2005年12月04日(日) |
眠れぬまま時計ばかりが進んでゆく。気がつけば、レースのカーテンの向こう、空が徐々に白み始めており。私はしばし、それを眺めて過ごす。でも、実際は、私の脳内は激しく振動し、結論を導き出そうと必死になっている。相反する極に引き裂かれたまま、私は、そのどちらにも赤の他人のふりをして、ただじっと、その場にしゃがみこむ。 開け放した窓から滑り込んでくる風が、私の足元にじゃれつく。まだまだ凍えるような冷たさからは程遠く、ほんのり薄ら寒い程度の風。私は風の渦からそっと足を抜き上げ、一歩離れる。 ベランダ、娘と植えた後ひとりで植えた球根たちの芽が、少しずつだけれども出始めた。丸い団子のような葉をにょっこり出す者、髭のようにちょろりんと葉を伸ばし出す者、かと思えば、薄いベニヤ板のように硬い硬い芽を、土の間からほんのこれっぽっち出してじっとしている者。皆が皆、姿が異なる。もともとは同じ種類のものであっても、同じように葉を広げるわけではない。中には、芽を出さぬまま土の中で腐り消えてゆく者だって在る。 この小さなプランターをこうしてじっと見つめるたび、私は思う。或る意味、まるで人間世界の縮図のようだ、と。誰よりも強く伸びる為に右を追い越し左を追い越し、そうして葉を大きく広げ、他の者がその葉の影になってしまおうと何だろうと構わず己が道を突き進む者、追いやられ追いやられた挙句斜めに枝を伸ばしプランターの端から葉を垂らし、そこから必死に陽光を吸い込もうとする者。そして、私が時折プランターの向きを変えると、この強者弱者の構図がひっくり返ったりする。誰よりも先に、変化させられた環境に馴染みそれを享受する者が、結局、しかと生き残ってゆく。 私は、殆どの場合、間引きをしない。やさしい心を持つなら間引いてやって、それぞれがみな、満足のゆくように育つよう、手をかけてやるべきなんだと思う。が、私はそれをしない。だから、この強者弱者の構図が露わにプランターの中に現れる。そして私はその構図を、じっと見つめている。 この小さなプランターという世界、確かに人間世界に似ている。しかし、唯一、絶対的に違うものがある。それは、彼らは決して諦めない、ということだ。 どんなに影にされようと、彼らは芽を伸ばす、枝を伸ばす。それがどんなに弱々しい葉であろうと、彼らは陽光の降り注ぐ方へと葉を必死に伸ばし、自ら何とかしようと身体をよじる。この、諦めない、という彼らの生へのエネルギーに、私はいつも、圧倒される。プランターの中なんて、サイズを図ったらたかが知れた面積だ。でもその僅かな場所の中で繰り広げられる彼らの生への営みは、その執着は、それを見つめる私に繰り返すのだ、諦めるな、何処までも諦めるな、我らはどんな小さな花であっても咲かせよう、そして子孫を残し、我らの命を次に繋ぐ、と。彼らの歌は淡々としていながら、同時に、果てしなく、強い。 どのくらいそうしてしゃがみこんでいたのだろう。足が痺れてきたので、私はようやく立ち上がる。そして、ベランダの柵に手を置き、世界を見やる。バス停でバスを待つ者、腰を曲げてカートを引き買い物にゆくのだろう人、補助輪を外したばかりなのだろう自転車をぐらぐら揺らしながら賢明に漕いでゆく子供。そして空は何処までも晴れ上がり。誰の上にも降り注ぐ。
前日、届いた知らせを確かめるため、私は県警の性犯罪被害相談室に電話をかける。そして尋ねてみる。性犯罪に時効がなくなったと耳にしたのですが、それは本当ですか。相談員がしばしの沈黙の後応えてくれる。それはありません、時効がなくなるということはあり得ません、どんな犯罪にも時効はあります、ただ、告訴の期間が無期限になった、と、そうういうことです。 そうですか、ありがとうございました、と言って私は電話を切る。切った後も、しばし、受話器を握ったまま、私は電話の脇に立ち尽くす。 そして、この知らせを届けてくれた友人に、このことを伝えるべきなのかそれとも黙っているべきなのか、ずいぶん迷う。性犯罪に時効がなくなった、というそのことは、恐らく、性犯罪被害者にとってとてもとても重要な事柄だろう、しかし、時効がなくなった、のではなく、告訴の期間に制限がなくなった、というのが真相らしいよ、と、一体私からどう話したらいいのだろう。私は途方にくれる。 私はいったん電話のそばを離れる。そして、頭を冷やすために外に出る。とりあえず、腕の傷を治してもらっている病院に行き、消毒をしてもらい、包帯を巻きなおしてもらう。まだまだ治ってないんだからね、来週の月曜日もまた来なさいよ、先生の声に頭を下げて病院を出る。そして私は、ふと思い立って、埋立地の方まで歩いてみる。 埋立地へ近づくほどに風は強くなり、私の髪の毛はびゅるびゅると煽られる。仕方なく腕にはめておいたゴムで髪を縛り、私はそのまま歩き続ける。 歩き続ける私の脳裏は、いつの間にか激しく動き出し、いつ破裂してもおかしくないほどフラッシュバックに覆われる。私は埋立地に向かって歩いているはずなのに、いつの間にか、私の目は、埋立地のいつもの光景ではなくまるでブラックホールのような様相を写し始める。そのブラックホールの、奥へ向かって私は、歩き続けている。奥へ、奥へ、と。加害者の顔、あの時の衝撃、ぼろぼろになったストッキング、幾つもの擦り傷を作った足先、数日後に浮かび上がってきた両の太ももの大きな痣、そして何処までもついてくるあのいやな匂い、圧し掛かってくる人間の重み、すべてがあっという間で、すべてが幻のようで、それでいて、すべてが現実だった。それからの毎日は、針のむしろだった。出来事を知った人間たちの、心無い噂話、同時に、何処までも向けられる同情と好奇の目線、押し付けられてゆくレッテル。もうだめだとそこから逃げ出しても何処までもついてくる、全くの赤の他人が自分の脇に立った、それだけで悲鳴を上げる私の全神経、確実に崩れ出す日常、挙げ始めたらきりがない。そういったありとあらゆる映像が、私の脳裏を走馬灯のようにぐるぐると回る。万華鏡のように模様を変え形を変え、それでも追いかけてくる。 呼吸が苦しくなり、胸元を押さえながら、交差点に見つけた珈琲屋に入る。寒いからなのか誰もいないベランダ席に私は逃げ込み、椅子に座り込む。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、と、波打つ呼吸を少しずつ整え、私はようやく一息つく。 少しずつ周囲の景色を見る余裕ができてきた私は、辺りをぼんやりと見やる。ここまだ開発途中の埋立地の中でも最も端っこゆえ、空き地の方がずっと多い。その所々にクレーン車がじっと置きっぱなしにされており、それを動かそうとする人影もまだ何処にも見えない。遠く車の行き交う音がなければ、まるで世界は止まっているかのように見えた。それを見つめる私も含めて。 そして、改めて思い返す。性犯罪の時効が果たしてなくなることがあったとて、もちろん告訴の期間が無期限になったとて、もう今更、私には、それらは何の意味ももたないのだ、ということを。 私は負けたのだ。裁判に負けた。証言を頼んだ友人たちの中には、その当日になって証言を翻す人もあった、加害者たちの中には、個人対個人では頭を下げていたくせに、いきなり自分に落ち度はなく、むしろ彼女の方に落ち度があり、これらの出来事は全て彼女の責任だと言い募る人もあった。結局、会社側が勝ち、私は負けた。そして何故か、その会社の社長のポケットマネーからだという十万円が、私の父に渡された。裁判に買った者が裁判に負けた者によこしたその十万円というのは、一体何だったんだろう。いまだに私には理解できない。 そうやって、一度出てしまった結果を、今更もうどうやったって、覆すことはできないのだ。時効がいくら伸びようと、告訴期間がいくら無期限になろうと。私の状況は、何一つ、変わることは、ない。 そのことを、自分で自分に声を出して言い切ったとき、ぽろりと涙が零れた。涙はしばらく止まってくれなくて、ぼろぼろと私の頬を零れた。鼻がつまり、少し息苦しくて、それでも涙はしばらく止まってくれなかった。でも、私の目は、見開かれたままだった。 遠くに小さく見える海の欠片。漣さえここからでは感じることはできないけれど、それでも、そこに小さな海の欠片があった。だから私はひたすら見つめた。その小さな小さな、手のひらの中に納まってしまうほどの小さな海の欠片を。 やがて涙は止まる。私は鞄に入れておいたハンドタオルで頬を拭う。今、私ができることはひとつ。私は左腕に巻いた腕時計で時間を確かめ、足早に駅へ向かう。 私は電車に乗り、書簡集へ。扉を潜りマスターに挨拶をして横を見ると、こちらをやさしい眼差しで見つめていてくれる人がいた。あぁこの人だな、と思った。はじめまして、と挨拶をする。いつも私の写真を見に来てくれる人の一人で、今日初めて、ようやくお顔を拝見することが叶った。その方は口数の少ない方のようで、だから私は逆に、あれやこれや思いつくままひっきりなしに喋った。沈黙するのは申し訳ないような気がして。店の中には珈琲の香りがほんのりと漂い、時間もまったりと過ぎてゆく。 最後にありがとうとまたぜひお会いしましょうと声を掛け合い、その方を見送る。残った私はもうしばらく店でぼんやりと時間を過ごし、また来週来ますねぇとマスターに告げて帰路につく。 店を出、家へと向かいながら、私は思う。ほら、大丈夫。こんな状況になったって私は笑っていられる。そりゃぁ多少引きつった笑顔かもしれないけど、それでも笑っていられる。それだけの耐性は、この私にもできたはず。 だから私はひとつ、決めていた。加害者に会おう、ということを。加害者の全てに会うことは不可能だ、ならせめて、直接的な加害者であるあの一人の人間に会おう。 それがいいのか悪いのか、分からない。でも、もう私は決めた。このまま生きてゆくのは、あまりに重過ぎる。この十数年、私は必死に生きてきた。これからだって生きていきたい。でもそのためには、今のこの荷物のままじゃ、重すぎる。 もちろん。会ったことによって、余計に荷物が重くなるのかもしれない。そういう可能性だってある。けれど。 このまま終わらせられるなんて、いやだ。このまま終わらせられて黙っているなんて、もうできない。だから私は、会いにゆく。
そのための手筈を、今、少しずつ整えている。こういうときに限って、誰よりも信頼し頼りにしている主治医がいないことは大きい。が、仕方がない。私の頭の中が、心の中が、加害者とあの事件のことに支配されてゆく。その時。 「ママ!」 娘の声がする。はっとして彼女を振り返ると、彼女が大きな笑顔で私に言う。ほら、ママ、出来たよ、首飾りできた! 先日私が買ってやったのだ、大きな玉のビーズ一式を。ねぇママ、だからここ、結んで、みう、この首飾りしたい! だから私は洗物の手を止めて、はいはいと返事をしながら彼女の横にいく。ここはね、こうしてこうして、こうやって止めるんだよ。説明しながら彼女の目の前で結んでやる。んー、分かった、でも、難しいからこれはママがやってね、ははは、そうね、しばらくはママがやろうかね、うん、やってね! みう、次腕輪作る! えー、もう次の作るの?! うん、作る! それが夕方だろうと夜中だろうと、彼女は私の太陽だ。彼女の笑顔は私のエネルギーだ。そう、大丈夫、私はやっていける。まだまだやっていける。しぶとく逞しく、何処までも生きていける。 |
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