前潟都窪の日記

2004年11月06日(土) 敗戦��

 二週間程滞在した神田さん一家は、新京へ一度帰ってから、家財を整理し内地へ引き揚げると言って占領下の満州へ向かって出発したが、無事内地へ帰還することができたのかどうかその後の消息は一切判らず終いである。
 神田さん一家が新京めざして出掛けたのと相前後して、我々一家も山手社宅から工員社宅へ強制移住させられた。山手の職員社宅が平屋造りで八畳のオンドル一部屋、六畳と八畳の和室二部屋、六畳敷き程の台所、二畳敷きの玄関、浴室、便所という構成であったのに比べて、引っ越しした工員社宅は同じ平屋造りだが、六畳のオンドル一部屋、六畳敷きの和室、四畳半の台所浴室、便所という手狭な構成であった。しかもこの建物に二家族が同居させられたのである。勇の家では母、勇、二人の妹幸子、京子の四人家族であった。

 同居したのは山形県出身の片桐さんという新婚間もない夫婦で子供を身籠もっていた。この手狭な家で約一年間内地へ帰れる日を待ちわびながら、不自由な生活を余儀なくされたのである。

 日本鉱業へ勤務していた人達ばかりであったから、お互いに助け合いながら生活していたと思うが、敗戦と同時に職を失い、手持ちの衣類やら指輪を米、こうりゃん、芋などに交換してもらいながらの竹の子生活であった。ソ連軍の占領下にあったので、通貨はソ連軍の軍票で日本国政府発行の通貨は日本人社会内での特殊な取引でしか通用せず、食料品を朝鮮人から購入しようとすると、不利な割合で交換した軍票によらなければならなかった。

 疎開先へ過半の家財や衣類を送ってしまっていた勇の家には、物々交換する種がないので、母が朝鮮人の経営する農園へ畑仕事の手伝いに行って、報酬として貰ってくる芋や、僅かな米で飢えをしのいだのである。働き盛りの男は殆ど出征していたので、男といえば老人か、会社の保安要員として残っていた人達だけであったから、どこの家庭も売り食い生活をしていた。保安要員で残った男も戦時中に朝鮮人労働者を職権をかさに殴ったり、叩いたりして使っていたので、終戦を境に朝鮮人労働者達から仕返しを受けて、半殺しの目にあった。職業軍人の杉淵氏や保安要員であった後藤氏は、朝鮮人の復讐を恐れて女装し、知人宅を渡り歩いて匿ってもらっていた時期があった。虐げられた人間は、機会を得ると狂気じみた私刑を行うものである。このような一種の無法状態が発生し治安が乱れたのは敗戦直後の短い期間であった。やがて、良識のある朝鮮人指導者が、私刑を禁止し、秩序が回復されたが敗戦国民の悲しさで、いつ何時被害を受けるか判らないので、若い娘を持つ家庭では、娘達に男装させるところが多かった。



2004年11月05日(金) 敗戦��

 ▼敗戦
 昭和20年8月15日は、暑い日であった。学校は夏休みで原っぱで遊んでいたと思うがその日は午後から天皇陛下の玉音がラジオで放送されるというので、大人達は落ち着かない様子であった。終戦を予測していた人は多かったであろうが、本土決戦が叫ばれ、一億玉砕が真剣に論議されていた時代であるから、その予測を公けに口にすることは出来なかった。言いたい放題が許される今の時代からみれば言論統制下の暗い時代であった。

 予定の時間にラジオの前に集まり、重大ニュースを聞いた。電波の状態が悪くて、玉音放送はその内容をよく聞きとることが出来なかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。

 終戦のお陰で疎開せずに済んだけれども、家財一切と過半の衣類は、疎開地から戻らずじまいになり、このあとに待っていた竹の子生活に甚大な影響を与えることになった。食料品と物々交換するための材料がリュックサックと手荷物に残されていた僅かな衣類しかなかったからである。

 満州の新京から神田さん一家が敗戦国の国民として、現地人から迫害されるのを免れるため逃げて来て、我が家に住みついたのも終戦直後のこの時期であった。この時、新京から疎開してきた多数の人々は、家族単位で日本鉱業の社宅へ割当てられて一つ屋根の下で二世帯の共同生活をよぎなくされたのである。



2004年11月04日(木) 母子の銃後の生活��

 ある日午前中で授業を終えて帰宅し、戦闘帽を脱ぎ巻き脚半を解いて昼食の食卓へついたところ、母の前にはお湯飲み茶碗と裏の畑で採れたトマトと胡瓜の皿しか置かれていない。不審に思った勇が「母ちゃんどうして御飯を食べないの。お腹が痛いの」と無邪気に尋ねた。

「お腹は痛くないのよ。母ちゃんは次の配給日まで御飯は食べないことにしたのよ」との返事である。
「母ちゃん、御飯を食べないと病気になるよ」と勇が咎めると「勇は心配しなくてもいいのよ。勇達はこれから大きくなるのだから、御飯を沢山食べないと病気になるけれども、母ちゃんは大人だからもう大きくはならないでしょ。だから、次の配給までは畑のお野菜だけで生きていけるのよ」と母は諭すように言った。

 太平洋戦争も末期近くになって、内地が空襲を受けて東京や大阪が焼土と化したという報道は、鎮南浦の住民達にも恐怖を与えていた。特に、鎮南浦には日本鉱業の銅の精錬所があり、その煙突の高さは東洋一と言われていたので、朝鮮が空襲されるときには、鎮南浦は一番最初に狙われるであろうという憶測が囁かれ、田舎への疎開準備が始まった。家財道具の一切と衣類の入った行李や布団袋を発送し終え、身の廻り品だけをリュックサックに入れて一週間後には、体も疎開地へ出発するばかりになったとき終戦を迎えた。



2004年11月03日(水) 母子の銃後の生活��

 ▼母子の銃後の生活
 戦時中、鎮南浦では物資不足に悩まされることはあったが、空襲を受けて家を焼かれたり、身内が爆撃で死亡するという悲劇はなかった。米軍の飛行機が偵察のために、上空へ飛来したことも度々あり、夜間には灯火管制が敷かれ窓から明かりが漏れないように、黒色のカーテンを張りめぐらせた。タングステン電球には中心から直径五センチ程の円形を残して周囲に墨を塗り光りが拡散しないように工夫したことも平和な時代に生活しながらふりかえると懐かしい思い出である。

 父の出征後、銃後を守る母子4人の厳しい生活が続き、いつしか昭和20年の夏を迎えていた。この頃になると戦争も終局に近づきつつあったため、配給制の食料品も日に日に品数、量ともに少なくなっていった。とりわけ、角砂糖は勇にとって物資の乏しかった当時の生活状態を偲ばせる霊媒のようなものであり、それはまた母の慈愛を思い出させる魔法の物質である。乏しい食料品のなかから工夫して作られた母の献立も、風邪をこじらせて寝込んでいる勇の喉を通らなくなったことがある。主食の米は貴重品であったから、こうりゃんや大豆の絞り滓を米の替わりに支給されていた当時の食生活の中では、病気になったからといって毎日、米のお粥を食べることは出来ない相談であった。そんな中で、母が朝鮮人の知り合いに頼みこんで闇の物資である角砂糖を十粒程手に入れてきて下さったのである。この角砂糖の効果はてきめんで、甘いものが好きであった勇の、減退していた食欲を引き出すのに魔法の薬のような役割を果たした。



2004年11月02日(火) 父の出征��

 ところで父に招集令状がくるまで、勇の家では家族は畳の間に所謂「川の字」に布団を敷いて三人の子供達が真ん中に寝て、その端両側に両親が寝ることが習わしになっていた。父に赤紙が来て明日いよいよ出征するという日の夜、父が明日から居なくなるという思いがそうさせたのか、いつになく夜中に目が覚めて寝られなくなってしまった。見るともなく横の布団を見ると寝ている筈の両親がいないのに気がついた。どうしたのだろうと考えたとき松田君から聞いた言葉を思いだしていた。

 まさかと思いながら好奇心も手伝って物音をたてないように、廊下へ出てみると廊下を隔てた応接間の入口から明かりが微かに洩れていた。或いはと訝りながら忍び足でちかずき戸の隙間から覗いてみると、戦時防光を施した薄暗い電灯の下で睦みあっている両親がちらりと見えたので、慌てて寝所に戻り布団に潜りこんで、やはり自分の両親も松田君の両親と同じであったかという失望の気持ちと、戦争へ行くんだからお別れにシビをするのは許されていいんだと自分を納得させようとする複雑な気持ちに苛まれながら寝たふりを装っていた。

 翌日、学校へ行くと青野先生が「都窪 勇くんのお父様も昨日皇国の軍人として出征されました」と級友に紹介されたので、勇は誇らしい気持ちと、父母の絡み合いを見てしまった失望の気持ちがないまぜになった複雑な心境であった。

 出征した父が平壌の連隊にいるとき、一度だけ母と面会に行ったことがある。牡丹台といわれる名所で軍服姿の父が、出征したときよりも幾分肥って元気そうに、母親心尽しの弁当を食べてから動物園ヘ行って子供達を楽しませて下さったと思う。この時の面会が朝鮮では最後となり、間もなく父は神奈川県の葉山通信学校へ赴任した。



2004年11月01日(月) 父の出征��

 ▼父の出征
 勇の父の所へも招集令状がきて、鎮南浦駅へ生まれたばかりの下の妹京子を母が背負い、勇と上の妹幸子の手を引いて見送りに行った。昭和19年の初秋のことであるが、この頃になると日本の敗色が濃くなりかけていたせいか、一頃のように賑やかな見送りではなく、家族が密かに父や兄を見送るという風景に変わってきていた。父の出征も家族だけに見送られる質素なものであった。一年前に中学5年の関村さんのお兄ちゃんが学徒動員で出征したときの華やかさとは比べようもない寂しさであった。

 関根さんのお兄ちゃんの時は、隣組で催した送別会での出征兵士を送る歌声が夜遅くまで聞こえていたし、出征の日には、大勢の人が日の丸の旗を手に手に持って駅頭まで見送ったものである。この光景を就学前に見ていた勇は、大勢の人々に激励されて出征するお兄ちゃんが偉い人、勇ましい人に思え出征兵士に対して憧れの気持ちを抱いていたといえる。

 関根さんのお兄ちゃんの時の出征式の賑やかさに比べ、隣組の送別会もなく、大勢の人々の駅頭までの見送りもなく旅立った父の出征は子供心にも、もの悲しいものであった。僅か1年足らずの時の経過が戦局を悪化させていたのである。

 駅まで送ると人目につくというので駅の手前で別れ、勇達母子は鎮南浦駅から最初の踏切の所で待機していた。やがて列車が目の前を通り、父が軍服に身を固めて、列車のデッキから手を振っていた。勇達も手にした日の丸の旗を必死に振ったのである。このように隠れるようにして出征兵士を送らないと、敵のスパイに兵力を知られてしまうというのが、見送りを質素にする理由であった。

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2004年10月31日(日) 春のめざめ��

「うん、驚いたなあ」
「シビは初めてかい」
「うん」
「お父さんとお母さんのシビを見たことないの」
「うん、ないよ。君はよく見るのかい」
「清さんとお駒どんがシビするのを見たのは初めてだけどお父さんとお母さんが隣の布団の中でシビしているのは寝たふりして時々見るよ」と松田君はすらっと恥ずかしげもなく言ってのけたのである。そして松田君は清さんには赤紙がきて近く入隊することになったから、婚約者の駒どんとお別れのシビをしたのさとも言った。

 この日の衝撃はあまりにも大きかった。平生子供達同志が遊んでいて女の子と男の子が仲良くしていると「やあい、二人はシビしているよ」とはやし立てていたので、男女が仲良くすることを軽く冷やかしていう言葉という風に理解していたのであるが、今日具体的に且つ即物的にシビなるものを目撃してこの言葉の持つ隠微で悩ましくも濃艶な意味と内容を理解して頭に強い一撃を受けた思いがしたのである。

 そして松田君がお父さんとお母さんが時々しているのを見たことがあるよと恥ずかしげもなく言ってのけたことにそれ以上に大きな二重の衝撃を受けていた。僕の両親に限りあんなことをする筈がないと必死に思いこもうとした。その時勇の頭にある脈絡をもって浮かんできた過去の光景があった。それは、父が自宅へ趣味の仲間を集めて自作写真の品評会のときのことである。あの時勇が押入れの中から父の秘蔵の写真を持ち出してきて手柄顔に父の手へ渡したとき、父が厳しい顔をして勇を叱ったことである。あのときの写真は、先程自分が垣間見たあの男女の絡みの場面と同じ種類の写真ではなかったのか。だから父が慌てて机の引出しへ隠したのだ。するとあの写真は父と母の写真だったのだろうか。いやそんな筈はない。どこか余所の人に違いない。僕の両親に限ってあんなことをする筈がない・・・・・

 今まで住んでいた世界と想像も及ばないあまりにもかけ離れて異なる世界を垣間見て、一種の激しいカルチヤーショックを受けていた。勇の春のめざめの時であった。と同時に両親に対しても突き放して見てみるという観察者の目を持つようになった時なのかもしれない。



2004年10月30日(土) 春のめざめ��

 やがて女の喘ぎが一段と激しくなり上半身をのけ反らせるようにして、口にくわえこんだ逸物を離したのをしおに今度は男が上下向きを変えて女にかぶさり、白い女の二本の脚が男の腰を鋏み込んで毛むくじゅらの脛が波のようにゆっくりと前後左右上下に蠕動しだした。動きにつれて女の喘ぎは低くなったり高くなったりしている。そのうちに男が相手を抱き上げて、二人は向かい合ってぶらんこに乗っているような恰好になった。薄暗いので顔はよく見えないが男が相手の腰に両腕を廻し、女が両手を男の首に巻き付けたのがその白さで判った。男は片手を放して女の胸をまさぐって襟元から乳房を取り出し顔をこすりつけるようにして乳首を吸い出した。途端に女は体全体をぴくりと動かした。

 勇の心臓は早鐘を打つように鼓動が高まっているが体は動くに動けず彫刻のように固くなって目の前の光景を見つづけているうちに、二人はまた元のように上下に絡む仰向けとうつ伏せの体位に戻った。二人の動きがせわしなくなって短い噛み殺したような呻き声が女の口から洩れて女の指が男の着物を掻きむしっていた。男がふぅっと低い声を出して動きがとまり二人は離れて身繕いをすると入口の戸を細めに開けて外の様子を窺ってからそそくさと外へ出て行った。勇には眼前で何が行われたのか判ったような気がしてよく判らず夢を見たのではないかと頬をつねってみたら痛かった。

 ぼうっーとしていると「シビを見たかい。内緒だよ」という声がした。突然目撃した前代未聞の珍事の発生にその存在すら忘れていた隣の長持ちに入って寝ていた筈の松田君の声であった。



2004年10月29日(金) 春のめざめ��

 松田君の部屋でおやつに出された蒸し芋をたらふく食べた二人は眠くなってしまった。松田君がいいところがあるからついておいでというので付いて行くとどうやら納戸のようである。松田君がスィッチをいれると戦時防光を施された電球の淡い光に映しだされた薄暗い部屋の入口近くには布団が数組畳んで置いてあって、部屋の奥の方には長持等も沢山並んでいる。

「この中で昼寝しょう。気持ちがいいぜ」
と松田君がニコッと笑みをみせてから一つの長持ちの蓋を外しておいて、電灯のスイッチを切るとその中へ潜り込んで横たわった。勇も入口の扉の隙間からこぼれる微かな明かりを頼りに松田君の隣りの長持ちの蓋を外して潜り込んだ。長持ちの中には来客用の絹布団が仕舞ってあったのである。初めて触れる絹布団の肌触りを楽しんでいるうちに松田君の微かな寝息が聞こえだした。釣られるように勇も何時しか眠りに陥っていた。

 どれくらいの時間経ったのだろうか、勇は妙な物音に目を覚まされた。喘いでいるような呼吸が続いているのである。最初松田君の寝息かと思ったが音のする方角が違っていて喘ぎが段々激しくなってくる。勇は何か異変が起きているらしいので音をたてないように注意しながら首を持ち上げて周囲を見回した。目を凝らしていると暗闇に目も馴れてきて扉の合わせ目から漏れて差し込んでいる光に映しだされて、入口近くの拡げられた布団の上に蠢く二つの異様な姿が目に飛び込んできた。女の白い脛が二本、天井に向かって45度の角度で投げ出されており、細かく震えるように蠕動している。そして曲がった膝に連なる太い二本の白い脚の間に黒く蠢いている塊がある。勇は不動金縛りにあったように身動きすることが出来なくなって息をするのも憚られた。

 唾を音のしないように飲み込んで見ていると黒く蠢いている塊は男の頭髪であり、女の股ぐらへ顔を突っ込んで秘所を舐めまわしているもののようである。そして男も下半身剥き出しで女に覆いかぶさっており二本の毛むくじゃらの脛が女の顔を挟んでいた。女は男の秘物を口にくわえてしきりに上下に頭を動かしながら呻き声を噛み殺しているのである。



2004年10月28日(木) 春のめざめ��

 ▼春のめざめ
 小学校へ入学して間もなく、鎮南浦の街中から登校している松田君と仲良くなり、彼の自宅へ遊びに行ったことがある。松田君の家はすべての点でもの珍しいことばかりであった。まず、松田君の家は大きな商家で番頭さんや手代、丁稚、女中さんが沢山居て「若ぼんぼん」と呼ばれていたことである。「坊や」とか「坊ちゃん」という呼称は聞き慣れていたが「若ぼんぼん」という呼称は初めて耳にする言葉であり、松田君がひどく偉い人のように思えたものである。

 玄関を入った所に帳場があって、番頭さんが算盤をパチパチ弾きながら帳面付けをしている光景は初めて見た世界であり、壁に掛かっている電話器も珍しいものであった。帳場へ子供が入ることは禁じられているらしく、物珍しそうにキョロキョロしている勇をせかせて松田君は自分の部屋へ連れて行った。

 次に松田君のお母さんが三味線を弾くことと煙草を長い煙管で吸うことも驚きの一つであった。今まで煙草は男の大人が吸うものだと信じきっていたから、固定観念が打ち破られた初めての経験であったし、見るもの聞くことが、何れも興味のあることばかりであった。玄関の隅にたてかけてあったスキーの橇板も初めて見るものであった。


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