2007年10月05日(金) |
今日は遠藤みちるとしてというよりも、にのみやさをりとして、写真展のことについて少し触れたい。会場にも置く予定にはしているものの、果たして読んでくださる機会があるかどうか分からないので、ここでその文章に触れたい。読んでいただけたら、とても嬉しい。
はじめに
以前から思っていたことがある。心に大きな大きな傷を負った人たちと共同作業がしたいという想いだ。 最初、それは、私自身が犯罪被害者だから沸いた気持ちだったのかもしれない。でも、いつしかそんな個人的な想いを越えて、彼らと向き合いたいという想いが強烈に膨らんでいった。そして、思い切って声をかけたとき、集まってくれたのが、今回写真に写っている人たちだ。まず何より先に、彼女たちに、集まってくれてありがとう、と伝えたい。
犯罪被害者である彼女たちにカメラの前に立ってもらい、私がそれを追いかける。犯罪被害者同士の共同作業は、そうした形で実現された。まだ寒い四月の浜辺、ぶっつけ本番で撮影は始まった。 黒い服と白い服、それぞれを用意して欲しいと言ったのは私だ。彼女たちの中に巣食うどうしようもない痛みと、同時に、彼女たちの中に秘められたとてつもなく強く輝く希望とを撮りたい、そう思ったとき、黒い服と白い服とが浮かんだからだ。 何度も波に呑まれそうになった。 何度も波の中で転びかけた。 それでも私がカメラを手放さずにいられたのは、彼女たちのおかげだ。 彼女たちは、初対面の私の前にも関わらず、思い切り自分を曝け出してくれた。だからこそ、私は、その力強さに支えられ、最後まで撮影することができた。 ただ、これは後で痛感したことだが、大勢相手の撮影は非常に難しかった。しかも全ての人が初対面。さらにその全員が、計り知れないほど深い深い心の傷を抱えている。彼女たちの傷を抉ることなく曝け出してもらい、なおかつそれを一枚の画に留めるという作業。これほど難しい撮影はこれまでなかった。 後日、幾枚かのプリントを参加者全員に送った。その時返って来た言葉たちを、私は恐らく一生涯、忘れることはないだろう。その中の一つ、共通の一つがこんな言葉だ。 「信じられない、私、笑ってる。まだこんな顔をすることができたんだね」 笑うことなど一切できなくなった日々、ぴくりと動くことさえ叶わなかった日々があった。人を信じるなんてとんでもない、できるならこの世から自分を抹殺したいと願うしかできなかった日々もあった。それでも。 彼女たちは間違いなくあの時、笑っていた。 彼女たちは間違いなくあの日、泣いていた。 そして彼女らは自然に、隣にいる誰かの肩を、強く抱きしめてもいたのだった。 そんな彼女たちの物語の一断面が、この写真の中に、在る。 彼女たちの中には、今もなお、負わされた傷に倒れこみ、泣くことさえ叶わないままじっと立ち尽くしている人もいる。今まさに闘いの最中だという人もいる。 そんな彼女たちのおかげで、今回の展覧会が実現した。前期と後期、あわせて一つの物語だ。だから、できるなら、前期と後期、合わせて、ご覧になっていただけたら、と願っている。
最後に。 私たちが人間であるかぎり、犯罪がなくなることはないだろう。それがどんな小さい犯罪でも、人間は繰り返してゆく。人間が人間であるかぎり、それはもう、どうしようもなく仕方のないことなのかもしれない。 が。 犯罪には、加害者がいれば当然、被害者もいる。その被害者にとって、時効など存在しない。加害者にそれはあれども、被害者に時効は存在しないのだ。 そのことを、決して忘れないで欲しい。 また、もしかしたら明日にでも、あなたは被害者になるかもしれない。或いは加害者になるかもしれない。決して他人事ではないのだということも、覚えていて欲しい。 そして、もしも被害者になってしまったとき。 どんなにそれが深い心の傷であっても、笑うことを失わないで。泣くことを、怒ることを、喜ぶことを忘れないで。 生き証人が、ここに在る。 どんなに深く傷ついても、ずたぼろになっても、生きてゆく、そのことこそ、人間の為せる術なのだということを。どうか、忘れないでほしい。 二〇〇七年十月某日にのみやさをり 記 |
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