2005年05月20日(金) 5/21 朝 |
私の中には、小さな小さな子供がいる。子供というべきなのか赤ん坊というべきなのかそこはとても微妙なのだけれども、でも、私の中にその子は在る。 そのことはずいぶん昔から気になっていた。ぐっさぐさに傷ついたその子がぱたんと床に倒れている場面や、部屋の隅で体を震わせて怯えている場面、そういった、痛いだろうな辛いんだろうなという場面で、彼女はよく私の世界に姿を現していた。 誰にでもそういうものはいるのだろうか。私には分からない。 昨日、その私の内奥に隠れている子供を見つけてくれた人がいた。その人が、その子の体中に刺さっているナイフを、まずは取り除かなくちゃと、丁寧に丁寧にその子に手を伸ばしてくれた。最初は拒否していた。私もその子も。だって、そういった闇の中でしか暮らしてこなかったから。外に導かれることは、或る意味で救いなのかもしれないけれども、それは、その世界が安全だと知るから救いになるのであって、その世界が安全でないかもしれないという強烈な不安感、私はもうここでいいのという諦観に似た感情、そういったものがぐるぐるぐるぐると私の体中で回っていた。 でも、何かのきっかけでふっと不安が姿を消し、大丈夫なんだよ、目を覚ましても大丈夫なんだよという声がした。 あまりにも辛くて苦しくて、何もかもが崩壊した世界にいたその子がゆっくりと目を開ける。その時あの子は最初に何を見ただろう。幾重にも地割れした大地か、土砂崩れに塞がれた細道か、それとも一輪の花だったのか。それは私には分からない。 親との葛藤も山ほどあった。犯罪被害にも遭った。それでもここまで生き延びて来た私の中の小さな子。この子が笑うところを私は見てみたい。笑ったり泣いたりだだをこねたりする姿を見てみたい。だってその子は私の分身だから。 未海と手を繋ぐようにその子とも手を繋いで、散歩でも何でも連れていってやりたい。ねぇ世界は闇だけじゃないのよ、光もあるのよ、その両方が紡ぎ合っているのが世界なのよ、と教えてあげたい。でも、いっぺんにそんなことが分かるわけもなく伝わるわけもなく。私はまず、彼女が私の手に手を伸ばしてくれることを、今は待つだけ。それがいつになるのか、誰にも分からないけれども。
未海は立て続けに実家に身を寄せている。このところ私の調子があまりに滅茶苦茶だからだ。ばぁば大好きっ子だから大丈夫だと思っていた。けれど、彼女が突然、電話で言う。「ママに会いたい、ママ、さみしい」。私は、もう声を失うほどのショックを受けた。あぁ未海が私を求めていてくれている、こんなどうしようもない母親なのに彼女はサミシイと私に伝えてくれる。電話越し、涙がぼろぼろ零れた。それに気づいたのか気づかなかったのか分からないが、未海が言う。「ママもさみしいの?」。だから答える。「うん、ママもみうがいなくてさみしい」。途端にぱっと明るくなる声。だから私は彼女に言ってみる。「ねぇみう、ママは今みうのすぐそばにはいないけれども、でもね、未海の心臓があるでしょう? 胸に手をあててごらん、どくんどくんってするところがあるでしょう? そこにね、ママはいるのよ。未海の中にママはちゃんといる。だから、さみしくなったら話しかけて。ママは必ずそこにいる。どんなときでも、未海の中にママは一緒にいるんだよ」。「じゃ、さみしくないね?」「うん、そうだね、さみしくないね」「そっかぁ、うん、分かった! じゃ、ばぁばにかわるね!」。そう言って彼女はスキップして居間へ行ったそうだ。翌日、翌々日、未海の様子を尋ねに実家に電話をする。すると「みうが胸に手をあててあれこれおしゃべりしてるわよ」と母が言う。「なんでそんなことしてるのって聴いたら、ママがここにいるから、ママにお話してるの、ですって」。母はそう言って笑った。私はそれを聞きながら、胸が何とも表現できない気持ちでいっぱいになった。ほんとは、ちょっとした思いつきで言った言葉だった。いや、確かに私はそう思っているけれども、それが五歳の子供にちゃんと伝わるなんて、期待のひとつもしていなかったのだ。なのに。彼女は毎晩毎朝、胸に手を当てて私に話しかけているという。これ以上嬉しいことなんて、あり得ないんじゃないかと思えるくらい、私の心の中は娘のことでいっぱいになった。そして心の中でもう一度言ってみる。みう、ママはどんなに離れていたってみうの中にいる、忘れないで、そしていつだってママは未海を愛してる。 リストカットはまだ思うようにコントロールできない。でもいつかまた止まるだろう。その日が明日なのか十年後なのか私にはわからないけれど、でも、いつか止まるだろう。それを信じて、一日一日を越えてゆけばいい。今までだって私はそうやって生き残ってきたのだから。 迷惑だと知りつつ、友人にSOSを出す。SOSを出したからとて何が解決するわけじゃぁない。自分で自分のそういった破壊衝動をコントロールできるようにならなきゃ、結局は何も変わらない。 一緒に生き残ろうよ、生き残らなきゃだめだよ、踏ん張ろうよ、ここまで生き延びてきたんだから最後まで生き残ろう、そしてじじばばになったら縁側でお茶をすするのよ、約束したじゃないっ。 友人たちはみなそれぞれの言葉で私を励ましてくれる。励ましてくれると今は書いたが、それを言われている最中はそんな悠長なこと思うことはできない。もう今すぐここからいなくなりたい、自分の存在を破壊したい。もう何もかもが狂って見える、お願い、私をここから解放して、お願いだからもう、もう充分でしょう、だから私を解放して。そう思ってる。だから友達が何を言ってくれても、頭の中で私は反論しているのだ。そんなこと分かってる、分かってるけどどうにもコントロールきかないから助けてほしいだけなのに、と。 そうやって一人床にぺたりと座り込み、衝動の強さにひどい疲労をおぼえながらぼおっとしていると、徐々に徐々に私の破壊衝動、破滅衝動が収まってゆく。それにつれ、私は友人の言葉を心の中で反芻する。頭の中でじゃない、心の中で。そして、自分に言い聞かす。生き残るんだ、私は最後まで生き延びるんだ、ここで自分を殺しちゃだめだ、死んじゃだめだ、と。 過去にさんざん見て来た。自殺する友人たちを。あの喪失感は、消そうと思ったって消えるものじゃぁない。何処までも何処までも生々しく私の記憶に残ってしまう。それと同じ思いを、自分の大切な友人たち、愛する娘たちに味合わせるのか? そんなこと、冗談でもしたくない。 だから私は、友達のくれた言葉を何度も反芻する。心の中で。生き延びよう、生き延びるんだ、生き残るんだ、そして最期は。最期は、思いきり笑って、思いきりの笑顔で、この世にさよならするんだ、と。
いい天気だ。午前四時に目が覚めて、それから折々に窓の外を眺めている。新緑の季節なのだな、冬の間は何も見られなかった場所にこんもりと緑を茂らせた樹々が聳えている。別に緑が多いわけじゃない、この街は。でも、こうやって窓から眺めれば、樹々を見渡すことができる。いつか、樹になって、大きな大きな樹になって、世界をじっと見つめてみたい。その時私はどんな樹になるのだろう。 窓の外、風がやわらかく通り過ぎてゆく。 |
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