見つめる日々

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2009年10月13日(火) 
娘の腕が飛んできて目が覚める。痛い、重い。思わず跳ねのけそうになり、寸ででとどまる。布団をすっかり剥いで、パンツ丸出しにして眠っている。彼女の腕をそっと適当な位置に戻し、私は起き上がる。午前四時五十分。まだ外は暗い。
見上げた空には一面雲がかかっている。大きなでこぼこの雲だ。東から光が伸びてくる気配さえも覆っている。窓を開けてベランダに出ると、ぶるりと肌が震える。肌を粟立たせながら私は髪を梳く。抜け落ちる髪をティッシュに包んで、ゴミ箱に捨てる。私はよく真っ直ぐな髪の毛だねと言われるが、実はそうじゃない、癖毛だ。細かい小さい癖がうねうねと髪の毛全体に広がっている。長く伸ばしているからその重みで癖が目立たないだけの話。結構これがコンプレックスだったりする。月経が始まる前、私の髪もまだ娘のように真っ直ぐでさらさらだった。でも月経を向かえて気づけば、うねる髪になっていた。子供を産むには遠い年齢だったその頃、どれほど月経を恨んだことか知れない。体のいたるところに変化が起きた。それに自分の目がついていけなかった。でっぱった胸、突き出た尻、子持ちししゃものような脹脛、誰かのウエストくらいありそうな太もも、うねる髪、鋭い目つき、どれをとってもコンプレックスだった。
自分の身体にだいぶなじんで来たのはいつ頃だったろう。確か、娘を産んだ後だ。それまで張り詰めてたコンプレックスという糸が、いきなり緩んだ。コンプレックスなどに構っている暇もないほど、子育てにてんやわんやだった。気づいたら、皺も染みも白髪も適当にある姿になっており、私はそれを受け入れた。とはいっても、できるなら美しくありたいという気持ちが全くなくなったわけではなく。まぁ要するに、適度な諦めと、適度な憧れとがごちゃまぜになったような状態が、今の自分なのかもしれない。

ママ、ほら、見て! 娘が大仰に叫ぶ。近寄ると、前足をあげて立つミルクとココア。最近ね、私が近づくと、二人ともこうやって待ってるんだよ。へぇぇ。私は思わず覗き込む。確かに、近づいた私などお構いなしに、ふたりとも娘を一心に見つめている。たまりかねたミルクが、籠の入り口に取り付き、出してくれ、といったふうに暴れ出す。よしよし、といいながら娘がミルクを左手に、ココアを右手に乗せる。私はそれを眺めつつ、取り残された金魚のそばに行き、餌をやろうとして娘に止められる。もう餌はやったんだから、とのこと。なるほど、金魚の世話をしてからミルクとココアの世話をするようにしているのか。私は納得し、立ち上がる。台所仕事をしながら、足元できゃっきゃと笑う娘の姿を見つめていると、こんな小さな生き物であっても、飼ってよかったんだなと思う。自分で世話をし、可愛がり。ただそれだけといってしまえばそれだけかもしれないが、それを自分でしっかり為すことを覚えた娘は、夏前より少し、大きくなったように見える。

朝の一仕事をしながら、昨日の夜、弟から来たメッセージを私は思い出す。まったく調子よくありません。一応できることそれなりにやってはいるけれども。もう半ば投げやりになってます。そんなことが書いてあった。文面全体から、自嘲気味に口元を歪めて笑うあの弟の顔が滲み出ているかのようだった。文章はどうしてこうも残酷に人を映し出すのだろう。まさに鏡だ。私は一語一語ゆっくりと読みながら、彼の追い詰められた心境を思った。私より多分、あの弟の方が爆発率は高いだろう。思ってもみないところで彼はきっと爆発する。そうなる前にどうにかできないものだろうか。どうにか。
そこまで考えて、自分がどれほど無力かを私は痛感する。自分の生活を立たすことさえままならない自分が、誰かを助けるなんてできるわけがない。できるのは無責任な応援だけだ。それ以上のこと、何もできない。ただ見守って、応援して、愚痴を聞いて、頷くだけだ。それが、歯痒い。悔しい。
でもそれが、多分、現実だ。

昨日の夜現像したフィルムを私が光に透かしていると、娘がぱっと覗き込む。ねぇねぇ、あの変な顔見せて。娘はどうも、自分の変な顔を見たくて仕方がないらしい。私はそれを選んで彼女に渡す。へっへっへー。何、へっへっへーって? いや、もっと変な顔すればよかったと思って。これ以上いいよ、使える写真、全然ないやん。私が笑うと彼女はぺろりと舌を出す。確かに、使える写真は殆どなさそうだった。数えるほどしかないだろう。でも。
自分が九歳や十歳の頃、父母に素直に写真に撮られていた自分がいたかといえば、絶対に否だ。逃げるか、口をへの字或いは一文字にして睨むようにカメラを見つめていた。それに比べたら、彼女のこれは、上出来なんだろう。そして多分、年月が経ってみれば、懐かしく笑える写真になるのだろう。私は、変な顔の中から特に五枚を引き抜く。これをプリントして彼女に渡してやろうと思う。そして。
今回私が一枚だけ、とてもとても気に入ったものがある。それは、雲がたくさん浮いた空を背景に彼女のアップを捉えた写真だ。彼女の目が真っ直ぐにこちらを見つめている。笑うでもなく睨むでもなく、その中間の表情が、強い力を湛えていて、私にとってはたまらない一枚になっている。これを大きく引き伸ばしたら面白いだろうなと思う。
昔はただ、コントラストの強いばかりの私の写真だった。それが少しずつ変化しているのは自分でも分かる。正直、グレーがきれいに出てしまうと、今もまだ迷う。それをぶち壊したくなる。でも何故だろう、今ぶち壊してプリントする気持ちにまではならない。不思議なものだ。心のありようによってプリントの状態はいくらでも変化する。一枚のネガから、百通りの写真が焼ける。それが、私にとっては面白いところなんだと思う。

明るくなってきた空の下、私は鋏を持って再びベランダに出る。そして。
ぱつん。ぱつん。ぱつん。思いっきり薔薇の枝を詰める。新芽がでかかっている箇所の上で、容赦なく切り落とす。ぱつん。またぱつん。鋏の音が、まだ静かな街に響き渡る。
台風で擦れぼろぼろになった葉をひとつずつ切り落とすのではもう間に合わないと思った。いっそ今のうちに詰めてしまった方がいいんじゃないかと思った。それが正しいかどうかは分からない。分からないが、私はそうすることにした。
結局、マリリン・モンローとホワイトクリスマス、三つの蕾を残して、あとはきれいに切り詰めた。あとは。アメリカン・ブルーだけだ。帰宅したら、思い切ってやってみようか。その前に母に電話しようか。どうしよう。私はまだ、アメリカン・ブルーに関してだけ、迷っている。

今日は病院。病院を二つ回らなければならない。娘に声をかけて早めに家を出る。バスに揺られ、電車に揺られ、病院の最寄の駅に着く。いつのまにか空はきれいにすかんと晴れ渡っており。街行く人の中には、数えるほどだが半袖の人もいるくらい。多分昼間は暖かくなるんだろう。
いつもの喫茶店でいつものカフェオレを頼む。そしてもう一つ思い出す。昨日届いた素敵なニュース。かつて一度、「あの場所から」の撮影に参加してくれた子が、妊娠したというニュース。まだまだ初期らしいが、私の時と同じく、吐き気などに襲われ、食べることがままならないらしい。ねぇさんも妊娠って分かる前、薬飲んじゃってたんだよね? うん、妊娠と知らずに飲んじゃってた。それでもあんな元気な子が産まれたんだよね? うん、まぁそういうことになるね。でもそれは、産んでみなけりゃ分からない、うん。ははは。でも、十ヶ月という時間は、十分な時間だよ、どんな子が産まれても引き受けて育てていこうって思えるだけの時間なんだよ、うん。そういうもんなんだぁ。そういうもんだぁね。
短い時間だったが、久しぶりに話した彼女は、思ったよりも元気だった。今具合が悪いとはいえ、それでも声に張りがあった。私はそれが何より嬉しかった。
共にPTSDという代物を背負ってはいるけれど、だからって子供を育てられないわけじゃない。やろうと思えばいくらだっていろんなことに挑戦できる。自分が選んでそこに飛び込むならば、やれないことなど殆どない。もちろんそこに苦難はあるけれども、それでも、いろんな人のサポートを受けながら、乗越えていけばいい。やってやれないことは、ない。そう、きっと。
そう思ったところで、私は、自分がどれだけ恵まれているかを思う。いろいろなことがあった。いろいろなことが今だってある。それでも。
いろんな人がいろんな形で見守っていてくれる。それが、どれほど自分に力を与えてくれているか。そのことくらい、今の私でも、分かる。
感謝しよう。私の周りにいる人たちに。感謝しよう。私のそばにいてくれる人たちに。そしてそれにありがとうと言いながら私は歩いていこう。
ごめんねや申し訳ないよりありがとうをこそ。

さぁ、私の一日が、また始まろうとしている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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