| 2004年12月11日(土) |
真菰刈り、元抜き、毛取り、木工�� |
畳表は短時間で藺草をよく乾燥させたものほど色が鮮やかである。藺草を色鮮やかに乾燥させるため、刈り取ったあと田圃に掘った穴の中へ溜めてある泥水へ漬けてから、地面に拡げて天日干しをする。従って乾燥した藺草はちょっと手を触れただけでも、もうもうと泥の微粒子が舞い上がる。
ところで藺草を畳表に織り上げていく前工程として藺草の元抜きという作業がある。藺草は刈り取った時、根元の部分に薄紫色の長さ10センチ程の袴をはいている。この袴を取り除く作業が元抜きである。藺草は直径15センチ位の束に結わえられているので、元抜きを始める前に大鋏で藺草の元の部分を1〜2ミリ程度切り落とす。この下拵えをした後、藺草の束に馬乗りとなり、左手に掴める量だけの藺草の基底部を握り右手指先で藺草の茎を手前にひいてやると、袴だけが左手掌に残る。この時、藺草に付着している泥の微粒子の過半のものが離脱し、もうもうたる粉塵が顔面を直撃する。作業に当たってはマスクをしているが、隙間を通して浸入した粉塵で鼻孔は真っ黒になる。この作業が学校から帰ってきた子供達の小遣い稼ぎのアルバイトになるのである。汚れる作業なのでよくよく小遣いに困ったときにしか手をださなかったが、一束幾らの手間賃を貰って嬉々として、クレパスやスケッチブックを買いに走ったことを思い出す。それにつけても文具の類は親から買い与えられるのが当然と思っている現代の子供達と較べてどちらが幸せなのだろうかと考えることがある。
自動織機で織られた畳表は50メートル近い帯状になっている。この畳表の表面には織り込まれた藺草の穂先や根元部分が突出していることが多い。この突出した部分を毛取り器と称する道具で削りとっていく作業が毛取り作業である。作業は畳半畳ほどの広さの木製の台の上を畳表を滑らせながら毛を取っていくのである。子供にできる単純作業であるが新しい畳表の香りが懐かしい。
中学3年の時であったと思うが、父の不遇の時代で学校から帰ると木工所へ通った。岡山県南には当時学生服の縫製工場が沢山あり全国的にも機業地として知られていた。倉敷紡績を始め中小の紡績工場があり繁盛していた。この紡績工場で使う糸巻きを製作する木工所で下地を作ったのである。
手順は、 1)よく乾燥させた太い桜の木を長さ30センチ位に鋸で引いて、なたで割って5センチ角くらいの木片を作り角を落として丸くする。 2)この木片の両端を回転台の回転軸に固定した後、足踏み板を踏みながら回転させ金属製の刃物を定点に固定し刃先を木片に当てて丸く削っていくのである。刃物の柄を両手で支えて刃先が木片を削っていくのを目視しながら当たり具合を調節していくところに熟練を必要とした。 木工所は職人あがりの老人が本業の雑貨屋を婿養子に任せて、隠居仕事として細々と経営していたので内職の域をでなかった。しかしこの老人の品質にこだわる一徹さと頑固さは並大抵のものではなかった。社会科の時間に日本経済の二重構造ということを学んだ頃であったが、日本経済の発展を支えた零細企業を実地に体験していたのである。
| 2004年12月10日(金) |
真菰刈り、元抜き、毛取り、木工�� |
▼真菰狩り、元抜き、毛取り、木工 岡山県南の早島町は戦前から畳表の産地として有名であった。農家では藺草を栽培し農閑期には副業として織機で畳表を織っていた。藺草の栽培は暮れ12月の寒い時期に植えつけ、夏土用のころ刈り入れるため農作業としては最も過酷な条件下で行われる重労働であった。そして藺草はその年の作付け面積と天候に値段が左右される市況商品であった。この農家で生産した藺草や畳表を買い集めては、織機工場や畳問屋へ持ち込んで口銭稼ぎをする仲買人のことを鳶(トンビ)と言っていた。
昭和20年の冬には敗戦直後の混乱の中で農家は保有米を少しでも多く確保すめため、米作に力を入れており藺草の作付けは極めて少なかった。昭和21年の冬の藺草の作付け面積をどうするかの判断は難しかった。戦後の復興建設がやがて始まると読んだ目端のきく農家は政府の制肘を受けない藺草を自己の責任で多く植えて結果的には大儲けした。しかし大半の農家は食糧管理法の統制下で米作に力を入れていた。
空襲で焼け野原となった都会地にそろそろ住居が建設されだした昭和22年の春には畳表の需要が旺盛に出始めたが、在庫が払底していて価格が高騰した。その年の藺草の収穫にはまだ早い6月頃、灌漑用の川に真弧が青々と繁っていた。これを刈りとって試しに畳表を織って代用品として売った鳶がいた。これが値が安いこともあって飛ぶように売れた。そこでこの智恵者の鳶は、小学生や中学生を集めて真弧を刈らせ、天日干ししたものを買い上げた。
子供達は小遣い稼ぎに競って真弧を刈り道路へ干して乾燥したものをこの鳶へ持ち込んだ。真弧刈りは岸辺から手の届く範囲のものしか刈ることができないので、刈り残した川中のものは川舟を浮かべて舟の上から刈り取った。乾燥した製品は目方で鳶が買い上げてくれたが、値段がいくらであったかは思い出せない。しかし、干し上がった真弧の匂いは懐かしく今でも思い出すことができる。この真弧刈りのアルバイトはその年限りの一ケ月程の短い期間のものであった。翌年からは作付け面積が極端に増えて藺草が暴落したからである。
勇は今年、初めて手作りの面をつけて、町へでたのであるが、近所の子供達を追いかけまわし得意になっていた。鬼面をつけて高下駄を履くと小学校4年生であっても、背丈は高くなり大人より大きくなることがある。 「ベチャよ。ベチャよ」とはやしたてて逃げて行く子供達を追っかけて、小学校前の文房具屋前までくると、餓鬼大将の富雄がするめを齧りながら、女の下駄を頭の上にかざして 「香織の下駄はトウキョウセイ」と節をつけて歌っている。下駄をとられた香織が「返して頂戴」と泣きべそをかきながら富雄を追っかけている。 勇は香織の災難を見ると富雄の恐ろしさが頭の中に閃きはしたが、それよりも香織の下駄を取り替えしてやらなければならないという義侠心の方が先に走った。つかつかと富雄の傍らへ近づいて襟首を掴むといきなり、頬に平手打ちを一発食らわせた。不意打ちにあってたじろいだ富雄が鼻の穴を大きく膨らませてピクピクさせている。すかさず勇が青竹を振り上げると、怯えた富雄は声も出さずに逃げ出した。勇はこんなに簡単に事が運ぶとは予想さえしていなかったのであっけにとられたが、富雄の逃げていく姿を見ると追っかけてみたくなった。
追いかけてみると富雄は一生懸命逃げていく。相手が逃げるとますます面白くなって勇はどんどん追いかけた。今日こそは何時もいじめられている仕返しをしてやろうという気持ちが起きて、富雄が悲鳴をあげるまで追いかけ、青竹で叩いてやろうと勇は思った。面を被っているので、誰がやっているかわからないだろうという気持ちが勇を大胆にした。いつも威張って勇達をいじめている富雄の姿が今日程みじめに見えた日はなかったと勇は思った。そして、香織にはベチャの面を見せるのはやめようと思った。走りながら今日の出来事は内緒にしておこうと思った。
最近インターネットや携帯電話を使った犯罪が増えつつあるが、悪の誘惑に陥るのはその匿名性が原因であると思う。富雄を追っかけ、どこまでもいじめてやろうという気持ちがおきたのも、ベチャの面に隠れての匿名行為である。この時の勇の心理を冷静に考えてみると、人は誰でも心の内に悪魔性を潜ませているのではないかという気がする。よく「魔が差した」ということが言われるが、富雄を追っかけた勇の行動も匿名のベチャ面に助けられてこの悪魔性が発現したものであろう。人間誰でもが内に潜ませているこの悪魔性を発現させないものは、その人が陶冶し磨きあげた人格であり、規範意識だと思う。
真弧刈り、藺草の元抜き、表の毛取り、糸巻きの木地造りが子供の頃から中学生までの間に経験したアルバイトであった。
勇はベチャ面作りがうまくいかなかった上に、投げしまで良い餌を富雄に巻き上げられてしまい、面白くない一日だった。勇は家に帰りつくとうっぷんの持っていき場所がなかったので、飼い猫の三毛が勇の傍らへじゃれついてきたのを幸いとばかり思い切り蹴飛ばした。三毛はいきなり蹴飛ばされてギャォーと悲鳴をあげながら、すっ飛んで逃げた。
勇の面作りは進んで、あとはエナメルを塗り、面の頭に毛をつけるだけとなった。勇はさっきから、面の色を何色にしようかと考えている。赤色か、緑色のどちらかなのだが、装束のことも一緒に考えておかなければ、簡単には決められない。勇は緑色に塗って緑色のシャツを着、黒い袴をはいてみたいと思うのだが、勇の体に合いそうな緑色のシャツも黒い袴も自分の家にはなさそうである。赤なら、岸田の寿美姉のセーターと腰巻きを借りれば、恰好だけはつきそうである。腹巻だけ母親にねだって縫って貰えばよいのだ。ここまで考えて勇は赤色に塗ることに決めた。後は頭髪につける棕櫚の皮を伯父の家へ行って貰ってくればよい。
いよいよ秋祭りの日がやってきた。 勇は親友の毅にも内緒で作ってきたベチャの面を被って往来を歩いているベチャの群れの中へ入っていくことを考えると胸がわくわくした。そして何よりも、ベチャ姿で香織のうちへ訪ねて行き、香織を驚かせてやろうと思うと心がはやった。
勇の町は鶴崎神社の氏子が殆どなので、祭りといえば鬼がでるものと決まっている。鬼は通常小学校4〜5年生の年頃から17〜18才の青年までが、めいめいに作っておいた鬼面を被り、それぞれに意匠を凝らした装束を纏って、町を練り歩くのである。赤色または青色のシャツを着て、色付きのモンペ風のズボンをはき、足には脚絆を巻き手には手甲をする。腰には超ミニスカート風の腰巻きを巻き、腹には金時腹巻をつけている。ほう歯の高下駄を履き丹精して作った鬼面を被る。鬼面には棕櫚の毛で作った頭髪がつけてあり、背中へ長く垂れ流すのである。
そして手には青竹を六尺くらいの長さに切った棒を持ち、青竹製の棒をひきづりながら歩くのである。青竹の先は割ってあり、通行人を襲う時は青竹を地面に叩きつけて、パンパンと音を出す。このような青鬼、赤鬼が祭りともなれば40〜50匹も出現して町中を練り歩くのである。17〜18才の青年達は町の若い娘達の尻を追いかけ喜んでいるという具合である。
二人は秘密の溝から集めてきて、空き缶に入れておいた三角蛭を地べたにかがみこんでせっせと針に無言のまま取り付けた。長屋の奥からは母の織機を動かす音がカタンカタンと漸くたそがれ始めた裏庭に流れていた。
勇と毅が田圃の畦道を空豆の葉についている雨水でずぼんをぐしゃぐしゃに濡らしながら、六間川に来てみると既に人影が2〜3人投げし針を漬けているのが目に入った。中学一年の富雄も弟の富次と一緒にきているようである。
「勇ちゃん、富雄がきているぜ、どねぇしょうのぉ。三軒地の方へ行こうかのう」と富雄の姿を目敏く認めた毅が相談した。 「そうじゃのう。あいつが一緒じゃと、盗られてしまうけぇのう」 その時富雄の方もこちらの姿を認めたらしく 「おーい勇と毅じゃねぇか。この辺はようかかるんかいのう」と声をかけてきた。こうなっては万事窮すである。 「おえりゃぁせんわぁ。昨日も百本漬けたんじゃが、かかったのは鯰とどんこだけじゃ」と毅が答えた。 「お前ら餌は何をつけとるんじゃ」 「わいらは三角蛭じゃ」 「そうか、お前ら三角蛭か。どこでとったんじゃ。わいら、三角蛭がおらんけえ雨蛙じゃが」と富雄が言ったので、勇と毅もこれは雲行きが怪しくなってきたぞと思うと案の定、富雄が癪にさわることを言いだした。 「おい、お前ら、わいらの投げしと取り替えてくれ。わいら百本もっとるけぇのう、お前らのを百本こちらへ寄越せや」
勇と毅はお互いに顔を見合せたが、何しろ相手が悪い。富雄は中学一年生で、札付きの餓鬼大将である。大柄な上に腕力が強く,富雄の意に逆らうとどんな目にあわされるか判らない。勉強はできないくせに、悪知恵だけは発達していて、学校の先生達もその指導には手を焼いているのである。勇と毅は不承不承、折角臭い溝に入って、洋服を汚しながら集めた三角蛭を餌につけてある投げしを富雄のそれと交換した。六間川と早川は大体勇と毅の領分で、富雄達はこの近くへは姿を見せた事がなかったのに、今日は早々とやってきている。勇は鰻のよくかかる早川を富雄に占領された上に、三角蛭の餌のついた投げしまで取り上げられて、口惜しくて仕方がないのであるが、富雄の理不尽な暴力が恐ろしくて、言うことをきくより仕方がないのである。諦めた二人は、富雄から代わりに受け取った雨蛙のついた投げしを次々に川へ投げ込んで帰路についた。いつしか日はとっぷり暮れて、田圃では蛙のオーケストラが始まっていた。
通された応接間にはピアノが置いてあり、書棚には世界文学全集や日本文学全集、世界の思想大全集等の本がぎっしり詰まっており、勇には読めない分厚い外国語の本も並んでいる。壁には羊飼いと羊の群れを描いた大きな絵がかかっている。勇はこれとよく似た絵を先生に連れられて大原美術館に行ったとき見たことがあると思った。 健介、剛、京子、栄も落ちつかない様子でもじもじしている。何時もと勝手が違って、部屋の雰囲気に圧倒され、よそ行きの顔をして畏まっている。「さあ皆さん、どんどん召し上がって下さいね。香織は末っ子だし転校してきたばかりなので、お友達もなく寂しがっていますのよ。皆さんに仲良くして戴いて、岡山の言葉も沢山教えて下さいね」と香織の母はケーキを勧めながら、勇達の顔へ笑顔を投げかけた。香織も慣れた手つきで紅茶を配っている。香織の母の視線が剛に移ったとき、剽軽者の剛は慌てて
「岡山弁はすぐ慣れますらぁ。わいら生まれたときから岡山弁で話しょうりますがぁ」というと 「まあ、剛さんは生まれたときから、言葉を話したの。ソリャァ、ボッケェナァ」と香織の母が岡山弁を混じえて言ったので皆どっと笑った。 香織の母の巧みなリードで勇達は畏まった気持ちもほぐれ、平気で方言が喋れるようになった。秋祭りのこと、ベチャのこと、投げし針のこと、茸狩りのこと、蜻蛉釣りや蝉捕りのこと、凧上げのこと、藺草刈りや田植えの手伝いのことなどこの地方で勇達の日常生活の一部になっている行事や遊びのことを皆かわるがわる得意になって話して聞かせた。香織は特に祭りのベチャに興味を持ったようである。この地方に伝わる桃太郎伝説とベチャの関係を勇は請われるままに、乏しい知識を振り絞って説明した。
勇の話しに目を輝かせながら聞き入っている香織の姿を勇はとても美しいと思った。 「勇さんは何でもよく知っているのね」と香織が感心したように言ってくれたので、勇は満足した。香織のうちへ遊びにきて良かったと思った。
勇は先刻から一心不乱に粘土を捏ねているがどうしてもうまくつくれない。時折、癇癪を起こしては九分通り出来上がった面型に竹のへらで十文字に罰点をいれて粘土を団子にしている。香織に見せて褒められるような面を作らなければと思うとなかなかうまくいかなかった。また最初からやり直して目を彫りかけていた。
「勇、毅君が投げし針を漬けにいこうと誘いにきとんさるよ」という母の 声で勇は今日の面作りはやめることにした。 「きちんと後片付けをせにゃぁおえんぞな」という母のくどい小言を聞くのが嫌なので、 「今片づけて行くから待っていてつかぁせぇ」と先手を打っておいて、急いで粘土を丸め、押し入れの中へ投げ込んだ。剛に入ってこられては面作りの現場を見られてしまうからだ。 今まで,畳表を織っていたらしく、モンペをはいた母が藺草の泥で汚れた手を拭きながら毅を連れてきた。毅は既に長靴を履いて手には投げし針の糸を入れた籠をぶら下げている。 「勇ちゃん、何しょうたん。はよう、餌つけにゃあ、ええ場所全部とられてしまうがなぁ」と毅は言った。勇がベチャ作りをしていたことは気づかれずに済んだようである。 「そうじゃのう、すぐ持ってくるけぇ、ここで待っていてつかぁせぇ」と言い残して長屋へ投げし針を取りに走った。
香織の父は、東京に本社を置くS紡績早島工場の工場長として、この町に昨年秋転勤してきた。藺草を栽培したり、畳表を織ったりして生計をたてている者の多い早島町には、織機を修理する鍛冶屋か、せいぜい織機を20台ほども置いて、畳表を織っている従業員10名程度の町工場しかなかったので、一部市場に上場されているS紡績の早島工場のように従業員五百人を数える工場の工場長は町の名士として遇された。
香織は都会育ちの娘らしく、動作はシャキシャキしており、色白の顔は母親に似て美形である。変化に乏しい町の学校の常で、新参者の香織の一挙手一投足は好奇の的となった。とりわけ標準語を喋る香織の言葉は悪童達の好個の材料であった。
「オッカァのことをオカァサマと呼んどるでぇ」 「先生ゴキゲンヨロシュウというのをわいは聞いたでぇ」 「こねぇだ、雨が降っとったじゃろう。せぇで,うちが傘にのせたぎょうか言うたらな、傘にノッタラ骨が折れるわよと言うんじゃぁ。うちゃぁ、もうおかしゅうて」
勇は勉強はよく出来る方だったので、各学年とも三学期のうち少なくとも一学期間は級長になった。香織が転校してきたときは、先生のはからいで香織の席は級長の勇の隣に決められた。
転校してきたばかりなのに香織は、勇達の知らないことをよく知っており、とても太刀打ちできない学力を持っていた。教室では良く勉強ができたが、まだ方言が喋れないので、遊び時間に悪童達から標準語を冷やかされると悲しそうな顔をした。
香織が転校してきてから10日ほど経った日曜日に、勇達のクラスの主だった者5〜6人が香織の家へ招待され、遊びに行くことになった。勇達が誘い合って、工場の近くにある社宅群の中でもとりわけ立派な構えの香織のうちの玄関で 「御免せぇ」と案内を乞うと香織がでてきて 「ようこそいらっしゃいました。さぁどうぞお入り下さい」と大人びた物腰で招じ入れようとする。声を聞きつけて香織の母も現れ 「まあまあ、皆さんようこそいらっしゃいました。香織の母でございます。香織がいつもお世話になっています。さあどうぞ、どうぞ」とにこにこしながら迎えてくれた。
勇は何と言っていいか判らず、慌ててピョコンと頭を下げた。勇に続いて健介、剛、京子、栄もピョコリ、ピョコリと頭を下げた。
▼ベチャにまつわる思い出 勇は春の陽射しを浴びながら、濡れ縁に腰を下ろして、天理教の集会場を建設中の工事現場から拾ってきた40センチ角ほどの板切れの上に、粘土を置いて一心不乱にベチャの面型を作っている。竹のへらで目、鼻、口、牙眉を彫り込んでいく。傍らに置いた粘土を千切って団子にし、くっつけてみたり、外してみたりしては、出来るだけ恐ろしい形相のベチャに作らなければならないのだ。
この地方では、小学校4〜5年位の年頃になると、男の子達はベチャの面作りに取りかかるのである。秋祭りがくるまで、自分がどのような面を作っているかは、親友にも内緒にしておくのが、子供の世界のしきたりとなっていた。兄のいる者は兄から兄のいない者は父からその作り方を教わり、友人から教わることは決してしなかった。
粘土で満足のいく形相の面型が出来上がると、これを適当な水分が残るまで、陰干ししてから、石鹸水を面型に塗りつける。次に新聞紙を細かく切って、水に浸し粘土の面型の上に貼り付けていく。新聞紙を二重、三重に貼りつけたところで作業は中断しなければならない。一日置いて、今度は書き潰した習字の半紙を持ってきて、メリケン粉で作った糊を面型に塗りつけ、その上へ半紙を貼り付けていく。半紙を四重、五重に貼り終わったところで糊が乾くのを待って芯になっている粘土を取り除く。
勇がベチャの面を独りで作ってみようと思いついたのは、勇のクラスへ昨年の暮れに東京から転校してきた香織に,手作りの面を見せて褒めて貰いたいという気持ちが働いたからである。
| 2004年12月03日(金) |
高校野球見物に甲子園球場へ�� |
田舎ののんびりした生活と違って都会の生活には緊迫感があった。毎日の生活が刺激的であった。長山邸の風呂が木の桶を置いただけのものであったのも、田舎で鉄製の所謂五衛門風呂しか知らなかった勇には、新発見であった。
魔法瓶に氷で冷やした麦茶を入れて、伯母が心を込めて作って下さったお結び弁当を持って甲子園へ三日間程通ったのだが、人出の多いのにはびっくりした。また、甲子園球場はラジオで聞くのと実際に見るのとでは大きく違っていた。第一にグラウンドの土の色である。土の色がこんなに赤い色をしているとは想像もしていなかった。第二に芝が綺麗に手入れされていることであった。第三にピッチャースマウンドが高く盛り上がっていることであった。
当時東中国代表は米子東高校で残念ながら、岡山県からは一校も出場していなかった。西中国代表では呉三津田高校が出場していたと思う。高校野球独特の雰囲気を肌で感じ取ることが出来、血潮疼き、胸おどる感激は随所で受けたものである。炎天下に売りに来るかち割り氷を口一杯に頬張りながら、観戦したのは貴重な体験であった。
早島町の勇の周りには誰も甲子園球場へ行った経験のある人は居なかったので、甲子園球場で高校野球の全国大会を観戦して来たことは自慢するに値することであった。
| 2004年12月02日(木) |
高校野球見物に甲子園球場へ�� |
▼高校野球見物に甲子園球場へ 甲子園の全国高校野球大会を見物するために、門真の伯父に招待されて出掛けたのは、小学校六年の夏休みのことであった。門真の伯父長山 武は母の兄にあたり、大阪府庁へ奉職していた。子供が五人おり、女二人、男三人であり、長男の良彦さんが勇より二年程年上で、中学に通っていたので、勇とは恰好の遊び仲間であった。岡山市一宮の母の実家では良彦さんはじめ長山一家の従兄弟・従姉妹とは正月にトランプをしたり、鬼ごっこをしたりして過ごしたことがあるので、門真の伯父の家へ泊まって良彦さんの案内で甲子園へ通うことは無上の喜びであった。
大阪へ行くのは初めてであった。山陽線はまだ電化されておらず、石炭車であったから三石を過ぎてトンネルを通るときには、窓を閉めてハンカチで顔を覆った。岡山から大阪まで六時間位かかったと記憶している。車中、母親が作って持たせて呉れた巻き寿司をへぎ折りの弁当箱の中から取り出して食べた。車中で食べたアイスクリームの味を思い出す。アイスクリームは銀色に光る容器に入れて売り子が車中を売りにくる。注文するとへぎ折りで出来た容器の中へ先に球形の膨らみのある鋏でアイスクリームを取り分けて呉れるのである。現在のように簡易パック入りでないところが趣があってよかった。
梅田駅にはかねて打ち合わせの通り、良彦さんが出迎えに来て下さっており、天満を経由して京阪電車で門真の長山邸へ連れて行って戴いた。当時の長山邸は借家であった。
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