前潟都窪の日記

2004年11月16日(火) 米軍管理下の難民収容所��

 七日間のテント生活は、殆ど雨に降られたため、テントに閉じ込められて生活したように思う。鎮南浦出発以来、入浴していないうえ、野宿したり、川を渡ったりしたので、着衣は垢と汗で臭くなっており、DDTで入村時に消毒されたにもかかわらず、腰のバンドの下に虱がわいたのを覚えている。藤原ていさんの著作「流れる星は生きていた」に比べると勇達の国境までの逃避行はまだ、恵まれていた方である。日本鉱業の従業員とその家族を主体としたグループであったから、比較的統制のとれた行動ができたせいか、道中、無法者に略奪暴行されたり、婦女子が凌辱を受けるという悲劇もなく落伍した一家族を除いては、全員無事に国境を越えることができた。

 引き揚げ者のグループが何人いたのか正確には覚えていないが、現在薄れかけた記憶を辿って当時の隊列を思い出してみると四〜五百人の人数だったのではないかという気がする。国境線で落伍した児玉さん一家は丁度勇の家と同じような家族構成で、若い母親が三人の幼小児をひきつれていた。逃避行という異常な状況の中では誰しも自分のことだけで精一杯になり、落伍しそうな家族があっても、せいぜい声をかけて励ます程度のことしか出来ず、悲しく情けない思いをしたのは、勇だけではなかったであろう。児玉さん一家もこのときは落伍したが、何か月か後には無事内地までたどりついたという噂を聞いた。



2004年11月15日(月) 米軍管理下の難民収容所��

 ▼米軍管理下の難民収容所
 国境を越えてからの旅は恵まれていた。米軍のジープやトラックが国境線近くに待ちうけていて、次々に開城のテント村まで運んでくれた。テント村に入る前に頭からDDTをふりかけられて体中真っ白になった。このテント村には一週間抑留された。テント村は北朝鮮から脱出してくる日本人引き揚げ者を船便の手配が出来るまで収容しておく米軍経営の難民キャンプであった。

 アルマイト製の食器を与えられ、朝、昼、晩と決まった時間に給食があったが、とうもろこしのスープに大根の切れ端や葉っぱが申し訳程度に浮いている粗末なものであった。ほかにも食べ物が支給されたのかもしれないが、勇の記憶に残っているのはとうもろこしのスープだけであった。男手のある家族は米や豆をまだ持っており、携帯した飯盒で炊いて美味しそうに食べていた。それを遠くから羨ましそうに眺めているだけであった。

 いじましい話だが、米を持っているグループが座っていた場所の筵の目の中にこぼれて入り込んでいる米粒を叩き出して、二粒、三粒の生米をかじったこともある。



2004年11月14日(日) 38度線に響く銃声

 ▼38度戦で響く銃声
 勇が母や妹とはぐれたのは、突然聞こえた銃声が原因となった。
「川を渡ったり、国境を越えるときには、遅れないように、大人の男の人の後について歩くんですよ。幸子は母さんが、手を引いていきますからね」と母が言っていたので、勇は知り合いの後藤さんの小父さんの後ろについて、一生懸命歩いた。そこへ威嚇射撃ではあったが、銃声が聞こえて隊列が乱れ蜘蛛の子を散らすように、岩陰へ隠れるグループや構わずにどんどん行進を続けるグループとに分かれたのである。

 勇がついて行った後藤さんは行進派だったので勇も後藤さんの後ろについてどんどん歩いた。ところが、一時岩陰に身を寄せた母は勇達のグループから遅れをとったという次第である。

 国境を無事突破して、小休止したとき母と妹に再会した。勇はあまり心配していなかったが、母の方は勇の体がマラリヤのために衰弱しているので、勇が、皆から落伍してしまったのではないかと、勇の顔をみるまでは心配で心配でたまらなかったそうである。母はこのとき勇を日本へ連れて帰れないかもしれないと覚悟したと後に述懐している。

 後年今は亡き母の法事でその時の様子を妹の幸子が語って聞かせてくれたが、髪を振り乱して「いさむはおらんか。いさむ返事をしなさい」と発狂したようにあちこち人混みの中を駆けずり廻っていたという。年配の人になだめられて漸く、隊列に戻ったらしい。



2004年11月13日(土) 引き揚げ��

 成人のいる家族は、リュックサックに一杯荷物をいれて背負い、両手にも荷物を持っていたから、旅行中の食料も豊富であった。しかしながら、マラリヤ熱から解放されたばかりで、体の衰弱していた勇は、自分のリュックサック一つを背負い、妹幸子の手を引くのが精一杯であった。次の妹の京子はやっとよちよち歩きが始まったばかりであったから、母が背負ったリュックサックの上に跨がせて肩車をしているような恰好で道中を続けたのである。従って、食料品もふんだんに持つことは出来ず、干し飯も国境線にたどりつくまでに無くなっていた。

 行進中に朝鮮人の集団に襲われ、目の前でリュックサックを強奪された家族が二、三あったが、誰もどうすることも出来ないで、口惜しく惨めな思いをしたものである。

 野宿をしながらただ黙々と国境線まで、隊列から離れないようにとそれだけを念じながら歩いた七日間であった。

 国境近くに来た時は警戒も厳しくなり、夜陰に乗じてこれを突破することになった。昼間山中で仮眠し、暗くなってから腰までつかる浅瀬の川をじゃぶじゃぶ歩いて渡った。このとき勇は母親と妹からはぐれてしまったが、隊列から離れないでついて行けば、家族にはまた会えると必死で衰弱した体で足を滑らせながら浅瀬を渡った。

 このあと、続けて38度線の国境を渡った。この時も勇一人で母達の所在は不明であった。国境警備兵が威嚇射撃をしたため、その銃声は国境突破の一行に悲壮感を与えるのに効果充分であった。



2004年11月12日(金) 引き揚げ��

 ▼引き揚げ
 待ちに待った引き揚げの日の10月6日には、鎮南浦の港へ集まり、何隻かの貨物船に班別に分かれて乗り込み、鎮南浦の湾を横断して対岸の黄海道まで渡り、後は38度線の国境まで、歩いて行くという旅程であった。船旅は二、三時間の短い時間であったが、船酔いする人が多かった。船の中には便所がなく油用の一斗缶を二つ切りにした容器に吐出物やら排泄物を入れて、これを海中に投棄するという原始的な汚物処理が行われていた。朝鮮人の乗組員達は両手で船縁につかまり、剥き出しにした尻を海中に突きだし、器用に悠々と放便していた。

 対岸へ上陸してからは、隊列を組み国境線目指しての山越え、谷越えの徒歩による旅が約一週間続いた。あるときは、朝鮮人の土地の自警団の青年達に指輪や腕時計を与えて村の通行許可を得たり、見回りに来たソ連兵を振り袖の着物で買収して移動許可を貰ったりしての苦しい逃避行であった。 



2004年11月11日(木) 敗戦��

 その四は、同居人の片桐さんの御主人が、炭で真っ黒に汚した顔から白い歯を覗かせてにっこり、誇らしげに笑っている立像画である。背中には石炭の入った背負い子を荷なっており、両肩には背負い子の帯が食い込んで、背中の荷物が重たいことを証明している。朝鮮では冬の季節には独特の暖房施設として、何処の家にもオンドルが設けられており、これに火がいれられる。ところが、敗戦国民にはオンドルを常時暖かくしておくだけの燃料用の石炭が充分には配給されない。そこで子供達が薪を拾いに山や原へ出掛けて行ったり牛車が運搬の途中でこぼしていく石炭を拾っては暖をとる足しにしていた。寒さが厳しくなってくるとどうしても沢山の石炭が必要になってくる。そこで、会社の貯炭場に野積みされている豆炭や石炭を夜陰に乗じて、見張りの目を盗んで失敬してこようと考え出した人がある。

 元もと戦前までは自分達が勤めていた会社であり、自分達の管理下にあった石炭を戦争に負けたために、接収され朝鮮人やソ連人の管理下にあるだけのことである。戦前であればこの貯炭場から、供給されていたのだから、少しぐらい持ってきてもかまわないだろうという勝手な理屈をつくりあげたのである。たまたま当番にあたった片桐さんが決死の覚悟で、貯炭場へ忍び込み首尾よく目的を達して生還したのである。元は自分達が管理していたとはいえ、会社のものであり今では戦勝国の管理下にあるのだから、石炭を運び出すところが見つかれば窃盗として射殺されても文句の言えない行為である。それだけに無事に帰ってきた片桐さんの顔は誇らしげに、安堵の色に輝いていたのであろう。極度に困窮すれば、窃盗に類した行為でも集団の容認のもとで行えば正当化し英雄化してしまう人間の性(さが)の弱さ、悲しさに思い到らせる絵の一枚である。



2004年11月10日(水) 敗戦��

 工員社宅での生活は僅か一年足らずの短い期間ではあったが、感受性の強い時期の八才の子供にはどうしても忘れることの出来ない心象風景として残っている、何枚かの絵画のような場面がある。五十年近い時の流れにつれて、過半の出来事が風化してしまった中で、今でも脳裏に焼き付いて残っている絵画のような場面は、当時、勇に鮮烈な印象を与えた出来事であり、体験であったのであろう。その絵を何枚か再現してみることにしよう。

その一は、冬の寒い日に両手にあかぎれをつくった15、6才の少女が井戸から水を汲み上げて、洗い桶に入った米とこうりゃんの混ぜ物をせっせと研いでいる共同炊事場の風景である。周囲で洗い物をしている主婦達のつかっている桶からは、湯気がたちのぼっており、凍てつく水を使っている少女とは対照的である。この少女は大工の中田さんが居候をしていた親方の家で賄い方をしていた身寄りのない娘である。

 その二は、昨日までスカートをはき、長い髪で三組みを編んでいた向かいの家の田代さんのお姉さんが、髪を切って丸坊主になり、男物の上下の国民服を着用して、玄関から出てきた男装の正面図である。美人で評判の高かった適齢期の田代嬢が、「ロ助」の目を誤魔化すために、男装しなければ、闇市へ買い出しにも出掛けられない敗戦国の外地居留民に対する治安状態を思い出させる絵である。

 その三は、赤い地に星と鎌と槌の模様の描かれた小旗を手にして、口にはちょび髭を蓄え、黒色のネール帽をかぶり、金 日成とスターリンの政治を讃え、共産主義の栄光をぶちあげながら歩き廻っている中年男の姿である。この男は、俗にいう政治ごろのような男で、戦時中は軍部に取り入って美味い汁を吸っていたが、敗戦で鎮南浦がソ連軍の占領下に置かれることを知ると、ただちに宗旨がえをして俄か共産主義者になって、日本人社会からは顰蹙を買いながらも、朝鮮人やソ連軍の指導者に取り入って羽振りを効かせていた。「ロ助」と揉め事が出来るとこの男の出番がくるといった仕事をして世渡りをしていた。何時の世の中にもこうした寄生虫のような手合いはいるものだが、この男の節操のなさには、子供心にも憤りを感じ、忘れ得ぬ一枚の心象風景として残った絵であろう。



2004年11月09日(火) 敗戦��

 勇は引き揚げが間近に迫った頃、運悪くマラリヤに罹ってしまった。寒気がするときには幻覚が生じて、表に干してある赤い洗濯物が、鬼に見えるのであった。また、悪寒のするときには、体がぶるぶる震え、布団を何枚重ねて掛けてもとまらないのである。しまいには妹に掛け布団の上にあがって貰うこともしばしばであった。そんなときには、天井はぐるぐる廻り、今にも落ちてきそうに見え、悲鳴をあげることもあったらしい。

 マラリヤの特効薬はキニーネである。南方特産の薬でキナの木の皮を干して作られる一種のアルカロイドである。飲めばよくなるということが判っていても、物資の乏しい時代であるからそう容易に手には入らない。このときも、母が四方八方尋ね廻り、なけなしの財布を叩いて高価なキニーネを入手して下さった。特効薬といわれるだけあって、キニーネの効き目は著しく、さしもの高熱も嘘のように出なくなってしまった。しかし、この時衰弱した体は、その後の引き揚げの道中で、大きなハンデキャップとなるのであった。



2004年11月08日(月) 敗戦��

 工員社宅には、二世帯ずつが同居していたが、気のあう組み合わせというものはあるもので、勇の家へは島根県出身の大工さんで中田さんという小父さんが、遊びにきては「出雲神楽」の話をしてくださった。中田さんは出稼ぎで朝鮮へきているうちに戦争が激しくなり、内地へ帰れなくなったというめぐりあわせを持っていた。中田さんの小父さんは家族を島根県浜田市においてきており、親方の所へ居候していたから、子供達を相手に神楽の話を聞かせるのは、楽しみの一つであったのかもしれない。

「やわたのおろち」とか、「すさのおの命」とか神話の登場人物や動物の物語を実にいきいきと楽しそうに語ってくれるのであった。長い煙管に刻みの煙草を詰めて美味しそうに煙をくゆらせながら、立て膝をして話していた姿には一種独特の風情があった。中田さんの口癖は内地へ帰って、もし普請でもするときには、一番に知らせて欲しい、自分が駆けつけて精魂込めた建物を作ってあげるというものであった。

 工員社宅での毎日の話題は、何時内地へ引き揚げられるかということであった。皆がそのことだけに、希望をつないで生活しているので、色々なでまや憶測が乱れ飛んだ。そんな中で、何処の家庭でもきっといつかは内地へ帰れると信じていたので、それぞれにその日に備えて、引き揚げ準備に余念がなかった。干飯をつくったり、煎り米や煎り豆を用意していた。勇の家では母が、浴衣を縫い合わせて小さな蚊帳を作った。これは傑作であった。引き揚げが決まるまでは家の中で蚊の襲撃から我々を守ってくれたし、引き揚げの道中では或る時は蚊帳になり、或る時は敷き布団や掛け布団になったし、風呂敷包みの替わりになったこともある。



2004年11月07日(日) 敗戦��

 鎮南浦はソ連軍の占領下にあったので、ソ連の兵士が進駐してきていたが教育水準が低く、田舎者で腕時計が物珍しいのか、徴発した腕時計を両腕に二、三十個も付けて得意になっているものや、指輪を指という指にはめられるだけはめて喜んでいる兵士が多かった。

 兵士達は煎った向日葵の種や南瓜の種をポケットから取り出しては口に投げ込み、皮を辺り構わずふき散らしていた。私達はソ連兵のことを「ロ助」と蔑称していた。「ロ助」に凌辱された婦女子もあったので、日本人は「ロ助」の姿を認めると逃げるようにしていた。夜間に鉄砲を打ち込まれた家もある。どうも鎮南浦に進駐してきたソ連兵は程度の低い粗暴な連中が多かったようである。この時の悪い印象があるので、勇はソ連という国、ロシヤ人という人種にはいまだに好意が持てないのである。

 この工員社宅における無為の約一年間は、成長期の子供達にとっては就学上の見地からは無意味な期間であった。しかし、世間を知り、雑学的な智恵を身につけるという見地からは意義のあるものであったのかもしれない。
 好奇心旺盛な子供達は、つれづれを癒すために、大人達が指している将棋や囲碁を見ているうちに何時の間にか覚えてしまっていた。見ようみまねで指していた将棋が指導者の大人を凌駕する程の腕前になっていたり、近くの池で鮒を釣ってきては夕食の足しにしたりしていた。また、朝鮮人の牛車がこぼして行く石炭を拾い集めてはオンドルの燃料にしたり、捕虜になって使役に使われている元日本兵達の収容されているキャンプへ「ロ助」の歩哨の目を盗んで見舞いに行き、鉄条網越しに兵隊さんから、残飯で握ったおむすびを土産に貰っては喜んでいた。

 飽食の時代からは考えられない敗戦国の外地居留民が飢餓一歩手前の状態で苦しんでいた当時の暗い思い出である。

 子供達がキャンプへ現れると、兵隊さん達も「岡山県の子供はいないか」「熊本県の子供はいないか」「秋田県の者はいないか」と同じ出身県の子供に会いたがった。それは、同県人であれば、便りをことづければ自分の消息を内地の肉親に伝えて貰えるであろうというはかない期待を、内地へは多分早く引き揚げるであろう、民間人の子供達に託したかったからである。


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