見つめる日々

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2009年10月18日(日) 
厚いカーテンに守られた眠りはおのずと明けた。ベランダに出てみると目の前には海。小さな島とこことを繋ぐ橋が、影になって浮かび上がっている。夜降っていた雨はいつの間にかあがり、空は今、静かな紅色に染まり始めている。地平線に沿って漂う雲と海とが、ゆったりと動いているほか、まるで静物画の中にいるかのような夜明け。
髪をいつもよりゆっくり梳かしながら、私は波の様子を見つめる。何処から生まれ何処からやってくるのか、私は知らない。いつの間にか生まれ、いつの間にかやってくる、そんな波間を縫って、鴎の鳴き声が響き始める。少しずつ少しずつ、影でしかなかった島と橋との姿があらわになってゆく。海が隣にある朝というのはこんなにも、表情豊かなものなのかと、改めて私は知らされる。

彼の作品をこんなに多く見るのは久しぶりのことだった。海外の彫刻家のもとで修行した彼の作品はとても洗練されており、余計なものは何もない。余計なものは何もなくとも、ただそれだけでこちらに何かを伝えてくる。大きさも手頃なものが多い。決して大仰に訴えることなく、淡々とそこに在る。それは、彼の作品ほど、街中に佇ませて溶け込むものはないのではないかと思えるほどだ。
ひとつひとつ、作品を見つめながら、会場を回る。よく知られた作品が幾つも並んでいる。私はそれと向き合うたび、久しぶりねと話しかけたくなる。常設展であるにもかかわらず、多くの人がそこを訪れており、中には子供も居る。けれどみな、落ち着いた穏やかな表情で静かに鑑賞している、それこそが、彼の彫刻の力だろう。人の心を静かに惹きつけてやまない、そういう力を持っている。

今日が初日の展覧会には、多くの人が訪れていた。会場は人で埋め尽くされているといってもいいくらいだ。私はその中を、ゆっくり回る。様々な棺やステラがガラスケースの中並んでいる。初めて見るものが多いというのに、懐かしくなるのは何故だろう。
そうだ、母のスケッチの中に、こうした模様がたくさんあったのだ。母は壁画が好きだった。特にエジプトのそれを好んで、写していた。グラシンに描かれたそれは、時にクッションの刺繍になり、時にスカートの裾に施される刺繍となり、幼い頃から私の目の前にあった。母に隠れて、こっそり母の作業場を覗き、これらの文様をうっとり眺めたことが何度あったことか。鉛筆で丁寧に描かれたそれは、私の胸をいつでも刺激した。私は夢見た。これらが実際に描かれている世界の何処かのことを。風化してゆくそれらの様を。
展示の奥の方、ミイラの作り方が詳細に描かれている前では、子供らがじっとそれらを見つめている。大人はその子らの後ろから、それをじっと見つめている。私はその光景を、丸ごと見つめている。こうした光景が見られることが、私には嬉しい。
会場を出たところで、私は二冊カタログを購入する。一冊は自分の、そしてもう一冊は。母に贈ろうと思う。

空が徐々に徐々に明るんできている。先ほどより強くなった波は、まるで島から生まれているかのように、ぐいぐいとこちらに寄せてくる。海鳥たちの声はだんだん大きくなり、それと共に街の音も大きくなっている。島はもう影ではない。濃い緑色を湛えたそれに変わっている。上着を羽織っていても、じんじんと冷え込みが私の肌を覆う。私は腕を擦りながら、それでも刻一刻変わってゆく世界を見つめている。

近代の日本の絵画だけを集めた会場に佇んでいると、彼らがどれほど海の向こうの藝術に憧れていたのかがひしひしと伝わってくる。ユトリロのそれであったり、ゴッホのそれであったり、ゴーギャンのそれであったり、セザンヌのそれであったり。彼らの筆はそれらの世界を懸命になぞる。なぞりながら、自分の筆を何とかそこから導き出せないものかという模索がある。
でも何故だろう。彼らが懸命になればなるほど、絵の中に、筆の中に、土の匂いを私が感じてしまうのは。たとえばそれが、フランスの街中を写し出した絵であっても、彼らの筆から土のどろくささを私は感じてしまうのだ。
私たちはやはり、日本人なのだと思う。決して土から離れては生きていけない種族なのだと思う。そしてそれを、誇りにしていい種族なのだとも、私は思う。

今日が昇る。雲間から真っ直ぐに伸びてくる陽光はまだ赤々と燃え、辺りを染め上げる。見つめれば目の中に点が生じ、世界はその虹色の点に犯されてしまう。それが分かっているのに私は今生まれたばかりの太陽をどうしても見つめてしまう。丸く丸く、何処までも丸く、自ら燃える星。その星のもたらす陽光が、私たちにどれほどの恵みをもたらしているのか。この陽光が私をあたため、この陽光が薔薇の芽を生み出す。この陽光と共に私たちは在り、この陽光と共に世界は回る。
今雲間を抜けて、太陽が昇ってゆく。海鳥の声が港中に響き渡っている。

娘に電話をすると、今お風呂に入っているんだよねぇ、とおどけた声。ばぁばに髪の毛洗ってもらってるんだぁ、と。私は慌てる。ばぁばにそんなことやらせて、あなた、何やってるの。だってぇ、ばぁばが洗ってあげるって言うんだもん。娘はへっちゃらな声だ。私は母に申し訳なくなりながらも、ふと思い出す。
小学校に上がると共に、私は一人で風呂に入るようになった。風呂場で洗濯板を使って自分の洗濯物を洗うのが、私の日課だった。うちはそう決まっていた。大きなものはもちろん母が洗濯機で洗ってくれる。でも、下着は自分で洗濯板で洗う、それが決まりだった。洗濯板で何度、指の皮を剥いて泣きべそをかいたことか。数知れない。でもそれを訴えることはできなかった。決まりだったから。
私は一人で身体を洗い、一人で頭を洗い、出てくる。それが当たり前。でも時々、母や弟が一緒に入ってくる。そうすると、何故だろう、私は照れてしまって、いつも下を向いていた。何処を見ればいいのか分からなくなるのだ。母の裸を見ると、それは罪深いことでもあるかのような錯覚を抱いていた。でも。
母が時々、思い出したように時々、私の髪を洗ってくれる。それが、嬉しくてたまらなかった。同時にこそばゆかった。泡が目に染みようと何だろうと、それでもやっぱり嬉しかった。
我が家で今、そんな決まり事はない。洗濯板もなければ、娘と一緒に風呂にも入る。が。そういえば、最近娘は私と一緒に風呂に入ろうとしなくなった。なんだかんだと理由をつけて、一人で入りたがるようになった。それが今、ばぁばと入っているという。私は、なんだか笑ってしまった。ばぁばと一緒にお風呂に入ってるの? ううん、違う、ばぁばはね、洋服着て、椅子に座って、私の髪の毛洗ってくれてるの。えへへ。娘が笑う。なぁんだ、そういうことか。と思いつつ、母に申し訳なくなる。でも。そんなふうにばぁばに髪の毛を洗ってもらえるなんて、あと何年あることか。今のうちなんだぞ、と心の中で呟きながら、私はそうかそうかと返事を返す。
電話を切った後も、何故だろう、母と娘の風呂の様子が、目の中から離れない。

そして太陽は白く燃え始める。もうだいぶ地平線から離れ、島から離れ、雲からも離れ、ぽっかりと空に浮かぶ。燃え盛る星をそれでも見つめようと私は目を凝らす。あぁ、もう無理かもしれない。私の目は負けてしまう。やっぱり彼の前で私は、頭を垂れるしか術はない。
今日はあと二つ美術館を回り、そして帰路に着く予定だ。そうしたらまた娘と会える。娘に聞いてみよう。ばばとママと、どっちが頭洗うのうまい?って。絶対に娘はこう答えるだろう、ばぁば!と。
私は煙草を一本、ゆっくりとくゆらす。すっかり体が冷えてしまった。今のうちに熱いシャワーを頭から浴びておこう。手に取るように分かる速い速度で東の空を昇りゆく太陽を、もう見つめられないと分かっていながら、私はもう一度見つめてみる。私の目はいっぺんでやられてしまう。それでも。名残惜しいのは何故だろう。
足元を電車が今通過してゆく。もう朝なのだ。街も人も動き出す。私は煙草を消し、部屋に戻る。そう、みなが動き出す時間。それは私も。
今日という一日はもう、始まっている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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