2010年04月07日(水) |
重たい。目を覚ます直前そう思った。重たい、思いながら目を覚ますと、娘の腕がちょうど私の首の辺りに乗っかっていた。どおりで重いわけだ。私は娘を起こさぬよう、腕をそっとどける。布団から半分出て、私の方に頭をがーんと向けて寝ている娘は、まさに天下泰平の図、といったところで。私はちょっと笑ってしまう。 窓を開け、ベランダに出る。ぬるく湿った空気が私を包み込む。少しばかり風が強い。空は一面雲に覆われており。この時間だというのに、まだまだ暗く、辺りは鼠色。雲はみっちり空を覆っているから、光の漏れる隙間がないのだ。私は見上げながら、雨がいつ降りだすだろうと、そんなことを思う。 そんな中、イフェイオンの青味は鮮やかで。ひときわ目を引く。私はしゃがみこんでそっと花弁に触れてみる。紙のように薄い花びらは、ぴんと張っており。弾くとしゃんしゃんと鈴の音が聴こえてきそうだ。こんな天気のもとでも、こんなに元気に咲くことができる花を、私はいとおしく思う。 白薔薇の樹は大丈夫なのだが、他のものたちの葉の幾つかに、うどんこ病が見つかる。どれもこれも、新たに出てきた新芽だ。新芽がほとんど、粉を噴いている。私は丹念にそれを摘み取る。大丈夫、今までだって乗り越えてきたのだから、これらはみんな、ちゃんと元気になる。しかし。 ミミエデンはどうだろう。正直不安だ。他のものに比べてまだまだ全然葉が伸びてこない。それはもちろん私が病葉を摘んでいるからなのだが、それにしたって、この季節になって、この裸の状態はあんまりだろうと思う。かわいそうに。 そういえば。昨日自転車を走らせている時、丘一面、ダイコンハナナと、所々菜の花が咲いていて、それはそれは美しかった。薄紫色のダイコンハナナの色と、鮮やかな黄色の菜の花の、その色の対比は見事で、道を往く人皆が、それを見上げていた。そしてその丘のてっぺんには桜の樹が一本植わっており。桜の樹の花びらが風に乗って舞い降りてくる。まるで一枚の絵のような光景だった。 部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中顔を覗くと、なんだか目が腫れている。泣いたわけでもないのに、この腫れぼったい顔はどうなんだろう。首を傾げる。目の周りを少しマッサージした後、目を閉じる。 穴ぼこはいつもの場所に在た。おはよう穴ぼこさん。私は挨拶する。穴ぼこは今日は漆黒の闇を纏ってそこに在る。昨日よりずっと闇の色が濃く見えるのは気のせいだろうか。私は傍らに座り、じっと穴ぼこを見つめる。 はっと気づいた。穴ぼこが、少し小さくなっている。気のせいかもしれないと何度も目を擦り、見つめてみるのだが、やはり小さくなっている。穴の中を覗かせてもらうと、穴の底はまだなく。やはりなく。穴は穴のままなのだが。それでも小さくなっている。 私は何となく、穴の縁に触れてみる。するとその、触れた場所が、何となく光ったようで。不思議な気がした。縁が光るなんて、今の今まで知らなかった。そうして縁が一部分でも光ると、穴の在り処がはっきりと見えるのだった。 そして気づいた。穴ぼこが、奥の奥の方で、怒っていることに。 そうか、穴ぼこは怒っていたのか。私は改めて知る。いや、怒っている、のともちょっと違う。怒りの上には何層もの何かがある。でもその底の底には。怒りが横たわっているのだ。あぁ私はかつてどこかで、こんな怒りを見たことがある、そう思った。 私が私で在ることができない、私が私を無視する、私が私を否定する、そうせざるを得ない状況に、私はどこかで怒っていたのだ。心の奥底で。 穴ぼこの中を再び覗く。私が怒りに気づいた途端、それはマグマのようにぐつぐつと、穴の奥底の、遠く遠く奥底で、ぐつぐつと喚き始めた。まるで穴ぼこは、それらをせき止めるために作られた穴ぼこであるかのようだった。そのために深く深く、穴を穿った、かのようだった。 あぁそうか、そうだったのか。今改めて気づく。私が怒ったら、私はあの頃を生き延びてはこれなかった。だから私はすり替えたのだ。怒りを別のものにすり替えたのだ。だからこんなに何層も、重なっているのだ。 でも何だろう、私が気づけば気づくほど、穴ぼこは深遠になってゆき。怒りのマグマは、どんどん遠く奥底に沈んでゆくのだ。マグマはマグマなのだけれども、それにもかかわらず、深く深く沈んでゆく。 私は穴ぼこから離れて、少し離れて、彼女をじっと見つめた。すると不思議なことに、ぷしゅっと音がした。何の音だろう。分からない。分からないけれど、その音と共に、穴はまたひとまわり、細くなった。 一瞬、思った。私は思ったのだ。こんな怒りが表出してしまったらどうしよう、と。そうしたらいろんなものを失うんじゃないか、と。そう思ったのだ。でもその直後、こうも思った。いや、大丈夫、もう大丈夫、怒りがあることは分かった。分かったけれど、私はもうそれをコントロールする術も持っている、と。 だから言ってみた。穴ぼこに言ってみた。大丈夫だよ、あなたが怒っていても大丈夫。私はちゃんとあなたを認めているから。否定したりしないから。なかったことになんてしないから。 穴ぼこは、それをちゃんと聴いてくれているかのようだった。 だからあなたはこれからもここに在ても大丈夫、私はちゃんとあなたを見守っているから。あなたをなかったものになんてしないから。そうして私は立ち上がり、手を振る。また来るね、と挨拶し、その場を離れる。 今度は「サミシイ」に会いにゆく。「サミシイ」は砂に半分埋もれたまま。でもその砂は今日は、少し風に吹かれているかのようだ。私はその傍らに座る。座り、彼女を見つめる。 「サミシイ」が「サミシイ」である所以が、今なら何となく分かる気がした。あなたはずっと、サミシイと言えなかった。サミシイなんて言ったら、余計に追いやられるだけだった。余計に鬱陶しがられるだけだった。蔑まれるだけだった。だからずっと、サミシイなんて言えなかった。 でもずっと、ずっとずっと、さみしかった。 お母さんの腕に抱かれて眠りたかった。父に寄り添って笑いたかった。ただそれだけだった。でもそれが、赦されないことだった。 愛されたかった。でも何処までいっても、愛されている実感はなかった。どこまでも拒絶ばかりが目の前にあった。愛されたいならここまで来い、と、いつでも言われていた気がする。愛されたいならこれをクリアしろ、と。 だから歯を食いしばって私はそこへ行く。行くと今度は、さらにハードルが上げられて、さぁ今度はここまで来い、と。 もうのぼれない、という選択肢はなかった。そんな選択をしたら、二度と振り向いてもらえない、と、そう思った。だから何処までも何処までも、必死だった。それでも。父母がこちらを振り向いて、手を差し伸べてくれることなど、なかったけれども。 でももう大丈夫だよ。私はあなたを、私の一部であるあなたを、拒絶なんてしない。ちゃんと受け容れていく。だから、大丈夫だよ。いくらサミシイと呟いても、私はちゃんとそれを聴くから。無視などしないから。 すると、ぶわっと風が吹いた。風が吹いて、砂が流れていった。流れ流れ、砂は風に乗り。私の目の前に今、「サミシイ」が在た。 「サミシイ」は本当に小さな女の子で。ちょこねんとした女の子で。体育座りをして、そこに在た。 あぁ、会えたね。私はにっこり笑って手を差し出した。「サミシイ」はその手をじっと見つめている。そうか、手を差し出されたことなんてないから、分からないのか、とそのことに気づく。そうして私はとりあえず手を引っ込める。 引っ込める代わりに、にっこり笑う。そうして、大丈夫だよ、ともう一度言ってみる。またさみしくなったら、いつでも私を呼べばいい。私はあなたがここに在ることをもう知っているから、いつでも私はここに来るから。大丈夫だよ。 「サミシイ」はそんな私をじっと見つめている。 じゃぁ今日はもう帰るね。また来るからね。私はそう挨拶し、手を振って、その場を後にする。 目を開けると、まるで耳の中、砂のあの流れる音が聴こえるかのようだった。 テーブルの上、山百合が凛々と咲いている。その横でガーベラが、ぴんと花びらを開かせている。白薔薇は。あぁ、もう終わりだ。今までありがとう。私は花瓶から白薔薇を取り出す。その瞬間、ぱらぱらっと花びらが落ちてゆく。こんなになるまで私に付き合ってくれてありがとう。改めて薔薇に礼を言う。 お湯を沸かし、生姜茶を入れる。本当はハーブティーにしようと思ったのだけれども、もう数がほとんど残っていないから、買い足すまでは大事に飲まないと、と思い、生姜茶に。口に含むと、さっぱりとした、同時にほんのり甘い味が口の中にふわっと広がる。
展覧会の日取りが決まった。予定より一週間早い。一週間早いだけなのだけれども、私はちょっと慌てる。ほぼ二ヵ月後。しっかり作りこまないと。テーマを三つ、選んでおいた。その中から、ひとつ、選び取る。さらにその中から一枚選び、早速DM作成の作業。ここまで決まったら後は早い。やるだけだ。
「ヘイ、ハニー! 俺のベィビーはかわいいんだぜ!」と言いながら、娘が踊り狂っている。しかもその片手にはココアを握って。一体何がしたいんだか、全然私には分からないのだが、すんごく、ものすごく楽しそうだ。私はしばしそれを傍観する。 目が合った、と思った瞬間、娘がソファを乗り越えてこちらにやってきた。そして言う。「ヘイ、ハニー! かわいいぜ!」。言うだけ言って、人の顔にぶちゅーっとキスをする。 参った。参ったから、放して。私が抗うと、彼女はひっひっひーと笑いながら余計に腕を締め付けてくる。そうして人の背中にココアを入れて、きゃぁきゃぁ喜んでいる。こういうのをなんていうんだろう、悪ふざけか? よく分からない。私はこういうことをしたことがない。 結局、散々人の顔にちゅっじゃなく、ぶちゅーっというキスの雨を降らせて、娘は満足したようで。おやすみ、と言って寝始める。 唐突に始まって、唐突に終わる娘のこういう行動。参った、以外の言葉は何も思い浮かばない。でも、笑ってしまう。
じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は自転車に跨り、走り出す。 公園の桜はもう散り始めた。散ってゆく姿はちょっと切なく、でも清々しい。咲き誇り、そうして潔く散る。それが桜の花の姿だ。 私は舞い落ちる桜の花びらの中、自転車を走らせる。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。そこにも一本、大きな桜の樹があり。今まさに散りゆく頃。 銀杏の樹は、新芽の塊をめいいっぱい膨らませているところで。私はその下を走ってゆく。空は相変わらず鼠色。でも雨が降りだすまでには、まだ間があるだろう。 そうして私は自転車を走らせる。 さぁ今日も、一日がまた、始まる。 |
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