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―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2008年09月30日(火)
どうせまた直ぐに消えてしまうんだろう?


例えば御飯時。誰かが支度をしていて、自分はそれに参加しなくて、その事で手伝わないでと文句を言われたら、じゃあいりませんと思うタイプです。
皮肉や卑屈ではなく、手伝わざるもの食うべからずだと思うし、関与しなかった自分には食べる資格が無いので、他に食べるものを探し自炊しますと。
でも、相手にしてみればそういう事を言っている訳じゃなくて、食べるんだったら手伝ってと言っているんです。わかりますよ、わかってます。だから大抵返事はあげる気が無いなんてけち臭い事言ってるんじゃなくて、とgdgdになってくるんですが。
昔は、そう思ったものだ。すきなだけ遊び呆けて享受するだけのあんちくしょうどもを見ては、何ゆえ自分は家政婦として働き彼らはそうでないという差別が生まれているのかと。寧ろそこから派生して必要以上、もっといえば自分の為以外には何もしたくない根性が生まれたんですが。このへたれめ。
それをする気分にならなければ関与しようとしないというのは大変な我儘だとも思うのだけれどね。一方で己が食べる分は己で作ると言うのが当たり前ではなかろうか。正しいか否かではないのだろうけれど、どちらも我儘で、どちらも納得出来ると思うんだ。少なくとも、自分の中では。
それを踏まえて、渋々でも手伝うべきなのか、不快にさせても自分のこた自分でやると貫くべきなのか。KYである事に恥は懐かないけれど、その結果空気を壊してしまう事は、本意じゃないんだ。

欲しがっている時に与えられるチャンスがあっても、信じられなくて、怯んでしまって、結局遠慮してしまうって、それってなんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
希った時に手に入らず忘れた頃に求めたものを提示されても、もう感慨も沸かず、胡散臭いと疑い、賑やかしにしか出来ないって、なんて愚かしいんだろう。
溢れんばかりに有り余り、どう料理するも自由と言われても、それを味わう事無く眺める事も叶わなかった日々を超えたら、もうただの余興にしかなれないなんて。
それとも、ただのいつも通りの、自分勝手な性質なんだろうか。立ち直れない習性ではなく、ただの我儘な思い一つなら、それなら、いいな。だから矯正しようという気には中々なれないけれど、いつかそう思い至った時には、まだ可能性が残されているのだから。
でもそれは、知らないから箱の底に希望があるかもしれないって、思っていられるだけなのかも知れないけれど。
再びあの輝く大地に、足を踏み入れようとそんなおそろしい事を考えられるのならば、そんな空想だって懐けるさ。


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