見つめる日々

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2010年04月22日(木) 
朝一番、Secret Gardenの音色が聴きたくなって、プレイヤーを立ち上げる。眠っているその最中からずっと、彼らの音色が聴きたかった。何故そんなに聴きたくなったんだろう。よく分からないが。
窓の外が暗い。窓を開けると、ひんやりした冷気が私をすっと包み込む。雨だ。また雨。誰かが今年の春は梅雨の先取りをしてるんじゃぁないかと言っていたが、本当にそんな気がする。空一面、重だるい雲が広がっており。隙間なくそれは広がっており。少し憂鬱な気持ちが、ますます憂鬱になってしまうような、そんな具合。私はじっと空を見上げている。どこかに隙間はないかと、探してみる。もちろん、見つからないことなど百も承知で。
イフェイオンの花は残り五つにまでなった。もう本当に終わりなんだなぁと思うと、なんだかとても名残惜しい。私はイフェイオンのこの花の色や、その咲き方がたまらなく好きだ。澄んだ蒼色に、しゃんと背筋を伸ばしたようなその姿勢。いつもその姿を見るたび、こちらも背をしかと伸ばさねばと思わされる。それがじきになくなってしまうことが、今はとても寂しい。また来年までの別れ、と分かってはいるが、それでも寂しい。
ミミエデンは、新芽の欠片さえ今はなく。ただ裸ん坊で、そこに在る。明るい緑色をした幹がせめてもの救い。早く病気が治ってくれたら、心底そう願う。
昨日めいいっぱい病葉を摘んだおかげなのか、今朝病葉は見られない。怪しいものはあるものの、それでもまだ、摘むまでにはいかないだろう。私は順繰り、薔薇の樹を見つめる。マリリン・モンローの脇、ホワイトクリスマスが、ちょっと侘しい。葉はそれなりに出ているのだが、ちょっと疲れているような気配がする。そろそろまた肥料を足した方がいいんだろうか。それとも放っておいて大丈夫だろうか。マリリン・モンローが生い茂る脇で、なんだか全部、栄養をそちらにもっていかれている、そんな感じがするのだが。
玄関に回り、扉の脇のプランター、ラヴェンダーを見つめる。昨日水をやったせいか、ますます生き生きとした姿。今二本挿し木してあるのだが、その片方がとても勢いがよい。ぐいぐいと新芽を伸ばしてくれている。ふと、去年ここに植わっていたはずの、アメリカン・ブルーの姿を思い出す。コガネムシに根を食われさえしなければ、今頃アメリカン・ブルーもここに在たはずだろうにと思うと、なんだか切ない。また今年、どこかで出会うことがあるだろうか、出会ったらぜひ、またここに戻ってきてほしいと思う。
部屋に戻り、顔を洗う。少しひしゃげた顔が鏡の中に浮かんでいる。これが自分の顔なのかと思うと、ちょっと不思議な気がする。しっくりいくようないかないような、そんな中途半端な気分。
目を閉じ、自分の内奥に潜り込もうとして、止める。それ以前に、私には今、気になることが在る。昨日からずっと、眠りの中でまでも考えていた。
人との距離のとり方だ。昨日改めて、自分はまだまだなと痛感した。なんというかこう、近づきすぎてしまった距離を断る術が、うまくないのだ。
何処で赦してしまったんだろう、と思う。何がそうさせてしまったのだろう、と。もっと前の段階で、私は断りを入れることができたんじゃぁなかろうか、と。
自分の領域に、土足で入り込まれても、それが大丈夫な領域であるときと、そうじゃない奥の領域であるときとがある。土足で入り込まれたとき、人はどうやってそれを断るんだろう。それが、まず、分からない。どうにかせねば、とは思うのだが、うまい断り方が、見つからない。
でも。
断らないままでいたら、こうして私の中に欲求不満が溜まってゆくのだということ。それがありありと、分かる。それはやがて膿になって、私を苛む。
醜い、と思った。醜い自分が在る、と。それが何より、厭だと思った。でも、間違いなく、在るのだ、そういう自分、が。
間の取り方、距離の取り方を、もっと学ばなければいけないと思う。
それから、昨日のあれは何だったんだろう。彼女がもう私に夢は何もない、なりたいものはなにもない、残りの時間はあまりもののようなもの、と言ったとき、さっと胸の辺りに走った痛みは。あれは何だったんだろう。あまりもののようなもの、という言葉を聴いたとき、その痛みがとりわけ強くなったのを覚えている。
もしかしたらほんのちょっと、思い出したのかもしれない。自分のかつて、を。自分にはもう夢なんて何もない、何も残っていないと、思ったことがあった。幼い頃から抱いていた夢は木っ端微塵に砕けた。もう二度と戻れることは、なく。もしかしたら私は、その時の自分をさっと、思い出したのかもしれない。
でも、同時に、違うことも知っていた。少なくとも彼女は、残りの時間をちゃんと受け止めている。私は、残りの時間なんてと拒絶した。すべてを失くして、もう残りの時間もへったくれもあるものか、と、私は何もかもを否定した。あんな私と、彼女とは、大きく異なる。
すごいな、と思った。そう思えるってすごいな、と。素直に思った。
その両方が同居して、私の胸をちくちく刺した。
ひとしきり、そのことを思い出し、私はほっと息をつく。溜息にも似たものを。そうして再び、目を閉じる。
穴ぼこのすぐ脇に、再び残骸が山になっていた。私がいない間に吐き出したんだろう。それが何だかは、すぐ分かる気がした。私が溜めていた欲求不満が、今そんな形になっているのだ、と。分かる気がした。
私はそれらを拾い集め、足元に山にし、試しに乗っかってみた。ぱりぱり、と音を立てて砕けてゆくそれら。でも、まだ砕けないものも在った。それはきっとまだ、私が抱えているものなのだろうなと思った。
穴ぼこは、何となく遠くを見やっているような、そんな気配がした。また吐き出すことになって、疲れたのかもしれない。私はだから黙って、隣に座った。
穴ぼこに、そっと尋ねた。疲れてるんだよね? すると穴ぼこが、小さく笑った。もう仕方ないといった具合に、小さく小さく笑った。そんな気がした。まるで、自分はそういう役どころだからと、諦めているかのようだった。
それが、切なかった。
私にできることはせめて、何だろうと思った。耳を欹てると、微かな音が、つーっという微かな音が、聴こえた。
できるのはそうして、一緒に在てくれることだけだよ、と、まるでそう言っているかのようだった。私は申し訳なくて申し訳なくて、俯いた。でも、本当にそうだなとも、思った。私にはそれしか、今は、できそうに、ない。
穴ぼこから吐き出されてくるものにその都度気づいて、それらをかき集め、後始末して、一緒に在ること。それだけ。
でもきっとこれまでは、それさえ怠っていたんだろうと思うと、たまらなくなった。同時に、顔を上げずにはいられなくなった。しかと、今の穴ぼこの、疲れた姿を目に留めておかなければと思った。刻んでおかなければ、と、そう思った。
そうしてしばらく一緒にいて、私は、立ち上がった。また来るよ、と、できるだけ元気な声で言った。そう、また来る、大丈夫。
目を開けると、蛍光灯の光が眩しくて。暗闇から一気に光の洪水の下引っ張り出されたかのようで。私は手を翳す。

Secret Gardenの、Dawn of a new centuryが流れている。その音に励まされるように、私はお湯を沸かす。ハーブティー、オレンジスパイサーを入れて、とりあえず椅子に座る。
雨はその間も、降り続いている。

「もし悲しければ、悲しいままでいなさい。そこから逃げようとしないように。退屈していることは、もしあなたがそれを理解するなら、途方もない意味をもつのだから、それと共に生きなさい」「困難は、いかにしてそれと共にとどまり、逃げ出さないでいるかということです」「私たちは情緒的・精神的に自分自身を消耗させてしまっているのです。私たちはあまりにも多くのことを、多くの感覚を、多くの気晴らしを試してきました。あまりにも多くのことを試し、それで私たちは鈍感になり、疲れ果てたのです」「たえず手を伸ばし、動き回ることは疲れることです」「すべての感覚刺激のように、それはすぐに精神を〔飽きて〕鈍らせてしまうのです」「私たちは感覚から感覚へと、興奮から興奮へと動き回る、そんなことばかりしています。そしてしまいにはクタクタになってしまうのです。そこでそのことを悟り、もうそれ以上進まないことにし、休息をとります。静かにして下さい。精神がひとりで強さを取り戻すようにさせましょう。それを強いないで。土が冬の間に生気を取り戻すように、精神は静かにしているのを許されるなら、それは自らを新たにするのです。しかし、精神が静まるのを許容することは、それをすっかり休ませておくことは非常に難しいことです。というのも、精神はたえず何かをしたがっているからです。あなたが本当に自分自身にあるがままの状態でいるのを許すことができれば―――つまり、退屈していたり、不快だったり、ぞっとするような状態のままでいられるようにするなら、そのとき、それに対処する可能性が生まれるのです」「あなたが何かを受け入れたとき、あるがままのあなた自身を受け入れたとき、何が起こるでしょうか? あなたがげんにあるあなた以外の何でもないということを受け入れるとき、問題はどこにあるのでしょう? 問題は、私たちが物事をあるがままに受け入れず、それを変えたいと願うときのみ生じます―――これは私が満足を擁護しているということではありません。その反対です。もしも私たちがあるがままの自分を受け入れるなら、そのとき私たちは自分が畏れているものが、私たちが退屈とか絶望と呼んでいるもの、恐怖と呼んでいるものが、完全な変化を遂げるのです。そこには、私たちが恐れているものの完全な変容があるのです」「獲得は、積極的なものでも消極的なものでも、重荷です。獲得するやいなや、あなたは関心を失うのです。所有しようとして、あなたは目覚め、関心を抱きます。しかし、所有とは退屈なのです。あなたはもっと所有したいと思うかもしれません。しかしさらに多くを獲得しようとする追求は、たんなる退屈へと向かう運動にすぎません。あなたはいろいろなかたちの獲得を試みます。そして獲得への努力があるかぎり、関心があります。が、獲得にはつねに終わりがあります。だからいつも退屈があるのです」「精神にとっての困難は、静かにしていることです。精神はいつもあれこれ思い煩っているからです。それはいつも何かを求め、獲得したり拒否したり、探したり見つけたりしています。精神はいっときも静かにしていません。それはたえまない運動です。過去は、その影を現在に投げかけ、それ自らの未来をつくります。それは時間の中の運動であり、思考の間にはほとんど間というものがありません。休みなしに一つの思考がもう一つの思考を追うのです。精神はいつも自らを鋭くしていますが、そうして自分をすり減らしてしまうのです」「精神はたえず自分を使い、それで消耗してしまうのです。精神はいつも終わることを恐れています。しかし、生きるとは一日ごとに終わることです。それはすべての獲得、記憶、経験、過去に向かって死ぬことなのです」

じゃぁね、それじゃあね。手を振って別れる。玄関を出て、校庭の端のプールを見やる。幾つもの波紋を描いたプール。紅色の傘をもって出る。
通りを渡ってバス停へ。やって来たバスは混み合っており。誰もがどこか俯きがちで。なんだか私もそれに習って俯いてしまう。
海と川とが繋がる場所、橋のたもとに、海鳥が集っている。みな雨宿りをしているのだろうか。雨足は強くなるばかり。
気持ちを切り替えていこう。そう思った瞬間、鴎が一羽、飛び立った。

さぁ、一日がまた始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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