原案帳#20(since 1973-) by会津里花
★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲

2003年05月20日(火) 「GID特例法案」について(うえぇ〜長文だぁ)

★1・「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律案」について
★2・少し落ち着いてみると



★1・「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律案」について

とうとう、出ました。
でも、(さんざん予測されていたとはいえ)いざ本当に出てくると、「うーん」とうなってしまうような。

以下引用---------------------------------

共同通信 2003年5月19日

政治2003年05月19日(月)
与党が性同一性障害で法案
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20030519/20030519tp018.html

 与党3党の議員らで作る「性同一性障害に関するプロジェクトチーム」は19日、初会合を開き、民法など法令上の性別変更を可能にする「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律案」の骨子をまとめた。
本人が(1)20歳以上
(2)未婚
(3)子供がいない
(4)生殖が不能―などの場合、
家庭裁判所に審判を請求すれば、民法やその他の法令を適用する際の性別を変更できるとした。

社会2003年05月19日(月)
民法上の性別変更可能に 与党が性同一性障害で法案
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20030519/20030519a4220.html

与党3党の議員らで作る「性同一性障害に関するプロジェクトチーム」(座長・南野千恵子参院議員)は19日、初会合を開き、民法など法令上の性別変更を可能にする「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律案」の骨子をまとめた。骨子では、性同一性障害者を、生物学的な性と心理的な性が異なり、自分を身体的、社会的に違う性に適合させようとする意思を持つ人で、
2人以上の医師の診断が一致している場合と定義。
本人が(1)20歳以上
(2)未婚
(3)子供がいない
(4)生殖が不能−などの場合、
家庭裁判所に審判を請求すれば、民法やその他の法令を適用する際の性別を変更できるとした。プロジェクトチームは今後、骨子を基本に最終案をまとめ、今国会での成立を目指す。

------------------------------------------------------------------------

時事通信 2003年5月19日
http://www.jiji.com/cgi-bin/content.cgi?content=030519173236X155&genre=pol

「性同一性障害」で与党が検討チーム

 与党3党は19日午後、国会内で、性同一性障害に関するプロジェクトチームの初会合を開き、性同一性障害者が戸籍上の性別の変更を求めた場合、家庭裁判所の認定により認めるとした素案をもとに、法制化作業を進めることを確認した。


---------------------------------以上引用

(参考:杏野丈ホームページ掲示板・通称「杏野坂」http://www.harikatsu.com/sose/bbsboard.htmより)

[8639] 日記:骨子 投稿者:杏野丈 投稿日:2003/05/20(Tue) 00:15

3 性別の取扱いの変更の審判等
(1)家庭裁判所は、性同一性障害者(仮称)であって、次の�,�ら�イ泙任里い困譴砲盂催�するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができるものとすること。
��20歳以上であること.
��現に婚姻をしていないこと。
�8修忙劼�いないこと。
�だ舷A�の除去その他により不可逆的に生殖が不能の状態にあること。
�イ修凌搬里琉貮瑤箸靴導宛�上他の性別に係る性器に近似するものがあること。


5 検討
 この法律の規定については、この法律の施行後3年を目途として、この法律の施行の状況、性同一性障害者等を取り巻く社会的環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置が講ぜられるものとすること。


---------------------------------

何をうなっているのかというと、「現に子がいないこと」という条件がある、ということだ。
個人的には、わたしも戸籍訂正ができなくなる条件なので、すぐにでも反論したい気がするのだけれど、
「ちょっとちょっと、待ちなさいよ」
という声が聞こえるのだ。(……き、聞こえる……こ、声が…… じゃなくて(-_-;)

過去にわたしは法律を学び、その中で教わった何かが
「この条件には根拠があるらしい」
と言っているような気がする。
子がいて本人が性別を訂正してしまうと、子にとっては親がどちらも「男性・男性」または「女性・女性」となってしまう。
それが何らかの不都合を呼ぶ、ということなのだろうか。

ああ、だめ。
当事者の感覚だとつい「それでもいいじゃないか」と思いたくなるけれど、子どもの環境を考えると、けっこう深刻な問題になってしまうような気もする。
たとえば、もしも子どもが「お父さんとお母さん」について問われ、
「お母さんが二人」
などと答えたら、他の子や先生や、更には他の子の親たちから奇異の目で見られてしまうかもしれない。
親は、そういうことに対してはとても保守的になってしまうものなのである。

もしかしたら、わたしはなんとなくそういう場面を想定して、
「わたしは女だけど父親」
と言おうとしているのかもしれない。
でも、
「うちのお父さんは女」
とわたしの子が言ったら、やっぱりまだまだ理解されることは少ないだろう。

社会の状況と法律は、たぶんお互いに相手を規定しようと作用するものだろうと思う。
「そうは言っても法律でありうることになったのだから」
ということになれば、初めは抵抗があっても次第に人々はなじんでいってしまうに違いない。

けれど、「法律でそれはできないことになっているのだから」ということになっていたら、人々の気持ちもまたそれに沿ったものになってしまうだろう。
実は、法律はある人々にとって、味方にも敵にもなりうるものなのだ。

そうか、これは教わっていなかった。「法律には必ず守るべきものがある」としか教わっていなかったのだ、わたしは。
法律が「過去からの価値観を守る」とし、そのために「今生きる人々」を守ることを拒否したら、今生きる人々は法律の名のもとに裁かれなくてはならなくなる。

ことはただ単に「特例から漏れる」ということにとどまらないだろう。
それを想像すると恐ろしい。
わたしの場合、もしかしたらわたしではなく子どもが
「おまえの父親は法律でも許されないことをしたんだ」
と責められてしまうかもしれない。
そうしたら、きっと子どもはわたしを心底恨むだろう。

これは由々しきことではないか。
「特例から漏れる」=「法律で許されない」
↑もちろん、ここには飛躍があって、「法律で許されない」のはあくまで「戸籍の訂正」だけだ。
決して性転換そのものではない。

けれど、いわゆる「世間」というか非当事者の人たちは、そんな「細かい違い」には頓着しないのだ。

わたしだって、たとえば「薬害エイズ」についてあれほど粘り強い糾弾活動がなかったら、今でも「性行為によるエイズ」と区別できずにいたかもしれない。
(更によく考えてみれば「性行為によるエイズ患者」を何か汚らわしいもののように差別する理由も何もないのだが)
どんなに当事者にとって切実なことでも、非当事者にとっては「しつこく報道される」とでもいうことがなければ、事実と向き合うことはまず困難で、そんな状態では事実を適切に認識することなどできるわけもないのだ。
わたしは薬害エイズの当事者ではないのだ。

わたしがもしも「知らずにいたら」、わたしの子どものクラスにもしも薬害エイズの子が入ってきたら、理解できなかっただろう。
適切な理解をしようと努力したか、それすらも怪しい。
なぜなら、あえて繰り返すけど、それはわたし自身の問題ではないからだ。

こんなふうに力説してしまっているからといって、わたしは自分の問題以外に興味がないのかといえば、決してそんなことはない。
むしろ、「ニュース」というものには影響されやすいほうだ。
それこそ、ぜんぜん関係ない「赤の他人」のニュースでも、まるで自分のことのようにショックを受けてしまったりする。

でも、さすがにたとえば「有明海の干拓事業の是非」をどう思うか、と聞かれて正確に答える自信はない。
しつこいけれど、わたしはその問題の当事者ではないからだ。
それがどんなに当事者にとって切実な問題であったとしても、わたしにはそれよりも優先しなくてはならないことが山ほどある。
ちょっと悲しいけれど、それがわたしにとっての「現実」なのである。

当事者性のない問題に隣人として関わるとき、人は恐ろしいほど冷酷になれる。
ちょっとした知識だけで簡単にものごとを裁断してしまう。
そうする以上に「関わるひまがない」からだ。

でも、当事者としてのわたしは、上に述べたようなおかしな飛躍でまるで「罪人」のように扱われてはたまらないのだ。

もしもわたしが、それに加えて(というよりも実はもっと重大なことに思えて仕方ないのだけれど)わたしの子が安全に生きていけるとすれば、それはほんの少しずつでもいいから、多くの人が安定して持っている「常識」を変えていくしかないのではないだろうか。
わたしのような存在を決して「非常識。法律から外れている」と決め付けられないような常識に。

一昨日(17日)観た映画『ロバート・イーズ』で、わたしはとても勇気付けられる言葉に触れた。
実はわたしもお会いしたことがある、性についての医学の権威、ハワイ大学のミルトン・ダイアモンド博士の言葉なのだが:

自然は多様性を愛でる。

という言葉だ。
わたしも、自分のことを「多様性のあらわれのひとつ」として愛することができれば。
これは大きな希望をわたしに与えてくれる。

わたしは弱い人間だから、たとえば神さまに向かっても誇れるような「自分を認められる根拠」などない。
強いて言えば、上にも書いたように、わたしは神さまから与えられた自分という存在を、責任もって愛する。
それが唯一の根拠だ。

そうして、それが、たとえばわたしの子に対してわたしが親としてまず最初の責任を果たすことに他ならない、とも思うのだ。

わたしは自分を認める。
認める以上、わたしは「GID特例法」の法案に対して、素直に支持することはできない。

---------------------------------

(かなり文章としてはつたないと思うし、過不足も大きいと思うけれど、今はこんなふうにしか書けない)

この記事のトップへ
ページのトップへ



★2・少し落ち着いてみると

上の記事を書いたのが早朝で、
その後少し(??いっぱい??)寝て、
午前中に目覚めて、
その後あるお友達とお話して、
そうしたら、やっぱり徹夜に近い状態で記事を書くのは止めたほうがよかった、と反省し始めた。

こんなことを書くと「おまえは何をころころ態度を変えてるんだ」と詰られるかもしれない。
でも、とっさの感情的な反応が↑の記事みたいな内容だったんだから、それはそれで「感情的な真理(?)」なのだ(笑)。

……でもまあ、なんだかえらく「男っぽい」、臆病で単眼的な反応だなあ。
恥ずかしいよぉ。
(こういう点、皮肉になってしまうのかもしれないけれどそういうつもりではなく、
FtMの人はXXという遺伝子のせいなのか何なのか、そういう弱っちい「男っぽさ」のない人が多いような気がする。
あまり多くのFtM当事者を知っているわけではないけれど、FtMの人こそ「男らしい」人が多いように見えるのは、なぜ??)

わたしが上の記事について反省している点は、主に二つ:

1) 「それでもここまでこぎつけた」という事実に目を向けていない
2) わたしは詳しいことについてあまりにも無知なのに、それを飛び越えて知らないことにまで言及している

偏見と差別について、わたしは唐突な飛躍のしかたをしてしまっている。
わたし自身がそうだったではないか。無理して男をやっていた頃には
「性転換なんて、正常な精神では考えられない変態」
と、自分自身も含めてレッテルを貼っていたじゃないか。
(そうしないと「自分の正体がばれて生きていけなくなる」と思い込んでいた)

それが、国会にその存在を認知され、やれ「変態」だ「犯罪」だという扱いではなく、
「保護の対象」となりうる、という一定の認識を得ようとしているのだ。
そのことをすっ飛ばして「素直に支持できない」はないんじゃないのー?>自分

わたしは、内輪もめとかには関わりたくないと思っていたし、
それなのにわたしが入っていくことでやたらと攻撃されたりするのに辟易して
あまりGIDコミュニティに深く関わるのは止めておこうと思ってきた。
「このコミュニティでもわたしはのけ者、典型ではないんだ」と考えて。
(ごく一部、本当にお友達になれると思った人はもちろん別だけど;
だから、GID当事者やもっと広くT's、TG、あるいはセクシュアルマイノリティの知り合いはわたしにとっては貴重なのだ)

それなのに、わたし自身が内輪もめの元をつくるようなことを言い出してどうするんだ。

今朝の自分の問いかけに、わたしは今、自ら答えようと思う。

わたしは、今はまだ「(惜しくも)特例から漏れる」のかもしれない。
でも、それでわたしが他の特例条件に適う人たちから分離されてしまうわけではない、と信じようと思う。

きっと、当事者を分散させ、たとえば政治的に無力化させようというような動きは、
「何が性同一性障害だ。所詮変態のオ○マじゃないか」と今でもまだ頑なに思い込んでいる、
20世紀までの限定的な認識しかできない人たちからこそあるだろう。
当事者がその尻馬に乗るどころか、自分から恰好のえさを撒くような真似をしてどうする。

もしもわたしの子どもがそれでいじめにあうような事態に至ったら、そのときこそ
「その差別には根拠がない」
とはっきり言えるように、わたし自身が頭を高く上げていなくてはならない。

短期的には「法律で認められる人、認められない人」というような差別はもしかしたら先鋭化してしまうかもしれない。
でも、あくまでそれが「途中のこと」であるということを、わたしたちははっきり言わなければいけない。

---------------------------------

わたしは、自分ではなく、子どもの世代のことを思う。

わたしたち自身の世代では、まだまだ自分自身が「この世にそんなこと(性転換)があったのか」とびっくりしているような状態だから、それを否定するためのさまざまなことを自らしてしまった当事者は多いと思う。
けれども、たとえば性教育の中で、さまざまなセクシュアルマイノリティのことを広く教えることで、その当事者である子も非当事者と同じように安心して性についての自己決定ができるようになれば、あんがい「結婚して子どもまでもうけてしまった」という当事者は減っていくだろうと思う。
決して、一部の自信のない古い世代の人たちが言うように「寝た子を起こす」ようなことになりはしないと思う。
それでも、その頃には、細かく分節化するのではなく、包括的に「そういう生き方もあり」とおおらかに受け入れられるよう、「多くの人々」の認識……「常識」が、新しく、そうして豊かなものになっているのではないだろうか。

その「多くの人々」というのが、わたしたちの子どもたちやその先の世代の人々のことだ。

もしかしたら、わたしの子の世代ではまだまだ無理かもしれない。
なぜなら、たとえばわたしの子自身が問題を未消化のままで抱えてしまっているかもしれないから。
(とても悲しいことだけど)

でも、孫の世代になれば、広く中立的にセクシュアルマイノリティについての教育ができる教師が増えているだろう。
そこでは、多様な性を広く受け止めることのできる豊かな教育が行われるようになるだろう。
それは決して、旧約聖書の時代に語られた「ソドム・ゴモラ」ではない。
むしろ、自他の「性の尊厳」を共に認め合えるという意味で、とても節度のある社会が実現するのではないか。
たとえば相手の「性の尊厳」をちゃんと認める態度がとれるなら、「レイプ」なんてできるはずがないのだ。
それは他のあらゆる性犯罪や性差別についても言えることだと思う。

もう一度繰り返したい。

自然は多様性を愛(め)でる。

---------------------------------

(文章が長くなっても話が大きくなるだけで、意味のある内容が増えない……
なんかカッコイイことを書こうとしても無駄なのよね、きっと。
まだまだ言い足りないことがたくさんあるような気がするけれど、
そんなに言いたければオンラインじゃなくて直接誰かに会って話せば、
きっと相手の好意的な反応もあってわたしは安心できるんだろう。
それに、反省点のうちの片方「わたしは不勉強だ」ということはほったらかしじゃないか。
とにかくお勉強してから言いたいことがあったら言いましょう>自分)

この記事のトップへ
ページのトップへ


★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲