見つめる日々

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2009年09月29日(火) 
いつもの時間だと思い、起き上がり、明かりをつける。なんだか空気が濡れている、と思ったら、外は雨。時計を見ると、いつもの時間だと云うのは私の勝手な勘違いで、一時間以上早い時刻。どうりで外はまだ夜なわけだ、と納得する。ここでもう一度寝るか、それともこのまま起きているか、一瞬迷い、結局起きていることにする。
顔を洗い、化粧水をはたき、ベランダに出て髪を梳く。いつもの動作なのだけれども、最近の乾いた軽い空気が一気に雨粒の分だけ重くなったよう。しっとりと肌にまとわりついてくる空気。こんな日は、体に熱がこもる。重たい空気に遮られて、放熱できないかのように体の内側に熱がこもる。肩甲骨あたりに特にたまった熱が、私の頭をふらふらさせる。
昨日洗い残したコップやスプーンを洗い、脱ぎ散らかされた娘の服をたたみ、床を箒で掃いて回る。からがらら、がらららら。いつもの回し車の音がする。この勢いはココアだろう。見やればやはりココアが回り、ミルクは餌箱の中。ねぇミルク、君も回し車やったら? もう完全にメタボだよ、ねぇねぇ。私はしゃがみこんでミルクに話しかける。ミルクは一向に構わないといったふうに餌をがしがし食べている。
雨ながらも少しずつ明るくなってきた雲の下、私は薔薇を見やる。病葉がないかを、じっと見つめる。一度罹ると一気に増える。新芽のあちこちに白い粉が噴いているのを見つける。私は全て、容赦なく切り落とす。かわいいかわいい新芽でも、今は容赦なく切り落とす。
そんな病葉の間、白い蕾は付け根をぱんぱんに膨らまし、今にも弾けそうだ。綻びだした先の花びらの先端への曲線が、実に美しい。こんな形、よく思いついたものだと思う。
そうしている間もしとしと、雨は降る。

病院、カウンセリングの日。電車に運ばれてゆく中で、徐々に体が重たくなっていくのがわかる。周りを見れば、殆どの人たちが携帯を覗き込んでいる。一種異様な世界。右耳のところがさっきから痙攣を起こしている。私は頓服を口に放り込む。もう一度周りを見やる。みな手元の携帯を見つめている。女性専用車両。込み合った電車の中は、人の数と携帯の数がまるで同じだけ在るかのよう。なんだか目の前がくらくらしてくる。
そうして着いた病院。名前を呼ばれ、椅子に座った途端、頭ががくんと前に倒れてしまう。机にごつんとぶつかって、頭を上げようとするのだけれど、それが全く上がらない。「すみません、起き上がれません」「大丈夫ですか?」「はぁ、だいぶ疲れてるみたいです」「そうみたいですね」。
家族のこと、運動会のことなど聞かれるまま話しているうちに時間になる。立ち上がろうとするのだがうまく立ち上がれない。おかしいな、私はこんなに疲れていたのだったっけ、と、自問する。自分の身体と気持がばらばらに動いているかのようだ。壁を伝って受付に戻り、診察券を受け取る。そしてまた、この病院の扉が私には重たい。全体重を扉に乗せ掛けないと、うまく開けられない。
とにかく一度休もう。そう思い、階段で座り込む。どっと汗が噴き出してくる。固いコンクリートに腰を下ろしているはずなのに、そこからさらにずぶずぶと体が沈んでゆくような錯覚を覚える。
運動会、弟のこと、仕事のこと、その他諸々、ここのところ張りつめていたものが一挙に緩んでしまったかのようだ。怒涛のように疲労が流れになって私を呑み込もうとしている。右耳の痙攣は、鼓膜にまで広がり、聞こえる音が歪んでくる。ずぶずぶずぶ、ずぼずぼずぼ。どこまで沈んだら、私の身体は止まるだろう。泥沼に下半身をまきとられたかのような感覚が下から下から這い上がってくる。そのまま口まで埋まって窒息させられてしまいそうな、そんな気配を感じる。そして私はそれを、自分のことなのに傍観している。そんな構図が脳裏に浮かぶ。そういう自分がまた、さらに自分を見つめている。

徐々にそんな錯覚から覚めて、はっと気づく。時間は。慌てて電車に飛び乗る。急がなければ。友人が待っている。
髪の毛を少し切った友人が、いつもの席に座っている。ここで彼女と会うのはどのくらいぶりだろう。なんだかそれだけで私は嬉しくなる。また一回り彼女は痩せたんだろうか。短いスカートをはいた彼女は、とても秋らしい姿で私を迎えてくれる。
何を話す、というわけでもない。とりとめもなくあれやこれや話をする。思いついたことを思いついたままに話せること、そういう相手と時間を共有することは、とても幸せなことだなと思う。珈琲やお茶を何杯飲んだだろう。気づいたら二人ともすっかり話し疲れてしまっていた。気をつけて、そう言い合いながら別れる。
その直後、電話が入る。父からの電話。じっと聴く。聴けば聴くほどまた、ずぶずぶと泥沼にはまっていくような錯覚を覚える。これは錯覚、現実じゃぁない、そう思うのに、どんどん体が沈んでゆく。
即答したいけれど即答はできない自分がいる。これは即答できるような事柄じゃないことも分かっている。いくら気持が即答できたらと思っても、即答できるような事柄じゃぁない。
自分がしたいこと、自分ができること、自分にはできないこと、それらを瞬時に判断することはとても難しいことだということを、改めて実感する。

明太子味のおにぎりを頬張りながら、娘が昨日の夢の話をしてくれる。「手袋がいっぱいあって、それが全部解けて、ぐちゃぐちゃの糸になって絡まってきて、そしたらママが助けてくれるの」。
手袋がいっぱい。ぐちゃぐちゃの糸。
娘の言葉が私の中で弾けた。弾け、細かい粒になって、霧のように私の内奥に霧散していった。何だろう、何だろう、とても気になる。
ねぇ、その手袋はどんなのだった? 白いのだよ。糸はどうなっていくの? 最後ね、一本の糸になっていくの。ママが助けたら、糸はどうなるの? 糸はね、ミルクががちがち千切って巣の中に運んじゃった。
そこまで聞いて笑ってしまった。そうか、糸は最後ミルクが片付けてくれるのか。でも。
何故だろう、私の中で粉々になった言葉は、まだ木霊している。手袋がいっぱい、ぐちゃぐちゃの糸。
なんだかそれはまるで、今の状況を指し示しているようで。

玄関を出る頃、雨は止んでいた。私はちょうどやってきたバスに飛び乗る。娘が手を振って見送ってくれる。娘は学校へ。私は病院へ。
少し早く着いた病院の前で父に電話をする。そして昨日のうちに調べたことを告げる。少しでも父と弟たちの役に立てばいいけれども。
雨はとりあえず止んだ。見上げる空は一面灰色。それでも雨は止んだんだ。この雲の向こうには、青い青い空が広がっているはず。今も。
さぁ、今日も一日が始まる。大切な、唯一無二の一日が。


遠藤みちる HOMEMAIL

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