おぎそんの日記
おぎそん



 cEBRATION

先日、槇原敬之くんのライブに行ってきました。
おぎそんの知人もそれなりに行っていたようなのですが>確認を取った人だけでも3人はいます、誰にも遭わず−まぁ武道館ですから当然ですね−ライブを楽しんできました。

終わってから、マッキー=AC(アダルトチルドレン)説のメールがライブに行った知人から来て、少々考え込んでしまいました。

えっと、AC(アダルトチルドレン)っていう概念をとりあえず。
確か、日本でメジャーになったのはクリントン大統領(当時)が告白したからだったので1995年前後でしょうか。
細かいことの概念はちょっとアレなので出来たら検索して頂けるとありがたいかな、と。
こんなところとかこの辺は参考になりうるかもしれません。

まぁ、正確にはマッキーのファンがあまりにも痛いというところなんですが。
知人の主張(考え)を要約すると、ファンが自分のアイデンティティを彼(マッキー)にダブらせ「自分の物語を生きていない」ということであります。

たとえば、最近の槇原くんをめぐってのファンの議論は「なぜ、昔のような甘いラブソングを書かなくなったのか」だったりします。
あまりにも、自罰的な歌詞(というか、自分のいやなところを見せられる、考えさせられる歌詞)に拒否反応を示すというように。
さて、これってどうなんでしょ?
ミュージシャン(いや、アーティストでもいいんだけど)って自分の中にあるものを基本として表現活動を行うわけで。
そこに本来ファンが介在する必要はないものでしょう。

でも、エンターテーメントとなると観衆を楽しませなくてはならない。
その狭間でミュージシャン(いや、アーティストd(ry )はいろいろと苦しむわけですね。

ところが、槇原くんのファンサイト(大手なら、僕”ら”はここにいます。 や 花水木 など)では未だに、その辺りが理解されていないというか−理解したくないのか−ごっちゃになったままで掲示板のレスがついています。

妄信的なファンというか、あまりにもすがりすぎな気がします。
自分が、思うように生きることは今の世の中では難しいことでしょう。
誰しもが、自分の望むようには生きることはかなわず、でもそれでも生きていく(生きていけてしまう)。
自分の満たされない気持ちを相手に託すってすごく投げやりな生き方のような気がします。
自分でどういう風に生きたいのか、をきちんと考えると難しいけれどもそれを避けて誰かにその指針を示してほしがっているように思います。

全く、どこかの占い師やスピリチュアカウンセラーにすがる人たちのことを笑っている場合じゃありません。
単なる信仰の対象が違うだけで、”すがっている”という行為になんら違いはないのです。>もちろん、そこには 占いだから とか ミュージシャンだから という免罪符はありません。つーかあり得ない

自己表現が出来ないなら出来ないなりに生きていけばいいんです。
こういうwebで表現するのもよし、普段の言動で表現するのもよし、昔ながらの文芸誌に投稿するといった表現でもよし、ストリートミュージシャンを気取るのもよし。
いろんな表現があるんです。
それに手を伸ばさないだけで。

もしかしたら、ミュージシャンにすがるってのはそういう表現がしたくてもできなくて、だからこそ固執してしまうのかもしれません。
自分の表現に幻滅することなく、相手の表現を賛辞したり非難したりすればいいんだから。
あまりにも安易過ぎではないでしょうか。

と、同じミュージシャンのライブに複数回行ってしまうヲタクと呼ばれても反論できなそうなおぎそんは考えてしまうのです。
まっ、おぎそんはあまりにも多くのミュージシャンを愛している>浮気 とか 火遊び とも言いますので一人を対象に入れ込むことは少ないんですけどね>それをモザイク状と言います

おぎそんは、ファンサイトで馴れ合っている妄信ヲタクを当然応援していません。
もっと現実を生きましょう

2005年11月14日(月)



 せっかくだから

そういえば。
先日ジョンのところにお世話になったとき、本の話題が出たわけですよ。
おぎそんも、少し読むし。
でね。
おぎそんの中でちょっと評価がしにくいのが田口ランディなんです。

とゆーのも。
確かに、すごく社会現象に則って、分かりやすい社会風俗的な読み物(小説&エッセイなど)だと思うんです。
でも、なーんんかひっかかるんです。

先日、どーしても気になってしょうがなかったんで、「鳥はみずからの力だけでは飛べない」を買ったんだけど。最近、よく考える森達也とかが晶文社から出してるものはしっかりしてるから、同じ出版社として期待したのよ。


ランディ先生、頼むから言葉遊びはやめて
熟語を一つ一つの意味に分解して、分かったフリはやめて

Ex.)(・・・物事に熱中している、という意味で)憑かれている人は、疲れないんだ  「鳥はみずからの力だけでは飛べない」
Ex.)私にとって情報は、情を報いることなんだ   「世界に抱かれるために」



噴飯ものですよ。ハハハハハハ。>目が笑ってない

題材(目の付け所)としてはいいところに行ってるのにどーして、そーなっちゃうかなぁ。>ひきこもり(「コンセント」)・宗教(「富士山」)
惜しいって言えば惜しいんだけど、全然同情心は沸かない。

あと、なんか「違うんでないかい?」と思う記述もあるの。細かいことなんだけど。>これを坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言います

「根を持つこと 翼を持つこと」って、シュルレアリスムのマグリットでしょうが!>正確に言うと、シュルレアリスム(第二期)全体に言えることだけど

本来の意味から逸脱してる>しすぎてる引用や使い方でなんかイライラするんですよね。
いや、”新しい視点だ”って言うこともできるのは、承知してるの。それはいいと思うんだけど、その前提がぐちゃぐちゃというか。
なんか、彼女の作品タイトルそのままじゃないけど、”モザイク”状になってて、すごくイヤ。

個人的には、支持されているのがすごく納得いかない。
まぁ、どうでもいいって言えばそれまでなんだけど、それでもなんかデマゴーグ的っていうか。
胡散臭いっていうか。

たぶん、「よく物事を知らない」っていう人を>もちろんそこにはボクも含まれるだろうわかった”気にさせる”というところがイヤなんだろう、と思う。

と、たまには不満をもらしてみました。
いや、おぎそんは別に田口ランディになにかされたとかはないですよ?
ただ、ただ胡散臭いって言ってるだけで。>それで十分だ


もし、ランディを読んでいる方が居ましたら、是非とも掲示板(HOMEをポチっとな)へ書き込みをお願いします。
ホントに、彼女の評価が分からないので。


おぎそんは、自分の文章を書くために誠実に対象と向き合っている、もの書きの方々を応援しています。

2005年11月01日(火)



 どこかではないここ

先日まで大阪に出かけてました。
某機関での面接だったわけですがどうも手応え薄といった感じで、正直なところ「キツイなぁ」と思わされました。
うーん、他の地域の兼ね合いもあるからなんとも言えないんですがホントはこの地域が第一志望なんですよね。施設としては。
で、環境的には関東が第一志望と。

なんとなくだけれども言葉の壁っていうジョンの主張もぼんやりながら(今までは「そんなことなくない?」って思ってたんだ、ゴメンネ)感じたかも。
なんか、こっちの受け取り方しだいだからどうでもいいかもしれないけれども、ちょっと弱気だったり不安なときにやっぱりそういう言葉(方言)というファクターだけでも影響するんだな、と。

正直なところ、今までの機関の面接が雰囲気良かったので「もしかして楽勝?」なんて思っていたので>これがいけないのか冷や水を浴びさせられた感じです。
まっ、こんなもんでくじけるおぎそんじゃありませんけどね>と、つよがり

あとねー、大阪って今回初めて滞在したんですよ。
でも、何処を見たらいいのかわからないの。しょうがないから好きな京都>それでも4年ぶりくらい?まで足を伸ばしました。
神戸は後輩くん>Kくん、サンキューねが案内してくれて楽しかったんですけど、丁度時間の空きができちゃって。

京都ってアクセクするのがなんとなく似合わない街のイメージがあるのでそれにならい>歳のせいだろっていう声が多数、清水寺&その付近という感じでぶらついてました。
まだ紅葉の季節じゃなくて>どっちかというと、神戸のほうが色づいてました残念だったけど、慎ましく御神籤を引いたりボッーと過ごしました。

長袖を忘れたので>いくら、旅の準備をしたのが出発の10分前とはいえ、なかなかのチャレンジャ−だったと思う・・・って単に忘れただけですアウターか長袖シャツを購入するのにかなり迷ったり>ほら、おぎそんって服を全然買わない人だからさぁ、高速バスの座席が全くなくて泣きそうになったり>結局は無事に乗れました、というか高速バスでの帰りにしたので、服を買う余裕が生まれたという話もありネットカフェでなんだか漫画のような出来事があったり素敵な2泊3日(車中泊を含めると3泊4日)でした。

かなり久しぶりのメール>ボクが覚えている限りでは、メールは2年弱ぶり(去年の誕生日メール以来)&会うのは2〜3年前の府中以来で不躾なお願いだったのに、快くもてなしてくれたジョン&神戸の町を探索させてくれたKくん&その他もろもろの方にお世話になりました。

また機会を見つけて遊びに行こうかな。
中島の夜会@大阪BRAHA>来年の4〜5月ですとか・・・。


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会場で面接を待つ間に如才なく、周りの方と会話ができる方がいるわけで、そういう人をぼんやりと見ながら「ああいう風には関われないなぁ」と思ったり。
自分が、上手く周りと関わることができないことに少なからずコンプレックスはあるのだけれども、あまりにも見事な人―ええと、ここでは会話の糸口を見つけて展開していくことができる人ってことですね―を目の当たりにすると”恐れ入りました”って感じで感服です。
「生きにくさ」を感じるといったところまではいかないけれども、最近”弱くある自由”というものをぼんやりと考えます。
あまりにも「強くあれ」という風潮に最近なんだか心苦しくなります。
上野千鶴子も書いてたけど―ここで彼女の名前が出ちゃうのが・・・おぎそんの難点ですな。今だに社会学―

  フェミニズムというものが登場して、男にできることなら女にも何でもできる、女も強いと言いだしたとき、わたしもその一翼を担ったにはちがいないが、内心ひやりとしていた。こんなことを言ってて、いいんだろうか。この人たちだって、そのうち齢をとるだろうに。今は強くても、どんどん弱くなるというのに。(中略)強さを価値として持てば持つほど、自分がその能力を失っていくのに耐えられなくなる。価値と現実のギャップが広がる。あたりまえのことだろう。それだったら、はじめから自分の弱さに居直って生きていく道はないだろうかというのが、わたしのフェミニズムの出発点だった。

             上野千鶴子「老いる準備

この主張に少なからず共感するのだ。
ただ、彼女の方向性には疑問を抱かざるを得ない。
なぜなら、彼女は解決法として「共助(友人とのネットワーク)」を主張する(介護保険を主張していることが象徴的)。

たくさんの友人たちとの広いネットワークを作り出せる人はいい。しかし、そのネットワークを作り出し、維持し、時には広げるということをできない人はどうすればいいのだろうか。ボクはこの点に引っかかってしまうのだ。

今の風潮では、「強い人間」が前提にある気がする。
そこ(その価値観)に乗れない(そぐうことのできない)、零れ落ちる存在―ボク自身だって含まれうる―に対しては一体どうするのだろう。

いつ、”いわゆる”社会的弱者に転落するかわからないのに、無邪気にこの社会を支持する人たちに対して薄ら寒いものを覚えるこのごろだ。
どんなふうに生まれてこようとも、それなりに満足で生きることのできる社会がいい。
家族が居ようとも居なくとも、あまり困ることなく生きることのできる社会がいい。
ボクがどういう状態であっても―仕事に就けなくても、障害を持っても、誰と繋がることができなくても―支えてくれる社会であって欲しい。

ボクが望むのはそれだけだ。

2005年10月30日(日)



 No Side

かっなり久しぶりに音楽の話題でも。
先週、オリコンのデイリーチャートをみていたら少々不穏な動きが。

渡辺美里のシングルが10位前後に居るんです
まぁ、順調に>待てデイリーチャートでは降下を続け日曜日付けではTOP20から姿を消したわけです。

それにしたって、久しぶりのシングル(約二年ぶりかな)でもこの動向は変でしょーと思ったら。
ありました、その原因。

いや、角松敏生みたいにファン層が一定しててCD購買層が減ってきたがゆえに相対的に順位を上げてきたってのもありうるんですけど、美里の場合はちょっとアーティストパワーが弱まってますからねぇ。

話がずれました。
えー、曲の提供者が槇原くんでした。
これは、マッキーファンが買うでしょ。

てか、おぎそん買ったし
いや、待って。誤解しないで!
別に、おぎそんはマッキー(槇原敬之)の妄信的なファンじゃありませんよ?コンサートは複数回行くぐらいなもので>それで十分だ
いや、曲自体(というか、歌詞を読んだ時点)は「なんだか、しょぼいなぁ」と思ってたんです!ホントダヨ。

でも、EPICの売り方が汚いの!!
だって、この(マキシ)シングルに一ヶ月間だけBONUS TRACKとして”10Years”がライブバージョンで収録されているんですものっ。

で、一応マッキーファンとしては楽曲自体はおさえておいて、セルフカバーを楽しみに待つってのが王道なんで>王道なんですか?まぁこれはこれで買ってもいいかなーと思っちゃったんです。

まっ、買っちゃったわけだしエンドレスでリピートしているんですけど(いつまで聞いてるかはいささか疑問だけど)聞いてるうちに印象がちょっと変わってきた感じ。

正直なところ、最初は「まった、説教臭い歌だわなぁ。なんか、言葉が詰め込まれてるし」と思ってたわけよ。
大きく路線は変わってないんだけど「・・・これはこれでアリかな?」みたいな。
美里の力なのかしらん。恐ろしい女!

で、No Sideは音数が少なくて淋しい感じなんだけど、これがまた、奥さん!
いいんですよ。歌詞が(これは美里の作詞)。
作曲は木根君くんでちょっと地味。
この夏の西武ドームコンサート後に書いたらしいんですが、すごく上手いの。フレーズが。
ニュアンスとしたらねー、B'zの「もういちどキスしたかった」みたいな感じ。上手いです、ホント。
一応、両AシングルなのにPushされない気配が濃厚なんで(ファンウケはかなりよさそう)ちょっとアピール。

期待した10Yearsは、まぁこんなものかなぁって感じ。よくも悪くも。
以前のライブアルバム(Love Life Live)のアノ高まりはないけれども>それだけ歳をとったってことかしらねぇしっかりと歌いきれてます。

で。考えたんですが。
渡辺美里みたいに、ある意味ティーンエイジのイコンになったときってその終焉がかなり厳しいんですが、今のところなんとかなってるなぁという印象を受けました。
いや、ソニーが契約をぶっちぎって放り出すってのもアリだとは思うんですが(だって、アルバムの売り上げが一万枚前後)>ちなみに移籍先としての候補はユニバーサルなんつーのはどうでしょ?、東芝EMIのユーミンみたいにとりあえず作品を発表する>売り上げには目をつぶるってことにシフトしているレアなミュージシャンになりつつある気がします。
それはそれでいいと思うんですけどね。

結構、大御所でも平気で首を切るレーベルあるし。
と、少し一時代を築いたミュージシャンたちの老後に思いを馳せた一時でもありましたとさ。

そんなこんなで、おぎそんは契約打ち切りを恐れるがゆえになかなか意見を言えなかったりするミュージシャンを応援しています!











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えっ、具体的な名前ですか?
えーとね、怪しいのはヤマハからユニバーサルっていうわけのわかんないCでしょ。
あとEMIだったら、絶対にCね。
徳間ジャパンはレアなんだけどそろそろDくんが怪しいんだよね。
個人的にはAに移籍したばっかりのOなんかどうでしょ。このヒト、どーゆーわけかユニバーサルにも一端籍を置いてたみたいでDVDが出てるんだけどすっごく不審。
ユニバーサル自体が怪しい?まぁそりゃそうだ。
市場担当者のTさんはいいヒトだったんだけどねぇ・・・。あっ、ユニバーサルといえば外せないのはこれでしょ!EMIから来て大々的にコンベンションもやったのに結局シングル一枚に終わったアノ人でしょ。そう、Oさん。
あとねー、なんか最近テイチクになんか不穏な動きがありそう。無駄に、昔のCDの再コンパイルとかベストを出してる感じ。
いや、メルダックほどじゃないんだけど。
トライエム?あれは論外でしょ。もう、自転車操業っていうか。
ゲームマスター!ありましたねぇ、そんなレーベル。まぁTを引き込んだのはいいけど、あっOもかあとはおまけのMね。どうもヒットを狙うって気がしないんだよね、あそこのレーベル。節税対策じゃない?
あとはそうだなぁ・・・ポニーキャニオンはとくに言及することはないし―アイドルのリコレクションベストが多いのはどうかと思うけど―・・・。Beingがありましたね。まぁ、稼動してるがほとんどいないからなんとかなるでしょ。問題はGIZAね。あんだけの不良債権をいったいどうするんでしょ。
まぁ、いいんだけど。

2005年10月24日(月)



 つながり

今、某団体に所属したりしているんですけど。
先日、総会があったわけですよ。

なんか、こういう感じって久しぶり。

いろんなことを言い訳に、あまりコミットしてなかったりするんだけどまぁ、つながってるってこと自体も大事な気がする。
つながりって断ち切ることはたやすいけど、続けることは結構困難だったりするから。

別に「居場所」を確保しているわけじゃないけれども、それでも新しく出会う人に刺激をもらうなんて、待ってるだけじゃできないことだから。
ちょっと勇気をだして関わってみたい。

2005年10月10日(月)



 optimismとpessimism

今年は幸いにして学力試験で落とされるってことはほとんどないのですが(だって、教養試験なら大丈夫だモンって某独立行政法人のみダメだったり)、問題は二次試験。
実はおぎそん、とにかく朝が起きれないんです。今更言うことじゃないんですけど。
・・・って書いて、某試験(一次試験)の時は寝過ごしたって事例を思い出しました

目を覚ましたら、「あっ・・・(血の気が引く音)」という事態が何回か続きまして>何回もやったんかい
コレは、もう”縁がないんだろう”ということで潔くあきらめることにしました。
サヨナラ、Y浜市&M蔵野市・・・。
やっぱり、大事だよ。人との縁って>単なる自己の正当化

大体、午前中からっての面接が大概なんですが、どういうわけかこのお休みしちゃった>しちゃったじゃねーだろ自治体って午後から健康診断だったり、論文試験&面接だったりするんですよ。

今まで「午後からだから、余裕じゃん。絶対に行けるわ」と思ってたんですけど最近、実は午後からの試験のほうがトラップになりつつあります。

で、今月も某自治体の面接&論文試験があるわけですがこれもまた午後。
しかも、集合が15時45分だったり、17時5分だったり人を喰った集合時間であります。
よーく、一次試験通過者の受験番号を見てたらおぎそんの受験番号が最後でしたそりゃそーだ、面接の順番

・・・って言いながら行けなかったらどうしよう。

まっ、自治体さんは動機を考えるのがしんどいのである意味面接で(精神的な)ダメージを受けないで回避するってのもありなのかもしれません>単なるヘタレ

さすがに、遠いところ(東京じゃないところ)だと間に合ってるんですが。
どっか、ひっかからねーかな。

でも、贅沢なことを言うようだけど>まだ言うかしたい仕事をできるのが一番なんだよね。
自分が望むものと、望まれているものは違うかもしれないけれどまずはやってみる。
それでいいんだと思う。

明るい自己肯定と勘違いは別モノってことを認識してれば、の話だけれども。

2005年10月05日(水)



 as sonn as

感謝の気持ちは思ったときに述べる。
いつ言えなくなるかわからないから。
相手が居るかわからないから。

したいことはできる限りそのときにする。
先延ばしにして後悔するのは嫌だから。
したいことはいつまでも待っていてはくれないから。

最近、とみにそう思う。

2005年09月23日(金)



 くるねるところ すむところ

ママの単純さは暴力的。
佐知子の言葉を思い出す。

そうだ。
わたしには柔軟性がない。
迷って選択肢を増やすと、混乱するだけだ。
見えている一本道を歩くしかない。

その道が行き止まりなら引き返すかもしれないけれど、今、立ち止まるわけにはいかない。
止まったら、歩く勇気が失せていく。

そんな気がする。


「くるねるところ すむところ」平 安寿子(文芸春秋)

2005年09月12日(月)



 ヌルい仕事してんじゃねーよ

ぬるい仕事しているのを見るのが嫌なのだ。
自分自身の言動を振り返れば人のことは言えないとは思うのだけれども、それでもなんというか人を不快にさせるレベルの仕事っていかがなものかとある意味感心してしまう>もちろん皮肉


そりゃ、たかが(この言い方はホントは嫌いなのだ)バイトの仕事にカッカとしてもしょうがないよなんて意見があるのは十分すぎるほどわかっている。自分が望んでいる(接客であったり、仕事に取り組む意識の)レベルでないことに怒るということは、他人に対して甘えがあるのだと思う。
他人に期待をしすぎる、というか。

でも、忌憚なく言わせてもらえば、お金をもらっていようがいなかろうが「与えられた仕事に報いる」ことに誠実に向き合うというのはボクにとって譲れないラインなのだ。
そこが果たされていないところに腹が立つ(何度も繰り返すが、自分勝手な想いだと承知しながら、だ)。


お金をもらう仕事のほうがはっきりしている。
そのお金の分だけ働く、という「プロ」はいる。
それはそれでプロ意識なんだろう。(ただ、何処でその対価を判断するのか、その判断に妥当性はあるのか、などの論議はあるがとりあえず)
でも、それじゃなんだか嫌なのだ。


ボクが思うのはお金がもらえなくてももらえても「やってしまう」人が「プロ」なのだと思う。
その対価に惑わされることなく、その状況においてどうすればベストを尽くせるのか。その場限りでない、先を見据えた状況判断。
これを「やってしまう」人にどうしても、情が湧く。
その人を信じたいと思う。
結局、見合った対価でなくとも自分の中で達成感があるというか、満足感(まぁこれも、自己満足かどうかの判断をどうするのか、がつきまとうけれども)があって”武士は食わねど高楊枝”が好きなのだ。

対価は人が決めるもの。
せめて、せっかく自分が取り組むものだからこそいいものにしたい、相手によく思ってもらいたい、助けになりたい。
いくら傲慢だ、と非難されようとも基準は自分が決めるのだ。
自分が今居る場所で、どうしたらその矜持(誇り、でもいい)をもったままでいれるのかがボクの判断基準なのだ。

2005年09月08日(木)



 海になりたい青

最近、過剰に自分を卑下してた。

逃げ道を作っておくためだ。

うまくいかなくなった時に、ほら、言ったでしょ?もう駄目なんだって、言ったでしょ?とケツをまくるためだった。


きちとんと物事に正対しないとできる後悔も中途半端になる。
どこかに言い訳が入り込む余地があるからだ。
自分を甘やかすからだ。

やるなら、やって後悔をしたい、とやっと素直に思えるようになった。
残された時間はあまりにも少ないからだ。
日々が納得のいくようすごせることなんてそうそうに、ない。
だから、自分がやることによって変えることができることは貴重なのだ。


甲子園の高校野球児のように、その”思いの強さ”だけが「永遠の夏」として刻まれるのもいいかもしれないが、もう十分すぎるほどの年月が経ってしまった。
だからこそ、それとは違うやり方で挑むしかない。

青は、青になりたいが如く海に近づくが。
望んでいた海になったら、きっとその青ではいられない。
変わるしか、変わり続けるしかないのだ。

青い鳥を捕まえても、青い鳥じゃないのかもしれない。
でも、捕まえようとしたのは自分の意思。誰の命令でもない。
だから、自分が納得のいくことをするしかないのだ。
その結果を人のせいにせず、自分が責任を取るために。

いい年をこいて、人のせいにするなんて格好悪い。
結局は、自分の本質が「いい格好しい」なんだと認識せざるを得ないけれども。

2005年09月02日(金)
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