| 2006年02月19日(日) |
ペルーの旅14・・・クスコのアルマス広場 |
2006年2月8日(水) 午前中高度3,800m以上ある場所の観光で、高山病の症状が出だす人も現れだした。食欲不振、吐き気が最初に現れる。昼食に手をつけない人が何人かいたが、幸いなことに筆者の食欲は旺盛であったが、アルコールは自重した。 昼食はインカ帝国発祥の地アルマス広場に面したレストランで摂った。

↑ レストランで民族音楽の演奏

↑大聖堂、インカ帝国発祥の聖なる地に征服者スペイン人のカソリック大聖堂が建設されケチュア人達に支配者の交替を印象づけた。

↑アルマス広場のお巡りさんとイエズス会教会

↑アルマス広場の点景

↑アルマス広場の点景2
| 2006年02月18日(土) |
ペルーの旅13・・・タンポマチャイ |
2006年2月8日(水) 聖なる泉タンポマチャイを見学した。タンポとは宿場で、マチャイは茂みという意味である。タンポマチャイ村は宿場町であり、インカ時代の沐浴場でもあった。 ここでは水の神殿を見学した。これは聖地「ワカ」の一つで壁眼はミイラを置いた場所である。聖職者や皇帝はミイラにされ、重要な祭礼の時には埋葬地から輿ではこばれ壁眼へ安置された。この遺跡にはインカ時代のものとプレインカ時代のものとが共存している。

↑ 聖なる泉の水。

↑ 水の神殿の基礎の石組み、この沐浴場の水源は今でも判っていないという。一つの謎である。

↑壁の窪みは壁眼でここにミイラが安置された。

↑ 水の神殿の石組み。プレインカ時代のもの
| 2006年02月17日(金) |
ペルーの旅12・・・ケンコー遺跡、プカプカラ遺跡 |
2006年2月8日(水) 次いで巨石建造物ケンコー、プカラプカラ砦を見学した。

↑インカ時代の祭礼場であったとされているケンコー遺跡

↑プカラプカラ遺跡前の物売りとリャマ、おばさんの帽子はこの人のアイデンティティを表わす大切なもの

↑ プカラプカラ砦の石積み・・北方からクスコを守るための砦跡 プカラプカラとは赤い石垣という意味である。

↑ アンデス特有の動物リャマ、スペイン人が侵略してくるまではここには馬も牛もいなかった。
| 2006年02月16日(木) |
ペルーの旅11・・・サクサイワマン遺跡 |
2006年2月8日(水) 早速迎えのバスに乗ってインカ遺跡の観光である。 先ずサクサイワマン要塞跡を見学した。

↑ サクサイワマン遺跡前の物売り

↑ サクサイワマン要塞遺跡の全景、生憎光線の具合が悪く画面が暗い

↑サクサイワマン要塞遺跡に使われた石の中で最大のもの。一個128屯。

↑サクサイワマン要塞遺跡の門、9代皇帝イナズコ神殿の入り口

↑サクサイワマン要塞遺跡の巧みな石工技術

↑サクサイワマン要塞遺跡跡の集会所、催しごとが行われたり、兵の集合場所となった。この広場では毎年6月24日にインカ時代から続く太陽を祭るインティライミという儀式が古式に則り行われる。
インカ帝国は14世紀半ば頃初代皇帝マンコバックによってクスコの地に建設され、約100年間盛時には人口20万人を数える南米第一の都会であった。 1,531年スペインの略奪者フランシスコ・ピサロによって攻められ、約2年間戦ったが遂に1,533年軍門に下り、時のアタワルカ皇帝は処刑されてスペインの統治するところとなった。
しかし、1536年暮れにはインカ帝国の残党が別名鷹の巣城とも言われたこのサクサイワマン城砦を拠点としてスペイン軍を包囲し、反乱を起こしたという史実が残っている。この時の戦いはインカ軍3万人に対しスペイン軍400人であった。兵数において圧倒しながらも、馬と銃砲を持たず、夜襲という戦術さえも持たず、農夫兼兵士であったインカの反乱軍はスペイン軍の騎馬と銃砲の前にあえなく殲滅されてしまった。 その後も散発的に反乱は起こしたが1572年のビトコスの砦での反乱を最後に完全に鎮圧された。
またこのサクサイワマン城砦は9代皇帝イナズコが一日二万人の工夫を使って80年の歳月をかけて築城したと推定されており、巨大な石を三層からなるジグザグ構造に積み上げたところに特徴がある。ジグザグは22箇所にも及ぶ。
| 2006年02月15日(水) |
ペルーの旅10・・・クスコ |
2006年2月8日(水) 今日から高地での生活が始まる。迎えのバスに乗り込もうとすると、着用している革製のウオーキングシューズに目をつけた靴磨きの少年が靴を磨かせてくれとせがむ。終戦後には日本でも駅周辺でよく見かけた光景である。
先ず朝リマのホテルをでて空路クスコへ飛んだ。クスコ空港は標高3,150m位だから市内は3,000m以上の高地である。気のせいか空港へ降りたつと空気が薄いという感じがある。飛行機から降りると徒歩で空港建物まで行った。 そこには民族楽器で楽団が民族音楽を演奏しながら歓迎してくれた。旅情はいやが上にも高まる。
どの観光地にも現地住民が民族衣装を身に纏って民芸品を並べている。バスが到着すると一斉に寄ってきては売り込もうとする。どこの観光地でも見受けられる光景が展開する。
なにしろ高地なので走ったり、大きな声をだしたりしないで体力の温存を図ることにするから動きもスローモーで緩慢になってくる。

↑靴磨きの少年
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↑クスコ空港に到着した搭乗機

↑出迎えの楽団

↑ クスコ市内の眺望

↑ リャマを連れて民族衣装を纏い、写真のモデルになりチップを稼ぐ少女達
| 2006年02月14日(火) |
ペルーの旅9・・・恋人達の公園 |
2006年2月7日(火) リマ市内で恋人達の公園へ立ち寄った。この公園は大学生達が企画して作り上げた公園だという。花壇に沢山花が咲いていた。





| 2006年02月13日(月) |
ペルーの旅8・・・アルマス広場 |
2006年2月7日(火) リマの中心地アルマス広場を散策した。ここには大統領府とリマ最古の大聖堂がある。この大聖堂にはインカ帝国を侵略したピサロの遺骨が埋葬されている。 ペルーと言えばインカ帝国のことを連想する。ここでインカのことについて調べてみると インカ文明はアンデス山系の高原地帯に興ったアメリカ原住民の古代文明である。インカとはケチュア方言を話すペルーの一種族名に由来する。アジア大陸の新石器時代に農耕文化がベーリング海峡、若しくは太平洋を経て渡来しアメリカの地で独自の発展をした。人種的には黒髪、黒眼のモンゴロイドである。ティアワナコ、トルヒーヨ、ナスカの三地方を中心とした先住民の巨石文化時代を経て、1400年頃、北はエクアドルから南はチリにいたる3,000マイルの大帝国が出現した。神の化身・太陽の子インカ(国王)のもとに、オリエントや古代アジア社会に通じる専制政治が敷かれた。経済・社会組織として、農業共産制と集団労働制が見られ土地は太陽神(祭司)のもの、国王のもの、人民のものに分けられた。アメリカ原産のとうもろこし、じゃがいも、煙草が段々畑で栽培された。そのため導水路が発達した。
鉄器は知られていないが青銅器、金銀器を使用し文字はクイップと呼ばれる結縄文字にとどまった。また車の使用を知らず人力で神殿や宮殿や2,000マイルに及ぶ大幹線道路を建設した。首都はクスコ。1531から2年間でスペインからの侵略者ピサロによって滅ぼされた。

↑大統領府

↑大聖堂

↑アルマス広場1

↑アルマス広場2

↑アルマス広場3
| 2006年02月12日(日) |
ペルーの旅7・・・ペルー料理セビーチェ |
2006年2月7日(火) 昼食にはペルー名物のセビーチェとペルー風バエリアを賞味した。魚好きの筆者にはこのセビーチェは美味いと思った。またチチャも飲んでみた。
セビーチェは魚の切り身など様々な魚介類をレモンと唐辛子で柔らかくして、たまねぎのスライス、海藻と混ぜ合わせて、トウモロコシとサツマイモを添えたものである。
チチャは玉蜀黍から作るアンデス地方の酒である。
 レストランの看板
 原料の玉蜀黍とチチャ
 セビーチェ
 ペルー風バエリア
店内にある展示物
| 2006年02月11日(土) |
ペルーの旅6・・・・チャンカイ時代の染織 |
2006年2月7(日) 古代アンデス文明の栄えた地域は現在のペルー国を中心にアンデスの山岳地帯と太平洋海岸地帯の二つに大別できる。 山岳地帯に起こった諸文化の染織品は雨期に大量の雨が降るため殆ど出土していない。これに対して太平洋沿岸地帯は沿岸を北流するフンボルト寒流の影響で、極度に乾燥しており、長さ3,000�劼砲錣燭辰萄伺�化している。年間降雨量が20�仭宛紊箸いΔ海涼和咾任論�織品が腐食せず地下に保存された。
インカ帝国(1400年頃〜1532年)出現直前の地方文化の一つであるチャンカイ文化の染織品を天野博物館発刊のパンフレットから数点引用すると以下の如くである。自由闊達な精神の躍動を感じさせる作品が多い。

↑ これは鳥猿複合文様・綴織である。

↑ 上左から順に、鳥文様・縫取織、鳥文様・綴織、鳥文様・紋織、鳥文様・縫取織

↑ 人物鳥複合文様・刺繍レース
| 2006年02月10日(金) |
ペルーの旅5・・・・チャンカイ時代の土器 |
2006年2月7日(火) 天野博物館発刊の彩土器のパンフレット所収の写真を四点程引用してみよう。何れもチャンカイ文化の土器である。チャンカイ文化は1000年〜1400年頃ペルーの中部に栄えたプレインカ時代の地方文化である。赤、黒、白の三食で彩られた「チャンカイ三色」と呼ばれる土器はユーモラスな表現に特徴がある。
この写真は土偶であり、クチミルコと呼ばれている。
この写真は酒器である。鳥が図案化されている。
この写真は壺である。魚の文様が描かれている。
この写真は儀礼用の人形でリャマを表わしている。アンデス地方にはスペイン来襲までは馬も牛もいなかった。
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