岸部・・・?
目次|前の日|次の日
湿気とゴキブリは海と魚のようなものです。
ところで、ゴキブリをゴキブリと呼ぶのは少々飽きたというか、名前のもつイメージの定着が原因で感情が昂ぶると見なし、とにかく改名希望します。
感覚的には「ゴ○ブ○」みたいに、わかりにくいが察すればわかり、直接的な呼び名にワンクッション置いたようなものがいいかな。いやしかし何が嫌かと言うと、「ゴ」と「ブ」の濁音が彼の太腿に持つあの連続した返し針のようなトゲを想像させることであり、できれば「ゴ」と「ブ」は使いたくない。かといって「ゴ」はやはり彼らのイニシャルであると同時に伝統や愛着を帯びていて、4つの文字のうち最重要であってはずせない気がする。 ばか、イメージを変えるってのに伝統を重んじてどうする、しかも、「ゴ○ブ○」の場合、発音はゴブ?ゴッブッ?余計気持ち悪いぞ。同様に「キリ」も気持ち悪い。羽根にキレがありそうだ。鳴き声もキリキリしてそうでダメだ。とにかく、茶色とか羽根とかトゲとかスピードとか嫌いな属性を感じさせる語感はナシの方向で。
見かけると楽しくなるような、あっ見つけた!とあたかも妖精をみつけたかのような喜びを持てる名前がいい。それでいて何の躊躇もなく殺せる、むしろ殺したくなる、進んで殺したくなるような、いや、殺さなければ殺されるような名前。そう考えると「ゴブリン」はうってつけだが語感が残り過ぎてるかな。 ああやっぱりどうでもいいや。
パ・リーグ熱いね〜
2002年06月04日(火) |
'98 時代 見終わった |
ここ1〜2週間でやり遂げた。久々に一つのことをやり遂げた。リアルタイムで見たのは'83〜'95まで。他をビデオで見た。見たところも今回改めて見た。 良かった。ただ、最後に見た'98にはいくつか納得できない。
・まず宮沢りえの演技・ぶりっ子っぷりがむかつく。意識的な間と声色ヘコー。合わん
・それに、'98を見る前に正吉の本業を知ってしまったこともでかい。 ”正吉役の中澤佳仁さん(32)は最終回には参加できない。10年ほど前に役者を引退、壁張り職人として働いておられ、前作の「’98時代」までは会社に許可を得て撮影に参加されていたが、親方になられたことで参加できなくなったとのこと”ということを知って見てしまうと、素人の匂いがプンプンした。会社に許可取ってやったんだな〜ふーん、という具合に。
・あと、純の髪と顔がちょっとキモくて、悪いが同情できない。これはもう'87辺りから言えることだが、大人になるにつれてその度合いは増す一方で、最終回はすんごいことになりそうな予感は的中するに決まってる。散髪しろ
・当初のドラマを単発で続けているという歴史からすると仕方ないといえば仕方ないが、全体的にシナリオが先走りしていて本来のドラマが見えない。それと撮影全体が作為的で、ドラマよりも撮影クルーの姿が見えるというかカメラマンが見えてるというか、ワンシーンワンシーン区切られていて、撮影してます演技してますというのが存分に楽しめてヘコー。
・ドラマに不必要な農家の解説と訴え。教育テレビか
けど泣いたよ、そりゃ泣いた。泣かない方がおかしい。毎回最後に小さい頃の回想シーンがあるのだけど'98はそれが長過ぎ。あれじゃ最終回だ。 '98は蛍が光っていた。嫁ぐんだもの、ってそういう展開的にもそうだけど、それ以前に蛍いいよ、良かった中島朋子。
最終回は9月6・7日 タイトル「遺言」
ここのところ、寝るか「北の国から」を見るかの生活。 ドラマ時代のビデオは1本約2時間20分、1日2本ペース。 じゃりン子チエと北の国からと耳かきさえあれば3年は不満を言わない。約束はしない。 あとはまあ、買ってもないのに宝くじが当たってくれれば不満は言わない。これは約束する。 それと勉造さんがおじゃまんが山田くんに出ていたような気がしてならん。
サウジアラビアに乾杯。
ほぼ一日寝てまる一日起きる二日でワンサイクル。 ポストかまとばあちゃん戴き。 倒錯中。 特に脳と胃。
途中電話で2回目を覚ましたが、予告通り今日は21時間くらい寝た。
友人とボーリングをしに行った。 もちろん地層研究の方じゃない。
三人で行って、ストライク祝儀とスペア祝儀を賭けてやることになった。 最初の2ゲームは普通にやって難なく二人に勝った。 僕を除いた二人は開始直後から「曲げるぜ曲げるぜ」と騒いでおり、 合間には機械の手みたいなプロテクターをつけたボーリングマニア軍団をじーっと見つめて、 皆「あいつきもい」と言いつつその動きを盗んでいた。 友人はひとゲームが終わるとすぐに「次のゲーム」ボタンを押し、掴めそうな感触を引き出そうと躍起になっていた。 まげまげまげまげ言っていた。
「マゲはリスクがでかいから祝儀それぞれ2倍にしようぜ」 という言い出しがあって、その時マゲはまだ亜流だったし、すぐ可決した。
僕ははっきり言ってあのグニャーと曲がる”曲げ”には興味がなかった。 最初から自分のボールには自分なりに程良い回転をかけていたからだ。 それはかすかに孤を描く程度だったが、ローリスクハイリターンで賭けてるこっちとしてはそれで十分だった。 でも2ゲーム以上になると飽きてきたのでちょっとずつ挑戦した。
がしかし、一人が妙に完成された孤を描くようになり、しかも実際ストライクを取れるようになって、場の流れは”マゲ一色”になり、マゲ以外は禁止になった。 その後は、最初にコツを掴んだ彼の一人勝ちだった。 ノリノリの彼は「次のゲーム」ボタンを押したがったので、結局5ゲームした。
今日のボーリングは当初、一緒にいた友達がひまだというから僕が提案したのだが、既に疲れていたので1〜2ゲームで終わらせるつもりだったのに。 一人勝ちの彼は当初いやいやついて来たのに。会員になると言っていた。
今日は24時間起きていた。
僕は雨の日が好きだ。
それは大方の予想に反して足し算より引き算の方を好む小学生のようなもので、 別に言わなくても言いのだが、周りが難しがっていることを難なくできることを得意に思うというものだ。 猫好きが不必要なほど猫好きなこともそれか?違うか?
この種の価値観を小学生時代と変わらず押しつけてくる人ほど困った人はなく、 勝手に自分一人で思っていれば問題ないのだが、自分は特別にその価値を認識し ているという意識がある人は隙あらば世間に主張する体制なので注意を払わねばならない。
隙があるので主張するが、いつの頃からか僕にとって雨の日は、 その雨音やしんみりと落ちついた雰囲気が好意的に感じられるのに、 だいたいの人は濡れることや湿気のせいで鬱陶しそうに過ごすのでさらに士気があがる。 車や家の中の暖かさと安静感はむしろ少し濡れた後の方がじんわりと鳥肌を立てて染みてくるものというのに。 そういうわけで雨の日の車の中とか、台風の日に家から見る外の風景はエンターテインメントとなっている。
僕は中学生の頃から授業中に眠くなって夢と現をさまよっている状態の、 寝たいのに寝られないはっきりしなさが大っ嫌いだったのだが、 大学の時何も言ってないのにその状態が大好きだとわざわざ主張してきた友達がいた。 しかも、寝たいのに寝られないはっきりしなさが最高だと言うのだ。 その時はハァ?と相手にしなかったが、次にその状態が訪れた時に、その友達が言っていたように感じることができるかなと能動的に試すと、ずっぽりはまった。 見事に、寝たいのに寝られないはっきりしなさが最高に感じた。 むしろ寝てしまわないよう努めるようになった。
物事の価値は定まってない。 それについて自分とは違う価値を知っている人と出会うことで、自分の価値観にも繋がることがある。 その悪い例は精神病とかバッドトリップとか新種の症候群とか。最悪だ。そんな価値示さなくていいよっくそが! 集え豊かな価値を持った天使達!頼む!
|