見つめる日々

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2009年12月10日(木) 
カーテンを開けると、窓が曇っている。もうそういう時期なんだなぁと改めて思う。曇った箇所に指で日にちを書いてみる。くっきりと浮かぶ指文字。そこから覗く世界は、なんだかとても小さくて、でもいつもと違った魅力がある。多分覗いてるということがもたらすものなんだろう。胸が少しどきどきする。街路樹の一本、一本を、その指文字の跡から覗いてみる。まだ点いている街燈の光を受けて、仄かに橙色に染まった風景。
窓を開ければ一気に冷気が流れ込む。待ってましたといわんばかりの勢いで部屋の中に篭っていた熱が外に飛び出していく。まるで目に見えるかのような勢い。私は窓辺に立ち、しばらく街景を眺める。まだ闇色に包まれたその景色を。
ベビーロマンティカの、ひとつの蕾が白く粉を噴いている。参った、こんなところに白粉が。私は指でそれを拭い取る。粉を土の上に落とさぬよう、私はベランダの外にその粉を飛ばす。病気なのはもう明らかだ。でも。ここまで膨らんできた蕾を切り落とすなんてことはさすがにできない。これから毎日観察していかないと。そのたび拭ってやらないと。私は心に刻む。それにしてもだいぶ膨らんできた。どの蕾ももう、小指の半分ほどはある。ホワイトクリスマスの蕾はそれよりも一回り大きい。
パスカリなどのプランターを振り返って私は少し慌てる。こちらに病葉が。私は片っ端から摘んでゆく。何がいけなかったんだろう。水も少しずつしか遣っていないのに。今土は表面がもうすっかり乾いている。だというのにこれだ。一番奥の新芽の部分がどれもこれも粉を噴いている。私は指先で懸命に摘む。そんな薔薇をよそに、イフェイオンやムスカリは緑をこんこんと茂らせている。こちらは病気になるということを知らないんだろうか。そう思えてしまうほど本当に強い。
そうしているうちに少しずつ少しずつ空が緩み始める。夜明けの気配。さぁそろそろ娘を起こさなければ。

いつぽつりと雨粒が堕ちて来てもおかしくないような曇天の下、国立に向かう。あちこちの銀杏の樹が電飾で着飾られている。これを見るといつも思い出すことがある。昔々、新聞の、本当に小さな小さなスペースに書かれたこと。蓑虫が絶滅の危機にあると。ちょうど蓑虫たちが動き出す頃合に、木々が電飾で彩られる。それに火傷して、蓑虫が死んでしまうのだと。そう書いてあった。なんだか印象深くて、その小さな記事を切り取ってしばらく栞代わりに使っていたことを思い出す。蓑虫。成虫になったところの姿を私は知らない。あの、細い糸にぶらさがった、不思議な格好の蓑に包まって、時々ひょっこり顔を出して。そんな姿を、幼い頃よく木々の間に見つけた。ぶらありぶらありと枝にぶら下がっているその蓑虫は、退屈な時からかって遊ぶのにちょうどいい相手だった。そういえば、私は小学一、二年生の頃、学校へ行く折、玄関から出ないで裏口から出ていたんだと思い出す。そう、裏口から出て、お向かいの家の庭を通り抜けて通りに出ていたんだった、と。お向かいの家と私の家との間は垣根があったが、そこにぽっかり、通り穴があったのだった。そしてそこによく、蓑虫がぶら下がっていたのだった。私が三年生になる前、その町を私たち家族は離れた。あの穴はその後、どうなったのだろう。今はもうないのかもしれない。もう知る由も、ない。
潜る、という行為はまるで、とっておきの秘密の行為のような、そんな気配がした。ほんの数秒で潜り抜けられてしまうような場所でも、潜るというだけで、どきどきわくわくした。薄の生い茂った野っ原でかくれんぼをする時、私たちは薄の葉のトンネルをよく潜り抜けた。風が吹けば足音も隠れてしまうような、そんなとっておきの場所だった。そしてまた、竹林では、若竹同士を結び合わせて、トンネルを作った。そこはいわゆる基地だった。秘密基地。いや、覗こうと思えばいくらでも覗けるような、隙間だらけの場所だったのだが、それでも私たちはそこを基地と思っていた。いらなくなったおもちゃや本を持ち合って、見せっこして遊んだ。何時間でもそこで過ごせる、そんな気がした。
そこまで思い出して、はたと気づく。今娘に、潜る、という行為はあるのだろうか。そして私は途方に暮れる。

書簡集で待ち合わせをした。大学時代参加していたサークルで一緒だった仲間の一人が今年も展覧会に来てくれるという。
まさにくるりんときれいに剃りあげた頭で、彼は書簡集の秘密の扉を潜ってきた。変わらないなぁ。それが最初の印象だった。本当に変わらない。まっすぐ前を見つめる瞳を持つ人だった。それは昔からこれまで、全く変わることがない。
彼は去年の画のこともちゃんと覚えていてくれたのだろう。今年の作品を見ながら、去年の作品についても合わせて言葉を繋いでくれる。私は会場に置いている冊子を手渡す。今年は文章だけで参加してくれた人もいるのだということを話す。彼はそれを少し読みながら、珈琲に口をつける。その冊子は、紙にすれば数枚の、薄いものだ。でも。中に記されたものはみな、参加してくれた人たちの大切な大切な言葉たちだ。読んでみればそれがどれほどの重さか、彼になら何も言わずとも伝わるだろう。
私には、古い友達があまりいない。あの事件を境に、多くの人が離れていった。でもこうして、残っている緒もあるんだということを、改めて私は感じる。それはどれほどにありがたいことか。そのことを痛感する。誰それは今何をしてるの? 元気でいるの? 誰ちゃんは? そんな言葉がぽろぽろ零れる。
名前、どうやって決めたらいいのかなぁ、と、彼が突然言い出す。ん?と思い、訊ねれば、今奥様が第二子を宿してらっしゃるとのこと。なんと嬉しいニュース。書簡集の奥様も交じって、三人でがやがやと話が弾む。本当にこの場所は、なんて素敵な場所なんだろう。時間がゆったりと流れる。時計がもし今逆回りしても、不思議ではないくらいにゆったりと。それがとても心地いい。
まだ仕事の途中だという友人を見送りながら駅へ。それじゃぁまた、と手を振り合って別れる。

そのまま電車を乗り継いで。どうして急いでいる時に限って電車事故が多いのだろう。私は突然止まって動かなくなった電車の中、思いを馳せる。人身事故、と、その言葉が示すところをなぞってみる。思い出してももう仕方がないけれども、目の前で飛び込んでいった友人たちの姿が、はらはらと思い出される。私はそれをかき消すように頭を振り、私は今生きているのだからと自分に言い聞かせる。
久しぶりに会う友人は、ゆったりとした雰囲気をまとっており。留守にしていた間、こんなことがあった、あんなことがあったと話してくれる。そして、彼女が、こんな本があることを知ったからぜひ読んでみようと思って、と話してくれる。あぁ、彼女が自分から本を読んでみようということを話してくれるなんて。私は、本当に久しぶりにその言葉を彼女から聞いた気がする。とても嬉しい。どんな本であっても、彼女の琴線がひっかかったなら、きっと今の彼女に必要なことが詰まっているに違いない。
T駅の構内、小さな小さな喫茶店の片隅、私たちの時間はあっという間に流れてゆく。

娘と待ち合わせの場所に立ち、私は本の続きを読んでいる。「たとえあなたが醜くても美しくても、また意地悪で罪作りな人間であっても、そのあるがままの自分を理解することが、「徳」―真価―の始まりです。この「徳」こそ、私たちにとって欠くことができないものなのです。なぜならこの「徳」によって私たちは、自由を与えられるからです。あなたが心理を見い出し、本当の生活ができるのは、この「徳」の中だけです。しかもそれは、一般に「徳をつむ」というような意味でのつんだ徳では駄目なのです。そのような徳からは、いわゆる尊敬は生まれるでしょうが、理解と自由は決して出てこないのです。「徳」をもつことと、「徳」をつもうとすることとは違うのです。「徳」はあるがままのものを性格に理解することから生まれてくるのですが、「徳」をつもうとすることは、あるがままのものを理解することを先に引き延ばすことであり、あるがままのものを、こうありたいと思っているものによって糊塗しているだけのことなのです。従って、「徳」をつもうとしていて、実際はあるがままのものから直接に行動することを避けているのです。しかも理想に向かって努力することによって、あるがままのものを回避していること自体が「徳」であると一般には考えられているのです。しかし、もしあなたがそれを詳細に、じかに見るなら、それが本当の「徳」とは何の関係もないことが分かるはずです。理想を求めるということは、実は、あるがままのものに面と向かい合うのを引き延ばしているだけなのです。「徳」というのは、自分自身と違ったものになることではないのです。「徳」はあるがままのものを理解することであり、それによって同時にあるがままのものから自由になることなのです。現在のように急速に分解してゆく社会では、このような「徳」は欠かすことができないものなのです。古い世界からはっきり訣別した新しい世界や社会を創造するためには、「発見するための自由」がなければなりません。そして、自由が存在するためには、この「徳」がなければならないのです。というのは、「徳」がなければ自由もないからです」「真の実在というものは、あるがままのものを理解するときにのみ、発見できるのです。しかもあるがままのものを理解するには、あるがままのものに対する恐れから解放されていなければならないのです」…。(※クリシュナムルティ「自我の終焉―絶対自由への道」篠崎書林刊)
読みながら、自己一致と無条件の受容という言葉がぐるぐる私の頭の中を回っている。

ママ! 娘が走って飛んでくる。私たちはバス停までそのまま走り抜ける。クリスマスが近い地下街はこんな時間でも賑わっており。私たちはその人の隙間をぬって走る。娘はバスの中、長靴下のピッピを読み、私はさっきの続きで「自我の終焉」を読み続ける。

木曜日の朝は緑のおばさん役の当番の日。娘と共に家を出る。私は自転車を引き引き集合場所へ。陽射しが出ている分、少しあたたかい気がする。
「じゃ、いってらっしゃい!」「うん、じゃぁまた後でね!」。娘が手を振ってくれる。私は自転車を漕ぎ出す。途中公園に立ち寄る。池の周りの紅葉はもう今まさに紅色で。私より先にやってきていた老夫婦が、木のベンチに座り、じっとその紅葉を見つめている。私は邪魔をしないようにその場をそっと去る。
空全体、うっすらと雲ってはいるけれども。それでも陽射しがこうやって降り注いでくれることに、私は嬉しくなる。変わる直前の信号を突破し、私は通りを渡る。こんなところ、娘には見せられないなとひとり苦笑しながら。
モミジフウはいつもと変わらぬ姿でそこに在った。黒褐色のいがいがの実をまだたくさんぶら下げている。清掃員の方が教えてくれたっけ。季節になると小学校の先生などがよくこの実を取りにやってくるのだ、と。図工で使うのにちょうどいいらしい。お花の先生なども取りに来られると聞いた。リースに使えるからと拾っていく人もいるという。私はその大きな大きなモミジフウの樹をじっと見上げている。ただ見上げている。微風ではそよりとも揺れない実。手を伸ばしてひとつだけ摘む。娘にあげよう、そう決める。
聴こえるはずはないのに、耳を澄ますと波の音が聴こえてきそうで。私はやはり自転車を海の方向に向ける。今日の海は何色だろう。どんな波が立っているだろう。

どこからか、鴎の啼く声がする。


遠藤みちる HOMEMAIL

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