最後まで一人で歩きついに丘の上までたどりついた。7時に10分程前である。待つこと約10分、とても寒く風は凍てつくように冷たい。

 やがて東の空が赤く染まりだして、太陽が顔を覗かせた。感激の一瞬である。一旦顔を出すと日の上がるのはとても早い。みるみるうちに大きくなって正視できない程眩しくなってくる。幸いビデオカメラのファインダーを通してみていると眩しくなく太陽が中天に昇るまで観察することができた。その頃には、はやくも帰路を急ぐ行列が出来始めた。



再び4WDに分乗してホテルへ帰り遅い朝食をとった後、長駆ワルザザートまでの通称カスバ街道をバスドライブである。途中モロッコのグランドキャニオンとも呼ばれるトドラ渓谷に立ち寄り昼食をとった。切り立った断崖の下に開けたオアシスの町である。日向にいれば感じないが日陰になるととても寒い。砂漠の大陸性気候というものの厳しさが肌身を通して実感できたと思った。この後は限りなく続く広大な砂漠の中をワルザザードまでひた走った。

 途中地下水脈が通っている箇所に掘られた井戸を見学した。たまたま水汲みにきていた少女にカメラを向けるとたちまち1ドルと言われてしまった。 キンチディザードという町で小休止し、キンディールで昼食をとった他はただひた走る移動の一日であった。

 夕方ワルザザートに到着した。この町は人口7万人の町で外人部隊の駐屯地として1923年に開かれ、映画産業と砂漠観光の拠点地として発展してきた。現在はモロッコ軍が駐屯しており、軍用施設が沢山存在している。散歩の途中スーパーマーケットを見つけたのでワインを探しによってみたが、アルコール類は一切置いてなかった。ビスタシオとキャンデーと水だけを求めた。イスラムの国の田舎町でアルコール飲料を求めようとすること自体がどだい無理な話なのであろうか。

 今朝はゆっくりしていて、9時50分にホテルを出発した。いくらも走行しないうちにトゥーリルトのカスバへ到着した。カスバとは支配者の居住地のことで、メディナの内外を監視するための城塞を言う。メディナの一角に存在する場合と地方の小さな砦や地方官の邸そのもの、またはそれらのある高い城壁で囲まれた町全体をいう場合がある。トゥーリルトのカスバは後者のほうである。

 このカスバはかつてマラケシュのフランス軍司令官ゲラウェイが住んでいたところとしてまた映画「シェリタリングスカイ」の舞台となったことで有名である。彼はこのほかにも映画「アラビアのローレンス」のロケに使われたティフルトートのカスバも所有していた。現在はホテル、レストランとして使われている。我々はどちらも入場はせず全景をカメラに納めただけで通り過ぎた。所有者であったゲラウェイなる人物は20世紀初頭のこの地方の部族の首長であるが、フランス軍がモロッコ南部の治安を維持するために諸部族の首長の地位を保全する政策をとった際に重用されたのである。

ワルザザートの西方33kmの地点にアイト・ベン・ハッドウという村がある小川のほとりの丘全体を利用して作られたクサル(村全体が要塞化されたもの)と呼ばれるカスバで保存状態は極めて良好であり、モロッコで一番美しい村と言われている。 この村には現在僅か5家族だけしか住んでいないが「アラビアのローレンス」「ソドムとゴジラ」「ナイルの宝石」等のロケに使われた。ここでは中へ入場し迷路のような坂道を頂上の穀物貯蔵庫まで登ってみたが、四囲を見渡せるロケーションは要塞としては絶好のものであり難攻不落を誇っていたというのも頷ける。世界遺産に登録されて補修作業も行われていた。

 アイト・ベン・ハッドゥで昼食をとってからは再びマラケシュ目指して長い道程のバスドライブが続いた。

砂漠の中のドライブが暫く続きバスは次第に高度を上げていった。オートアトラス山脈山中へ入ったのである。ヘヤピンカーブの続く荒涼たる禿げ山をどんどん高度を高めながら標高2260mのティシュカ峠に差しかかったこんな所にと思える道端に陶器の壺やアンモナイトの化石が並べられている峠で小休止する観光客目当てに土産物屋が行商にきているのである。商品は平地から仕入れて肩に担ぎ運んだのであろうか、或いは高地にも窯元があるのだろうか。その辺は謎として残った。

テイシュカ峠を越えた途端に周囲の景色はがらりと変わる。今まで禿げ山だったのが大小の樹木が生い茂る緑豊かな山々に変貌するのである。そのあまりにも劇的な変化にアトラス山脈がモロッコの気候風土に与えている絶大な影響力を如実に見る思いであった。大西洋や地中海で発生した雨雲はこのアトラス山脈に遮られて西側に雨を降らせ、乾燥した空気だけが東側へ吹き抜け砂漠地帯には殆ど雨が降らないという図式が想定されるのである。造化の神の悪戯とすれば、神は砂漠の民に対してあまりにも意地悪である。

 マラケシュのガイドはアラビア人とベルベル人の混血であるマジードさんという33歳の男性であった。彼は9か月間書物だけで日本語を独習したと言っていたが、意味が通じる程度の怪しい日本語を喋る。近時日本人観光客が増えたのに着目して、日本語を独習してガイドになった彼は現在受けに入っているようだ。それにしても必要に迫られやる気になれば一見不可能に思えることでも可能にすることができるという仮説を立証するような人物であった。

マラケシュではクトゥピア、サアード朝の墳墓、アグダル庭園、バヒーア宮殿、メナラ庭園、ムアシンの泉、スーク、ジャマ・エル・フナ広場を見学した。

 クトゥピアはマルケシュのランドマークとなるミナレット(祈祷塔)である。高さ77mの塔はムーア様式の建築でアールモラヒド王朝のヤール・エル・マンスール王の時の1192年に完成した。

サアード朝の墳墓にはこの王朝のスルタンやその家族や召使等大小二百人もの墓が安置されている。霊廟は三つの部屋で構成されていて木や漆喰に施された彫刻が素晴らしく、スペイン・ムーア様式の傑作と言われている。最初の部屋はミヒラブと呼ばれるメッカの方向を表す窪みのある礼拝堂である次の部屋は12本の大理石の柱が木や漆喰でできたアーチを支えていてアーメド・エル・マンスール王とその嫡出の息子や孫達が埋葬されている。三つ目の部屋にはエル・マンスールの非嫡出の子供達と彼の母堂ララ・メッサウダの墓が安置されていて、霊廟の外側は薄いピンク色に塗られている。この霊廟は16世紀に建てられたが、アラウィーン朝のムーレイ・イスマイル(1672〜1727年の在位)によって壁が築かれその存在が秘匿されていた。1917年になって壁が壊され霊廟の存在が世に知られるようになった。

バヒア宮殿は19世紀に開設されたものでメラー(ユダヤ人街)の北側にあり、豪華な装飾の大広間や愛妾用の会議室と個室には彩り鮮やかなタイルが張られ、アトラスシーダー材の天井は船底型になっていて細密画が描かれている。壁や柱の様式はアルハンブラ宮殿に勝るとも劣らない芸術作品である メナラ庭園はメディナの城壁の西側にあり、広大な庭園は12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が繁っている。中央の湖を思わせる大きな貯水池の畔にはスルタン達が逢瀬を楽しんだバビリオンが建っている。

スーク(市場)の雰囲気はフェズで体験済であったが、狭い路地の中を犇き合いながら通り抜ける醍醐味はモロッコのスークならではの独特のものがある。ここでも鍛冶屋地区を通り抜けたが足場もないほどに金属材料や、製品が置かれている狭い店先の作業場ではいたいけな童顔の少年達が溶接の火花が飛び散ったり、グラインダーの排出する削り粉が宙を舞っている劣悪極まる作業環境の中で黙々と働いている姿が痛々しかった。

最後に訪れたのは気違い広場、大道芸人広場とも呼ばれている、ジャマ・エル・フナ広場である。我々が訪れた時はまだ陽も高く、広場にはアクロバットや蛇使いなどの大道芸人が芸を演じては観客を集めていた。観光客はいい鴨にされ、狙い撃ちされていた。観光客が興味を持って立ち止まり眺め始めるとすかさず、箱や帽子が廻ってきてチップをねだられるのである。食べ物を売る屋台店も立ち並び初めていた。広場近くのレストランの屋上展望席に入りジュースを飲みながら暫く群衆の動きを見ていたが飽きない面白さがあった。日暮れに近付くにつれ恰も地から湧き出るかのように人の数が増えてきて、夥しいとしかいいようのない群衆が広場を思い思いの方向へ往来するのである。或いは大道芸人を囲む輪の中に消え、或いは屋台の前で買い物をして楽しそうにぱくついていたりするのである。ここにも喧騒と猥雑が同居してマラケシならではの光景をつくりだしていた。

 マラケシュのホテルを8時半に出発して大西洋沿岸の都市アルジャディーナを目指した。ここには大航海時代にポルトガル人が開いた城塞が残されているのである。

 緑豊かな田園地帯を走行しているとコンクリートの円柱を半割りにして田畑の畦に敷設した灌漑設備が縦横に走っている光景によく出くわす。灌漑設備のかたわらでは水を容器に受けて洗濯に余念のない農婦の姿も散見されるその周囲には野の花が咲き乱れているし放牧された羊や牛の群れがのんびりと草を食んでいた。農道には驢馬に荷駄を満載した車を引かせて農民が往来している。まことにのどかな田園風景である。

そのうちトラックや乗用車や馬車や驢馬が沢山駐留して大勢の人々が集まっているのを目撃した。これは火曜日ごとに開かれる青空市場だという。農家は自家製の農産物を持ち込むし、商人は日曜生活物資を持ち込んで農民相手に商いをするのである。原初的形態の物資の交換流通の最も単純な市場が開かれているのである。仕入れが終わって驢馬車に家族を乗せて帰路を急ぐ農民の姿がそちこちに見られた。

バスはやがて大きな集落に到着した。前方には海が広がっている。大西洋岸のアルジャディーダである。この町は16世紀に貿易の基地としてポルトガル人によって開かれ、250年間彼らが居住した西欧風の街並みが城塞の中に残されている。雨水を蓄えるための大きな貯水槽やカトリックの教会、ユダヤ人の教会であるシナゴーグなどの建物も今は使われていないが史跡として残っている。訪れる人もないユダヤ人の墓地も残っていて人の世の移り変わり、栄枯盛衰を思わせる。

旅の終わりにあたり、旅行中知り得たモロッコ事情を注記しておくことにする。

モロッコは農業国であり、主たる農産物は玉蜀黍、大麦、小麦、オリーブじゃが芋、煙草、人参、オレンジ、葡萄などである。

次に収入源となっているのは観光収入であり、年間二百万人の海外からの観光客を迎える。三番目には出稼ぎ労働者からの送金である。四番目には漁業によるもので鰯の収穫が多い。五番目に鉱物資源があり、燐鉱石は世界の生産高の17パーセントを産出している。六番目は石油資源である。

国民の所得水準は一例として大学卒業の学校の先生の月給は月五百〜七百$である。失業率は25%にも及び大学を卒業しても就職出来ないことが多く外国特にフランスやカナダ、アメリカに渡るケースが多い。

1982年に徴兵制は廃止され志願兵制になったが、志願者は多く軍は魅力ある就職先と考えられている。



2004年09月02日(木) 【日の没する沙漠の国にも雪が降る・・モロッコ�◆�

メケネスの町は10世紀頃ベルベル人が開いた町で現在の人口は約60万人でありモロッコ有数の農業地帯である。この町の最盛期は17世紀にアラウイー朝のムーレイ・スマイルが古い建物を壊しヴェルサイユ宮殿に対抗できる豪華な王国を建設しようと夢見て、数多くの城壁や門、モスクを建設した。



特に有名なものにマンスール門がある。イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したのでこの名前がついた。北アフリカで最も美しい門だと言われている。

メディナの中のレストランで昼食を済ませるとマンスール門をカメラに納めて、次の目的地ボルビレスへ向かった。

単調な田舎道を暫く走行すると野原の中の小高い丘の上に広がるヴォルビリス遺跡へ到着した。今までイスラム一色に彩られたモロッコの風物の中に浸りきっていた我々観光客の目には、一寸異質な感じを与えるローマの遺跡でギリシャやローマやトルコでよく見られるキリスト教徒の遺物である。元来この地には紀元前2世紀の頃からモーリタニア王国の人々が住んでいて、ワリーリと呼ばれていた。ローマ人達は版図を広げるにつれ、この地へもやってきて紀元前40年頃ローマの属領となったのである。最盛期には一万五千人〜二万人のローマ人達が住み、凱旋門や神殿、公共浴場等の美しい建物が沢山建てられた。しかし3世紀末にはベルベル人の侵略にあって次第に衰退しやがてローマ人達はここを撤退した。その後8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に置かれイスラムの町となったが、1755年のリスボン大地震で崩壊し廃墟となってしまった。邸宅内の風呂場や部屋の床や壁面に使われていたモザイク絵なども発掘されて当時の生活を偲ぶことができる。ヘラクレスの功業を讃える邸跡にあったモザイク絵の一部は現地に残されて展示されている。

 フェズは人口百万人のモロッコ第三の都市であるが、ムーレイ・イドリスにアラブ人として最初に王朝を開いたムーレイ・イドリス1世の子供ムーレイ・イドリス2世が808年に創設したモロッコ最古の都である。爾来1200年もの歴史を持つ古都はモロッコの思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀に出来たフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディト(新市街)とフランス統治下の20世紀に出来たヌーベル・ヴイル(新新市街)の三つの地区に分かれている。そして旧市街はメディナとも呼ばれ、世界最大且つ最難儀の迷路であり、中世のイスラム社会の生活の趣を今に伝えている。

最初王宮を訪問した。ここは現国王のフェズにおける居城で新市街の南側に位置して金色の正門と緑色の屋根の対比が鮮やかである。たまたま近く国王の行啓があるとのことで、王宮職員達がレモンの果実で金の装飾を磨いていた。



次にフェズ市街の全貌を俯瞰するため南側の丘に登った。ここには古い城砦があり狼煙台跡等も残っていた。フェズは最初、旧市街の中程を流れるフェズ川の右岸に当たるカラウイン地区に人々が住みつき市街地を形成した。次いで川の左岸にスペインのアンダルシアから撤退してきた人々が住みつき市街地を作り上げアンダルシア地区と呼ばれるようになった。フェズ川は現在道路になっていて見ることは出来ないが、今も道路の下を流れており、フェズの生活や産業の重要な水資源となっている。

市街地の全貌を頭に入れておいてからブージュルド門からメディナの中へ入り、アンダルシアモスク、カラウィンモスク、イスラム神学校(メデルサ・アタリン)、染色工場(ダッバーギーン)、織物工房、民族衣装店、彫金細工店と見て廻った。

 何しろ狭い路地の両側の壁面には一坪程の面積の店に商品をこぼれんばかりに積み上げて商人達が目白押しに並んでさまざまな生活物資の店を出している。その路地を沢山の人々が肩を擦れ合うようにして往来しており,荷駄を積んだ驢馬までが行き来しているのだから一種独特の熱気と臭気と雰囲気が漂っている。

 路面には驢馬の垂れ流した糞尿が散らばっているし、道端には老人が椅子に腰掛けて所在なげに道行く人々を眺めている上、欧米人や日本人観光客の団体がぞろぞろと物珍しげに店屋を覗きながら通り抜ける。

 日本人と見ると店員達は親しげに怪しげな日本語で「今日は」「ありがとう」「貧乏」「さよなら」などと話しかけてくる。まさに猥雑と活気とある種の倦怠が混沌として入り混じり、メディナの雰囲気を作り出している。仲間からはぐれたら絶対に一人歩きは出来ない網の目のような迷路である。その上掏摸が多いと聞かされているので、懐中物にも気を配らなければならないし、狭い階段の昇り降りには足元に気をつけなければならず,おまけに小雨が降っているので足元が滑りやすく緊張の連続であった。ガイドが狭い門を潜るのでこれについて行くと突然広い空間が目の前に開けそこがモスク内であることを初めて理解する。ガイドが立ち止まって説明するだけの空間が路地にはないのである。

メディナ内の見学をしていて最も驚いたのはある狭い門の前でミントの葉を渡された時である。前の人が受け取っているので不審に思いながらこれを手にして狭い薄暗い階段を登っていくと、革細工が沢山並んでいる。ははあ革製品の土産物屋へ案内されたなと思いながらなおも商品の並んだ店内の狭い通路を進んでいくと突然強烈な死臭が鼻をつき、目前下方に広い空間が開け、風呂桶のような色とりどりの容器が無数に並んでいた。容器の中では半裸体の男達がせっせと動物の革を染料液の中につけて足で踏みつけているのである。フェズ市の共同染色工場(ダッバーギーン)であった。 死臭を嗅いだ時初めて門前で手渡されたミントの葉の束の意味が理解できた。その光景は強烈なインパクトを私の頭へたたき込んだ。劣悪な労働環境ではあるが何となく懐かしい風物詩を見るような思いで暫く異臭に耐えながら見とれていた。先程通り抜けたメディナの路地脇の小さな店内でせっせと革細工職人の手伝いをしていたまだあどけない童顔の少年達の姿がそこに重なった。この国ではまだ労働基準法も児童福祉法も関係のない生活が当然のこととして中世の生活そのままに営まれているのである。

やがて昼食の時間となりレストランに入ったが、これも路地の中の狭い玄関口を通って店内へ入ると意外に思われる程広い空間が開け、贅を凝らしたアラビック模様の施された壁面や柱が我々を迎えた。考えてみると例えば京都などでも間口は狭く奥行きの深いいわゆる鰻の寝床式の店舗は沢山残っており、時の権力者と一緒の町に生活する商人の知恵がしからしめたものであった。これと同様の思考形式でこうした古都のレストランも作られたのであろうか。東西の商人のしたたかさを垣間見る思いであった。

今日の日程の最後に今度は朝とは反対の北側の丘に登り再度フェズの街並みを展望した。一度市街地を通り抜けているので、街中の喧騒と猥雑を思い出しながら眺めていた。

 翌日は移動日である。およそ420km走行して砂漠の入り口の町エルフードまでの旅程である。朝8時半にホテルを出発して先ずアトラス山脈の麓の町イフレンへ向かった。ここは1600mの高地にある避暑地である。瀟洒な建物が多く今までのイスラム世界でみてきた風景とは一変してどこのリゾート地でもよく見かける建物が沢山広い敷地の中に建っていた。ここはモロッコの中のスイスという別名があるらしい。 こんな光景をみているとここがイスラム世界であることを忘れそうである。



昼食はアトラス山脈の山と山の合間にある町ミゼルトでとった。ここは黒大理石の産地でアンモナイト等古生代の化石を含んだ石が産出される。ここで大理石の加工工場を見学した。今まで見た家内制手工業の工房とは異なって近代的な石材の切断機や研磨機が設置されている工場であった。とはいっても設備だけが光って見える粗末な建物であり、あくまで町工場の域を出ない種類のものであった。ここでは細長い貝の化石を沢山含んだ大理石やアンモナイトの入った石が珍しかった。



昼食後アトラス山脈を超えた。途中アトラス杉の繁る森で下車して森林浴を楽しんだ。樹齢二百年もの見事な杉もみることができた。折から2〜3日前に降った雪が溶けずに日陰に白く残っていた。

ザード峠2170m、タルゴム峠1907mを越えると景色は一変する。そこには荒涼とした土塊の山々や砂漠が控えている。川が流れている所にはナツメヤシの生い茂るオアシスが開けている。荒涼たる岩山の間を走行したときの光景はカラコルムハイウエイで見た光景と似通っていた。



2004年09月01日(水) 【日の没する砂漠の国にも雪が降る・・モロッコ� �

モロッコの旅 カサブランカ、ラバト、メケネス、ポルビレス、フェズ、ワルザザード、トウーリルト、アイト・ベン・ハッドウ、マラケシュ、アジャディーズ
                 2001年2月13日〜2月21日
モロッコは面積710.850km2(日本の約1.9倍)の国土と約2762万人の人口を有する立憲君主国である。その国土のほぼ中央には、北部地域から南部地域へかけてリフ、モワイヤンアトラス、オートーアトラス、アンチアトラスという四つの山脈が走っていてモロッコの気候条件を変化に富むものにしている。このうちオートアトラス山脈には四千m級の高い山が連なっており、モロッコの地勢を大きく二つに分けている。即ち、大西洋や地中海の沿岸部は肥沃な穀倉地帯を形成しているのに対し、山脈の南東側は荒涼たる砂漠と点在するオアシスで成り立っている。

 第二次世界大戦後フェズ条約の廃棄と独立の承認があって1956年にモロッコ王国が発足した。現在の国王はムハメド6世でアラウイー朝を継いでいる。1999年にハッサン前国王の逝去に伴い跡目を襲った現国王はまだ年は若いが精力的に国内を巡回し、敬虔なイスラム教徒である国民に人気が絶大であるという。奥方はベルベル人の美人らしいが、国民は誰もその顔貌を写真でですら拝したことがないという。情報社会では珍しいイスラム世界ならではの厳しい戒律である。

カサブランカはモロッコは勿論、マグレブ諸国でも最大の経済都市で人口約257万人である。アフリカではヨハネスブルグに次ぐ第二位の規模の港を有し燐鉱石や農産物の輸出港として栄えている。この街では海岸近くにあるハッサン2世モスクを見学した。

 このモスクは前国王ハッサン2世が1986年から8年かけて1993年に完成させたもので20世紀最高の芸術作品である。その規模は敷地の広さが九ヘクタール、モスク内が二ヘクタールもあり、内外で十万人が収容できる巨大な建物は大きさにおいて世界第二位であるという。ミナレットの高さは200mにも及び、世界一の高さを誇っている。そして何よりも観客を驚かせるのはその規模の巨大なことはもとより、施された彫刻の美しい緻密なアラビック模様である。モロッコ全土から四千人の職人を集めて作られたというが、その費用は信徒の寄付金と税金でまかなわれているところが、いかにもイスラム社会の王国らしいと思った。

カサブランカの街を駆け足で通り抜けて、車は一路首都ラバトへ向かったカサブランカからラバトへ向かう高速道路沿いの街路樹はユーカリの木が多く、木立の間には黄色いミモザの花が咲き乱れ、一面に緑の萌える畑にはオリーブの木が茂り、折からアーモンドの花が桜と紛うかのように咲き乱れていた。二月とはいえ、もうこの地は春爛漫の風情である。

ラバトはモロッコの首都であり、王宮を始め行政機関や各国大使館が広大な敷地を控えて立ち並び、高級住宅街とともに近代的で西欧的な佇まいの綺麗な街並みを形成している。人口は二百万人で1912年に首都となった。ここでは王宮とハッサンの塔とモハメッド五世廟を見学した。

 王宮は現国王モハメッド6世とその家族が住んでおり、17世紀に出来たという白い壁の門に緑色の屋根が一際鮮やかに映えていた。 門前には赤色、青色、灰色、白色の制服を纏った警備の人々が立ち並んでいた。それぞれ近衛兵、警察官、軍人、使用人であるという。その配色が建物とよく調和していて美しいと思った。



ハッサンの塔



は未完のミナレット(祈祷塔)である。1195年にムワヒッド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に乗り出したのであるが、彼が戦死したので工事は中断した。この塔の高さは44mしかないが、実際には88mになる予定であったという。未完ではあるが、ミナレットとしてはセビリアのヒラルダの塔(93m)、マラケシュのクトゥピアの塔>(67m)




ラバトも駆け足で通り抜け、メケネスへ向かった。ここでは昼食に烏賊の中に米を入れて煮た料理を食べた。ラバトからメケネスへ向かう道路の両側にコルク樫の林が大きく広がっているのを目撃した。立ち木の下の部分が長さ2mくらいずつ表皮を剥がれて立ち並んでいる林の姿は一寸異様な雰囲気を漂わせていた。世界有数のコルクの産地であるという。田畑は緑豊かでいかにも肥沃に富んでいるように見え菜の花が黄色く咲いて緑とその鮮やかさを競っていたし、アーモンドのピンク色の花が彩りを増していた。しかしながら田畑に点在する農家の建物は茶色の日干し煉瓦と壁土とで作られた箱型の建物でなんの趣も感じられない単純なものが多かった。




2004年08月31日(火) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア��】

朝八時にドズールへ向けて出発。とても寒いので用意していた厚手のベストと首巻きを膝から下へ巻き付けて脚の冷え込みを防ぐ。途中 通り抜けたジェリド湖は塩水湖で殆ど水がなく、湖底が干上がって塩で白く光輝いていた。予め説明を聞いていなければ雪が積もっていると思ったかも知れない。砂漠の地下に塩源があって雨が降ると窪地に水が溜まり地下の塩分を溶解し塩水の湖ができるらしい。そのうち日照のために水分が蒸発して塩だけが地表に残り白く輝いているという仕掛けである。いわば効率百%の天然の塩田が砂漠に出現すると考えた方が分かりやすいかもしれない。砂漠の砂の中から塩が採れるとは知らなかった。この湖は大きな湖であるが水を湛えたところでも水深は浅く、過半の部分が干上がって、塩を湖底の砂地に結出している。道中この塩を採取している工場も目撃することができた。

 ドズールの町で見学したウルド・エル・ハデフ地区はこの町で一番古い地区で14世紀に作られたという。砂と粘土を混ぜ合わせて作った日干し煉瓦の町並は煉瓦色一色で一種独特の風格をもった景観をつくり出していた。この町は条例で煉瓦一色の町並にすることが決められているという。壁には幾何学的な文様が彫刻されていてとても美しい。 

 午後からは四輪駆動のワゴン車に五〜六人宛分乗して、山や渓谷を探訪して歩いた。探訪した先はシビカ、タメルザ、ミデス等の山中のオアシス
村である。



映画イングリッシュページェントはこの辺りの砂漠と山々が舞台として使われたそうである。険しく切り立った崖や山が大きく割れた谷と遙か下を流れている川があるかと思えば、椰子の木が数本かたまって生えている僅かな平地など変化に富んだ景色を堪能した。タメルザのグランドキャニオンではほんの目と鼻の先にアルジェリアの禿山を望見することもできた。またこれらの渓谷を巡り歩いていると、一つの部落がそっくり廃墟になっている所が何箇所かあった。これは数年前に大雨があって大洪水となり全村破壊された跡だということである。この時の水流の速度は秒速百mにも及んだというからいかにすざましい洪水であったかということが判る。       

 ケロアンへ向かう途中ガフサという人口15万人の町を通り抜けた。この町は燐鉱石が出るので鉱業の町として賑わっている。燐鉱石は年間に八百万t産出しその大きな輸出先の一つが日本であるという。ガフサの町には紀元前八千年頃の遺跡があるというから古くから開けた町で、その後ローマの植民地にもなっていた。キャラバンが集まる地でもあった。走行中キャサリンという町を通過したが、ここにはシャンビー山という海抜1544mのチュニジアで一番高い山があるし、キャサリン峠は第二次世界大戦で戦場になった所としても有名である。またこの地にはフェニキヤ人の墓も発見されている。

 途中のスベイトラの町に入ってくると街道沿いに住居跡らしいローマ人の遺跡が続いている。かなり大きな遺跡が保存状態もよく残っていた。神殿の建物やフォーラムもそれと判る形で残っているし凱旋門も残っている。ローマ人の都市作りの輪郭がはっきり判る形で遺跡として残っていた。往時ここには二万五千人のローマ人が住んでいたというからかなり大きな都市であったことが判る。その後異民族のヴァンダル族が侵入しこの地を支配していたがビザンチン帝国のユスチニアヌスに533年に滅ぼされてしまう。ビザンチン時代に入ってからはローマから派遣された総督により統治されることになったが、グレゴアールが総督の時、この地へ侵攻してきたウクバの率いるイスラム教徒の激しい攻撃を受け645年に敗退してしまった。従ってチュニジアのイスラム化はこの地から始まったのである。

 イスラムの聖人ウクバはこの地を平定すると、669年に前線基地をケロアンへ移し、モスクを建てるなどして以後ケロアンがイスラムの四大聖地として栄えることになるのである。

 我々のバスもスベイトラを後にしてやがてケロアンへ到着した。
 ケロアンではグレートモスク、サハブ霊廟、貯水場跡を見学した。グレートモスクは聖地のモスクとしては予想していたよりこじんまりとしていた。黄土色のモスクの中庭を長方形に囲んで建っている数多くの柱はそのアーチ型の梁とともに美しい建築美を表現していた。サハブ霊廟はモハメットの若い頃の友人にして聖者であるアブ・ザマエル・ベラヴィが眠る霊廟である。このモスクのミナレットの壁に施されたセラミック製の装飾は素晴らしいと思った。

 ケロアンはチュニスの南165kmに位置し周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部の町である。この町は7世紀にウマイヤ朝から派遣された総督スティ・ウクバによって建設されたマグレブ地方(チュニジア、アルジェリア、モロッコの総称)の聖地である。以後アグラブ朝(9世紀)、ファティマ朝(10世紀)、ズィリー朝(11世紀)の首都して栄えることになった。1517年にベドウィン人の侵略を受け町は破壊されてしまい首都はチュニジアへ移されたが、イスラムの聖地としての役割は連綿として現在に続いている。イスラムの四大聖地の格付けはメッカ、メジナ、エルサレム、ケロアンの順とされており、ケロアンへの巡礼七回はメッカへの巡礼一回に相当すると言われている。

 ナブールで陶器工場を見学してからバスはケリビア、ボーン岬を経由してチュニスへ向かった。昨日までの砂漠はなくなり窓外には緑豊かな畑が続いてアーモンドの花が白く咲き誇っていた。オリーブ畑やサボテン畑もなお多い。

 チュニス市にあるバルドー博物館の建物はオスマントルコのベイ王朝の統治者の宮殿であった。これが、1882年に博物館として衣替えされたものである。この博物館で有名なものはその世界一の収蔵量を誇るモザイクである。ローマ時代のキリスト教徒の墓石を飾っていたものが多い。ギリシャ神話、ローマ神話等を題材として物語を絵解きしているものとか当時の動物や戦闘の模様を描いているものもある。当時の社会の風俗や動物の種類、狩りの方法等をしるための有力な資料を提供している。神話や伝説を勉強して再度訪問してみたい魅力に満ちた博物館である。



2004年08月30日(月) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア�◆�

 モナスティールを朝まだ暗いうちに出発してジェルバ島へ向かった。途中エルジェムでローマ時代の円形闘技場を見学した。この円形闘技場は保存状態がよくナポリ、リヨンのものに次いで世界第三位の大きさであるという。石作りの闘技場は四階建ての楕円形のアリーナになっており広場中央には迫り出し用の幅広の溝が掘ってある。溝の両脇には猛獣達を待機させる部屋が設けられている。観客席の一部は完全な復元がなされていて当時の姿を実見することができる。この闘技場では奴隷である剣闘士が中央の溝から迫り出してくる猛獣達と死闘を繰り広げるのであるが、現代人の感覚からすればなんとも野蛮な競技である。しかし、当時は人気のある競技であった。

 本日の旅程は長丁場のバス移動で、エルジェムを後にすると窓外にはオリーブ畑が延々と続いている。オリーブ畑が次第に切れてくるとバグアという雑草しか生えていない砂漠が現れこれがまた延々と続いている。とても単調な景色の連続であるが、やがてナツメ椰子の林が見えてきた。

 ここが初めて見るオアシスの町ガベスであった。昼食をとるためオアシスホテルまで市中をドライブしたが、道路の両脇にはナツメ椰子の畑が拡がっており椰子の木の下には青々と野菜や牧草などが豊かに繁っている。畑の中には灌漑用の小川も流れている。椰子畑のない通りには民家や学校、商店、公共施設等の建物が立ち並び大きな市街地を形成している。この町では油田も発見されて石油の採掘もなされているというからとても大きなオアシスなのである。この町へ来るまでに私がオアシスに対して抱いていたイメージとは全く異なっていた。せいぜい椰子の木が20〜30本程も生えていて緑地が僅かばかりあり沸き水の流れる小川または小さな池がある小さな集落というのが今までオアシスに対して抱いていたイメージであったので認識を一新させられた。ガベスの町のナツメ椰子の木の数だけでも何十万本にもなるのだそうである。町はずれの小高い丘に登って市街を展望すると砂漠の中に緑の椰子畑と市街地が塊となっている町全体の姿が一望できたので、なるほどオアシスであると実感した。新鮮な発見に驚きながらオアシスを後にして、ドライブを続けるうちに再びオリーブ畑が現れだしたと思う間もなく船着き場へ到着した。ここでフェリーボートに乗ると15分程でジェルバ島へ渡ることができた。

 ジェルバ島は514km2の面積を持ち島の海岸線の長さが120kmにも及びチュニジア最大のリゾート地である。島には国際空港もあり、欧州各地からシーズンともなれば数多くのリゾート客を運んでくる人気絶大の島である。島の住民は殆どが北アフリカの先住民であるベルベル人で女性が麦藁製のカンカン帽をかぶるという特異な習俗を持っている。この島はギリシャ時代からその戦略的な意味で重要な島であるため多くの侵略者達に荒されるという難儀に耐えてきた。

 ジェルバ島から翌朝ローマ時代に作られた橋(天の橋立のような道路)を通って本土へ戻ると、暫くオリーブ畑が続き次第に砂漠に変わって、ナツメ椰子の木が見えてきたと思う間もなくメドニンというオアシスの町へ到着した。ここはベルベル人達がキャラバンを組み砂漠を行商して歩く基地となった所でゴルファと呼ばれる商品の保管倉庫が広場を囲んで幾つも並んで建っていた。次第に定住する人が増えるにつれてゴルファは住居に転用されるようになってきたのである。

 ゴルファは、石と日干し煉瓦で造った二階建て又は三階建ての土蔵を意味し、外観は土製の巨大な円筒を二段〜三段に積んで横に並べたようなものである。今はこの住居でベルベル人達が革細工や陶器、金属細工等の民芸品を観光客相手に売って暮らしている。一見えも言われぬ物珍しい景観である。 メドニンを後にすると窓外の景色は再び砂漠に変わり、バスの高度が上がるにつれ荒涼とした小高い山々が見られるようになって、やがて小さな集落のある山中の町マトマタへ到着した。

 この町周辺の禿山のクレーターには北アフリカの先住民達が故郷を追われてきて隠れ住んだ横穴式の洞窟が幾つもあって、いまだに多くのベルベル人が穴居生活をしている。この地で老人夫婦と若夫婦に子供三人の家族が生活している横穴式住居を見学できたが、冬は温かく夏は涼しくてなかなか住心地はよいものらしい。この地方にはこのような横穴式住居が沢山あって二万人以上が生活しているという。バスで通過中も山裾に幾つかの横穴式住居を目撃することができた。またこの地には横穴を使ったホテルもあり、ホテルシティ・ドレスは映画スター・ウォーズのバーの一シーンとして撮影されたことで有名になった。マトマタの町を後にして暫く荒涼とした山並みの続く山中をドライブしてハメズメットという小さな集落を通り過ぎ、更に走行して平地に出ると再びナツメ椰子の生い茂るオアシスが出現しドゥーズの町へ到着した。

 ドゥーズの町はサハラ砂漠への入り口となるオアシスの町である。天幕生活をしながらオアシスを求めて砂漠を駱駝と共に遊牧するアラブの遊牧民ベドゥインとオアシスに定住するベルベルの人々が出会い交流する町として昔から知られていた。サフランという駱駝の基地には駱駝が60〜70頭もいたであろうか。これほど纏まった数の駱駝を見たのは初めてである。ここで駱駝に乗ってサハラ砂漠を40分程遊覧した。我々一行34人がめいめい一頭ずつ駱駝をあてがわれてこれに打ち乗って、轡取りに誘導されながらではあるが群れとなって行進する姿は壮観であった。群れの中には白地に黒の縦縞のついた貸し民族衣装を纏って、ターバンを頭に巻き付けている人も多勢いるのでキャラバンの大移動と紛うばかりであった。駱駝は乗り降りするとき脚を屈伸するので乗客に与える衝撃が強くうっかりすると振り落とされてしまう。しかし一旦、立ち上がって砂漠を歩みだすと乗り心地はとても良く乗馬と同じような感覚である。幸いにも好天で無風状態であったため砂漠の風紋を観察することもできたし多少冒険じみた貴重な体験をすることができた。

 この夜はドゥーズのホテルに宿泊したが朝晩の冷え込みは非常に厳しく、大陸性気候の何たるかを肌で実感することができた。



2004年08月29日(日) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア� �

▼チュニジアの旅 チュニス、ハマメット、スース、モナスティール、ジェルバ島、マトマタ、ドウーズ、ドズゥール、ケロアン、ホーン岬
                 2000年1月11日〜1月20日

 ピュルサの丘はカルタゴ発祥の地とされている。伝説によればフェニキャの王女エリッサが紀元前814年にこの丘に植民都市を建設しようとした時現地人から牛革(ピュルサ)一枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたので、彼女は牛革を切り裂き細長い紐を作り、その紐で土地を囲って広い領土を獲得したと伝えられている。カルタゴが繁栄した頃は数階建ての建物がこの丘に集まっていと考えられており、丘の斜面にはポエニ戦役時代の住居跡が発掘されて遺跡として残っている。この丘の上からは現在のカルタゴ市街を見下ろすことが出来、ラッキーなことに折から対岸に虹がたつのを目撃することができた。

 三回目のポエニ戦争で完敗したカルタゴはローマ人によって徹底的に破壊され廃墟跡には塩を撒いて人も住めず作物もとれないようにされたと伝えられているから、ここにはポエニ時代の遺跡としては住居跡だけしか残されていないのもうなづける。

 現在、遺跡の点在するカルタゴの地はチュニス郊外の高級住宅地に変貌しており、大統領官邸や外国大使公邸なども集まっている。この一帯の住宅は概ね白壁でブルーの窓枠の建物が多く地中海の海の色とよく調和している。


 トフェの墓はポエニ時代にはバール・ハモン神(フェニキヤ古代の神)とタニト神(カルタゴの守護神)を祀る聖域であったところである。当時カルタゴには幼児を殺して神へ捧げるという生贄の習慣があったらしく、小さな墓が沢山並んでおり幼児の骨の入った骨壺も沢山発見されている。現状は単なる墓地にしか見えないし、近くにはフェニキヤ人の墓も残っている。それにしても戦勝祈願と都市の繁栄のためとはいえ幼児の首を切って燃え盛る火の中へ投げ入れたというカルタゴ人の宗教観や死生観には、我々現代人はついていけないおぞましいものがあると思った。

 本日最後に訪れたローマ人の浴場跡は比較的保存状態もよく当時の娯楽センターの面影を留めている。これは五賢帝の一人であるアントニヌスによって二世紀に建設されたものでカラカラ帝の浴場に次いで二番目に大きい浴場であったといわれている。海を背景にして建設されたこの浴場は娯楽場としては絶好のロケーションであり、現在の大統領官邸はここに隣接して建てられており物々しい警護がなされていた。

 昨夜はチュニスから東南約60kmに位置するハマメットのホテルで泊まった。ハマメットの海岸線にはホテルが目白押しに建っており、ハマメットだけでホテルが90以上あるという。そして今なお建設中のホテルを沢山目撃することができた。ホテルの近くの海岸には大規模なマリーナを建設中であり、これが完成すればリゾート地として更に大きな発展が予測されることを見越しての先行投資と思われる。因みに最近のチュニジアの観光収入はGNPの52%に匹敵するというからなるほどとうなづける。ここはフランスの植民地であった1920年代からリゾート地として開発が進められ、数多くの著名な作家や芸術家に愛されてきた所でもある。我々が宿泊したマルコポーロホテルはスペイン人が経営するチェーン店の一つでオープン後、まだ日の浅いホテルであった。
ポート・エル・カンタウエイのマリーナ

 今日は朝市が開催される日だということで、最初に見学に訪れた。道路端に商品が並べられる原始的な青空市場である。野菜、果物、衣類、各種食品日用雑貨類、民芸品が所狭しと並べられて威勢のいい売り子の掛け声が飛び交って、沢山の現地人や観光客に売り込みをしていた。どこの市場でも見られるお馴染みの光景であるが、強烈な印象を受けたのは最近の日本では見られなくなった古着屋と古靴屋が繁盛していることであった。山積みされた古着をバーゲンセールのデパートの如く、身なりのいい老若男女が群れをなして物色しているのである。我が家の箪笥に死蔵されている衣類をここへ持ってくれば有効に処分できるのではないかとふと思った。
ハマメットのスペイン砦

 特に買いたい物も無かったが世界各地の梟の小さな置物を集めているのでチュニジア記念にと物色したら気にいったのが一つ見つかった。アラビア商法は先ず買い手が値段を聞き、売り手の言い値に対して買い手の希望金額を提示するというやりとりを何回か繰り返して、最後は互いに歩み寄って値段が決まるという過程を辿る。最初の言い値の半値八掛け二割引き(約三分の一)であれば買ってもいいと腹を決めて先ず値段を聞いてみた。するとボールペンを貸せというので渡すと紙切れに35ディナールと書いて提示した。高いというと幾らか希望の値段を提示しろというから7分の1の5ディナールだと言い張っていると10ディナールまで下がった。これ以上下がらないというので6にするなら買ってもいいと譲歩すると9にするという。それではいらないと立ち去ろうとした。すると追いかけてきて6ディナールにするという。そこで交渉成立、金と商品を交換した。最後にボールペンを返せというとちゃっかりポケットに仕舞い込んでこれは子供へのプレゼントだといって返そうとしない。さすがにアラブ商人はしたたかである。

 次はハマメット市内のメディナを見学した。メディナとは城郭内に形成された古い市街地のことである。古い建物の間を通る迷路のような狭い路地には土産物屋が店を開いていて、どの店も似たような商品を並べている。このメディナの一角にはカスバと称される要塞が残っている。スペイン砦とも呼ばれていて城門をくぐって中庭に入ると数台の大砲などが置いてあるだけでがらんとしている。1977年から2年ほどかけて大修復がなされたとの説明書きが建っていた。城壁に上がるとハマメットの旧市街や新市街が一望できランドマークであるグランモスクのミナレットも見えている。また折からの好天に恵まれて濃紺の地中海やボートを横たえている砂浜を見下ろすことができる。砂浜には椰子の葉で葺いた茸様の日除けが並んでいて面白い景観をつくり出している。

 スース市内のメディナにはリバトと呼ばれる8世紀に建てられた要塞があり、これは異教徒や他民族を侵攻するための前線基地としてまた町を外敵から守るための要塞として機能していた。またスースには9世紀のアグラブ朝時代に建てられたグラン・モスクがあるが、外見はモスクというよりも要塞に近い景観である。ミナレットさえ外敵を監視する物見の塔と見えなくもない。スース市内のショッピング・センターを見学してから本日の宿泊地モナスティールへ向かった。

 モナスティールはチュニジア建国の父と言われるブルギバ初代大統領の出身地であり、同大統領がリゾート地化して発展させようと大いに力を入れたところである。モナスティールにはブルギバ元大統領の華麗にして壮大な霊廟が威容を誇って建てられていて、観光名所の一つになっているが、御本人は97歳で未だ健在である。同大統領はパリ大学に留学しフランスからの独立運動に従事した。何度も投獄されたが、1955年に独立を獲得し、チュニジア王国首相になりついで王政を廃止してから共和政体になると初代大統領に選出された。内政上は新憲法の制定、政教分離、一夫多妻制の廃止、女性参政権の承認、男女共学の推進などの改革を行い独裁政治でチュニジア国の近代化に貢献した。1975年には終身大統領になったが、老害が多くなり1987年ベン・アリ首相に解任された。

ブルギバ大統領の霊廟

 チュニジア各地を巡り歩いていて印象に残るものに学校の校舎がある。どんな辺鄙な片田舎であっても校舎だけは立派な建物で目立っている。これは就学率を高め文盲をなくそうとする政府の政策の現れでまず学校を居心地のよい魅力あるものにすると共に子供を就学させない親に対しては罰金を課する強い姿勢で臨んでいるという。こうした奨学政策もブルギバ初代大統領の精神を引き継いだものである。それでもまだ学校の数が不足していて少ない施設を有効に利用するため、就学の時間帯に時差を設けた二部制が取られているという。
                  



2004年08月28日(土) 【ピラミッドの国の五千年の歴史・・エジプト�◆�

 北側のリビア高地の赤い岩山を背景にして広大な黄色い砂漠が南側に広がっていて、砂漠の東側にナイル川が蛇行しながら南へ伸びている。機上から俯瞰するとエジプトの国は砂漠の中をナイル側が南から北へ貫流していているだけの地形であることがよく判る。ナイル川の周辺だけに緑があり、砂漠の中に所々緑の線が見える。その緑の線は畑であり、そんなところにルクソールの街がある。ルクソールにはナイル川を挟んで東側にカルナック神殿とルクソール神殿があり西側には王家の谷、王妃の谷、貴族の谷、職人の谷、ハトシェプスト葬祭殿がある。

 最初にカルナック神殿を見学した。この神殿は日干煉瓦で三区画に区分されていて保存状態が最もよいのが中央部にあるアモン神殿である。このアモン神殿は世界一大きな連柱式神殿でパリのノートルダム大聖堂をすっぽり覆い隠すほどの大きさであるという。ガイドの説明に頷きはするものの出てくる王達の名前や年代はなかなか覚えられずただただ神殿の規模の大きさに感心して見ているだけであった。それでも、やたらに多い大きな柱の列とそこに刻まれている多数の浮き彫りは強く印象に残っている。

 次にルクソール神殿を見学した。ルクソール神殿はカルナック神殿と石畳を敷いた人頭のスフィンクス参道で結ばれていたというが、参道は現在発掘調査中でその威容を目視することはできない。ここではひとつだけ印象に残るものを脳裏に焼き付けておこうと考えて見学した。印象に残ったものを一つだけあげれば、入り口のネクタポの中庭と大塔門である。塔門の前には左側に高さ25mのオベリスクが一本と二体のラムセス二世の巨像が建っている。このオベリスクはパリのコンコルド広場で見たものと形状が似ているなと思いながら見ていたら、それもその筈、ここの右側の一本がパリへ運ばれたのだという。

王家の谷は草木の生えていない岩山の渓谷に営まれた第18王朝から第20王朝の偉大なファラオの墳墓が営まれたところである。この谷にある王の墳墓は22に及び葬られた歴代の王のミイラは40体に及ぶ。墳墓建造にあたったのは戦争捕虜達で墓所の秘密を守るため完成後ことごとく殺されたといわれているが、皮肉なことにどの墓所も盗掘に合い、副葬品が満足に残されていた墓地は殆どない。ただ一つの例外として盗掘にあわなかったのがツタンカーメン王の墓であった。ここではツタンカーメン王の玄室に入場してみた。三重に作られていた黄金製の棺のうちの一つはいまでもこの玄室の中に安置されており、薄暗い明かりの中で金色に輝いていて圧巻であった。

ハシェプスト葬祭殿は第18王朝の女王であったハシェプスト女王が時の宰相であり建築家でもあったセンムトに亡き父親トトメス一世と自らの葬祭殿を建設するように命じて出来上がったものである。彼女が選んだ場所は荒々しい岩肌の絶壁を背にした谷であった。この葬祭殿は当時から「輝かしいものの中で最も輝かしいもの」と呼ばれた、エジプト建築史上類をみない傑作であるといわれている。神殿は東向きで、巨大なテラスが三段重なり、階段を通って祭壇に至る。スフィンクスとオベリスクが並んだ参道を通って第一テラスの入り口に至ると、22本の角柱と両端に2本のオシリス柱が並んだ列柱廊が伸びる。再び階段で第二テラスに至ると二列の列柱廊が続き、壁面には女王ハシェプスト女王の誕生や幼年期の伝説の国プントに遠征軍を送る場面が描かれており、キリンや猿、豹の皮、象牙なども登場する。一番奥の壁にある大小18の壁龕には同数の女王の座像もしくは立像が飾られている。この神殿の特徴はシャンポリアンが「初期ドーリア式」と呼んだ優雅な16角柱である。

この葬祭殿で観光客に対して行われた97年11月の無差別のテロ事件は記憶に新しいところである。

 翌朝ルクソールからアスワンへ飛んでアルシンベルの神殿を見学した。アルシンべルの神殿は古代エジプト史上最強の権力者でその激しい気性が有名なラムセス二世が建造したものである。アモン・ラー神、ハルマキス神やプタハ神を祭っているが、実際にはラムセス二世の絶対的な栄光を誇示している。長さ65m、幅38mのこの神殿は一塊の岩山を彫って作られたものであるが、アスワンダムの建設により水没する虞がでてきたのでユネスコの手により難工事の末1965年の晩夏に現在地へ移設されたものである。

ラムセス二世は第19王朝の王で紀元前1290〜1224年の在位で戦略家,征服者として知られる。北はパレスチナ、南はエチオピアまで征服し版図を広げ紅海と地中海を繋ぐ運河を計画したことでも知られている。



ナセル湖
 次いでアスワンハイダムを見学した後、ナイル川で帆掛け舟に乗り暮れゆくナイル川の風情を楽しんだ。船頭助手の子供達は12〜13才の少年達で巧みに竿を操り舟を誘導した。舟が川の中程へでると音楽に合わせて手振り身振り面白く踊り初め乗り合わせた観光客達も彼等に誘導されて見よう見まねで無邪気に踊ったことが印象に残っている。



サッカレーから見たギザのピラミッド



2004年08月27日(金) 【ピラミッドの国の五千年の歴史・・エジプト� �

エジプトの旅 カイロ、ルクソール、アッスワン、アルシンベル
       2001年1月17日〜1月23日

 エジプト観光はカイロ西南郊外のギザ地区のピラミッド群から始まった。これらのピラミッドの中の一つはライトアップされて昨夜もホテルの窓から幻想的な姿を眺めることができたが、近くまで行って自然光のもとで観察するとまた格別の趣と感慨がある。とにかく雄大である。エジプトといえば直ちに連想するくらい有名なピラミッドを、今目前に四千六百年前に作られたものとして直視していると、積み重ねられた時の流れの膨大な長さに比べ、人の一生のあまりの短さを思い感無量であった。

 このギザ地区にあるピラミッドは北から南へ第一ピラミッド、第二ピラミッド、第三ピラミッドと斜めに並んでいてお互いに太陽を遮ることがないように配慮されている。順番に第四王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王のミイラを収めていたものである。そしてメンカウラー王の第三ピラミッドには更に三つの小さなピラミッドが南側に並んで配置されていて王妃のミイラが葬られていたという。

 中で最大規模を誇るのがクフ王の第一ピラミッドで高さ約135m、底辺約227m、約2トン半の石を230万個積み上げているといわれるヘロドドスによれば、建造に要した日数は毎年十万人が三カ月働き、20年間を要したといわれ、その規模の大きさは古代エジプト王の権力の偉大さを如実に示し、今から約4600年前の土木工学の発達が比類ないものであったことを証明している。

 これらのピラミッドは「太陽神ラー」への捧げ物であると同時に死者の来世における永遠の生即ち霊魂不滅に対する信仰を表しているものと考えられており、古代エジプト人の死生観に思いを致し、暫く飽きることもなく呆然と眺めていた。

 クフ王のピラミッドから約350mのところに大きなスフィンクスがある。全長73mで頭部は人間、体はライオンの巨像である。その顔はクフ王の顔を模しているといわれ、墓守をしていると考えられている。過去に何回も砂漠の砂に埋没したのを掘り起こされた経歴をもっているだけにかなり破損していて顔面等も傷んでいるのが痛々しい。

 メンカウラー王のピラミッドの玄室の中へは一般観光客も入ることができるので、入場して見学したが発見された埋葬物の大半のものはカイロ考古学博物館や大英博物館に移送して展示されているので、ここではピラミッドの内部がどのような構造になっていたのかを見学するだけであった。

 考古学博物館を見学するためカイロ市内へ向けて高速道路に入った。そこで見た異様な光景は道路の両側に立ち並ぶビル群の屋上に天空へ向かってむき出しの鉄筋が伸びていることであった。あたかも建設ラッシュの如き感を呈している。ガイドに聞いてみると将来の増設を見越してこのように鉄筋がむき出しにしてあるのだという。いわれて子細に観察するとなるほど古ぼけた建物もある。都会の機能美という観点からみればいかにも無粋な光景であった。高速道路沿いの建物群は先ず田畑の中に道路が出来てそれを追いかけるようにして建物が無秩序に次々に建てられたという感じである。その後カイロ市内の通りをあちこち駆けめぐってバスの中から観察した限りでは、カイロの町は無秩序に自然発生的に大きくなった町で一言で表現すれば、汚い町であるとの印象につきる。

 カイロの考古学博物館には古代エジプト第18王朝のツータンカーメン王(前1346〜1336年在位) の財宝が至宝として収蔵されているが、他にクフ王、カフラー王の座像やトトメス三世の遺品、ラムセス二世の数多くの像等貴重な収蔵品も豊富である。ツータンカーメン王は19才で亡くなった王であるが、珍しく遺品は盗掘にあっておらず多数の財宝が王家の谷の墳墓から発掘された。特に重さ1170kgの黄金製の棺は現存する世界最大の黄金芸術であろうといわれており棺は三重になっていた。そのうちの二つがこの博物館に収蔵展示されていて残りの一つは王家の谷の同王の墓の玄室に保管展示されている。

 夜は光と音のショーが三つのピラミッドとスフィンクスを舞台に演じられるのを見学した。暗い夜空と砂漠の中にライトアップされて幻想的に浮き上がるピラミッドやスフィンクス。それも音と光が緩急、強弱、濃淡、大小いろいろに組み合わされて交錯し、投射される光線束で描かれる横向きの古代エジプト人の顔模様や舟などを交えながら、ピラミッドとスフィンクスを映し出していくのである。時に暗闇に姿が消え時に現れる。その間合いが英語のナレーションとともに見事である。この素晴らしい光と音のショーは京都の大文字焼きがヒントになっているのではないかな等と考えながら鑑賞した翌朝、カイロから遺跡の宝庫ルクソールまで飛んだ。



2004年08月26日(木) 【野生動物の王国とマサイ族の原始生活探訪・・ケニア�◆�

 七時五十分に出発して途中ニャフルルのトムソンズフォールを見学した。あまり大きな滝とは思えなかったが東アフリカでは最大で中央アフリカではビクトリヤフォールズに次いで二番目の大きさであるという。

 ここでは、全身に真っ赤な衣装を纏った女が馴れ馴れしげに話しかけてきて、石彫りの動物像を売りつけようとつき纏うので閉口した。一般にアフリカの売り子達は客の気持ちを考えないで、ただひたすら強引に売りつけようとするから敬遠されて、客は終には品物を見ようともしなくなるということ等は意に介さない。つかず離れずという売り子とお客の間に発生すべき心理的な関係の機微にまでは考えが及ばないようである。

 このあとエクアトール(赤道) と標識のでている箇所で水流の渦巻き実験を見学した。赤道直下で漏斗へ水差しから水を流すと浮かべてあるマッチ棒は東西の方向に停止して全然動かない。ところが赤道から十m程北へ離れた箇所で同じことをすると浮いているマツチ棒は時計方向へ回転をはじめるではないか。今度は場所を変えて南へ十mのところで同じことを繰り返すと不思議なことに今度はマッチ棒は時計と反対方向への回転運動を始めたのである。こんな簡単な実験で赤道がどこを通っているかを調べることが出来るのである。

 この後ナクル国立公園のライオンヒル・ロッジに早い時間に到着した。ここで昼食を済ませて部屋へ入ると、昔懐かしい蚊帳が吊ってあった。

 このあと砂塵もうもうと立ちのぼるサバンナの道を動物を探してサハリドライブした。ヌーと



縞馬の大群





麒麟、象、トムソンガゼル、インパラ、ハーテビースト等を観察した。待望のライオンも家族が五頭で休憩しているところを目撃できた。ライオンを見たいというサファリー客は多いので、ガイド達がそれぞれに無線で連絡しあって、沢山の車が集まってきた。それにしても現地人ガイド達の視力の良さには驚かされる。



肉眼で遠くのライオンを発見し、雄が立ち上がったとか雌が歩いているとか指さすのだが、我々がいくら双眼鏡で覗いてみても視野に入ってこない。車でかなり近寄って初めてライオンがいることを確認するような次第である。



 翌朝七時に出発して朝飯前のサハリをした。フラミンゴ、ペリカンの大群を観察した後ロッジへ帰った。朝食を済ませてから今度はナイバシャ湖で船による水上サハリを楽しんだ。何種類もの水鳥やパピルスの群生なども観察したし、船上からはマウント・ロコノツの秀麗な山容が見えた。約一時間のサハリだったが河馬の群れが水中にたむろしているのも観察することができた。大きな図体の河馬が体を水面下に沈めて、耳と鼻だけを水面上にだして息づいているところはなんとなくユーモラスである。

 翌日はマサイ族の村を訪問した。村はマニヤッタと言い、牛の糞を固めて作られた建坪五坪程の小屋に五〜十人の家族が生活しているのである。こんな小屋が十二〜三戸ばかり長方形の広場を取り囲むようにして建っている。広場の広さは百坪ほどもあったであろうか。この広場へは放牧されている牛が夜間に休息のため集まってくるのだという。

広場には牛の糞尿が垂れ流しになつており、その糞を子供達が裸足で踏みつけながら走り廻っている。小屋の中には寝室が二部屋設けられていて牛の革が敷かれている。子供と夫婦がこの部屋へ寝るのだというが家財道具らしいものは何も置いていない。壁には小さな明かり取りの窓が穿たれているだけで、電気は勿論通じていないので、照明はなく部屋の中は薄暗い。土間には粗末な竈が築かれていて三十センチ角ほどの金網が置いてある。肉を焼くためのものであるという。部屋の隅のほうに陶製の容器が五〜六個置いてあるだけである。この容器で牛の血やミルクを飲むのである。彼らには本来野菜や穀物を食べるという習慣がないという。湿気が少ないので建材として使われている牛糞も乾燥していて臭わない。この小屋は女達が作る習わしになっており、六年の耐用年数であるという。ここの集落のファミリーは血族、姻族七十三人からなり、飼っている牛の数は三百頭である。酋長は二十五才で妻を五人持っていて子供は十三人いると言っていた。酋長だけがかぶることのできるというライオン皮の帽子を被って記念写真を撮らしてくれた。



 我々が到着したとき女達が集まって歓迎の歌を歌ってくれたが一様に頭の髪が短くて一見男か女か判別できない。よく見ると乳房が膨れているのでようやく女と識別することができる。男も女も赤い生地の布を纏っていて殆どの者が裸足である。体型は一様にすらりと痩せており、筋肉質の手足を持っている。

 先史時代の生活がそのまま世の中の変化と関係なく、悠久の時間と共に静かに流れているという感じで、ここにいる限り現代文明とは隔絶された原始社会が現存している。男達は狩りや放牧で過ごし、子供達は学校へ行くこともなく、放牧した牛の番で一日を過ごすのであるし、女達は水汲みや薪拾いで時間を過ごしているのである。人間の幸せとは何か、進歩とか文明は本当に人間に幸福をもたらすものなのかということを考えさせられた一日であった。

 村人達と交歓の踊り
 今日のサハリでは縞馬の大群とヌーの大群を目撃した。それぞれ五百頭くらいずついたがタンザニアから移動してきたものだという。またハネムーンのライオンも一対目撃したが、交尾に疲れ果てて横になり動こうとしなかった。新婚のライオンは七日間交尾を続け、一日40回に及ぶというから激しいものだ。

 マラソバロッジで宿泊。明かりが消えてから空を仰ぐと星が近くに輝いており、星@s数も横浜で見るよりは多くあるように見える。大気の汚染がないし人工の光の邪魔がないので星が一際輝いて見えるのであろう。

 ケニアの民族ダンス
 旅の最後の昼食にケニア料理を食べた。鉄棒に刺して火炙りした肉塊を、好みに応じて切り分けてくれるシュラスコ料理である。ポーク、ビーフ、ゴート、チキン、ハタビー、ジブラ、オストリッチ、と野性動物の肉を少しずつ味わったが縞馬が柔らかくて一番美味しいと思った。

 心身ともにどっぷり漬かって自然に回帰した思いのするケニアの旅であった。


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