おぎそんの日記
おぎそん



 STAY〜now I'm here〜

最近、自分の受け入れられる場所について考える。
自分がいたい場所、自分を受け入れられる場所。
それぞれは異なるのかもしれない。

あんまり顔は出さないけれども、たまに行くと「よく来たね〜」と微笑んでちょっと席をつめて自分を受け入れてくれる場所。

すごく、受け入れてくれる場所を貴重に思う。

今年は、お正月に(珍しく)実家に行ったのだけれども、高校時代の友人たちと6〜8年ぶりに飲んだ。
もう、繋がることはないのかな、とちょっと思っていただけに最初はコジンマリと3人で飲むはずだったのに。
友人が気を回して、「Nはどうよ?」「Tなら連絡取れるよ」「Kはどうかなぁ・・・」と膨れ上がった9人。

ホントにこういう、「今から飲むから来なよ」で駆けつけてくれる友人たちってありがたい。
余計な打算がないからこそありがたいと思う。

槇原敬之は「誰もが誰かの居場所になれる」(”Home Sweet Home”アルバム「Home Sweet Home」収録)と歌った。
ちょっとだけ実感した。
自分が受け入れられていない、と思う(錯覚、でもいいが)と次に何をしようか、という楽しいことはあまり考えることができない。
自己肯定感が低くなるからだ。
同じ道を歩いていても、顔をぐっと上げて歩くのと、ずっと下を向いて歩くのとでは気持ちはずいぶんと違う。

足元を見ていないと、転ぶよ!とも言うけれども、転んだとしても自分の心を引くものを、自分の知っている人に遭遇するチャンスをなくしてはいけないのだと思う。
気持ちが沈んでいるときの、自己憐憫に浸っていても進歩はない。

同じ限られた時間しかないのならば、服を明るい色に着替えて微笑みを顔に漂わせていたい。
たとえ、ノーテンキだねぇ、と言われたとしても自分の内心が全くの他人にわかってたまるか。
ネガティブな感情を他人に感染させてどうする。
せっかく関わりあえたのだから、きちんとフィードバックをしたいと思う。


いつも満たされない、と思っていても。
ちょっとだけ他人に対して心を配る(これぞ、心配 笑)ことで、自分にきっとはねかえってっくるんだと思う。
見返りを期待するのは愚かしいことだけれども、でも、それ(見返り)を期待することは別に悪いことじゃないと思うのだ。


他人に自分の気持ちはわかってもらえなくてもいい、とはわかるな、とは違う。ゴーマンかもしれないけれども無理に理解してもらおうなんて思わない。自分がわかって欲しい人にだけ受け入れられるならばそれだけで十分だと思う。

2006年01月12日(木)



 できること

ボクたちは純真でも真面目でもないけれども

ボクたちは誠実でも強くもないけれども

自分ができることをただただするだけ

できることをただするだけ

2006年01月11日(水)



 オメデトウ


いいことが起きなかったかもしれないけれど、とりあえずはオメデトウ。

とりあえずは言ってみよう、オメデトウ。

つらいことはあるけれど、なんだかんだと言っても日々は続いていくものだから、とりあえずはオメデトウ。

一回だけじゃぜんぜん足りないからオメデトウ。

今日も明日もオメデトウ。



少しでもいい年になることを夢見て、いきたいと思う。

「口にするだけじゃ意味がない」と思ってたけど、それはあまりにも不遜かもしれない。

だから、とりあえずは口に出してみよう。

言ってみよう。

”きっとよくなる”って。

うつむいてばかりじゃ辛い。

せめてもの、思いでいいから。

オメデトウ。
いい年にしようね。

2006年01月01日(日)



 冬がやってきた

いやはや、ここ東京のはずれでもしっかりと冬がやってまいりました。
つーかー、T留とたいして気温が変わらないってのはどうなのよ。
東京にいる意味がないっつーの>完全に勘違いしています

しっかり、午前6時代はマイナス4℃とのアナウンスもされており、油断をすると風邪を引いてしまいそうです。

先日、あまりにも寒くて朝早くに起きてしまった>え、今?今は徹夜明けでーすので外に出てみたのですが、しっかり霜も積もっているのね。
はぁー。
車のフロントガラスにもびっしりと薄いながらも氷が。

あとどのくらいで暖かくなるのかな。

おぎそんは暖房を使わなくてもよくなる時期を切に切に待ちわびております。

2005年12月17日(土)



 悲しいね



>ソーシャルワーカーほど役に立たない仕事はないですよね〜。

こんなコメントが人の日記になされているのを見た。
悲しいな。
役に立たない仕事、なんてものがあるんだろうか。

自分の仕事に誇りを持つこと。
みんながみんな、もてるとは限らないとどこかではわかっている。

でも、人の仕事を非難する/貶す ことって”アリ”なんだろうか?


ソーシャルワーカーとか戦場カメラマンとか警官とか、本来ならば彼ら(の仕事)が居ない/ない ことが求められる分野/仕事は確かにある。
でも、それをなくなることを期待しながらも、悲しいことに必要とされる現実がある。
その哀しさに目を背けて、「役に立たない」と言い切る人におぎそんはどうしても、その考えに賛同はできない。

「自分には関係ない」という強者の考えがいつの間にか、それを必要とする人々を生み出していることにどうして気づかないのだろう。
どうして、自分がもしかしたら強者の立場から外れてしまうかもしれない、という不安を抱かないのだろう。
どうして、他人を貶すことで自分を優位に保とうとするのだろう。

そんな相手に対して哀れみを持つことしかできない、おぎそん自身もどこかで優越感を持っているかもしれないけれども、それをきちんと認識しておきたいと思う。
そういう考えの人も”残念ながら”−もしかしたら、このような考えの人が多いのかもしれないけれども−居るんだ、ということを受け止めたいと思う。

そのうえで、きちんと考えたいと思う。

2005年12月13日(火)



 何を見ようとするか

そうそう、先日某映画の試写会に行ってきたんです。
しかし。
おぎそんの感性がおかしいのかな>と、逃げ道を作っておく、感動というか泣くっていうのはちょっと違うかなぁと思うのですが。

最近、流行のブログのコメントを見ると。
>観客全員、泣いていました感動した。
>本当に涙なくしては見れない超大作だと感じました。
>最初から最後まで本当に涙が止まりませんでした。

だと。

うーむ。

狙いどころはわかるんだけど、果たして「何に対して」泣くのかがわからないっていうのがあるかなーと。
いや、おぎそんだって「ヤベっ」と思ったところはあるんですよ。でも、それってたぶん、みんなが「泣ける」ってところとは違うところだと思うし。

金はかかってます
これは保証します。

いささか、メッセージ性が強いし、何をもたらせたいかの狙いはわかるんですけど・・・なんてゆーのかな、すごく収まりが悪い。

いや、舞台挨拶の段取りが下手すぎるとか「角川春樹先生が、晴れて潔白の身で」とか白々しいコメントに笑ってしまったり、反町くんったらちょっと思想が入ってきて危ないなぁ>窪塚くんの後を追うの?とか、いろんなことを思ったんだけど・・・。

たぶん、ですよ?
たぶん。
あのー、泣く人って、セカチューで泣いた人と同じ層じゃないのかなーなんて思いました。
それぞれがせつない思いを抱いて、戦争の名の下で犠牲になった悲しいお話しではあるのは確かなんです。
で、それぞれの立場があって、それがどーにもできなくて。
そーゆー話だと思うんです。

・・・って何が言いたいのかな、おぎそん。
ちょっと思想が入っている話は素直に見れないね、ということで。

おぎそんは、金がかかった映画は製作者が「金を回収しなきゃ」という必死さが見えてしまって好きではありません。

2005年12月08日(木)



 それでも明日の歌が聴こえる

目に映る明かりは悲しいほど美しい

歩き続ける
歩き続ける
とりあえずは、歩き続ける

ゴールはあるのかわからないけれども踏み出してしまったから
とりあえずは行ってみよう 進んでみよう
立ち止まって考えるのも手だけれども、今は歩いてみよう

行き止まりになってから立ち止まってもいいのかもしれないから


それじゃ遅い、と誰かが言う

そうかもしれない

でも、戻る道だって、ここに居たって大して違いはないだろ?
だから、人のせいにしないためにも自分の意思を信じてみよう
信じてあげよう


悲しいことはたくさんありすぎて無表情になってしまうけれども
笑いの種類にはたくさんあって、どれを浮かべているのか自分ではわからないけれども

それでも明日の歌が聴こえる
それでも明日の歌が聴こえてしまう
それでも明日の歌が誰かのために流れる

明日の歌を聴きながら 足を速める

まるで何かから逃げるかのように
まるで何かに向かっているかのように

2005年11月28日(月)



 peace pact

友人が勤めている施設(えっと、知的障害者施設というか、彼らを受け入れている学校−フリースクールみたいな−です)で文化祭があるってことで行ってきました。

久しぶりに、あの高揚感−学園祭っていう意味で−を感じてきたわけですがいやはや、来る人がかなり限られているのでちょっと居心地としてはつらかったのも正直ですが。

「なんかねー、楽しいの。よくわかんないけど」という子どもたちの会話を聞いておぎそん、切なくなっちゃいましたよ。
なんか、最近こーゆーのって弱いなぁ。。。


それが一番の醍醐味だと思うんです>よくわからないけど楽しい
そう、通過してしまってから”あぁしっかりと堪能しておけばよかった”なんて思っても遅いから。
でも、それがあまりにも多くて。
だからこそ、きちんと日々を認識していかないといけないんだと思うのです。
なんとなく流されて、ってのはすぐにできちゃうんです。

抗うのは簡単ではないけれど、抗うことが生であるなんて言葉も聴いたことがあるから。


その後は、某団体の手伝いへ。
あー、おぎそんヤバ気です。
なんか役職やるかも・・・どうしよ。

とりあえずは。
おぎそんは、さまざまな役職に就かれ疲労困憊な人々を応援しています。


------
って、大したことじゃないのですけれどもやっぱりのんべんだらりと、まずはこの雰囲気に慣れてから小出しにしていこうかな、と思っていたんです。
一応、「何か」をしたいと思って、そのために所属しているわけだから。
でもさー、やっぱり入って一年未満でいきなりそれはないよなー、と勝手に思ったりするわけです。
まだ本決まりじゃないし、おぎそんもこれから予測が立たないしちょっくら工作活動をして、不可侵条約でも結んで本決まりにならないようにします・・・。

2005年11月27日(日)



 You Send Me

最近、人に何かをプレゼントしようと思うと花(ブーケ)にすることが多いのです。
後に残るモノだとなんか怨念がこもってそう(&気に入ってくれなかったときに困る)だし>それは、手編みのマフラーとかです、ましてや食べ物では何を嫌いか(or好きか)なんて覚えてないし。

幸いにして、不評ではない>微妙な表現だな 汗のですが、先日こんなメールが。

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先日、いただいたブーケは今日まできれいに咲き続けてくれました。
ありがとう。

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わー、プレゼントしたものでその後を報告していただけるなんて初めての体験かもしれません。
てか、おぎそんだったらきっと何事もなかったように捨ててオシマイだと思うんです。
「もらったもののお礼は言う」というのはあるけど、そのものが役割を終えたとき(枯れた、とか壊れたとか)に改めてお礼を言うってないから新鮮です。
とゆーか。
そうか、そういうことをするって贈ったほうも嬉しいんだな、という単純なことを感じました。

メールを送ってきてくれた人は単なる報告だったかもしれないし、おぎそんが過剰に意味をのせているだけかもしれないけれど。
ちょっと意識してみようかな、なんて思います。


さぁ誰かおぎそんにプレゼントを贈ってごらん!>本末転倒です

2005年11月21日(月)



 誰がために

Mr.childrenが「タガタメ」という曲を出してました。
これにインスパイアされたのか、誰(た)がためにという映画も公開されました。
つーか、たまたま購入した「ぴあ」で遭遇してしまったので>しかも、今週で公開終了@渋谷って行ってみました。

なるほど。
確かに、上手いなとは思うのですが。
思うんだけど。

おぎそんですから(苦笑)。

なーんか、勿体無いなぁと思うんです。
あるモチーフが何度も繰り返されることがあるんですが(それは、webで書かれているモノだけではない)それが上手いものとそうでないものが混在してて。
上手くいってないものは当然の如く、くどいというか、わざとらしさを感じてしまうのです。
まずそれが気になってしょうがないのです。
作為的なというものとそうでないものの差ってほんのわずかなのになぁ。

テーマ設定も上手です。はい。

そういえば、かなり感想がばらつくなという印象もあります。
ついうっかりYahoo!で検索してしまい、不安になったのですが、直感を信じて。
で、本編を見てから公式サイトの感想を見たわけですが。

すごくない?
この差って。
まぁ前者はあまりにもミーハーだと思うし生きることとか☆ミステリーだね、なんて書けるその心意気−つーかその無神経さ−に頭がクラクラする、後者は後者でなんだかなぁ、と。

中間層の感想は無いのかっ!

まぁ、公式サイトの中で「フリー編集&ライター31歳 女性」のみはなんとかOKな感想だと個人的には思うのですよ。
とゆーか、他がなんか持ち上げすぎたり>まぁ、なんとかOKな感想だって最後は微妙なんだけど的外れだったり>おぎそんにとってですけど

レビューも微妙。
こうあるんです。

・・・・・(前略)観る者に解釈を委ねるラスト・シーンも素晴らしい。(後略)・・・・


ホントに?
観る人(本だったら読み手)に解釈をゆだねるってかなり危険な行為だと最近思うのです。
全く見当はずれな解釈がこんなにも世の中にはびこっているのにそんな火中の栗を拾うようなマネをするなんて!

すべてをきれいに−ジクソーパズルのように−収まる作品である必要は無いと思うのですが、それでもやっぱりはみ出しちゃいけない「枠」はあると思うのです。
どこまでも、”自由に”とすると思ってもみなかった活用をされ、その斬新さに目を奪われ本質を忘れてしまう気がするのです。

今でも好きな山本文緒>こっそり仕事再開してますねも読者に解決を委ねるっていう手法をとりますが、実は最近イマイチなのもちらほら>いや、おぎそんにとってですよ?
具体例はあげないけれど>あげてもいいけれども、だんだん彼女も問題提起をするだけではなく詰まりもあるだろうしそこからどうするのか−actionという意味で−を考え、それを自分でも解決していく(作中なりで)ことが必要なんじゃないかなぁとぼんやり思ったりします。

そういう作業をすることでまた彼女のステップ(ステージ)が上がるのでは、と思うのです。

でね。
この映画も同じ印象なんです。
問題提起はした、で?って感じ。
もちろん、問題提起をしたことはすごくいいことなんです。
でも、その先を観たい。製作者たちの考えをぜひとも>非難があっても見せて欲しい。
世の中は「出るくいは打たれる」だし、ちょっとでもみんなの感情とそぐわないことを主張すると袋叩きにする傾向が最近あるけど>イラクの件とかそうじゃない?それを恐れないで欲しい。
いろんな意見を引き出すための−それは望んでいるものは少数で凹むかもしれないけれども−叩き台として必要なんだと思う。
その、泥を被るっていう心意気こそに惹かれるんだと、思う。

だから、すごくこの作品(「誰(た)がために」)はおぎそんの中では中途半端な存在になってしまったように思う。

・・・残念です。

おぎそんは、敢えて火中の栗を拾ってネタにしそうなパオロ・マッツァリーノさんを応援しています!

2005年11月19日(土)
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