「都窪さん、この度は、大変なことになりまして、何ともうしあげたらよいのかお慰めの言葉も見つかりません。お疲れでしょうが、早速、お父さんのマンションへご案内しましょう」 「待機させていた車へ案内されて、父の遺体の待つマンションへ外村さんと急行した。 「都窪工場長は、昨日までお元気に仕事をされていたのに、急にお気の毒な姿になってしまわれました。会社が決算期なので、毎日遅くまで仕事をされていたんですよ。昨日昼過ぎに、気分が悪くなったからマンションへ帰って休養すると仰って退社されました。私達も仕事が終わって、秘書の福山さんと製造の玉城君と私の三人でお見舞いに行ったんですよ。6時半から8時頃までお邪魔していたんですが、もうすっかり気分もよくなったと仰って、顔色もよく、元気な様子でした。その日は日曜なので、いつもだとお孫さん達に会いに岡山へ帰っておられる筈だったんですが、決算のため、私達と一緒に出勤されたんです。会社の運営の仕方、将来の姿等について楽しく話し合いました。そのとき工場長はいつになくこんなことを言われました」
外村さんは感慨深げにしんみりとした口調で続けた。 「私も20年間この会社にお世話になって、ボロ工場だったこの工場をこれだけのものに育ててきた。念願の事務所も新築できたし、工場設備の自動制御化も完成した。もう思い残すことはないよ。あとは、若い君達がこの工場を発展させてくれるのを楽しみにしているよ。来年あたり、暇を貰って岡山へ帰り絵を描いたり、魚釣りをしたりしながら余生を婆さんと二人で楽しもうかと思っているんだ。と、こう工場長が仰るものですから、私達は工場長にはもっと長く居て戴いて、私達を鍛えてくださらなければ困りますよと申し上げたんですが、それが最後のお言葉となってしまいました。工場長はお気分もすっかりよくなられたようですから、あまり長居してはいけないと思って8時過ぎにはお暇したんです。ところが、秘書の福山さんが自宅へ9時過ぎに帰ったところ、工場長からとても気分が悪いから一寸来て欲しいという電話があったということです。福山さんは、工場長のお宅から一番近い所に住んでいるので、電話をかけられたのでしょう。福山さんは電話の声が異様なのでタクシーを拾い工場長の所へ駆けつけたところ、いつもは電話台の上に置いてある受話器が枕元に降ろしてあったということです。工場長は布団の上で横を向いておられたそうです。福山さんが名前を呼んでも返事をされないので、眠っておられるのかと思い、体を揺すってみたそうです。答えがないので脈をとってみると体温はあるのに脈がなかったそうです。動転した福山さんが岡山の奥様へ電話を入れ、救急車を呼んで病院へお連れしたのですが、病院へ着いたときには既に手遅れだったようです。病院へ着くか着かないうちに他界されてしまいました。10時45分に急性心不全で亡くなられたというのが病院の医師の診断です」
外村さんは会社草創の頃、学校を卒業して直ぐ入社し、父と苦労を共にしてきた社歴の古い技術者である。副工場長として父の信頼を受けていた部下だけに父の他界前後の様子を詳しく話してくれた。
父のマンションには既に明け方近く、岡山から駆けつけた母と妹の幸子、京子が目を真っ赤に泣き腫らして父の遺体の傍に座っていた。顔のガーゼをとると懐かしい父の顔が今は物言わぬ一つの物体として永遠の眠りについていた。安らかな死に顔であった。苦しんだ様子が顔に窺われないのが、父の死に目に会えなかった私にとって唯一の慰めであった。
伯叔父、伯叔母、訃報を知らせなければならない親戚の人々の顔が眼前に浮かび上がってくるが、この目で父の遺体を確認してからでも遅くはないのではなかろうか。まして時刻は真夜中である。まだ,息があるものなら、真夜中に電話して近親者を起こすのもよいであろう。しかし、結果は既に判明しているのである。父は突然死んだのだ。死んだ者は生き返りようもない。明朝、自分の目で遺体に対面し死に様を確認してから電話をしても遅くはないだろう。若し、万が一にもぶざまな死に方をしているなら、父の名誉のためにも庇ってやりたい。父の最後を見届けた福山美智子に会って、真相を聞きただしてもみたい。
時刻表を調べてみると夜行列車よりも明朝一番の新幹線を利用した方が大阪には早く、着けることが判ったので新幹線で駆けつけることにした。 喪服を出したり、旅支度をしたり留守中の業務の処理について依頼事項や指示事項をメモしているうちに夜も白み始め出発の時刻が迫ってくる。由紀と香保の二人の娘をたたき起こして着替えをさせる。
大阪へ駆けつけた妹の幸子から電話が入った。 「お兄さん、駄目だったわ。間に合わなかったのよ」意外に落ちついた口ぶりで取り乱した様子も窺えないのでほっとする。 「残念だね。あなたがたが着く前に病院へ電話して結果は判っていたよ。お父さんは普通の亡くなり方をしたんだろうね。自殺とか他殺とか変死とか。異常な亡くなり方ではないだろうね。死に顔はどうだい」最も気になっている点をせき込んで尋ねてみる。 「病院の先生は急性心不全という診断をしておられます。安らかな死に顔よ苦しんだ様子もないわ」 「そうかこれから家を出るところだ。お母さんが参ってしまうと困るから、傍へ付いていてくれよ。9時半にはそちらへ着けると思うから、それまで宜しく頼む」 「お葬式は大阪でするの。岡山でするの。会社の方がお兄さんに聞いてくれと仰るんですが」 「どんな方法をとっても、岡山へ連れて帰りたいと思っている。そうお願いしてくれないか」
子供達を妻の実家へ預けて、夫婦で大阪へ駆けつけた勇達は昔の記憶を頼りにタクシーの運転手へ行き先を告げる。
大学生の頃、小遣いをせびりに何回か訪れた父の勤める工場は新三国橋を渡って、産業道路沿いに2km程北上し、たしか三栄化学の前を西へ入るとエステルの芳香が鼻を楽しませ、香りの方向へ歩いていくと小さな溝川があり小さな橋がかかっていた。橋を渡ると前方に反応塔が、聳え建っているはずだ。17〜8年振りに産業道路沿いにタクシーを走らせると周囲の様子はすっかり変わっていた。ちいさな町工場が道路沿いに立ち並んでいたはずなのに、今はすっかり面目を一新し、スマートな建物が立ち並んでいた。緑豊かな工場内の敷地には色とりどりの乗用車が整然と並んでいる。工場設備も近代化され最新鋭の物になっているのであろう。日本経済の高度成長振りを目のあたりに具体的な形として見る思いである。
目標とする三栄化学は建物こそ立派に建て替えられていたが、17〜8年前と同じ場所にあった。
「運転手さん。そこの三栄化学の前を左に曲がって下さい」 左折して、勇は再びその光景が様変わりに変わっているのに驚いた。木造の薄汚い工場が並んでいた筈なのに、高層マンション群が聳え建っており、街路樹が植えられた道路は綺麗に舗装されている。溝川の流れていた辺りには立派な勤労者会館のビルが建っているではないか。父の勤めている、いや勤めていた工場の反応塔は昔のままの姿で残っていたので、辛うじてそれと識別することができた。昔、私が遊びにきていた頃にはドラム缶が山積みされていた工場内の敷地には、最新鋭の工場設備が建ち並び、以前平屋建ての事務所があった位置には、スマートな三階建ての鉄筋コンクリート造りの事務所が屹立しており面目を一新している。
妻の田鶴子を伴い事務所の扉を開けると勇も顔見知りの外村さんが席から立ち上がり、走り寄ってきた。頭髪には白いものが混じっている。
「あなた、岡山のお母様からお電話ですよ」と妻の田鶴子に揺り起こされて、受話器を握ると狼狽した母の声が飛び込んできた。 「勇さん、さっき、11時頃お父さんの会社の福山さんから電話があってお父さんが危篤らしいのよ。救急車で病院へ運ばれたらしいんだけど意識がないというのよ」 心臓の鼓動が高まるのがよく判る。 「何ですって、突然に」 「心臓発作を起こしたらしいのよ。もしかしたら駄目かもしれないから、その覚悟で一刻も早く来て頂戴」 「今、何時ですか」 「11時30分よ、幸子と京子が一緒に行ってくれるというので、私は間もなく家を出ますから。病院の名前はお父さんのマンションの近くの藤山病院よ。留守番には晴代が来てくれる筈です」 「病院の電話番号は」 「判らないのよ。タクシーが来たらしいから、私はこれからでかけますからね」母はそれだけ言うと電話を切ってしまった。 「親父が、大阪のマンションで倒れて危篤らしい。電車の時刻表を持ってきてくれ」 「どうなさったの。突然危篤だなんて、嘘でしょう」と言って時刻表を取りに書斎へ走った。 「はい。でも心臓発作だなんて、お父様は心臓が弱かったのかしら」 「とにかく、早く行かなければ。11時30分だと新幹線と飛行機は駄目だろう。横浜駅発の夜行列車があるかどうか調べてくれ。僕は藤山病院へ電話してみるから」夜行列車がなければ車を運転して東名高速道路を走るしかないかもしれないと思いながら、父の会社へ電話した。 「もしもし、都窪作次の長男の都窪 勇と申します。岡山の母から父が危篤だという知らせを受けましたが、父の容態はどうなんでしょうか。まだ生きているんでしょうね」 「はい、大変なことになりまして。工場長は今救急車で運ばれて手当てを受けておられますが、意識不明のようです。病院の方へ一刻も早くお越し下さい」
相手の口調に躊躇いが感じられるので不安が嵩じた。不吉な予感がする。「死んではいないでしょうね」 「こちらでは判りませんから、病院の方へお尋ね下さい」 「電話番号は?」 病院の電話番号を回すが、ダイヤルの回転の鈍さがもどかしい。 「もしもし、そちらへ救急車で運ばれて手当てを受けている都窪作次の容態はどうでしょうか。家族の者ですが」 「なくなりました」 事務的な答えが返ってきた。非情な答えであった。非情な答えには事務的な言い方がもっとも相応しいのかもしれない。或いはと期待しながらかけた電話であったが、66年間の人生の幕切れが「なくなりました」の一言で片づけられるのは如何にも悔しい。 「本当に死んだんですか。時間は。死因は」 「一寸待って下さい。会社の人に代わりますから」 「もしもし、会社の方ですか。都窪作次の家族の者ですが、容態はどうなんでしょう」嘘でもいいから生きていると言って貰いたいと思いながら、もう一度同じ尋ね方をしてみる。 「大変、お気の毒ですが、都窪工場長は危篤状態です」 「まだ、生きているんでしょうね」 「はあ」受話器の向こうの声は当惑したような口調で言い澱んでいる。そこに労りの気持ちを感じとることができた。 「さっき、電話に出られた方は病院の方だと思いますが、亡くなりましたと言われました。覚悟は出来ています本当のことを言って下さい」 相手は暫く口籠もっていたが、意を決したような口調で言った。 「まことにお気の毒ですが、10時45分に亡くなられました。急性心不全でした。心からお悔やみ申し上げます」 「やはり駄目でしたか。父が生前お世話になりました。私もすぐそちらへ参ります」
岡山の母から電話を受けたときには、父は既に亡くなっていたのである。母と妹の幸子と京子は父が既に絶命していることも知らずに,いらいらしながらタクシーで一路大阪へ急いでいるのだが、携帯電話の出現する前の時代であったから連絡してやる術もない。 「そんな馬鹿な。亡くなったなんて嘘でしょう」傍らで時刻表を調べながら電話のやりとりを聞いていた田鶴子がワッと泣きだした。田鶴子の泣き声を聞いて目頭が熱くなったが、感傷に浸っていられない不安が一つだけ頭にこびりついて離れない。マンションで独り暮らしをしていた父の死に様はどうだったのだろうか。変死でなければいいが、岡山の母に父危篤の第一報を入れてくれたのが、未亡人で父の秘書をしている福山美智子であるというのが、気にかかるところである。しかも夜中だ。
父に限って、まさか、ぶざまな死に方をした筈がないと信じていながら、もしやという心配が胸のうちに急速に拡がっていくのを禁ずることができない。
今年の正月、岡山へ帰省して、父、母、他家へ嫁いだ三人の妹達とその子供達、そして横浜に世帯を持った勇の家族が一堂に会した。 「お父さん、もうお年だしそろそろ仕事を辞めて、岡山へ帰りお母さんと二人で魚釣りしたり好きな絵でも描いて、悠々自適の生活をされては如何ですか」と勇が勧めた。 「いや、男から仕事をとったらぼけてしまう。体の動くうちは仕事をしていたほうが健康のためにもいいんだ」 「でも不自由でしょう。20年近くも単身で生活していると」 「なに、大阪と岡山は新幹線で一時間じゃあないか。休みごとに休養に帰っているからそれで十分さ。夫婦なんてものは毎日顔を突き合わせていると文句の一つも言いたくなるものだが、たまに会うと新鮮な喜びがあるものだ。独りで生活している方が仕事に打ち込めていいよ。それに不遇の時代に救ってくれた会社に対しても、体の動くうちは働いて恩返ししたいと思っているんだよ。まだまだ心配しないでくれ」
勇は「ダナエ」の前で楽しげに語り合う父子の姿を見ながら、正月に交わした父とのそんなやりとりを思い出していた。今日は日曜だから父は岡山へ帰り、訪ねてきた六人の孫達を相手にして相好を崩していることだろう。蝉取りをせがまれて、吉備津彦神社の森へ行っているであろうか。それとも小学校六年の博を一番左の端に立たせて背の順番に孫達を並ばせ、背丈を計ってやっているのだろうか。きっと一番右端に並ばせられた三才になる義弘がチョコチョコ動き回って手を焼いていることだろう。また孫達に取り囲まれて笑っている父の写真が届くだろう。
「お父さん、お帰りなさい。ダナエって素敵でしょう」と長女の由紀がプール帰りの日焼けした顔で迎えた。 「うん、たいしたもんだね。岡山のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに見せてあげたいと思ったよ」 「そうだ。お父さん、いいことがあるわよ。岡山のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんをご招待するのよ。佳代がクロールで50メートル泳げるようになったところもついでに見て頂くの」 「あなた、それがいいわよ。夏休み中に来て戴いて、由紀と香保にご案内させると岡山のお父様、お母様きっとお喜びになりますわ。お正月以来でしょう」と妻の田鶴子が傍らから口を添えた。 「そうだな、この家を建ててから親父は一度も遊びに来ていないからな」 「そうよ、何時もお仕事が忙しいからと仰って、こちらへはお越しにならないんですもの」妻や娘の勧めもあって勇は岡山の実家へ電話を入れてみた。
電話には母が出た。父から朝方連絡があって、今日は会社の決算で忙しいから岡山へは帰らないということであったと言う。 夢うつつの中で電話のベルが鳴ったような気がする。
▼父の死 「お父さん、ダナエはとても素晴らしかったわよ」 「ダナエてなんだい」 「ほら、今国立博物館で展示されているレンブラントの傑作よ。お父さんは世間の情勢にうといのね」小学校5年になる娘の由紀がいっぱしの世間通のようなませた口をきく。 「ああ、あれなら知っているよ。エルミタージュ美術館から持ってきた特別展示だろう。スキタイの金属美術品も一緒に展示されている筈だね」 「そうよ。お父さんも見に行ってらっしゃいよ」
勇も10年前までは、油絵に凝っていた。イーゼルを肩に担いで日曜、祭日ごとに戸外へ画材を求めて写生に出歩いたものである。それがいつしか、勤めの方が忙しくなり、責任のある地位につくのに比例するかのように、次第に油絵から遠ざかってしまっていた。 絵を描かなくなると展覧会や画廊廻りとも知らず知らず疎遠になって、今では「ダナエ」といきなり言われても、それが何のことであるか直ぐには分からない程、絵心を忘れた生活に慣れてしまっている。娘の佳代に、お父さんは世間の情勢に疎いのねと言われて、大切なことを忘れていたのではないかと痛いところを突かれた思いである。
思い立ったが吉日で、翌日、日曜日だったのを幸い、久し振りにゆったり した気分で、上野の森を通って「ダナエ」を鑑賞に行った。
レンブラントの作品は過去に何回か観たことがあるが、「ダナエ」を観るのは初めてである。巨匠の最高傑作と言われる作品を前にして魂を洗われた気持ちで、暫し恍惚としていた。作品の前から離れ難い思いで、ふと周囲を見回すと、初老の紳士と学生らしい若い男が、いかにも楽しげに「ダナエ」の前で、ひそひそ語り合っているのが目に入った。東京に遊学している大学生の息子を東北の田舎から父親が訪ねてきて、東京見物の傍ら、「ダナエ」を鑑賞にきたものらしい。父子の間に漂うほのぼのとした情感溢れるやりとりを見ているうちに、勇はふと20年程前に、自分と父との間にも、京都は岡崎の市立美術館であのような光景と会話を持ったことがあるのを思い出した。
京都の大学へ遊学していた頃、ルーブル美術館の泰西名画が、岡崎公園内の美術館で展示された。岡山で小さな事業を営んでいた父がこれを機会に上洛してきて、勇とともに泰西名画を鑑賞し、とりとめのない会話を交わしたのである。それは父にとって忙中に閑を見いだした楽しい息子との語らいの一時だったに違いない。その父はそれから半年ほど後に、突然畳表を扱う事業を止めて大阪のある薬品製造会社に就職した。40歳半ばでの転職であったから、相当の覚悟と苦労があったであろう。
もともと、戦前、朝鮮で分析技師として大手の鉱山会社に勤務し、応召、兵役、復員と当時の男が辿ったコースを歩んだ父は復員後、元の会社を辞めて慣れない、畳表や藺草製品を扱う地場の商売に手を出していたのである。山気のあった父が一山あてようとの密かに期する気持ちがあったのであろうか。育ち盛りの4人の子供を抱え、経済的に恵まれない生活を余儀なくされていた。当時は父の不遇の時代であった。そんな父を見かねて、昔の技術者としての腕を評価し、迎えてくれる人があったのである。
岡山に母と祖母とまだ高校生と中学生,小学生の3人の妹を残しての単身赴任であった。そしてはや20年の歳月が過ぎ、勇をはじめ三人の妹達もそれぞれに世帯を持ってしまったが、今もなお父は老いた身に鞭打って、大阪の薬品会社の工場長として独り勤務しているのである。
「そのお話はもう耳にたこが出来る程聞きました」 「何を言うか。失礼ではないか。会社で一番偉い人が怒っておられるのに耳にたこができたという言い方はないだろう。耳にたこができても聞いて貰わなければならないのだ。社長に何回も言わせるのは君達が文句を言われるようなことを何回も繰り返すからだろう」
社長が怒っているとき、口を挟むと、火に油を注いだと同じような結果になる。だから苦々しく思っても、誰も口を差し挟むことがない。感情の嵐が納まり台風が通りすぎるのを待つだけである。 勇はいつも思うのだが、社長こそ自分勝手である。「社長中心」ということをしきりに言うが、これは社会的存在としての会社の代表という意味で使われるのであれば正しい。しかし、今岡研一の場合には、今岡研一個人のほしいままの感情の動きまで含めて「社長中心」という。まさしく「自己中心」的なのは今岡研一自身ではないか。
また我慢ならないのは、「社長」「社長」と自称することであり、自己の行為に敬語を使うことである。 「社長が出社されたときには、何を置いても先ず、社長に挨拶をして貰いたい」 勇は義父でもあり、社長でもある今岡研一がこんな言い方をするのを聞く度に気持ちが白けてしまうのである。
勇が今岡研一の経営する建設会社へ転職してきたのは、5年前である。彼は以前、旭硝子のサラリーマンであったが、工場内のグラウンドでサッカーの練習をしている時にボールを蹴り損なって、転倒し足首を複雑骨折してしまい入院療養生活をしたことがある。この時心配した義父、つまり妻の父が病院へ見舞いにきて、勇を発展期にあった自分の会社へスカウトしたのである。勇には病床にある時に転職を勧誘されたという意識がある。この意識は困っている時に救ってくれたという感謝の意識であるとともに、反面では人の弱みに付け込んで勇に対する優位性を確保しようとしたという恨みの意識でもある。
勇は義父をある点では尊敬しているがある点では軽蔑している。尊敬している点は意志の強さ、行動力、思いやりの深さ等のであるが、どうしてもついて行けないところがある。それは人間の弱みにつけこむところとか誰もが持っている、他人にはあまり触れて貰いたくない陰の部分を巧みに察知して、これを逆手にとってしまうやり方である。
若い頃から叩き上げて一国一城の主になったのだから、それはそれで人の認めているところである。ところが、叩き上げの人によくあるタイプだが,全てが即物的であって、金と支配力以外には権威を認めたがらないという悪い癖を持っている。人間としての品格が備わってくれば、おのずから人は慕ってくるものであるが、人に「社長」と言わせるために、自ら進んで「社長」と自称してみたい稚気がある。先ず形から入っていこうというせっかちな性格がしからしめるのかもしれない。また猜疑心が強く、人を信用できないところがあって、性悪説の人間観に徹している。スノビズムの臭いを日常茶飯事の挙措言動にぷんぷんと漂わせている。これが、勇と肌の合わないところなのである。
我が儘で、常に自分が中心にいないと気が済まないという性格はお守りするには気骨の折れるところであるが、義父であるということから、一種の諦観にも似た気持ちでお守りしているというのが実情である。口煩くて一緒にいるだけでも気疲れする人である。
勇の処世観の特徴は、このようなタイプの人間と合わせて生活していくには傍観者に徹して自分の感情を殺すことであると自己規制しているところにある。そして勇が今岡研一に対して敵意を感じたときにとる最大の効果的な戦法は、敬して遠ざけることである。端的にいえば相手を無視することである。自己顕示欲の強い人間程、相手から無視されることは耐えられない最大の侮辱となるのである。
相手を無視する戦法は、考え方によっては、卑怯なやり方である。しかし露骨に生臭い感情をぶっつけあって、争うことには百害こそあれ,一利もないというのが、勇の処世観である。これは相対的価値観の上に成り立っている人生観である。人が絶対的価値観を信奉するとすれば、価値観がお互いに異なる場合には、徹底的に戦って相手を自分の価値観と同じものに変えさせるか、自分が相手の価値観に宗旨変えするかしない限り、対等な関係は成立せず、支配と服従の関係しか残らないことになる。それがいやなときには袂を分かつしか術がなくなってしまうことになる。
平和主義者は必ず、相対的価値観を信奉する人である。勇の道徳観の基本にあるのは,長幼序あり、君臣義ありという儒教精神であるが故に価値観の異なる義父に対して争うことが悪徳になるのである。
▼工事会社 人がある人に対して敵意を持つ動機にはいろいろある。その動機にも大小さまざまのものがあり,ある場合には、発作的に直ちに殺人行為に駆り立てるる程大きい場合もあるだろうし、心の中に細波をたてただけでやがては消えて無くなるものもある。
勇が義父に対して敵意を抱いていることに気がついたのは、つい最近のことである。どこか世の中を拗ねたところがあり、およそ情熱とかやる気といったものとは無関係で、常に傍観者的態度をとり、決して自ら進んで事を起こしたことがない男というのが、勇に対して最近社内で定着したイメージである。
義父の社長今岡研一が出勤してくると、事務所にいる事務員達は慌てて立ち上がり、黙礼をしてからひとりづつ社長室まで行って丁寧な挨拶をする。全員の挨拶が終わるまで社長室の前には行列が出来る。
たまに、電話で話中の事務員がうっかりしてそのまま電話を続けているとジロリと部屋中を睨み渡してから社長室に入るやいなや雷を落とす。 「田中君、誰と電話しているのかね」 「九州出張所の佐竹さんとです」とお茶を運んできた女子事務員が、おそるおそる説明する。 「電話を止めさせて、田中君を呼びなさい」 呼ばれた田中が入ってくると説教が始まる。 「田中君。社長が出社されたのに挨拶もせずに、平気で電話を続けているとは何事だね。相手がお客様ならいざ知らず、九州出張所と話をしていたそうではないか。相手を待たせておいて挨拶をすればいいだろう。ものの30秒とはかからないと思うんだがどうかね」 「はあ、しかし・・」 「黙りなさい。弁解は止めなさい。社長が怒っておられるんだから、申し訳ありませんと謝ればいいんだ。もっと素直になりなさい」 「どうも申し訳ありませんでした。以後気をつけます」田中は一方的に叱られて、不服そうな顔をしていたが、これ以上社長の感情を昂らせるのは得策ではないと思ったのか素直に謝った。
勇はまた始まったかと苦々しい気持ちで田中と社長のやりとりを聞いていた。朝から気持ちが白けてしまってうんざりする。この後、必ず事務所にいる全事務員を集めて説教が始まるのである。しかも同じことを、言葉を変え、表現を変えて長々と続けるのである。
「自己中心的な考え方だから、社長にろくな挨拶もできない。社長に挨拶できないぐらいだから、お客さまにろくな挨拶の出来る筈がない。挨拶をするということは世の中の基本である。それができないような人間は何をやらせても出来ない」とまずこんな調子で説教が続く。
▼高砂工場労務課 硝子会社で高砂工場に勤務していた頃、新設工場の作業員充員のため北九州の工場へ選考試験によく通った。
昭和44年頃のことで日本の高度成長は真っ最中で求人難の時代であった。新聞広告を出しておいて北九州工場に集まってくるかもしれない応募者を求めて出張した。5〜6回このような求人選考に通ったであろうか。それでも行けば5〜6人は応募者があったように思う。 一日の仕事が終わり、夜行列車の出発までの時間を潰すために、戸畑駅からほど近い所にある「五郎」という居酒屋へ立ち寄り、生ウニを肴に地酒を楽しんだ。お客が7〜8人も入れば一杯になるような小さな店であったが、飲食店が纏まって入居している雑居ビルの中にあり、女将さんの応対がアットホームな感じで、お袋と一緒にいるような雰囲気を好んで足繁げく通った。
仕事に疲れた日など銚子一本も飲むと睡魔に教われることがあった。列車の時間まで休ませてくれと頼むと、店の奥の4畳半くらいの部屋に布団を敷いて休ませてくれたものである。それがいそいそといった風情が感じられ、お袋に甘えているような錯覚に陥り、時間になって起こされるまでの束の間の快眠を貪ったものである。
色々な酒を飲んできたが利害関係の伴わない酒席での酒のみが楽しい思い出として残るようである。まさしく懐に浄財ありて、静かに心許せる友と一献傾けるという言葉は酒の作法の極致を語っていると思う。
▼尼崎工場労務課 硝子メーカーに入社して尼崎工場の労務課に配属されたのが昭和37年4月であった。労務課労務係の構成は労務課長中村澄人氏、労務係長沢田章氏、労務班主任中鼻守男氏、係員菅家進氏、関亮夫氏、事務員峰和子さん、井上公恵さんであった。係員は菅家、関、都窪と1年刻みで入社年次が続いていた。
ところでこの会社では労働協約の改定のための団体交渉というのがあってベースアップを含めて、1年間の労働条件の改定を集約して7月に約1ケ月かけて交渉するのが労使慣行となっていた。労務課長は本社へ集合し団体交渉に臨むが労務係長以下の係員は工場にあって交渉期間中、工場支部の動きを観察し情報収集の任にあたることになっていた。また交渉経緯が本社から逐一電話で流されてくるのでこれを録音テープにとっておいて、再生し活字化して工場の管理者層へマスプリントして流していた。従って、団体交渉の期間中は、夜遅くまで暑い中を仕事することが多かった。当時高熱作業職場を管轄に持つ労務課としては、事務所にクーラーを入れることもできず背の高い扇風機が生温かい風を掻き混ぜている下で、額に汗しながら仕事をしたものである。
労働協約改定交渉も妥結して、調印式も終わり重苦しい環境から解放されたある日、東京本社から帰ってきた課長の中村さん、係長の沢田さんに引き連れられて、尼崎は三和商店街の中ほどにあるマルカというビアホールへ陣取った。メンバーは男だけで、中村、沢田、中鼻、菅家、関、勇の6人であった。ビールの大ジョッキで乾杯し、飲めるだけ飲んでみようということになりめいめいジョッキを空けては、机の上へ並べていった。勇は13杯を空にした。当日一緒に飲んだ連中はいずれ劣らぬ酒豪揃いであったから、年配の課長、係長、主任の3人は10杯以内であったが、若い菅家、関の二人はほぼ私と同じか或いは1〜2杯を多く空けた筈である。飲みながらケインズの経済学説について議論したように思うがなかなかアカデミックな雰囲気であった。とはいうものの相手はビールであるから20〜30分おきに便所へ通いながらの痛飲であった。ビアホールへ入ったのが5時頃であったから、11時の看板まで6時間にわたって怪気炎をあげながら飲んだものである。
さすがに翌日は体がきつく、出てくる汗がビール臭くて、一日中ぼうっとしていた。事務所にいるのも辛くて、現場視察と称してガラスの窯の側へ行って汗を流し作業員達と馬鹿話をしながら時間を潰した。翌々日も酔いは抜けず三日酔いであった。あのときはもう金輪際ビールは飲むまいと思ったほどの苦しさであった。この時の酒量が私の飲酒歴の中では最高の記録となったのである。
硝子会社に入社して最初に配属になった尼崎工場でよく通った店に阪神出屋敷駅前のホルモン屋がある。ここの親父が勇が本社に転勤になったと挨拶に行くと今日はお代はいらない、送別会だから飲めるだけ飲んで食えるだけ食ってくれと言って御馳走してくれたのも忘れられない思い出である。 同じく出屋敷駅前に「スリーナイン」という喫茶店があって、勇が作業員寮である甲子園寮の舎監をしていたことから、甲子園寮生とよくコーヒーやビールを飲みに行っていた。ある日甲子園寮の大久保君、神戸君、毛戸君らと夕方立ち寄ったことがあった。するとどういう風のふきまわしか、ママさんが今日は私が奢りましょうということになって、出屋敷の小料理屋を3〜4軒はしごして飲み歩いたことがある。これも懐かしい思い出である。
三回生からゼミナールが始まる。勇は刑法の平場ゼミに所属して目的的行為論の立場をとる平場教授の指導を受けた。平場教授の還暦の祝いが東京の平河町で催されたことがあるが集まってきた人達は法曹が多かった。ロッキード事件が騒がれていた頃で田中角栄元首相を検事として取り調べたという先輩もいた。
ところで平場ゼミを卒業するにあたって先生に記念品を送ることになった。当時先生はドイツへ留学する計画があって、語学を勉強中とのことで、今のものに比べると、とても巨大なテープレコーダーを差し上げることになった。この贈り物を多とされた先生は、ゼミの学生全員を祇園の乙部の茶屋へ招待して下さった。お銚子だけが出て、舞妓達が祇園小唄と京の四季に合わせて、踊りを見せてくれた。舞妓3人程と三味線のお姐さんが2人ほどもでてきたであろうか。京都の4年間の学生生活の中でリッチな気分になり華やいだ経験はこの時が最初で最後であった。
その後社会人になってから、同窓会の二次会で祇園の一力へあがったことがある。昭和57年の集まりであったと思う。京都に住まいする山本弁護士の顔で、予約も紹介もなしに突然の登楼であったが気持ちよく歓待して貰えた。この一力では大石蔵之助が山科に住まいして祇園へ通っていた頃、一力へ出した直筆の手紙が保存されており、額縁にいれて大切にされている。山本君が乞うと女将がこれを出してきて見せてくれた。文句は覚えていないが借用書のようなものであった。滅多にない機会なので私が持参したカメラで記念撮影したがフイルムが切れていて折角の思い出が記録に残らずじまいになってしまった。痛恨の一事である。
酒の量が判らなくて失敗するケースはよくあるが、では自分の酒量はどれぐらいかとなるとやはり実地に試してみるしかないだろう。
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