前潟都窪の日記

2004年10月17日(日) 初めての帰郷��

 二つ目は、当時の田舎では何処であろうとそうであったように、この時の勇達の帰郷のために祖父は餅を撞いてもてなした。時期が秋祭りであったからお祭り用の散らし寿司やその他の料理も用意されたが、お土産に持たせようと考えたらしい。つきあがった餅を勇の母が伯母や祖母と一緒にもろぶたの上でせっせと丸めていた。また薄く延ばした餅を特別に用意し、食紅を使い人形やら花やら動物の形にこしらえていた。

 三つ目は鬼ベチャと対面したことである。当時の豊州村では秋祭りには氏神様を祭る為の行事のひとつとして、鬼退治をした吉備津彦の故事に因んで仮装した鬼が出ることになっていた。村の青少年達がこの日のために、赤や青色の張り子の鬼面を作り、これを被って赤や青の衣装を纏い村中を練り歩く風習があった。

 祖父の屋敷で、砂糖黍を噛んでいると、鼻先へいきなり、赤色の鬼がニュッと顔を出したものだから堪らない。傍にいた父の胸にむしゃぶりついて、悲鳴に近い泣き声を上げたものである。勇の驚きように、鬼の主も慌てて面を脱いで素顔を見せ泣きじゃくる勇を宥めるのに懸命であった。周囲の大人達は爆笑していたが、このときの光景は、祭りの鬼を見る度に必ず思い出す懐かしい思い出である。

 なお鬼について茶屋町町史には以下のような解説があるので引用しておくこととする。

【引用開始】

 鬼の由来 吉備津神社と温羅(うら)  

 鬼の由来についての文献がなく、その手がかりが得られないので推論にしかならないが、その由来は次のようなことではないかと思われる。
 吉備津神社の祭神、吉備津彦が異国の鬼神(百済の王子温羅)を退治した伝説は有名である。備中の国新山に城(現、総社市の鬼ノ城)を構えていた温羅を、吉備津彦が征伐して首を打ちとったのであるが、その叫び声はうなり止まず、釜殿のへっついの下に埋めたところ、やっと鳴り止んだという。(今は吉凶占いの鳴り釜の神事として信仰されている)そういう鬼退治の物語は、備中神楽の中にも出てきたり、室町時代の能にも、「吉備津宮」として舞われたりしている。

 その温羅は、吉備津彦命の随神として吉備津神社の境内、艮(うしとら―東北)の一角にまつられ、艮御崎(みさきとは御先、つまり手先きのこと)として信仰の対象となっている。

 その艮御崎は、強い神様、霊験あらたかな神としてその信仰は厚く、諸国村々に分霊がまつられ、村の鎮守の神として人々に畏敬されている。つまり、御崎様、御前様、と言われているのがそれである。

 ところで、早島の鶴崎神社は、別名が御崎様と言われ、艮御崎をその祭神としてまつっている。そこで御崎様の氏子である早島や帯江の人々が、強い艮御崎の信仰から、鬼面を着けて村中を練り歩いたものであろう。

 茶屋町の氏神は住吉神社、稲荷神社であり、艮御崎と何ら関係がないのに、なぜ鬼の出る風習ができ上がったのだろぅか。

茶屋町の前身、帯江新田村は帯江に知行所を持つ戸川安広が、同じく早島新田村は早島に知行所を持つ戸川安貞と共同で拓いた土地である。そこで、早島、帯江の両領から、多数の氏子が茶屋町へ入植したことから、早島、帯江の氏神である鶴崎神社の祭りの風習を、そのまま持ち込んだのではないかと推測される。

戦前は早島にも帯江にも鬼の出る習わしはあったが、茶屋町と時を同じくして消滅してしまった。

「艮みさきは恐ろしや」という信仰が、鬼を恐れ、鬼をまつる心となり、吉備津彦の鬼退治の伝説と結びついて、鬼が村中を歩きまわるという習わしになり、それが干拓入植の人々によって茶屋町へ導入されたものであろう。

文献 『改訂 茶屋町史』


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姿を消した鬼  

 その鬼まつり風物詩も、戦後の昭和30年を過ぎたころから、その姿を消していった。
戦後の人心は荒廃し、犯罪も激増する乱れた時代であったから、鬼面を着ていることをよいことに、せっ盗や暴力など度の過ぎた悪行が増加した。そのことから、鬼のコン棒を取り上げ、警察が取り締まりに乗り出した。加えて、交通事情が悪化し、交通事故の心配がされるようになってからは、鬼面を着る者が少なくなり、やがて鬼のいない茶屋町の祭となってしまった。

 しかし、茶屋町町民にとって、鬼は郷愁であり、心のふるさとである。その復活を願う人々の心は、また切なるものがあり、やがて、それは復活へのエネルギーとなっていった。

文献 『改訂 茶屋町史』

【引用終わり】



2004年10月16日(土) 初めての帰郷��

 ▼初めての帰郷
 日本鉱業の鎮南浦精錬所の技術者として朝鮮に世帯を持った父が、長男の勇を連れて初めて帰郷したのが、勇の最初の旅であった。

 この時期には父方の祖父作次郎も健在で県南の豊州村字高須賀の農家で隠居生活を送っていた。魚釣りが好きで自宅周辺の川で太公望を決め込み余生を楽しみながら過ごしていた。そこへ次男の作次が孫を連れて外地から帰郷したので余程嬉しかったのであろう、滞在中ずっと勇の子守役を買ってでた。勇の脳裏には作次郎爺さんとのこの時の交流が鮮明に焼き付いている。そして、旅という言葉や祖父という言葉を耳にしたとき、必ず思い出す情景が幾つかある。 その一は、祖父、作次郎の背中に掴まって、川向かいの畑へ砂糖黍を取りに行ったことである。幅5m程の川には人一人が通れる程の板が、一枚渡してあって、その上を板の振動に合わせて体をゆさぶりながら器用に渡って行くのである。
 
 川へ落ちるのではないかという恐怖が、幼い心の中に沈澱して忘れられない心象風景となったのか、或いは、幅狭い板の上を器用に渡って行く祖父のバランス感覚と運動神経が、その幅広い背中と共に頼もしさを印象付けたのであろうか。このことだけはいまだに鮮明に記憶の底に残っているのである。



2004年10月15日(金) 妹の誕生��

「人間は人様のお世話ができるときには、お世話をしておかなければなりません。僅か3才の時から人様に喜んで頂けるなんて滅多にない幸せですよ」との母親の執拗な説得に折れて、乳吸いに通うことになった。妹に奪われてしまった母の愛情の代償を、小母さんのおっぱいに求めたのかもしれない。
 小母さんが自分の子に授乳を済ませ、寝かせつけてからが出番であった。小母さんが椅子に腰掛け着物の前をはだけて剥き出しにした形良く張った乳房へ勇が立ったままの姿勢でむしゃぶりつくのである。両方の手は小母さんの帯をしっかり掴んでいる。もう一つ傍らに置かれた椅子の上にはアルマイトのボールが置かれていて、吸い出した乳を吐き出せるように準備されていた。
「ああ、勇ちゃんそうよ、もっと・・・・もっと強く吸って頂戴・・・・」最初はこわごわ乳首をくわえて乳を吸い出し、一口ごとに傍らのボールへ吐き出していた。そのうち小母さんは気持ちよさそうに目を瞑りながら自分でも大きな乳房に両手の掌をあてがって絞りだすようにする。小母さんが掌に力を入れるたびに母乳が勢いよく口の中へ放出されるので飲み込んでしまうこともあった。飲み込んだ乳液はつい最近まで母親の乳房に戯れていたときと似た甘美な感触を思い出させた。気管支へ入りそうになり咳き込んで思わず口を放して、傍らのボールへ口に含んだ乳を吐き出すこともあった。
「駄目よ、勇ちゃん。口を放しては・・早く・・・・吸って頂戴、ああっ、こぼれちゃうわ」と小母さんが切なそうな声でせきたてるので再び大きな乳房へくらいついていった。
「そうよ、もっと強く吸って、ああっ・・気持ちがいいわ。そうよ、そうそう・・・・噛んでもいいわよ」と小母さんは背中をのけ反らせたあと今度は勇の頭に覆いかぶさるようにして背中へ両手を回しぎゅっと抱きしめた。それを合図に勇が乳首を軽く噛むと
「ああっ・・」と言って再び体をのけ反らした後で
「どうもありがとう。とても気持ちよかったわ」と言って勇の頬っぺたに軽く口づけをして、その日の乳吸いは終わるのであった。帰りには、キャラメルとかビスケット等を半紙に包んで持たせてくれた。



2004年10月14日(木) 妹の誕生��

 この蘆溝橋事件は日中戦争の発端となったのであるが不可解な事件であると思う。最初に発砲したのは誰かの真相は未だに藪の中である。

学研の現代新百科事典によれば以下のように解説されている。「1937年北京西南郊外の蘆溝橋付近で、日本の中国駐軍と中国軍との間に起こった武力衝突事件。日中戦争の発端となった。7月7日夜、日本軍が夜間演習中に原因不明の数発の実弾が飛んできた。点呼の結果、兵一人が行方不明(実際は用便中で、すぐあとで発見された。)となっていたため日本軍はこれを理由に大隊主力を出動させて中国軍を攻撃した。11日現地では停戦協定が締結されたが同日東京では、政府が三個師団の動員を決定、派兵を声明した。政府・陸軍中央部は不拡大方針を宣伝しつつも、陸軍部内の強硬派は暗躍を続け28日から現地軍は北京・天津一帯で全面的に軍事行動を開始した」

この解説は比較的客観的に史実を叙述しているが、中には自虐史観に禍されて故意に軍部の侵略意志を強調するものもある。当時の時代背景の中で
日本の置かれた立場も考慮に入れて事件を解釈しなければならないと思う。

当時の原史料に基づきこの蘆溝橋事件を検証しているサイトを見つけたので参考までにリンクを張っておくこととする。

蘆溝橋事件

 幸子が生まれた昭和15年という年は、中国では3月に日本軍が支援して王兆銘の傀儡政権を南京に誕生させ、欧州ではナチスのヒットラーが、4月に中立国のノルウェーとデンマークを電撃作戦で侵略し、5月に西部戦線の攻撃を始めて大勝利をおさめていた。そして九月には日・独・伊の三国同盟を締結し、時代は第二次世界大戦へと突入していきつつあった。

妹の幸子が生まれた頃は小高い丘の上にある日の出社宅に住んでいた。勇は妹が生まれてからは母親に遊んで貰える機会が少なくなったので、社宅の幼児達と一緒に遊ぶことが多くなったが行動の場は自宅を中心とした短い半径の円周内がその領域であった。

 その領域内にある一軒の社宅に乳が張って困るという初産で産後の婦人がいた。自分の嬰児だけでは消化しきれないほど乳がでたのである。母が懇意にしていた人なので、妹が生まれたのを機会に勇に乳を吸いだしに毎日通ってくれないかという話があった。張った乳房は手で揉んで出すよりも幼児に吸って貰って出すほうが、体によいということから、勇がその光栄の候補者になったのであるが、その役を引き受けるのが気恥ずかしくて嫌だと逃げまわっていた。が、真のところは母親の愛情を自分が独占していたのに、妹に奪われてしまったことに対するやっかみから母親を困らせることによって愛情を取り戻そうとするささやかな抵抗であった。



2004年10月13日(水) 自分史的連載小説・・・定年退職万歳

定 年 退 職 万 歳・・・自分史的連載小説        
                         前潟都窪      
1.鎮南浦時代
 ▼妹の誕生
 オンドル以外の部屋の硝子窓には幾重にも花のような形をした氷の結晶が張りつき、軒下には氷柱が何本もぶら下がっていた。
「坊ちゃん今日から、お兄ちゃんになるんだから、ここでお利口さんしているんですよ」
とその日駆けつけてきた産婆さんがオンドルで遊んでいた勇に言った。
「うん、赤ちゃんが生まれるんでしょう」
と得意な気持ちになって,勇は積み木で遊んでいた。
 そのうち隣の部屋で泣き声がして、手伝いにきていたオムニ(朝鮮語で女の人)が
「女の子だよ。坊ちゃん妹ができたよ」
と教えてにきてくれた。昭和15年2月1日のことであった。
 父が日本鉱業鎮南浦精錬所の分析技師として奉職していたので、勇は朝鮮の鎮南浦で都窪作治、恵子の長男としてこの世に生を受けた。幼い頃のもので勇の記憶に残っている一番古い思い出は、妹幸子が誕生した日のことである。その日は子供心にも何か異変が我が家に起こりつつあるということを本能的に身に感じながら、オンドルで遊んでいたのである。
 勇が生まれた昭和12年という年は、7月に北京の南西6km、永定河にかかる蘆溝橋付近で、日本軍の一隊の演習中に発砲事件が起きた。以後8年間に及ぶ日中全面戦争に突入するきっかけとなつた「蘆溝橋事件」であり、時代は軍部が戦争へ向けて牙を磨きつつあり、軍国主義の気分が横溢しつつあった。



2004年10月09日(土) 世界紀行の終了

 本年四月より始めた世界紀行も手持ちの資料がなくなったのでひとまず連載は終了することにしたい。装いを新たにして別のテーマで執筆を再開したいと考えている。



2004年10月08日(金) 旅のノウハウ24・・スリの手口��

2004年9月チェコのプラハでFISAの世界マスターズレガッタが開催された。漕友達ともどもこのレガッタに出漕するためプラハ入りした。この年は東欧諸国で大洪水があり、プラハ市内もその被害を受け地下鉄は不通でバスが代替機関として運行されていた。

噂では地下鉄を稼ぎ場としているスリが地上にあがってバスや路面電車が危ないと聞かされていた。

何回かバスや電車にも乗って切符の買い方などにも慣れ始めた頃のことである。数人の友人とプラハ城の見学を終えて帰路の電車に乗ることにした。電車が到着して友人達は先に乗り込んだ。筆者が一番最後に乗り込もうとしたら数人の男達が取り囲むようにして進路を塞ぐのである。これは危ないぞと内心用心しながら人垣をかき分けて車内へ進もうとした。その時ずぼんのポケットに手が差し込まれるのを感知したので右手で激しく叩いてやった。すると発車間際に数人の男達が慌てて電車を飛び下りた。ポケットに入れていた小銭入れの財布は無事であった。

電車やバスの乗り降りの時進路妨害されるような時はスリに狙われている時である。多分彼等は地下鉄で同じ手口で稼いでいたのだろう。



2004年10月07日(木) 旅のノウハウ23・・スリの手口��

 イスタンブールのバザールは魅力に富んでいる。猥雑な中にも活気がある。 東西の文化が如何にも混交する場という雰囲気が漂っている。
 バザールを出て人込みへ踏み出そうとした時のこと。若い男が肩を叩いて足元を指さした。ハンカチを落としたという手振りをして注意してくれたのである。一瞬目がそちらへ誘導され隙ができかけた。一瞥したところ自分の持ち物ではない。筆者は白いハンカチは使わない。落ちているハンカチは白いではないか。これはスリの手口だと瞬時に理解して「Not mine.Thank you」と大声で応答し、足早にその場を離れたので被害を受けることなくやり過ごすことができた。ホテルに帰って同行の人達と情報交換するとハンカチの代わりに硬貨を落として注意を誘う手口もあることを知った。



2004年10月06日(水) 旅のノウハウ22・・スリの手口��

スペインのマドリードでのことである。ピカソ美術館の見学を終えてホテルまで8人の同行者が連れ立って散歩しながら帰ることになった。二人づつ並んで縦隊を組み離れないように気をつけながら歩いていたのだが、隣り合った同士が話に夢中になっていつしか隊列はまのびしたものになっていた。筆者は一番先頭を歩いていた。すると突然後方からドロボーという叫び声が聞こえた。驚いて振り返ると15m程後方でT夫人が道路にかがみ込んで必死にポシェットの紐を離すまいと抑えており、若い男が三人かかりでポシェットを引っ張っている姿が目に入った。これは大変だ助けに行かなければと走りだした時には紐が切れて鞄を掴んだ三人の男は逃げ去った。後を夢中でおっかけたが、四つ角を左に曲がられて視界から消えてなくなった。追いかけるのは諦めて現場へ戻るとなんと被害に遇ったのは同行8人中5人にも達していた。
手口は最後尾の婦人Sさんのリュックサックを三人かかりで後からはぎ取ったのである。この時、Sさんがドロボーと叫んだのである。何事かとすぐ前を歩いていたT婦人が後を振り向いた時に一瞬の隙ができた。そこを別の組みに狙われたのである。筆者が目撃した犯行情景はこの時のことである。いずれも同行者の大声に後を振り返り状況判断をしようと一瞬の隙ができたところを肩にぶら下げたカメラやハンドバッグ、ビデオカメラをひったくられたのである。犯行は7〜8人のグループで我々の一行は目をつけられ狙われていたものと思われる。2〜3人が組みになって襲いかかり、それぞれ別々の方向へ散るように逃げ去ったのである。仲間が連れ立って歩くときでも離ればなれにならないよう間合いを開けないで注意しながら歩かなければならないという教訓であった。



2004年10月05日(火) 旅のノウハウ21・・すりの手口��

1998年秋、夫婦でアルゼンチン、ブラジルへ旅行したときベノスアイレスで危なく古典的な手口でスリの被害に遇うところであった。
当日早めに市内観光を終えて、夕方から始まるタンゴショーにはかなりの自由時間があった。ホテルの部屋で疲れをとるのもいいが、折角遠い国へ来たのだから市内を探索しようということで、地図を片手に二人でキョロキョロ市内を散歩していた。折からジャカランタの花が咲いている季節で歩道にはジャカランタの並木が大きな日陰を作っており、小鳥達が沢山飛び交っていた。並木道を歩いていると頭上から何か鳥の糞のようなものが落ちてきて上着に付着したような気がした。手で触ってみると黄色い糞のようなものがついている。「鳥にやられた」と言って上の方を眺めていると家内が「まあ随分派手に鳥の糞を落とされたものですね」というのが聞こえた。するとそこへ通りかかりの若い現地人の女性がティッシュペーパーを持って上着を脱ぎなさいこれで拭いてあげようという手真似でにこにこしながら近づいてきた。同時に若い男がいずこからか同じように近づいてきて上の方の小鳥を指さしている。
このとき咄嗟に自分が置かれている状況に気がついた。先程手に付いた物体を嗅いでみるとマスタードの臭いがするではないか。「スリだ。相手にせず逃げよう。No Thank You」と叫んで家内ともども彼等から逃れ、何事もなく終わった。ホテルに帰って上着を確かめてみると袈裟懸けに太刀で切られたかの如く黄色いマスタードの線が一条付いていた。物陰に隠れていた男に水鉄砲で狙われたのである。地図を片手にキョロキョロしながら不用心な姿で歩いていたから、格好な獲物として付けられていたのであろう。丁度小鳥が沢山いるところを見計らって水鉄砲の洗礼を受けたということである。


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