見つめる日々

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2004年05月28日(金) 
SYへ

仕事忙しいのに手紙をありがとう。いろいろ面倒かけちゃってごめんね。ほんと、嬉しい。
今、ちょうど、野沢尚の「呼人」という文庫本を読み終えたところです。
いろいろ考えるものがありました。
小説の中にSYという人物が登場するときは思わずどきっとしました。だって名前があなたと同じなんだもの。
でも、あなたとは全然違う人です。もちろん。
それで、読み終えたばかりで今自分が何を言いたいのか全然まとまってないのですが。
希望を感じる小説でした。
私は希望を持たなくちゃいけない、と思いました。
機会があったら、ちらりと読んでみてね。あなたの趣味に合うかどうか分からないけれど、一度読んでも損はないんじゃないかなぁ、と。それから同じ著者で「深紅」も。

うまく言えないんだけれど。
私と、父母との関係は、私が娘を授かり、なおかつ夫と別れ、否応なく自分が立たなくてはならなくなった頃から、きっと大きく変化していったんだと思う。
今思うのは、それまでの自分というのは、もしかしたらまったく自立できてなかったんじゃないか、と。そう思える。
私が自分で立つことで、世界と繋がり、世界とそして自分自身とを、受け容れようと腹をくくったことによって、父母との道筋というものが大きく変化した、というか。うまく言えないのだけれど。
たとえば、しばらく前から私、かなり調子悪くて、記憶ぶっ飛ぶなんて当たり前のようなところでおたおたしてたのね。そのために、私は過日父と話したことの内容をすっかり記憶から飛ばしてしまった。以前だったら、「ちょっと調子悪くて、記憶がすっ飛んでて、あのときお父さんと何を話したのか全然思い出せないの」なんて、父に言うことは、私にはとてもじゃないけどできなかった。それは、怖かったから。
父に叱られるに違いない、父にまた馬鹿にされるに違いない、どうせ聞いたって鼻であしらわれて答えなんてもらえないに違いない、だったら恥ずかしい思いした上に怖い思いまでして、わざわざ聞くなんてやめたほうがいい、怖い、怖い、父は怖い。逃げよう、って。そんな感じかな。
でも、今回は、ちょっと違ってて、私から彼に尋ねたの。「父さんごめん、私ちょっと調子悪くて、記憶が飛んでたりするんだよね。あの時父さんと話したこと、覚えてないんだ。悪いんだけど、もう一度教えてくれる? あの時何を話したのか?」
こんな台詞、自分が言うとは、数年前の自分じゃ考えもおよばなかった。それ以上に、あり得なかったと思う。
でも、昔のように尋ねた瞬間から父に馬鹿にされて怒られても、私は今、あの時何を話したのか教えて欲しいんだ、ということを、自分から父に伝えなくちゃいけない、と、今回は思った。そのことを伝えて、教えてもらわなくちゃいけない、もしそこで馬鹿にされて怒られて叱られて、結局何も答えてもらえないんだとしても、私は尋ねなくちゃ、って。それでね、尋ねてみたら、父、何て言ったと思う?
「そうか、分かった。あの時はな、こういう話しをしたんだ…」「仕事しすぎたりして疲れてるんじゃないか? ほどほどにしろよ」「その件も、今度週末うちに来たときに電話して手続きすればいいじゃないか、な?」
こんな返答が来るなんて、誰が信じられた? 信じられないよ。私の父が、私に向かって、こんなふうに返事を返すことがあり得るなんて。
私は心の中で、叫び出しそうだったよ。ちょっと待ってよ、って。
ちょっと待って、と思ったのは、どう受け容れたらいいのか、今の状況をどう受け容れたらいいのか、焦ったから。
でも、気づいたら、すんなり受け容れている自分がいた。「ありがとね、うん、無理しないようにするよ。じゃ、電話も週末かけようかな」
そして父が続けてこう言うの。「あんまり無理するなよ。あぁこは元気か?」

あの父と私とのかつてのあの、痛みを感じずにはいられなかった関係は、幻だったのか? 私の妄想だったのか?
一瞬そう思えるほど、私は父のこの反応に驚いた。驚かずにはいられなかった。じゃぁ何で私はずっと苦しんできたんだよ、私は苦しかったよ辛かったよ、しんどかったよ。お父さんお母さんと仲良くなりたくて、愛されたくて、でも全然父さん母さんの望み通りの人間にはなれなくて、いつだって私は家族の中で異端児で。だからしんどかったんだよ。
でも。
あぁ、もう違うんだ。
確かに、今、父さんと喧嘩することもある、母さんと喧嘩することもある、でも。
父母は、間違いなく、父母それぞれの形で、私を愛してる、ってことを、私は体で知っている。
それは、私が小さい頃から望んでいたような、理想の形からはかけ離れているかもしれないけれども、それでも、今、私は、この人たちから、この人たちなりの形で、愛されていたんだってことを、受け容れられる、って。

そう思った。

時間がかかったけどね。笑 そこに辿り着くまで。

これからだっていろんなことがあるんだろう。
なんでよって泣くしかできない、或いは泣くこともできないことだってたくさん
あるんだろう。でも、
自分は愛されて産まれてきた、愛されて今生きている、
それを、私は信じようと思うよ。
もしかしたらそれは錯覚かもしれない。私の幻想かもしれない。
それでもね。
信じようって、今は思うの。

あー、今思った。
「呼人」という本は、そういう意味でも、読んで損はないんじゃないかな、って。

そう、私とあぁこは、間違いなく、あなたを今このときも愛してる。
そして多分、私とあぁこは、あなたにに愛されている。

ねぇ、私たち、
あんな目に遭って、
あんなにずたぼろになって、もうこれでもかってほど心も体もすりきれて、
もうこれ以上歩いていくことなんてできない、何を信じればいいのかなんて分からないし、そもそも何も信じられない、信じるなんて行為自体もう失われた、自分は生ける屍だ、
そんなところまで堕ちて、どろどろになって、
それでも私たち、きっと、愛ってものを知ってるよ。
人を愛するってこと、愛されるってこと、知ってるんだよ。
愛して愛されるってことは、ちょっと怖いことだよね。
それを知ってしまったら、そのことに気づいてしまったら、その愛がいつか失われることが恐ろしくなって、前に進むことが怖くなって来る。
でも、
愛はなくならないんだよ。
続いていくんだよ。
一瞬なくなった、なくしたように思えても、なくならないんだ。
だって、
愛って、私たちの中に、存在してるから。

ね。

愛って、怖いものだと、私は思う。
でも、どうしようもなく人は、愛を求めるんだと思う。
そして、どうしようもなく誰かに、愛を与えてしまうんだと思う。
愛というものを持っているから、人間は、
恐怖や悲しみや怒りや憎しみってものを、心の中に育んだんじゃないのかな。
愛がなければ、恐怖や悲しみや怒りや憎しみ、もしかしたら、人は、感じなかったかもしれない。
愛は、憎しみや悲しみや恐怖を包み込み得るものではなくて、
愛という風呂敷そのものに、憎しみも悲しみも恐怖もすべて、ありとあらゆる感情が織り込まれているんじゃないのかな。
愛があるから、人は、人であり得るんじゃないのかな。

そして多分、私たちは、
とてつもなく、愛ってものを知ってると思う。
絶対に。

なんか、長くなっちゃった。笑
また会ったときに話そう。
その日を楽しみにしてます。

あ!
なんかあったら、すぐ連絡よこすんだよ。
SOSは、出せるうちに出すんだよ。
私もあぁこも、いつだって、ここから耳澄ましているから。

じゃ、今日はこのへんで。おやすみなさい。


遠藤みちる HOMEMAIL

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