2010年04月16日(金) |
息が苦しい。そう思って目を開ける。珍しく鼻が思い切り詰まっており。どおりで息苦しいはずだと納得する。起き上がると、ゴロがやっぱり起きている。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロは、後ろ足で立ち、こちらを見上げている。あなたは本当に早起きなんだね、と私は重ねて声を掛ける。そうして娘が起きる頃にはまた寝てしまう。だから娘とは入れ違いが多い。そのせいでミルクやココアと比べて、外に出してもらえる回数が格段に少ない。そのことを思って、私はとりあえず、ゴロを肩に乗せてやる。ちょっとだけよと断って。 私はゴロを肩に乗せたまま、窓を開ける。外は雨。そぼふる雨。アスファルトも屋根もどこも、濡れそぼっている。街路樹の新芽ももちろん濡れている。私は手を伸ばして葉を弾いてみる。ぽろろん、と跳ねる雨粒。きれいな円弧を描いて落ちてゆく。 イフェイオンにも雨粒が。私はさっきと同じように指で弾いてみる。ぽろん、ぽろんと落ちてゆく雨粒。土に吸い込まれ、消えてゆく。 ミミエデンは相変わらず裸ん坊で。庇のおかげで濡れてはいないが、私は心配になる。こう雨が続くと、うどんこ病が。大丈夫だろうか。 パスカリに、粉の噴いた葉を見つけ、私は早速それを摘む。パスカリは二本あって、二本目にも粉の吹いた葉が。私はそれも摘む。ベビーロマンティカやマリリン・モンローの蕾は、まるで凍りついたかのようにそこに在って。じっとそこに在って。私はそれをただ見つめる。微風に震える気配さえないその蕾は、生命をぎゅっと凝縮させた、そんな感じがする。命の塊。 見上げる空は、一面鼠色の雲に覆われ。隙間など何処にも、ない。ゆっくりと流れてゆく雲ではあるが、さて、今日は雨が上がるんだろうか、どうなんだろう。 部屋に戻り、いんげんと豚バラとを味噌味で炒める。その間に鶉卵を茹でておく。お弁当に詰めて、端っこに苺を添えて、お握りを握り、出来上がり。あまりにも簡単で申し訳なくなるが、でも、ないよりは、いいだろう。赦してもらうことにする。 洗面台、鏡を覗く。そういえば昨日は久しぶりにダウンした。夕飯を作るところまでは何とかなったのだが、娘に夕飯を食べさせた途端、がくん、と来た。娘にはひとりで風呂を用意してもらい、私は横になる。あぁこりゃもう駄目だ、と思い、目を閉じる。ぐんぐん泥沼に引き込まれてゆくような感覚。 自分に無理をかけていたつもりはない。ただ、疲労しているな、という感覚は、どこかにあった。でももうちょっと何とかなるだろう、もうちょっと踏ん張れるだろうと思っていたのだが。突然来た。横になりながら、甘かったな、と、自分の判断を反省する。 そんな、昨日のことを思い出しながら、鏡の中、顔を覗く。まだ疲労の気配が残ってはいるが、まぁそんな悪い顔ではないだろう、と思う。顔をばしゃばしゃと洗い、ゆっくりとタオルで拭う。もう一度鏡の中顔を覗くと、少し白い顔色をした、顔がそこに在った。 目を閉じて、自分の内奥に耳を傾ける。 すると最初に、触れてきたのは、「サミシイ」だった。おはようと私は挨拶をする。「サミシイ」は体育座りをして、ちょこねんと砂場に在る。そしてこちらをじっと見ていた。私はそんな「サミシイ」をじっと見つめる。不思議なことに、「サミシイ」の足元には、貝殻が幾つか、転がっていた。一体何処から拾ってきたのだろう。と思ったとき、あぁ、「サミシイ」が集めてきたんだ、ということは、「サミシイ」は何処かを散歩してきたんだ、ということに思い至った。それはとてもとても嬉しいことで。私は思わずにっと笑った。それに気づいたのか、「サミシイ」は恥ずかしそうに下を向いてしまった。 その貝殻は、白くて、でもちょっと苔むしていて、ずいぶん長い時間を経たものなのだということが分かった。そして気づいた。あぁ、この貝殻は、私が昔拾って、そして父に棄てられたものだな、ということに。 そして思い出した。一度だけ、家族で海へ行ったことがあったということを。私は思い出した。砂粒が足についただけで泣き出す弟に手こずっていた母は、あっという間に私を見失い。父母は、ほぼ一日中、私を探し続けたという。 もう駄目だと、警察に連絡しようと思ったとき、沖の方で、男子学生たちと遊んでいる子供がおり。そこに声を掛けると、返事があったという。まさか、と思いもう一度声を掛けると、間違いなく私の声で。父は仰天して、私をひったくるように抱いて、車に放り込んだ。以来、うちの家族は一度として、海へは出掛けなくなった。 あの時、私は本当に楽しくて。海へ初めて行ったことがまず楽しくて。そして、海に向かって飛び込んだんだった。わくわくやどきどきが、もう、心臓が飛び出すほどどくんどくんと体中を脈打っていて。その時、何処からかやってきた男子学生たちが、私の相手になってくれた。私を浮き輪というものに乗せて、沖へ連れて行ってくれた。私はもう、見るもの触れるものすべてが初めてで。もうたまらなく楽しくて。その学生たちが、潜ってはきれいな貝殻を拾って上がってきた。それを私に呉れた。私は初めて見る貝殻というものの美しさにいっぺんに魅了され。もうただひたすら、海で遊んでいた。何もかもが楽しくて楽しくて、仕方がなかった。 今なら分かる。その間、父母がどれほどの思いで私を探していたのだろう、と。それはとてつもない思いだっただろうな、と。思い出すと、苦笑せずにはいられなくなる。申し訳ないと共に。 でもあれは、私にとって、子供時代の数少ない、楽しい思い出のひとつ、だった。光り輝く鉱石のような、大切な思い出のひとつ、だった。でもそのことを、今の今まで忘れていた。あの日から父母は、二度と海へ行かなくなったことや、それから数日家に閉じ込められて過ごしたことや、貝殻を全部窓から投げ捨てられたことや、様々なことが重なって、私は思い出すのをやめてしまった。でも。楽しかったんだ。 そうか、楽しいことも、数えるほどだけれど、あったなぁと、改めて思い出す。寂しいことばかりじゃなかった、悲しいことばかりじゃぁなかった、楽しいことだって、確かにあった。私の子供時代、捨てたもんじゃぁ、なかったのかもしれない。 父母とのことだって。確かに哀しいことが多かったけれど、辛いことが多かったけれど、とんでもないことも多々あったかもしれないけれど、でも。それもまた、捨てたもんじゃぁないのかもしれない。 角度を変えて見れば、また違った見方が、出来るかもしれない。 「サミシイ」の足元、貝殻を見つめながら、私はそんなことを思っていた。ふと見ると、「サミシイ」は今までの「サミシイ」ではなく、ちょっとえくぼの在る、小さな女の子になっていた。 ふと、円枠家族描画法で描いた絵を思い出す。私は円枠の中にとうとう、自分を描けなかった。円の外でしゃがみこんで、ちいさくなっている自分だった。そして私に接する円には、母のシンボルであるマチ針が、びっしりと突き刺さっており。その円枠を私が越えようとすると、その針は私を傷つけるのだった。入ろうとして傷ついて、それなら出ようとしてまた傷ついて。その繰り返しだった。父も母も、一応円枠の中には一緒にいたが、何処かそっぽを向き合っており。私と一番遠い位置に、彼女たちは在るのだった。 今はどうだろう。今の私たちを描くなら。少なくともマチ針は、突き刺さってはいない。私はやはり円の外ではあるが、少なくとも針は刺さってはおらず。そして父母は、多分、隣り合って立っている、んだと思う。 少しずついろんなものが変化している。 私が再び顔を上げると、「サミシイ」もこちらを見つめており。私は「サミシイ」に笑いかける。思い出させてくれてありがとう、と笑いかける。そう、ここで、「サミシイ」も、変化していっている。 じゃぁまた来るね、そう言って私は手を振る。「サミシイ」はちょっと首を傾げて、こくんと頷いた。
母と会う。母はこの間会ったときよりさらに小さくなっており。頭の毛も薄くなっており。あぁ病はまだ彼女にとりついているのだな、と胸が痛くなる。 母や父の望むような「娘」になるには、一体どうしたらいいんだろう、と考える私が在り。そのことにはっと気づいて、苦笑する。まだ私はそんなことを考えてしまうのか、と。それでも、頭は勝手に考えるのだ。どうしたら、母や父の言うところの「娘」になれるんだろう、と。
倒れ伏した私に、娘が言う。もうちょっと横になってた方がいいよ。もう大丈夫だよと私が起き上がろうとすると、今起き上がっても何もすることないよ、大丈夫だよ、と重ねて言う。私はその声に励まされるように、再び横になる。 ぐるぐると、いろんなことが頭の中を回っている。父や母がこれを見たら、何と言うんだろう、なんてことまで考えている自分が在り。私はさらに苦笑する。一体私は何処まで父母にとりつかれているんだろう、と。もう、いい加減、自分を解放してやればいいのに、と。 ふと横を見ると、娘がひょっとこ顔をしてこちらを見つめている。いや、見つめているのとはちょっと違って。私を笑わせようと、とにかく変な顔をして、そこに在る。志村けんの真似、加藤茶の真似、とにかく思いつくもの全部、やってのける。私は笑い出してしまう。よくもまぁこんなことができるものだと思いつつ、同時に、申し訳ない気持ちにも、なる。こんなことを娘にさせてしまう自分で在ることが、情けない。でも今は、ただ笑っていよう。情けないなどと思ったって、何もどうにも、なりやしない。
じゃぁね、それじゃぁね。娘が差し出すミルクの背中を私は撫でる。気をつけてね。うんうん、それじゃぁね。手を振って別れる。 雨はまだ降り続いている。しとしと、しとしと、校庭のはじっこ、プールにも雨は降りそぼり。 やってきたバスに飛び乗り、ぼんやりと窓の外を見やる。窓を流れる雨粒が、落ちては消えて、消えては落ちて。名もない絵がそこに、浮かび上がる。 川を渡るところで立ち止まる。暗緑色をした流れ。コンクリートに岸を埋められながらも、川は滔々と流れ。 私は再び歩き出す。今日もまた、一日が、始まってゆく。 |
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