西寮というのは「女工哀史」の舞台ともなった京都織物の女工寮を大学が買い取り、学生の寮施設としたものであるが、私達の学年が第一回目の入寮生であった。木造二回建てで一室が18畳の大部屋で、6人で一階と二階に一部屋ずつを与えられた。二階が勉強部屋で一階が寝室であった。
勇はこの西寮で寮長をした。寮長をしたせいで守衛ともよく話をする機会があった。西寮に竹田さんという酒好きの守衛がいた。守衛室で話しこんでいたらある日、茶碗に茶色い液体を入れて飲んでご覧なさいといって竹田さんが差し出した。酒だということは判っていたが、恐る恐る口に含んでみると舌が焼けつくような刺激がある。構わず飲み干すと、体がカッカッと火照る。葡萄酒のような味もする。
「美味しいですね、これは何ですか」 「トリスのウイスキーですねん」 それまでウイスキーを口にしたことがなかったのである。茶碗にもう一杯お替わりをしてウイスキーの初体験となったのである。
吉田寮に移って北寮14号室に陣取っていたが同じ法学部の学生で杉山君という好漢がいた。その彼は酒を飲むには三つの条件があるという。即ち、懐に浄財ありて、良い酒を静かに一献傾ける。これが酒の正しく美味い飲み方であるという。
第一に懐の浄財を投じて飲むのである。ただ酒や貰い酒は人間の根性を卑しく、また汚くするから止めるのがよい。特に業務上酒の誘惑の多い立場にある人は心すべき教えである。
第二に静かに飲むことも大切な要件である。大声でわめいたり、大きな声で歌ったりするのは騒々しいだけで酒の味が判らない。静かに知的な会話を楽しみながら飲むのが良い。
第三に一献傾ける。沢山飲んで酔い潰れてはならない。良い酒を適量飲むのがよい。
まあだいたいこんな趣旨の話をしてくれた。爾来勇はこの教えを守るように努めてきた。お陰で酒にまつわる失敗は皆無であった。
それにしてもただ酒を飲んで人生を失敗した秀才、賢人が如何に多いことか、このことは最近の話題になった事件の中にも幾つか数えあげられる。厚生省の高級官僚、関西空港の天下り官僚、防衛庁の高級官僚、道路公団の天下り官僚等々枚挙に暇がない。
二つ目はやはり西寮の南棟寮生達がコンパの後、ストームをかけてきたのであるがその中のT君が酩酊して酒乱の状態になっていた。手当たり次第窓ガラスを割るわ、個室の扉を蹴って壊すわ、消火器を放射するわで手がつけられない。皆呆然としてなす術を知らず彼の暴れるのに任せている。この時北棟寮の総務をしていた勇はこの場を収録するには彼を縄で縛りあげるしかないと判断して彼の後ろに回り羽交締めにした。打合せをしておいたK君がロープで両手両足を縛り上げたのでT君も暴れようがなくなりやがて眠りだした。
この二つの事件は卒業してからも寮友に手荒なことをして申し訳なかったという心の負い目になっていた。ところが卒業後の初めての寮の同窓会で思い出話のついでにこの事件のことを話題にしてO、Tの両君に手荒な行為を今更のように謝ると二人ともそんなことがあったとは全然記憶に残っていないというではないか。それを聞いて心の荷が下りたような気がするとともに酒は自我を忘れるまで飲んではならないと自戒したのである。
これまた西寮の頃のことであるが時の総長平沢興先生の官舎へストームをかけたことがある。応援団団長で羽織、袴をまとい蛮カラぶっていた井沢君が総長にアポイントをとっておいたから応援団の二回生の部員と西寮の委員とでストームをかけようということになった。井沢、池田、春日と勇、後何人かいたと思うが名前が思い出せない。
総長官舎の前に集まり、呼び鈴を押すと背広をきちんと着用した総長が自ら出迎えられて、客室へと通された。官舎だけあって来客も多いのであろうか、その客室は30畳ほどの広さがあった。会議用の机と椅子があって、その傍らに応接セットが置いてあった。テーブルは15〜16人の人が集まって会議できるほどの大きさであったと思う。勇達はそのテーブルに案内されて、予め用意されていたビールの栓を抜いて乾杯をした。そのうち総長が机の上の鈴を鳴らされると、奥様がよく冷えたビールとつまみを籠に入れて持ってこられた。総長夫人が女中も置かずに、自ら学生達の飲み食いの世話をされるのに一種の感銘を受けた。と同時に学者というのは男尊女卑で亭主が随分威張っているのだなという感じを抱いた。小1時間もお邪魔してお暇したが4年間の学生生活で最も思い出に残る1コマであった。
▼ストーム 寮生活をしたものなら誰でも懐かしく思い出すのがコンパの後にかかるストームである。パンツ一枚になってスクラムを組み、蛮声を張り上げながら廊下を練り歩き、真面目に勉強している部屋を見つけると攻撃目標にして、戸をドンドン叩き部屋の中へ乱入する。
ストームが始まったらたとえ勉強していても、部屋の前を通りすぎるまで中断して、むしろ積極的に戸を開放しておくとよい。ストームが近づいてきたら拍手してやるなり、握手をしてやるとストームの連中はご機嫌になって通りすぎて行く。
ストームをかける連中の意識は次のようなものであろう。俺達は仲間と一緒に酒を飲んで、人生を語り恋を語り政治を語った。楽しくて楽しくてしかたがない。この楽しさを共に分かち合いたい。こんな気持ちで青春のエネルギーの捌け口を求めて練り歩くのである。ここのところが分かっていると、多少の乱暴は稚気愛すべきものとして許すことができるのである。ストームをかけている側は戸を開けて歓迎してくれると男子意気に感じてくれる同志がいたかという気持ちになり非常に愉快になるのである。
泥酔すると人は無意識界に陥る。無意識界での行動が他人に迷惑をかける反社会的な行動に及ぶようになれば、これを酒乱というのであろう。酒癖の悪い所謂酒乱に属する僚友を二人懲らしめたことがある。
一つは後期試験で西寮生全員が試験勉強に励んでいるとき、三人ばかりの寮生と飲んで酩酊して帰ってきたO君が大きな声で歌を歌いながら部屋へ入ってきて、いつまでたっても同室の4人に絡みついて、止まるところを知らない。言っていることも支離滅裂である。自室へ連れていこうとしても居すわって動こうとしない。そのうち手を挙げて私めがけて殴りかけてきたのであるが酔っているから当たらない。酔っぱらいの馬鹿力に殴られてはたまらないので狙いすまして反撃したアッパーカットが見事決まって、ダウンした彼はすやすや眠りだしたのである。
酒とくれば女はつきものである。宇治寮、吉田西寮、吉田寮を通じて松岡沖本、三浦、水島、五十嵐、松森等の寮友は四条木屋町周辺にあった三吉というキャバレーに通いつめ女達と馴染みになっていた。残念ながら貧乏学生で硬派に属していた勇等はついぞキャバレーなんかへ足を踏み入れたことがない。いつも同室の松岡や水島が飲んで帰ってきて楽しそうに女の話をするのを聞いているのが関の山であった。しかし、あまり頻繁に女の話を聞かされるとこちらも若い身空故、血の沸き立つこともある。
家庭教師の謝礼が入ったのである日、渡辺君と語らって三条周辺へ飲みに出掛けて屋台に入った。日本育英会から給付される奨学金が月額三千円であり、アルバイトの家庭教師料が月三千円程度の収入しかない学生の身分からすれば一杯飲むといっても屋台に立ち寄ることくらいしかできない道理である。一日の食費が百円〜百五十円だった筈だ。
ところで渡辺君と二人で立ち寄った屋台には年増のお姐さんががら空きの椅子を前にして人待ち顔に煙草をふかしていた。懐には二千円程の金を持っていたので二人は飲むほどに、酔うほどに気が大きくなりお姐さんのおっぱいに手を突っ込んではその感触を楽しんでいた。お姐さんも怒るでもなくなすに任せていたので、純情な二人はのぼせ上がったことであろう。酒を飲むよりお触りの方へ熱中したのである。そのうち体よくいなされてお勘定ということになり、請求された額がべらぼうに高い。徳利で一人二本ずつくらいしか飲んでいないのに千二百円ほども巻き上げられた。通常の値段の3倍ぐらいのボラレかたであった。お姐さんも百戦錬磨のしたたか者で、初な学生におっぱいを触らせておいて、仇討ちにふんだくったという次第であった。
西寮の近くに河童という飲み屋があった。これは高畠先輩に連れていって貰った所だし、吉田山の近くに「白樺」があって高校生の娘とママさん二人で学生専門に飲ませてくれるホームバーであった。ここへはクラスメートに連れて行って貰ったのが始まりであった。卒業を記念して徳利と猪口とネーム入りのタイピンを馴染みの客にプレゼントしていたが、私もそのプレゼントを受ける栄に浴した。後日談になるがここの高校生の娘さんは我々の後輩にあたる理学部の学生を射止めて婿にとり幸せな家庭を築いていたが、ご主人に先立たれて今は未亡人であるという。
百万遍の近くのバーに井沢君が八本木、池田の両君と私を案内するということになり、一夕飲みに行ったことがある。面食いの井沢が連れていってやるというだけのことはあって、そのバーのママさんは美形であった。もう一人いた女の子もこれまた美人であった。井沢は調子よくママさんや女の子にカクテルなんかを注文しては振る舞っている。そして勘定の段になると、俺はゲルピンだから頼むよと済ました顔でいう。なかなかの傑物である。
宇治の学生寮にも入寮することができて生活の基盤も整い新しい生活に慣れかけた頃、中学校で担任であった秋山先生から手紙が届き、研修のため見藤先生と一緒に京都へ出張するから逢いたいと書いてある。指定された日に三条河原町近くの旅館を訪ねると懐かしい秋山先生と見藤先生が若い夫婦と談笑しており、にこやかに迎えて下さった。若い夫婦は見藤先生の弟さん夫妻で最近結婚したばかりの新婚さんであった。もう一人佐藤君という1年後輩の私立大学生が頭にポマードをてかてかに塗りたくってきていた。
予定の人数が揃うとまずは、飲みに行こうということになり、鴨川のほとりの屋台の椅子に座って、こんにゃくとか大根を一皿ずつ貰いながら御馳走になった。アルミのコップのような容器に一升瓶から酒を注ぎ、それを容器ごとお湯に漬けて燗をしガラスコップに注いでくれるのである。両先生とも既に旅館で晩酌をやってこられたわけだから相当出来上がっている。
「早島君も佐藤君ももう大人じゃから、今日は裸の先生を見て貰ってもええじゃろう」 「見藤さんの奥さんも人妻となったんだから、男とはどんなものか観察するのもええじゃろう」 ということになって、両先生が猥談を始められた。それとともに早いピッチでコップを飲み干すのである。見藤先生の弟さんは京都市役所に勤めているとのことであったが、メートルがあがつて先生方の猥談に触発されたものか「残念節」と呼ばれる数え歌を歌いだした。 「正月や・・母さん正気でするがよい・・・するがよい・・・娘もしたがるカルタとり・・・」と12月まで思わせぶりで際どい歌詞が続いて最後のところで外すのである。
両先生、弟の見藤さん、私、佐藤君とかなり酩酊していたが、見藤夫人が目を輝かせるようにして猥談に聞き入っていた姿が忘れられない。通常女性は猥談が始まると眉を顰めて横を向くのだが、その常識に反する行動だったので印象が強かったのであろう。
高校生の頃一度だけビールを口にし、その苦いのに閉口して何故こんな苦いものを大人達は好んで飲むのだろうと不思議に思ったことがある。悟さんが婿にきて畳表問屋の商売にも慣れ若旦那として脂が乗り出した昭和30年頃の夏のことである。日本経済は朝鮮動乱を契機に目ざましい勢いで復興を開始しており、当時私は高校へ通っていた。ビールなども、ようやく庶民の食卓に上がりはじめていたので、当時としては裕福な生活をしていた悟さんが、ある暑い日に冷蔵庫で冷やしたビールを帳面付けの合間に飲んで、一本飲みきれないのでたまたま遊びに行っていた勇に勧めて下さったのである。
冷蔵庫といっても銅張りのアイスボックスで、オガ屑と氷塊を入れて冷やす旧式のものである。 物珍しさも手伝って、コップに一杯ついで貰ったビールをその苦さに顔をしかめながら、捨てるわけにもいかず必死の思いで少しずつ飲んだものである。
勇が酒を始めて口にしたのは、再度の大学入試に備えて受験勉強を始めた昭和32年3月頃のことであった。それも初めての酒であったせいか、前後不覚に泥酔した苦い思い出である。
父は豊中の化学薬品製造工場の工場長として単身赴任中であり、従兄の婚礼に父の代役として出席したのである。父のお下がりの革靴を履いて学生服で参列したかと思う。婚礼といっても今日のように、ホテルとか会館での豪華なものではなく、茶屋町の農家の自宅に親戚縁者を招いて三三九度の杯ごとと披露宴を行う田舎式のものであった。
型通り三三九度の杯を終えて、披露宴といっても座敷で新郎新婦を前にしての酒盛りである。田舎のお百姓達の集まりのせいか、歌を歌って座を盛り上げようとするような気の効いた人は誰もいない。私も生来の音痴ときているから、自ら進んで歌を出すほどの勇気もなく黙々と料理に箸を運んでいたが、勇さんなら上の学校へ行こうとしているくらいだから何か一つぐらいやれるでしょうと煽てる者がいた。それでも切り出せずにいると吉岡さんという中年のお百姓さんが調子外れの「ああ玉杯に花受けて」を歌いだした。 この程度なら私の方がまだましだと思った途端、元気が出てきた。「紅萌ゆる丘の上」はじめ「都ぞ弥生の・・」など知っている限りの学歌、寮歌、応援歌を歌いまくった。腹から声を出すと酒も進むらしい。また大学入試失敗の屈託もあったであろう。さらには生まれて初めて酒を飲んだため、自分の酒量の限界というものが分かっていなかったせいもあろう。勧められるままにいい気になって飲んでいるうちに突然意識がなくなったのである。
気がついたときには自宅の布団の中で寝ていた。聞いてみると宴会が終わって、母と妹に付き添われて、およそ6kmの道のりをふらふらした足取りではあったが、きちんと自分の足で歩いて自宅まで帰ってきたという。途中しきりに酒になんか酔っていないとわめいていたそうである。喋っていることはまともだし、くどいことを除けば意識は正常であったという。
しかし自分では、宴会の席で高歌放吟していた時に忽然として意識が消えて、次に自宅の布団の中で目が覚めるまで何も覚えていないのである。ましてや6kmの道程を自分の足で歩いて帰ってきたことなど全然知らないのである。全く隔絶した二つの世界、酩酊するまでの有意識界と酩酊後覚酔するまでの無意識界を私は生きていたことになる。無意識界では帰巣本能にコントロールされて自宅まで歩いて帰ったのであろうか。生まれて初めての、酩酊し自分を失うという体験であった。
胸を張って酒を口にしたのは大学に入学して、法学部の歓迎会が楽友会館 で催された時である。乾杯の音頭に合わせてコップに注がれたビールを一気に飲み干し美味いと感じた。ビールは苦いものだという固定観念が打ち砕かれて、なるほど勝利の美酒とはよくいったものだと感心しながら杯を重ねたのを思い出す。
一年浪人生活を送ったとはいうものの、もし外れていれば広島の郵政研修所へ中級公務員として研修赴任し就職することを心に決めていただけに大学へ入学できた喜びは大きかったのである。喜びが大きかったからこそ歓迎会でのビールが苦くもなく殊更に美味かったのであろうか。
▼酒のこと 酒と勇との付き合いが本格的に始まるのは大学へ入学してからのことである。普通誰でも幼少の頃から、父親なり祖父なりが晩酌をしている姿をみたり、宴会で泥酔して帰宅する父親の姿を見て育つから、酒を口にするのはもっと早い時期であろう。ところが私の父は次男坊であったため、我が家には祖父母がおらず、父は全くの下戸ときていたから、子供の頃お相伴で酒を口にする機会は皆無であった。酒を飲んでいる父の姿をついぞ目にしたことがない。また我が家で酒瓶を見たこともなかった。
しかしながら、子供の記憶で父が酒を飲み愉快にはしゃぐ姿を一度だけ見たことがある。母方の従姉の美智子姉さんが婿養子を迎えた婚礼の席でのことである。確か昭和23年のことであったと思うが、戦後間がなく物資の欠乏していた時代である。畳表の卸問屋と畳表の機織り工場を営んでいた伯父の一人娘美智子姉さんが東大出の青年と婿養子の婚約が整い、自宅の客間で婚礼の儀式がとり行われた。
親戚の人々が招待され、当時小学校3年生であった私と女学校1年生であった遠縁の寿美ちゃんとが雄蝶、雌蝶に選ばれ、三つ重ねの杯を三方に乗せて、朱の漆塗りのお銚子の酒を新郎新婦はじめ、仲人や列席の祝い客にお酌して廻った。人にお酌するだけで自分が口にするわけではない。本来であれば、子供であっても羽織袴で正装するところであろうが、戦後の物資不足の時代で婚礼用の酒を調達するだけでも難儀な時代であったから、子供用の羽織袴なんかある筈もない。払い下げの軍服を黒く染色して子供用に仕立て直した母親手縫いの洋服を着て三三九度の杯を満たして廻った。寿美ちゃんはさすが女の子であるから戦時中、箪笥にしまってあった母親が娘の頃着用した和服をこれも仕立て直してめかし込んでいた。
三三九度の杯も終わり、祝い膳となってから仲人の謡曲高砂が終わるのを待ちかねていたように、来客の誰からともなく陽気だがあまり巧くもない歌が始まった。その中に父の歌声もあった。 「もしもし亀よ亀さんよ。どちらが先に毛が生えた・・・・」 「ドンブリ鉢ャ浮いた浮いた、捨て猫シャンシャン・・・・・」 座が静まろうとするのをわざとおどけて盛り立てようとする歌であった。顔を真っ赤にして茶碗を箸で叩きながらの熱演は後にも先にも私が垣間見た酒を飲む父の最初にして最後のものであった。父は甘酒を飲んでも顔が真っ赤になる生来の下戸であった。
| 2004年12月14日(火) |
京都時代・・寮生活と囲碁 |
▼寮生活と囲碁 京都大学に入学して宇治寮で生活するようになった時、寮生仲間で腕自慢が娯楽室に集まって、囲碁を打っているのを見て、興味が沸いた。当時寮生の中で初段程度の実力を持っていたのは、猪原伸彦、斉藤万之助、岩見清次松岡直方等の諸君であった。加茂川喜朗、中田克彦、山口英雄、春日 進君等は私と同様に囲碁の打ち方を知っているという程度の初心者であった。斉藤万之助君や猪原伸彦君が対戦しているのを観戦しながら、囲碁の面白さ奥行きの深さを知った。斉藤君に井目置いて何回も対戦したが、歯がたたなかった。
宇治寮から吉田寮に移ってからは、囲碁の強い新入寮生が加わった。杉山勝彦君、池田裕夫君、池谷 浩君等である。吉田寮で覚え、腕を上げた寮生に高橋 健、沖本一宏、水島章隆、渡辺正己、山本哲蔵、大場克彦、八本木浄、斉賀 修、重川直広、安田清彦君等がいる。昭和61年の秋に安田清彦君の招きを受けて、青山の碁会所でかつての宇治寮、吉田寮の同窓生が数人集まり、旧交を温めたことがあるが、猪原君、安田君、高橋君、水島君、中田君、小生で数局打った。この時は猪原君が日本棋院の六段の免許を貰った祝いも兼ねていた。中田君四段、安田君三段、高橋君初段、水島君初段の有段者ばかりで昔の仲間がそれぞれの道で活躍しながら囲碁でも力を付けているのに感銘を受けた。その中田君も鬼籍に入ってはや10年程になる。月日が経つのは速いものである。
| 2004年12月13日(月) |
ポット出法の授業と弁論大会�� |
中学2年に進級したある日の授業で人間は人それぞれに、その時々の感情や感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にしたりすることの大切さを説かれた。そして自詠の歌集の中から何点かを披露された。非常な刺激を受けた勇は特に先生に請うてその歌集の一部を戴いた。その歌集は奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、これに触発されて自分も何時の日か自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。
また先生はその頃この中学に弁論部を創設され、見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で開かれる学区内中学弁論大会に出場させ初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。優勝したのは3年生の谷本先輩であった。
谷本先輩が卒業してから、白羽の矢をたてられた勇は先生の特訓を受けて、「38度線の思い出」という演題で出場して翌年の大会で優勝した。先輩の獲得した「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し次の学年の太田州彦君に引き継いだ。この太田君も翌年の大会で優勝し母校の名声に磨きをかけてくれた。
この久保田先生は、その後転任された先の各学校で弁論部を指導されて優勝回数百回以上を数えるに到り、岡山県下の教育関係者の中で誰一人知らない人はない「弁論指導の神様」となり10年ほど前に定年退職された。 今は亡き奥様の位牌を抱いて世界の仏跡巡りをされていると聞く。
| 2004年12月12日(日) |
ポット出法の授業と弁論大会�� |
▼ポット出法の授業と弁論大会 「さあいいか、今日皆に書いて貰った作文の中で参考になるのを一つ紹介しよう。これから読んでみるからよく聞いておくように」と言われて、新進気鋭の久保田修先生が一つの作文を声を上げて読み始められた。 『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである。・・』 先生の声を聞いて勇はびっくりした。なんとそれは制限時間がきたため、尻切れとんぼで自信のないままに提出した勇の作文なのである。
課題は「私の或る日曜日」というものであった。勇は最初何を書いてよいか分からず、思い悩んだあげく制限時間近くなってやっと一つの事件を思いだした。昨年秋の或る日曜日に一山越え、五里程離れた母の実家の祖父の許へ自転車に乗って柿を貰いに行ったときのことをである。荷台の竹籠に柿を一杯積んで貰って家路を急いでいるとき人家の無い山中で自転車が壊れて立ち往生してしまった。その時の名状し難い心細い気持ちを書こうと思ったのだが、意をつくせぬ儘に時間がきてしまって纏まりのつかないものを提出せざるを得ないという羽目に陥ってしまった。勇が何を書くか思い悩んで呻吟しているとき周囲の級友達は既に書き終えていたからその時の勇の焦燥感は今思い出しても年を経て蘇ってくるのである。
昭和26年勇が岡山県の早島中学へ新入生として入学して間もなく、初めての社会科の時間の時のことであった。 出来の悪い例として教材に取り上げられてしまったと勇は覚悟したものである。作文は小学校の頃から苦手で時間ばかりかかっていつも叱られていたからである。
ところが意外なことに先生はこう言われたのである。 「君達はポット出法というのを知っているかな。知っている人は手を上げて」 「・・・・・・・・・」 「なるほど誰も知らないようだね。この作文はポット出法を使って上手く書かれている。『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである』と言われると君達聞いていてさあ次はどうなるのだろうと思うだろう。こういう風にいきなりポット事件を持ち出してくる書き方を先生はポット出法と呼んでいるのだ。他の人達の作文は君たちが日曜日に朝起きて寝るまでに何をしたかを真面目にかいてある。朝、起きました。歯を磨いて顔を洗いました。朝御飯を食べました。便所にいきました。友達のところへ遊びにいきました等々。だがこれでは当たり前のことで読んでいて面白くない。しかしこの作文は次はどうなるのだろうという興味と期待を読む人に与えるだろう。こういう書き方をしなければならない。文章を作るには起承転結ということを考えて書かなければ良い文章は書けない。今日は『起』の良い例として『ポット出法』のことを話したが次回は『承』について君たちの作文から例を引いて説明することにしよう」 勇は面目を施した上にこのことがあって以来文章を書くということが好きになったし楽しくなったのである。
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