前潟都窪の日記

2006年03月01日(水) ペルーの旅24・・・ナスカの地上絵

2006年2月13日(月)
7時にリマのホテルを出発して、車窓より沙漠の光景を眺めながらナスカの地上絵を見学するためイカへ向かった。約303�劼虜伺�のドライブである。
海岸には貧しい人々の草葺の小屋やベニヤ葺きの小屋が立ち並んでいた。最初は草葺きの小屋を作り、お金が貯まるとベニヤ板になり、日干し煉瓦の家へと変わっていくという。養鶏所の鶏舎もそちこちに見かけた。また手入れのされている土地と荒蕪地の違いがはっきり判る土地の対比には人間の営為の素晴らしさを思い知らされた。





↑沙漠に建っている貧しい人々の苫屋





↑養鶏場





↑緑地と砂地が裁然と分かれている対比。緑地には水の配管が施されている。

通過したカナーテの町は1899年4月3日に日本人が最初に入植した所で今は緑豊かな農地に変貌している。昔は綿の産地であったが、現在では綿の畠は見られない。また通過したチンチャの町は黒人が住む人口2万人のワイン製造の町であるという。

航空機に搭乗するには絶好の無風晴天の条件に恵まれて11時過ぎにはイカの空港に到着した。





↑搭乗したセスナ機

この空港にはクスコで入院していた二人の女子大学生も体調回復して、車で送って貰い駆けつけてきた。何はともあれ元気に旅ができるようになったことは同慶の至りである。

飛行機に乗って約1時間半、遊覧飛行をしたが沢山ある地上絵を目視確認できたのは僅か5点程であった。カメラで撮影してはみたが判然と絵だと判るものは一枚もなかった。ここでは地上絵の写真は「イポカンポのガイド・・ナスカの地上絵」所載のものを借用することにする。





↑離陸直後、イカ空港の上空より俯瞰





↑地上絵の配置図





↑蜘蛛の地上絵





↑ハチドリの地上絵


ナスカの地上絵は紀元100年以前に広大な大平原の沿岸沙漠地帯に幾何学図形が刻まれた。何故どのように作られたのか世界の科学者達がたてた仮説は沢山あるが未だ真相は解明されていない。多くの謎と神秘に包まれた遺跡である。

ナスカ地上絵の見学を終え、リゾート地のパラカスホテルに夕方7時半に到着した。



2006年02月28日(火) ペルーの旅23・・・シルスタニ遺跡

2006年2月12日(日)
ウロス島の見学を終えて、標高3,900mの丘に残るシルスタニの石塔の墓群遺跡へ向かった。





↑ チチカカ湖とプーノ市街

 シルスタニには紀元前400年頃、ティアワナコ文化とウカラ文化が栄えていた。11世紀にスペイン人がやってくると、プーノのコイヤ文化がインカ文化に征服され、インカの人々がチチカカ湖周辺に住みつくようになった。





↑ シルスタニ遺跡の遠望

見学した遺跡には11世紀に造られた、石を積んだだけのアイマラス王の墓、13世紀に造られたインカ様式の高さ12mの墓塔があった。墓に埋葬された財宝をスペイン人達が略奪するためだったのか、墓の正面は破壊されていた。太陽神殿の跡、月の神殿の跡も残っていた。





↑ 上はインカ様式の墓塔、下はプレインカの墓塔でアイマラス王の墓





↑ 高さ12mの墓塔、正面はことごとく破壊されている。





↑シルスタニ遺跡群

この遺跡には聖霊の宿る場所とされるワカの石も残っていた。





↑ ワカの石群





↑遺跡のある場所からの展望、動物はアルパカ





↑ シルスタニ遺跡前の土産物屋





↑ プーノからシルスタニへの道中で見かけた農家

昼食をフリアカのレストランで摂った後、フリアカのマンココバック空港からリマへ飛び、最初投宿したシェラトンホテルへ夕方到着した。





↑フリアカの町でよく見かける剥き出しの鉄筋






↑フリアカのレストランで食べたアルパカのステーキ
 




↑フリアカのマンココパック空港にある、マンココバック像(インカ初代皇帝)


 



2006年02月27日(月) ペルーの旅22・・・チチカカ湖

2006年2月12日(日)

朝からチチカカ湖に浮かぶウロス島の観光である。ウロス島は現在23あり、一つの島には5〜10家族がトトロで造った苫屋で質素な生活をしている。同じ島に住む住民は何れも血族である。ウロス島とは湖に自生するトトロと呼ぶ葦を積み重ねて造った浮き島のことである。

ウロス島に最初に住みついたインディオの人々は2,000年前からであり、当時とあまり変わらない原始的で質素な生活をしている。

チチカカ湖は塩分が1%あり、昔は外洋と繋がっていたが、アンデス山脈の地殻変動により、外洋とは切り離された状態となった。この湖は8,560平方�劼△蝓⊃綽爾寮�いところは3m〜4m、ボリビアとの国境付近では284mもある。琵琶湖の面積の約12倍もあるし、富士山よりも高い標高3,812mの高地にこのように大きな湖があることも、日本人観光客にとっては大きな驚きである。

チチカカ湖に棲息している魚は現在5種類である。アメリカよりもたらされた鱒の養殖が現在行われている。

チチカカ湖の波止場からモーターボートに乗って最初にウマウタ島を訪問した。次いでトトロ舟でスマキリ島を訪ね、再びモーターボートでウィニャイトトラ島を訪問した。





↑チチカカ湖の波止場周辺の点景





↑湖面に顔を出している自生のトトロと後方の白い建物はヒルトンホテル





↑スマキリ島の学校





↑最初訪問した浮島ウマウタ島のトトロ舟





↑トトロ。葦の一種だが、畳表の材料になる藺草ともよく似ている。トトロは舟や、家や、マットレス、トイレットペーパーに活用されている。またトトラは3〜5分で4m近くに成長する。





↑ウマウタ島の住民が広げている土産物





↑左は湖でとれた鯰科の魚カラチを焼いて干したもの、中はキヌア、右はじゃが芋
  




↑この湖に棲息する魚カラチ





↑浮島に植えてあるトトロ





↑ウマウタ島の長老





↑ウマウタ島からトトロ舟に乗って次のスマキリ島へ向かう同行の人達





↑ウィニャイトトラ島の苫屋の屋根に設置された太陽発電器、小屋の中にはテレビが置いてあった。





↑ウィニャイトトラ島に別れを告げる



2006年02月26日(日) ペルーの旅21・・・コリカンチャ

2006年2月11日(土)

体調を崩した女子大生三人はクスコの病院で診察を受け、点滴をして貰うことになったが、うち二人は重症のため、入院して治療を受けることになった。一人は点滴を受けて元気になり夕方から皆と一緒に行動できることになった。

朝はゆっくりして11時にホテルを出て、アルマス広場の12角の石とコリカンチャ(太陽の神殿)を見学した。





↑「12角の石」の石があるハトゥンルミヨク通りの街並み





↑ハトゥンルミヨク通りの「12角の石」はカミソリの刃も通らぬ程精巧にできた石組みの一つである。






↑12角の大きな石に対比して小さな石もある。石工職人の技に対する誇りを感じさせる。





↑インカ時代の石畳みが続くロレト通り。最も美しい街並みと言われている。





↑
コリカンチャ(太陽の神殿)





↑サントドミンゴ教会。インカ時代のコリカンチャ(太陽の神殿)のあった所。広場の中央にインカ時代に使われていた井戸がある。





↑コリカンチャの模型





↑1950年の地震で上部の増設された建物は倒壊したが、インカ時代の下部の建物は倒壊しなかったことを示す写真。





↑街中で見かけた壊れた建物

align=left>



↑アルマス広場にある噴水の像

 クスコ市の世界遺産観光地区の観光を終えて、チチカカ湖観光拠点のプーノへ向けて長駆394�劼離疋薀ぅ屬任△襦C訖�の握り飯を摂ったのはサンパブロ村の土産物屋であった。ここにはアルパカが放し飼いにされていた。





↑サンパブロ村で玉蜀黍を潰す作業をしている乙女





↑サンパブロ村の土産物屋の女主人





↑サンパブロ村の土産物屋の主人





↑サンパブロ村の土産物屋の庭に放し飼いされているアルパカ





↑サンパブロ村の土産物屋の庭に放し飼いされているアルパカ

プーノまでのドライブ中、車窓よりインカ時代の関所跡のルミコルカや氷河を観察することができた。屋根瓦を造っているビニパンパ村を通過し、パンで有名なオロベサの町では直径30�僂呂△蹐Δ�という大きなパンを買い試食した。昼食後には標高4,335mのララヤ峠を通過した。この峠は太平洋と大西洋との分水嶺になっている。

明日宿泊予定のフリアカの町も通過した。この町は創設25年の新興都市であるが、人口は25万人で今後もますます発展することが予想されている。町の印象は「針山の町」である。つまり、将来の建て増しを予定してどの建物も鉄筋を屋根の上に剥き出しのままにしているのである。中にはもうこれ以上建て増ししなくてもよかろうにと思える7〜8階建ての建物にまで鉄筋が突き出してあった。都市の美観を損なう見苦しい景観だと思った。





↑ 車窓から観察した氷河

align=left>



↑ ララヤ峠、標高4,335m





↑ インカ時代の関所跡。ルミコルカ





↑ フリアカの町の点景





↑ 「針山の町」の印象の残るフリアカの鉄筋剥き出しの建物





↑ プーノの町の踊り子。プーノの町はお祭りの期間で至るところに祭りの衣装をつけた踊り子を目撃した。また祭りの人込み目当てにペルー中のスリが集まっているとも聞いた。





↑プーノカーニバルに出場する人々



2006年02月25日(土) ペルーの旅20・・・太陽の神殿、インティワタナ

2006年2月10日(金)
マチュピチュ遺跡の中で印象に残った箇所を幾つか拾ってみよう。
太陽の神殿、インティワタナという日時計、コンドルの神殿ともいわれる牢獄、グッドバイ・ボーイの健脚であろうか。





↑太陽の神殿を上から見たところ。この太陽の神殿の様式はクスコでも再び見ることになる。太陽信仰のインカ文化の中では重要な神殿の形式である。





↑太陽の神殿を下から見上げたところ





↑太陽の神殿の基底部にある陵墓。この場所でマチュピチュの発見者ハイラム・ビンガムはこの空中都市で最も重要な人物の遺骸を発見した。





↑インティワタナ。太陽の日差しで方位と時刻を調べていたらしい。日時計か。四つ角が方位を示している。





↑ コンドルの神殿。コンドルの頭を模した石。



←コンドルの神殿。両側の岩がコンドルの両翼に見立てられている。ここには牢獄があったとも考えられている。







↑ マチュピチュ遺跡の配置図(イポカンポのガイド、失われた都市・マチュピチュより転載)

グッドバイ少年というのは、マチュピチュ観光を終えて登山バスで下車する観光客を終点まで追っかけてきては「さよなら」の挨拶をする少年のことである。登山道はつづら折れのヘヤピンカーブを蛇行しながら下っていく。グッドバイ少年は、直線の階段を駆け降り、バスの到着よりも先廻りして挨拶を送るのである。この所作が終着駅まで数回くり返される。乗客達は次の曲がり角に果して少年が先廻りしているか興味をもって見ている。少年が居ると何故か安心するのである。かくしてこの少年は健脚を披露してなにがしかのチップを稼いでいるのである。





↑終着駅近くになり、バスに乗り込んできて最後の挨拶を送る少年。現地の民謡を一曲披露した後、チップ受けの袋を手にして車内を廻るのである。

これとは逆コースを辿るグッドバイボーイをスリランカの紅茶工場へ赴くバスの中で体験したことがある。スリランカの場合は麓からヘアピンカーブを蛇行して上がっていくバスをやはり階段を直線的に駆け上がりながらバスより先回りして挨拶を送っていた。


二日間、マチュピチュの遺跡を堪能した後、午後からアグアスカリエンテスの駅から再びペルートレインに乗って、クスコへ向かった。





↑ アグアスカリエンテス駅周辺の土産物屋1






↑ アグアスカリエンテス駅周辺の土産物屋2





↑アグアスカリエンテス駅構内

約3.5時間の列車の旅である。クスコの手前のポロイ駅で下車して途中クスコの夜景が展望できる箇所に立ち寄り夜景を眺めた。イルメーションの点滅が皆無で橙色一色の都市の夜景は、味わいのある光景であった。残念ながら、写真は画面に光の筋が流れているだけで失敗作であった。

ホテルでは民族音楽フォルクローレを聞きながら夕食を摂った。





↑クスコのホテルで夕食時の楽団演奏1





↑クスコのホテルで夕食時の楽団演奏1


マチュピチュで体調を崩した三人の女子大生はホテルで酸素吸入をしたが効き目はなかったようである。



2006年02月24日(金) ペルーの旅19・・・太陽の門とインカ道

2006年2月10日(金)
昨日は雨に降られたが今日は天気がいいようだ。マチュピチュ遺跡を再び訪問しインカ道を約2時間かけて太陽の門(インティプンク、標高2,720m)までのハイキングである。

マチュピチュ遺跡自体は2,400m程の標高であるが、一昨日のクスコでの高度で体調に変化を来した人が続出した。大体、下痢か食欲不振に陥るのである。中には気分が悪くなって今日の見学をパスしてホテルで休養するという人が出てきた。若い女子大生が三人と初老の婦人一人が休養することになった。

筆者も下痢気味である。正露丸を服用しておいたが登山バスの中で便意を催してきて30分の時間が随分長いものに思えた。バスの到着と同時に公衆便所に飛び込んでことなきを得た。正露丸では効かないことが判ったのでより効力の強い下痢止め薬を服用したら下痢は治まりこの日一日の工程を無事こなすことができた。





↑太陽の門を目前にして





↑太陽の門のワジ。太陽の門はクスコから巡礼に来る人々の関所として使われていたという。





↑太陽の門の標識





↑太陽の門。祭礼儀式の時には壁眼にミイラが安置される。

align=left>



↑太陽の門から遠望したワイナピチュとマチュピチュ遺跡





↑太陽の門から見たインカ道。山越えしてクスコまで徒歩四日の旅程という。





↑太陽の門近くのインカ道



2006年02月23日(木) ペルーの旅18・・・マチュピチュ

2006年2月9日(木)
アグアスカリエンテスのホテルへ荷物を置いてから登山バスに乗っていよいよ今回の旅行の目玉である空中都市マチュピチュの見学である。ジグザグのヘヤーピンカーブの登山道を約30分バスでドライブしてマチュピチュ遺跡の入り口へ到着した。生憎の雨模様で小雨が降り出した。雲に隠れ気味のワイナピチュは神秘的な雰囲気を湛えていて宗教的な雰囲気が醸しだされている。折から雨期のため、雨に打たれたが幸いなことに雲に邪魔されることなく全貌を見ることができた。









↑上下の写真はマチュピチュ遺跡、 右手の高い山がワイナピチュ





↑ 登山口近くの建物、物見小屋だったかもしれない。





↑ 生贄を供える祭壇の石、右側三段の階段は神聖な場所で上段が天井の神の使いコンドルの場所、中段が陸上の神の使いピューマの場所、下段は地中の神の使い蛇の場所





↑城郭都市への入場門





↑段々畠 玉蜀黍を栽培していた。





↑ 倉庫だったと考えられている建物



2006年02月22日(水) ペルーの旅17・・・ペルーレイルとアグアスカリエンテスの町

2006年2月9日(木)
オリャンタイタンボの駅よりペルーレイルでアグアスカリエンテスまで約1時間40分の列車の旅である。この鉄道はオリエントエクスプレスの経営で有名なイギリスの会社ワールドが経営している。とても料金の割り高な列車である。渓谷の間を縫うように走行するこの列車を利用しないと自動車道が開通していないので、観光客ははマチュピチュへ行くことができない。観光客には有無を言わせずこの列車を利用させているのである。独占企業の横暴とでも言えようか。





↑オリャンタイタンボ駅の物売り





↑オリャンタイタンボ駅のペルートレイン





↑アグアスカリエンテスの街並み





↑アグアスカリエンテスのホテル、マチュピチュ・イン(標高約2,000m)



2006年02月21日(火) ペルーの旅16・・・オリャンタイタンボ

2006年2月8日(水)
聖なる谷ウルバンバ渓谷に到着した。ホテルに一旦荷物を置いてから、プレインカ時代の人々が作ったオリャンタイタンボの遺跡を見学に行った。
石積みの精緻な加工技術には感嘆するばかりであった。





↑この村の興隆の祖、オリャンタイタンボの像
オリャンタイタンボはこの村へ来て関所を作り、通行税を徴収し村の繁栄に大いに貢献したと言われる。





↑オリャンタイタンボ村の民芸品





↑オリャンタイタンボ村の民家、インカ時代の民家の様子を現在に伝えている。





↑オリャンタイタンボ遺跡の石組み(左はインカ時代、右はプレインカ時代)





↑精巧な石工技術





↑オリャンタイタンボ村の全景





↑オリャンタイタンボ遺跡





↑オリャンタイタンボ遺跡





↑グッドバイ・ボーイ、この時は観光客が物珍しくて見物にきている地元の少年と思っていたが、彼等が「下りのバスと競争するグッドバイ・ボーイ」達であった。



2006年02月20日(月) ペルーの旅15・・・チンチェロ峠、ウルバンバ村

2006年2月8日(水)
標高3,800m周辺の遺跡見学で体調が崩れかけた所で、本日の観光を終え、一路標高2,800m程度のウルバンバ渓谷の宿へ向かった。途中チンチェロ高原で眺望を楽しんだ。遠くには5,530メートルのサンファンガ山も見ることができた。





↑ チンチェロ高原からの眺望





↑ 車窓から目撃した氷河

ウルバンバ渓谷に入ると道路の両側の家の軒先に赤い布切れを竿の先にぶら下げた光景が眼につくようになった。これは日本でいえば酒造家の杉球に相当するもので、新酒のチチャが出来ましたという標識である。





↑ 新酒のチチャができたことを示す赤い標識

また三輪の自転車が頻繁に往来しているのも珍しい光景であった。三輪自転車のタクシーも走行していた。









 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加