見つめる日々

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2005年09月05日(月) 
 「先生、どうしても、どうしてもそうせずにはいられなくなるんです」
「…」
「他の事考えよう、そう思って一生懸命試みるんですが、気がつくとざくざく為してるんです」
「…」
「自分でももうやばいって思うんです、もうだめだ、これ以上はだめだって。この腕見れば、誰だってきっとそう思う、昔リストカットがやめられなかった時でも、こんな酷い状態の腕じゃなかった、わかってるんです、分かってるんですけど、でも、とめることができない」
「…」
「自分でももう、分からなくなってしまった。先生、この傷跡、もうとんでもなくでこぼこになってて、だから思うんです、だめだよって、でも」
「いい? これ以上切ってはだめよ」
「…」
「こんな酷い状態で切り続けたら、だめよ、もうだめよ、絶対」
「自分でも思うんです、絶対だめだって。でも」
「いい? だめよ、もうだめ、これ以上は」
「分かってるんですけど」
「…すぐにはどうこうできないかもしれない、でも少しずつでいいから、手首を切ってしまう時間を他のことに使って」
「…」
「いい?」
「でも先生、血がこうやって滴って、それが大きな水溜りを描くまで、赦せないんです」
「でもだめ、もうだめ」
「…」

 帰り道、徐々に徐々に雨粒が大きくなってゆく。時折私の肩を嬲るように吹き付ける風に、私の身体がぐらりと揺らぐ。そうやって私は身体をふらりふわりと揺らしながら歩を進める。
 分かっている。もう切る場所がないことくらい。さすがの私でも分かっている。でも、名状しがたいこの衝動を受け止められる場所は、もうこの左の腕以外に見当たらない。だから私は、どうしても左の腕に惹きつけられ、誘われてしまうのだ、そして左腕は、今夜も私の衝動を受け止めた結果、血だらけになる。
 これっぽっちの血じゃぁ人間死にゃあしないんだなと、そのことはリストカットをし始めて知った。よくテレビドラマや映画なんかで見かける手首を切っての自殺のシーン、あれは嘘っぱちなんだなと、自分が切ってみて初めて知った。現実はこんなもんさと、私の腕が私に淡々と教える。死へジャンプするのは、容易なようにみえて容易じゃぁないんだな、と。そして、簡単に死ぬことができないくらい、生命というものはしぶといということを、私に教える。
 体力ありあまってはしゃぐ娘をどうにかなだめて、眠りにつかせる。彼女を眠らせた後、私はようやく一呼吸深く深く息を吸う。そして気づけば。今夜も右手が好き勝手に左手へ伸びているのだった。
 一体何処まで続く。
 一体何処まで私を侵す。
 一体何処までいったら終わりが見えるのか。
 腕よ、教えて欲しい。何処までいったら終わりが見える。それを終わりだとどうやったら受け止められる。一体どう目を凝らしたら、真実が見える。
 そして私ははたと気づいて、自嘲するのだ。真実なんて問題になりゃしないのだ、いつだって事実が大事、事実が証明を施す、真実なんてこれっぽっちの価値もない。
 強姦の事実を葬った奴らは今日もしっかり生きている。一方私はこのざまだ。あのときまで私は、信じていたのだ。真実が何よりも大切なんだ、と。そう信じきっていた。でも、真実なんて実は何の価値ももたないものだということを、私は後で思い知らされることになる。強姦はやがて和姦になり、果ては恋人同士だったという証言まで現れて来たとき、私は知った。どんなに声を枯らして真実を叫んでみたって無駄なことなのだということを。世間は真実なんてこれっぽっちも問題にしちゃぁいなかったのだ、事実だけが重要なのだと、あのときの弁護士そして父の言葉を、私は今も忘れられない。そして。
 示談で済んだはずのところに社長から渡されたあの10万というお金。あれは一体何だったんだろうと私はいまだに考えふけってしまうことがある。あの10万という金は、一体どういう意味があったのだろう。会社側からすれば、和姦だった果ては恋人間の行為だったと声高に叫びそれを勝ち取ったわけだから、それでいいじゃないかと思うけれども、そうじゃなかった、社長がいきなりポケットから出した、そのお金が10万だった、お嬢様には申し訳ないことをしましたなんて一言零して。
 後になって事実を知らされたが、私はもう、その事実を受け止めることはできなかった。和姦なら和姦でいいじゃないか、和姦だと恋人同士の間の行為だったと嘘をふくなら、吹き通せばいいじゃないか、なのにあなたがたは私へと10万円という奇妙な金を渡してきた。これは一体どう受け止めればいいの?
 そして知った。私の命の価値は10万だったんだ、と。
 以来思い出す、家賃や光熱費を銀行に振り込んだりするとき、必ず思い出す、あぁ、私の価値はたかが10万だったんだ、と。今借りているこの部屋の家賃にさえ満たない額だったのだ、と。痛感させられるのだ。これが笑わずにいられようか。嘲笑するしかないじゃないか。
 そして私の左腕は血みどろになる。血を流しながら泣いて泣いて泣いて泣いて。
 もうじき娘が目を覚ますだろう。そのときにはにっこり笑って私は彼女を抱きしめるのだ。血みどろの腕は包帯でぐるぐる巻きにし、彼女に決して見えないようにと隠しながら抱きしめるのだ。ぎゅぅ、っと。


遠藤みちる HOMEMAIL

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