見つめる日々

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2010年05月30日(日) 
薄暗い部屋の中で目を覚ます。起き上がり、窓を開けると、ぶるりと体が震えるような寒さ。確かに昨夜は雨がぱらついていた。だからといってここまで寒くなることもあるまい。ちょっと驚きながら、空を見上げる。鼠色の雲が一面に広がっている。風はさほど吹いているわけではなく。だから雲が流れる様子もなく。淡々とそこに、横たわっている。こんな日は、何処から光が漏れ出てくるのだろう。漏れ出づる隙間も、今は見当たらない。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。六本あるうちの一本が、どうにもこうにもしゃんとしない。水はちゃんと遣っているのに駄目だということは、このまま枯れるということなんだろうか。私は見つめながら思う。でも、今諦めてしまうのはまだできそうにない。このままにしておくことにする。枯れるまでは、枝が茶褐色になるまでは、そのまま置いておこうと決める。
デージーたちはみな元気だ。救い上げた芽は全部、生き生きと葉を広げてくれている。それだけ強いということなのだろうか。そういえば母が言っていたっけ、デージーは一度植えれば、その後種をわざわざ取らなくたって、勝手に芽を出してまた花を咲かせるものなのよ、と。そのくらいのしぶとさがあるということなのか。私はデージーを改めて育てたことがなかったから全く知らなかった。それにしても、母は一体、どれだけの種類の植物をこれまで育ててきたのだろう。どんな花の名前を言っても、彼女が知らないということはあり得ないといっていいほどだ。私が彼女に追いつくことは、まずないんだろうな、と思う。そんなことを思った自分に、私は苦笑する。
ミミエデンを見やれば、新芽をぱっちりと開いている。棘々した縁をもつ、変わった形の葉。そしてまた、新たな芽の息吹が、そこに在る。
挿し木だけを集めている小さなプランターの中、今、わさわさといろいろな枝が葉を広げているのだが、中には黙って立ち枯れてゆく者も在る。同じプランターの中、彼らにとって何が違ったのだろう。生と死とを分ける境は、何処にあったというのだろう。私の目には見えないけれども、はっきりとした境目がそこに在るのだ。きっと。
ベビーロマンティカは、萌黄色の新芽をまた芽吹かせており。みんな葉の色は萌黄色なのだが、新しい葉の艶というのは、どうしてこうも輝いているのだろう。こんな薄暗い空の下でも、彼らは瑞々しく光り輝いており。まるでにこにこ笑っているかのような、そんな雰囲気。
一方、ホワイトクリスマスの新芽というのは、淡々としている。最初白緑色だった芽の塊が、開いて、空気に触れてゆくほどに、緑色になってゆき。それがやがて、濃緑色に染まるのだ。まるで染物の様子をじっと見守っているかのような気持ちになる。それは神聖な空間で。私は息を詰めて、その様子をただ見守る。
マリリン・モンローの、紅い新芽は、ざわざわ、わさわさというざわめきをともなっており。ぐいぐいと伸びてゆくその姿は、まるで我こそはと声を上げているような、そんな様子にさえ見える。今のところ、新しい花芽は何処にもなく。今は彼らにとって新たな緑を芽吹かせる時期なのだな、と納得する。
パスカリたちの、紅い縁取りを持っていた新芽は、もう表は殆ど濃い緑色に変わっており。開いた葉を順繰り見て回る。今のところどの葉も粉を噴いてはいず。これなら大丈夫、病に冒されてはいない。私はほっとする。
ふと顔を上げると、窓際のところの水槽、角のところに、金魚たちが集まってきている。懸命に尾鰭を揺らして、体を支え、口をぱくぱくさせてこちらに合図を送っている。私はいつものように水槽をこんこん、と指で叩く。そうして蓋を開け、餌を適当に撒いてやる。でも彼らはすぐには食べない。一度沈んで、再び水面に浮き上がってきて、それから食べ始める。
お湯を沸かし、お茶を入れる。いつものように生姜茶。あたたかいお茶を口に含むと、途端に体が生き返る気がする。あたたかさが体を一瞬にして駆け巡るのが分かる。
窓は半分だけ開けて、私は椅子に座り、煙草に火をつける。吐き出した煙がゆっくりと、窓の外流れてゆく。さぁ、朝の仕事に取り掛からねば。

久しぶりに高校時代から知っている友人たちと会う。別に特別に用事があったわけでもなく、互いに時間ができたからということで。二人に会うのはどのくらいぶりだろう。
彼らとは高校時代に出会った。私が十六の時だ。十六の夏、私は自主制作の映画作りに参加した。その時に、彼らと知り合った。
何だろう、彼らとは、多分、つかず離れずだった。よく一緒に遊んだが、べったり一緒にいるわけではなかった。要所要所で、一緒になる。そういう具合だった。
そうして、私が被害に遭い、ぼろぼろになっていた時期、その時も、彼らは、そっと見守り続けてくれた。私がどんな醜態を晒そうと、顔色一つ変えるでもなく、声を荒げるでもなく、ただそこに在てくれた。
それがその当時、私にとって、どれほど心強い支えだったか。もうそれは、他に言い表しようがない。
そして、私が離婚すればするで、私が床に倒れ付していると、そっとやって来ては娘の遊び相手をしてくれた。閉じこもるばかりだった時期も、なんやかやと私を誘い出しては、ご飯を食べさせてくれた。
そして今も、私がまだ娘をディズニーランドに連れて行ったことがないと言ったら、どうやって娘をディズニーランドに連れて行くかを計画してくれている。
そんな友人が、ふと、これからが勝負だなぁ、と呟く。私と娘のことだ。母子家庭であるがゆえに、もしかしたら娘は普通に反抗期を迎えられないのではないかと私は心配している。私に遠慮して、反抗もろくにできず、大人になってしまうのでは、あまりにかわいそうだ。そう思っている。そのことを指して、彼らが呟く。これからが勝負だな、と。本当にそうだと思う。そんな時、彼女に寄り添ってやれる年上の誰かがいたら、いいんだろうな、と彼らは言う。そのために彼女と今、コミュニケーションを取っておかないとな、と。
本当にありがたい、と、心の底から思う。そして改めて、子供というのは、一人で育てるものじゃないのだな、と思う。いや、一人で育てられるものではない、と言うべきか。いろいろな人の手を借りて、ようやく育ててゆける。そういうものなのだな、と。
そしてもう一つ。彼らにもし、何かが起きたときは。私は娘と一緒に駆けつけるだろう。もちろん彼らはそんな私たちを知っているから、余計な心配はかけまいと、口を噤んでいるのだろうが。それでも。それでも何かを察知したときには。
私たちはきっと、二人して駆けつけるんだ。

ママ、今日ね、告白されたよ。娘が電話の向こう、小さな声で言ってくる。えっ、告白されたの?! ウン、告白された。好きな人から? うーん、一番ってわけじゃないけど。二番か三番の人? まぁ、そうかな。えーー、すごいじゃんっ。で、何て応えたの? べ、別に、何にも応えないよ。そうなの? もったいなーい。もったいないって、何がもったいないのよ。え、せっかく好きだって言ってくれたんでしょ、何も応えなくていいの? だって、別にさ、一番じゃないもん。まぁね、それはそうなんだけど。学校も違うし。塾は同じなんだから、いいじゃない。まぁそうなんだけど。何がまずいの? って、ママ、何考えてるわけ? え、付き合うのかなーとか。何言ってんの?! え、違うの? 好きって言われただけじゃん、付き合おうって言われたわけじゃないよ! え、あれ、そうなの? 馬鹿じゃないの、ママ、そんなこと私、言ってないじゃん。そっかー、なんだぁ、つまんない。あのさぁ、ママってさぁ、やっぱり変だよ。ん? 何が変なの? 普通さぁ、こういうこと言ったら、お母さんって心配したり、いけません!とか言ったりするものなんじゃないの? え、あ、そうなの? そうだよっ。あ、ごめん。そうなんだ。まぁいいけどっ。ははは、ごめんごめん。
電話を切った後も、私は口元が緩んでいるのを感じる。そうか、娘もそんな年頃になったのか。まだまだおなかがぽんと出て、言ってみれば幼児体型といっていいような頃合だというのに。心の方は立派に、歳を重ねているというわけだ。
そういえば私も、淡い恋ならいっぱいした。最初の恋は儚く散った。相手は心臓を患っている男の子で。よく手を繋いで歩いた記憶がある。その男の子は、小学校に上がる前に亡くなってしまった。次に恋した男の子は、バイオリンを弾く男の子だった。引っ越していってからも手紙を何度か交換したが、気づいたらその手紙も途切れ途切れになり。やがて忘れていった。そういえば、お猿さん顔の男の子に恋をしたこともあった。学校で、好きな人という題名の作文でその子のことを書いてしまい、みんなに笑われたことを思い出す。そうやって幾つか淡い恋をした後、ようやく初めて付き合った人は、やがて暴力を振るうようになり。それは泥沼だった。別れるまでに一体何年かかったか。もう正確に、数えられない。
それからも幾つか恋はした。でも。何だろう。今思い返すとすべて、本当に遠い遠い昔の出来事で。もうはるか彼方の出来事で。
もう自分に、ああいうことが起こり得るとは、到底思えないところにまで、今歩いてきてしまっている。そんな自分は、一週間もすれば、またひとつ、歳を重ねる。
ふと、娘の、「ママ、恋しなさい!」という叱り声が脳裏を過ぎる。いやぁ、ママはもう、恋なんて遠すぎて。忘れてしまったよ。それが正直なところだ。そう思いながら苦笑する。あまりに遠くなりすぎて、実感のともなわない、まるで、そう、陽炎のようだ。

「あなたが自分自身を意識すればするほど、あなたはより孤独になります。だから自意識は孤立のプロセスなのです。しかし、aloneness〔独り在ること〕は孤立ではありません。寂しさが終わるときにだけalonenessはあります。alonenessはすべての影響―――外部からのものも記憶の内部的な影響もどちらも―――が完全にやんだ状態です。そして精神がそのalonenessの状態にあるときのみ、腐敗しないものを知ることができるのです。しかしそうなるためには、私たちは寂しさを、孤立のこのプロセス―――それは自己とその活動です―――を理解しなければなりません。ですから、自己の理解が孤立の、すなわち寂しさの終始の始まりなのです」

出掛ける支度をしながら時計を見やる。今頃実家では、ばばと娘とが、朝の散歩から帰って来た頃だろうか。そうして朝食を囲んでいるところだろうか。
鍵を閉めて家を出る。夕方までは雨は降らないだろう。そう勝手に判断し、自転車に乗って出る。
坂を駆け下りてゆく。風を切って走る、それがとても冷たくて、私は首を竦める。通りを渡ると現れる緑の公園は、鬱蒼と茂っており。でもそれは、灰色の雲の下、暗い暗い塊を今は描いており。
池の端に立ってみる。水面に映るのは、茂る葉群。ふと見ると、ベンチの横、トラキジの猫が横たわっている。大きく欠伸をし、伸びをして、ゆっくりと階段の方へ歩き出す猫。そうしてふと見上げれば、ぽっかり空いた茂みの向こうに広がる空を、二羽の鳥が大きく大きく旋回している。
さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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