2005年05月16日(月) |
最寄の駅に着いてから、少し休む。心の中で、今日の主治医とのやりとりを何となく思い返す。そういえば今日は帰りがけ注射されたんだっけか、思い出して左肩を触る。触ったからとて何があるわけでもないのだけれども。 私の腕を見た主治医が絶句する。そして、これ以上進むようなら入院せざるを得なくなる、でもあなたは下手に入院させられないのよ、入院したらきっともっと悪化してしまう、そのことを忘れないで、ここで踏ん張って、今が踏ん張りどころよ、と。確かそんなことを言っていた。A4の紙3枚に渡る私のメモを主治医がじっと読む。その間、隣からきんきんと響いて私に突き刺さって来る声に耐えかねて、耳を塞いでいてもいいかと主治医に尋ねる。いいよと言うのでウォークマンのヘッドフォンで耳を塞ぐ。 先生、何を食べたらいいの? 何も食べなくてもいいわ、水かお茶さえ飲んでおいてくれれば今はもう無理に何も食べなくていい。先生、血を見たくなるんだよね、もうどうしようもなく。…昔もそうだったわね、或る時期に逆戻りしてる。どうしようか、止めようとか思っても止まらないんですよ、もう。これ以上切ったらだめ、もうだめ、隙間がないでしょう? 分かってるんですけど、でも。あなたは入院しない方がいい、だから余計にこれ以上はだめ、分かる? 頭では分かりますけど、でも。何かあったらいつでも連絡してきてちょうだいね。はぁ。とにかく一週間、まずは生き延びて。はい、分かってます。死んだりはしない。来週もここで待ってるから。はい、分かってます。
帰り道、埋立地を少し大回りしてみることにする。自転車に乗るとまだふらふらするけれど、平日の昼間だ、道は別に混んでいるわけじゃない、多少ふらついたって歩行者にぶつかる心配もない、大丈夫。空き地だった場所に建物が新しく建てられていたり、更地になっていたり。この埋立地は何処までも変化し続ける。その真中にぽっかりと、緑の場所があった。柵で囲われて中に入ることはできないけれども、私の腰あたりまで伸びた草が地面中を覆い、さわさわわと揺れている。その合間合間に黄色に近い橙色の花が揺れている。思わず自転車を止めて、私はその様子に見入ってしまう。あぁなんて美しいんだろう。やさしい風景なんだろう。私が見つめている間もずっと、草は揺れている。ざわわ、ざわわ、ざわわ。そして花も揺れる。さわわ、さわわ、さわわ。みんな少し首を傾げ、斜めに傾きながら、笑っている。私は思わず深く深く深呼吸する。風が私の胸いっぱいに流れ込み、閉じた瞼を越して陽光の温みが感じられる。さっきまで私の体を覆っていた悪寒が嘘のように消えてゆく。あぁ、なんて気持ちがいいんだろう。 そして私はまた自転車にまたがる。ペダルを踏むと、風がざわめく。もっと遊ぼうよと誘われているような錯覚を覚える。 このG通りも、昔の名残がどんどん失われてゆく。先日はとうとうあの防具屋が崩された。崩される場面にちょうど居合わせた私は、ただ呆然と、その様子を見守ったのだった。街は、全体をこうぼんやりと捉えているときは、何も変わらないように見えるけれど、こうやって一箇所一箇所に立って眺めてみると、次から次に変化し続けていることを知らされる。それが寂しいのか嬉しいのか、私にはよくわからない。多分どちらかといえば寂しい。かといって、その変化を止める術など、私にあるわけがなく。ただこうやって、見送るだけなのだ、いつもいつも。 娘は明日からまたじじばばと共に旅に出る。旅といっても父の別荘に行くだけのことなのだけれども、まぁそれも旅には違いない。二泊分、私はひとりでこの部屋で過ごす。だから今夜は思いっきり、彼女の好きにさせてやりたい。そうそう、彼女は最近、ブラックジャックに思いきりはまっている。「ブラックジャック先生! 結婚して〜!」と言いながらテレビに抱きついてキスをする。娘よ、ブラックジャック先生の何処がいいんだい? 尋ねると、難しい手術もささってやっちゃうし、どんなことに対しても先生は逃げないから、と答えが帰って来た。五歳児の娘よ、君は時々そういう難しいことを言うから困る。どんなことに対しても先生は逃げない、か。なるほど。だからもうひとつ尋ねてみる。ねぇみうはお勉強したくないとかこれやりたくないって言うけど、そんなんじゃぁブラックジャック先生のお嫁さんにはなれないんじゃないの? すると、しばらくじっと考えていた娘がこう返事をよこした。大丈夫、未海は100円と10円と5円を持ってるから、ブラックジャック先生にそのお金あげればお嫁さんになれるの。…母、絶句。ますます難解な。あのさ、みう、結婚とか好きって気持ちはお金じゃ買えないんだよ? 分かってる? うん、分かってるよ。じゃぁみうがお金持っててもだめじゃん。そうでしょ? …でもいいの、大丈夫なの、先生はちゃんとみうを見つけてくれるのっ、結婚するのっ! …これ以上何を言っても無駄だと悟った母は、洗い物に専念することにする。娘よ、君のこのおじん趣味は、これはもう、私譲りなのか? それとこう、一筋縄ではいかないような相手ばかりを好きになるところも私譲りということか? こんなことならもっと単純な恋愛に飛び跳ねて青春を過ごしておけばよかったか。母はちょびっと反省しておりますよ。まぁ、もう遅いけど。 気がつけばもう、日差しは夕刻を知らせる色合いになっている。そういえば掃除機さえかけるのを忘れていた、主婦失格だな、と自分で自分に苦笑いする。まぁ明日すればいい。 テーブルの端っこでは、赤い薔薇がまだ咲いている。娘が私にプレゼントしてくれた薔薇の花。さぁ、今日も残りあと僅か。踏ん張っていこう。 |
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