2006年01月26日(木) |
吹きすさぶ寒風がふいに止んだ水曜日。空は一面晴れ渡り、穏やかな日和。水仙の球根がひとつ、蕾をつけた。もうだいぶ膨らんできている。薄い皮から透けて見える蕾の数を数えると、今のところ五つ。次はいつ新しい蕾の姿が現れるのだろう。今日かな、明日かな、と、このところ気になり続けて、毎日プランターを覗き込んでいる。 遅めに植えたアネモネや花韮は、遅かったということを実に正直に体現する、そんな姿で土にはいつくばっている。一応芽を出してくれただけよかったか、と、自分を慰めてみるものの、やっぱりもったいなかったなと後悔しきり。その隣で、最初に植えられたラナンキュラスやアネモネが、ぐいぐい葉を伸ばし、でろんと葉を垂らし、思い思いの姿で日差しに揺れている。人間みたいだ、と思う。早生まれ、遅生まれ、同じ学年になっても生まれた月日が如術に現れる、幼い頃。うちの娘は、と部屋を振り返れば、彼女は二月生まれにも関わらず、かなりご立派な体格。これは例外なんだろうか、それともどっちが? 心の中でちょっと苦笑しながら、一心に友達に手紙を書く彼女の項を眺める。後れ毛がふわふわと揺れて、それはまるでたんぽぽの綿毛のようで。或いは、春一番に芽吹く柔らかい柔らかい最初の芽のようで。多分今年の春、彼女はますますその色合いを濃くしながら入学式を迎えるのだろう。先日買ったランドセルは、今はじぃじとばぁばの家にしまってある。その日が来たら、ということで、大事にしまわれたそのランドセルのことを、彼女はしばらく自慢し続けていた。背中にぴったりくっついてね、ぴょんぴょんはねてもずれないんだから、気持ちいいんだよ。実際に跳ねながら私にそう報告する彼女のほっぺたが、思わず手を伸ばしたくなるほどぷっくらもちもちしていたことを思い出す。そうやってあっという間に親の手を離れていこうとするのだな、子供というものは、と、ふと寂しくなって、思い切り彼女の頭をぐりぐり撫でたのだった。もしかしたら、私にも親との間でこんなひと時があったのだろうか。私には全く記憶はないけれども。見えない昔、思い出せない昔の時間に、ふと、思いを馳せる。 久しぶりにあの公園のお池に行ってみると、すっかり池は凍っていた。そばに落ちていた枝でかんかんと氷を叩いてみる。結構力を込めて叩いたり突いたりしてみるのに割れない。そんなに厚い氷なのかしら、と、ちょっと地面に耳をくっつけて様子を見る。そんなに厚そうには見えないのだけれども。私はもうしばらく、かん、かん、と飽きずに氷を叩いて過ごす。私の鳴らす氷の音と、烏や雀の囀声とが、絡み合って空に高く飛んでゆく。 痛くて痛くて、自分の唾や水の一滴だって飲むことが苦しくなった自分の喉をさすりながら、内科へ、そして耳鼻咽喉科へ。そこで、吃驚仰天する。 耳鼻咽喉科で撮った自分のレントゲン写真。ちょっと中心がずれたような頭蓋骨の、先生が言うところの鼻の器と思われる場所全てが、薄白く、埋まっているのだ。正常な場合の頭蓋骨のレントゲン写真と私のものとが並ぶとそれは一目瞭然で、笑ってしまうほど。「これじゃぁ呼吸はとても楽にはできない、もはや労働になってますよ」、院長先生が私の顔をまじまじと見つめる。よくここまで放置しましたねという味が含まれたような視線を受けながら、私は、はぁ、とひとつ返事をする。「睡眠薬を心療内科からいくら出されていても、これじゃぁ眠りが浅いわけですよ。眠るとき人間は鼻で呼吸をしようとするのですから、その鼻の空気の通り道が、こんな、米粒ほどしかなくなってしまっていたら、どうなりますか、呼吸できませんよね、いくら薬を飲んで眠ろうとしても、呼吸をするために身体は起きようとする。あなたがこの問診表でお答えになられている通り、薬の効果はこれじゃぁちっとも出ないで、ちっとも眠れないでしょう、当然ですよ」。私はもうひとつ、はぁ、と返事をする。院長先生が、何枚かのレントゲンや聴力検査の表を並べて私に事細かに説明してくれることを、私は、一言も漏らすまいと神経を尖らせ、ただひたすら、はぁ、と返事を繰り返した。頭の中で、いろんなことがぐるぐる回っていた。 帰り道。歩きながら、医者から言われた言葉をひとつひとつ思い出す。聴力検査表の折れ線は、限界線辺りに引かれていた。もう少し放置したら、聴力にも異常をきたすところだったのかと思うと、ため息が出る。私はさんざんピアノをやってきた、そのとき、この聴力は自慢だったのだ、一度聞けばたいがいの旋律を再現できる耳、楽譜におこすことができる耳、だのに。「長い時間をかけて慢性の炎症が起こっているんです。一年や二年じゃぁないですよ、それは」。医者が説明していたその言葉が蘇る。そして私は指を折って数える。私がピアノから離れた年頃。何となく鼓膜に違和感を感じるようになった最初の頃の年頃。それはまるで、流れる水のように繫がっていて、私は呆然とする。また、学生の頃声楽をやっていた自分の声の幅が、妙に歪んできた年頃。それもまた、その流れの中に見事に組み込まれている。そして、拒食や過食嘔吐を繰り返すしかなかった時期も。全ては、あの事件を境に暴発し出したのだった。そのツケがもしかしてこの炎症なのか。 いや、でも。そんなの錯覚かもしれない。偶然かもしれない。そう、単なる偶然かもしれない。が。だとしたらそれは、なんて絶妙な偶然だったんだろう。 医者が言った「十年くらいは患ってきていたと思われますね」という言葉と、あと数日でやってくる十二年目のあの日が、私の中で重なる。もしこの想像が当たっているとしたら。PTSDとはなんて怖い病なんだろう。 以前にも触れたことがあるが、歯が格段に悪くなり出したのもあの事件から数年後辺りからだった。常に緊張を強いられる私の身体が、その反応のひとつとして歯軋りとなり、それは、虫歯になっていない健康な歯の根を軋ませ膿ますものになった。同じ被害に遭った友人たちもみな、歯には困ったとよくぼやいていた。 「この問診表で、ほら、あなたが、歩いていてよく眩暈がするとか、喉や耳に違和感を覚えるとか、よく頭痛になるというところで答えているでしょう? これは、精神的なものや他にもいろいろ原因は考えられると思いますけれども、でもね、この慢性的な炎症も原因の一つだったかもしれないと考えられるんですよ」。再び脳裏に浮かびくる先ほどの医者の言葉。私はそれを口の中で繰り返しながら、ふと空を見上げる。眩しくてまともに目を開けていられない。乱反射する白い空。何だか、訳もなくおかしくなってきて、私はぷっと吹き出してしまう。 心が悲鳴を上げれば、身体も悲鳴を上げるんだ。身体が病めば、心も病むんだ。どちらも繫がっていて、決して単体では存在し得ない。それが人間という代物なんだ。 そんな、しごく当たり前のことに突き当たって、私は笑ってしまう。そうだった、何も不思議なことなんかない、当たり前のことなんだろう、きっと。ただ人はたいがい、或る時は自分の心の音色を、或る時は自分の身体の悲鳴を、聞き逃してしまうから、こうやって、どうしようもなくなってからしか気づけないんだ。 そんなことをつらつら考えながら仕事をしていたら、窓の外が白み始めていた。身体や心の音に気を配れと自分に言ったのはいつだったか、つい前夜のことじゃぁなかったのか。思いつつ、立ち上がり、大きく一つ伸びをする。母子家庭も楽じゃぁない。なぁんて、とりあえず、自分に言い訳してみる。身体も心も酷使しつつバランスを何とかとって生活していく、そういうものなんだろう。 まずは私の場合、自転車に乗る力を呼び戻すところから始めなくちゃいけないらしい。抗生物質の効き目もあって痛みが抜け出した身体で、いつものように娘を後ろに乗せ自転車を漕ぎ始めたら、途端に眩暈。慌ててブレーキ。だめだこりゃ。母よ、しっかりせねば。見上げれば今日も、青白い空。 |
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