入学直後の登校時には、社宅の上級生が下級生達を集めて、隊列を組ませ二列縦隊で登校した。戦時下であるため、制服制帽は軍隊調で統一されていた。国防色の上着とずぼんを着用して、戦闘帽を被り足にはゲートルを巻き、背中には防空頭巾を担いだ勇ましい姿であった。正門に到着すると校庭の東側に建てられている奉安殿に向かって最敬礼をしてから各々の学級へ散って行った。入学式や天長節には校長先生が白い手袋をはめて教育勅語を厳かな声で読んでいた光景がありありと思い出せる。教育勅語朗読中は頭を四五度前方へ垂れて畏まった姿勢をとらされた。意味は判らないまでも厳かな雰囲気は小学一年生にも感じとることができた。
また天皇を神格化して教える実話教育の中に次のような、ぞっとする人権無視と暗い密告制度による被害の話があった。新聞に掲載された天皇陛下の御真影に気がつかないで、便所の落とし紙に使った人が憲兵隊に引っ張られて一週間近くも拘引されてたっぷり油を絞られた。このことが発覚したのは便所の糞尿を肥やしとして畑に撒いたところ、落とし紙に使った新聞紙が腐らないでそのまま自然に畑で乾燥し天皇陛下の御真影が現れたのを目撃した人が密告したというのである。それほどに時代は暗く陰鬱なものになっていた。
授業では大きくなったら兵隊さんになって敵をやっつけるとか、神風特攻隊に入って敵艦めがけて体当たりするんだというような教題が真面目に取り上げられていた。純真な心にはそれがあたかも自明の公理であるかのように投影されていた。
新しい学校生活にも慣れかけた頃、一か月に一〜二回位の割合で朝礼の時校長先生から誰それのお父さんはどこそこの戦闘において壮絶な戦死を遂げられ、英霊として靖国神社に祀られることになりましたという訓話があったり、誰それさんのお父さんは何月何日出征されることになりましたので、皆で武運長久を祈りましょうというようなお話があった。その都度、勇は早く私の父も出征してくれないかなと真面目に考えたものである。このように客観的な戦況とは裏腹に軍国主義の教育は浸透し、街中に戦闘気分が横溢していた。
▼日の出小学校 勇が日の出小学校へ入学したのは、昭和19年の四月であった。日の出社宅に日の出小学校、何故か「日の出」と両者同じ名前である。日の出る勢いという意味で名付けられた軍国主義はなやかなりし時代の精神を表すネーミングであろうか。
昭和19年という年は勇の入学した四月までにだけでも、欧州では一月にアメリカ陸軍のアイゼンハワー将軍が連合軍の北フランス上陸作戦の最高司令官に任命されロンドンに着任したし、ソ連軍がドイツ軍に二年間以上も包囲されていたレニングラードを解放した。太平洋やアジアでは二月にアメリカ軍がマーシャル群島のクワジャリン・ルオット島を攻撃して日本守備隊を全滅させていたし、三月には日本軍がやがて失敗に終わるインパール作戦を補給路を無視して決行する暴挙にでていた。また日本国内では本土決戦に備えて「非常事態措置要綱」に基づく享楽追放が行われ、三月に高級料理店、待合、喫茶店、劇場等が閉鎖された。このように戦況は日本、ドイツ、イタリアの同盟三国共に連合軍から劣勢に追い込まれ破滅への道を突き進んでいる年であった。
小学校の入学式に付き添って行った母親の話によると、新入生一人一人が名前を呼ばれても返事が出来なかったり、声が小さくて聞き取れない子が多い中で勇だけはびっくりするほど大きな声で返事をしたということである。山手社宅から学校までは子供の足で四十〜五十分もかかる遠い所にあった。赤土饅頭を重ねて造った朝鮮人の住宅群を下方に見ながら、赤土で泥濘やすい田舎の山道を隊列を組んで通学した。土饅頭でできた家は薄暗く、いかにも不健康で非衛生的に見えた。
父を頼もしく思った記憶としてもう一つの光景がある。やはり山手社宅で就学前のある冬の日の出来事であった。朝早くから、朝食の用意をしていた母が貧血であったのか、風邪で熱があったせいか定かではないが台所で気分が悪くなり、倒れたのである。このとき父が母親を両手に抱きかかえてオンドルの部屋まで運び、布団を敷いて寝かし付け、体温計で熱を計り、鎮南浦の街から医者を連れてきたのである。私も一生懸命、布団を敷く手伝いをしたり洗面器に水を汲んで運んだりしながらいいしれぬ不安に襲われた。先生が診察を終えて洗面器で手を洗いながら「心配いりません。ゆっくり休んでいれば直ります」と言われたとき安堵すると共に頼もしい父親像を発見して尊敬の念を覚えた。
また山手社宅での出来事であるが、妹の幸子と庭で遊んでいたとき、尿意を催し、チンポコを出して幸子へ向け「ひっかけるぞ」と冗談を言ったら、大袈裟に騒いで逃げたので、面白くなり、追い掛け廻したことがある。これを目撃した父が激怒し勇を叩こうとした。危うく身をかわした勇は庭へ逃げた。
ところが父も勇をどこまでも追い掛けてきて、塀を攀じ登って逃げようとする勇の太股を手にした青竹で思いきりひっぱたいたのである。右の太股にできたみみず腫れは暫く痛んだ。叩かれて悪ふざけが過ぎたことを自覚したせいか、泣きもしないで母親のとりなしで父と妹に謝り、その場は収まった。いたずらをして拳骨を貰ったことは度々あったが、この時の折檻は余程身に応えたとみえこれ以後、父から体罰を受けたことはない。父親は怖い存在であることを実感として脳裏へインプットされた出来事である。
▼父のこと 昭和18年のことであったと記憶するが、この原っぱで父も参加して、在郷軍人会が軍事演習をしたことがある。
面会に行くと所謂三八式の小銃が三本ずつ銃口を上にして交差させ立てかけてありその傍らで胴着を付けて面を片手に持った父が腰かけて煙草を吸っていた。父のかたわらには胴着姿の兵隊さんや、軍服姿の兵隊さんが屯して、水筒の水を飲んだり、煙草を吸ったりしながら談笑していた。在郷軍人の演習であるから、実弾発射などはなく銃剣道や駆け足、匍匐練習が主体であったのではないかと思う。この時の父は頭に日本手拭いをまきつけており、初めて見る凛々しい父の剣道衣姿に頼もしさを感じとり、自分も早く大人になって銃剣道をしたいなあと思ったものである。鉄砲や胴着の実物を身近に見たのはこのときが初めてであり、このときの頼もしい父の姿が鮮明に脳裏に残っている。
この年には一月にスターリングラードでソ連軍に逆包囲されていたドイツ第6軍が飢えと寒さに襲われたうえ弾薬が尽きて降伏した。二月にはマラリヤと飢餓に襲われた日本軍がガダルカナルから撤退した。十月にはカステラーノ将軍が秘密降伏文書に調印しイタリヤ軍が連合国に無条件降伏した。そして日本では文部省主催の出陣学徒の大壮行会が神宮外苑で挙行され、推定十三万人の学徒が出陣した。このように戦局は日・独・伊三国が破滅へ向かって歩みだしていた。
日の出社宅の次に住んだ所は山手社宅と呼ばれていた。この社宅は中堅職員用のものであり、近くには重役邸も数軒並んでいる、閑静な住宅地であった。鎮南浦の街へ出る途中には大きな池があって、冬になると凍結してスケートや箱そりで遊ぶことができた。この箱橇は父が休日の日を利用して作ってくれたものであり、耳覆いのついた防寒帽を被り妹の「ニイナン」を乗せて引き綱を引っ張って滑らせ嬉々として遊んだ。自ら箱橇に腰を下ろして棒の先に釘の突起のついたストック様のものを両手に握って、両サイドの氷面を突いて滑ったりもした。
高学年の学童達はスケート靴を持っており巧みに滑っているのを羨ましげに眺めていた。もうこの頃になるとスケート靴などは店頭から姿を消しており、兄や姉のいる学童だけがお下がりを貰って滑ることができた。勇のように兄や姉のいない幼児はスケート靴がないので箱橇で我慢するしかなかったのである。
また勇の家の近くには四〜五百坪ほどもある原っぱがあり、子供達の恰好の遊び場になっていた。
| 2004年10月22日(金) |
あっぺこっぺのお婆さん、林檎狩り |
日の出社宅には「あっぺこっぺのお婆さん」という物知りがいた。鹿児島県出身の老婦人で、鹿児島なまりを地に出して話をするものだから、この老婦人と会話をするとトンチンカンになることが多かった。
「あちらこちら」を「あっぺこっぺ」というのでいつしか「あっぺこっぺのおばあさん」で通っていた。勇が腸チフスで入院したとき下駄を持ち物の中に加えるように助言して下さったのも、また付き添いには赤の他人の方がよいと言って、知り合いの信頼できる付き添い婦を紹介して下さったのもこの「あっぺこっぺ」のおばあさんだった。
ある秋の一日、会社の行事で田舎の果樹園へ家族連れで林檎狩りにでかけたことがあるが、その前日母親がせっせと巻き寿司やら稲荷寿司やらを作っているのが嬉しくて、中々寝つかれず 「明日は朝早いのだから、早く寝なさい」 と叱られても、布団の中かららんらんと目を輝かせて母親の弁当作りを見ていた。
翌日の朝、食事をするのにいつもと違って、エボナイト製の食器で食事をさせられ、勝手が違うので思うように食事が喉を通らなかったのを鮮明に思い出す。列車に乗って平壌近くの果樹園まで1時間程の距離であったが、記憶に残っている乗り物としては初めての経験だったので、道中が非常に長いものに思われた。
列車の中で嬉しさのあまり、騒ぎまわっていたが、学齢期前の幼児であったため、叱る人もなく隣近所に愛嬌をふりまいては、車中の人気者になっていた。座席の背もたれを跨いで背中合わせの隣の席へ渡ってみたり、アカンベーをしたりとかなりの腕白振りを発揮していたことが遠い記憶に残っている。賑やかなのも行きの車中だけのことであり、帰りの車中では疲れ果てておとなしくなり、「コッポちゃん。どうしたの。おとなしいわね」と言われた。林檎園でも喜んではしゃぎまわったことと思うが不思議なことにその情景を思い出そうとしても思い出すことができない。
| 2004年10月21日(木) |
コッポとニイナン、母のこと�� |
この他にも勇が鎮南浦時代の母親を偲ぶとき必ず思い出す情景が三つある。
その一は、四才か五才の時の出来事である。冬、母親の恵子と町へ出て買い物も終わり、近道をするつもりだったのか、池の畔に張られた鉄条網の破れ目をくぐり抜けようとした。誰とはなしに、そこを通るものだから網の目の破れ目の所に自然と道ができていた。妹の幸子をおんぶして勇の手を引いていた母親が、足を滑らせて重心を失い転びそうになったので、本能的に鉄条網を片手に掴んで、体を支えたのである。転倒は免れたものの手の掌は鉄条網の棘で傷つき出血した。幼な心に母親の受傷出血を目撃し、衝撃を受けたのであろうか、長じてからも血を見る度にこの時の母親の手掌を染めた鮮血を思い出すのである。
その二は、小高い丘の上の社宅は冬になると、下水道が凍結し、排水がオーバーフローしてうまく流れなくなることがある。そんな時、母は近所で遊んでいる朝鮮人の若い男の子達を集め、なにがしかの駄賃を与えて、つるはしとスコップで氷を割らせていた。少年とはいえ、母より背丈の高い男達に指図して作業させる母親の姿を勇は畏敬の目で見ていたことを思い出す。
その三は、冬になると気管支の弱かった勇は風邪をひくとよく咳をした。そんな時母は逃げ回る勇を執拗に追い回し、必ず蒸気吸入をさせた。首に涎かけをつけてガラス製の器具からアルコールランプで熱せられて発生する水蒸気を管の先から口の中へ吸い込むのである。最近ではこの蒸気吸入器をみかけなくなったが昔懐かしい情景である。
| 2004年10月20日(水) |
コッポとニイナン、母のこと�� |
▼コッポとニイナン、母のこと
日の出社宅にいた頃父がヨチヨチ歩きの妹「ニイナン」と兄の「コッポ」を連れて池へとんぼ釣りに連れていってくれたことがある。捕ったトンボの羽を指にはさんでおくことを教えて貰ったが、妹は預けられたトンボをムシャムシャ食べてしまうということがあった。
勇は愛称「コッポ」と呼ばれていた。「コップ」という発音が出来ず「コッポ」と言ったのがいつしか愛称になったものである。これに対して妹の幸子は、「ニイナン」と呼ばれていた。「ニイチャン」が言えなくて「ニイナン」になってしまうところから名付けられた愛称である。勇と妹は何時も一緒に行動しており、「コッポ」と「ニイナン」は近所でも話題になるほど仲の良い兄妹で通っていた。
日の出社宅は小高い丘の上にあり、丘を下りた所にアカシア並木の大通りがあった。この大通りへは社宅から坂道で通じていた。勇が近所の餓鬼大将達と遊んでいるとき、子供であれば皆一度は経験したことがあるように、坂道を通らないでわざと坂の斜面の植え込みの間を縫うようにして登ったり、下りたりして遊んでいた。
ある日この植え込みの斜面で追っ掛けごっこをしていた時、木の枝に顔を突っ込んで目に枝が当たった。餓鬼大将の注進で飛んできた母親に連れられて街の眼科医へ駆け込んだが、幸い目に傷はついておらず目蓋に少し傷ができた程度で失明は免れた。この時も母親は勇を生まれもつかぬ盲にしてしまったかと大層心配した。眼科医は鎮南浦の街中にしかなかったので、母親は勇を背負って三十分ばかりの道程を我を忘れて走ったのである。現在であれば電話は何処にでもあるし、救急車の出動を要請するのも簡単であるが、当時は身近に電話があるわけでもないし、増してや流しのタクシーがあるわけでもない。患者を背負って医者へ走るしか術がなかったのである。
▼腸チフスに罹患 日の出社宅で一番大きな出来事は、法定伝染病の腸チフスに罹ったことである。その日は父の勤めが休みの日で、父と勇と妹の幸子の3人は母親心尽くしの弁当をリュックサックに詰め込み、嬉々として大同江へ魚釣りに行った。その日は鮒が5尾釣れただけで何故か、翌日、勇は熱発して激しい下痢に見舞われた。医者の診断では腸チフスだから直ちに隔離病院へ入院させなければならないということになり、朝鮮人の付き添い婦がつけられて入院した。腸チフスに罹った原因は、魚釣りに行った時、大同江の水で林檎を洗い皮のままかぶりついたので、河の水にいた病原菌が体内に侵入したのではないかということであった。最初は母親が付き添って看病にあたるつもりでいたが年配者からの助言で腸チフスの場合、身内の者が付き添いすると助かる命も助からなくしてしまうから、赤の他人の付き添い婦を頼んだほうがよいということになったのである。
その理由はこの病気の場合、患者が食べ物や水を欲しがった時にこれを与えると、必ずと言っていいほど患者を死なせてしまうことになるという。身内であるが故に医者に禁止されていても患者が可愛そうになり、ほんの少しぐらいならと情にほだされて、医者の目を盗んで与えることになり、これが仇となるケースが非常に多いということからであった。
また、入院するときに、必ず退院して来られるように新しい下駄を持ち物の中に入れるようにと言われて、母親は正月に履かせようと仕舞っておいた下駄を荷物の中へ入れた。柩に入って帰るのであれば履物は無くてもよいという縁起担ぎである。若かった母親はこのときばかりは、二度と息子がこの家へ帰ってくることは出来ないのではないかと覚悟し、我が子の病気快復を神仏に祈念して願をかけた。一週間水垢離をとって近くのお寺へ日参したのである。結果的には付き添い婦を付けたことが功を奏して全快した。付き添い婦は飲食物を欲しがる勇の要求を断固として拒絶したからである。
隔離病院へ入院したとき、コルク製の弾に糸のついた玩具の鉄砲をお見舞いに貰い、これが嬉しくてベットの中で引き金を引いてはコルクの弾を発射させて遊んでいた。そのうち体も衰弱して死線を彷徨ったのでいつしかこの鉄砲も部屋の片隅に置かれるままになっていた。やがて退院となったとき、看護婦が玩具の鉄砲を持ってきてくれた。引き金を引こうとするのだが、力がはいらなくて引き金が引けなかった。ベットから下りて歩こうとすると、両足で立つのが精一杯で歩こうとしてもよろけて転びそうになり、歩くことが出来ない。人力車まで父に背負われて行った。
父の作次は写真に趣味があり色々展覧会などにも出品して賞なども貰っていたが同好の士や独身の部下達を自宅に招いて御馳走をすることもあった。その日は母が張り切ってもてなすので子供心にも来客をもてなさなければという意識があった。写真を趣味とする集まりだけに皆自慢の写真を披露しあっては楽しそうに話し合っていた。勇は大人達が写真を前にかざして説明しているのを父の傍らで一人前の顔をして見たり聞いたりしていた。
「この前出征兵士を送る壮行会の出し物でとった踊り子の写真がありますが出してもいいでしょうか」と言って、勇のほうを見ながら父に一枚の写真を手渡している客がある。
「ほう、なかなかよく撮れているじゃあないですか」と父がその客から手渡された写真を壁に張って披露した。それはブラジャーと腰蓑をつけただけの踊り子達の群舞の写真であった。
ここに及んで、うちにも似たような裸の写真があることを思い出した。隣の道子ちゃんとかくれんぼをしているとき押入れの箱の中で見つけた写真である。父が押入れの中に仕舞っておくくらいだから余程大切な写真に違いなかった。これを父が取り出して来て披露しないのが不思議であった。きっと父は写真の存在を忘れているに違いないと考えた勇は、押入れの中からこの写真を取り出してきて父に手渡しこれもお見せしたらと手柄顔して言ったものである。すると写真を手にした父が慌てて机の引出しに仕舞い込み、子供は向こうで遊んでいなさいと隣の子供部屋を指差しながら厳しい口調で言った。何故父親が慌てて折角の写真を仕舞い込んだのか不思議であった。
|