見つめる日々

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2010年04月27日(火) 
起き上がると、薄暗い部屋の中。あぁ曇っているのだなと察する。がしがしという音に振り向けば、ココアとゴロがふたりとも、扉のところに齧りついている。おはようココア、おはようゴロ。私は声を掛ける。ふたりとも、そんな声を掛けるなんてどうでもいいから、早く抱き上げてよ、と言っているかのような勢い。私は苦笑しながら、ココア、ゴロの順に手のひらに乗せてゆく。一緒に乗せることはできないから、それぞれに。ココアはちょこまかと手のひらの上を動き回る。それに対してゴロは、ちょっと後退し、お尻を手のひらから半分はみ出させながら鼻をひくつかせる。それぞれにそれぞれの動き。ひとしきりそうやって手のひらの上で遊ばせ、元に戻す。それでも足りないらしく、ココアはまだ、がっしと扉に齧り付く。
窓を開け外に出る。窓の外は曇天で。薄暗い。光が漏れてくる場所など見当たらない。きっと今頃東の空では陽光が眩しいほどに輝いているのだろうなと思いつつ、そちらの方向を見やるのだが、そこはすっかり雲に覆われており。街路樹の若葉も、今朝は何処か色がくぐもって見える。空の色を反映しているんだろうか。トタン屋根も今日は静かだ。何処もかしこもがしんとしている。
ホワイトクリスマスの、昨日開いたのだろう新芽。それは葉に白い斑点を持っており。仕方なく、私はそれを摘む。申し訳なくなりながらも、摘む。他にも、怪しいものがあるのだが、それはまだ、斑点といえるほどにはなっていないから、残しておくことにする。
マリリン・モンローの蕾は、ぱんぱんに膨らみ始めている。薄いクリーム色が、ありありと見えてくるようになった。これならもしかしたら、母の日に間に合うかもしれない、なんて、気の早いことを私は考えてみる。もし間に合うなら、この花を贈りたい。母が好きだと言ったこの花をこそ。そう思う。
ベビーロマンティカの蕾も、数個在るのだが、一番最初についた蕾が今、大きく大きく膨らんでいる。まだ花弁の色は見えないけれど、それももうじきなんだろう。萌黄色と緑色の中間のような色合いで、真っ直ぐ天を向いている。その姿はいつでも潔く。だから私はそれを見ると、背筋を伸ばしたくなるのだ。迷うことなく天を見つめ、見上げ、ひたすらに自分を信じているかのようなその姿。惚れ惚れする。
パスカリたちは、最近静かだ。ちょっと一呼吸いれてるかのような雰囲気。それも当然かもしれない、こんなにも寒暖激しい毎日が続けば、人間だって疲れる。植物が疲れないわけがないだろう。
玄関に回り、ラヴェンダーの鉢を覗き込む。もちろんまだまだ芽が出ているわけなどないのだが、それでも気になる。無事に出るだろうか、芽が出るだろうか。正直、いつ買った種なのか、記憶にないのだ。きっと何年も冷蔵庫の中にしまわれていたに違いない。そんな種だから、気がかりなのだ。
昨日挿した液肥を確認し、ラヴェンダーから新芽がまた出ていることに嬉しくなりながら、立ち上がる。校庭を見やれば、昨日天気がよかっただけあって、夥しい数の足跡が残っている。子供たちの走り回ったその痕だ。私の脳裏に、昨日子供らが声を上げて走り回っていた姿が浮かぶ。こんなふうに毎日校庭を眺めていると、一日一日が、唯一無二のものであることを改めて思う。
部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中の顔は、ちょっと汗ばんでおり。そういえば、昨夜は二度ほど着替えた。寝汗が酷かったのだ。このところの気温の差の激しさに、体がついていっていないのかもしれない。
目を閉じ、体に意識を沈める。
頭が痛い。頭のてっぺんの方が、ずきずきする。ちょっと動くとずきん、ずきんと痛みが走る。そんな感じ。
おはよう、ずきずきさん。私は声を掛けてみる。多分もし私の顔をその時映したら、渋い顔をしていたに違いない。痛みがきついのだ。
ずきんずきんと刺し込むような痛みがするところの、傍らに座り込む。座り込んで、目には見えない痛みに、耳を澄ます。
あなたはいいかもしれないけど。ずきずきが言った。あなたはそれでいいかもしれないけど、私はまだ、そんなふうに考えることはできないのよ。
何のことだろう、と思い、その瞬間、あぁもしかしたら、と思った。父母のことだ。きっと。ずきずきが吐き捨てるように言う。あなたはそうやって、いいことを思い出したりできて、気が済んでるかもしれないけれど、じゃぁ私はどうなるの、散々殴られてきた私はどうなるの。ずきずきは、そう言った。
あぁ、そうか、そういえば、ずきずきのその場所は、私が父に散々、殴られてきた場所のひとつだった。
思い出した。父の拳骨は、そりゃぁ痛くて。頭のちょうどこの辺りを、いつも殴られた。殴られた後はいつでも瘤ができて。しばらく痛かった。その痛みがひくかひかないかの頃、私はまた殴られるのだった。
そういえば、父が、拳じゃぁなく、モノで私を殴ったことが一度だけあった。母の洋裁の物差しで、ばしばしと父が殴ったことが。その後傷口は腫れ上がり、しばらく椅子に座ったり着替えたりするのも難儀だった。
ずきずきは、その痛みの塊かもしれない、と思った。私が受けてきた痛みの、塊。
ごめんね、ずきずきさん。私はそのとき、あなたを守ってあげることができなかった。ごめんね。私はずきずきに言う。
ずきずきは、そんな言葉聴きたくないといったふうで。だから私はちょっと困ってしまった。どうしたらいいんだろう、と思った。
或る意味、結構執念深いのかもしれない、と思った。ずきずきには執念深さがあるのかもしれない。だから、赦すことができないでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、ずきずきから言葉が飛んできた。執念深いですって、冗談じゃない、私があの頃いなければ、あなたは生き延びて来れなかったくせに!
まさにそうだ。私は二の句が継げなくなった。あの頃ずきずきがいなければ、私はへたっていたかもしれない。いや、へたっていたに違いない。
ずきずきに、尋ねてみることにする。ねぇあなたは今、私に一番何をしてほしい?
あなたになんてして欲しいこと、ひとつもない。あなたは無力だから。ずきずきははっきりとそう言った。
私は無力。そうかもしれない、と思った。私は結局のところ、無力なのかもしれない。ずきずきにしろ、「サミシイ」にしろ、穴ぼこにしろ、今の今まで放っておいたのだから。無力以外の何者でもないかもしれない。
私は仕返ししてやりたいだけ。同じことを、同じ分量、いや、倍の分量、仕返してやりたいだけ。ずきずきが言った。
私は考える。そんなことを、私はしたいだろうか? いや、したくない。自分がされて嫌だったことを、相手に仕返すなんて、したくない。
その時、ずきずきが、嘲笑うように言った。そんなんだから、あなたはだめなのよ。強い者だけが生き残れる世の中なのよ。
あぁ、この台詞、どこかで聴いたことがある、そう思った。そうだ、父だ。父の台詞だ。強い者だけが生き残れる、優秀な者だけに権利がある。父はそんなことをよく言っていた。
私はそこから、「存在することが赦されない」存在なのだと、自分をそう見做した。自分の人生脚本の重要な部分を、その禁止令で塗り替えてしまった。そうして幾つ、失敗してきただろう。
私は言ってみる。それは違うよ、強くても弱くても、そんなの関係ないと思う。優秀とか優秀じゃないとかってじゃぁ誰が決めるの?
ずきずきが、そんなこと分かってるでしょう?といわんばかりの勢いで、私をじっと見つめていた。分かってる、そう分かってる、それを決めるのは、あの父、母、なのだ。
すべての軸は、父母中心に回っている。世界は父母中心に回っている。だから私はそれについていかなければならないのだ。私はそう思っていた、長いこと。
でも、それは違う。
ねぇずきずきさん、私は、あなたが弱かろうと強かろうと、どうだろうと、あなたはあなたでいいと思う。
だから、そんなんじゃ生き延びていけないって言ってるの、存在していられないって言ってるの! 声を荒げて、ずきずきが言った。
うん、あなたはずっと、そう思ってきたんだよね、そうしかないと、思って来たんだよね。
でも。
でも、違うんだよ、世界は別に、あの人たちを中心に回っているわけではなく。世界は誰にでも平等に在って、だから、弱い強い関係なく、あなたはあなたで在れば、もうそれだけで十分なんだよ。
きれいごと言わないでよ、冗談じゃないわよ、私を根こそぎひっくり返そうってわけ?! さらにずきずきが鋭く言った。私はしばらく黙った。
ずきずきが言いたいことは、とてもよく分かった。伝わってきた。そう、根こそぎひっくり返される、そういうショックなのだ、世界は平等だなんて、そんなの、冗談じゃなかったのだ、ずっと。いつだって、生き延びるために強くあらねばならなかったし、権利を得るために必死に戦い続けなければならなかったんだ。私は。
しばらく置いて、私はもう一度、ずきずきに話しかける。でもね、私は今はそう思うの、私は私でいいんだ、って。だからあなたもあなたのままで、いいのよ。怒ってるなら、怒ってる、それでいいの、しんどかったならしんどかった、それでいいの、それ以上でもそれ以下でもないのよ。あなたはあなたのままで、それでいいの。
ずきずきは、そっぽを向いた。そっぽを向いて、でも、泣いているかのようだった。どうしていいか、分からないのだと思った。いや、ずきずきは、私が言いたいことが、すでに分かっているのかもしれない。分かっていて、それでも、自分を何とか存在させるため、必死に抗っているのかもしれない。そう感じられた。
そんなんじゃ、生きてる価値、ないじゃない。ぽつり、ずきずきが、言った。
私は言う。でもそれも、父母の基準でしょう? 違う? 生きてる価値がないって、それは父母の基準でしょう? 私自身の基準は、違うの、もう違うのよ。私はこれっぽっちでも、十分生きている価値があると、思う。
ずきずきが、すっと、姿を隠した。消えた、のとも違う、消えたのではない、まるで、自分が消えてしまうことを恐れているかのように、さっと姿を隠した。
私は、追いかけるのは、やめておくことにした。彼女の言わんとする恐怖は、いやというほど分かるから。
そうして私は、また来るね、そう言って、その場を後にすることにした。
目を開けると、ずきずきはまだ、残っていた。とりあえず、薬は飲まないで、味わっておこうと思う。ずきずきの、今まで引きずってきた痛みの一部だけでも。

「芸術行為が真に癒しとつながるためには〈創造性〉と〈表現〉に加え、一体何が必要なのであろうか? それは心の〈自由〉さである。この〈自由〉はイズムや表現上の技法から自由になることを意味しているのではない。これは自分自身の“とらわれている心”から自由になることを意味しているのである。この“とらわれている心”が何であるかは、セラピストを介してのセラピーのプロセスの中で明らかになるのであり、ひとりでキャンバスに向かい孤軍奮闘しても見えてくるものではない。この〈自由〉を得るためには、時には芸術行為という“とらわれ”からも自由になることが要求されるかもしれないのである。〈自由〉になることは、言い換えれば自分の中に切り捨てられたり抑圧されたりしたものがなく、自分が丸ごと生きることであるといえよう。
 人々の中には、自己の創造的側面を自由に表現することは、カオスを生み出すだけではないかと危惧する人もいるかもしれない。しかし、そのようなカオスは“不自由な”創造性を自由にする、という自由の履き違いから生まれたものである。つまり、心の自由と解放こそが先にあり、創造性はその解放された自由な状態の中から生まれてくるのである。その時には失われていた体全体の感覚が感情を伴って体験されるであろう。そして、それを通して癒しが生じてくるのであり、この癒しの体験や関係の中でよりリアルに感じる自分を発見するのである。
 このように、本当の癒しとは外から誰かによって癒されることではなく、自己の存在の内側から得られるものである。そして、強調しなければいけないことは、痛みを伴うことなくしては、この心の自由と解放は得られないということである。〈表現〉することだけ、あるいは〈創造的である〉ことだけでは癒しの体験にはつながらないのである」

娘と図書館へ。最近ようやく娘は、自分から、図書館の人に欲しい本を尋ねたり予約を取ったりすることができるようになった。だから私は、自分は自分で、本棚の間を練り歩いている。
ねぇママ、今日何冊借りる? ママは四冊。じゃ、二冊分、余る? うん、余るよ。私、その分借りてもいい? いいよ、もちろん。…でもさ。何? 学校でさ、読書カードあるじゃん。うんうん、あるね。私ね、そこに書けないんだよね。読んだ本、全部書いたら、賞が貰えちゃうんだけど、書けないの。なんで? 書けばいいじゃない。だって、自分だけ賞貰ったら、恥ずかしいじゃん。えー! そんなぁ、自分がやったことは自分がやったんだって言っていいんだよ。でも、恥ずかしい、他の人と違うのって厭だ。…。だから、私、こっそり読むの。…。
娘がそんなことを考えているとは思ってもみなかった。恥ずかしい。他の人と違うと恥ずかしい。なるほどなぁと思う。
でも娘よ、母は恥ずかしいなんて思わないよ。あなたが自分の力でしたことはしたことで、誇っていいんだと思うよ。他の人と同じか違うかなんて、問題じゃぁないんだよ。

じゃあね、それじゃあね。お弁当、ここに置いてあるから、忘れないで持っていくんだよ。分かってるって!
玄関を出ると、薄暗い曇天が、変わらず広がっている。その下を、私はゴミ袋を下げて走る。走ったが、バスは目の前で行ってしまった。あぁやられた。でもまぁ十分、十五分後にはまたバスが来てくれるだろう。
やがてゆっくりと走ってきたバスに揺られ、駅へ。ちょっと肌寒いような、そんな空気。海と川とが繋がる場所、今日は海鳥が数羽、集っている。その中の二羽が、それぞれ毛づくろいしているようで。嘴を動かす動作が、ここからも見て取れる。
向こうに在るはずの、風車が今日は見えない。けぶっているのだろう。海は今頃、暗い色をして打ちつけているのかもしれない。
さぁ今日もまた一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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